心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

決断

もしあなたが分岐点に立ったとしたら、 何を基準に道を選ぶ?

誰かのあとに、付いていく?立ち止まって相談?

その時点で、もしかしたら答えは決まっているのでは?

そう……大抵答えは決まっていて、ただ裏付けが欲しいからだけ⁉

起点、中間点、終点。

大切なのは、その時点ではなく、点と点の間、すなわち過程にあります。

友と語らい、学び合い、師を持ち、本を読み、多くの色々な経験をする。

そして疑問を常にもつ。

 

多くのものを得ようとすると、多くのものを失うことになる。

手に持てるものは自ずと限られている。

言い訳の理由を考える時間はたっぷりある。

だから後回しでいい。

 

いつでも相談できる人がいる、親身になって自分の事のように動いてくれる人と出会い、良いと思う方向へと舵を切る事ができたならとても幸せで恵まれているでしょう。

しかし時に人は「何かをしなさい」「こうあるべきだ」「もっと人生について考えなさい」「この先どうなると思っているの」色々な言葉を投げかけてきます。

「聞くな!」とは一概に言えませんが、その人の価値観で話している場合が多い事に注意して下さい。

あなただけが、あなた自身の責任を取ることが出来るからです。

あなたの代わり、コピーを自身の中に作って決断させてはいけません。

見栄や格好付けの余計な仮面をつけたあなたが判断しても、ロクな事にはならないからです

すなわち、責任の所在の明確化です。

誰でも、どんな些細な決断であっても迷います。

相談するのも良いでしょうし、色々調べる事も大切です。

しかし、誰もあなたの心の中までは介入できません。あなたが決めるのです。

とても勇気が必要かもしれません。

その時に下した決断は、良いか、悪いかは後になって解る事です。

たとえ悪い結果になったとしても、大切な事は今現在であり、その事がこれからの先に繋がっていくからです。

「あなた自身が決めた」という事を忘れないで下さい。

そして責任は誰かでも無く、他ならぬ自身にあるという事です。

 

「あの時こうしていれば」では前へは進めません。

後悔しても、元の時間には戻れません。

自分で決めたという裏打ちがあれば、方向転換や修正は、教訓となって、次につながっていきます。

誰かのせいにしなかったからです。

その為にも普段からの備え、「だろう」ではなく「もしかしたら」の思考でいる事がとても大切です。

自分に決定権がある。それはとても素晴らしいことで、この世界にはそれさえも出来ない人達が大勢います。

圧政下にある国の人々や、監視社会、独裁国家や軍事政権下の人達など、自分の選択権を行使出来ない国が多く存在しています。

また、伝統や習慣、風習や宗教で選択の余地が無い人や、そもそも選択する事すら知らない人達が世界には大勢います。

だからこそ、その権利を放棄しないで下さい。

 

選択は生きていく上で何度も迫られます。

人間関係においても、社会生活を営む上でも大きな選択を迫られる事があるでしょう。

すなわち進路、仕事、結婚と将来を決める大切な岐路が誰にでもやってきます。

その際、情報を出来るだけ集めようとするでしょう。

周りの反応もそのうちの一つです。

自分の判断が正しいのか否か、自分を納得させるための材料です。

人に相談する場合、そのほとんどが既に結論が出ている場合が多く、決断を正当化する為の行為でしょう。

自分の事は自分が一番解っています。

どんな人間なのか?性格や思考パターンと長年自分と付き合ったきた訳ですから。

 

私も選択に迫られる事が多くありました。

特に仕事選びに関しては、40代後半から2、3年おきに倒産やパワハラで職を変える場面が訪れ、面接はのべ30回以上受けてきました。

振り返ると、賃金や心身共に満足できた会社は一社もありませんでした。

自分に合うであろう会社は年齢を理由に断られ、数少ない会社からの選択で、逆にこちらからは選べない状況が多くありました。

やはり現実は厳しく、年齢が大きく選択に影響する社会に生きている事と、歳を重ねるにつれ色々な自分とは直接関係のない問題が次から次へと出てくる事です。

それは、親の介護であったり、家族の金銭的な事であったり、勿論体力の事もあるでしょう。

「あきらめてはダメ」といくつになっても挑戦出来ると世間は言いますが、そんな人はごく一部の人達です。

出来無いとはいえませんが、実現に至るまでは様々な要因、例えば若くからやってきたような得意とする事や、様々な資格、金銭的や生活面の環境が整っていて尚且つ、よほどのチャンスや人との出会いに恵まれない限りかなりハードルは高いと言えます。

言い換えれば、若い時の時間を自分への投資の時間に少しでも使う事が後になって大変有効になるという現実があり、頭の柔らかいうちに出来るだけ経験や資格を取り、備えておくのも将来の決断の選択肢が増える事にも繋がるでしょう。

やはり若さは決断するにおいて、大きな武器になる事は間違いありません。

それは気持ちの上でやり直しが出来るといった根拠のない(未来の事は分からない)良い意味での自信や意欲が後押ししてくれるからでしょう。

ただ思っているほど若さを生かせる時間は無い事も付け加えておきます。

私の経験からも、出来るだけ若いうちに資格や能力を身に付ける自分への投資をして下さい。

情報を集める事も大切ですが、気を付けなければいけないのは人間は自分にとって有利な情報をより多く集めようとします。

逆に不利になる事や都合の悪い事は避けて、正しい判断を鈍らせる事が多いのです。

ただやってみないと分からない事は躊躇せず一歩踏み出すべきでしょう。

結果はどうあれ、経験というお金には代えられないモノを得る事が出来るはずです。

恋愛も同じ事で、夜な夜な一人で押し問答していても何も変わりません。

 

私の周りには必ずと言ってよいほど、過去の栄光や成功体験を話す人がいました。

今の自分は本当ではなくもっと上、すなわち「今の私は価値の有る人間だ」と言わんばかりの人です。

過去を引きずって、今の自分を納得させているのかもしれません。

残念ながら過去にすがればすがるほど、自身の世界を狭めてしまいます。

その様な人の共通点は、意外と現状維持が優先で新しい事を取り入れる事、環境が変わる事を嫌がります。

人間は、歳と共に環境も含め変化を好まなくなってしまいます。

いつも同じ事をする毎日に不満を抱きながらも、いざ環境が変わるとなると順応できるかどうか不安になり、新しい選択する事を避けようとします。

勿論、現状維持も選択の一つですが、愚痴りながらでは意味がありません。

ただ、子育てや貧困、一人親世帯など、個々に事情があり選択肢が無い事もあります。

職種にしても、年齢や経験、資格など様々な選択肢を狭める壁があり、選択さえ難しい場合もあります。

その様な場合、例えば子供や夢、趣味、晩酌?と生きがいとなるものがあれば、頑張れるのも事実です。

大切なのは、自分が幸せであるという実感です。

すなわち、期待も込めて幸せになろうという気持ちの問題で、幸せ自体にこだわる事ではありません。

人によっても幸せの定義が違い、ほとんどの人が幸せを感じる力が無いまま、まるで欲求不満の様に次から次へと追い求めています。

地位やお金で。

現状に満足して、幸せな時間を過ごしているならそれはそれでも良い事ですし、今を良しとしないのであれば変えるべきです。

そう新たな選択をすべきであり、何がしら幸せにつながる糸口になるものを見つける事が出来るかもしれません。

誰もが問題を抱え生きているのです。

自ら行動しないと何も変わりません。

沢山の情報が溢れ、選択する道も増えてきた現代。

忘れがちなのが、右から左へ流してしまう危険です。

すなわち受け取った情報を、自分の頭で反芻せず、疑問に思う事をしない事です。

これが選択時にとっては脳の悪い習慣として大きなマイナスになります。

情報を集めて良し悪しに関わらず、均等にバランスよく脳にインプットし、考え、疑問をそのままにしない癖を持ち持ち続けるかが、選択時の判断や脳の劣化を防ぐ大きなポイントになります。

