心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

車の運転は、真剣勝負⦅知らないと事故をする⦆(3)

このブログの趣旨、趣向が異なるのだが、長年車の運転をしてきて、いよいよ言いたくなって、いや書きたくなってしまったのだ。

 

車は生活する上で欠かせない人も多いと思うし、高齢になっても必要としている人達が多いのも良く解るのだが、チョット考えてもらいたい事がある。

運転している人達の中に、まるで事故をして下さいといわんやばかりの人がかなり多い。

2021年の概要・事故発生件数は30万5425件で負傷者は36万1768人、死者数は2,636人(政府統計総合窓口による)減少傾向とはいえ、大切な命が毎年奪われている。

 

まず、車体の外についている様々な灯火(ランプ)は、何の為についているのか?だ。

信号待ちで、信号が変わった途端、指示器を出す輩(やから)

「まっすぐ行くと店に突っ込むぞ~」と後ろから突っ込みを入れたくなる。

「交差点30m手前から出すんだよ!」違反だぜ!

先に障害になるような何もない道でブレーキランプを踏まれる。

「何だ、何なんだ」と考えている時に、急に指示器を出したり、止まったり。

「ブレーキ踏む前に合図出してくれよ」と叫びたくなる。

ムリに入ってきてハザードランプでサンキューって、それは無いだろう!

ハザード出して終わりなら警察要らんでしょう。

元々は車両の危険を知らせる「非常点滅表示灯」という位置付けだが、スーパーの駐車場などで後続車にバックする意思を伝えたり、渋滞の最後尾時に点灯し、後続車に注意を促したりと、様々な使い方が増えてきている。

それはハザードランプの点灯でやってはいけない規定が無いからだ。

やみくもに使う事もいけないが、点灯さえすれば許されるという事では無い。

初心者の方やペーパードライバーの方は、今の使われ方を調べて頭に入れておくのが必要だ。

対向車「ハイビームで眩しいのが解らないのかなぁ?ちょっと考えれば分かるだろう…!」とぶつぶつ。

車のメーター周りにハイビーム表示が必ずあるので、っていうか前を見れば解る事なんだが?

対向車がいなければ、思う存分ハイにしていいから!

もう暗くなっているのに、ライトおろかポジションランプも点けない輩。

バックミラーを見ながら「見えてないぞ~」って言うか、危ないだろう!

最近のトンネル内は明るくなってはいるが、ライトを点けない車も多い。

バックミラーだと車の色にもよるが、見えにくいのだ。

昔の車はメーター類がヘッドランプを点けないと暗かったが、最近の車はメーター類が常に明るく点灯されているので、気付きにくいのも原因かなぁ~。

必ずトンネル内はライトをON!

自車をアピールしないと!

 

灯火類は、自分の車の行動を、他車に伝えるのが目的であり、事前に相手に伝える事で、自己防衛と事故を未然に防ぐ役割をしているのだが、そんな事もお構いなしで走っているのだ。

「あ~恐ろしい!!教習所で、一からやり直してこい!!」と言いたい。

メインの道、優先道路から右左折する時、その先の脇から出てくる車を待っている。

狭くて入れないなら仕方がない。解る。

考えてもらいたいのは、広い道は大動脈と同じ。走行する車が多い時は、出ようとしている車を待ってないで「早く曲がってくれ~」

狭い道では、前からくる車が右折しようと指示器を出していたら、バックミラーで後続車の確認してなるべく譲ってやろう!

その方がどの方向もスムーズに流れる。但しサンキュー事故に注意!

譲ってもらっても、自分の目で周りを確かめてね。

スーパーや給油所の駐車待ち。おいおい入り口で止まるなよ!もっと中に入ってくれ~!

バックで駐車する時もハザードランプを出して 、「何をするのか教えてくれ~」

交差点。右折する車の運転手さん!「もっと中央まで頭を出してくれ~」

道路の中央に目印がある所まで出て行かないと、「後続車の曲がれる台数が少なくなるんだよ~!」

周りの状況をよく見ようよ!自分の事ばかり考えないで!

それに中央まで進む事で死角も減って、歩行者も見つけやすくなるんだよ。

バスの発信を妨げては「法律違反だぞ~」

無理して抜いても、「バスの陰から飛び出してくる人がいても知らないよ~」

緊急自動車のサイレンが聞こえないのか?

交差点を避けて道を開け止まるって、「おいおい習ったろう?」なるべく窓は少し開けて、外の音が聞こえるようにした方がいい。

空気も流れて換気にもなるから。鳥の声も聞こえるよ!

たまに大音量で走っている車を見かけるけど、大丈夫?

海や山に行って、止まってから楽しめば?

前が詰まっているのに交差点に進入して止まるのは、なぜ?

前を見るというのは、目の前の車のケツを見る事じゃないんだけどねぇ

「お願いだからやめて欲しい~!」交差点付近の駐停車!交差点とその端から5メートル以内の場所は、駐停車禁止だぞ~

大型トラックなど全長の長い自動車は、後ろのタイヤから最後部まで、はみ出している車体が長い。

右折ラインに止まっている場合、その車両が右折する際、後ろが大きく左にはみ出す。道が狭いと特にだ!

