心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

子供が幸せな国⦅My School Days⦆(3)

遠い記憶となってしまった学生時代。

明らかに不良っぽい奴や気の弱そうな奴が目に見える形でいる時代だった。

怖そうな奴には近づくまいとおびえながら学校生活が送っていた事も、今は懐かしい思い出として残っている。

必死でアルバイトをしながら貯めたお金でレコードを買い、何度も何度も聞いていた。

憧れの先輩のようになりたくて部活に入ったが、怪我で挫折もした。

最後まで告白出来ずに集合写真に写る彼女ばかりを見ていた事も。

そっと抜け出して喫茶店にたむろした事も。

卒業式に一人だけ制服のボタンを欲しいと言ってきたあの子も。

全てがモノクロームのように薄れていく。

数えきれないほどの些細な瞬間が、大切な時間だった事を今になって感じる毎日だ。

一日がとても長く感じた時間の流れ。

いつかまた逢えるという、遠い約束を果たせていないまま、

足早に時間だけが経っていく。

 

大人達は経済成長の真っただ中で、メイドインジャパンのブランドが世界中に広がっていくのを見ながら私は荒れていた学生時代を過ごしていた。

学校に行く事が当たり前で、欠席する事はとんでもないという考えの下、イジメがあろうが熱が出ようがみんな通っていた。

親は先生という存在を正に「先生」逆らってはいけない人達という捉え方で接していた。

それは、問題が起きても全て学生が悪いという構図でもあった。

家にある黒電話。

大抵、親がでるので誰からかかってきたかがすぐに解るし、友達との会話が長くなると怒られる。

ゲームなど無かったから、外で遊びまくっていた。

最大の娯楽はTVと漫画だった。

みんな情報を共有していた時代でもあった。

 

手や足に障害がある子や、在日外国人もいたが、少なくとも私の記憶では差別は無かった。

陰であったかもしれないし、辛い思いをしていた子もいたかもしれないが、今の様にSNSや撮影といった陰湿な行為やイジメがそもそも出来なかった時代。

大人達の方が偏見や差別意識が強かったように思う。

 

時代は変わってしまった。

当時の大人達の考え方を引きずるやり方では、子供達がどんどん疲弊する。

そして夢を持て!頑張れ!世界を見据えろ!と大人達は言う。

私の廻りには、夢破れたり失業したり、家族を、その日を食いつなぐ為に仕事をしている人達の方が圧倒的に多い。

頂点に立てる人は、夢が叶う人はほんの一握りだろう。

それでも、いつ訪れるやもしれない幸せや希望を胸に頑張っている。

いや、仕方無く毎日をやり過ごしているのかもしれない。

今のTVやネットは果たして本当の社会を映し出しているのだろうか?

飽食や旅番組は、皆が実現できている事なのか?

 

社会が狭まっている

広い野原で遊びまくる子供達がいつ戻ってくるのだろうか?

子供は国の宝物だ。

彼らに流れる時間は、人生の長さから見るとほんの一瞬しかない。

その一瞬の中に、大切な想い出が凝縮されている。

きっと、彼らから見る大人の世界は、余りにも早く映っている事だろう。

 

大人になっても、歳を重ねても少年の心を持っていたい。

心の底から笑える、涙する心を持ち続けていたい。

 

オリジナル曲 TOM(ユニット)

「My School Days

youtu.be

 

 あなたの支援で助かる命

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

子供が幸せな国⦅大人の責任⦆(2)

 

テストが終わって、高校生の息子が帰ってきた。

「テスト、どうだった?」

「……」

「もう一つって事か?」

「……理科が全然解らない」

目も合わせず、ボソッと話す。

「あっそう!残念!」

あれほど喋っていた小学生の頃の息子は、寡黙(かもく)の人となった。

自分の小さな部屋では、友達とゲームをオンラインでやりながら、叫んでいるのに!

「まぁ、いいか!」と小さくつぶやいた。

 

かつての自分は、親とまともに話した事も無かった。

彼の方が、わずかだが反応する。

「まぁ、いいか!」心の中でつぶやいた。

 

厚労省のまとめによると、19歳以下の自殺の理由(複数の場合あり)は「学業不振」が104人で最も多く、「進路に関する悩み(入試以外)」が84人、「入試に関する悩み」が40人だった。(読売新聞より)

 

原因は複合していて、これだ!という理由は解らないが、若い彼らの死に急ぐ現状に直視して、大人のありったけの知恵を出して防がなければならない。

それにしても、いたたまれない気持ちになる。

 

私なりに色々と考えたのだが、気になる点があった。

日本は、何でも一斉にスタートし、ゴールを目指す。

学校でも会社でもいえる事だが、皆が一団となって前を向くやり方が、もう時代に合ってない。

まるでタイムカードを押して、「閉め切りの時間内に与えられた事をやりなさいと」言っているのと同じだ。

昭和の時代、公園などほとんどなかったが、開発されつつある町でも、空き地やどぶ川、池や川があり、遊具の様な押し付けも無いから、自分達で工夫して遊ぶしかなかった。

段ボールで秘密基地を作ったり、ローラースケートを板にくくり付け、坂道を下ったりと毎日が忙しかった。

どぶ川や肥溜めに落ちた事も何度かあったが、心は冒険モードに入っているのでお構いなしだった。

何より、歳の差がある子供同士が一緒になって遊んでいた。

空き地には「ボール投げ禁止」なんて看板なんか見た事も無いし、危ない事をしていると年長や近所の人が怒ったものだ。

爆竹を蛙の口に突っ込み爆発させたり、玉地面に叩きつけて音を鳴らせて遊ぶ癇癪(かんしゃく)玉を投げ合ったりと子供ながら、惨い危険な遊びもしていた。

それは、考えて見ると火遊びであり、間違えれば火災や大怪我の元になる今では考えられない遊びだったが、堂々と駄菓子屋で売っていたものだから、当然手を出す事になる。

そんな、混沌の世界が昭和の時代だった。

 

そうスタートラインは決まっていなかったのだ。

やっちゃダメは、やってみてその意味に気付く時代だった。

オンラインゲームの様に、決められた枠の中で遊んではいなかった。

懐古趣味でも、昭和が良かったとも言っていない。

時代が変わったのだ。

 

勿論、学校では今よりも厳しかったし、叩かれもした。

長い校長先生の話を炎天下の中、直立不動で聞かされ、いつも誰かが倒れていた。

「根性が足りない」「気合を入れろ」が不可能なものを可能にする言葉と信じていたのだ。

もう、引きずる事はやめて、個人差を認め、余裕のある時間で子供達を見ていかなければならないと思う。

何度でも挑戦が可能で、年齢も関係なく、勿論性差にも影響されない社会の仕組みにどんどん変えていかなければ、息苦しくて仕方がない。

 

もう一つの要因として「空間」という視点がある。

情報に溢れて世界観が広がったのは確かだが、よく考えて見ると選択肢が多すぎる事が逆に狭くしている。

何でも調べれば出てくる事で、やってもいない事を諦めの対象にしてしまうのだ。

だから、失敗や挫折の経験も出来なくなる。

また、子育ても含め、悩みや人生の事まで誰かの発信を鵜呑みにしてしまう傾向も問題なのだ。

現実の人との繋がりの中から、スマートフォンの画面の繋がりへと、どんどん狭い空間でもがいているのだ。

仮想空間の世界もどんどん増え、デジタル上の世界が広がっているが、五感で感じる世界では無い。

一見繋がっていると見えているが、生身の繋がりでは無いのだ。

相手の息遣いや表情、触れ合う時に感じるぬくもりはそこには無い。

感動したり、嬉しかったりした時、拍手するのはふれあいの表れと聞く。

子供が生まれれば、子供との生身同士のやり取りになるが、その体験に慣れていない親がネットで検索し対応するものだから、当然視野も狭くなり、自分の育て方が正しいのかそうでないのかの比重が大きくなってしまう。

