心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

ゴミから考える日本

スポーツ観戦後のスタジアム清掃は日本の礼儀として高く評価され、ニュースやSNSで報じられます。

日本人のスター選手のゴミ拾いも大きく取り上げられ話題になったりします。

 

私の街でもゴミの分別が当たり前ですが、カゴ(コンテナ)にペットボトルと書いてあり、家庭にも行政からパンフレットも届き書いてありますが、ビニール袋に入れたまま無視する人が絶えません。

缶もビンも同じです。

仕事の最中、ゴミの回収されている方がビニールを破き中を確認し、分けている姿を何度も見ましたが、本当に頭の下がる思いです。

その収集人の中にはアジア系の方も多くいらっしゃいました。

彼らはどんな思いで日本のゴミの分別意識を見ているのでしょうか?

また、都会の公園で休憩する機会が多いのですが、ベンチの座面の隙間にゴミや吸い殻を隠すように詰め込まれています。

勿論一か所ではなくそんな公園を沢山見てきました。

道路の中央分離帯の草木の刈り取り作業の後は、缶やペットボトル、コンビニ袋のゴミが沢山出てきます。

それは同様、街路樹の植込みの中や幹線道路の信号待ちの辺りにある金網で仕切られている植込みにも山の様に沢山のゴミが捨てられています。

信号待ちの時に、車内のゴミを投げ捨てているのです。

近所では何度も見ますが、多分家の中が禁煙らしく、よく昔は蛍族と呼ばれていましたが、タバコを外で吸い、下水道の取水の隙間へ捨てている人もいます。

それはどの町でも同様で、特に都会ではよく見かけます。

私の近所のゴミ集積所の2箇所は私の家が中間にあり、駐車場に行く途中なので通り道の方にゴミを捨てていましたが、近くの年配の女性から「あなたの捨てる集積場所はあっちの方だからここに捨てないで」そして「自治会費を払って、当番で掃除もしているから」」ときつく言われました。

勿論私も自治会費は払っていますし、当番関係なく、目につくゴミは片づける様にしていました。

ある日、その年配の女性が家の前を掃除していたのですが、排水溝の中にゴミを入れているのを目撃してしまいました。

どうやら日本人は、全てだとは言いませんが目につくゴミは勿論片づけますが、目の前からゴミが無くなればそれで良いと思っている人が多くいるように思います。

もし自分の家の中ならそんな事はしないでしょう。

例えば冷蔵庫の裏やテレビの裏に隠すとか!(笑)。

フィリピンでは分別でゴミを捨てる事は無く(一部では2種類に分別されていますが)例え分別ゴミでも回収業者が一緒にしてしまう事もよくあります。

回収率では80%に満たないので、残りは自宅で選別し業者に売ったり、川や海、空き地に捨てられたりする事になります。

日本は家庭からの回収率はほぼ100%ですが、一人当たりのゴミの排出量はフィリピンの2倍にもなります。

また海洋放棄プラスティック、マイクロプラスティック問題で減ったものの2020年プラごみの量は82万トン。

日本からフィリピンやマレーシアやベトナムに輸出している状態です。

(以前は中国に大量に輸出されていました)

勿論その裏には、フィリピン国内等で流通しているプラスティックは粗悪な物が多い為なかなかリサイクル出来ないなど、後進国の事情もありますが。

昔、マニラ近郊にスモーキーマウンテンと呼ばれていたにゴミの捨て場所があり、山のようになっていました。

腐敗したゴミがガスを出し、あちらこちらで煙が出る中、子供達が金属類やプラスティックなどを拾い集め、収入減としていました。

きつく危険な仕事で空気も悪く、子供にとっては最悪の環境の中での労働です。

私の妻もその一人でした。

大気汚染を誘発する事から燃やさない方針でしたのでこのような事になっていましたが、現在では処理施設も少しではありますが増えてきています。

まだまだ分別意識が薄い国ですが、スラム街ではそのまぜこぜになったゴミを分別し、業者に売り生計を立てている所も多くあり、一概に生活の糧となっている為、良し悪しを判断出来ないのが現状です。

 

海外ではリサイクルが進んだ欧米諸国では、個別に日本の様に毎週決まった日に種類ごとに収集してくれる国は少なく、集合住宅の地下等の集積場所や専用のリサイクルの分別BOXに持って行く事になります。

考え方によっては、日本はとてもありがたい収集システムなのです。

にもかかわらず……。

街中にゴミ箱が無いのは海外でも紹介され、各自が持ち帰るという前提です。

訪日外国人の方も戸惑いながらも多くの人がルールを守っています。

しかし都会の人が多く集まる場所では、裏通り入ると空き缶回収ボックスにはみ出すほど、色々なゴミが詰め込まれていますし、朝早い駅の廻りには空き缶やたばこの吸い殻だらけです。

前述の様に先進国であり、また世界への見本ともなるべきシステムのはずが、目の前から無くなれば、そして皆が捨てているからという様な考えの下、ルール違反が一向に減らないのが現状なのです。

そしてその裏にはボランティアの方も含め、清掃している人がいるからこそ綺麗に保たれています。

 

何も考えずに捨てた風で舞うプラスティック袋は、後進国では貴重な収入源だという事。

そして飛ばされたゴミが、排水溝や川、海に流れ深刻な汚染を引き起こしている事も、もっと啓発すべきであり、本当の意味で世界から尊敬される国としていたいものです。

 

SDGs( Sustainable Development Goals )が叫ばれ、様々な取り組みが、個人や企業を問わず努力し始めていますが、ゴミに関しては食品廃棄及びロス、分別再生の視点から見るとまだまだ考えなくてはならない課題が多くあります。

政治が悪いのは選ぶ国民が悪いのと同じで、個々の意識が「もったいない」という素晴らしい文化を忘れてしまった様になっている、つまり何事も小さな始まりと取り組みが大きな成果を上げる事を、今一度私達は考えなければ、名ばかりのSDGsやリサイクル、リユースとなってしまいます。

江戸時代には知っている方も多いと思いますが、素晴らしいリサイクルシステムが出来上がっていました。

今でいう「循環型社会」の極みで、ありとあらゆるものが再生されたり修繕されたり、また形を変え最後の最後まで無駄なく扱われていました。

勿論、庶民にお金が無かった事もありますが、「もったいない」をベースに個々の意識が正に高かったからこそ、全体として循環型社会を構築していました。

 

しかし時代も変わり物が安く手に入り、一生ものと言われる商品ではなく、捨てて新しいものを買う事に慣れてしまった事も大きな足かせとなっています。

傘が500円で買える事が本当にいいのかどうか?

大量生産と大量消費は大量のゴミを生み出す事は誰にでも考えれば解る事です。

街中の公園では、ベンチを撤去したり住民が通報したり、またトイレを閉鎖している所もあり、ギスギスした世の中になってしまいました。

短絡的な考えや監視社会にする事がゴミを減らせるとは思えません。

吸い殻等、目に余る状態に住民からすれば即禁煙、撤去という図式になってしまうのは理解できます。

タバコの場合、受動喫煙や匂いは非喫煙者にとっては大きな迷惑です。

文句も言いたくなるのも解ります。

しかし平気でポイ捨てする人は、隠れてもやり続けます。

それはまるで、大人の顔を持つ子供の様な、すなわち責任を放棄し自由を求める想像力の欠如した人達です。

もう一つ気になる点があります。

それは前述に書いた「目の前が綺麗になれば、自分のテリトリー内から無くなれば」という意識でポイ捨てする人達を裁いている様にしか思えないのです。

これも仕事柄目にする事が多いのですが、生ごみの日の袋にはプラスティック袋や紙ごみ、ペットボトルが混じっている袋をどの町に行っても目にします。

人には厳しく、自分には甘いという人達が少なからずいるのです。

それはネットで匿名性をいいことに誹謗中傷する人達の真理と似ていて、蔑んだり、攻撃したりする事で快感を得る、いわば脳の仕組みを悪用している人達と同じ事です。

出発点は、意識改革は他人ではなく自分からであり、例えば皆が赤信号を無視して渡ろうが、自分はやらない姿勢を貫く事であり、それが子供達にとって良い見本として影響を与えられるのです。

落ちているゴミを拾うコンテストや選手権、例えば「スポGOMI」が催され、少しずつ意識も高くなりつつあるかもしれませんが、まだまだほんの一部の人達だけなのは残念です。

 

