心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

言葉の力⦅伝わらない⦆(2)

始めにお断りしておきたいのですが、決して揚げ足取りの記事でも、上から目線的な意味合いも全くありません。

昨今の、余りにもひどい言葉の使われ方に、自戒も込めて一筆投じたいが故の事です

言葉、言語は、国の宝物だと私は思っています。

私の意図をご理解の上、長文ですがお読み下さい。

 

日本の化学者でありノーベル化学賞を受賞した野依 良治(のより りょうじ)さんは、「日本には、美しい言葉をはじめとする固有の文化、誇るべき伝統があり、今後、国家としてその質を維持し、さらに高める工夫が必要です。」と述べておられた。

(2014年、独立行政法人理化学研究所STAP細胞に関わる不正論文事件時に理事長を務めていた人です。)

(ウイキペディア引用)

日本は明治初期には、初代の文部大臣を務めた森有礼(もり ありのり)が英語を公用語と提唱、終戦直後には志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張した時期があった。

文科省ホームページに見られる米国教育使節団報告書(要旨)(昭和21年)には、国語改革と称して「新聞・雑誌・書籍およびその他の文書を通じて、学校および一般社会ならびに国民生活にローマ字を採用するための計画を立てること」と記載されており簡潔にして能率的な伝達方法との位置づけされている。

 

その後の第二次訪日アメリカ教育使節団報告書(要旨)(昭和25年)の中では、国語の改革として「一つのローマ字方式が最もたやすく一般に用いられうる手段を研究すること。」

「小学校の正規の教育課程の中にローマ字教育を加えること。」

「大学程度において、ローマ字研究を行い、それによって教師がローマ字に関する問題と方法とを教師養成の課程の一部として研究する機会を与えること」

「国語簡易化の第一歩として、文筆者や学者が当用漢字と現代かなづかいを採択し、使用するよう奨励すること」が記載されている。

要するに、日本語を改めさせようという様な外圧があり、日本の中でも知識人が日本語の難解さや効率の悪さは世界に通用しないと考えられていた時期があったのだ。

そして、早くて綺麗に打てるタイプライターの存在が、カタカナ、アルファベット重視の方向へと動き出した。

その流れを変えたのが、日本語のワードプロセッサー、いわゆるワープロの存在。

1979年発売の世界初の東芝が発表した日本語ワードプロセッサー「JW−10」

日本語のフォント(同じサイズで、書体デザインの同じ活字のひとそろいの事で、コンピュータ上で利用できるようにした書体データを指す)が使えるようになった事で、アルファベットやカタカナでしか入出力でなかった不便さを一気に解消された事が大きい。

その後、日本語の良さや漢字の魅力を再認識し、今日に至っているのだ。

今では日本語フォント(データ)は高値で取引されるようにもなった。

 

妻がフィリピン人なので、サブスク「サブスクリプション(subscription)」の動画サイトをよく見ているが、韓国ドラマやアメリカ映画も、英語ないしは字幕も英語で見ている。

勿論、フィリピン動画もタガログ語や英語で楽しんでいる。

結果、我が家ではタガログ語や英語、韓国語、日本語が日々飛び交っている。

日本の暮らしが長く、普通に会話できる彼女だが、未だに日本語の意味が解らず私に聞いてくる。

この間も「最近」「近々」「昨今」「先頃」の違いを聞かれて苦労した。

日本人なら使い分けている言葉だが、彼女にとってはややこしいらしい。

また微妙な表現の違いも理解するのが難しいとよくぼやいている。

ニュースなどでの政治を扱う番組では、「善処する」「考慮する」「検討している」は、「何もしない」という意味だと言っても理解できない。(笑)

また「やばい」「キモイ」「バズる」「あたおか」……等、私でも良く使い方が解らない言葉の連続で、Z世代の息子相手に意味と使い方を聞いている。

私はやっぱりついていけない。トホホだ。

 

「昨今、ニュースで頻繁に取沙汰されている「リスキリング」である。単にデジタル対応のためだけではない。ロジカルシンキングやコミュニケーション、マネジメント、マーケティング、リーダーシップ、財務経営……。普遍的なテーマのスキルも、長年自己研鑽していなければ通用しない。」

東洋経済オンラインからの引用)

 

経済ニュースとはいえ、上記の文章を理解できる人がどのくらいいるのか?

生れた時から、身近にデジタル機器やカタカナ英語を耳にしている若者なら、また、普段から職場で飛び交っている環境の中で仕事している方なら理解できるかも知れないが、よほどマメに調べる人でない限り、次から次へと聞いた事も無い単語との格闘する事になる。

 

「最近、ニュースで、よく取り上げられるようになった、職業に対する再開拓や再教育は、単にデジタル手法の対応の為では無く、論理的思考や意思・感情・思考の伝達、管理や処理、販売促進方法、指導者としての資質・能力や統率力、財務経営……。普遍的な議題、物事を行うための能力も、長年自己研鑽していなければ通用しない。」

 

どうだろうか?解りやすくなったと思うし、文字数も格段増えてはいない。

一般の人が理解するには時間がかかるような、使い慣れない文章である事も考慮しなければならないが、カタカナ英語の使用する必要性があるとは思えないし、そもそもこのままでは英語圏では通用しない文が多いのだ。

何故なら文脈の中で使われるカタカナ単語なので、文脈によっては意味が変わる単語を使用する事が、そもそもおかしい。

 

ワクチンは、vaccine(ヴァクシン)と発音しなければ、在留外国人には分かりにくい。

ただ日本語英語になってしまい、今更無理な話だが。

(余談だが、漫画マジンガーZの「Z」は、イギリス英語圏では「zed」ゼット(トの発音はハッキリと言わない)で、アメリカでは「ziː」ズィーとなる。

ややこしい。)

 

フィリピンの妻がこんがらがって訳が分からないと言っていたのが、

富士山は「mount Fuji」なのに荒川は「Arakawa Rive」なのか

 

国土地理院が定めているとの事ですが、例えば、都が定めた通称道路名である細い道の佐須(さず)街道にある「Sazu Avenue」の表記ですが、Avenueとは大通り・並木道・南北に走る大通り並木道の意味で、街道の英語は、road・ roadway・ highwayのはず。

「細かい事をいうな」と聞こえてきそうだが、やはり気になる。

アベニュー(Avenue)の響きだけで名付けたのであろう?!

ペットボトル(ポリエチレンテレフタラート素材のボトル)は、英語ではplastic bottles(プラスチックボトル)となり私の妻も理解できなかった。

「PETと表記してあるのは、プラスチックボトル?」という具合に。

ちなみに、フィリピンのラーメンの袋には「PP」と表記されている。

包装資材に使われているポリプロピレンの事で、日本でいうプラスティックはフィリピン人は「スタイロ」と呼んでいる。

 

何十年も、日本で暮らしている彼女でも、プラごみとペットの違いがいまいち解っていない。

近所には、多くの外国の方が住んでいるが、ゴミの日の出し方は無茶苦茶になっている。

勿論、彼らだけが間違った捨て方をしている訳では無いし、面倒くさいと分別しないで捨てている日本人も大勢いる。

「プラ」「PET」表記だけでなく「PLASTIC」と「Plastic Bottle」表記も加える方が、誰にでも解ると思うが?

ボトルにしても、容器にしても表記が解りづらいのも一因だ。

「 郷に入っては郷に従え 」とも言われるが、在日、在留外国人が増えている中、カタカナ英語に時間を使うなら、自治体も各国の実情を良く調べ、ゴミの出し方等の啓発をしてもらいたいものだ。

そしてSDGs( Sustainable Development Goals)「持続可能な開発目標」を掲げるなら企業側も、もう少し誰でも解る様に、また分別しやすく工夫してもらいたい。

(余談だが、お菓子でも開けやすい工夫はされているが、展開し平らにしやすくには出来ていない。また、視覚障碍者の方でも解る様な工夫も、進んでいないところが非常に気になる。)

カタカナ英語、和製英語が溢れるのは、時流として仕方がない事だが、意味が伝わらなければ何の役にも立たない。

 

私の考えが古いのか?

最近のカタカナ英語交じりの言葉の多さには、本当に閉口する。

誰に伝えているかの配慮が感じられないし、造語のように日本語英語が使われ、ますます混乱するばかりだ。

ファミリーレストランが出始めの頃「パンにしますか?それともライスですか?」と聞かれる機会があったが、それを言うなら「ブレェド(Bread)にしますか?それともライス(rice)ですか?」でしょう。

初めから「パンにしますか?それともごはんですか?」でいいのに。

「ごはん」と言われると、暖かい気持ちになりません?