子育てに正解など元々無いのにだ。

 

逆に狭い選択肢からの選択は、そこから飛び出そうとする力が生まれてくる。

挫折も、悲観もそんな中から生まれ、人生の肥やしになる。

SONYのウオークマンもホンダのカブも、カシオのデジタルカメラも、きっとそんな風にして生まれてきたに違いない。

勿論、遊びもそうだ。

広い空間の中、工夫しなければ遊べないという環境が、沢山の冒険や挑戦に繋がっていたのだが、今では提供されたモノの中で、決められたルールに沿って遊ぶ事を強いられる。

すなわち狭い空間でしか遊んでいない事になる。

空間がどんどん狭くなっている。

大人も子供も。

 

個々を取り巻く空間の狭さは、パーソナルスペース( personal-space)他人に近付かれると不快に感じる空間パーソナルエリア、個体距離、対人距離に見られるように、不快に感じる。

満員電車での密接が不快と感じる事と同じだ。

自分が動き回れる空間が広ければ、近づく事や遠ざかる自由があるが、狭い空間ではそもそも無理であるから、当然ストレスや、ギスギスした状況に陥る事になる。

最後に私が気になる事は、やはり歴史だ。

もっと近代史にも比重を置き、過去の戦争や内戦、政治がどう関わったかを教えるべきだと思う。

最近も漫画「はだしのゲン」の不掲載を決めた広島市教育委員会の決定が波紋を広げているが、子供達の過去の歴史の入り口としてのこの漫画の意義は大きかったはずだ。

負掲載をした理由は「補助的な説明が必要となり、時間が足りない」とし、子どもが浪曲を歌って小銭を稼ぐシーンについて「浪曲は現代の児童の生活実態に合わない」、母親に食べさせようと池の鯉を盗むシーンについては「鯉盗みは誤解を与えるおそれがある」(TOKYO MXより引用)という何ともお粗末で、奇妙な言い訳でしかない。

当時の生活を描きたかった作者の想いなど全く理解していない。

これでは、男女差別、固定観念だと言って「サザエさん」を観てはいけないと言っているのと同じ理屈だ。

何か裏がある事は間違いないだろう。

過去の歴史を知る事が有益かそうでないかを国や教育委員会が勝手に決めるものでは無い。

過去からの情報を大人達の都合でふるいにかけられ、子供達に教える事が将来を担う子供達にとって有益になるとは決して思わない。

 

何度も書くが、社会は変化し続けている。

これからデジタル社会が、その力を試される事になる。

デジタル空間が広がれば広がるほど現実の世界が狭く、窮屈になるこの皮肉に、どう向き合うのかが問われている。

 

子供が伸び伸びとやりたい事に何度でも挑戦できる生の社会は、大人にとっても余裕が出来、ギスギスした社会や人間関係から解放されるだろう。

そして、

大人達全員が親であり、保護者であり、時には叱り、優しく見守る社会を作らなければならない。

不規則に輝く木の葉のふれあいと

時を超える木の肌に

耳をきつく当てながら

いつ 生の流れを感じただろう

 

過去からのメッセージの携えて

未来に想いを馳せる輝きを

草の匂いと優しさの中

いつ 流れゆく夜空を味わっただろ

 

二度と来ない波の織りなすメロディーと

瞬間を乗せる緩やかな風に

ふかふかの砂のベッドで

いつ 時を忘れただろう

 

子供達が幸せな国は、誰もが幸せになる国だ。

命をもって償わせ、課題を再びスタートライン巻き戻す彼らの犠牲を、何度繰り返せば大人は気付くのであろうか。

解き放って、自由に羽ばたく翼を与えてやって欲しい。

心からそう願う。

 


 あなたの支援で助かる命

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

子供が幸せな国⦅個性⦆(1)

子供の自殺は先進国では日本が一番高い。

2020年には499人と過去最悪の数になり、横ばい状態でいる。

当たり前だが子供は成長段階であり、様々な外部からの影響を強く受けやすい。

コロナでの休業やマスク、オンライン授業と子供達の世界も狭まった。

ようやく、ほぼ平常に戻りつつあるが、何より影響を与えているのは。学校や家庭、社会といった中の大人達によってだ。

イジメが、よく問題と取り上げる意見があるが、もっと根深い問題があるのではないか?

読み書きを覚え、識字率も高い義務教育の役割は素晴らしい仕組みではあるが、高校や大学へと進学の為のハードルが余りにも高い。

学費も大きな問題で、少子化や貧困化が進む現状を放置してきた政府の責任は重い。

同時に今の社会の在り方に夢を描けない事も大きな要因であろう。

 

ネット社会で様々な情報が子供達にも簡単に手に入り、発信する事も容易になった。

同時に教育や進路、子育てまでありとあらゆるものが情報として垂れ流されている。

そう、社会は大きく変化しているのだ

それも、予期せぬ速さで変わっていく事に注目しなければいけない。

日本は歴史の長い国であり、文化や習慣が受け継がれ、大切にしたきた事は誇れるだろう。

しかし今根付いている慣習や考え方はほぼ、明治時代以降のものだ。

心の問題という捉え方では無く、日本人はこうあるべきだという道徳観や倫理観の事を指しているのだが、集団で行動し、全体責任を取らせる事も軍隊の名残である。

大戦後、経済復興や国の再建、その為の会社組織において、国民が一団となって前へ進む時代なら、有効な手段、考え方だった。

しかし、そのやり方では通用しなくなっているのだ。

社会の変化に合わせて柔軟に対応できない大人達の弊害と言ってもいいだろう。

 

私の息子の義務教育時代を彼と共に見てきたが、教師による暴力は減ったものの、昭和の時代とさほど差が無い。

むしろ、子供達にとって学校は窮屈な場所であり、個性を殺させられる場所となってしまったと言わざるを得ない。

社会が求めているモノと、義務教育で培うモノとのギャップが大きくずれている。

それは先生達の問題だけでは無く、国の教師に対する処遇の遅れや教育の方向性の誤りにある。

息子の子供時代に使用した数々の教材を整理しながら考えていたのだが、ほんの少ししか使わないで無駄になっている教材のいかに多い事か。

社会はSDGsを推し進めている中で、こんな無駄な使い方を平然と繰り返し続けている事に憤りを覚える。

以前にも書いたが、鉛筆一本からこまごまとした、ありとあらゆるものまで名前を書けと指導される。

しかも貼り付ける位置までだ。

「社会生活を営む上での自分のものと他人のものを区別するという事の重要性」

「トラブルのもとになる為、犯罪の誘発抑止効果」

ともっともらしい理屈での強制だが、お名前シールで自己と他人との関係性を教えるつもりでいるなら、お門違いにもほどがある。

失くしたり、忘れたり、買えなかったりした友達を助ける方法を教える方が、よっぽど子供の為になる。

書道も、日本人の心得として習うのだが、年に一二度使うだけで、書道の奥深さや先人たちの想いなど、何も伝わっていないばかりか、宿題の為、嫌々書いているだけだ。

結局最後には、業者指定での高価なお習字道具はゴミとなる。

実際、我が家でも処分に困り捨てずに残っているが、山ほど残っていた半紙はキッチンペーパーの代用として使っている。SDGsだ。

一体何の為に何をしたいのか、理解に苦しむのだ。

これの何処がSDGsの理念に沿っているの私には判らないのだ。

教室に、先輩たちが残していった道具を置いておくだけで十分だろう。

大切に使い、後輩に受け継ついでいく方法であれば、モノの大切さを学び、何より無駄な支出もいらなくなると思うのだ。

私の息子が小学生の頃、鉛筆は2Bでシャープペンシルは禁止、消しゴムは白と決まっていた。

「筆圧が低い子供でも書きやすく濃くキレイに見える」「筆記具の正しい持ち方や筆圧に影響されない為」「持ち物に差が出て、平等では無くなる」「高価なものを使う子がいたら盗難や紛失の恐れがある」