お金が絡む事は特に注意が必要です。

「必ず儲かる」「元金保証」等、特にお金にまつわる話は、利益を先取りしたような心持になってしまいます。

出来るだけリスクをがあるのかどうか、冷静に考え即断はすべきではありません。

出来れば2~3日寝かしておくのも良い方法だと思います。

簡単にお金儲けができる話はウソという前提で考えなければ、取り返しの出来ない事になるでしょう。

私の知人は半年前に持ち家を売り払い、450万でマンションを購入しました。

仲介業者は某有名企業でしたが、更地にする条件で事を進め、後から多額の処分費を請求され嘆いていました。

あくまでも私が聞いた話は知人からの一方通行の事ですが、処分費用がいかにも水増しされているようでした。

知人が「信用していたのに」と見積金額を大幅に超えた請求書を見ながら面倒くさいこともあり払ったという事です。

実際、私が産廃の仕事をしていたので計算してみると80万以上安くできる案件でした。

 

決断はその大きさに限らず誰にでも訪れます。

それは前もって分かる事から、即決めなければいけない事まで多種、多岐に及びます。

日頃から決断力を鍛え、小さな決断を積み重ねる事でリスクを最小限に出来るでしょう。

決断力、それは想像力と常に疑問を持ち考えるという事につきます。

決断する事は新しい一歩になりますが、情報を読み解く力が重要になる事は忘れてはいけません。

そして結果の良し悪しは決して人のせいにしてはいけないのです。

苦しい時

辛い時

本当の自分に会える

留まるか

前に進むか

後退するか

その勇気を伴う行動に差は無い

ただ

立っているか

座り込むかの差は大きい

 

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何の為に生きるのか⦅苦⦆(2)

このブログで人生は「苦」であると書いています。

では一体「苦」とは何のことなのでしょうか?

・苦痛・苦悩・労苦・苦戦・苦手・苦悶・苦情等など沢山の苦の付く言葉があります。

精神的なものや肉体的なものと、また両者が重なるものまで、生きている中で何度も味わうものです。

仏教では四苦と言われる

・生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の4つと

愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを合わせて八苦となり、四苦八苦という言葉が生まれました。

 

一方、キリスト教では、私的解釈となるので恐縮ですが「苦」は神の存在を認め、苦によって持たされた慰めを知り、結果自分だけでなく隣人を愛せるようになる為とし、それが人に「安息」をもたらすという事になっているのです。

よく、「災害や戦争で神がいるのに何もしないのは何故か?」という事を考える事があると思いますが、上記の様な考え方ですから、個々にもたされた苦によって安息を得る事となるので、神が何か救う様な奇跡でも起こす様な事はそもそも起きません。

すなわち苦は誰にでも起き、それが気付きとなるという事です。

 

いずれにせよ、宗教でも「苦」は生まれた時から隣り合わせの様に存在している事を前提としていて、すなわち楽な人生を送ろうとする事自体、不可能と言っても良いでしょう。

そもそも生きる事自体、常にエネルギーを消費し続け、体に負荷(苦)をかけています。

その為には元となる食べ物を得なくては体は維持できないし、脳も働かず子育てや災害からも身を守る事さえ不可能です。

現代社会は当然のことながら仕事をし、対価としてお金を得て食料を確保しています。

自給自足で賄う事が出来たとしても、仙人でない限り?何がしらお金が必要になります。

 

貧困世帯も増え、世界的にも飢餓が進む状況の中、満足に食料を手に出来ない人達にとっては、大きな「苦」となっている現代。

要するに人間には様々な「欲」があり、生存や種の存続の為の必要最小限の「欲」ならば、そして自然に逆らわない、ただ受け入れる様な生活ならば、「苦」も受け入れ易いともいえます。

それは、病気や死に対しても同じで、医療が進んでいない頃であれば受け入れる気持ちが今とは違っていたでしょう。

ところが、前述に記した遥か昔から「苦」とされたもの以外に、先ほどの「欲」が次々と現れ、「苦」の元を作り出しています。

科学技術や医療の発達により、特に先進国では長生きするのが当たり前のようになりました。

例えばペットである犬や猫もエサの品質が良くなり、常に人間が見守っているお陰で平均寿命が大幅に伸び、短命であった頃、ほとんど話題にもならなかった人間の様に肥満や高血圧や癌等にかかるようになったのです。

これもまた良し悪しは別として飼い主やペットにとって苦とは何かを考えさせられる例でしょう。

 

薬や機械による延命治療が正しいのかは議論の分かれるところですが、単に長寿国として喜べない側面でもあり、緩和ケアもかなり進みましたが、本人が望む望まないは別として痛みなど苦しみながらの延命も大きな現代医療の課題であるのは確かです。

前述の仏教でいう・老・病・死の苦が長寿や医療発達の産物として一度に訪れる事になる可能性も高くなっています。

世の中が便利になればなるほど生活の質も上がり、それに伴って様々な「欲」も増えていきます。

欲は満たされない事で苦を作り出していきます。

平均寿命も延び、生活スタイルや家族の在り方も変わり、更に上を目指して人々は様々なサービスを受け快適さを実現させる為に欲求を満たそうとしています。

例えば昔は黒電話で、必要性の高い時以外は余り使われませんでした。

勿論今と比べ遥かに不便な時代だったのですが、今の様にスマートフォンに振り回される事もなく、それなりに社会は回っていました。

先日も電車に乗ると90%以上の人達がスマートフォンを見ながら電車に揺られていましたが、窓から見える景色を楽しむ事無くひたすら画面ばかりを見ている人達を見て、時間の使い方もどんどん変わり、情報に溢れる良くも悪くもそんな社会になってしまったと改めて感じてしまいました。

情報のほとんどが欲を搔き立てる宣伝や噂ばかり流されています。

誰かと比べて自分はどうなのかと比較させられる様な、考えさせられる様な情報の多さは加速し続けています。

満たされぬ欲求と、現実の狭間を多くの欲による苦が漂っている様に見え、人類の進歩とは何か?考えさせられました。

 

「苦」は自然からもたらされる災害ならば、納得まではいかないにせよあきらめもつきますが、例えば福島原発事故や、不法投棄による土砂流失、交通事故など人災であったり、また人間観関係であったりすると中々後を引きずってしまいます。