ちなみに「パン」は英語圏ではフライパンの様に鍋類を意味する言葉になる。

 

ついでにお店でよく聞く言葉でいうと、

「○○でよろしかっですか?」進行形の事を過去形で尋ねられる。

答えは「○○で良かったと言ったように記憶しています」になる。

あえて言うなら「〇〇とおっしゃいましけれども、これでよろしかっでしょうか?」が正しい聞き方でしょう。

まして敬語でも何でもないこの「よろしかったですか?」を聞く度、注意したくなる。

 

以前ラジオでマナー本を書いていらっしゃる方が、「クレバー」なるカタカナ英語をはさんで話されていたが、前後の文脈から考えて「クレバー(clever)」ではなく、日本でもなじんでいる「スマート(smart)」がふさわしく、クレバーは、英語を使う私の妻にも確認したが、ずる賢いとかの要素が入っている場合で使われることが多い。

そもそもクレバーを使い話す必要など無かった。

カタカナ英語を使うと、何処かの知事さんごとく、格式が上がると勘違いされているように思う。

揚げ足取りのように思うかもしれないが、昨今、英語教育が大切とおっしゃるなら、やはり気を付けなければいけないと思うし、逆に大きな妨げになる。

ならば全部英語で話せばいいし、そもそも理解できる日本語で話せばいいと思う。

そちらの方がクレバー、いやスマートだ!(笑)

誰に伝えているか?そして、伝わっているのかを大切にしてもらいたいのだ。

 

私自身は、豊かな表現で表せる日本語がとても好きだ。

ちょっと前までよく使われていた「ソーシャルディスタンス」より、「対人距離」で十分伝わるし、そもそも「social distancing」が正しい英語。

エッセンシャルワーカー」より、「社会維持に、必要な方々」と言われる方がピンとくる。

「コンセンサス」が「合意」で、何が悪いのか解らない。

動詞でなら「get a consensus」「reach a consensus」として、覚える方が役に立つ。

少し前まで使われていた「Go To トラベル」もおかしな英語で「Let’s travel」でいいし、「さあ!旅に行こう」の方がグッとくる。

SNSで発信されている言葉は、私には真似の出来ない短さで伝えていて、いつも感心している。

若者言葉も、ついていくだけでも大変な上、新たな言葉が、どんどん生まれ、正直お手上げ状態で、まるで異国にいるように感じてしまう事もある。が、

ただ新しい表現方法として、言葉の変化は悪い事ではないと思うし、解りあえる人達どうしの、共通のツールとして、仲間意識も生まれる。

それは、昭和に時代でもあったからだ。

遊びの要素もあるだろうし、発想も面白いのも確かだ。

時代と共に変わっていくのも、言葉の宿命であり、楽しさでもある。

 

気を付けなければいけないのは、誰にでも共通して理解出来る言葉を発信する必要がある時。

自分の意志が相手にちゃんと伝わってこそ、人間が獲得した「言葉」という能力を発揮できるという事。

それは、何かの意図を伴うという意味でも無く、「伝える」という本来の、言葉の役割を引き出す為だからだ。

カタカナ英語や和製英語の多用はどこか上からの目線を感じるし、簡単な事をわざと難しく格式を上げているように使われているようで、誰の為に、何を伝えたいのかが理解できない。

私としては、日本語が衰退するようで、悲しくなる。

 

年齢に関係なく、聞いた人達全員が理解し、共有できる言葉の発信者である政府や自治体、マスメデアといった、公共の立場からの言葉力。

的確に、装飾無しに、簡潔に伝えなければ意味をなさない。

そもそも、カタカナ英語などを使うその意図が理解できないし、伝わらなければ意味がないのだ

私が住んでいる街でも、ホームページを見るとまず飛び込んでくるのが「〇〇情報ポータル」という文字。

ポータル(Portal)は門,入り口,表玄関という意味だが、「〇〇情報入り口」でなぜ悪いのか?

また「誰もが利用しやすいウェブアクセシビリティに配慮したホームページ制作に取り組んでいます」とも書かれているが、はたしてどれほどの人が意味を理解しているのだろうか?

そもそもウェブ(web)は、World Wide Web(WWW)の略で、ネットを通じて情報を利用者に提供するシステムを指す。

アクセシビリティ(accessibility)は接近できること,近づきやすさ、影響を受けやすい事をさす意味で、「誰もが利用しやすいウェブアクセシビリティに配慮したホームページ制作に取り組んでいます」は正に、「私達はよく解らない表現を使ってホームページを作っている」と言っているのと同じなのだ。

このような表現では、何にも意味が解らない。

まして高齢者や使い慣れていない人達に意味が通じるとは、到底思えない。

「誰もが利用しやすいホームページ制作に取り組んでいます」だけの話なのに。

それ以外にも「リカレント教育」「グリーン・ウェイブ」等、いったい何のことか言葉だけでは理解できない言葉で溢れている。

例えば「リカレント(recurrent)とは、「循環、回帰」を意味します。」と書かれているが、本来の訳としては「再発,  頻発」でリカレント教育は、回帰教育とか環流教育とも訳され、意味が解らなくなってしまう。

「グリーン・ウェイブ」は街のホームページ上では「緑とのふれあいを通じ、生物多様性の理解や普及啓発につながる活動」という意味だそうだが、別のサイトでは、「幹線道路に並んでいる信号機の青になるタイミングを車の速度走行を考慮しずらすことで, 車が信号機を連続して通過できるシステム」という意味になっている。

ん?どっちなんだ?

しかも、わざわざ和製英語を訳して説明し本題に入る書き方で始まる文章がいかに多い事か!

キャッチコピー(和製英語で正しい英語はtaglineです。)のつもりで使っているのか?

更に、本題の後にもカタカナ英語をわざわざ解説している。

本当に理解に苦しむのだ。

例を挙げればキリがないくらいこの手の言葉を、政府やお役所は何故使いたがるのだろう?

ここでも冒頭に触れた過去を読み取る力の無さがうかがえる。

 

(記事は出来るだけ正確に書くようにしていますが、おかしい部分がありましたら、ご指摘下さい)

次回記事、言葉の力⦅自己形成⦆(3)へと続く

 

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子供が幸せな国⦅My School Days⦆(3)

遠い記憶となってしまった学生時代。

明らかに不良っぽい奴や気の弱そうな奴が目に見える形でいる時代だった。

怖そうな奴には近づくまいとおびえながら学校生活が送っていた事も、今は懐かしい思い出として残っている。

必死でアルバイトをしながら貯めたお金でレコードを買い、何度も何度も聞いていた。

憧れの先輩のようになりたくて部活に入ったが、怪我で挫折もした。

最後まで告白出来ずに集合写真に写る彼女ばかりを見ていた事も。

そっと抜け出して喫茶店にたむろした事も。

卒業式に一人だけ制服のボタンを欲しいと言ってきたあの子も。

全てがモノクロームのように薄れていく。

数えきれないほどの些細な瞬間が、大切な時間だった事を今になって感じる毎日だ。

一日がとても長く感じた時間の流れ。

いつかまた逢えるという、遠い約束を果たせていないまま、

足早に時間だけが経っていく。

 

大人達は経済成長の真っただ中で、メイドインジャパンのブランドが世界中に広がっていくのを見ながら私は荒れていた学生時代を過ごしていた。

学校に行く事が当たり前で、欠席する事はとんでもないという考えの下、イジメがあろうが熱が出ようがみんな通っていた。

親は先生という存在を正に「先生」逆らってはいけない人達という捉え方で接していた。

それは、問題が起きても全て学生が悪いという構図でもあった。

家にある黒電話。

大抵、親がでるので誰からかかってきたかがすぐに解るし、友達との会話が長くなると怒られる。

ゲームなど無かったから、外で遊びまくっていた。

最大の娯楽はTVと漫画だった。

みんな情報を共有していた時代でもあった。

 

手や足に障害がある子や、在日外国人もいたが、少なくとも私の記憶では差別は無かった。

陰であったかもしれないし、辛い思いをしていた子もいたかもしれないが、今の様にSNSや撮影といった陰湿な行為やイジメがそもそも出来なかった時代。

大人達の方が偏見や差別意識が強かったように思う。

 

時代は変わってしまった。

当時の大人達の考え方を引きずるやり方では、子供達がどんどん疲弊する。

そして夢を持て!頑張れ!世界を見据えろ!と大人達は言う。

私の廻りには、夢破れたり失業したり、家族を、その日を食いつなぐ為に仕事をしている人達の方が圧倒的に多い。

頂点に立てる人は、夢が叶う人はほんの一握りだろう。

それでも、いつ訪れるやもしれない幸せや希望を胸に頑張っている。

いや、仕方無く毎日をやり過ごしているのかもしれない。

今のTVやネットは果たして本当の社会を映し出しているのだろうか?