ざっと調べただけでこんなにも「言い訳」のオンパレードだ。

前述の書道の時間は、全然意味が無い事になる訳だし、盗難があれば逆にやっていい事と悪い事の分別を教えるいい機会になる。

まず犯人探しをする様な教育が見え見えだ。

それに濃く見えようが、薄く見えようが、どうでもいい事に何でこだわるのか、今でも理解できないでいる。

世界では、まともな筆記具を持っていない子供達が沢山いるのだ。

書くものがあるだけでも幸せな事だと子供達に教えるのがまず先では無いのか?

書道の時間を増やすなり、時間枠を作りノートに筆で書かすなりする方が、よっぽど理にかなっている。

 

私が義務教育の頃は、靴下に穴が開けば縫って使っていたし、兄弟ならお古を使うのも当たり前で、当然今の様な下着や靴下の色や、ワイシャツの指定なんか無かった。

その後学校が荒れ始め「金八先生」の様なドラマが作られていくのだが、その時の間違った生徒に対する対応の名残が、現代の生徒や親を金銭的にも、心に対しても負荷をかけている。

すなわち、根拠のない校則での締め付けや指導、例えば「運動中は水は飲むな」という、今では考えられない様な思考停止状態の頭の持ち主が、未だ教育に携わっている事の弊害だ。

現に、暴言を吐いたり、差別的な態度を取ったり、クラブ活動でも体罰をし、逮捕される指導者が後を絶たない事でも解る。

ストレスなのか、保育園や幼稚園でも同じような事例で逮捕者まで出る、何とも情けない状況だ。

その一方で押し付けや強要を、子供達に強いているこの矛盾。

ダブル・スタンダード、「 二重基準 」「 二重規範 」そのものなのだ。

 

確かに冒頭で書いたイジメ問題も子供にとっては深刻な問題だが、対応する大人達、教育委員会や学校の隠蔽体質と責任を取らない姿勢こそに問題があるのであり、この事を他人事として許容している大人社会を変えない限り、イジメは無くならないだろう。

しかも、政治家や官僚の一部までが、その様な姿勢でいる事に子供達の目にはどう映っているのだろうか?

子供達は馬鹿では無い

そう、大人になればもっと陰湿なイジメや責任のなすり合いが待っているかもしれないのだ。

 

人間形成において、これが正解という答えなど無い。

だからこそ、柔軟に、想像力を持って子供達と向き合わなければならない。

しかも時代や社会変化といった背景も考慮しながらだ。

遅咲きという言葉もあるくらい、子供は、というより人間は成長する速度がみんな違う。

体も大小様々で、障害を抱えている人だっている。

それがスタンダード、当たり前なのだ。

特に子供は未知数の部分が多い。

裏を返せば可能性の塊なのだ。

 

学校や社会が管理しやすい環境にする事に向かえば向かうほど、管理者は自らの自由や平等の権利を売り渡している事になるし、決して健全な社会とは言えない。

権力を離そうとしない大人が、子供達を苦しめているのだ。

そう未来を否定している事と同じなのだ。

 

子供が幸せな国(2)へと続く

次回UPします。

 

kenpa.blue


 あなたの支援で助かる命

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

一歩づつ

私が音楽スタジオで働いていた時に出会った人達は、素敵な経験と、出会いという大きな財産として今も心の中に残っています。

ある日、大阪のタレントさんから自作曲のカラオケを作って欲しいとの連絡を頂きました。

彼女は、アシスタントや講演、本の出版等活躍されている方で、TVで見る歯に衣着せぬコメントでも話題になっていた方でしたが、実際に会って話をすると、穏やかな話しぶりと笑顔が素敵な人で、勝手に印象付けしていた私は後悔し、上辺だけでは人は解らないものだとつくづく思いました。

それからは、大好きなタレントさんになったのです。

その縁で、ある男性の方が自作曲を作っているのでアレンジしてカラオケ制作して欲しいとの依頼があり、即答で「やります」と伝えました。

カセットテープに録音された彼のギターの弾き語りを聞き、自宅でカラオケ作成し連絡をすると、ボーカルも録音したいので家にお邪魔したいとの事で、その方が1時間半かけてやってきました。

勿論ボロアパートの自宅では大きな音は出せない。

二人ともヘッドフォンでモニターしながら録音をしましたが、近所からの苦情も無くほっとしたものです。

制作料と称して多めの金額を出して頂き、貧乏だった私は大いに助かり、飲みに行く事もあり、音楽だけでなく先輩として色々な話を聞かせて下さいました。

当時、美術の先生を生業とし、音楽活動にも挑戦されていた時期で、創作活動という共通点もあり、彼と打ち解けるまでに時間はかかりませんでした。

 

最近、自宅の古いテープをデジタル変換している時に、彼の当時の曲が見つかり、懐かしさと、笑顔の素敵だった顔を思い出し、久々に音楽をやってきた良さと思い出に浸っていました。

 

彼は権藤ミノルという名前で現代美術家であり、割烹や和食料理店でも飾られているほど素晴らしい絵を書かれるアーティストです。

個展を開いたり音楽ライブをやったり、最近は本を出版されたりと今でも精力的に活動されているのです。

権藤さんと最後にお話ししたのはもう30年近く前。

インスタグラムを通じ、連絡を取る事が出来たのです。

会えていなかった時期の苦労した話をされる権藤さんの懐かしい、優しい変わらない声を聞き、ここ数年間、精神疾患で落ち込み気味だった私は、久しぶりに明るい気分のまま床につく事が出来ました。

 

連絡を取りたくて手掛りを探す為ユーチューブを検索していた時、ヒットし、その演奏を見てびっくり。

路上ライブでキーボードを弾きながら歌っていました。

当時の権藤さん、キーボードは全く弾けなかったのですが、その後独学で練習したとの事。

ライブ活動で披露出来るまで上達した努力家なのです。

私はまず楽器としてドラムから入り、当時ニューミュージックと言われたポップ音楽を生み出す人達に刺激され、キーボードをやり始めました。

独学でやってきたので、その苦労は本当によく解るのです。

(注)この絵は、著作権の対象となっています。無断転記は出来ません。

権藤さんのインスタグラムで、上記のような本業のアート作品が見られるので、是非ご覧になって下さい。

「権藤ミノル」で検索すると出てきます。

 


おっさん絵ッセー

あわせて、私も読ませて頂いたエッセイ本「おっさん絵ッセー」

大阪らしいボケと突っ込みの中ににじみ出る、哀愁感がにじみ出る素敵な内容です。

中の挿絵も権藤さんが書いたものになっています。

 