並走している時や信号待ちで変わった途端目の前に、トラックの後ろが迫ってくるのだ。

トラックが左折しようとしている時も、自車が右折ラインに止まっている時も同じように起きる。

特に狭い道では、大きい車の横に止まったり、走行する時は横の間隔を開けなければ引っかかるんだよ!実際に私も目の前で右折のトラックの後ろが左横の車に当たり、横転したんだから!

右左折する時、それぞれ曲がる前に右や左に寄せるって教習所で習ったろう?

寄せる意味があるからだ。

バックミラーやサイドミラーで、自転車やバイク、歩行者が見やすいようにだぜ!おまけに、バイクや自転車もブロック出来るから安全なんだけど。

例えば左折する時、右にハンドル切ってから左に曲がる輩がいるが、内輪差が大きいトラックじゃないんだし、

トレーラーや牽引車は、左折時は特に左後輪を道路上に納める為、一旦右にハンドルを切る。前方にトラック等がいた場合、後続車は指示器を見て、曲がり終わるまで待機するのが常識です。右にハンドルを切ったから右折と勘違いする事はよくある事

おまけに死角が増えて「危ないぞ~」

それに、そんな車に限ってスピード出してるけど、変わらないよ着く時間!クセなんだろうなぁ?

対向車にとっては、正面衝突される様に見えるのですよ!

解るよ!店舗の駐車場に入れるのがめんどくさいって。

近くに止めたいって。誰かを待っているって。

でも店舗入り口付近に止められると、駐車場から出る時に左右が見にくいんだ!もし事故になったら「責任取ってくれるの?」

カーブミラーを過信しないで!ミラーとミラーの間に死角があるんだよ!

歩行者や自転車は、速度が遅いから死角に入って見えないんだよ!

実際、私の家の近くのカーブミラーでは、約4秒ほど歩行者が死角に入って見えないんだから。

一時止まれの白線って、ここで止まれって事だよ!良くはみ出して止まっていたり、ゆっくりと進んでいる車を見るけど、白線には意味がちゃんとあって、そこで止まってからゆっくり発進しないと事故を起こしますよ!

見通しのいい所ばかりじゃ無いから!日頃からクセをつけないと「やっちまうぜ~」

ビックリしたのは、サイドミラーを格納(折りたたんだ状態)して運転している人!

勘が良くても、それでは死角だらけでしょう?勘弁して下さいよ!

カンガルーバンパーと呼ばれる動物との衝突から車を守る、日本でも主に4WD(四駆)車に以前見られたバンパーで、精悍さや格好の良さで人気があったが最近見ないでしょ?

歩行者と衝突した時に、歩行者にダメージが大きいからなんです。

カッコだけでつけている人、もしもの事を考えるなら外した方がいいです。絶対!

元々、フロント部分は壊れやすく作られていて、衝撃を吸収する役割があるから、おかしな付け方をすると自分も危険になる。

後付けのフォグランプフォグランプ取付に伴うマウント用の部材なども、取り付け方を考えないと、歩行者にとっては非常に危険!「ホントにヤバイ!」

フロントフォグランプ(前部霧灯)の取り付け個数には基準が無いが、同時に3個以上点灯してはダメ。

フォグ(fog)霧の時に使用する目的ですから、光軸(光の射す方向)も下向きで調整されているはず。

やたら眩しいフォグランプを照らしながら走っている輩。「霧なんか出ていないよ~!一度自分の車の前に立って見れば解るでしょっ!」

あと夜間にフォグランプのみをつけて走行するのは、法律違反ですから。

誰もいない山奥でどうぞ!

一方、リアフォグランプ(後部霧灯)、よく後ろの下の方の真ん中についている赤いランプ!

取り付け個数が2個以下でなければならないと決まっているし、LEDで眩しい車が時々いるけど、霧や雪で見通しの悪い時だけ点灯して。

「お願いだから!たのむ!」それに「カッコ悪いぜ~」

「路上駐車しているそこの運転手さん!ドアの開け閉めは、他の車が走っている時にしないでくれ!!」

それと車道側のドアをあけたまま、車内に身を入れてゴソゴソするのは、ほんとやめて欲しいんだけど。

「習ったはずなんだけどなぁ~」それに急に開けると、自転車やバイクがぶつかるからね!

大きいと近くに、小さいと遠くにいるように見える。

これは目の錯覚で、すなわちバイク等は思ったよりも早く近づきますよ。

特に右折時、直進してくるバイクには注意して欲しい。

また車のすぐ後ろを走っていると見えないので、慌てて右折すると人生終わりですから。

 

高速道路や首都高など、慣れていないとかなり神経を使うものだが、ここでもお願いしたい事がある。

合流する為に側道から入ってくる車のスピードが遅い!

合流までの区間は加速ラインで、本線を走る車の速度に合わせるように入ってもらいたい。

不慣れでドキドキするのは解るが、ゆっくり走られると危なくて仕方がない。

また、入って来る車を嫌って右へ車線変更する時は、もっと手前でやってくれ!そもそも車間距離が短いからそうなるんだと思うけど。

首都高でよく見られる道路の構造上、右からの合流がけっこう多い。

トラック等、加速出来ない車が入って来る時は早めに左に車線変更するか、十分車間を開けて走ってもらいたい。

特に、右からのカーブの付いた合流は慣れた人でも危険なんですよ!

首都高なんか、トンネル内にあるから最悪です!しかも加速ライン短いし!