飽食や旅番組は、皆が実現できている事なのか?

 

社会が狭まっている

広い野原で遊びまくる子供達がいつ戻ってくるのだろうか?

子供は国の宝物だ。

彼らに流れる時間は、人生の長さから見るとほんの一瞬しかない。

その一瞬の中に、大切な想い出が凝縮されている。

きっと、彼らから見る大人の世界は、余りにも早く映っている事だろう。

 

大人になっても、歳を重ねても少年の心を持っていたい。

心の底から笑える、涙する心を持ち続けていたい。

 

オリジナル曲 TOM(ユニット)

「My School Days

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子供が幸せな国⦅大人の責任⦆(2)

 

テストが終わって、高校生の息子が帰ってきた。

「テスト、どうだった?」

「……」

「もう一つって事か?」

「……理科が全然解らない」

目も合わせず、ボソッと話す。

「あっそう!残念!」

あれほど喋っていた小学生の頃の息子は、寡黙(かもく)の人となった。

自分の小さな部屋では、友達とゲームをオンラインでやりながら、叫んでいるのに!

「まぁ、いいか!」と小さくつぶやいた。

 

かつての自分は、親とまともに話した事も無かった。

彼の方が、わずかだが反応する。

「まぁ、いいか!」心の中でつぶやいた。

 

厚労省のまとめによると、19歳以下の自殺の理由(複数の場合あり)は「学業不振」が104人で最も多く、「進路に関する悩み(入試以外)」が84人、「入試に関する悩み」が40人だった。(読売新聞より)

 

原因は複合していて、これだ!という理由は解らないが、若い彼らの死に急ぐ現状に直視して、大人のありったけの知恵を出して防がなければならない。

それにしても、いたたまれない気持ちになる。

 

私なりに色々と考えたのだが、気になる点があった。

日本は、何でも一斉にスタートし、ゴールを目指す。

学校でも会社でもいえる事だが、皆が一団となって前を向くやり方が、もう時代に合ってない。

まるでタイムカードを押して、「閉め切りの時間内に与えられた事をやりなさいと」言っているのと同じだ。

昭和の時代、公園などほとんどなかったが、開発されつつある町でも、空き地やどぶ川、池や川があり、遊具の様な押し付けも無いから、自分達で工夫して遊ぶしかなかった。

段ボールで秘密基地を作ったり、ローラースケートを板にくくり付け、坂道を下ったりと毎日が忙しかった。

どぶ川や肥溜めに落ちた事も何度かあったが、心は冒険モードに入っているのでお構いなしだった。

何より、歳の差がある子供同士が一緒になって遊んでいた。

空き地には「ボール投げ禁止」なんて看板なんか見た事も無いし、危ない事をしていると年長や近所の人が怒ったものだ。

爆竹を蛙の口に突っ込み爆発させたり、玉地面に叩きつけて音を鳴らせて遊ぶ癇癪(かんしゃく)玉を投げ合ったりと子供ながら、惨い危険な遊びもしていた。

それは、考えて見ると火遊びであり、間違えれば火災や大怪我の元になる今では考えられない遊びだったが、堂々と駄菓子屋で売っていたものだから、当然手を出す事になる。

そんな、混沌の世界が昭和の時代だった。

 

そうスタートラインは決まっていなかったのだ。

やっちゃダメは、やってみてその意味に気付く時代だった。

オンラインゲームの様に、決められた枠の中で遊んではいなかった。

懐古趣味でも、昭和が良かったとも言っていない。

時代が変わったのだ。

 

勿論、学校では今よりも厳しかったし、叩かれもした。

長い校長先生の話を炎天下の中、直立不動で聞かされ、いつも誰かが倒れていた。

「根性が足りない」「気合を入れろ」が不可能なものを可能にする言葉と信じていたのだ。

もう、引きずる事はやめて、個人差を認め、余裕のある時間で子供達を見ていかなければならないと思う。

何度でも挑戦が可能で、年齢も関係なく、勿論性差にも影響されない社会の仕組みにどんどん変えていかなければ、息苦しくて仕方がない。

 

もう一つの要因として「空間」という視点がある。

情報に溢れて世界観が広がったのは確かだが、よく考えて見ると選択肢が多すぎる事が逆に狭くしている。

何でも調べれば出てくる事で、やってもいない事を諦めの対象にしてしまうのだ。

だから、失敗や挫折の経験も出来なくなる。

また、子育ても含め、悩みや人生の事まで誰かの発信を鵜呑みにしてしまう傾向も問題なのだ。

現実の人との繋がりの中から、スマートフォンの画面の繋がりへと、どんどん狭い空間でもがいているのだ。

仮想空間の世界もどんどん増え、デジタル上の世界が広がっているが、五感で感じる世界では無い。

一見繋がっていると見えているが、生身の繋がりでは無いのだ。

相手の息遣いや表情、触れ合う時に感じるぬくもりはそこには無い。

感動したり、嬉しかったりした時、拍手するのはふれあいの表れと聞く。

子供が生まれれば、子供との生身同士のやり取りになるが、その体験に慣れていない親がネットで検索し対応するものだから、当然視野も狭くなり、自分の育て方が正しいのかそうでないのかの比重が大きくなってしまう。

子育てに正解など元々無いのにだ。

 

逆に狭い選択肢からの選択は、そこから飛び出そうとする力が生まれてくる。

挫折も、悲観もそんな中から生まれ、人生の肥やしになる。

SONYのウオークマンもホンダのカブも、カシオのデジタルカメラも、きっとそんな風にして生まれてきたに違いない。

勿論、遊びもそうだ。

広い空間の中、工夫しなければ遊べないという環境が、沢山の冒険や挑戦に繋がっていたのだが、今では提供されたモノの中で、決められたルールに沿って遊ぶ事を強いられる。

すなわち狭い空間でしか遊んでいない事になる。

空間がどんどん狭くなっている。

大人も子供も。

 

個々を取り巻く空間の狭さは、パーソナルスペース( personal-space)他人に近付かれると不快に感じる空間パーソナルエリア、個体距離、対人距離に見られるように、不快に感じる。

満員電車での密接が不快と感じる事と同じだ。

自分が動き回れる空間が広ければ、近づく事や遠ざかる自由があるが、狭い空間ではそもそも無理であるから、当然ストレスや、ギスギスした状況に陥る事になる。

最後に私が気になる事は、やはり歴史だ。

もっと近代史にも比重を置き、過去の戦争や内戦、政治がどう関わったかを教えるべきだと思う。

最近も漫画「はだしのゲン」の不掲載を決めた広島市教育委員会の決定が波紋を広げているが、子供達の過去の歴史の入り口としてのこの漫画の意義は大きかったはずだ。

負掲載をした理由は「補助的な説明が必要となり、時間が足りない」とし、子どもが浪曲を歌って小銭を稼ぐシーンについて「浪曲は現代の児童の生活実態に合わない」、母親に食べさせようと池の鯉を盗むシーンについては「鯉盗みは誤解を与えるおそれがある」(TOKYO MXより引用)という何ともお粗末で、奇妙な言い訳でしかない。

当時の生活を描きたかった作者の想いなど全く理解していない。

これでは、男女差別、固定観念だと言って「サザエさん」を観てはいけないと言っているのと同じ理屈だ。

何か裏がある事は間違いないだろう。

過去の歴史を知る事が有益かそうでないかを国や教育委員会が勝手に決めるものでは無い。

過去からの情報を大人達の都合でふるいにかけられ、子供達に教える事が将来を担う子供達にとって有益になるとは決して思わない。

 

何度も書くが、社会は変化し続けている。

これからデジタル社会が、その力を試される事になる。

デジタル空間が広がれば広がるほど現実の世界が狭く、窮屈になるこの皮肉に、どう向き合うのかが問われている。

 