人との出会いは不思議なものです

何十年も話していない人でも、繋がれば遠慮なく気さくに話せる友人がいる事は、とても幸せな事だと改めて思いました。

このブログ「友達がいない⦅本当に必要なのか?⦆」

kenpa.blue

の記事でも書きましたが、何かに向かって一生懸命になる事の大切さは、結果として良い「縁」への架け橋となります。

例え、一生懸命の結果として叶わぬ夢と終わったとしても、過程にこそ意味があります。

人間はどうしても結果ばかりに気を取られ、誰かに責任を負わせたい気持ちが働きます。

罪悪感や不安を減らそうとする心を守る防衛反応で、仕方がない一面ですが、それは自分の問題であり、課題であり、相手の問題や課題にすり替えては前に進めないのです。

一歩づつ、それは正に一所懸命に「生きる」事です。

 

例えば、悲惨な交通事故で子供を失くされた方が無念で、後悔にさいなまれるのは、

一生懸命生きていた我が子の実を結ぶ姿を、絶対に見る事が出来なくなるからです。

勿論、実を結ぶかどうかは誰にも解りません。

が、生きている限りは希望があるのです。

出会いも、運命も、神様でさえ解らない事なのです。

いつ何が起きてもおかしくない世の中に住んでいます。

例え一歩づつでも行程を味わいながら進む事が、どんな形であれ報われると信じています。

何か一つでも夢中になれる事を探して下さい。

ゲームでも、家庭菜園でも、山登り、スポーツ、詩を書く事や映画を観る事でも、何でもいいから一生懸命やり続ける事で、見えてくるものがきっと出てくるはずです。

新たな人との出会いも、新たな視点も必ず財産になります。

 

その為に、

孤独では無く、「独り」になる事です。

そう、人間であるが故の優しさや、思いやり、共感を持ち続ける一人の人間としての「独立」の事です。

誰かがいての自分では無い、己の強さといってもいいでしょう。

一歩づつ一生懸命、何があっても生きる事です。

 

独りでも大丈夫

 

独りは宇宙(そら)を彩る星々で

独り独りが集まって

夜空が奏でる銀河の旋律

 

孤独は海を漂う木片で

孤独同士が集まって

寄せては返す藻屑(もくず)と消える

 

独りは孤独の雨をよけ

濡らすも一時(いっとき)の通り雨

 

孤独は心の隙に付け込んで

内なる声を吹き消す嵐

 

独りなら大丈夫

だから

あなたがいれば

もっと大丈夫

kenpa.blue

当時、二人で制作した、権藤さんのオリジナル2曲をUPしました。

私自身とても思い出深い好きな曲です。

作詞・作曲 権藤さん。

で、ボーカルは私です。

残念ながら本人のボーカルバージョンが見つからなかったのでお許しを。

 

作詞/作曲「権藤ミノル」オリジナル曲

 

つまずく度に 振り返る 

時間の全てが 君の為にあったあの日々

昨日の事も 明日の事も 迷いは無かった 

悔やまなかった 信じていれた

 

あの日と同じ星見つめ つぶやく僕がいる

大人になるってこんなに 辛い事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

涙の跡が 染みついた 

君との別れを綴った日曜日のページ

にじんでしまった 君の名を

口にすれば鮮やかによみがえる胸の高まり

 

あの日と同じ風匂う 疲れた僕がいる

大人になるってこんなに悲しい事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

都会のざわめきの中 彷徨う僕が見える

本当の自分自身 見つける旅が続く

 

あの日と同じ雨に濡れ たたずむ僕がいる

大人になるってこんなに 寂しい事なんだね

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

僕は変わってしまったけれど 

君はどうしているのだろう

 

作詞/作曲「権藤ミノル」オリジナル曲「光る海」

覚えているかしら 二人が初めて

甘い口づけ交わしたのは

あなたの大好きな海

沈む太陽が銀色に染まり

まるで映画のワンシーン

光に包まれていたわ

 

想い出がいつもこんな風に美しいのなら

恋する事に臆病になりはしないわ

あなたとの事がたとえ過去になったとしても

ここに来れば光る海がいる

 

覚えているかしら沖行く船に

声を限りに打ち明けた

夏の終わりを告げる海

陽炎に揺れる白いマストには

まるで愛と戯れる

風が帆に抱かれていたわ

 

想い出がいつもこんな風に美しいなら

恋する事を諦めたりしないわ

あなたとの事をもっと深くする為に

ここに来るわ 光る海がいる

想い出がいつもこんな風に美しいのなら

恋する事に臆病になりはしないわ

あなたとの事がたとえ過去になったとしても

ここに来れば光る海がいる

想い出を抱いて

 

(注)オリジナル曲紹介の歌詞の中で使用している絵は、権藤さんのオリジナルを加工して使用しています。オリジナル作品はぜひ、「権藤ミノル」インスタグラムをご覧下さい。無断での使用は出来ません。

 

なお、権藤さんのライブは、YouTubeで「権藤 実」で検索すればLIVE映像も視聴できます。

本人曰く、「一歩づつ」という曲が自分でも好きな曲との事です。

youtu.be

 

記事の中で書いた「独り」に関する内容の第二弾は下記のリンクでお読みください。

kenpa.blue

あなたの支援で子供に未来を!

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
       みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

 

 

パンダとペット

幼い頃、我が家では動物好きの父がペットと称して、色々な動物を飼っていた。

犬、九官鳥やメジロカナリア文鳥、ニワトリ、カメと日曜大工が得意な父が檻を作り、それは賑やかだった。

よく野良猫が侵入し、鳥をくすねていった。

父は、怒りながら破れている柵を直していたものだ。

父は猫がよっぽど憎かったらしく、一度も飼った事は無かった。

当時はスピッツやチワワが人気の犬だったが、飼っていたのは何処で拾ってきたのか解らない犬。

外で飼うのが当たり前で、ドッグフードなど無い時代、私は犬に残飯をよく運ばされていた。

私自身、動物には全く興味が無く、九官鳥に言葉を教えるぐらいで、母は「くさい」「汚い」という言葉をよく連発していて、父が世話をしていたが、確かにくさいし毛やフンが嫌だったのを思い出す。

ある日食卓に鶏肉の鍋が出てきたのだが、父いわく「飼っていた鶏だからうまいぞ」と。

私は一切箸をつけなかった。

その後も、卵を産まなくなったニワトリを絞める父を見る度、ペットとしてでしか見てこなかった私にとっては、衝撃の連発だった。

 

当時の家は都市から離れてはいたが、いわゆる都市からドーナツ型に分布していた場所で、家がどんどん建てられていた地域だったが、まだ田んぼもあり、小さな牛小屋もあった。

学校帰りに牛小屋に行っては、餌をやったりと格好の遊び場だったが、近代化に伴い、田んぼも牛小屋も建売住宅と変貌していった

乳牛では無かったから、牛達は食べられたのであろう。

 

上野のパンダが成田空港発のチャーター機で中国に返還された。

世界の絶滅危惧種リスト(レッドリスト)で絶滅の緊急度が3番目に高い分類のパンダ。

シャンシャンの両親「リーリー」と「シンシン」彼らのレンタル期間は10年で2頭のレンタル料、年間95万ドル。日本円で1億800万円だそうだ。

レンタル料は野生動物保護の活動資金に充てられているとされている。

経済効果を考えると、この値段は賛否が分かれるところだが、それにしても高い。

上野動物園周辺や、成田空港でも別れを惜しむ人が大勢いて、中には涙ぐむ人もニュースでは流されていた。

反感をかうのを承知で書かせてもらうと、パンダ返還がトップニュースになるメディアにはあきれ返る。

逆に良い機会として動物愛護の番組を流せば納得も出来るのだが。

パンダに罪はないが、死んだわけでも無いのに、泣くほどのものなのか私には理解が出来ない。

それよりも危うく轢くところだったネコの事の方が心配だ。

寒い中、何処で休んで食べているのか想いを馳せている。

 