自信が無い方は、ベテランのドライバーの横に乗り予習するか、下の道を走るのが一番の方法。

渋滞時の本線への合流で困るのは、一番先で合流してもらいたい 。早く本線に入りたい気持ちは解るし、とっとと合流して流れやすい一番右車線に入ろうする気持ちも解らないでもないが、ハッキリ言って迷惑!

本線左を走る車が何台も前に入れる羽目になり、余計、全体的にスピードが遅くなるし、イライラもするだろう。あわてて入らなくても大丈夫なんだから。

坂道などで、路側の側壁に緑がかった青色の点滅しているLED。見た人もいると思うが、速度回復誘導灯(エスコートライト)というもので、点滅に合わせて走りなさいというモノ。

すなわち、点灯するLEDのスピードにあわせて速度を出せ!と言っているのだ。

渋滞対策の一環で多く見られるようになったが、知らぬ間に速度が落ちている事を運転手に注意を促す目的で、装飾している訳でも楽しませる為でもありません。

ちゃんと意味があるので、気を付けましょう。

 

その他にも

脇に車を止める際、路上のブロックなどでタイヤの側面をこする人がたまにいるけど、側面に傷が入ると、高速道路でバースト(破裂)の危険が大!点検点検!

空気圧も、意外と盲点。燃費も悪くなるしパンクもしやすくなるから、普段から乗り心地を体で覚えよう!

凹凸のある所を走る時なんかチャンスなんだ。

普段の走行音の違いで解るので、自分の車の走行音を覚えておくのも大切。

特に遠心力のかかる高速走行は、タイヤが遠心力で変形し易いからこれも点検点検

パンクした自転車が重いのと一緒!まあ自転車ならしんどいだけで済むけど。

最近の車は、補助タイヤがついていない車が多い。

自分の車がパンクしたらどうすれば良いか「JAF」頼りにしないで確認しておいた方がいい。

助手席に乗って、ダッシュボードに足を乗せている人。もし衝突したら深刻な体へのダメージを食らう事になりますよ!

例えばTVやソファーでくつろぐといった家の中の環境を車に持ち込む事は、本当にやめた方がいい!

あくまでも車は移動手段であり、非日常であり、それが楽しくもあり、危険を伴っている事でもある。

特に、映像を伴うようなTVやナビゲーション、スマートフォンの車内での扱いは、一歩間違えば人生を左右するような事故に結びつく。

この先完全自動運転技術が進むだろうが、それでも運転するのは人間なのだ。

そして人間は必ずミスをする し、機械も100パーセントでは無い。

機械による補助も、あくまでも補助という意識を持っていないと、何かあっては遅いのだ。

また、車の機能のほとんどが電気に頼っている。

電気が切れると窓も開けられない。

過信は禁物なのだ。

便利さの裏には、リスクが伴う事も頭に入れておいて損はない。

時間帯規制、すなわち登校時間帯には入ってはいけませんという標識の道を走っている人を見かけるが、子供達が安全に歩ける道としての規制で、大人の様にまだまだ予測不可能な行動をする子供達を守る為にある

急いでいる、近道だから、混んでいるから等といった利己主義の言い訳は通じないモノ。

ダメなものは駄目。

 

海や川への転落や大雨が降り、高架橋の下(アンダーパス)等、道路の冠水による車の水没事故も毎年のように報じられている。

電気が使えなくなるので、当然窓も開けられない。

落ち着いて、車内に水が天井ぐらいまで待てばドアは開きやすくなるが、まずパニックになってしまう。

窓破壊用ハンマーがあれば割れるが、無い場合はヘッドレストを引き抜き、支柱の金属棒で割れる。

大災害時は、ナビや携帯も使えなくなる可能性がある。

日頃からせめて東西南北ぐらい解るようにしておきたい。

なぜなら簡単な地図さえあれば役に立つが、方向が解らないと意味が無いから。

住宅の庭はほとんど南向きであるし、住宅やマンションのパラボラアンテナは南東方向を向いている。

勿論、太陽や星が見えれば東西も解る。サバイバルをしろと言っているのではないが、知っていて損はない。

最近は音声ナビが充実し出している。特に初心者の方は、音声によるナビゲーションに慣れるようにした方が良い。ただでさえ、運転に不慣れな上、操作や確認の為画面に目をやる機会を作らない方が、事故につながる確率も低くなる。

仮に時速40kmで走っている車は1秒間に約11mも進む。

1秒間は事故が発生するには十分な時間である

例え迷っても、間違えても道は必ず繋がっている。

時間と心の余裕を持つように運転して欲しい!

 

現役の運転手であり、バイクのライダーであり、歩行者や自転車という立場を経験している中で、鉄の塊と生身の人間では、人間の方がはるかにリスクがあるのは当然です。

歩行者や自転車に過失があったとしても、弱者優先の立場から、重量の重い車の順に責任が重くなります。

考えてもらいたいのは、弱者という視点を見直してもいいのではないかという事です。

道路を利用するものは、どちらかが弱者という立場ではなく、全て交通ルールを守り、同じ権利を持ち、歩行者も違反をすれば加害者になる。

見方を変えれば、同じ道路上の権利として、堂々と歩道を歩き、横断歩道を渡る事が出来るという考え方が本来だと思う。

 

NHKラジオで、稲垣 具志さん(中央大学研究開発機構 准教授)がお話しされていたが、子供に状況判断のエラーが起きているという内容で、子供の横断する際、どのタイミングで横断できるかの調査があり、いわゆる子供の認知機能に驚くべき結果が出たと報告されている。