普段買い物する物も含め、その多くは包装や容器がゴミとなります。

個別包装されたキャンディー類を始め、ありとあらゆる物が必要以上にくるまれ、正にゴミを買っている様な社会。

昭和の中頃までの時代は皆が買い物袋を持ち、新聞紙に包んでもらったり持参の容器に入れて持って帰ったりしていたのです。

容器はビンが主体で、立派なリサイクル、リユースの仕組みがあったのです。

以前勤めていた町工場で、印刷され大きな巻物の様なフィルムを指示通りの大きさにカットする仕事をやっていました。

大きな巻物を機械にかけ、巻き取りながら指定された大きさに切り、数個のロール状に加工する仕事です。

ダイレクトメール用の袋や個別包装用のフィルム、おにぎり用の包装フィルム等は、一つのロールから

2個~16個のロールを切り分けられます。

ロスや不要な両端の印刷されていないフィルムは膨大なゴミとなっていました。

社員同士で「ゴミ生産工場だね」と話していた事を、今でも思い出します。

勿論、それ以前に印刷そのものやフィルム自体を作り出す過程で多くの廃棄物が出ます。

そして原料や材料そのほとんどが輸入に頼っている日本という事を忘れてはいけないのです。

 

例えば印刷は、一つ一つのモノはごく微々たる重さのインクが載っているだけですが、大量に作っては消費されるので、トータルで考えるとインクだけでも気の遠くなるほどの量が毎日毎日使われています。

例としてふさわしくないかも知れませんが、飛行機の塗料の重さは機体の大きいもので200㎏にもなります。

積み重なれば大きくなるという事です。

 

小分けされたキャンディーの包み紙を開きながら、ある時はおにぎりのフィルムを引っ張りながら「こんな小さな包み紙を作る為にどれほど廃棄物が、ゴミが出るか、一般の人は考えもしないだろうな」といつも思うのです。

衛生的だからとかパリッとした海苔の触感だけの為にです。

 

自戒も込めてゴミの事を考える事は、将来の子供達の事を考えるのと同じ事であると同時に、危うい資源を輸入に頼っている現状と、先進国としての役割を個人個人が考え直すキッカケにしたいものです。

そして何より教育が大切で、日本の事だけでなく世界的な視野を持てる子供達を育成する事と未来を担う役割として、何が出来るのかを考えられる想像力を身に付けられるカリキュラムに時間を割くべきで、年号を覚える様な記憶力勝負の時代にそぐわない授業時間を削り、資源について学ぶ時間を作る方がよっぽど勉強になるでしょう。

 

地球は人間が住める限界があり、許容量も決まっています。

そして、この星は人間の為だけに存在している訳ではありません。

紛争や戦争が未だに続き、多くの命の犠牲と、汚染物質をまき散らしている現状。

ゴミの分別どころではない、命までも危険にさらされている人達も多くいます。

平和な日本で快適さと便利さを追い求め、引き換えにゴミを生産し続けている現状。

先進国?の日本として、どう世界に語り掛ける事が出来るか?

そして、未来を託す子供達にどんな言い訳をしようとしているのでしょうか?

一体、人間の進化は、心の進化はいつ始まるのでしょうか?

 

 

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20221028152413

外国人と暮らす事⦅幸せ⦆(3)

フィリピンは14世紀後半、中国~東南アジア~インド~中東を繋ぐ航路上で海上交易を行っていたイスラム商人の影響でイスラム教が広まりました。

15世紀にマゼラン率いるスペイン船団が武力で介入し、キリスト教を強要する様になりました。その後ポルトガルが統治するようになり、その後スペインが武力により植民地化。

過去に何度も欧米諸国から植民地化されました。

15世紀には意外にも日本からも使者が派遣されたりして、日本人も入植していました。(日本でいうと豊臣秀吉がいた時代)

ガレオンの貿易航路(スペイン領マニラとメキシコのアカプルコを結んだガレオン船による貿易)の寄港地でもあった為、統治していたスペインが中国との貿易によって、多くの中国人も移住するようになりました。

この頃は、中国人が貿易に深く関与し、その名残で今も中国人が経済の一部を担っていて、妻の父親もいわゆる華僑の会社に勤めていました。

この頃はスペイン人によるキリスト教化された本土と元々のイスラム教徒の間で争いが何度もありました。

結果、ミンダナオ島には今もイスラム教の方が多く住み、本土のキリスト教徒との間で衝突が絶えません。

17世紀にはオランダからの攻撃。18世紀にはイギリスがマニラを占領。

17世紀後半にはアメリカが50年近く統治していました。

1942年の太平洋戦争では日本軍がマニラを占領しました。

ざっと歴史を書きましたが、フィリピンは侵略され続けてきた国で、搾取や宗教の強制化等翻弄されてきた国です。

ですから今でも占領や植民地化された国を日本も含め快く思わない人もいます。

私の妻の亡くなった父も表には出しませんでしたがその一人でした。

妻は少しスペインの血を受け継いでいます。

 

世界中で大国による侵略や植民地化が行われ、宗教の強制や資源の搾取、債務を背負わせ身動きを取れなくさせ服従させたり、時にはアヘンといった麻薬付けにしたりと、そのやり方は巧妙且つ大胆で、今でも世界各地で起きている紛争や戦争の原因にもなっていますし、その巧妙なやり方は西側諸国に限らず、アジア圏の大国など今でも行われているのは周知の事実でしょう。

 

上記の様な経緯や歴史を踏まえての話ですがNHKのBSドキュメンタリー「アジアに生きる子供達」2004年制作『お母さんに会いたい~フィリピン・ムスリムの兄と妹』が地上波で今年の9月に再放送されました。

ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、400年間に渡り宗教武装紛争が絶えない故郷ミンダナオ島から1.300㎞離れたルソン島のバギオに兄と妹二人が、市場で買い物用のビニール袋(10ペソ、当時のレートでおよそ20円)を売りながら、家族の元に仕送りしているドキュメントです。

戦場となったミンダナオ島から一時バギオに避難したものの、両親に仕事が見つからず兄弟と共に帰郷。

働き手としてバギオに残り、病気がちの母や仕事が見つからない父親の為に仕送りをしているのです。兄のノラルディンは10歳、父親が違う妹マニマル8歳でバギオの叔母の家に家賃と水汲み(急な坂を10mも昇る過酷な労働)を条件に同居しながら妹を学校に通わせ、ひたすら働く兄。

二人の夢は「お母さんに会いたい」というそれだけで、ひたすら働き続け、妹も手伝いミンダナオ島までの船賃を貯め会いに行くのですが、わずか数日でまたバギオに戻る事になってしまうのです。

それは母親の病気治療の病院代などで多額の借金がある為で、父親や親戚も戻って仕送りをして欲しいとの半ば強制的なお願いでした。

勿論母親は傍にいて欲しかったのですが、別れの日二人をきつく抱きしめ、泣く妹を兄がなだめながら車に乗るのです。

 

冒頭二人が稼いだお金を数えながら、お母さんに会える日を夢見ながら故郷の歌を唄っているシーンは、涙がこぼれてしまいました。

ルソン島ではタガログ語が日常的に人々の使う言葉ですが、二人の会話や歌はビサヤ語です)

前述のフィリピンでの宗教争いは、兄妹二人はムスリムなので、バギオではキリスト教徒から不当な扱いを受けるのですが、仲良くしたいと思いながら何も出来ない二人を見て大人だけでなく、子供達まで巻き込む宗教の違いからくる差別や偏見を失くす難しさを改めて考えてしまいました。

www.youtube.com

 

日本では小泉首相の時期で、「冬のソナタ」をキッカケに韓流ブームが始まった頃です。

その裏で世界では、恵まれている子供達とそうでない子供達の落差はとても大きいという事実。

それは今も同じで、世界的に戦争や紛争、宗教や民族争いが多くなってきて、加えて自然災害や気象変動、人災なども加わり、経済的に豊かな国、力のある国にと、そうでは無い国との格差はますます広がっています。

 

私達日本人は当たり前の様に食にありつけるし、ほとんどの子供は安心して学校に行き勉強できます。

どんな宗教を信じようが、誰も気にする事はほとんどありません。

怪我や病気になっても国民皆保険制度のお陰で、費用も世界に比べて個人負担も少なく病院に行く事も出来ますが、このような国は数えるくらいしかありません。

しかしその裏で国際的な研究組織「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク」の2023年版を発表した「World Happiness Report(世界幸福度報告書)」によると国別の幸福度ランキングで日本の順位は137カ国中47位。

また2022年の自殺者数が2万1584人と高止まりと一概には言えませんが、余り「幸せ」と感じている人達が多くないとも言えます。

 

人生は「苦」であると何度もこのブログで書いていますが、少なくとも私が関わってきた外国の人達は、私の妻も含め苦労の連続で、満足に食べる事、病院に気軽に行ける様な境遇では無かった時期を経て、今に至っている人達ばかりでした。

ですから、ちょっとした事にでも喜びや楽しみを見い出す力、すなわち「幸せ」と感じられる力が大きい人達です。

前述の兄妹二人にとって、幸せはお母さんに会える事、ただそれだけなのです。

言い換えれば、人生と言う苦の中での幸せの定義を、私達大人よりも遥かに理解していて、尚且つ「幸せ」が原動力になり人生という苦を乗り切っているのです。

 