情報もしかりで、必要以上のものを求めさせられ、例えば老化は悪い、もしくは年よりも若く見えるといった事が良いと印象操作されています。

また外見の印象が全てだと言い切る専門家もいるほどです。

その結果欲求が増え、背負う苦も多くなります。

一時話題になった宗教問題も、先祖の負を自分が背負っていると思い込ませる形で、多額の献金をさせられる、いわば詐欺の様な事も死生観や血の繋がりといった誰にでもある当たり前の事を、まるで罪人の様に仕立てられ、苦を背負わせるのです。

そもそもブログで記していますが、死後の世界なんてありません。

もしあるとしたら、そこら中、霊魂や幽霊、怨念や悪魔が漂っていてもおかしくないはずです。

まして、人類は何がしら元をたどれば繋がっているのですから、先祖をさかのぼる事も滑稽ですし、責任は死後で清算され、後に託されるわけもありません。

死をもってその人生は完結し最後となるからです。

例えば幼い頃の虐待や性被害、DV等を受けた人が、大人になり子供を授かったとしても、誰もが同じ事を我が子に繰り返す事はありません。

私自身も、精神的にも、また叩かれた記憶もPTSDの様に残ってはいますが、反面教師として捉えています。

自分の未来を早々に決めつけてしまう事こそが、可能性を殺してしまうのです。

 

苦から逃れる事は誰にも出来ません。

どんなにお金を持っていても、権力を持っていても、持てば持つほど荷は重くなるのです。

では苦から始まり、苦に終わる人生をどう考えれば良いのでしょうか?

以前にも書いたアインシュタインの言葉にヒントがあります。

「There are only two ways to live your life.One is as though nothing is a miracle.

The other is as though everything is a miracle.」

『人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。

もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。』

そして

I believe that a simple and unassuming manner of life is best for everyone, best both for the body and the mind.」

『シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。』

 

この言葉の裏には、自ら必要以上の「苦」の元を作り出している事に気付き、生きている事自体を無駄にしない様にと言っているのです。

そして「苦」があるからこそ少し顔を覗かせる幸せが輝き、その幸せを見つける力を身に付ける事の大切さを語っているのです。

だからこそ、謙虚でシンプルがいいと。

 

人間はひとりでは生きていけません。

集団で生き延びる事を選択したからです。

ですから人間関係は良くも悪くも発生し、時として「苦」をもたらす事が多くあります。

家族、親族関係から、近所、学校や仕事と、その人間関係に悩ませられる事は多々あり、最悪病気にもなってしまいます。

これは、身体ではなく心の苦であり、やがて身体にも不調をきたします。

威圧的な言葉や暴力的な言動、俗にいう上から目線や差別とキリがないほど、節操のない人間がハードルの様に立ちふさがる世の中です。

ただでさえ、生きる事が苦であるのに、その苦を更に増やす輩が多くいるのが現実でしょう。

私が通院している精神科のお医者さんが言われていましたが「その様な人達はそんな生き方でしか出来ない可哀そうな人達です。関わらない事が一番ですが耐える必要もないと思います。時にはガツンと言うか、遠ざかればいいと。何故ならその様な人がいる組織はろくでもない組織だからいても意味が無いのです。」と話されていました。

勿論、仕事など生活の基盤となる所ではおいそれと辞める事は勇気がいる事ですし、家族がいればなおさらです。

生活の基盤を失うのですから躊躇し「私が我慢すれば」と考えがちです。

ただ、私の経験からも言えるのですが、ろくでもない人がいる組織は、結局悪い方向にしか進め無いのです。

類は類を呼ぶとのことわざもある様に、傷のなめ合いをしている人と一緒にいる必要は無いのです。

まして傍観する事は更に自分を追い込む事にもなり、結局余計な苦を背負う事になります。

彼らは、一時の優越感を得る為に大きな代償を払っている、正に苦の連続を選択した悲しい人達なのです。

自分までそのろくでもない人間になっては、苦の中にある幸せなど見つけられるはずがありません。

ですから出来る限り離れるか、その場を去って新しい人生を迎え、苦の中にある幸せを感じ取れる人間により一層磨きをかける方が、自分も含め家族や友人達を今度は自分が幸せに出来る立場の人間になれるのです。

その為には、誰かに助けを求める事を躊躇せず行動する事であり、逆に自分に自信が付く事になります。

人間は助け合いながら生き延びてきたのですから、必ず良い人との出会いがあるのです。

その為には一歩踏み出す勇気を、どうせ一度きりの人生ですから何も卑下する事はありません。

 

人生は「苦」

そして苦の中にこそ、まるで宝探しの様に幸せが埋もれています。

見つけられるか?見落とすかは自分次第であり、決して他人と全く同じ想いは共有できないものです。

すなわち、他人のマネをしたところで同じ想いを持つ事は出来ません。

ただ共感は、唯一与え、受け止められる人間の素晴らしい能力であり、人間としての優しさや謙虚さが共感する事で心の隙間を埋めてくれるのです。

生きる事

死んでいく事

それは問いなのか

答えなのか

交差する思考を解く鍵は

未来の手に委ねられ

そして

託した記憶の中で開けられる

 

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何の為に生きるのか(1)

前回、生まれた意味の事を記しましたが、では私達は何の為に生きるのでしょうか?

身体は出来る限り意志とは関係なく生きようと必死で頑張ります。

それは、人間だけでなく生物みなその様な仕組みで、死は遺伝情報を受け渡す代償として訪れます。

身近な昆虫である「蟻」

公園で蟻の動きを見ていると、黙々と与えられた事をこなしていて「何で俺だけこんな働いているんだ?」と愚痴も聞こえてきそうですが、実際には擬人化しているだけで、蟻たちにとってはどうでもいい事なのでしょう。

働き蟻はメスですが、卵を産むことは出来ません。

が、巣作りやえさの確保など重要な役割を担い、1~2年で寿命が来ます。

羽のついた蟻は、オスとメスがいますが、メスは女王蟻になり、長いと10年も卵を産み続けますが、オスは交尾後1年ほどで死んでしまいます。

ですから子孫を残す、遺伝子情報の受け渡しは直接的なモノばかりでなく、その目的を達成する為の様々な役割を持つ多くの個体の助けによって達成できるという事です。

 

人間も子供を守り育てるのは親だけでは成り立ちません。

社会という大きな支えとその社会を持続する為の様々な人達がいて、子育ても安心して出来ます。

生れながら親がいない子供や保護者が亡くなってしまった子供でも社会全体の仕組みや、その中での色々な人の係わりや支えによって大人へと成長していきます。

すなわち、子供に対して誰もが親であり保護者でもあります。

 

昨今、子供の安全を優先するあまり公園の遊具の撤去や殴り合いなどケンカの防止、自然とのふれあいの減少で、実体験をする事なく大人になっていきます。

良くも悪くも大人の先回りの処置の行き過ぎと言っても良いかも知れません。

また子供の声がうるさいとか、危険と騒音問題でのボール遊び禁止、近所の監視の目も少なり、子供達の自由度は大人の裁量によってかなり制限されていますし、ゲームやスマートフォンに時間を費やす子供も多く、五感をフルに使って成長する機会も減る一方です。