それは、小学生が大人が思っていて以上に向かって来る車に対し、渡れると思う車と自分との距離が短いという事で、5、6メートルに車が迫ってきても、子供はまだ渡れると思っているという事。

「みんな同じ色を見ている?(2)」

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でも触れたが、見ているようで、実際にはその情報が視界には入っていない場合もある事も頭に入れておくべきで、ましてスマートフォンを見ながらヘッドフォンをしていると、情報を遮断しているのと同じ。

 

今の流行りの車は大きなディスプレーで、カーナビ、ネット、ラジオや空調等、様々な事がタッチ式で操作可能になってきている。

アップデートが容易で、場所を集約できるという利点があるが反面、電気が切れると何も出来なくなってしまう。

最近の実験では、ラジオを聞くという作業で、昔ながらの押し込んだり回したりする物理的スイッチの方が、タッチパネル式よりもはるかに時間がかからない。

すなわち運手に集中し易い事が証明されている。

便利になるのも良いが、ガシャっと音がする昭和の車のラジオの方が個人的には好きではあるが。

 

色々書いてきたが、煽り運転の原因になるキッカケを作ってしまう事柄も含まれている。

勿論、煽ってくるドライバーが悪いのは当然ではあるが、知らずの内にそのキッカケを招いているかもしれない事をもう一度考えて運転してもらいたい。

自分がどんな運転をしているかは、なかなか解らないし、クセも自覚していない場合が多い。

もし、家族や知り合いの横に乗る機会があれば、指摘するべきだ。

高齢者に限らず運転に自信のある人ほど、意外と危ない行動をとっている事がままある。

指摘しにくい事ではあるが、後になって後悔するよりも注意をした方が自分の命も守れる。

 

今回、目に余る運転者に対する思いを書いたが、歩行者も自転車も、そしてキックボードもいつ加害者になってもおかしくない世の中で生活している事を、絶対に忘れないで欲しい。

後で後悔するような事をしてもらいたくないし、何より命は、無くなると取り戻せないのですから

 

事故で、怪我や亡くなるという悲惨な事が起きないよう気を付け、

今日も安全運転で!

 

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適応障害は他人ごとではない⦅自助と公助⦆

最近のドキュメント番組では、中高年者の孤独死や引きこもり、老々介護など暗くなる現実を放映しています。

2020年令和2年における自殺者数は、厚生労働省によると2万1,081人で、「40歳代」が3,568人で全体の16.9%を占め、次いで、「50歳代」(3,425人、16.2%)、「70歳代」(3,026人、14.4%)、「60歳代」(2,795人、13.3%)

40代~の中高年でひとくくりにすると1万2,814人で実に60%に及びます。

政府の2020年版自殺対策白書で09~19年に自殺した中高年・高齢者約20万8千人の状況を分析し、

その原因は、「健康問題」が最も多く、次に「経済・生活問題」、後期高齢者では「家庭問題」2番目という内訳でした。

また、厚労省は自殺には複数の原因が重なることが多く、健康問題にも経済事情などが複雑に絡んでいるという事です。

2021年令和3年度は1~11月累計19,113人でまだ詳細は解りませんが、コロナの影響もあり、かなりの数になるのは確かです。

 

G7先進国の中でも、2016年調査ですが、人口10万人あたりの自殺者数がトップという残念かつ深刻な結果になっています。

 

日本は第二次世界大戦後、経済成長を伴い、先進国としての地位を確立していくのですが、実際には今露見している様な、夫婦別姓やLGBTQ(注1)の人達に対する法整備、女性の社会進出の遅れ、温暖化対策、移民受け入れ及び入国管理省の対応、代用監獄=留置場という世界でもまれな被疑者に不利な制度や取り締まり尋問の可視化問題など、その他様々な事柄において、後進国のままであるのも事実です。

社会保障においても、憲法第25条に書かれた「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という理念にも、程遠い状態であるのも残念ながら事実です。

「誰でも」「どこでも」「いつでも」保険医療を受けられる体制、すなわち日本の国民皆保険制度や年金制度も、こぼれ落ちた人達が、沢山存在し、公助よりも自助を求める様な政府の姿勢で、弱者や困窮者対策は、民間任せの部分が多いのです。

コロナ禍でも露見した政府の後手後手の政策により、病院で見てもらう事すら出来ない人達も多く出してしまい、加えて脆弱な管理体制の露見や医療制度の崩壊等、政府が今までやってきた事は何だったのだろうか?と思わせる出来事ばかりです。

見本です。本文とは直接関係ありません

 

私も病気になり働けなくなってからより強く感じたのは、色々な救済制度が用意されていても、知らなければ、何も役に立たない、すなわち経済的にも精神的にも辛い立場で、落ち込んでいるのにもかかわらず、自ら調べ、行動しなければ、何にも活用できないという事実です。

生活が苦しいので、市役所に相談しに行きましたが、「生活保護制度を利用するのも考えて下さい」と言われ」財産の状況や借入金、親族関係など矢のように聞かれました。

私が「高校受験の息子の為に貯めた、郵貯に10万があるだけです」と答えた時は、「それも使ってダメならもう一度相談しましょう」と、そして借金等の負債も自力で銀行等に行って、話して解決してからの事になります。」と言われました。