令和2年度(2020年)犬猫あわせ72,433頭もの犬猫がセンターに引き取られている。

その内23.764匹が殺傷処分されている。

怪我や病気で処分(嫌な言葉だが)された個体数も含まれているとはいえ、胸の痛くなる数字だ。

年々、引き取り数が増え、処分される数も減ってきているのは喜ばしい事だが、単純に喜べないのは、引き取り手が単に一般人だけでなく、動物愛護団体NPOも含まれている事だ。

勿論引き取る数も限度があり、様々な活動で飼い主を探しているのが現状だ。

また収容された犬や猫の手放す理由が、「面倒」「ウンチの世話が嫌」「トイレを覚えない」「病気になった」という人間側の誠に勝手な都合によるものも多いと聞く。

エサや環境が良くなり、ペットも長生きするようになってきた。

そして人間と同じように、認知症てんかん、心臓病、癌などの病気を患う。

当然、費用も馬鹿にならないであろう。

その事も考えての購入だったのかも含め、想像力の大切さをもっと啓発すべきだ。

 

TVではペットを含む動物を題材とした番組やタレントが飼っているペット紹介、ニュースでも可愛らしさを「癒し」の意味でか解らないが流し続けているが、どうも一方的な見方で動物を取り上げている様に見える。

擬人化したり、可愛さを強調したりと。

それに比べ殺傷処分される事を取り上げている番組は遥かに少ない。

せめて、テロップで流すなりして、飼い主に対する心得などの啓発をしてもらいたい。

マスメデアに義務化すれば良いくらいだ。

そう「不適切な言葉使い」「暴力」等など、映画の冒頭に書かれている文言の様にだ。

アパートの一階で一人暮らしをしていた頃、隣の部屋には中年の男性が一人で住んでいた。

会えば挨拶する程度で、交流は無かった。

アパートなので動物は飼えないのだが、その男性の部屋からよく猫の鳴き声が聞こえていた。

ある日を境にその男性の姿を見かけないようになった。

換気扇は回っているのだが、電気はついていない。

心配になりドアの郵便受けから声を掛けても返事がない。

アパートの奥の引き戸を開けると風呂場とトイレがあり、屋根はついてはいるが外と同じ環境になっている構造で、隣の裏に回り少し引き戸が開いていたので覗く事にした。

引き戸のガラスの内側に大量のハエが止まっている。

恐る恐る開けてみると、ゴミ屋敷状態で猫が2匹死んでいた。

大家さんに通報し、私は何も考えずに何故か猫の屍を私の部屋の下の基礎部分に潜り込み、穴を掘り、埋めてやった。

しばらく月日が流れ、異臭がするので下の基礎の方に懐中電灯を当てると、別の猫が死んでいた。

きっと、死に場所に私の部屋の下を選んだのだと思うと、不気味と言うより不思議な感じがしたのを覚えている。

死期が近づくと他の動物に狙われやすくなり、身を隠すと聞いた事があり、安住の住み家として私の部屋下を選んでくれたのかと思うと、切なくなってしまった。

そして二日ほどしてから、知人からオスの子猫をいらないか?と連絡があった。

何かの縁と思い飼う事にした。

「ピート」と名付け、小さいうちは家の中で飼っていたが、大きくなるにつれ可哀そうになり、元来動物は外で飼うものと考えていたので、出入りを自由に出来る様にしてやった。

首輪は付けておらず、リードも無いが、散歩すると犬の様についてきた。

毎日楽しそうに出かけていき、アルバイトから帰宅すると彼も戻ってくる生活。

楽しくもあったが、おかげで家の中は蚤がピョンピョン跳ねるぐらいで私の足は、赤い点々だらけに。

薬を飲ませたり、病気になれば7万円という当時の私にとっては大金を払って治してもらったりしたものだが、ある日首輪が付いている事に気が付いた。

彼はどうやら二重生活をしていたようだ。「この浮気者」「恩知らずめ」と叫んでも目も合わせない(笑)

そして、ついに戻ってこなくなった。

何度も探しに行ったが見つからず、数日間はとても寂しい思いをした。

「猫なんか絶対に飼わない」と誓った日だった。

多分、浮気先で家中、蚤だらけにしている事だろう。ざまあみろだ!はははっ!

フィリピンでは玄関に水槽があるとお金持ちになると言われているので、結婚当初から魚を飼っていた。

水質や温度、餌、掃除など気を遣う事が意外と多い。

残念ながら、引っ越す事になり飼っていた数匹の魚は引き取ってもらった。

が、15年近く飼っていたが、お金持ちにはならなった。(笑)

管理が難しい熱帯地方の淡水魚だったので、薬を入れたりしてもどうしても死んでしまう。

勉強不足が原因で今でも悔やむところだが、飼っていた当時、よくペットショップに足を運んで、安い魚を選んで買っていた。

ペットショップには当然、犬や猫、蛇やトカゲと色々な動物がいたが、特に犬猫ケージには休日ともなると、沢山の人が集まって覗いている。

「可愛い」「欲しい」そんな言葉が飛び交っている中、「いつか死ぬんだぞ」「飼うのは大変だぞ」とつぶやいていた。

 

動物好きが多い国フランスでは、動物の扱いに関する法律の改正案を可決し2024年にペットショップで犬や猫の販売が禁止されることが決まった。

動物保護団体によると、毎年10万匹もの犬や猫などが捨てられて、特に「バカンス」の時期に多いと報じられている。

一概にペットショップだけが悪いと言えないが、目の前で見て、動物を安易に購入できる今のショップの在り方は考え直さなくてはいけない。

近年はインターネットでも販売され、簡単に手に入る事も大きな問題だ。

また移動販売も少なからず行われている。

ペット博覧会の様な名称で、売れ残りを減らす為も兼ねて、価格も安く売っているのだが、ネット販売と同様、移動販売も、返品や苦情などのアフターケアが出来ないケースも多々あり、また悪質業者もいる事から注意が必要だ。

加えて、移動の際にペットへの負担がかかる事も問題で全面禁止にすべき時期だ。

パンダの様に特別チャーター便では運ばれないのだから。

 

日本も動物愛護の視点から環境省もやっと重い腰を上げ、展示販売は、生後56日を過ぎてからとか、飼育頭数の制限、飼育環境の見直しや購入者への注意喚起、マイクロチップ導入などの動物の扱いに対する規制を強化したが、お金が絡む事もあって悪質業者も後を絶たず、効果はあまり期待できない。

(買う時に生後何日か、確認すれば業者の質も解る)

当たり前だが、物言えぬペット達は窮状を訴える事が出来ないのだ。

役所が決めても監督する能力が有るのか、甚だ疑問だし、またおざなりの監査で責任を取らないという繰り返しにならないのか、そっちの方も心配だ。

動物を買う、すなわち命を買う時には、最後まで看取るという誓約書を書いてもらい、賃貸契約と同じように、同居者以外の保証人のサインも必要とするべきではないか。

同時に、動物病院とも連携し、保険を義務化し登録。

推し進めようとしているマイナンバーと紐づけするぐらいの法律を制定すべきだ。

(お役所仕事にならなければ良いが)

ペットは飼っている人にとっては家族同然であるのだから、当然の義務だと思う。

あくまでも、「買う」という行為に対してであり、無償による引き取りや保護する場合は、登録(マイクロチップ)と予防接種だけでそれ以外は免除すればよい。

そもそも、そのような人達は身勝手に捨てる様な事をしないと思う。

 

犬や猫といった身近な動物は、人間の手で品種改良されてきた。

しかし、その裏で見栄えを良くする為、すなわち美容目的や室内犬にも関わらず、怪我からの感染症を防ぐ為と称して尾を切断(断尾)したりする事が、今でも行われている。

例えばトイプードルやヨークシャテリアなど、人気の高い犬も見た目の良さだけの理由で断尾されているのだ。

考えて見れば、人間は残酷な動物なのだ。

人間は動物をコントロール出来ると思っている。

このブログ内の記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆」でも書いたが、彼らもまた人間を利用している。

絶滅危惧種に指定される事で、種の保存にも繋がっている事から分かる様に、遠い昔なら絶滅してもおかしくない動物達が、人の手で守られている。

考えて見て欲しい。

地球の環境が人間にとって住みにくい状況になれば、人類は絶滅危惧種になる。

誰が保護してくれるのであろうか?