これらも、本当に子供達の為かというとそうでもなく、大人の都合、すなわち扱い易く言う事を聞く出しゃばらない子供達を管理する立場で生み出し、大人同士のコミュニケーション能力の低下で、争いを未然に避ける為の処置がますます子供達の精神を疲弊させてしまっている原因にもなっています。

 

本題の「何の為に生きるのか」

人類の存続の為です。

例え人類が滅んでも、他の生物は巧みに生き残るでしょう。

しかし人間は、一人では生きていけない動物であり、裏を返せば力を合わせ、知恵を出し合う事で生き残られる可能性があります。

憲法や法律があるのも、規律やルールを守る事も社会全体で生き延びていく上で必要だから存在していて、守らない者は罰せられる事で社会の維持やもっと大きく言えば地球という母体を守る為でもあります。

ただ個人個人、そんな事を意識しながら生活はしていません。

日々の子育てや生活、様々な事で時間に追われ、貧困や人間関係に悩まされ、老後やお金の心配をしているのが現実でしょう。

そんな時「何の為に私は生きているのか?」と疑問に思う事は当たり前のことです。

子孫を残す為の様々な取り組みを担っている実感が湧く事はほとんどないかも知れません。

まして歳をとると、子供達への関心の薄れていくものです。

これは、視野が狭くなってしまう事による要因と想像力の無さからどうしても身近な事ばかりに気を取られ、大きな役割の一部に組み込まれている事に気付けないからでしょう。

何もプロジェクトを立ち上げろとか運動を起せという意味ではなく、ほんの小さな事、例えば子供の手本になる事や誰かの手助け、勿論自分自身の生きる力をつける事等、出来る事をやるだけです。

それには視野を広める、すなわち想像力を働かせる事に尽きます。

人間は一人では生きていけないのですから、助け合う以外に生き延びてはいけません。

また、人間に適した環境を維持しなくては遠い将来ではなく、もしかしたら明日にでも人類が滅んでしまうかもしれないのです。

環境破壊や戦争は人間が作り出す最悪の滅亡のシナリオです。

勿論自然災害で命を落とす方も大勢いますが、その災害の原因の一部を私達人間が起こしている事にも気が付かなければいけません。

どれもが繋がっている事であり、だからこそ人間の英知を結集して乗り越えていかなければならないのです。

それは、前述の例でいうと、あなたが子供に優しくしたり、危ない事をやっていたら叱ったり、また大人として生き方を見せる事で、その子供が将来、人類を救う人間になる事だってあり得る事です。

そして何より相手の心を和ませられる事で、自分も幸せな心持でいられます。

誰でも、助けてもらった時や助けられると嬉しいものです。

これはわざと自分で作り出している感情ではなく自然に湧き出る感情ですから、そうあるべきだという人間に備わっている能力なのです。

 

誰かをイジメたり苦しめる感情は、生まれた時から持っている訳ではありません。

また攻撃的になったり、すぐ感情的になったりするのは古い脳が元々持っている感情で、新しい脳である前頭葉でコントロール出来るようになっています。

人間は進化でその様な素晴らしい脳を手に入れたのですから、古い脳ばかり使う事は進化の過程で止まったままの状態とも言えるのです。

人間らしさの部分を使わず、短絡的な脳の回路が出来上がってしまうと、人との繋がりという大切な機会も逃してしまう事でしょう。

みんな何か目的を持ち、達成する事を目指しながら生きています。

若いほど、自分の将来像を描き前に向かって進んで行こうとしているでしょう。

その目的はいい暮らしや素敵なパートナーとの出会い、趣味の充実、お金儲け、やりたい仕事に就く事など人の数だけ目標があり、誰もが幸せになる事を願っています。

そしてそれぞれの目標達成自体も個人差があり、幸せと感じる度合いも違います。

ただ、誰もが思い通りに生きられるわけでは無いのも事実です。

辛い事や悲しむ事、落ち込む事だらけです。

何の為に生きるのかは、目標を達成する事でも、個々の幸せを得る為でもありません。

「夢を叶える」「幸せな人生を送る」といった目標はどれをとっても、誰かの手を借り、助けを得ないと実現出来ません。

また、例え思い通りに達成できなくても、生きていく上で必ず誰かの世話になります。

身近な家族や友人だけでなく、社会を支えている人達のお陰で生きていけるからです。

逆もしかりで、あなたが誰かの手助けをする、している事と同じ事です。

生きる事は「苦」である事は何度もこのブログで書いていますが、楽に生きる事からスタートラインを引いてしまうと、つまずいた時になかなか立ち上がることは出来ません。

何故なら、成功者を羨んだり自分の力の無さを悔んだりと次から次へとキリがなく、それがまた生きていく事に対する意欲の消失に繋がってしまう事もあります。

元々「苦」である人生ですから、暖かい誰かの言葉だけで幸せになれるのです。

目標を高く持つ事も、夢を叶える事も悪い事では勿論ありませんが、生れ、何の為生きるのかとは別の事として捉える必要があります。

小さな事でも、自分も含め誰かの為に助け、生きていく事が何の為に生れたかの答えでしょう。

ですから、やりたい事や理想像と混同してはいけないのです

その事ばかりに囚われると本来の意味から逸れ、人生を見失ってしまうからです。

色々な事が人生の中で起き、辛い方が多いのがまた人生です。

ただ、生を受けたならその時点で成功者なのです。

優しい謙虚な人間として生きる事を選ぶ事は勇気もいるし、痛みも伴います。

何故挫折や自己嫌悪、失敗や後悔するのか?

それは優しく謙虚な人間になる為です。

もしその経験のうっぷんを誰かに向けてしまうと水の泡になってしまうでしょう。

責任転嫁という事になってしまうからです。

そして気を付けなければいけないのは、他人の責任にする事ほど簡単で逃げやすいという事です。

そう、優しく謙虚な人間になる事はとても大変な事なのです。

だからこそ目標とし、より高みを目指す事で自身も成長できるのです。

ただ八方美人になる事や、また人に好かれる人間になる事ではありません。

誰からも愛される、好きになってもらう人間になれるわけがありません。

そもそも、相手が関係するような思考では無いからです。

経験と学び、想像力がその手助けをしてくれます。

全て自分に跳ね返ってくる事だからこそ、自らの意志で優しく謙虚な人間でいるのです。

それがまた、良い方向に導いてくれる事になります。

 

世の中、色々な事がどんどん変化し、進歩し続けています。

未だに人を蔑んだり、憎んだり、差別や偏見、権力を持ちたがる人間は、悲しい事に進歩というより後退しているのでしょう。

そしてこれから先、益々彼らは新たなターゲットを見つけ、うっぷん晴らしをするはずです。

言い換えれば無知からくる、一度きりの人生を台無しにしている人達とも言えるのです。

たった一度の人生です。

心穏やかに過ごしていきたいものです。

 

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生きる事の意味?⦅死生観⦆(4)

私達は奇跡の様に生れ出た。

勿論、誰もが望んで生まれた訳では無いが、生まれたからにはその意味や、何を成すのか誰しも考える時がある。

このブログ「何の為生まれたのか?1~3」でも書いたが、

生まれた事自体に意味は無い

時代、時間や場所、環境で大きく人生が変わる可能性の中、たまたま日本に生まれた訳で、平和な国に生れた事には素直に感謝したい。

ただ「生まれて来なければ良かった」と考える人もいるのも確かだ。

私も思春期の時にそう考えた一人だった。

私に限らず、悩みや苦境、取り巻く環境で自分の居場所が見つからず、また自身の価値も見い出せない時、そう考えてしまう人も多くいるのではないだろうか。

また家族や身近な人達の死、とりわけ子供の死に直面した時、「何の為生まれたのか?」と考えてしまうのは当然だろう。

kenpa.blue

生れた事自体に意味は無いが、どう生きていくかは自分次第で自分なりの答えを探す事になる。

同時に、身近な人の死の際、亡くなった人の死生観を自分なりに理解しようとする。

ただこの世で起きた事はこの世だけの話であり、何も持たずに生まれ、何も持てずに死んでいく。

この世の事はこの世の内に片づけてしまった方がいい。

 

例えば鼻歌を唄う時、「やらなければいけない」「その後これをやろう」と考えるだろうか?