子供が伸び伸びとやりたい事に何度でも挑戦できる生の社会は、大人にとっても余裕が出来、ギスギスした社会や人間関係から解放されるだろう。

そして、

大人達全員が親であり、保護者であり、時には叱り、優しく見守る社会を作らなければならない。

不規則に輝く木の葉のふれあいと

時を超える木の肌に

耳をきつく当てながら

いつ 生の流れを感じただろう

 

過去からのメッセージの携えて

未来に想いを馳せる輝きを

草の匂いと優しさの中

いつ 流れゆく夜空を味わっただろ

 

二度と来ない波の織りなすメロディーと

瞬間を乗せる緩やかな風に

ふかふかの砂のベッドで

いつ 時を忘れただろう

 

子供達が幸せな国は、誰もが幸せになる国だ。

命をもって償わせ、課題を再びスタートライン巻き戻す彼らの犠牲を、何度繰り返せば大人は気付くのであろうか。

解き放って、自由に羽ばたく翼を与えてやって欲しい。

心からそう願う。

 


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子供が幸せな国⦅個性⦆(1)

子供の自殺は先進国では日本が一番高い。

2020年には499人と過去最悪の数になり、横ばい状態でいる。

当たり前だが子供は成長段階であり、様々な外部からの影響を強く受けやすい。

コロナでの休業やマスク、オンライン授業と子供達の世界も狭まった。

ようやく、ほぼ平常に戻りつつあるが、何より影響を与えているのは。学校や家庭、社会といった中の大人達によってだ。

イジメが、よく問題と取り上げる意見があるが、もっと根深い問題があるのではないか?

読み書きを覚え、識字率も高い義務教育の役割は素晴らしい仕組みではあるが、高校や大学へと進学の為のハードルが余りにも高い。

学費も大きな問題で、少子化や貧困化が進む現状を放置してきた政府の責任は重い。

同時に今の社会の在り方に夢を描けない事も大きな要因であろう。

 

ネット社会で様々な情報が子供達にも簡単に手に入り、発信する事も容易になった。

同時に教育や進路、子育てまでありとあらゆるものが情報として垂れ流されている。

そう、社会は大きく変化しているのだ

それも、予期せぬ速さで変わっていく事に注目しなければいけない。

日本は歴史の長い国であり、文化や習慣が受け継がれ、大切にしたきた事は誇れるだろう。

しかし今根付いている慣習や考え方はほぼ、明治時代以降のものだ。

心の問題という捉え方では無く、日本人はこうあるべきだという道徳観や倫理観の事を指しているのだが、集団で行動し、全体責任を取らせる事も軍隊の名残である。

大戦後、経済復興や国の再建、その為の会社組織において、国民が一団となって前へ進む時代なら、有効な手段、考え方だった。

しかし、そのやり方では通用しなくなっているのだ。

社会の変化に合わせて柔軟に対応できない大人達の弊害と言ってもいいだろう。

 

私の息子の義務教育時代を彼と共に見てきたが、教師による暴力は減ったものの、昭和の時代とさほど差が無い。

むしろ、子供達にとって学校は窮屈な場所であり、個性を殺させられる場所となってしまったと言わざるを得ない。

社会が求めているモノと、義務教育で培うモノとのギャップが大きくずれている。

それは先生達の問題だけでは無く、国の教師に対する処遇の遅れや教育の方向性の誤りにある。

息子の子供時代に使用した数々の教材を整理しながら考えていたのだが、ほんの少ししか使わないで無駄になっている教材のいかに多い事か。

社会はSDGsを推し進めている中で、こんな無駄な使い方を平然と繰り返し続けている事に憤りを覚える。

以前にも書いたが、鉛筆一本からこまごまとした、ありとあらゆるものまで名前を書けと指導される。

しかも貼り付ける位置までだ。

「社会生活を営む上での自分のものと他人のものを区別するという事の重要性」

「トラブルのもとになる為、犯罪の誘発抑止効果」

ともっともらしい理屈での強制だが、お名前シールで自己と他人との関係性を教えるつもりでいるなら、お門違いにもほどがある。

失くしたり、忘れたり、買えなかったりした友達を助ける方法を教える方が、よっぽど子供の為になる。

書道も、日本人の心得として習うのだが、年に一二度使うだけで、書道の奥深さや先人たちの想いなど、何も伝わっていないばかりか、宿題の為、嫌々書いているだけだ。

結局最後には、業者指定での高価なお習字道具はゴミとなる。

実際、我が家でも処分に困り捨てずに残っているが、山ほど残っていた半紙はキッチンペーパーの代用として使っている。SDGsだ。

一体何の為に何をしたいのか、理解に苦しむのだ。

これの何処がSDGsの理念に沿っているの私には判らないのだ。

教室に、先輩たちが残していった道具を置いておくだけで十分だろう。

大切に使い、後輩に受け継ついでいく方法であれば、モノの大切さを学び、何より無駄な支出もいらなくなると思うのだ。

私の息子が小学生の頃、鉛筆は2Bでシャープペンシルは禁止、消しゴムは白と決まっていた。

「筆圧が低い子供でも書きやすく濃くキレイに見える」「筆記具の正しい持ち方や筆圧に影響されない為」「持ち物に差が出て、平等では無くなる」「高価なものを使う子がいたら盗難や紛失の恐れがある」

ざっと調べただけでこんなにも「言い訳」のオンパレードだ。

前述の書道の時間は、全然意味が無い事になる訳だし、盗難があれば逆にやっていい事と悪い事の分別を教えるいい機会になる。

まず犯人探しをする様な教育が見え見えだ。

それに濃く見えようが、薄く見えようが、どうでもいい事に何でこだわるのか、今でも理解できないでいる。

世界では、まともな筆記具を持っていない子供達が沢山いるのだ。

書くものがあるだけでも幸せな事だと子供達に教えるのがまず先では無いのか?

書道の時間を増やすなり、時間枠を作りノートに筆で書かすなりする方が、よっぽど理にかなっている。

 

私が義務教育の頃は、靴下に穴が開けば縫って使っていたし、兄弟ならお古を使うのも当たり前で、当然今の様な下着や靴下の色や、ワイシャツの指定なんか無かった。

その後学校が荒れ始め「金八先生」の様なドラマが作られていくのだが、その時の間違った生徒に対する対応の名残が、現代の生徒や親を金銭的にも、心に対しても負荷をかけている。

すなわち、根拠のない校則での締め付けや指導、例えば「運動中は水は飲むな」という、今では考えられない様な思考停止状態の頭の持ち主が、未だ教育に携わっている事の弊害だ。

現に、暴言を吐いたり、差別的な態度を取ったり、クラブ活動でも体罰をし、逮捕される指導者が後を絶たない事でも解る。

ストレスなのか、保育園や幼稚園でも同じような事例で逮捕者まで出る、何とも情けない状況だ。

その一方で押し付けや強要を、子供達に強いているこの矛盾。

ダブル・スタンダード、「 二重基準 」「 二重規範 」そのものなのだ。

 

確かに冒頭で書いたイジメ問題も子供にとっては深刻な問題だが、対応する大人達、教育委員会や学校の隠蔽体質と責任を取らない姿勢こそに問題があるのであり、この事を他人事として許容している大人社会を変えない限り、イジメは無くならないだろう。

しかも、政治家や官僚の一部までが、その様な姿勢でいる事に子供達の目にはどう映っているのだろうか?