勿論「生活困窮者の為の相談窓口」という名目で得た情報を頼りに行ったのですが、具体的な提案は無く、どの様な支援があるのかさえも最後まで聞くことは出来ませんでした。

私の場合、妻が外国人であり、自身精神を病んでしまったので、とても辛く「その様な手続きは中々すぐには出来ない」と言ったのですが、「あくまでも、その事が前提での話で、よく考えて下さい。」と話を打ち切られました。

(市町村によって対応が違いますので一概には言えませんが)

幸い、傷病手当を受け取る事が出来たので、しばらくはギリギリやってはいけそうなのですが、そもそも、傷病手当は、全国健康保険協会(通称、協会けんぽ)と健康保険組合(通称、組合健保)に加入しているのが前提になっています。

給付期間は最長1年半です。

派遣会社で働いていた私が、保険に加入できたのは、入社して1年以上経過してからでした。

それ以前は国民健康保険には加入していましたが、傷病手当金という制度は原則ありません。

(コロナ等で特例処置として認められることは有りますが)

私が所属していた派遣会社は、約50人程度在籍していたのですが、会社の運営者以外、保険に加入できたのは私を含め、たった2人でした。

もし、会社に社会保険加入の意志を強く求めていなければ、そして時間かかり、諦めていたらと考えるとゾッとします。

派遣であれ、アルバイト、パートも、要件(下部ホームページ参照)さえ満たせば、加入出来ます。

目先の利益に目がいきがちですが、もし病気になった時の事を考え、加入するように強くお勧めします。

合わせて、失業保険加入の有無、失業手当がもらえるかどうかの確認もして下さい。

被保険者期間すなわち失業保険加入期間が1年未満の方は失業手当を受けられません。

民間の保険も視野に入れる事も大切ですが、精神疾患でも入院でないと保険が下りなかったりする場合(私の場合、県民、国民共済はダメでした)があるので、社会保険が無い人は、よく保険の約款(やっかん)説明をよく読み、無駄のない様にしておくべきでしょう。

派遣会社が派遣している会社でのパワハラでしたので、労災(労働災害)も考えましたが、それを証明する録音記録も無く、派遣先の会社の社員は証言をしてくれない事や、また労災認定まで早くても1か月以上かかる事も、断念の理由でした。

後で解った事ですが、弁護士が間に入る事で慰謝料等が受け取れる可能性もあるという事です。

費用や時間もかかるようですが、相談し、過失を認めさせれば費用も相手方に請求も出来ます。

正当な手段として行使するのも良いと思います。

実際に、私が派遣されていた会社での女性事務員の方が、パワハラで弁護士に相談した結果、パワハラをしていた男性上司は、会社を辞めていきました。慰謝料も払われたとの事です。

やはり証拠が大変重要になって、録音や証言してくれる人の確保など、出来る限り準備する必要がありますから、異変を感じたら証拠となるモノを集める事を始めて下さい。

まず各都道府県の労働局に相談しても良いと思います。労働基準監督署は、パワハラに対して事業所に指導する権限が与えられていない為、相談するだけとなります。ご注意を。

但し不当な労働時間や賃金未払いに関しては、私も経験がありますが非常に有効な手段です。

 

要件を満たせば在職中に受給していた傷病手当金を退職後も継続して受給できる「継続給付」は受けることができるという事も、調べなければ判りませんでした。

 

傷病手当をもらいながら3ヶ月経った頃、派遣会社の社長が自宅に来てくれとの話があり、妻と一緒に行きましたが、その親しげな態度とは裏腹に、自主退職してくれという説得でした。

てっきり、他の出来そうな仕事を与えてくれると思っていた私は、非常にショックでした。

今から考えると、現役の時の窮状を訴えていた事もあり、会社都合による退職にしてもらえばよかったと後悔しています。

自立支援医療受給制度(各市町村役場での手続き)は、医療費にかかる費用を補填してくれる仕組みなのですが、申請には診断書が必要で、私の場合1万円ほど掛かりました。

お金が無い時には痛い出費ですが、その後の医療費がかなり安くなります。

 

また、障害者手帳を所得出来るケースもあり、就職活動の際に利点があり、バスなど交通機関優遇といった特典もあります。

市町村で手続きが可能です。早めに相談して下さい。

自立支援医療受給による救済制度の存在や失業保険も、手続きを怠るともらえなる事など、調べないと解らない事ばかりなのです。

特に、もし退職したら、ハローワークに失業保険の手続きを忘れずにやって下さい。

たとえ自己都合(会社都合では無い)の退職でも、病気であれば医師による証明で2ヶ月待機期間が無くなり、支給開始がすぐできる場合があります。また支給の延長も可能で、必要書類等は職員に相談すれば教えてくれます。

 

前述に記した私の場合は、私自身で全て手続きをやらなければいけないので、精神を病んだ身としては、とても辛い事でした。

息子の高校受験とも重なり、経済的にも追い込まれる事も、自身の病気に悪影響を及ぼしているという自覚がある中で、自分ではどうしようもない、何も生まれない毎日を送る中で、同じような苦しみを抱えながら生きていらっしゃる人達の存在の多さが、逆に励みにもなりました。

 