自然と唄いたくなっただけで、強制された訳でも義務でも無いはずだ。

鼻歌は鼻歌で、唄った意味を考える事などしない。

息をし、食べ、排泄し、眠る。

当たり前だがいちいちそれらの行動に意味付けなんてしていないはずだ。

生きる事はその様なもので、何がしらの意味付けをしたがるだけなのだ。

 

体は考えずとも生きようと必死で活動し、自身を支えている。

もし飢餓状態になると、肝臓の働きでカロリー消費を少なくしようとする。

また筋肉からグリコーゲンをエネルギーに変え、その後体のたんぱく質や脂肪からエネルギーを生み出す仕組みになっている。

自らの組織を壊してまでも生命維持に全力で取り組む。

そう、死ぬことを目的に37兆個もの細胞は働いてはいない。

歳を重ね肉体的にも精神的にも衰えていくのは自然の流れであるが、それでも身体は死と抗(あらが)うのだ。

必然であり不確かさ、すなわち何が起きるか解らない事を前提として体を授けられ、この世に生み出されたのだから、生きる事自体に意味がないというのはそういう事だ。

それは戦争からの視点で考えれば解り易い。

国家、権力という母体を守り、支配力を高める為、兵士は前線へと送られる。

個体の死には意味がなく、身を削りながら目的を達成しようとしている。

すなわち国家や権力者の存続の為には犠牲者が出る事は仕方がないとする考え方だ。

ただここに大きな問題がある。

人間は肉食動物から身を守る為、多少の犠牲を出しても生き延びようとする道を選んだ動物ではないからだ。

個々の命の尊厳を前提として集団で生きる事の利点を理解し、もしくは孤立する事では生きていけない事を学び、社会が作られ、法が作られ、集団生活の中、共同で生きる道を選んだ人間。

だから戦争や紛争は、脳を発達させ集団で生き延びてきた人間のやる事では無いのだ。

 

人間以外の生物は、食べる事、必要とされる栄養を取る事を前提に生きている。

目的は、食べ、生き延び、子孫を残す事であり意味付けなどない。

個体が死んでしまっては子孫も残せない。

雑草もアスファルトの隙間さえも利用して必死で生き延びようとしている。

 

ところが人間は脳の発達と共に、色々な付加価値を「生」に持ち込んだ。

何の為に生きるのか?何をすべきか?意味は?と遥か昔から問い続けている。

加えて「死」が訪れる事により死生観を生み出し、益々「生」の価値に理由付けしているに過ぎない。

しかしそれはこの世に生まれ出たと意味という問いではなく、どう生きていくべきかの問いであり、どんな人生を歩むべきかを模索する旅なのだ。

 

生れたら死ぬ。

生きる事は苦である。

このブログで何度も書いているが、この当たり前の事を受け入れるには個人差があり、また個人個人を取り巻く環境、宗教観や伝統、風習や地域など様々な要因によって受け入れる心の準備も違う。

子供の頃は「死」は恐ろしく、怖いというイメージを大人が刷り込んでいると言っても過言ではない言葉や情報で、単に「死にたくない」「死んで欲しくない」と思っているが、成長するにしたがって色々な情報を得る事により死生観が出来上がっていく。

土台になるものが、子供の頃植え付けられた「死」のイメージであるから、どうしても消極的な発想になってしまう。

加えて、生きる事が「苦」である事を教わらず、「夢を叶えろ」「目的を持て」と言われ続けながら成長していく。

人生に何がしらの成功という様な期待や幸せ感の定義を持たせ、「人生とは?」「生きる意味とは?」と問いかけする。

そしてその人生における所業が死後の世界を左右し、生まれ変わりの事まで影響するとなると、生まれ出た事や日々の生活に隠れている「苦」から得る「幸せ」を見つける力は弱くなってしまう。

すなわち、後付けの要因で問いかけをする事自体、無理がある話で答えなど見つかるはずがない。

人生は

瞬間の選択の枝分かれ

そのキッカケは

学びという名のドミノ

この世のものは

無駄なものなど何もない

その全てが師であり

教えそのものだ

 

生れ出た途端「死」へのカウントダウンが始まる。

生きる事の意味は、どう生きるか、どんな人間でいるのかで、答えではなく探求そのものなのだ。

人生は筋書きのあるドラマでは無いし、何が起きるか解らない一寸先は闇の世界だ。

生れた事や死後の心配をするなら、今をどう生きるかを考える方がよっぽど意味がある。

生きる事の意味は無い。

探求の先にある死をもって、残された人達の心の中で、その人の生きた証の意味の答え探しが始まるだけなのだ。

 

余談

 

我が家はハイツなのでチラシが入れやすく、宗教のチラシもたまに投函されている。

ある仏教の宗教のチラシが投函されていたので、一応何が書いてあるか確認したのだが、未だにこんな事を平気で書いているのか?とビックリした。

死後、成仏するか地獄に堕ちるか、臨終の相で解るらしい。

書かれていた内容は、成仏は臨終ののち色が白くなり軽く柔らかくなる。

地獄行きは、黒く、硬く重たくなる…と。

思わず吹き出しそうになった。

大抵の場合、今は病院で亡くなる方が多い。

病院の廃棄物回収の仕事で中に入る事が多かったので解るのだが、特に高齢者でベッドに寝たきりの患者さんは胃ろう(チューブによる栄養補給)や点滴のチューブが繋がれている。

昔と違って必然的に体は水分で重くなる。

病院の方も「今の亡くなる方は、昔より重い」と話されていた。

「ん?みんな地獄行き?」

人生の目的は成仏であるとか、地獄という様な言葉を使って信じる事を説いているのだが、元々のマスターの教えを歪曲し解釈し、まるで言い方は悪いが脅しの様な文面で埋め尽くされていた。

決して宗教を否定してはいないが、これが現実であり、信じている人も多くいると思うと私としては空しくなってしまった。

生きている時こそ全てであり、死後の行方や心配をする時間では無いはずだ。

生きているからこそ死者を弔う事も学ぶ事も、そして教訓も次の世代に伝える事が出来る。

自身の死後ばかり気にしていて何が宗教なのか?