私達は「幸せ」を見つける力が弱くなっているのでしょう。

 

子供達の写真やビデオを撮ったり、旅先でのスマートホンで景色や記念写真を撮ったり、またお店での食べ物を撮ったりする事は当たり前のことでしょう。

後から思い出として振り返る為や誰かに共有して欲しいからです。

が、考えて見れば解る事ですが、その場にいた事、居合わせた事が幸せであり、後から撮ったビデオや写真を見る事が「幸せ」でしょうか?もしかしたら勘違いしているのかもしれません。

撮る為に出かけたり食べたりしてはいないはずです。

その事ばかりに気を取られて肝心の生の体験、自分の肌で直に感じ取った感触が薄れ、機会を逃す事になり、結局幸せと感じられる瞬間を見逃している事になります。

次から次へと幸せ風なものを誰かに見せられ、定義させられ、追いかけながらため息をつく。

グルメや旅行、買い物と、争いも無く安全に楽しめる国は世界の中でも数か国に過ぎません。

それでも満足できない、幸せ感を味わえないとしたら、何かが心の中から失われているのでしょう。

それが私達の現実であり、正に苦の中に隠れた幸せを逃しているのです。

 

資源が無いと言われる日本

想像してみるがいい

 

草花の芽吹きに命を感じ

花が負けじと踊り出し

木陰が風を伴い涼を呼び

陽射しが心を解き放ち

木々が彩をまき散らし

果実が季節を体に満たし

星が天空から舞い踊り

雪が墨絵を描きだす

 

幸せの資源は山ほどある

 

在日、訪日外国人の数も増える中、普段私達が経験する機会がない数々の苦難を経ての人生を送ってきた外国の人達の存在。

その人達との直の交流からは学ぶべきものが沢山あります。

そして、世界の遠く離れた地で苦難に立ち、それでも生きようとしている人達や一人親家庭、親を失ったり貧困や介護に追われたりする子供達、今尚仮設で暮らす同じ日本の人達に想いを馳せる事、すなわち想像力こそが更に幸せを見つける力になる事を、もう一度考えなければいけないような時期かもしれません。

この世界が荒くあわただしいのは、地球がまるで人間を排除している様に感じるのは私だけでしょうか?

 

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20221028152413

外国人と暮らす事⦅現実⦆(2)

日本には今、多くの外国籍の人達が住んでいます。

勿論、何らかのビザ(査証)を持って来日し暮らしています。

私のフィリピン人の妻は、結婚ビザ(正式名称を在留資格「日本人の配偶者等」)を所得し、来日しました。

結婚ビザだからと言って、ずっと住めるわけではありません。

在留期間更新許可申請をして、ビザの延長手続きをしないと本国に帰るか、不法滞在として入管施設に送られる事になります。

延長には様々な条件があり、申請にはこれまた様々な書類を提出しなくてはなりません。

延長が認められても期限付きのビザで、1年~3年という有期です。

結婚ビザの場合、当然配偶者と生活を共にしている事が必要条件です。

結婚し、彼女が来日して数か月後、入管職員が確認の為に訪問してきました。

偽装結婚不法滞在者を見つける為ですが、当然気持ちのいいものではありません。

始めから疑いの目で入管は来ている訳ですから。

 

市町村が発行する在留カードは、身分証明書と同じもので、必ず携帯しなくてはいけません。

妻も数回ですが、警察官から提示を求められたことがありました。

このカードにビザの期限が記されていて、更新期限をうっかり忘れ切れていたり、不携帯の場合は警察署に連れて行かれます。

勿論悪い事をしていない限り逮捕とはなりませんが、ビザ申請の際の身元保証人が居なければ、もしくは連絡が取れなければ、面倒な手続きと多くの時間を取られる羽目になります。

妻は1年間と3年間の2度延長した後、永住ビザ所得の為の手続きをしました。

永住ビザ所得は場合にもよりますが、税金を納付している事、年収が基準を満たしているかや簡単な日本語が解るか等ハードルが高く、子供の有無も大きく影響します。

その他、多くの書類をそろえる必要があり、その中でも日本に居たい理由の書類が重視される為、15~20万円で行政書士事務所に頼む人も多くいます。

ただ、私の妻の様に結婚ビザで入国している場合は条件が緩和されます。

ただ離婚するカップルも多く、手助け無しにはビザ申請や延長手続きはかなりの難関です。

更に子供がいるいないで大きな差が生まれます。

妻の場合、申請後6カ月間審査の結果待ちでした。

来日して5年後、所得する事が出来、当時周りは「すごく早くとれたね」とビックリしていたほどです。

永住ビザ所得後は、外国籍のまま延長申請をする必要もなく、仕事も制限なしに就く事も出来、カードを作れたりローンを組んだりと、様々な恩恵を受けられる事になり、有る無しで日本での暮らしやすさが全然違うのです。

 

もしフィリピンやタイ、ベトナム等で生まれたとしたら、外貨を得る為出稼ぎに行くか、私達の様に国際結婚以外、もしくはかなり裕福であるか、専門教育を受け、スキルを持っていない限り外国に行く事はほぼ無理でしょう。

来日している外国人観光客は、その多くが不法滞在の心配がない経済的に豊かな先進国の人達で、アジア人に関しては裕福な人達ばかりです。

憧れの日本行きを夢見ている貧困国のその多くが夢として終わるのです。

以前にも書きましたが、妻の親や兄弟を呼ぶだけでも多くの書類と時間がかかります。

入管に出向くといつも感じるのは、頭から不法滞在しないか?不正があるのではないか?という疑念から人を見ているようです。

また、あくまでも個人的な見解ですが待たされている間も、明らかに欧米人、特に白人に対する態度とは違うのです。

妻の母の日本滞在の親族ビザ延長申請の際の対応も、まるで権力を振りかざし、言う事を聞かせるという態度でした。

「今度だけは認めるが、今後は延長は認めない(実際の発言)」と言った入管職員の言葉が忘れられません。

この人には家族はいないのかと思ったほどです。

しかも何度その訳を聞いても根拠や理由は一切教えてくれないのです。

理不尽な事です。

実の母親、家族でもこんな扱いを受けるのです。

全ての役人がとは言いませんが、私の知る限りそのような人ばかりでした。

 

不法滞在や偽装結婚は違法で、あってはならない事ですが、人権を軽視するような扱いや見下すような見方は本当にやめてもらいたいし、それこそ法で謳われている平等の理念を初心に立ち返って忘れないでもらいたいのです。

そして不当な利益に群がり、加担する日本人や組織を徹底的に取り締まる方が先にやる事なのです。

以前にも書きましたが、悪質なブローカーや莫大な借金を背負って来日する外国人に対し、「雇ってやっている」「来させてやっている」という意識が無くならない限り、彼ら外国人が犯罪に巻き込まれたり、また犯してしまったりする原因の一端になるのです。

ニュースは外国人が罪を犯した事だけを取り扱い、その背景に何があるのかまでは報道しません。

 

外国人と暮らす事は、何も身近な配偶者だけでは当然ありません。

私が住んでいる廻りには、色々な国の人を見かけます。

アジア圏の方が特に多いのですが、ロシアやクルドといった白人系の方もよく見かけます。

一体どんなビザで住んでいるのか全ては解りませんが、知り合いの外国人は少なくとも必死で働き、本国の家族の為にお金を送っている人が多いのです。

中には難民申請等で仮放免で入管から出て暮らしている人も多いのですが、彼らは保険も無ければ居住地域外に出かける事も出来ません。

まして子供がいる人は学校にも行けず、病気等、民間の支援が無ければ途方に暮れてしまいます。

そして今回の入管法の改正により難民申請に制限がかけられ、強制送還になっていまいます。

母国に返されると命を落とす人も出てくるでしょう。

何より日本で育った子供達は親と離れ離れになる可能性も大きいのです。

クルド人の苦悩の一例としてですが、

『高校2年の女子は「ずっと日本で暮らし、大学進学したいと勉強している。突然、法律入管難民法改正)が変わり帰れといわれても言葉も分からないし納得できない」と訴えた。小学校5年の女子も「何も知らないトルコに行きたくない」と話した。

 中学校1年の男子は「病気になっても保険証がない。(全額自己負担で)高額なので病院に行かずがまんしている」。保護者として参加した男性(43)は長女の治療費に5年間で800万円かかったといい「返済に苦労している」と語った。』

東京新聞2023年4月24日の記事より引用

また、

『ペルー出身の両親の来日後に生まれた大学4年の女性(21)は「入管の担当者に『家族全員で帰国したら』と言われ続けた。私は母国語はほとんど話せないのに」と明かした。「日本に適応できるように」と日本語で教育してくれた父は2016年に強制送還され、母と弟の3人で暮らす。

非正規滞在の子どもと家族の在留資格を求めて記者会見をする。(中略) 女性は在留資格がないため、就職活動もままならない。「私のような子どもは全国に300人はいる。不安を抱えたまま大人になってほしくない」と強調した。

 両親らが12年に強制送還された当時、高校2年と中学3年のフィリピン人姉妹の未成年後見人になった元中学教員の大谷千晴さんは「親子の分断は、成長の大きな障害。政府は子どもを大切にして」と求めた。(望月衣塑子)』

東京新聞2023年5月15日の記事より引用

 

その時、送還を指示し決断した役人やそれを可能にした政治家が責任を取るのか?もしくは本人の運命だとして自己責任で済ますのか?