そう、愚かにも人類は自らの手で絶滅危惧種の方向へと進んでいるのかもしれない。

 

地球に住んでいる動植物は相互関係、つまり依存され依存している。

それは思っているほど深く、そしてもろい。

絶妙なバランスの上で成り立っているのだ。

無駄に殺したり、虐待したりする事は、そのバランスを崩す事となる。

パンダも犬や猫も、そして人間も同じ命で、一回こっきりの人生だ。

彼らから学ぶも事は沢山ある。

多くの事を無言で教えてくれる。

もし良き友達、家族としてペットを迎え入れるのなら、どうか最後まで見てやって欲しい。

同じ星に住む生き物として!

 

いつも傍に君がいた

君から見た僕の時間は、無駄遣いが多いらしい

僕から見た君の時間は、あまりにもそそっかしい

僕の容姿も、僕の性格も

無言で見つめる君は、気にもしない

ただ、ただ僕の傍にいて

生れ出た命の喜びを振りまいている

 

流れの違う時間の接点に

ありったけの想いをぶつけ

短すぎる夏休みの終わりの様に

遊び足りない子供の様に

静かに君は目を閉じた

 

君が教えてくれた事

今でも絶対忘れない

生れたその意味と

遊ぶ事の大切さと

何より無償のぬくもりを

 

kenpa.blue

 

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
      ↓ みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

人権問題は戦争への近道(2)

 

人権問題 は私の経験からも言えるが、教育が大きく関わってくる。

人間形成に欠かせない教育の役割は、その後の生き方にも大きく影響を及ぼすからだ。

知らず知らずのうちに刷り込んでいる危険性を、教育に携わる人達に今一度考えてもらいたい。

最近ではジェンダー平等の動きの中、制服などの見直しや着替え、トイレなどへの取り組みも一部で始まってはいるが、根底にある意識が変わっているのかと言うと疑問である。

改革は素晴らしいが、上辺を繕っている感はぬぐえない。

何故なら外観だけの話ではなく、内面、心の問題に焦点を当て、歴史が示してきた愚かさを教えるというアプローチが無さすぎるからだ。

我息子の中学時代の道徳の教科書を見たが、ジョン・レノンの「イマジン」(Imagine)やマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」(Heal The World)の曲を聞かせるほうがよっぽど心に届く。

道徳教育はそんな簡単に出来るものでも無いし、役人が決める事でも無い。

ただでさえ大変な仕事である先生に負担をかける今のこのやり方は、中途半端でしかない。

道徳を学んで欲しいのは、教育委員会や国のお偉方の方だ

後述しているが「教育再生実行会議」や「教育未来創造会議」といった政府の方針は、いじめ問題が発端になり、家族の在り方、後に「一人一人の多様な幸せと社会全体の豊かさ」「ジェンダーギャップや貧困」などに取り組むと書かれているが、そもそも、いじめが起きても誰も責任を取らない、身内をかばう姿勢の大人達がどうやって道徳なるものを教えられるのか、甚だ疑問なのだ。

教えるというよりも、考える事、想像する事に重きを置くべきで、正解を出す事では無いはずだ。

その為には家長制度などの歴史を紐解く必要があるし、ヒントが隠されている。

 

日本は、西洋から様々な文化や考え方を取り入れ発展してきたが、反面キリスト教などの宗教を重視していた国から学んだ事もあり、LGBTQは許されるものでは無いという意識が生まれた。

時の政府の西洋に学べという後押しもあり、それが一般的な考えとされ人々の中に定着していった。

皮肉にも学んだ国から遅れていると言われているのが日本の現状なのだ。

性差や差別にも関係が大きい、男尊女卑や家長制度も日本の長い歴史を顧みると浅い事が解る。

男尊女卑は中国や朝鮮半島の「祖先崇拝」という考えが日本にも影響を与えられたとされているが、江戸時代の武家社会以降、この考え方が主流となっていった。

逆を言えば、それまでは男女それぞれの役割、分担はあったものの、男尊女卑の考え方は無かったとも言える。

また、そもそも同性愛は神道でもタブー視されてはおらず、江戸時代初期の頃までは寛容だったという資料も残されているくらいだ。

もう一つ要因として考えられるのは、やはり権力の構図であろう。

LGBTQの問題は家族形態や家長制度が大きく関わっている。

江戸時代には平民には名字が無かったとされるが、実は持っていたとされ、武士だけが名乗る事を許されていたにすぎない。

そして明治時代の前述の西洋に学び追い越せという時代に徴兵目的での戸籍政策により姓名の届け出の義務化が進んだという経緯がある。

 

結局、国として権力を維持する為=戦争という短絡的かつ無理解者達が今の日本の在り方を変えたに過ぎない事が解る。

その裏で差別に苦しむ人達が多くいたし、無視されてきたのだ。

つまりその歴史は浅く、また権力者にコントロールされやすいシステム作りという訳だ。

それは、自公政権でも「家族という位置づけ」「まず家族で何とかして下さい」という発言からも解るとおり、政府が責任を持ちたくないという姿勢や関わると家族の在り方を明確にしている宗教団体の絡みもあり、選挙そのものにも影響が出てくるといった身勝手な議員達による、自己中心的なシステムを失いたくない為だけに過ぎない。

会社でも根拠のない、未来を見据えない頭の固い人間がトップにいると、下の者が苦労するのと同じ事なのだ。

 

後に教育未来創造会議と変わっていくのだが、安倍前首相が第一次政権で「教育再生会議」を、第二次政権で「教育再生実行会議」を開き、様々な戦前とも思われるような教育内容に一部変えてしまう事になった。

道徳に重きを置き、挨拶の仕方等細かく表記している教科書まで出てきた。

文科省が選定する教科書という事は、道徳も文科省が決める権利を有する事になる。

その内容は、あくまでも個人としての解釈だが、教育勅語そのものと言ってもよいくらい「らしさ」や「こうあるべき」と押し付けのオンパレードなのだ。

この令和の時代にだ。

Wikiwandより

 

この時期、旧統一教会問題は発覚しておらず、票欲しさに議員が関係を続けていた事は周知の事実だ。

この宗教が唱える家庭の在り方に議員も、当然賛同し、もしくは賛同せざるを得なかったと考えるのが自然である。

残念ながら、故安倍氏を含めその関係性を現政権はうやむやにしたままなのだ。

(詳しくは書ききれないので「東洋経済オンライン」で調べれば出てきますのでご参考に)

この事もLGBTQ、夫婦別姓外国人差別等の問題をどんどん先送り、むしろ逆行させてきた原因なのだ。

 

また政府・自公政権与党は当初、「こども庁」としていた名称を「こども家庭庁」に変更した背景にあるのは、子供は社会全体で見守るという考え方ではなく、家庭でやりなさいという古臭い議員たちの考えを反映させた結果だった。(票欲しさによる宗教の影響も考えられる)