私が自律神経失調症(発症当時の病名で、今はもう少し細分化されています)と診断されたのは、30代半ばでした。

胃に穴が開き、すなわち穿孔して手術を受け、再びこの病気になったのは、10年後でした。

このブログでも書いていますが、上司や仕事関連の同僚からの言葉による暴力で、暗い穴に落ちていく感覚になり、その時の病名が「身体表現性障害」。

精神科(心療内科)のクリニックでの、初めての問診では、溢れる心の叫びを表に出すうちに、涙が止まらなくなってしまった事をハッキリと覚えています。

そして、4年後またパワハラに遭い、心がポッキリ折れてしまいました。

私の場合、ひどい肩こりから始まり、喉が狭まる違和感、まるで食道の中に下から上へと拳をねじり込んでいる感じでした。

また、後頭部の脳が圧迫されている感覚と常にひどい肩こりに伴う頭の重さ、そして誰かと会う事や、電話やSNSなど、一切が出来なくなりました。

この時に、助けとなったのは現実逃避、お酒です。

何もかも忘れ、考える事もしなくて済む実存しないかのように時間を過ごす事が、そして、明日をあきらめる事が出来るそのお酒の力は、絶大でした。

政府は、「公助の前に自助せよ」すなわち自分の力で何とかしろと言います。

「助けてくれる親族を探せ」そして「申請すれば手助けが出来るかも?しれません」というのです。

私の場合は、幸いにして今残った、たった一人のうつ病で苦しむ妹と、何より妻がいたからこそ、立ち直る兆しが見えてきましたが、誰にも相談や傍にいてくれる人がいない人達の事を思うと、心が痛みます。

私の経験から、周りの人達の無理解がいかに多いかという事と、未だ精神論を振りかざす人達の存在です。

特に弱い立場の人に「そのくらい我慢しろ」「事を大きくしないでくれ」「考え方を変えろ」「そんな事は日常茶飯事だから騒ぎ立てるな」「病気じゃなくて精神が弱いからそうなるんだ」等など、本人は痛いほど分かっている事であり、逆に理解してくれない人達に対しての諦めが先行してしまうのです。

経済面での支援や理解者が無いと悲惨なことになりかねないこの病気。

厚労省によると『適応障害(てきおうしょうがい) Adjustment Disordersとは、日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態をいう。』とされています。

 

治療をしないと、うつ病にもなる可能性が非常に高くなります。

私も一歩手前までの状態でした。

治療は、精神科医との面談が主ですが、場合によっては薬も処方されます。

私は、抗うつ薬睡眠導入剤を処方されましたが、今でも薬なしには残念ながら、まともな生活が出来ません。

副作用は主に眠気で、とにかく主治医とよく話し合う事が大切なのです。

私に経験では、精神科医との相性がとても大切だという事で、上から目線で話してくるタイプの医者もやはり存在します。

話を最後までしっかり聞いてくれる医師と出会えれば、治りも早いのです。

その為に、病院や主治医を変えて見るのも良いと思います。

私の経験では、話をちゃんと聞かずに「もう解っている」といった顔や態度をとる医者や、先回りして話の腰を折る医者がいて、ただ薬を処方してもらう為の診察という事もありました。

精神面での病気は外から判らないので、医師とのコミュニケーションがとても大切になるのです。

「この先生はあわない」と思うという事は、先生の言葉も信用できるはずがありません。

主治医や病院を変える勇気を持って下さい。

ストレスは負荷がかかった状態ですが、全てのストレスが悪いわけではありません。

生きている以上、必ず何らかのストレスはかかりますし、個人レベルでも大きな差異があります。

ストレスは場合によっては原動力にもなるからです。

環境、都会と地方による差といった事よりも、現代は社会全体に、ストレスを与える要因が増え、いらない情報も頭に入ってしまう事も大きな原因です。

選択肢が増えれば増えるほど、ストレスも増えていくのです。

あまりにも、物事がポチっと指で済ませられる時代だからこそ、過程を経て学ぶ機会を逃してしまい、逆に他人の行動が気になるのかもしれません。

そして何より、心無い人達の存在が大きな理由になるのも確かです。

時代の変化についていけないのは仕方がありませんが、学びの無い堅い頭のままでいる権力を振りかざす人達は、自分達の言動や行動がどんな結果を招くかなんて気にも留めていないのです。

 

そうポチっと誹謗中傷出来る世界の中で、私達は生きているのです。

会社だけでなく、近所付き合いやPTA、ママ友、ネット等そこら中に心無い人達がいます。

誰でも、いつ発症してもおかしくないこの病気は、対応を誤れば大きく人生を変えられる、命までも脅かされる恐ろしい病気という事を社会全体で共有しないと、誰もが生きにくい社会になってしまうのです。

 

先述で書いた公助等は、各市役所や加入している保険協会、厚労省のホームページで確認できます。

もし、あなたの傍で苦しんでいる人がいるならば、中には期限付きのモノもあるので、調べて出来るだけ早く申請してあげて下さい。

当然の権利の行使ですので、面倒でも決してあきらめないようにして下さい。

やるかやらないかで大きな差が出てくるのです。

 

そしてやはり大切なのは、アルコール依存症などでも同じですが、本人が病気だと自覚する事から治療が始まります。

精神面で問題を抱えてしまうと、人間は弱いですからお酒やギャンブル、過食、万引きなどの犯罪に繋がってしまう事が多いのです。

引きこもってしまったり、逆に暴言や理解の無い言葉の投げかけは、より病気を悪化させてしまいます。

私の母もアルコール依存症でしたし、父もうつ病だったので近親者にとっては大変な思いをするのも理解しているつもりです。

兎に角、問題を抱え込まないで第三者助けを求めて下さい

決して恥ずかしい事でもありませんし、対応が早ければ早いほど治りも早く、周りの人間も苦痛から解放されます。

場合によっては暴力的な事に発展する可能性がある、精神の病気の事を軽く見ないで下さい。

私の経験からも、本人の自覚(病気なのだ)と周りの理解がとても大切です

 