子供達は馬鹿では無い

そう、大人になればもっと陰湿なイジメや責任のなすり合いが待っているかもしれないのだ。

 

人間形成において、これが正解という答えなど無い。

だからこそ、柔軟に、想像力を持って子供達と向き合わなければならない。

しかも時代や社会変化といった背景も考慮しながらだ。

遅咲きという言葉もあるくらい、子供は、というより人間は成長する速度がみんな違う。

体も大小様々で、障害を抱えている人だっている。

それがスタンダード、当たり前なのだ。

特に子供は未知数の部分が多い。

裏を返せば可能性の塊なのだ。

 

学校や社会が管理しやすい環境にする事に向かえば向かうほど、管理者は自らの自由や平等の権利を売り渡している事になるし、決して健全な社会とは言えない。

権力を離そうとしない大人が、子供達を苦しめているのだ。

そう未来を否定している事と同じなのだ。

 

子供が幸せな国(2)へと続く

次回UPします。

 

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一歩づつ

私が音楽スタジオで働いていた時に出会った人達は、素敵な経験と、出会いという大きな財産として今も心の中に残っています。

ある日、大阪のタレントさんから自作曲のカラオケを作って欲しいとの連絡を頂きました。

彼女は、アシスタントや講演、本の出版等活躍されている方で、TVで見る歯に衣着せぬコメントでも話題になっていた方でしたが、実際に会って話をすると、穏やかな話しぶりと笑顔が素敵な人で、勝手に印象付けしていた私は後悔し、上辺だけでは人は解らないものだとつくづく思いました。

それからは、大好きなタレントさんになったのです。

その縁で、ある男性の方が自作曲を作っているのでアレンジしてカラオケ制作して欲しいとの依頼があり、即答で「やります」と伝えました。

カセットテープに録音された彼のギターの弾き語りを聞き、自宅でカラオケ作成し連絡をすると、ボーカルも録音したいので家にお邪魔したいとの事で、その方が1時間半かけてやってきました。

勿論ボロアパートの自宅では大きな音は出せない。

二人ともヘッドフォンでモニターしながら録音をしましたが、近所からの苦情も無くほっとしたものです。

制作料と称して多めの金額を出して頂き、貧乏だった私は大いに助かり、飲みに行く事もあり、音楽だけでなく先輩として色々な話を聞かせて下さいました。

当時、美術の先生を生業とし、音楽活動にも挑戦されていた時期で、創作活動という共通点もあり、彼と打ち解けるまでに時間はかかりませんでした。

 

最近、自宅の古いテープをデジタル変換している時に、彼の当時の曲が見つかり、懐かしさと、笑顔の素敵だった顔を思い出し、久々に音楽をやってきた良さと思い出に浸っていました。

 

彼は権藤ミノルという名前で現代美術家であり、割烹や和食料理店でも飾られているほど素晴らしい絵を書かれるアーティストです。

個展を開いたり音楽ライブをやったり、最近は本を出版されたりと今でも精力的に活動されているのです。

権藤さんと最後にお話ししたのはもう30年近く前。

インスタグラムを通じ、連絡を取る事が出来たのです。

会えていなかった時期の苦労した話をされる権藤さんの懐かしい、優しい変わらない声を聞き、ここ数年間、精神疾患で落ち込み気味だった私は、久しぶりに明るい気分のまま床につく事が出来ました。

 

連絡を取りたくて手掛りを探す為ユーチューブを検索していた時、ヒットし、その演奏を見てびっくり。

路上ライブでキーボードを弾きながら歌っていました。

当時の権藤さん、キーボードは全く弾けなかったのですが、その後独学で練習したとの事。

ライブ活動で披露出来るまで上達した努力家なのです。

私はまず楽器としてドラムから入り、当時ニューミュージックと言われたポップ音楽を生み出す人達に刺激され、キーボードをやり始めました。

独学でやってきたので、その苦労は本当によく解るのです。

(注)この絵は、著作権の対象となっています。無断転記は出来ません。

権藤さんのインスタグラムで、上記のような本業のアート作品が見られるので、是非ご覧になって下さい。

「権藤ミノル」で検索すると出てきます。

 


おっさん絵ッセー

あわせて、私も読ませて頂いたエッセイ本「おっさん絵ッセー」

大阪らしいボケと突っ込みの中ににじみ出る、哀愁感がにじみ出る素敵な内容です。

中の挿絵も権藤さんが書いたものになっています。

 

人との出会いは不思議なものです

何十年も話していない人でも、繋がれば遠慮なく気さくに話せる友人がいる事は、とても幸せな事だと改めて思いました。

このブログ「友達がいない⦅本当に必要なのか?⦆」

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の記事でも書きましたが、何かに向かって一生懸命になる事の大切さは、結果として良い「縁」への架け橋となります。

例え、一生懸命の結果として叶わぬ夢と終わったとしても、過程にこそ意味があります。

人間はどうしても結果ばかりに気を取られ、誰かに責任を負わせたい気持ちが働きます。

罪悪感や不安を減らそうとする心を守る防衛反応で、仕方がない一面ですが、それは自分の問題であり、課題であり、相手の問題や課題にすり替えては前に進めないのです。

一歩づつ、それは正に一所懸命に「生きる」事です。

 

例えば、悲惨な交通事故で子供を失くされた方が無念で、後悔にさいなまれるのは、

一生懸命生きていた我が子の実を結ぶ姿を、絶対に見る事が出来なくなるからです。

勿論、実を結ぶかどうかは誰にも解りません。

が、生きている限りは希望があるのです。

出会いも、運命も、神様でさえ解らない事なのです。

いつ何が起きてもおかしくない世の中に住んでいます。

例え一歩づつでも行程を味わいながら進む事が、どんな形であれ報われると信じています。

何か一つでも夢中になれる事を探して下さい。

ゲームでも、家庭菜園でも、山登り、スポーツ、詩を書く事や映画を観る事でも、何でもいいから一生懸命やり続ける事で、見えてくるものがきっと出てくるはずです。

新たな人との出会いも、新たな視点も必ず財産になります。

 

その為に、

孤独では無く、「独り」になる事です。

そう、人間であるが故の優しさや、思いやり、共感を持ち続ける一人の人間としての「独立」の事です。

誰かがいての自分では無い、己の強さといってもいいでしょう。

一歩づつ一生懸命、何があっても生きる事です。

 

独りでも大丈夫

 

独りは宇宙(そら)を彩る星々で

独り独りが集まって

夜空が奏でる銀河の旋律

 

孤独は海を漂う木片で

孤独同士が集まって

寄せては返す藻屑(もくず)と消える

 

独りは孤独の雨をよけ

濡らすも一時(いっとき)の通り雨

 

孤独は心の隙に付け込んで

内なる声を吹き消す嵐

 

独りなら大丈夫

だから

あなたがいれば

もっと大丈夫

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当時、二人で制作した、権藤さんのオリジナル2曲をUPしました。

私自身とても思い出深い好きな曲です。

作詞・作曲 権藤さん。

で、ボーカルは私です。

残念ながら本人のボーカルバージョンが見つからなかったのでお許しを。

 

作詞/作曲「権藤ミノル」オリジナル曲

 

つまずく度に 振り返る 

時間の全てが 君の為にあったあの日々

昨日の事も 明日の事も 迷いは無かった 

悔やまなかった 信じていれた

 

あの日と同じ星見つめ つぶやく僕がいる

大人になるってこんなに 辛い事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

涙の跡が 染みついた 

君との別れを綴った日曜日のページ

にじんでしまった 君の名を

口にすれば鮮やかによみがえる胸の高まり

 

あの日と同じ風匂う 疲れた僕がいる

大人になるってこんなに悲しい事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

都会のざわめきの中 彷徨う僕が見える

本当の自分自身 見つける旅が続く

 

あの日と同じ雨に濡れ たたずむ僕がいる

大人になるってこんなに 寂しい事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

作詞/作曲「権藤ミノル」オリジナル曲「光る海」

覚えているかしら 二人が初めて

甘い口づけ交わしたのは

あなたの大好きな海

沈む太陽が銀色に染まり

まるで映画のワンシーン

光に包まれていたわ

 

想い出がいつもこんな風に美しいのなら

恋する事に臆病になりはしないわ

あなたとの事がたとえ過去になったとしても

ここに来れば光る海がいる

 

覚えているかしら沖行く船に

声を限りに打ち明けた

夏の終わりを告げる海

陽炎に揺れる白いマストには

まるで愛と戯れる

風が帆に抱かれていたわ

 

想い出がいつもこんな風に美しいなら

恋する事を諦めたりしないわ

あなたとの事をもっと深くする為に

ここに来るわ 光る海がいる

想い出がいつもこんな風に美しいのなら

恋する事に臆病になりはしないわ

あなたとの事がたとえ過去になったとしても

ここに来れば光る海がいる

想い出を抱いて

 

(注)オリジナル曲紹介の歌詞の中で使用している絵は、権藤さんのオリジナルを加工して使用しています。オリジナル作品はぜひ、「権藤ミノル」インスタグラムをご覧下さい。無断での使用は出来ません。

 

なお、権藤さんのライブは、YouTubeで「権藤 実」で検索すればLIVE映像も視聴できます。

本人曰く、「一歩づつ」という曲が自分でも好きな曲との事です。

youtu.be

 