まるで自己中心的なこの考え方は(あくまで私個人の私見だが)反論も承知で書かせてもらうと、

受け入れ難い考え、教えであった。

 

人それぞれの死生観があって、尊重されなければいけない事であるし、無理に考えを変えさせたり、否定したりはやってはいけない事だが、一部と信じたいが宗教者こそその原点に戻って、教えを広めて欲しいものだ。

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20221028152413

戦争⦅日本の選択⦆(4)

人類が誕生して以来、争い事が無くなる事は無かった。

国内での争いや他国との争い。

そして侵略や植民地化とどれも権力、利権争いが主な原因だ。

それ以外にも宗教や民族の違いによるによる争いと人類は平和とは無縁の歴史を刻み続けている。

未だに、世界のあちこちで紛争や戦争だけでなく、迫害や差別、権力争いが続いている。

 

第二次世界大戦後76年が過ぎた

毎年の様にこの時期になると様々なイベントが催され、番組が流される。

忘れてはいけない事として、年に一度は振り返る時があるのは素晴らしい事だが、単なる行事化となる事が恐ろしい。

戦争経験者もほとんどの方が亡くなり、歴史的な記録や残された証言、資料でしかその非道、悲惨さを知る事が出来ない。

実体験が無い者にとって、実感が湧かないのも致し方ない。

実際、戦争の恐ろしさなど気にも留めない人の方が多いのも、良くも悪くも平和の日本で暮らしているからだ。

そして、近代史の歴史認識を学べない教育の弊害かも知れない。

 

よく戦争では正義という言葉が使われ、祖国の為や愛国心、家族の為と次から次へと後付けの様に士気を高める為に使われるが、実際その事を信じ散っていた多くの人達は覚悟が出来ないまま、死ぬ事を恐れずに戦闘をしていた訳では無い。

まして、情報を与えられない、もしくは都合の良い情報ばかり流れてくれば判断する材料も無く、恐れる気持ちを奮い立たせる為の一種の自己暗示だったと思う。

それは純粋に愛国心や家族を守るという気持ちを持って戦いに挑んでいたとしても、普通の感覚でいられない戦時下に直面すれば、何の為の戦争であり、自分は何の為に駆り出されているか疑問に思うのも当然である。

ウクライナの戦争でも、ロシアでの若者の国内流失からも見て取れる。

 

一方で近代、戦争の在り方が変わりつつある。

それは、IT (information technology「情報技術」)・AI(artificial intelligenceの意味は、「人工知能」)・DX‘(digital transformationの意味は、「デジタル変革」)といったいわゆるデジタル機器等での戦争である。

特に無人機、ドローンによる攻撃やAIを駆使してミサイルからライフルまで確実に目標物を捉える技術の急激な技術革新、そして戦術核による使用や、最終兵器の脅しや最悪の使用。

また使用禁止になっている様な兵器の使用と兵士、すなわち人間の損失を減らし最大限の効果を出す戦争の戦い方に移行しつつある。

だが犠牲になるのは一般市民である事に変わりない。

とりわけ子供達は未来を奪われるだけでなく、孤児になり洗脳され兵士や自らの自爆等に利用される事である。

どれほど技術が進もうと、今まで以上に一般人の被害は多くなるのは目に見えている。

今年4年ぶり国際的な武器の見本市「DSEI JAPAN」が千葉市幕張メッセで行われ、今まで以上に近代兵器の展示も多く、日本も含め兵器開発による軍需産業の利益は今後も莫大になる。

正に戦争によるお金儲けであり、日本がその一端を担う事は大いに危惧するところである。

最近も日米間による首脳会議が開かれ、中国を念頭に同盟国としての連携を確認にしたが、どれをとっても「力には力で」という考えがベースに話が進んでいるのに変わりない。

 

私達一般国民が知らない内に、戦争という恐ろしい現実が裏では進みつつある。

考えれば解るが、メイドインジャパンの兵器で肉親を殺されたらどんな気持ちになるだろうか?

少子化と言われる日本で、過疎地や一人世帯や高齢者が増え、有事の際どんな自己防衛や避難、インフラの確保が出来るのであろうか?

今や日本の全てが射程内になっている。

すなわちミサイルだけでなく、ドローンによる攻撃をされる可能性は高い。

しかも島国であるが故、位置的にも国外退避はごく一部の人達だけだ。

だからと言って、力で対抗するとなると自国だけでは不可能だ。

逆を言えば同盟国の戦争によって、日本も重大な責務を負う事になる。

そう、以前にも書いたが戦争を始めれば終わりなのだ。

 

ではどうすれば平和憲法を持つ国としてやらなければいけない事は何か?

やはり教育に尽きる。

歴史を紐解き、戦争の残虐性や普通の人間を悪魔に変えてしまう極限な世界である事、敵、味方に関わらず国民に遺恨を残すだけでなく、日本在住の外国人との衝突が起きる事や産業を含め輸入に頼る国として機能不全になる事、地球温暖化に加担する事やエネルギーの枯渇による混乱等、あらゆる損失や犠牲を想像力を使い、子供達が考える機会を増やすべき、いややらなければとんでもない事になるのだ。

学校だけでなく、家庭でもその様な機会を作るべきであるし、マスコミも先の大戦の反省も踏まえ、この時期だけでなく、もっと政府に忖度することなく情報や様々な意見を取り上げ世間に知らしめるべきだ。

 

今の政府は日本国憲法を理解しているとは思えない様な行動や言動を繰り返しているが、その憲法こそが権力者を暴走させないためのもである事を国民全体で再度共有すべきであり、国民が、マスコミが圧力をかける事で、危険な考えを押しとどめる権利の行使が出来る事を今一度考えるべき時期だと思う。

 

この時期、閣僚による参拝や奉納などがニュースになるが、生きている人達への尊厳なくして死者に対する尊厳を守る事は出来無い。

それは、死者が何の為に死んでいったかを考えると解るが、彼らは生きて日本を再生して欲しいと思いながら散っていったのだ。

それが平和である国の構築や存続であり、何より二度と戦争を起こすなという想いなのだ。

彼らへの尊厳を守るという事は、平和こそが表せるものであり、参拝や奉納では無いし、同盟国と足並みをそろえる事でも無い。

まして、最悪の事態で戦地に送り込まれる兵隊に対し、個人の尊厳など無視される事は明らかだ。

遺骨収集も遅々として進んではいない。

遺骨収集事業は1952年度に始まったのだが、沖縄などの国内以外に海外や海に沈んだ遺骨の収集もまだまだ進んではいない。

沖縄の辺野古基地問題でも、政府が埋め立て土砂の採取候補地に本島南部をあげ、遺骨が混じっている事で反対運動等大きな問題になった。

遺骨の取り違え、すなわちDNA鑑定の遅れによる日本人では無い事の可能性が高いという事実もあり、また遺族や関係者の高齢化により聞き取り情報も減る一方で政府が本気を出していない表れでもある。

肝心なのは遺族の元に還す事は、平和でなければ出来ない事でもある。

 