誰でもこの時代、かかってしまう可能性がある病気です。

そうならない為に息抜きが出来る時間や、そうなった時の為の知識を身に付けておいて下さい。

 

(注1)LGBTQセクシュアルマイノリティ(性的少数者)を表す言葉で、性的指向性自認を意味する英語の頭文字をとって作られた。Lesbian(レズビアン)は同性を恋愛の対象とする女性、Gay(ゲイ)は同性を恋愛の対象とする男性、Bisexual(バイセクシュアル)は同性も異性も恋愛対象となりうる人、Transgender(トランスジェンダー)は体の性と心の性が異なる人、Questioning(クエスチョニング)またはQueer(クイア)は性的指向性自認が定まっていない人を意味する。

出典 朝日新聞出版

 

協会けんぽ

https://www.kyoukaikenpo.or.jp

 

組合けんぽ

https://www.kenporen.com/

 

厚生労働省ホームページ

https://www.mhlw.go.jp/

 

厚労省のホームページより「障害者福祉」へ

または、「厚労省 社会保険適応拡大」で検索

 

依存症や、引きこもりに関しては地域差がありますが、NPO法人も数多くありますので、市役所やネットで検索して下さい。

依存症対策全国センター/

 

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自分て何?⦅探求⦆(5)

誰かの為に死ねるか

それは命を尊いものと知る心

己の為に死ねるか

それは何があっても生きぬく信念

 

このブログでよく書いている事が、

「明日どんな気持ちであるか解らない自分なのだから、他人のこと等解るはずがない」という言葉です。

果たして自分の事を解っている人が本当にいるのでしょうか?

「解っているよ」という人も、よくよく考えて見て下さい。

それは自身で決めつけているだけで、「こんな部分があったのか」と思う事もあるはずです。

もしかしたら、他人の目を通しての自分を見ているだけかもしれません。

 

私達人間は、約37兆にも及ぶ細胞で構成されていて24時間365日、死ぬまで休みなく働いています。

特に脳は、一見リラックスしている時でも活発に活動していて、勿論無意識下でも働いています。

すなわち意識している時だけでなく、無意識の中でも脳は神経細胞を通じ情報のやり取りを行なっているのです。

 

近年、脳科学の研究は飛躍的に伸び、様々な事が解ってきました。

脳が指令を出していただけでなく、様々な臓器が逆に脳に指令を出している事や、決断をするのは自分の意志では無く、脳が先に決める事等、信じられないような、脳の持っている不思議な能力も明らかにされつつあり、私自身も驚いているほどです。

私は科学者でも医者でもありませんから、その様な立場での発言は信ぴょう性も含めて軽々に出来ませんので、このブログ「心の道標」として読み進めて頂きたいのですが、誰でも一度は、生まれた意味や自分という存在は何の為だろうか?等と考える事があると思います。

心を指す時、大抵の人は胸に手をやり、脳とは違う感覚と理解しています。

心という意味で自己と他者を明確に区別している生物は人間だけです。

勿論、他の生物も区別はしていますが、生殖活動や子育て、捕食、危険からの回避という意味での事です。

(この分野は研究過程で、動植物に自己意識や感情があるのか?は一部の動物で自己認識をしている事や、魚が痛みを感じているとの研究もあり、私達人間が想像できないような感覚でこの世界を生きているのかもしれません)

脳には生まれてからの記憶がどんどん記録されていくのですが、重要で無いモノや日々の当たり前の様な、例えば先週食べた朝飯などは、整理され消されていきます。

そして一方で、同じ事を何度も繰り返す事、トレーニングする事で脳が回路を作り、意識せずとも体が動きます。

日常的な自転車や車の運転は勿論の事、手足が全てバラバラな動きのバイクや、重機に至るまで数ミリの単位でコントロールする事も出来る様になります。

スポーツを始めとするプロ、匠と言われる人達も同じ事が言えるでしょう。

 

経験や学習によって脳の人としての機能が備わっていきます。

すなわち、心も様々な人間関係を経て構築されていきます。

それに加えて知識、例えば本や映画、音楽といった芸術や、様々な情報等へのアクセスといったインプットの量も心としての動きに大きな影響を与えます。

私自身は音楽をやっていましたので、詩や曲を生み出す為に苦労しましたが、フッとしたきっかけでアイデアが浮かんでくる事がよくありました。

それは、音楽とは関係のない物事、例えば本で読んだ事や映画で見た事が繋がる様に、関係性が無い、もしくは薄い事同士が結びついたり、他の事をしている時や寝る前に突然浮かんだりしました。

この事から考えると、無意識と意識とのやり取りが行われていて、取り込んで忘れてしまっているモノも含めて情報が思い出せなくても残っているという事です。

ただ条件として、経験から言うと課題になっている事、この場合「詩や曲」の事を考えている状態を維持するという事でしたが、昔の写真や景色、匂いや聞いていた音楽で、忘れていた記憶がよみがえる事でも解ります。