記事の中で書いた「独り」に関する内容の第二弾は下記のリンクでお読みください。

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パンダとペット

幼い頃、我が家では動物好きの父がペットと称して色々な動物を飼っていた。

犬、九官鳥やメジロカナリア文鳥、ニワトリ、カメと日曜大工が得意な父が檻を作り、それは賑やかだった。

よく野良猫が侵入し、鳥をくすねていった。

父は怒りながら破れている柵を直していたものだ。

父は猫がよっぽど憎かったらしく、一度も飼った事は無かった。

当時はスピッツやチワワが人気の犬だったが、飼っていたのは何処で拾ってきたのか解らない犬。

外で飼うのが当たり前でドッグフードなど無い時代、私は犬に残飯をよく運ばされていた。

当時私は動物には全く興味が無く、九官鳥に言葉を教えるぐらいで、母は「くさい」「汚い」という言葉をよく連発していて父が世話をしていたが、確かにくさいし毛やフンが嫌だったのを思い出す。

ある日食卓に鶏肉の鍋が出てきたのだが、父いわく「飼っていた鶏だからうまいぞ」と。

私は一切箸をつけなかった。

その後も卵を産まなくなったニワトリを絞める父を見る度、ペットとしてでしか見てこなかった私にとっては衝撃の連発だった。

 

当時の家は都市から離れてはいたが、いわゆる都市からドーナツ型に分布していた場所で家がどんどん建てられていた地域だったが、まだ田んぼもあり、小さな牛小屋もあった。

学校帰りに牛小屋に行っては、恐る恐る近寄る牛に藁を差し出し、むしゃむしゃ口を横に動かしながら食べる顔を見ていた。

子供ながらも可愛いなと思いながら毎日足を運んでいた格好の遊び場だったが、近代化に伴い田んぼも牛小屋も建売住宅と変貌していった。

乳牛では無かったから、牛達は多分食べられたのであろう。

 

上野のパンダが成田空港発のチャーター機で中国に返還された。

世界の絶滅危惧種リスト(レッドリスト)で絶滅の緊急度が3番目に高い分類のパンダ。

シャンシャンの両親「リーリー」と「シンシン」彼らのレンタル期間は10年で2頭のレンタル料、年間95万ドル。日本円で1億800万円だそうだ。

レンタル料は野生動物保護の活動資金に充てられているとされている。

経済効果を考えるとこの値段は賛否が分かれるところだが、それにしても高い。

上野動物園周辺や成田空港でも別れを惜しむ人が大勢いて、中には涙ぐむ人もニュースでは流されていた。

反感をかうのを承知で書かせてもらうと、パンダ返還がトップニュースになるメディアにはあきれ返る。

逆に良い機会として動物愛護の番組を流せば納得も出来るのだが。

パンダに罪はないが、死んだわけでも無いのに、泣くほどのものなのか私には理解が出来ない。

それよりも危うく轢くところだったネコの事の方が心配だ。

寒い中、何処で休んで食べているのか想いを馳せている。

 

令和2年度(2020年)犬猫あわせ72,433頭もの犬猫がセンターに引き取られている。

その内23.764匹が殺傷処分されている

怪我や病気で処分(嫌な言葉だが)された個体数も含まれているとはいえ、胸の痛くなる数字だ。

年々引き取り数が増え、処分される数も減ってきているのは喜ばしい事だが、単純に喜べないのは引き取り手が単に一般人だけでなく、動物愛護団体NPOも含まれている事だ。

勿論引き取る数も限度があり、様々な活動で飼い主を探しているのが現状だ。

また収容された犬や猫の手放す理由が、「面倒」「ウンチの世話が嫌」「トイレを覚えない」「病気になった」という人間側の誠に勝手な都合によるものも多いと聞く。

エサや環境が良くなり、ペットも長生きするようになってきた。

そして人間と同じように、認知症てんかん、心臓病、癌などの病気を患う。

当然、費用も馬鹿にならないであろう。

その事も考えての購入だったのかも含め、想像力の大切さをもっと啓発すべきだ。

 

TVではペットを含む動物を題材とした番組やタレントが飼っているペット紹介、ニュースでも可愛らしさを「癒し」の意味でか解らないが流し続けている。

が、どうも一方的な見方で動物を取り上げている様に見える。

擬人化したり、可愛さを強調したりと。

それに比べ殺傷処分される事を取り上げている番組は遥かに少ない。

せめてテロップで流すなりして、飼い主に対する心得などの啓発をしてもらいたい。

マスメデアに義務化すれば良いくらいだ。

そう「不適切な言葉使い」「暴力」等など、映画の冒頭に書かれている文言の様にだ。

アパートの一階で一人暮らしをしていた頃、隣の部屋には中年の男性が一人で住んでいた。

会えば挨拶する程度で、交流は無かった。

アパートなので動物は飼えないのだが、その男性の部屋からよく猫の鳴き声が聞こえていた。

ある日を境にその男性の姿を見かけないようになった。

換気扇は回っているのだが、電気はついていない。

心配になりドアの郵便受けから声を掛けても返事がない。

アパートの奥の引き戸を開けると風呂場とトイレがあり、屋根はついてはいるが外と同じ環境になっている構造で、隣の裏に回り少し引き戸が開いていたので覗く事にした。

引き戸のガラスの内側に大量のハエが止まっている。

恐る恐る開けてみると、ゴミ屋敷状態で猫が2匹死んでいた。

大家さんに通報し、私は何も考えずに何故か猫の屍を私の部屋の下の基礎部分に潜り込み、穴を掘り、埋めてやった。

しばらく月日が流れ、異臭がするので下の基礎の方に懐中電灯を当てると、別の猫が死んでいた。

きっと、死に場所に私の部屋の下を選んだのだと思うと、不気味と言うより不思議な感じがしたのを覚えている。

死期が近づくと他の動物に狙われやすくなり、身を隠すと聞いた事がある。

安住の住み家として私の部屋下を選んでくれたのかと思うと、切なくなってしまった。

そして二日ほどしてから、知人からオスの子猫をいらないか?と連絡があった。

何かの縁と思い飼う事にした。

「ピート」と名付け、小さいうちは家の中で飼っていたが、大きくなるにつれ可哀そうになり、元来動物は外で飼うものと考えていたので、出入りを自由に出来る様にしてやった。

首輪は付けておらず、リードも無いが、散歩すると犬の様についてきた。

毎日楽しそうに出かけていき、アルバイトから帰宅すると彼も戻ってくる生活。

楽しくもあったが、おかげで家の中は蚤がピョンピョン跳ねるぐらいで私の足は、赤い点々だらけに。

薬を飲ませたり、病気になれば7万円という当時の私にとっては大金を払って治してもらったりしたものだが、ある日首輪が付いている事に気が付いた。

彼はどうやら二重生活をしていたようだ。「この浮気者」「恩知らずめ」と叫んでも目も合わせない(笑)

そして、ついに戻ってこなくなった。

何度も探しに行ったが見つからず、数日間はとても寂しい思いをした。

「猫なんか絶対に飼わない」と誓った日だった。

多分、浮気先で家中、蚤だらけにしている事だろう。ざまあみろだ!はははっ!

ただ、その後も懲りずに捨て猫を拾って、ピートと名付け育てていたが。

フィリピンでは玄関に水槽があるとお金持ちになると言われているので、結婚当初から魚を飼っていた。

水質や温度、餌、掃除など気を遣う事が意外と多い。

残念ながら引っ越す事になり飼っていた数匹の魚は引き取ってもらった。

が、15年近く飼っていたが、お金持ちにはならなった。(笑)

管理が難しい熱帯地方の淡水魚だったので、薬を入れたりしてもどうしても死んでしまう。

勉強不足が原因で今でも悔やむところだが、飼っていた当時、よくペットショップに足を運んで安い魚を選んで買っていた。

ペットショップには当然、犬や猫、蛇やトカゲと色々な動物がいたが、特に犬猫ケージには休日ともなると沢山の人が集まって覗いている。

「可愛い」「欲しい」そんな言葉が飛び交っている中、「いつか死ぬんだぞ」「飼うのは大変だぞ」とつぶやいていた。

 