今方向を変えられるのは、私達国民一人一人の意識なのだ。

そして未来を担う子供達への想いであり、何より想像力だ。

決して、力での政策を許してはいけないのだ

語り部達が紡ぐのは

無念と心残りの千羽鶴

届く宛てない折り鶴は

今でも重なり風に舞う

いつか平和の訪れに

絆の糸が解き放ち

羽ばたくその日が来るのだろうか

 

 91歳で自身のシベリア抑留体験の語り部になった、西倉勝(にしくら・まさる)さん(96)のお話をごく一部だが聞く機会があったが、経験された本人から聞く事の重要性を再認識させらた。

今後、経験者の語り部の方達も高齢になり亡くなってしまうのだ。

 

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20221028152413

生と死の狭間⦅お盆と戦争⦆(3)

私にはお盆で帰る家もお墓も今は無くなってしまった。

本来なら琵琶湖から数キロの丘の上に両親が眠っていたのだが、管理費が払えず撤去されると5歳下の妹から聞いていた。

私の一つ下の弟も墓標に刻まれる事無くそこで眠っていた。

 

父は100歳過ぎ迄長生きしたが、元々私と幼い頃から会話も無かったが、戦争の話は一度も聞いた記憶がない。

亡くなった後、いくつかの写真の中から1枚だけ兵隊の格好をした父の写真を見つけ、少し驚いたぐらいだ。

私自身教科書で習うくらいの戦争に対する知識はあったが、近代史はいつも軽く飛ばされるような歴史しか学校では学んだ事が無く、戦争は過去の話で平和でよかったくらいにしか感じていなかった。

勿論戦争映画も観ていたが、正義はアメリカで悪はナチスという構図の、正に西部劇的な見方をしていた為知識は乏しかった。

 

20代の頃広島の原爆ドームや資料館にバイクツーリングのついでに見学した事がある。

その悲惨さに驚いたものだが、施設を出る頃には心から抜け落ちてしまっていた。

要は今から思うとほとんど関心が無かったからだと思う。

広島=原爆ドームという観光の観点から捉えていただけだった。

それは戦争だけでなく政治や経済も当てはまり、当時の私はただの何も知らないフリーターでしかなかった。

そんな脳天気な私の変わるキッカケは、30代にノンフィクション作家、吉村昭氏の本で、緻密な下調べや描写力に魅せられ彼の本を片っ端から読み、戦争の事もかなり学ばせてもらった。

彼のノンフィクション作品の中で、「戦争」に関する作品はかなりある。

良ければこの機会に是非読んでもらいたい。

もし彼の作品に出会えなかったら、今でも他人事の様に平和の名の元、無関心のまま私は生きていく事になっていたはずだ。

 

沖縄戦や空襲、そして原爆と民間人を巻き込んで大量の犠牲を払った日本。

勿論日本だけの話では無いが、大量虐殺、無差別攻撃は決して許されないはずだが、戦争になれば協定など反故にされる。

紛争や戦争は小さなキッカケで起きる場合も多いし、始まれば何もかもが崩れていく。

経験からいかに教育が大切か身をもって実感する。

今は調べれば直ぐ解る時代である。

それをわざわざ丸暗記する事に何の意味があるのか理解に苦しむ。

もっと近代史に時間を割くべきであり、他国の責任を追及する為ではなく、過去から学ぶ大切さを子供の頃から教えるべきだと思う。

そして自国がどんな事をやってきたのか、善悪も含め出来る限り伝えるべきである。

それこそが本当の愛国心(あまり使いたくない言葉だが)を持つキッカケとなる。

他国への関心も深まるだろうし、自分に何が出来るか考える子供や若者が増える事にもなる。

何より、未来を見据え自分達がどんな世界を望むのかといった考えさせる教育の方が、これからますます必要になるのではないだろうか。

生と死の狭間の生き方は、戦争によって選択肢が無くなり自分で決断できない生き方を強要させられるのだ。

 

都会ではマンションや物流倉庫の様な納骨堂が沢山作られ、ネット活用での参拝も行われているが、大切なのは先祖の生き様から学ぶ事だ。

そう過去から学ぶ事をしないまま墓参りをしても果たして、死者達はそれを望んでいるのだろうか?

もう一歩踏み込んで過去との対話をしたいものだとつくづく思う。

 

冒頭私には先祖のモニュメントとなる様なものは無いと書いた。

私もあくまでも自分の考えだが、モニュメントは要らないと思っている。

最近の調査で、夫のお墓に入りたくない妻が多いという。

理由は死んでからも一緒に居たいと思わないとか、姑との折り合いが悪かったのに一緒は嫌だとか、そんな理由で独自の死後の居場所を納得できる形で確保する人達も増えてきていると聞く。

ただ、どんな形であれ死後には何もないし何も出来ない。

まして、霊魂として化けて出る事さえ望んでも無理な話だ。

すなわちモニュメントは生きている人の為の拠り所という事になる。

ただ拠り所であるモニュメントに手を合わせる自分はどんな心持なのかの方が本当は大切な事であり、習慣だからというだけなら何の意味があるのだろうか?

 

手を合わせる事は何処に居ても、いつでも出来る事だ。

極端な例だが南アフリカ共和国の人種差別アパルトヘイト後の初の黒人大統領マンデラ氏も檻の中で祈っていた。

アウシュビッツ収容所でのユダヤの人達だってそうだ。

特攻隊員も機内や艦内で祈っていたに違いない。

それは今も過去も戦争や紛争で苦しんでいる人達にもいえる事だ。

 

お盆など風習や習慣は何も日本だけではなく、世界のあちらこちらで形は違えど存在している。

娯楽化してしまった日本のハロウィンもその一つだが、死者との接点を何らかの形で表す事で、ルーツや血の繋がり、死の捉え方を考える機会として続いているのだろう。

また、「お盆ぐらい」いう事で家族や親戚が集う機会の役割も大きい。

 

生き方や人生観も大きく変わってきている現代。

昔なら、家という制度に縛られ、近所や他人目を意識せざるを得なかった事も、違った選択が出来るようになりつつある。

すなわち家族や血、集団等のコロニーで決め事をするのでは無く、個々の意志が尊重される時代になってきている。

それの良し悪しは別として選択肢が増える事は、違った考え方をする人達を一方的に排除する事が無くなりつつあるのは喜ばしい事でもある。

お盆という習慣が悪いと言っている訳では無い。

前述のとおり、年に一度先祖の事を考え、家族同士の絆を再確認する上で有効な機会になるが、習慣化される事に疑問を感じるのだ。

故人が成仏でき、あの世でも安心して暮らせることを目的とされている日本のお盆

先祖の霊を供養するとは感謝する事だけでなく、今自分がどう生きていくか、どんな人間でいるのか、どんな人間でいたのかを約束するものだと私は理解している。

先祖の霊を向かい入れ、安心して帰ってもらうという意味合いでのお盆は、約束を交わす事と同じだからだ。

 