まして罪もない子供に対し。

 

この世に産まれ出た途端におかれている環境、すなわち国や社会情勢、政治的な背景、宗教観で大きな違いが待っています。

私達はたまたま日本に生れただけで、選択肢は誰にもありません。

そうたまたま日本で生まれただけです。

日々のニュースで、国際ニュースを見る事はほとんどありません。

芸能人の離婚や不倫の方が優先順位が高いのです。

ゴシップ専門なら解りますが、マスコミがまるで横に習えの様に同じ内容を垂れ流しているだけです。

その裏では世界中で苦しんでいる人達がいます。

私自身ニュースは観る方ですが、日本ではフィリピンやタイ、ネパール、ベトナムといった外国人実習生や労働者、学生が来ている国のニュースをほとんど見た事がありません。

どんな境遇なのか、どんな生活なのか知る事で、すなわちバックグラウンドを知っているのと知らなのとでは、接し方もかなり変わってくるはずです。

大切な人達、友人や家族、恋人やパートナーと付き合っている時、相手の事を知ろうと努力するはずです。

分かり合う為に自分の事も話すでしょう。

それと同じで、例え外国人とでも同じ事です。

 

もう10年以上前私の妻の姉を家族ビザで呼んだ時の事ですが、姉にとって初めての海外旅行であり、妹が住む憧れの日本という事もあり、来日をとても喜んでくれました。

その時私は義姉に「あなたの妹を妻に出来て幸せだ」と話しました。

すると「当たり前でしょ!私の妹だから」と。

日本人なら「いやいや、御迷惑をかけていないか心配で」とか「あなたの様ないい人と結婚する事が出来て」とへりくだった言い方を普通はするでしょう。

私自身、義姉にそんな言葉を期待していた自分がいました。

後で解った事ですが、妻と義姉同士の話の中で「日本に来て旦那と会って安心した」と話していたそうです。

そう、日本人とは捉え方や伝え方が違うという当たり前の事を恥ずかしながら学んだ義姉の来日でした。

その後、妻の弟や母親も来日し、フィリピン人に対しより理解が深くなった事は、私にとって大きな学びになりました。

例えば義母の来日の際も実母の様に遠慮していないで接しないと、かえって不信感を抱かれる事や感謝の気持ちを顔にはあまり表さない事等。

今では、SNSのTV電話で必ず「元気?」と言って笑いかけてくれています。

結局のところ、当たり前ですが同じ感情を持つ人間であり、一人一人が歴史を背負いながら個々の国で精一杯生きているのです。

そして、その背景を知る事が理解の糸口になる事と、そこからが本当のコミュニケーションのスタートだという事です。

そしてもう一つ大切なのは、何より自分の国の事を知る事です。

経済や政治、日本の世界に対する立ち位置、歴史や宗教等自国の事を知らないでは、外国の方への思いやりや出身国との違いを理解する力がつきません。

また外国語を勉強する事も役に立ちますが、日本語を大切にする事の方が大切です。

私の経験からも、言葉が通じなくても意外となんとかなるものです。

多くの外国人が日本に訪れ、出会いや社会の形成を共にする事も増えてきました。

一部の外国人の行動が、その出身国の人達を表している訳では無いのです

犯罪等を犯した人の出身国の人が皆同じ事をするという見方をする人が多いのも危惧するところです。

少し前も外国人労働者に暴力をふるう事件がありましたし、入国管理省での不当な扱いや在日韓国人に対するSNSでの誹謗中傷の裁判と、表に出ているのはほんの一部で、陰で泣かされて苦しまされている人は多くいます。

それも今に始まった事では無く、特に在日コリアンの方や朝鮮半島出身者の方への差別は昔から今日までずっと続いています。

韓流ドラマにアイドル達、グルメに化粧品と夢中になっているこの国の裏で。

そしてヘイトや差別、人権無視等その様な行為や扱いをする人(官民問わず)は、結局自分に跳ね返って苦しみや不幸ばかり増やし続ける事になります。

その様な行為をする人は、脳を使わない哀れな存在で、心の安息は来ないでしょう。

この世に人間の上下や優劣はありませんし、あってはならないのです。

同じ人間同士として、交流したいものです。

 

外国人と暮らす事⦅幸せ⦆(3)に続く

 

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外国人と暮らす事⦅マニラ・ハイツ⦆(1)

私の知り合い、友人達は馬鹿?が多い(笑)

勿論、悪い意味ではないが、知り合い親交が続いている人達の多くが、フィリピンパブで知り合った、お客さん同士という関係なのです。

同じフィリピンというキーワード以外は、年齢も経歴もみんな全く違っている人達です。

そして、もう一つ共通しているのが、バカじゃないの?って言葉を掛けたくなるような人達なのです。

もうみんないい年なのですが、少年の様な心を持ち続けている人達なのです。

 

勿論犯罪等を起す人達という事ではありませんが、不倫や隠し子なんて事も。

それでも、子供達にはフォローをちゃんとしていて(良し悪しは別として)、悲壮感も感じさせない輩もいます。

違う職種だからこそ、その人ならではの経験を含む色々な話を聞く事が出来るのが楽しみでもあり、勉強にもなってきました。

 

フィリピン人の妻と結婚する為に、フィリピンに初めて行った時の話ですが、以前から友人が「フィリピンに来た時は連絡してくれ」と聞いていたので早速連絡を取りました。

彼もまた、日本のフィリピンパブでお客さんとして来ていた一人です。

待ち合わせの場所で妻と一緒に待っていると、やたらでかい車が止まり、彼が声を掛けてきました。

どんな職業でどんな仕事をしていたのか、いまだに解らないのですが(笑)

運転手付きの車に二人で乗り込み「お祝いにいい店に連れて行ってあげる」と彼。

着いたお店はなんと、でかいホールがある所でした。

常連さんだったのでしょう。まるでVIPの様に案内され、いざ中へ

暗がりの中テーブルに案内され座ると、ステージでは裸の女性達20人ぐらいが踊っているではありませんか!思わず彼に「あの~オレ結婚するんだけど」と。

勿論妻もキョトンとした目で、ステージの女の子を眺めていました。

席に着くと彼がすべてオーダーしてくれていて飲み物が運ばれてきました。

するとボーイの様な人が私達の後ろに立っているのです。

そして肩をもみだしました。彼は「サービスだからいいんだよ」っとニコリ!

現地の言葉、タガログ語もペラペラな彼の、彼らしいお祝いをしてくれたのです。

料金もかなり高かったと記憶していますが、支払いは私達が知らないまま済ましており、一切お金を受け取ってくれなかった彼。

でっかい高級車で消えていきました。

 

今の集合住宅〇〇ハイツに引っ越してきたのは、フィリピンパブに通っていたフィリピンパブベテランの人(私と妻の共通の友人)が、このハイツに引っ越ししてきたことからでした。

彼がキッカケで、ハイツにに空きがあるので引っ越しを私に勧めてきたのです。

敷金礼金0円で更新料も無しという事と、少し高い家賃だったのですが、東日本大震災で、少し傾いていた木造アパートでの今後の生活を考え、決意し引っ越しを決めました。

大家さんは以前、リスクがある外国人の入居を断っていたそうですが、大家さんと親しかったベテランさんの仲介でOKになったのです。

外国人としては妻が初めての入居でした。

 

私の妻の明るい性格もあり、大家さんとも親交するようになって、次第にフィリピン人(外国人)に対する考えが変わって本当に優しく接してくれています。

入居する一カ月前から準備期間として部屋を無料で開けてくれたので、チョットずつ荷物を運べ、引っ越し費用もほとんどかかりませんでした。

まだ子供が小さい時は誕生日の値段が張るプレゼントをして頂いたり、建設会社の大家さんという事もあり、様々な家のトラブルも全て即刻対処してくれたりと、一見不愛想な人ですが、冗談には冗談で返してくれる優しい人なのです。