動物好きが多い国フランスでは、動物の扱いに関する法律の改正案を可決し2024年にペットショップで犬や猫の販売が禁止されることが決まった。

動物保護団体によると、毎年10万匹もの犬や猫などが捨てられて、特に「バカンス」の時期に多いと報じられている。

一概にペットショップだけが悪いと言えないが、目の前で見て動物を安易に購入できる今のショップの在り方をそろそろ考え直さなくてはいけない。

近年はインターネットでも販売され、簡単に手に入る事も大きな問題だ。

また移動販売も少なからず行われている。

ペット博覧会の様な名称で、売れ残りを減らす為も兼ねて価格も安く売っているのだが、ネット販売と同様、移動販売も返品や苦情などのアフターケアが出来ないケースも多々あり、また悪質業者もいる事から注意が必要だ。

加えて、移動の際にペットへの負担がかかる事も問題で全面禁止にすべき時期だ。

パンダの様に特別チャーター便では運ばれないのだから。

 

日本も動物愛護の視点から環境省もやっと重い腰を上げ、展示販売は、生後56日を過ぎてからとか、飼育頭数の制限、飼育環境の見直しや購入者への注意喚起、マイクロチップ導入などの動物の扱いに対する規制を強化したが、お金が絡む事もあって悪質業者も後を絶たず、効果はあまり期待できない。

(買う時に生後何日か、確認すれば業者の質も解る)

当たり前だが、物言えぬペット達は窮状を訴える事が出来ないのだ。

役所が決めても監督する能力が有るのか甚だ疑問だし、またおざなりの監査で責任を取らないという繰り返しにならないのか、そっちの方も心配だ。

動物を買う、すなわち命を買う時には最後まで看取るという誓約書を書いてもらい、賃貸契約と同じように同居者以外の保証人のサインも必要とするべきではないか。

同時に動物病院とも連携し、保険を義務化し登録。

推し進めようとしているマイナンバーと紐づけするぐらいの法律を制定すべきだ。

(お役所仕事にならなければ良いが)

ペットは飼っている人にとっては家族同然であるのだから、当然の義務だと思う。

あくまでも「買う」という行為に対してであり、無償による引き取りや保護する場合は、登録(マイクロチップ)と予防接種だけでそれ以外は免除すればよい。

そもそも、そのような人達は身勝手に捨てる様な事をしないと思う。

 

犬や猫といった身近な動物は、人間の手で品種改良されてきた。

しかしその裏で見栄えを良くする為、すなわち美容目的や室内犬にも関わらず、怪我からの感染症を防ぐ為と称して尾を切断(断尾)したりする事が今でも行われている。

例えばトイプードルやヨークシャテリアなど、人気の高い犬も見た目の良さだけの理由で断尾されているのだ。

考えて見れば、人間は残酷な動物なのだ

人間は動物をコントロール出来ると思っている。

このブログ内の記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆」でも書いたが、彼らもまた人間を利用している。

絶滅危惧種に指定される事で、種の保存にも繋がっている事から分かる様に、遠い昔なら絶滅してもおかしくない動物達が、人の手で守られている。

考えて見て欲しい。

地球の環境が人間にとって住みにくい状況になれば人類は絶滅危惧種になる。

誰が保護してくれるのであろうか?

そう、愚かにも人類は自らの手で絶滅危惧種の方向へと進んでいるのかもしれない。

地球に住んでいる動植物は相互関係、つまり依存され依存している。

それは思っているほど深く、そしてもろい。

絶妙なバランスの上で成り立っているのだ。

無駄に殺したり、虐待したりする事はそのバランスを崩す事となる。

パンダも犬や猫もそして人間も同じ命で、一回こっきりの人生だ。

彼らから学ぶも事は沢山ある。

多くの事を無言で教えてくれる。

もし良き友達、家族としてペットを迎え入れるのなら、どうか最後まで見てやって欲しい。

同じ星に住む生き物として!

いつも傍に君がいた

君から見た僕の時間は

無駄遣いが多いらしい

僕から見た君の時間は

あまりにもそそっかしい

僕の容姿も

僕の性格も

無言で見つめる君は

気にもしない

ただ僕の傍にいて

生れ出た命の喜びを

振りまいている

流れの違う時間の接点に

ありったけの想いをぶつけ

短すぎる夏休みの終わりの様に

遊び足りない子供の様に

静かに君は目を閉じた

 

君が教えてくれた事

今でも絶対忘れない

生れたその優しさと

遊ぶ事の大切さ

何より自由なぬくもりを

 

パンダはその愛くるしい姿からニュースになるのは仕方がないが、一方でパンダ外交と言われるような政治にも利用されている事も忘れてはいけない。

考えて見れば、彼らの未来は人間の都合次第という訳だ。

 

多種多様な生物が生まれ、この星の住人として生物は生き残りをかけて今も死と常に向き合い闘っている。

同じ星の住民として私達人間の都合でその命を絶たれるとするなら、こんな悲しい事は無いだろう。

その事を常に頭に入れ、見守っていきたいと思う。

 

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人権問題は戦争への近道(2)

 

人権問題 は私の経験からも言えるが、教育が大きく関わってくる。

人間形成に欠かせない教育の役割は、その後の生き方にも大きく影響を及ぼすからだ。

知らず知らずのうちに刷り込んでいる危険性を、教育に携わる人達に今一度考えてもらいたい。

最近ではジェンダー平等の動きの中、制服などの見直しや着替え、トイレなどへの取り組みも一部で始まってはいるが、根底にある意識が変わっているのかと言うと疑問である。

改革は素晴らしいが、上辺を繕っている感はぬぐえない。

何故なら外観だけの話ではなく、内面、心の問題に焦点を当て、歴史が示してきた愚かさを教えるというアプローチが無さすぎるからだ。

我息子の中学時代の道徳の教科書を見たが、ジョン・レノンの「イマジン」(Imagine)やマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」(Heal The World)の曲を聞かせるほうがよっぽど心に届く。

道徳教育はそんな簡単に出来るものでも無いし、役人が決める事でも無い。

ただでさえ大変な仕事である先生に負担をかける今のこのやり方は、中途半端でしかない。

道徳を学んで欲しいのは、教育委員会や国のお偉方の方だ

後述しているが「教育再生実行会議」や「教育未来創造会議」といった政府の方針は、いじめ問題が発端になり、家族の在り方、後に「一人一人の多様な幸せと社会全体の豊かさ」「ジェンダーギャップや貧困」などに取り組むと書かれているが、そもそも、いじめが起きても誰も責任を取らない、身内をかばう姿勢の大人達がどうやって道徳なるものを教えられるのか、甚だ疑問なのだ。

教えるというよりも、考える事、想像する事に重きを置くべきで、正解を出す事では無いはずだ。

その為には家長制度などの歴史を紐解く必要があるし、ヒントが隠されている。

 

日本は、西洋から様々な文化や考え方を取り入れ発展してきたが、反面キリスト教などの宗教を重視していた国から学んだ事もあり、LGBTQは許されるものでは無いという意識が生まれた。

時の政府の西洋に学べという後押しもあり、それが一般的な考えとされ人々の中に定着していった。

皮肉にも学んだ国から遅れていると言われているのが日本の現状なのだ。

性差や差別にも関係が大きい、男尊女卑や家長制度も日本の長い歴史を顧みると浅い事が解る。

男尊女卑は中国や朝鮮半島の「祖先崇拝」という考えが日本にも影響を与えられたとされているが、江戸時代の武家社会以降、この考え方が主流となっていった。

逆を言えば、それまでは男女それぞれの役割、分担はあったものの、男尊女卑の考え方は無かったとも言える。

また、そもそも同性愛は神道でもタブー視されてはおらず、江戸時代初期の頃までは寛容だったという資料も残されているくらいだ。

もう一つ要因として考えられるのは、やはり権力の構図であろう。

LGBTQの問題は家族形態や家長制度が大きく関わっている。

江戸時代には平民には名字が無かったとされるが、実は持っていたとされ、武士だけが名乗る事を許されていたにすぎない。

そして明治時代の前述の西洋に学び追い越せという時代に徴兵目的での戸籍政策により姓名の届け出の義務化が進んだという経緯がある。

 

結局、国として権力を維持する為=戦争という短絡的かつ無理解者達が今の日本の在り方を変えたに過ぎない事が解る。

その裏で差別に苦しむ人達が多くいたし、無視されてきたのだ。

つまりその歴史は浅く、また権力者にコントロールされやすいシステム作りという訳だ。

それは、自公政権でも「家族という位置づけ」「まず家族で何とかして下さい」という発言からも解るとおり、政府が責任を持ちたくないという姿勢や関わると家族の在り方を明確にしている宗教団体の絡みもあり、選挙そのものにも影響が出てくるといった身勝手な議員達による、自己中心的なシステムを失いたくない為だけに過ぎない。