結局少子化に歯止めをかけるどころか加速させる様な政策になってしまった。

 

岸田政権では、G7の一員としてのメンツの為、人権に関する問題を小手先の対策しか出せないでいる。

というより急場しのぎの中身の薄い対策ばかりなのだ。

差別発言で一部撤回、陳謝したものの、未だ問題になっている杉田水脈総務政務官の起用など、首相としての任命責任は余りにも重いし、理解に苦しむ。

軍拡には早々と予算を組みアメリカを喜ばせ、福島原発の後処理のめども立たない中、大企業救済としか思えない様な、原発延長や新設に加えて、政府は2月10日の閣議で、自衛隊の任務に不可欠な装備品を製造する企業の事業継続が困難になった場合は、生産ラインを国有化し、別の企業への委託を可能とすることなどを盛り込んだ法案を決定したのだ。

しかも装備移転・輸出の抜本的拡大も視野に入れている。

解りやすく言うと、武器も装備も大企業を支援して政府が後押しをし、管理をし、他国に売ってもいいのではないかという事だ。

肝心の国民に対する様々な緊急を要する政策は、「善処する」「広く国民の合意を得る為の努力が必要」等とはぐらかしている。

聞く耳は、国民ではなくG7内の要人と議員の身内の為にあるらしい。

 

いつも誰かを裁いている

己という名の法律で

根拠や弁明の余地もなく

有罪と声を荒げ読み上げる

次から次へと罪人を

作り出しては勝ち誇る

考えてみるがいい

裁かれているのは誰なのか

真の裁きの法廷に

己の姿がそこにある事を

 

人類は常に新しい事を見つけ出し、工夫し進歩してきた。

それは単に技術だけでなく、決して一人では生きていけない宿命を持った人間という存在の意味を問いかけ、この地球を共有している意味を常に上書きしなくてはならない。

世界に類を見ない平和憲法を持った国にふさわしい、人権や安心安全な国としての責務がこの日本の世界に対する役割なのだ。

自国の偏見や権力維持、責任を取らない人や政治、過去から学ばない姿勢を正さないと、他国で起きている人権問題にどうしてものが言えるのだろう?

国内の外国人に対する入管の対応のひどさも、私達は当事者目線で観てきただろうか?

もし自分の家族であったならどう思うであろうか?

政府は入管法を改正しようとしているが、難民申請中の母国送還を可能に出来たり、「在留が認められない者を迅速に送還」の項目では、退去を拒む外国人に対し強制送還や自発的出国の促しが付け加えられている。

今尚、入管収容施設に入っている外国人達の苦悩はどれほど私達に伝わってきただろうか?

不服があれば訴える事も出来るが、そもそも紛争等で逃げてきた人達に証拠集めをさせるのは、国に帰れと言っている事と同じだ。

インバウンドで浮かれている裏で、技能実習生や留学生に対する扱いなど、明らかに差別ではないかという事例も頻繁に起きているのが「おもてなし」の国、日本の現実なのだ。

 

ウクライナからの受け入れ対応と、クルド人を含む他の外国人達への対応の違いはなぜこんなにも違うのか?

もしかしたら私達は同じ人間としてでは無く「らしさ」すなわち、伝統や文化に触れ心動かされ、治安の良さに感心し、食べ物の旨さに驚くという様な「外国人らしさ」で彼らを見ているだけではないのか?

特に感じるのは、アジア圏黄色人種と西洋人に対する見方の違いだ。

私の知る限り、接し方や扱いに差を非常に感じる。

この様な問題の全てのツケを払わされる時が何時か必ずや来るであろう。

まだ今なら間に合う事も沢山ある。

いや、やらなければならない。

それには国民一人一人が差別や偏見、理不尽な制度に「NO」を政府に突き付ける必要が不可欠なのだ。

けっして他人事ではないし、無関心に加え、何より傍観してはならない。

必ず周り廻ってツケを払わせられる事になるのは国民であり、未来を担う子供達なのだ。

政治家や官僚、学者や評論家で無い事は確かなのだ。

もしかしたら、尊い命でもって払わさせられるのかもしれない

 

私が非常に危険だと思う事は、現政権は戦前の政権の様相になっている事だ。

個々、国民の事では無く国としての方向ばかり、勝手に舵をきってアメリカの巧みな戦略に巻き込まれている事だ。

LGBTQ、夫婦別姓、在日外国人や訪日外国人差別に取り組む事に及び腰なのは、国の戦争準備としてか、また選挙に都合が悪い為なのか、むしろ歴史の逆行を願っているのが本音としか見えない。

岸田首相の同性婚の法制化について「社会が変わってしまう」発言は文字通り本音だろう。

何故なら、いつの時代でもキッカケは些細な事として問題を軽く扱い、そして見落とし対処を誤る事で大きな失敗に繋がっている事実を歴史が、そして社会が示している。

誰も責任を取らず、過去から学ばないほど愚かな行為しでかすものだ。

正にバタフライエフェクトだろう。

結果、平和を謳った民主国家の名ばかりの縛れらた自由の無い世界になっていく事は、目に見えているからだ。

そこから生まれるものはロクなものは無い。

現政権に対し危機感を持って見守る必要をつくづく感じる。

 

厳しい目で政権自公与党の動きを見、選挙という手段で態度を示したいものだ。

憲法は権力者の抑止の為にあり、法律は国民の安全安心と権利を守る為のものであるはずだ。

そう、性差や趣向、家族形態を一律に定義するものでは無い。

むしろ個々の尊厳と自由を保障するものなのだ。

人間が人間らしく、個々の考えが尊重される社会構築に近づける努力を常にし続け、実現するような政治、政策の実行でなくてはならない。

それは正に誰もが自分らしく生きる権利を持つ事を意味し、奪われてはならないし、誰にも奪うことは出来ないのだ。

この地球では人類、人間という一つの種であり、それ以上もそれ以下も無い。

性差、人種を超えて愛を感じ、夢を描き、共感し、共鳴でき、犠牲をいとわない勇気を持った人類という、暖かい赤い血が流れている種族ではなかったのか?

だからこそ、この地球の住人として住む事を許されているのではないか?

そこに国境など存在しない。

例えそれが理想としても、実現可能に出来るのは人間だけなのだ。

それを先陣きって世界に広める国、日本でありたいものだ。

見上げれば

電線が星を区切ってしまう

地上に引かれた境界線は問いかけた

ずっと眺めて来たけれど

星ぼしは

上からの景色に線など無いと言う

鳥も虫も動物も

当たり前だと空を仰いで同意した

地球や心の線引きを

黙って諭す限界に

自然は憐みをもって示すだろう。

君達はもう去るべきだと

 

kenpa.blue

 

 

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

 

「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
      みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413

人権問題は戦争への近道(1)

「LGBTQ」の事が取りざたされるようになって、キッカケの良し悪しは別として良い方向に少しは動き出した。

この問題は夫婦別姓問題や外国人差別少子化問題と切り離しては考えられない問題だからだ。

何故なら、根底に流れている差別意識や植え付けられた歪んだ常識が招いている問題だからだ。

加えて手を打たず放置すれば、民主主義が犯され争いへの道に進んでしまう。

 

昭和の時代を生きてきた私にとってLGBTQの人達の事は全く頭に無かった。

逆に気持ち悪い人達と当時思っていた。

学校でも男であるのにナヨナヨしている友達を見るとついからかってしまう風潮があった。

らしさ」にこだわり、植え付けられていたからだった事が解るまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。