妻をキッカケに空き部屋がどんどん埋まりました。

というより、開けばすぐ埋まるのです。

妻の伝手(つて)で、部屋を探しているフィリピン人達が引っ越しをしてきたのです。

上の階に住んでいる、一人暮らしの日本人男性は、妻がたまに働くフィリピンパブのお客さんですし、その横はそのパブで働いているフィリピン人男性といった具合。

今では〇〇ハイツでは無く、マニラハイツと呼んでいるぐらい多くのフィリピン人が住んでいます。

3Fの日本人の夫、Hさんとフィリピン人妻は入居の際、リフォームというかリノベーションぐらいの勢いで、部屋を自費200万掛けて改装しました。(勿論、普通は大家さんがやる事)鉄筋構造のハイツなので、壁を取り除いたり、ドアやキッチンを自分好みのものに変え、我が家とは全然違う間取りで、入った時は同じハイツなのか?とビックリするぐらいです。

借家に自費で、しかも大金をはたいて改装するHさんの馬鹿さ加減が爽快で、それをOKとする大家さんにもビックリしますが、何よりHさんの人柄の良さが、私達にもいい影響を与えてくれています。

このハイツは、大家さんが入居する前に希望を聞いてくれ、ある程度改装(部屋の数や壁の有無)をしてくれるビックリするようなところで、ハイツ内のそれぞれの部屋の間取りや壁紙はみんな違うのです。

最近も妻と私の友人のフィリピン人カップルが引っ越しをしてきましたが、TVを壁掛けにすると部屋が広くなると大家さん自ら、彼らと一緒にホームセンターに取付金具を買いに行き、取り付けていました。

ちなみに、妻の希望で我が家は玄関横に、靴入れの小さな物置を作ってもらいました。

大家さんが妻に「シャンデリア付けたい?」とか「壁を取って、大きな部屋にする?」と聞いてくるのにもビックリしました。(勿論、無料です)

とりあえず、「お金を払うのでインターフォンをつけて欲しい」と頼むと、裏の大家さんの建設会社の人がすぐ来てくれ、すぐ設置して「お金はいらないから」と言って帰って行きました。

私達の部屋は一階の端にあるので、庭があるのですが、隣の一人暮らしのフィリピン女性の庭は、花壇にテーブル、パラソルと、大家さんが作り変え、全く違う雰囲気を出しています。

またエアコンをつける際、大家さんに「穴を開けたいのですがいいですか?」と聞くと、「何処でも、好きなだけ穴をあけていいよ」との答え。

長年、借家暮らしで転々としてきた私ですが、こんな所は初めてです。(笑)

私の家族と同じ、妻がフィリピン人で子供がいる家庭の友人も沢山います。

子供は当然ハーフという事で、中にはいじめにあったり、悪い方向に行ってしまったりと決して平穏とはいかない生活の人達もいますが、お互いに情報を出し合い助け合いながら生活しています。

外国人が、日本で生きていく上で情報はとても大切なツールになります。

同じ国の仲間がネットワークを作り、情報共有をしているのですが、その力は私が感じている以上に威力があります。

どうしたらそんな情報がと思う事も沢山あり、同じ国のネットワークの凄さにいつも驚かされます。

 

妻が外国人である事で、私自身の考え方にも大きな影響を与えています。

フィリピンは、貧しい国でこれといった産業も無く、医療や教育もお金次第で、ほとんどの人達はお互いに助け合って、その日暮らしの様な生活をしているのです。

その様な国内事情を彼女から聞く度に「日本ってまだまだマシな国だなぁ」とつくづく思いますし、逆に昔の日本の様に、家族を大切にし、隣人同士助け合う習慣が残っている事がうらやましくもあります。

長く住んではいますが、難しい漢字やお役所が書くような文章はなかなか理解できないので、私のサポートをとても喜んでくれます。

例えば、料理レシピに出てくる「薄力粉」「片栗粉」は、「なんて書いてある?」と何度も質問するので、私自身が使い方や、種類を覚えるようになっていましたし、外国籍ならではの諸々の手続きも覚え、同じような人達にアドバイスも出来るようになりました。

そして何より一番助かったのは、「ケセラセラ」「Let It Be」という彼女の言葉です。

金銭的な事や仕事、病気等のピンチの時に「明日は明日。成すがまま。何とかなるから」という前向きな彼女に何度も助けられた事です。

 

 

彼女は子供時代から裕福ではなく決して幸せとは言えない生活をしてきました。

家計を助ける為のゴミ拾いから始まり、ビニール袋売り、貧困にお父さんの博打、飲酒が追い打ちおかける悲惨な環境。

進学を諦め、元恋人による暴力や片目の見えない生まれた子供の事、両親を含む兄弟の進学の為、日本にいく事を決め頑張ってきたことなど苦労の連続であったにもかかわらず、悲観することなく常に「何とかなる」という言葉を支えに今日まで生きてきた彼女の言葉は裏打ちがあり、心の底まで響くのです。

勿論、喧嘩もたまにしますが、歳が13年も離れている事も関係あるとは思いますが、次の日に引きずった事はありません。

彼女の間違った日本語を聞くと、可愛らしくて腹も立たなくなるのです。(笑)

 

日本は観光や仕事でのビザは比較的簡単に取れますが、特にアジア圏の友人や家族を呼ぶ際はかなり面倒くさい作業が必要で、呼べたとしてもビザ延長は大変ハードルが高いのが実情です。

もう時効ですが、偽装結婚した友人や不法滞在の友人もいました。

その理由は母国にいる家族を助ける為です。

考えると解るのですが、その裏には必ず金儲けをたくらみ弱みに付け込む日本人がいるという事です。

ブローカーや悪質な業者や学校、偽装に加担する日本人に対し、もっと厳しく取り締まる事が本来の姿であるにも関わらず、この国は、外国人は何かをするかもしれないからしっかりと管理をしなければいけないという間違った観点から動いているのです。

 

冒頭、家の話を書いたのも外国人にとって家を借りる事はハードルが高いのです。

特にアジア系の人達は大変苦労します。

以前住んでいた借家の管理をしていた不動産屋の人は私に「外国人の友人は入れないでくれ」と言われました。

何故かと聞くと「外国人はうるさいから」と。

また外国人だけでは貸さない事も言われました。

例え大家さんが貸すとなっても、不動産側は保証人は日本人でないとダメとか。

理由はうるさいの他、いつの間にかいなくなり家賃を踏み倒すとか、ゴミを分別しない等沢山の理由を並べていましたが、日本人でも同じことをする人は沢山います。

未だに夜逃げ専門引っ越し屋が存在しているし、近所づきあいでもめている所は数多く、殺人事件まで起きている事からも解ります。

正に偏見でしかありません。

昔はちらほら見かけるくらいでしたが、最近3Kと言われる職種で働く外国人労働者をよく街中で見かけるようになりました。

その職種は建築現場や除草作業、解体作業や介護やベッドメイキング、ゴミ収集に新聞配達等多岐にわたり、私達の生活の基盤になる仕事に従事してくれています。

その働きぶりは日本人以上で、多くの人達は真面目に取り組んでいる方々ばかりです。

政府はドライバー不足も外国人に助けてもらう様な政策を打ち出していますが、単に労働力としか見ていない私達一般人も多く、前述の様な発想しか出来ない情けない受け入れ国となっているのが現実です。

円安も進む今、日本に活路を求め来日する人達は今後少なくなるでしょう。

まして、日本人の嫌う職業や賃金、差別や待遇の悪さが拍車をかけます。

結局、彼らの事を単に労働力としてしか見ていない政策や日本人の外国人に対する今までの感覚のままでいると、そのツケを払わせられるのは私達なのです。

 

外国人と暮らす事(2)に続く

 

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決断

もしあなたが分岐点に立ったとしたら、 何を基準に道を選ぶ?

誰かのあとに、付いていく?立ち止まって相談?

その時点で、もしかしたら答えは決まっているのでは?

そう……大抵答えは決まっていて、ただ裏付けが欲しいからだけ⁉

起点、中間点、終点。

大切なのは、その時点ではなく、点と点の間、すなわち過程にあります。

友と語らい、学び合い、師を持ち、本を読み、多くの色々な経験をする。

そして疑問を常にもつ。

 

多くのものを得ようとすると、多くのものを失うことになる。

手に持てるものは自ずと限られている。

言い訳の理由を考える時間はたっぷりある。

だから後回しでいい。

 

いつでも相談できる人がいる、親身になって自分の事のように動いてくれる人と出会い、良いと思う方向へと舵を切る事ができたならとても幸せで恵まれているでしょう。

しかし時に人は「何かをしなさい」「こうあるべきだ」「もっと人生について考えなさい」「この先どうなると思っているの」色々な言葉を投げかけてきます。

「聞くな!」とは一概に言えませんが、その人の価値観で話している場合が多い事に注意して下さい。

あなただけが、あなた自身の責任を取ることが出来るからです。

あなたの代わり、コピーを自身の中に作って決断させてはいけません。

見栄や格好付けの余計な仮面をつけたあなたが判断しても、ロクな事にはならないからです

すなわち、責任の所在の明確化です。

誰でも、どんな些細な決断であっても迷います。

相談するのも良いでしょうし、色々調べる事も大切です。

しかし、誰もあなたの心の中までは介入できません。あなたが決めるのです。

とても勇気が必要かもしれません。

その時に下した決断は、良いか、悪いかは後になって解る事です。

たとえ悪い結果になったとしても、大切な事は今現在であり、その事がこれからの先に繋がっていくからです。

「あなた自身が決めた」という事を忘れないで下さい。

そして責任は誰かでも無く、他ならぬ自身にあるという事です。

 