私達は生きている時間が全てなのだ。

死者はその事を知っている。

一人一人違った人生を歩み、それも「苦」を伴う片道切符の人生をだ。

人生を台無しにするのも、幸せを見つける事が出来るのも全て自分の責任だ。

ただそれは、平和という裏打ちが無ければ選択すら出来きなくなる。

花火大会の爆発音がミサイル着弾の音に聞こえる人がこの世界には沢山いる。

未だに遺族の元に還れない死者も日本だけでなく、世界中に存在している。

そしてその数は減るばかりか増え続けている。

彼らこそ生と死の狭間にいる。

だからこそ、単に身内の先祖だけでなく、歴史に翻弄され死を受け入れざるを得なかった人達に平和の約束をしたいものだ。

その時こそ、生と死の狭間から安らぎを得る唯一の方法ではないだろうか。


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20221028152413

偽りの自分がいる⦅環境⦆(3)

人間は置かれている環境に大きく影響される。

例えば私もそうだが、お金が無い時や困っている時、心から喜んだり楽しんだりできない。

考えまいとするのだが、いつも心の片隅に残って何かの拍子に顔を出す。

「何とかなる」と自身に言い聞かせてもつい「お金があれば」と愚痴が出る。

大抵そのような場合、前述の心持でいるからおのずと行動や言動も否定的になる。

世の中、お金では買えない大切なものがある事もお金が全てでない事も、そして幸せもお金では買えない事は承知しているがどうしても卑屈になってしまう。

私はこのブログで書いているので具体的ないきさつは省略するが、アルコール中毒、すなわち依存症になってしまい、ほぼ2年間を無駄にしてしまった。

その間生活は妻の給料ではやっていけなくなり銀行のフリーローンに手を出してしまった。

当時、景気もそれほど悪くなく銀行から融資増額の話の電話もあり、500万まで借り入れが出来るようになっていた。

借り入れは最初の時一旦思い直したり不安になったりするのだが、一度借りてしまうとその後は返すという事が頭から抜け落ち、まるで打ち出の小槌の様に次から次へと借り入れをしてしまう羽目になった。

1万返しても5千円ほどしか元金が返せなくなり、気が付けば返済額は月7万円を超えどうにもならなくなってしまった。

おまけに息子の進学や授業料、失職と悪いスパイラルに巻き込まれるかの様になってしまい、債務整理をする所まできてしまった。

今も返済中だが、常にお金の支払いに頭を抱える毎日で、妻の「何とかなる」の言葉が無ければ自分はどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。

 

2018年厚生労働省年金局の資料によると非加入者は96万人で、その内、繰下げ受給の為に支給されていない人を引くと56万人程度の人が無年金者となり、年齢が高くなるほどその割合も高くなっている。

国民年金制度は昭和36(1961)年4月から実施され、初期は任意であった事や支払いをしていない人も多くこのような結果になっている。

私が年金を受け取る時の金額は国民保険だけなので5万円にも満たない。

考えて見ればお先真っ暗な話という訳で、益々経済的な心配が増えるばかりである。

貧困は人間を卑屈に、消極的にさせる。

高齢者の問題だけでなく、若い人達にも増えている深刻な問題だ。

ひとり親家庭や引きこもりや独身者、無保険者と、年々増加している現状で、一体どのくらいの人が悠々自適な生活を送れているのか?

子供の貧困率も7人に1人と言われる中、日々のニュースからは、そして政府の政策からは全く危機感が感じられないのは私だけであろうか?

振込詐欺やなりすまし、SNSによる強盗と手っ取り早く大金を手にする犯罪も多い。

警視庁によると、2023年上半期の特殊詐欺の被害額は37億7,000万円。

これは都内だけで、2022年全国では370億8000円にも上る。

額にも驚くが、いかに個人資産が多いかにも目が行く。

言い換えれば、国の老後に対する政策が貧弱であるという裏返しでもある。

 

一概には言えないが、貧困は人間をむしばむ。

犯罪に手を染める人はごく一部ではあるが、お金至上主義の考えになってしまったり、自身の力の無さを責め、人とのコミュニケーションを取らなくなったり、弱い立場や良しとしない考え方の人を攻撃したりと、自己中心型の人達を生み出す原因にもなりうる。

すなわち、おかれている環境次第で人間は思いもしない行動や言動をするのだ。

昨今の車販売店の保険金詐欺ケースでも社員達は入社前、きっと車好きの優しい人達だったのだろう。

入管での死者まで出してしまった人権を無視する不当扱いや外国人労働者に対する暴行。

権力が、お金が、組織が人間を変えてしまうのだ。

 

私自身お金が無い事で、自分よりも恵まれていない人を見ると同情しつつも安心し、心が軽くなってしまう。

旅行やグルメ番組には「よくそんなお金があるな」と心でつぶやく。

そんな自分が嫌で、本当の自分はどんな人物でなのか?どんな人物でいたいのか?

自己嫌悪に陥ってしまった。

ブログで何度も書いているが、心は流動している。

自分をおとしめる様な環境から抜け出し、例え抜け出せなくても常に自分を見張っていたいとつくづく思う毎日である。

 

だいぶ前だがアメリカ多発テロが起きた後、容疑者や捕虜に対する虐待や拷問があった事が明るみに出た。

ただアメリカは、時間差はあるが不正を表に出す人間がいて、真相究明をするマスメディアが機能している。

この手の犯罪は映画化もされモーリタニアン 黒塗りの記録』(2021)や『ザ・レポート』(2019)でもその裏側にある、正義の名の下に行われた非道な事実を浮き彫りにしている。

この国日本は有事の際、果たして同じように機能するだろうか?

 

普通にどこでもいる様な人達を、悪魔の様に変えてしまう環境という要因。

すなわち、権力乱用、紛争や戦争といった人間自らをおとしめる様な行為に加え災害や貧困等、社会基盤が機能不全に陥った時、考えられないような残忍で欲望丸出しの人間を作り出してしまう。

きな臭い国際情勢の中、唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約すら批准する事なく、未だ抑止力だと西側諸国との認識共有という何とも歴史の警告を無視する立場を取り続ける政府。

戦争を始めたいのか?と疑う様な副総裁を含め政治家の発言や政策がこの国にどんな環境を作り出すのか心から危惧している。

本当に防衛費の大幅増額を国民は、自公政権支持者は良しとしているのだろうか?

本当に西側諸国と足並みをそろえる事が正しい道と考えているのだろうか?

島国の利点を活かし、話し合いの道を模索しないのは何故なのであろうか?

国内の少子化や貧困対策に何故税金をもっと使わないのだろうか?

貧困ですら心がすさんでしまう現実の中、更なる過ちをこの国が繰り返すかもしれない事を思うと、寒気がするし恐ろしい事が一般の人達にも必ず降りかかってくるだろう。

 

置かれた環境に影響される事無く、自身を善の方へと軌道修正出来る人達は確かにいる。

しかし極限での環境ではそれさえも奪ってしまう可能性が高い。

取り巻く環境は、良きにせよ悪しきにせよ人間を変えてしまう。

時にどんなに優しい人でも、悪魔に変えてしまう力を持っている事を忘れてはならない。

先祖達が無駄死にならない様に、歴史から学ぶ事を、そして日の出(いずる)国の誇りを忘れないで欲しい。

僕らは知らないといけない

残忍で情け知らず

野蛮で無秩序

古い動物脳がそうさせる事を

動物は生きる為

人は恨みと正義感

引き出すのは臆病と弱さだ

見張っていなさい

心の動きを

大切な人の為

自分がいる事を

 

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