会社でも根拠のない、未来を見据えない頭の固い人間がトップにいると、下の者が苦労するのと同じ事なのだ。

 

後に教育未来創造会議と変わっていくのだが、安倍前首相が第一次政権で「教育再生会議」を、第二次政権で「教育再生実行会議」を開き、様々な戦前とも思われるような教育内容に一部変えてしまう事になった。

道徳に重きを置き、挨拶の仕方等細かく表記している教科書まで出てきた。

文科省が選定する教科書という事は、道徳も文科省が決める権利を有する事になる。

その内容は、あくまでも個人としての解釈だが、教育勅語そのものと言ってもよいくらい「らしさ」や「こうあるべき」と押し付けのオンパレードなのだ。

この令和の時代にだ。

Wikiwandより

 

この時期、旧統一教会問題は発覚しておらず、票欲しさに議員が関係を続けていた事は周知の事実だ。

この宗教が唱える家庭の在り方に議員も、当然賛同し、もしくは賛同せざるを得なかったと考えるのが自然である。

残念ながら、故安倍氏を含めその関係性を現政権はうやむやにしたままなのだ。

(詳しくは書ききれないので「東洋経済オンライン」で調べれば出てきますのでご参考に)

この事もLGBTQ、夫婦別姓外国人差別等の問題をどんどん先送り、むしろ逆行させてきた原因なのだ。

 

また政府・自公政権与党は当初、「こども庁」としていた名称を「こども家庭庁」に変更した背景にあるのは、子供は社会全体で見守るという考え方ではなく、家庭でやりなさいという古臭い議員たちの考えを反映させた結果だった。(票欲しさによる宗教の影響も考えられる)

結局少子化に歯止めをかけるどころか加速させる様な政策になってしまった。

 

岸田政権では、G7の一員としてのメンツの為、人権に関する問題を小手先の対策しか出せないでいる。

というより急場しのぎの中身の薄い対策ばかりなのだ。

差別発言で一部撤回、陳謝したものの、未だ問題になっている杉田水脈総務政務官の起用など、首相としての任命責任は余りにも重いし、理解に苦しむ。

軍拡には早々と予算を組みアメリカを喜ばせ、福島原発の後処理のめども立たない中、大企業救済としか思えない様な、原発延長や新設に加えて、政府は2月10日の閣議で、自衛隊の任務に不可欠な装備品を製造する企業の事業継続が困難になった場合は、生産ラインを国有化し、別の企業への委託を可能とすることなどを盛り込んだ法案を決定したのだ。

しかも装備移転・輸出の抜本的拡大も視野に入れている。

解りやすく言うと、武器も装備も大企業を支援して政府が後押しをし、管理をし、他国に売ってもいいのではないかという事だ。

肝心の国民に対する様々な緊急を要する政策は、「善処する」「広く国民の合意を得る為の努力が必要」等とはぐらかしている。

聞く耳は、国民ではなくG7内の要人と議員の身内の為にあるらしい。

 

いつも誰かを裁いている

己という名の法律で

根拠や弁明の余地もなく

有罪と声を荒げ読み上げる

次から次へと罪人を

作り出しては勝ち誇る

考えてみるがいい

裁かれているのは誰なのか

真の裁きの法廷に

己の姿がそこにある事を

 

人類は常に新しい事を見つけ出し、工夫し進歩してきた。

それは単に技術だけでなく、決して一人では生きていけない宿命を持った人間という存在の意味を問いかけ、この地球を共有している意味を常に上書きしなくてはならない。

世界に類を見ない平和憲法を持った国にふさわしい、人権や安心安全な国としての責務がこの日本の世界に対する役割なのだ。

自国の偏見や権力維持、責任を取らない人や政治、過去から学ばない姿勢を正さないと、他国で起きている人権問題にどうしてものが言えるのだろう?

国内の外国人に対する入管の対応のひどさも、私達は当事者目線で観てきただろうか?

もし自分の家族であったならどう思うであろうか?

政府は入管法を改正しようとしているが、難民申請中の母国送還を可能に出来たり、「在留が認められない者を迅速に送還」の項目では、退去を拒む外国人に対し強制送還や自発的出国の促しが付け加えられている。

今尚、入管収容施設に入っている外国人達の苦悩はどれほど私達に伝わってきただろうか?

不服があれば訴える事も出来るが、そもそも紛争等で逃げてきた人達に証拠集めをさせるのは、国に帰れと言っている事と同じだ。

インバウンドで浮かれている裏で、技能実習生や留学生に対する扱いなど、明らかに差別ではないかという事例も頻繁に起きているのが「おもてなし」の国、日本の現実なのだ。

 

ウクライナからの受け入れ対応と、クルド人を含む他の外国人達への対応の違いはなぜこんなにも違うのか?

もしかしたら私達は同じ人間としてでは無く「らしさ」すなわち、伝統や文化に触れ心動かされ、治安の良さに感心し、食べ物の旨さに驚くという様な「外国人らしさ」で彼らを見ているだけではないのか?

特に感じるのは、アジア圏黄色人種と西洋人に対する見方の違いだ。

私の知る限り、接し方や扱いに差を非常に感じる。

この様な問題の全てのツケを払わされる時が何時か必ずや来るであろう。

まだ今なら間に合う事も沢山ある。

いや、やらなければならない。

それには国民一人一人が差別や偏見、理不尽な制度に「NO」を政府に突き付ける必要が不可欠なのだ。

けっして他人事ではないし、無関心に加え、何より傍観してはならない。

必ず周り廻ってツケを払わせられる事になるのは国民であり、未来を担う子供達なのだ。

政治家や官僚、学者や評論家で無い事は確かなのだ。

もしかしたら、尊い命でもって払わさせられるのかもしれない

 

私が非常に危険だと思う事は、現政権は戦前の政権の様相になっている事だ。

個々、国民の事では無く国としての方向ばかり、勝手に舵をきってアメリカの巧みな戦略に巻き込まれている事だ。

LGBTQ、夫婦別姓、在日外国人や訪日外国人差別に取り組む事に及び腰なのは、国の戦争準備としてか、また選挙に都合が悪い為なのか、むしろ歴史の逆行を願っているのが本音としか見えない。

岸田首相の同性婚の法制化について「社会が変わってしまう」発言は文字通り本音だろう。

何故なら、いつの時代でもキッカケは些細な事として問題を軽く扱い、そして見落とし対処を誤る事で大きな失敗に繋がっている事実を歴史が、そして社会が示している。

誰も責任を取らず、過去から学ばないほど愚かな行為しでかすものだ。

正にバタフライエフェクトだろう。

結果、平和を謳った民主国家の名ばかりの縛れらた自由の無い世界になっていく事は、目に見えているからだ。

そこから生まれるものはロクなものは無い。

現政権に対し危機感を持って見守る必要をつくづく感じる。

 

厳しい目で政権自公与党の動きを見、選挙という手段で態度を示したいものだ。

憲法は権力者の抑止の為にあり、法律は国民の安全安心と権利を守る為のものであるはずだ。

そう、性差や趣向、家族形態を一律に定義するものでは無い。

むしろ個々の尊厳と自由を保障するものなのだ。

人間が人間らしく、個々の考えが尊重される社会構築に近づける努力を常にし続け、実現するような政治、政策の実行でなくてはならない。

それは正に誰もが自分らしく生きる権利を持つ事を意味し、奪われてはならないし、誰にも奪うことは出来ないのだ。

この地球では人類、人間という一つの種であり、それ以上もそれ以下も無い。

性差、人種を超えて愛を感じ、夢を描き、共感し、共鳴でき、犠牲をいとわない勇気を持った人類という、暖かい赤い血が流れている種族ではなかったのか?

だからこそ、この地球の住人として住む事を許されているのではないか?

そこに国境など存在しない。

例えそれが理想としても、実現可能に出来るのは人間だけなのだ。

それを先陣きって世界に広める国、日本でありたいものだ。

見上げれば

電線が星を区切ってしまう

地上に引かれた境界線は問いかけた

ずっと眺めて来たけれど

星ぼしは

上からの景色に線など無いと言う

鳥も虫も動物も

当たり前だと空を仰いで同意した

地球や心の線引きを

黙って諭す限界に

自然は憐みをもって示すだろう。

君達はもう去るべきだと

 

kenpa.blue

 

 

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