「あの時こうしていれば」では前へは進めません。

後悔しても、元の時間には戻れません。

自分で決めたという裏打ちがあれば、方向転換や修正は、教訓となって、次につながっていきます。

誰かのせいにしなかったからです。

その為にも普段からの備え、「だろう」ではなく「もしかしたら」の思考でいる事がとても大切です。

自分に決定権がある。それはとても素晴らしいことで、この世界にはそれさえも出来ない人達が大勢います。

圧政下にある国の人々や、監視社会、独裁国家や軍事政権下の人達など、自分の選択権を行使出来ない国が多く存在しています。

また、伝統や習慣、風習や宗教で選択の余地が無い人や、そもそも選択する事すら知らない人達が世界には大勢います。

だからこそ、その権利を放棄しないで下さい。

 

選択は生きていく上で何度も迫られます。

人間関係においても、社会生活を営む上でも大きな選択を迫られる事があるでしょう。

すなわち進路、仕事、結婚と将来を決める大切な岐路が誰にでもやってきます。

その際、情報を出来るだけ集めようとするでしょう。

周りの反応もそのうちの一つです。

自分の判断が正しいのか否か、自分を納得させるための材料です。

人に相談する場合、そのほとんどが既に結論が出ている場合が多く、決断を正当化する為の行為でしょう。

自分の事は自分が一番解っています。

どんな人間なのか?性格や思考パターンと長年自分と付き合ったきた訳ですから。

 

私も選択に迫られる事が多くありました。

特に仕事選びに関しては、40代後半から2、3年おきに倒産やパワハラで職を変える場面が訪れ、面接はのべ30回以上受けてきました。

振り返ると、賃金や心身共に満足できた会社は一社もありませんでした。

自分に合うであろう会社は年齢を理由に断られ、数少ない会社からの選択で、逆にこちらからは選べない状況が多くありました。

やはり現実は厳しく、年齢が大きく選択に影響する社会に生きている事と、歳を重ねるにつれ色々な自分とは直接関係のない問題が次から次へと出てくる事です。

それは、親の介護であったり、家族の金銭的な事であったり、勿論体力の事もあるでしょう。

「あきらめてはダメ」といくつになっても挑戦出来ると世間は言いますが、そんな人はごく一部の人達です。

出来無いとはいえませんが、実現に至るまでは様々な要因、例えば若くからやってきたような得意とする事や、様々な資格、金銭的や生活面の環境が整っていて尚且つ、よほどのチャンスや人との出会いに恵まれない限りかなりハードルは高いと言えます。

言い換えれば、若い時の時間を自分への投資の時間に少しでも使う事が後になって大変有効になるという現実があり、頭の柔らかいうちに出来るだけ経験や資格を取り、備えておくのも将来の決断の選択肢が増える事にも繋がるでしょう。

やはり若さは決断するにおいて、大きな武器になる事は間違いありません。

それは気持ちの上でやり直しが出来るといった根拠のない(未来の事は分からない)良い意味での自信や意欲が後押ししてくれるからでしょう。

ただ思っているほど若さを生かせる時間は無い事も付け加えておきます。

私の経験からも、出来るだけ若いうちに資格や能力を身に付ける自分への投資をして下さい。

情報を集める事も大切ですが、気を付けなければいけないのは人間は自分にとって有利な情報をより多く集めようとします。

逆に不利になる事や都合の悪い事は避けて、正しい判断を鈍らせる事が多いのです。

ただやってみないと分からない事は躊躇せず一歩踏み出すべきでしょう。

結果はどうあれ、経験というお金には代えられないモノを得る事が出来るはずです。

恋愛も同じ事で、夜な夜な一人で押し問答していても何も変わりません。

 

私の周りには必ずと言ってよいほど、過去の栄光や成功体験を話す人がいました。

今の自分は本当ではなくもっと上、すなわち「今の私は価値の有る人間だ」と言わんばかりの人です。

過去を引きずって、今の自分を納得させているのかもしれません。

残念ながら過去にすがればすがるほど、自身の世界を狭めてしまいます。

その様な人の共通点は、意外と現状維持が優先で新しい事を取り入れる事、環境が変わる事を嫌がります。

人間は、歳と共に環境も含め変化を好まなくなってしまいます。

いつも同じ事をする毎日に不満を抱きながらも、いざ環境が変わるとなると順応できるかどうか不安になり、新しい選択する事を避けようとします。

勿論、現状維持も選択の一つですが、愚痴りながらでは意味がありません。

ただ、子育てや貧困、一人親世帯など、個々に事情があり選択肢が無い事もあります。

職種にしても、年齢や経験、資格など様々な選択肢を狭める壁があり、選択さえ難しい場合もあります。

その様な場合、例えば子供や夢、趣味、晩酌?と生きがいとなるものがあれば、頑張れるのも事実です。

大切なのは、自分が幸せであるという実感です。

すなわち、期待も込めて幸せになろうという気持ちの問題で、幸せ自体にこだわる事ではありません。

人によっても幸せの定義が違い、ほとんどの人が幸せを感じる力が無いまま、まるで欲求不満の様に次から次へと追い求めています。

地位やお金で。

現状に満足して、幸せな時間を過ごしているならそれはそれでも良い事ですし、今を良しとしないのであれば変えるべきです。

そう新たな選択をすべきであり、何がしら幸せにつながる糸口になるものを見つける事が出来るかもしれません。

誰もが問題を抱え生きているのです。

自ら行動しないと何も変わりません。

沢山の情報が溢れ、選択する道も増えてきた現代。

忘れがちなのが、右から左へ流してしまう危険です。

すなわち受け取った情報を、自分の頭で反芻せず、疑問に思う事をしない事です。

これが選択時にとっては脳の悪い習慣として大きなマイナスになります。

情報を集めて良し悪しに関わらず、均等にバランスよく脳にインプットし、考え、疑問をそのままにしない癖を持ち持ち続けるかが、選択時の判断や脳の劣化を防ぐ大きなポイントになります。

お金が絡む事は特に注意が必要です。

「必ず儲かる」「元金保証」等、特にお金にまつわる話は、利益を先取りしたような心持になってしまいます。

出来るだけリスクをがあるのかどうか、冷静に考え即断はすべきではありません。

出来れば2~3日寝かしておくのも良い方法だと思います。

簡単にお金儲けができる話はウソという前提で考えなければ、取り返しの出来ない事になるでしょう。

私の知人は半年前に持ち家を売り払い、450万でマンションを購入しました。

仲介業者は某有名企業でしたが、更地にする条件で事を進め、後から多額の処分費を請求され嘆いていました。

あくまでも私が聞いた話は知人からの一方通行の事ですが、処分費用がいかにも水増しされているようでした。

知人が「信用していたのに」と見積金額を大幅に超えた請求書を見ながら面倒くさいこともあり払ったという事です。

実際、私が産廃の仕事をしていたので計算してみると80万以上安くできる案件でした。

 

決断はその大きさに限らず誰にでも訪れます。

それは前もって分かる事から、即決めなければいけない事まで多種、多岐に及びます。

日頃から決断力を鍛え、小さな決断を積み重ねる事でリスクを最小限に出来るでしょう。

決断力、それは想像力と常に疑問を持ち考えるという事につきます。

決断する事は新しい一歩になりますが、情報を読み解く力が重要になる事は忘れてはいけません。

そして結果の良し悪しは決して人のせいにしてはいけないのです。

苦しい時

辛い時

本当の自分に会える

留まるか

前に進むか

後退するか

その勇気を伴う行動に差は無い

ただ

立っているか

座り込むかの差は大きい

 

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何の為に生きるのか⦅苦⦆(2)

このブログで人生は「苦」であると書いています。

では一体「苦」とは何のことなのでしょうか?