らしさ」という言葉は、性を表現する方法として社会全体が受容していたからだ。

「男のクセに…」と何度も聞かされ、自分でもそう言い聞かせていた。

それは家庭内にとどまらず、学校や社会でもそうだったから、未熟な私にとって選択や疑問を持つこと等考えもしなかったし、考えられなかった。

多くの人の娯楽だったTVも、「男はこうあるべき」とか「女性はこう振舞いなさい」というベースの上に作品が多く作られていた時期で、家庭像もマンガ「サザエさん」に見られる様な形態が普通、当たり前とされていた。

実際私の母は、当時では珍しく外で活躍したいという願望があった人だったが、女は家にいるものだという父の考えで、ずいぶん苦しんでいたように思う。

その為か、夫婦喧嘩が絶えなかった。

また教育現場でも「トランスジェンダー」「性同一性障害」に関する授業おろか情報も皆無でその言葉すら聞いた事も無かった。

せいぜい友達と異性に対しての好奇心からくる思春期特有の会話くらいだった。

振り返ってみると、性差に苦しんでいる友達もいたかもしれないと思うと、その胸中は現在よりもさぞかし苦しかったに違いない

 

1980年代はエイズ(AIDS ・Acquired immune deficiency syndrome, 後天性免疫不全症候群)と呼ばれる病気が認知され出した頃で、同性同士の濃厚接触等(他の感染ルートもあります)によりうつり、不治の病として恐れられていた時期で、その事もLGBTQの人達に対して風当たりが強かった。

日本でも差別や偏見が渦巻いていて、エイズ=同性愛という図式で見ていた人が多かった。

後に、感染が粘膜や血液からと、情報が増えるにつれ実際には感染のリスクが無い手を握る事や、その場に一緒にいる事さえも許せないという空気になったのを今でも鮮明に覚えている。

 

私の友人も心当たりがあったのか、体の不調をエイズかも?と思い大変怖がっていた。

彼は献血する事でエイズ感染の有無を知る事が出来るとい情報を得て献血をし、結果陰性だった。

結果が解るその間、私は彼の傍にいる事を少し恐れている自分がいた事を今でも思い出す。

偏見や差別は許されないと自信を持っていたこの私だったはずなのに。

今では治療法、薬も進歩し、不治の病では無くなり、最近ではエイズの言葉さえ聞かないようになっている。

 


ボヘミアン・ラプソディ [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]

2018年公開のイギリス・ロンドン出身のロックバンドで1970年代前半にデビューしたクイーン(Queen)の伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見た方も多いだろう。

映画館で私も妻と一緒に観て素晴らしい映画だったので、家に帰ってクイーンの曲を聴き直したくらいだ。

クイーンのボーカリストであるフレディー・マーキュリー(Freddie Mercury)もエイズで1991年、45歳の若さで亡くなった。

彼は両性愛者、バイセクシュアリティ(bisexuality)であったとされ(公に明かす事はなかった)彼の死でエイズが大きくクローズアップされたのは周知の事実だ。

 

最近は梅毒や淋菌、クラミジア等の性病が流行っているとのニュース報道があったが、自覚症状が初期に出ない事や、恥ずかしさもあって受診をためらう人も多いと聞く。

大切なパートナーと自身を守る為にも、勇気を出して受診してもらいたい。

恐れられていた病気はLGBTQと紐づけされ、多くの傷ついた人を生み出したが、粘膜、唇や性交等でうつってしまう病気は存在しているのだ。

要するに、LGBTQの人達の問題としてではなく、誰にも起こりうる事であり、だからこそ偏見や差別をさせない、しないを自覚し、助長させてはならない。

そう、過去から学ぶ事に尽きる。

私が30代にアマチュア用音楽スタジオで働いていた時の事だが、準備の為スタジオ内を掃除し、一息ついた時に一人の外国人男性が入ってきた。

多分20歳後半か30代くらいだろうか。

「営業時間はまだですけど、練習ですか?中で待ちますか?」と声を掛けたのだが、返事が無く小さな待合室のソファーに座った。

「日本語は解りますか」と私。

彼は言いにくそうに「I want you to be my friend」と話をした。

当時英語力はカーペンターズの曲を少し理解できる程度で、英語で会話などした事も無かった私は返答に困ってしまった。

身振り手振りも含めて、寂しい生活を送っている事と男性のパートナーが必要だという事が解った。

私が初めてゲイの人と会った日だった。

「ごめんなさい…」と言うと寂しげに帰る彼の後ろ姿は、今でも鮮明に記憶している。

きっと、看板の「music studio」の文字を読み訪ねてきたと思うと、胸が痛い。

音楽をやっている若者達が出入りする仕事なので、「男のくせに」「女だてらに」という価値観は私の頭からすっかりなくなってしまった。

音楽に、性別や人種、価値観を持ち込んだりする人などいなかった。

化粧をしたり、女性の様に話したりする人等、沢山の個性豊かな人達の出会いが、幼い頃受けてきた押し付けや偏見を拭い去ってくれたと思う。

もしそのような出会いや経験が無ければ、理解していなかったかもしれない。

昭和の時代を過ごしてきた人達の大半は、無意識の中で表にも出さない偏見を持っていたと思う。

TVでは大人達が、「男女(おとこおんな)」「おかま」と呼んでいたタレントが出てきだした頃だった。

先進国G7の中で日本だけがLGBTQ法整備をほとんど整えていない事はニュースでも大きく取り上げられているが、私の妻の国フィリピンでは、キリスト教を元に国の制度が定まっている為当然、LGBTQの結婚や権利は保証されてはいない。

原則、離婚も出来ないし、堕胎もダメで犯罪や売春による、いわゆる望まない出産も多い。

そもそも日本の様な戸籍で国民を把握しておらず出生記録証明書や洗礼証明書がその代わりの役目をしているが、それさえもやっていない人も多い。

LGBTQの事を妻に聞くと確かに昔は偏見があったが、今は無いという。

トンボイ・バクラと呼ばれていて、TVの司会やタレントにも多くいる。

妻に言わせると、「国民の四分の一は、いるんじゃない」という事だった。

実際妻の従兄弟にもバクラ、男性だけど脳は女性という心の優しい人がいて、少し前まで妻の母の身の回りの世話をしてくれていた。

同じ従姉妹にはトンボイ、体は女性だが脳は男性の人もいて、周りの人達も何の偏見も無く、同じ人間として生活をしている。

国としての結婚等の法整備は宗教の事もあり難しいが、遥かにその面では日本よりも理解が進んでいる。

生活している上での偏見も無いが、妻に聞くともし結婚したいならアメリカに行く人もいるとの事だった。

妻はよく自宅でフィリピンのドラマや映画を観ているのだが、それはそれは個性豊かな人達がいっぱいで、自分を性でひとくくりにすることなく、ありのままでいる事を見せている。

カミングアウト(正確にはcome out)等する必要もなく、服装やアクセサリー、髪形などの規則で縛られるような学校がもそもそも存在しない(制服もあるが、ある程度収入が無ければ用意出来ない。またお金持ちが行く、日本の学校形態の様なプライベートスクールはあるが、ほんの一部である)ので、心だけでなく服装や髪型といった外観も含めてが個性だと皆が認めている。

何より、それが普通の事であり、LGBTQの事に関しては性よりも人間性が重視されている国なのだ。

 

人権問題は戦争への近道(2)へ続く

 

(文中に出てくる言葉で、不快な思いをされた方がもしいらっしゃればお詫びいたします。

記事の意図をご理解の上、お読みくだされば幸いです。)

 

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン


「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
       みんなで社会を動かす仕組み

20221028152413