・苦痛・苦悩・労苦・苦戦・苦手・苦悶・苦情等など沢山の苦の付く言葉があります。

精神的なものや肉体的なものと、また両者が重なるものまで、生きている中で何度も味わうものです。

仏教では四苦と言われる

・生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の4つと

愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを合わせて八苦となり、四苦八苦という言葉が生まれました。

 

一方、キリスト教では、私的解釈となるので恐縮ですが「苦」は神の存在を認め、苦によって持たされた慰めを知り、結果自分だけでなく隣人を愛せるようになる為とし、それが人に「安息」をもたらすという事になっているのです。

よく、「災害や戦争で神がいるのに何もしないのは何故か?」という事を考える事があると思いますが、上記の様な考え方ですから、個々にもたされた苦によって安息を得る事となるので、神が何か救う様な奇跡でも起こす様な事はそもそも起きません。

すなわち苦は誰にでも起き、それが気付きとなるという事です。

 

いずれにせよ、宗教でも「苦」は生まれた時から隣り合わせの様に存在している事を前提としていて、すなわち楽な人生を送ろうとする事自体、不可能と言っても良いでしょう。

そもそも生きる事自体、常にエネルギーを消費し続け、体に負荷(苦)をかけています。

その為には元となる食べ物を得なくては体は維持できないし、脳も働かず子育てや災害からも身を守る事さえ不可能です。

現代社会は当然のことながら仕事をし、対価としてお金を得て食料を確保しています。

自給自足で賄う事が出来たとしても、仙人でない限り?何がしらお金が必要になります。

 

貧困世帯も増え、世界的にも飢餓が進む状況の中、満足に食料を手に出来ない人達にとっては、大きな「苦」となっている現代。

要するに人間には様々な「欲」があり、生存や種の存続の為の必要最小限の「欲」ならば、そして自然に逆らわない、ただ受け入れる様な生活ならば、「苦」も受け入れ易いともいえます。

それは、病気や死に対しても同じで、医療が進んでいない頃であれば受け入れる気持ちが今とは違っていたでしょう。

ところが、前述に記した遥か昔から「苦」とされたもの以外に、先ほどの「欲」が次々と現れ、「苦」の元を作り出しています。

科学技術や医療の発達により、特に先進国では長生きするのが当たり前のようになりました。

例えばペットである犬や猫もエサの品質が良くなり、常に人間が見守っているお陰で平均寿命が大幅に伸び、短命であった頃、ほとんど話題にもならなかった人間の様に肥満や高血圧や癌等にかかるようになったのです。

これもまた良し悪しは別として飼い主やペットにとって苦とは何かを考えさせられる例でしょう。

 

薬や機械による延命治療が正しいのかは議論の分かれるところですが、単に長寿国として喜べない側面でもあり、緩和ケアもかなり進みましたが、本人が望む望まないは別として痛みなど苦しみながらの延命も大きな現代医療の課題であるのは確かです。

前述の仏教でいう・老・病・死の苦が長寿や医療発達の産物として一度に訪れる事になる可能性も高くなっています。

世の中が便利になればなるほど生活の質も上がり、それに伴って様々な「欲」も増えていきます。

欲は満たされない事で苦を作り出していきます。

平均寿命も延び、生活スタイルや家族の在り方も変わり、更に上を目指して人々は様々なサービスを受け快適さを実現させる為に欲求を満たそうとしています。

例えば昔は黒電話で、必要性の高い時以外は余り使われませんでした。

勿論今と比べ遥かに不便な時代だったのですが、今の様にスマートフォンに振り回される事もなく、それなりに社会は回っていました。

先日も電車に乗ると90%以上の人達がスマートフォンを見ながら電車に揺られていましたが、窓から見える景色を楽しむ事無くひたすら画面ばかりを見ている人達を見て、時間の使い方もどんどん変わり、情報に溢れる良くも悪くもそんな社会になってしまったと改めて感じてしまいました。

情報のほとんどが欲を搔き立てる宣伝や噂ばかり流されています。

誰かと比べて自分はどうなのかと比較させられる様な、考えさせられる様な情報の多さは加速し続けています。

満たされぬ欲求と、現実の狭間を多くの欲による苦が漂っている様に見え、人類の進歩とは何か?考えさせられました。

 

「苦」は自然からもたらされる災害ならば、納得まではいかないにせよあきらめもつきますが、例えば福島原発事故や、不法投棄による土砂流失、交通事故など人災であったり、また人間観関係であったりすると中々後を引きずってしまいます。

情報もしかりで、必要以上のものを求めさせられ、例えば老化は悪い、もしくは年よりも若く見えるといった事が良いと印象操作されています。

また外見の印象が全てだと言い切る専門家もいるほどです。

その結果欲求が増え、背負う苦も多くなります。

一時話題になった宗教問題も、先祖の負を自分が背負っていると思い込ませる形で、多額の献金をさせられる、いわば詐欺の様な事も死生観や血の繋がりといった誰にでもある当たり前の事を、まるで罪人の様に仕立てられ、苦を背負わせるのです。

そもそもブログで記していますが、死後の世界なんてありません。

もしあるとしたら、そこら中、霊魂や幽霊、怨念や悪魔が漂っていてもおかしくないはずです。

まして、人類は何がしら元をたどれば繋がっているのですから、先祖をさかのぼる事も滑稽ですし、責任は死後で清算され、後に託されるわけもありません。

死をもってその人生は完結し最後となるからです。

例えば幼い頃の虐待や性被害、DV等を受けた人が、大人になり子供を授かったとしても、誰もが同じ事を我が子に繰り返す事はありません。

私自身も、精神的にも、また叩かれた記憶もPTSDの様に残ってはいますが、反面教師として捉えています。

自分の未来を早々に決めつけてしまう事こそが、可能性を殺してしまうのです。

 

苦から逃れる事は誰にも出来ません。

どんなにお金を持っていても、権力を持っていても、持てば持つほど荷は重くなるのです。

では苦から始まり、苦に終わる人生をどう考えれば良いのでしょうか?

以前にも書いたアインシュタインの言葉にヒントがあります。

「There are only two ways to live your life.One is as though nothing is a miracle.

The other is as though everything is a miracle.」

『人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。

もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。』

そして

I believe that a simple and unassuming manner of life is best for everyone, best both for the body and the mind.」

『シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。』

 

この言葉の裏には、自ら必要以上の「苦」の元を作り出している事に気付き、生きている事自体を無駄にしない様にと言っているのです。

そして「苦」があるからこそ少し顔を覗かせる幸せが輝き、その幸せを見つける力を身に付ける事の大切さを語っているのです。

だからこそ、謙虚でシンプルがいいと。

 

人間はひとりでは生きていけません。

集団で生き延びる事を選択したからです。

ですから人間関係は良くも悪くも発生し、時として「苦」をもたらす事が多くあります。

家族、親族関係から、近所、学校や仕事と、その人間関係に悩ませられる事は多々あり、最悪病気にもなってしまいます。

これは、身体ではなく心の苦であり、やがて身体にも不調をきたします。

威圧的な言葉や暴力的な言動、俗にいう上から目線や差別とキリがないほど、節操のない人間がハードルの様に立ちふさがる世の中です。

ただでさえ、生きる事が苦であるのに、その苦を更に増やす輩が多くいるのが現実でしょう。

私が通院している精神科のお医者さんが言われていましたが「その様な人達はそんな生き方でしか出来ない可哀そうな人達です。関わらない事が一番ですが耐える必要もないと思います。時にはガツンと言うか、遠ざかればいいと。何故ならその様な人がいる組織はろくでもない組織だからいても意味が無いのです。」と話されていました。

勿論、仕事など生活の基盤となる所ではおいそれと辞める事は勇気がいる事ですし、家族がいればなおさらです。

生活の基盤を失うのですから躊躇し「私が我慢すれば」と考えがちです。

ただ、私の経験からも言えるのですが、ろくでもない人がいる組織は、結局悪い方向にしか進め無いのです。

類は類を呼ぶとのことわざもある様に、傷のなめ合いをしている人と一緒にいる必要は無いのです。

まして傍観する事は更に自分を追い込む事にもなり、結局余計な苦を背負う事になります。

彼らは、一時の優越感を得る為に大きな代償を払っている、正に苦の連続を選択した悲しい人達なのです。

自分までそのろくでもない人間になっては、苦の中にある幸せなど見つけられるはずがありません。

ですから出来る限り離れるか、その場を去って新しい人生を迎え、苦の中にある幸せを感じ取れる人間により一層磨きをかける方が、自分も含め家族や友人達を今度は自分が幸せに出来る立場の人間になれるのです。

その為には、誰かに助けを求める事を躊躇せず行動する事であり、逆に自分に自信が付く事になります。

人間は助け合いながら生き延びてきたのですから、必ず良い人との出会いがあるのです。

その為には一歩踏み出す勇気を、どうせ一度きりの人生ですから何も卑下する事はありません。

 

人生は「苦」

そして苦の中にこそ、まるで宝探しの様に幸せが埋もれています。

見つけられるか?見落とすかは自分次第であり、決して他人と全く同じ想いは共有できないものです。

すなわち、他人のマネをしたところで同じ想いを持つ事は出来ません。

ただ共感は、唯一与え、受け止められる人間の素晴らしい能力であり、人間としての優しさや謙虚さが共感する事で心の隙間を埋めてくれるのです。

生きる事

死んでいく事

それは問いなのか

答えなのか

交差する思考を解く鍵は

未来の手に委ねられ

そして

託した記憶の中で開けられる

 

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何の為に生きるのか(1)

前回、生まれた意味の事を記しましたが、では私達は何の為に生きるのでしょうか?

身体は出来る限り意志とは関係なく生きようと必死で頑張ります。

それは、人間だけでなく生物みなその様な仕組みで、死は遺伝情報を受け渡す代償として訪れます。

身近な昆虫である「蟻」

公園で蟻の動きを見ていると、黙々と与えられた事をこなしていて「何で俺だけこんな働いているんだ?」と愚痴も聞こえてきそうですが、実際には擬人化しているだけで、蟻たちにとってはどうでもいい事なのでしょう。

働き蟻はメスですが、卵を産むことは出来ません。

が、巣作りやえさの確保など重要な役割を担い、1~2年で寿命が来ます。

羽のついた蟻は、オスとメスがいますが、メスは女王蟻になり、長いと10年も卵を産み続けますが、オスは交尾後1年ほどで死んでしまいます。

ですから子孫を残す、遺伝子情報の受け渡しは直接的なモノばかりでなく、その目的を達成する為の様々な役割を持つ多くの個体の助けによって達成できるという事です。

 

人間も子供を守り育てるのは親だけでは成り立ちません。

社会という大きな支えとその社会を持続する為の様々な人達がいて、子育ても安心して出来ます。

生れながら親がいない子供や保護者が亡くなってしまった子供でも社会全体の仕組みや、その中での色々な人の係わりや支えによって大人へと成長していきます。

すなわち、子供に対して誰もが親であり保護者でもあります。

 

昨今、子供の安全を優先するあまり公園の遊具の撤去や殴り合いなどケンカの防止、自然とのふれあいの減少で、実体験をする事なく大人になっていきます。

良くも悪くも大人の先回りの処置の行き過ぎと言っても良いかも知れません。

また子供の声がうるさいとか、危険と騒音問題でのボール遊び禁止、近所の監視の目も少なり、子供達の自由度は大人の裁量によってかなり制限されていますし、ゲームやスマートフォンに時間を費やす子供も多く、五感をフルに使って成長する機会も減る一方です。

これらも、本当に子供達の為かというとそうでもなく、大人の都合、すなわち扱い易く言う事を聞く出しゃばらない子供達を管理する立場で生み出し、大人同士のコミュニケーション能力の低下で、争いを未然に避ける為の処置がますます子供達の精神を疲弊させてしまっている原因にもなっています。

 

本題の「何の為に生きるのか」

人類の存続の為です。

例え人類が滅んでも、他の生物は巧みに生き残るでしょう。

しかし人間は、一人では生きていけない動物であり、裏を返せば力を合わせ、知恵を出し合う事で生き残られる可能性があります。

憲法や法律があるのも、規律やルールを守る事も社会全体で生き延びていく上で必要だから存在していて、守らない者は罰せられる事で社会の維持やもっと大きく言えば地球という母体を守る為でもあります。

ただ個人個人、そんな事を意識しながら生活はしていません。

日々の子育てや生活、様々な事で時間に追われ、貧困や人間関係に悩まされ、老後やお金の心配をしているのが現実でしょう。

そんな時「何の為に私は生きているのか?」と疑問に思う事は当たり前のことです。

子孫を残す為の様々な取り組みを担っている実感が湧く事はほとんどないかも知れません。

まして歳をとると、子供達への関心の薄れていくものです。

これは、視野が狭くなってしまう事による要因と想像力の無さからどうしても身近な事ばかりに気を取られ、大きな役割の一部に組み込まれている事に気付けないからでしょう。

何もプロジェクトを立ち上げろとか運動を起せという意味ではなく、ほんの小さな事、例えば子供の手本になる事や誰かの手助け、勿論自分自身の生きる力をつける事等、出来る事をやるだけです。

それには視野を広める、すなわち想像力を働かせる事に尽きます。

人間は一人では生きていけないのですから、助け合う以外に生き延びてはいけません。

また、人間に適した環境を維持しなくては遠い将来ではなく、もしかしたら明日にでも人類が滅んでしまうかもしれないのです。

環境破壊や戦争は人間が作り出す最悪の滅亡のシナリオです。

勿論自然災害で命を落とす方も大勢いますが、その災害の原因の一部を私達人間が起こしている事にも気が付かなければいけません。

どれもが繋がっている事であり、だからこそ人間の英知を結集して乗り越えていかなければならないのです。

それは、前述の例でいうと、あなたが子供に優しくしたり、危ない事をやっていたら叱ったり、また大人として生き方を見せる事で、その子供が将来、人類を救う人間になる事だってあり得る事です。

そして何より相手の心を和ませられる事で、自分も幸せな心持でいられます。

誰でも、助けてもらった時や助けられると嬉しいものです。

これはわざと自分で作り出している感情ではなく自然に湧き出る感情ですから、そうあるべきだという人間に備わっている能力なのです。

 

誰かをイジメたり苦しめる感情は、生まれた時から持っている訳ではありません。

また攻撃的になったり、すぐ感情的になったりするのは古い脳が元々持っている感情で、新しい脳である前頭葉でコントロール出来るようになっています。

人間は進化でその様な素晴らしい脳を手に入れたのですから、古い脳ばかり使う事は進化の過程で止まったままの状態とも言えるのです。

人間らしさの部分を使わず、短絡的な脳の回路が出来上がってしまうと、人との繋がりという大切な機会も逃してしまう事でしょう。

みんな何か目的を持ち、達成する事を目指しながら生きています。

若いほど、自分の将来像を描き前に向かって進んで行こうとしているでしょう。

その目的はいい暮らしや素敵なパートナーとの出会い、趣味の充実、お金儲け、やりたい仕事に就く事など人の数だけ目標があり、誰もが幸せになる事を願っています。

そしてそれぞれの目標達成自体も個人差があり、幸せと感じる度合いも違います。

ただ、誰もが思い通りに生きられるわけでは無いのも事実です。

辛い事や悲しむ事、落ち込む事だらけです。

何の為に生きるのかは、目標を達成する事でも、個々の幸せを得る為でもありません。

「夢を叶える」「幸せな人生を送る」といった目標はどれをとっても、誰かの手を借り、助けを得ないと実現出来ません。

また、例え思い通りに達成できなくても、生きていく上で必ず誰かの世話になります。

身近な家族や友人だけでなく、社会を支えている人達のお陰で生きていけるからです。

逆もしかりで、あなたが誰かの手助けをする、している事と同じ事です。

生きる事は「苦」である事は何度もこのブログで書いていますが、楽に生きる事からスタートラインを引いてしまうと、つまずいた時になかなか立ち上がることは出来ません。

何故なら、成功者を羨んだり自分の力の無さを悔んだりと次から次へとキリがなく、それがまた生きていく事に対する意欲の消失に繋がってしまう事もあります。

元々「苦」である人生ですから、暖かい誰かの言葉だけで幸せになれるのです。

目標を高く持つ事も、夢を叶える事も悪い事では勿論ありませんが、生れ、何の為生きるのかとは別の事として捉える必要があります。

小さな事でも、自分も含め誰かの為に助け、生きていく事が何の為に生れたかの答えでしょう。

ですから、やりたい事や理想像と混同してはいけないのです

その事ばかりに囚われると本来の意味から逸れ、人生を見失ってしまうからです。

色々な事が人生の中で起き、辛い方が多いのがまた人生です。

ただ、生を受けたならその時点で成功者なのです。

優しい謙虚な人間として生きる事を選ぶ事は勇気もいるし、痛みも伴います。

何故挫折や自己嫌悪、失敗や後悔するのか?

それは優しく謙虚な人間になる為です。

もしその経験のうっぷんを誰かに向けてしまうと水の泡になってしまうでしょう。

責任転嫁という事になってしまうからです。

そして気を付けなければいけないのは、他人の責任にする事ほど簡単で逃げやすいという事です。

そう、優しく謙虚な人間になる事はとても大変な事なのです。

だからこそ目標とし、より高みを目指す事で自身も成長できるのです。

ただ八方美人になる事や、また人に好かれる人間になる事ではありません。

誰からも愛される、好きになってもらう人間になれるわけがありません。

そもそも、相手が関係するような思考では無いからです。

経験と学び、想像力がその手助けをしてくれます。

全て自分に跳ね返ってくる事だからこそ、自らの意志で優しく謙虚な人間でいるのです。

それがまた、良い方向に導いてくれる事になります。

 

世の中、色々な事がどんどん変化し、進歩し続けています。

未だに人を蔑んだり、憎んだり、差別や偏見、権力を持ちたがる人間は、悲しい事に進歩というより後退しているのでしょう。

そしてこれから先、益々彼らは新たなターゲットを見つけ、うっぷん晴らしをするはずです。

言い換えれば無知からくる、一度きりの人生を台無しにしている人達とも言えるのです。

たった一度の人生です。

心穏やかに過ごしていきたいものです。

 

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