アインシュタインもよく思考実験(頭の中で実験をする事)をやっていたという事が知られていますが、ひらめきや、天からの声といわれるような事も、自身の無意識の中にため込んでいる情報が多いければ多いほど、意識下での新しい組み合わせや思考が多くなるのです。

逆に言うとマイナスな負の事ばかりが蓄積されると、無意識と意識との共有も狭い世界になって、思考も負の方向に動く事になってしまうのです。

そして、洗脳されるようにその負のイメージに、より囚われるようになり、思考や行動に出てしまうのです。

その様な状態が続いてしまうと正常な判断も出来なくなり、自分が解らなくなってしまうのです。

私も経験中の精神的な病気もその様な状態からかかってしまいました。

また、ニュースで見る事が多くなったマインドコントロールも、追い詰められた心を自分で処理できなくなってしまう事で、他者の言葉の言いなり、心の逃げ道として起きてしまうのです。

自分を見失った状態とも言い換えられるのですが、自分がどんな心を持っているのか?何をやり、どんな事を考えるのかは、決めつける事が出来ないし、本来出来る訳が無いのです。

だからこそ、誰かに「自分」というものを作らせてはいけないのです。

もしそうなれば、あなた自身の主導権を明け渡してしまう事になるからです。

昔から自分探し、探求がテーマとして何度も、また色々な人達によっても取り上げられているの事からも解る事です。

 

「経験や学習によって脳の、人としての機能が備わっていきます」と書きましたが、「人として」とは、倫理観や道徳観、やっていい事と悪い事といった、人との繋がりの中で重要な役割を担っている機能の事も含みます。

動物脳といわれる古い脳をコントロールする事で、社会というコミュニケーションを円滑にしている訳ですが、「心」という観点から考えて見ましょう。

まず自分という存在を決めつける事が出来ないなら、自分という定義を導き出す事は不可能に近い事となります。

それは心を取り囲んでいる自分という定義、例えば友達や職場の人から見られている自分や、うまく物事が進まない時、自信を失くした時に顔を出す内からの自己否定、逆にうぬぼれや見下しといった優越感の様なもの等、色々なものが自分を作り出しているという大きな勘違いを「心」から取り払っていくと、何も無い事に気付くはずです。

そう「自分て何?」と。

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魂とは?霊とは?という記事で書きましたが「心」とは「魂」の入れ物の事です。

入れ物と同時に感覚なのです。

感覚を「こうだ!」と決めつける事は出来ません。

何故なら常に流動しているからです。

心の中に取り込む「魂」という情報を選別するのも自分でしか出来ません。

詰め込みすぎてもダメですし、大切な「想い」を入れない事も「心」という感覚が鈍ってしまいます。

誰かに優しくしてもらった事が忘れられなかったりするというのは、優しさを受け取れる感覚をちゃんと持っているという事です。

もし、その優しさが当たり前の事として受け取っていたなら、心という感覚を無駄にしているのと同じ事です。

そして「想い」とは人それぞれの先祖の言葉や思い出かもしれませんし、亡くなった方達の言葉や先輩、先生や友人の助言かもしれません。

つまり、「自分」という概念は、流動していて、無意識下に蓄えられた情報(想いや言葉、映像や音、匂い等)とのやり取りで決まっていくものなのです。

いずれにせよ、「自分は、こうだ!」と決めつける事はムリであるし、決めつけてしまうと可能性まで失ってしまうのです。

 

考える時には、日本人であれば日本語を使って思考します。

その日本語の語彙力(その人がもっている単語の知識と、それを使いこなす能力「デジタル大辞泉」)がどのくらいあるかによって、大きく変わっていきます。

単語を短くしたり、表現の仕方を一律にしたりする様なSNS等で使われる短絡な言葉ばかりに接していると、自分の思考も自分の意志を伝える事も表現の幅が狭くなってしまいます。

「ヤバい」「エモい」に伝えたかった心の深い想いが表現できるのでしょうか?

勿論、仲間同士のコミュニケーションツールとしてはいいでしょうが、思考まで貧弱になってしまっては意味がありません。

流行りや言葉の変化はいつの時代でもあり、その事が悪いとは思いませんが、言葉の貧困は思わぬ落とし穴があります。

例えば嫌いな相手に対し、その気も無いのに「殺すぞ!」と発してしまうと、その先に続く言葉は、想像すればわかる通り、「やってみろよ」というような逃げ道が無い言葉で返される事になってしまいます。

もし集団であれば、言葉が引き金となりエスカレートしてしまいますし、実際そのような事でニュースになった死傷事件も沢山あります。

「我を忘れてしまった」「本気じゃなかった」「脅すつもりだった」と言い訳しても取り返しのつかない事になってしまうのです。

煽り運転もその危険性がありますから何か言われても相手にせず、すぐ警察に連絡して下さい。

心は感覚であり魂の入れ物であるということは、多くの言葉や思考という引き出しを持ち、意識下においての自分に問いかけや、警告を与えてくれるものなのです。

同時に、上記の様な様々なアイデアや気付きを導いてくれるものでもあるのです。

言葉の貧困や語彙力の無さが引き出しの数と比例し、意識下の自分にブレーキをかけたり、短絡に判断してしまう思考を一旦静めたりする事が出来無くなるのです。

 

今の時代は、ある意味で生きにくい世の中になってしまいました。

欧米に見られる「正義と悪」「天国と地獄」「賢いと馬鹿」という様にハッキリ線引きしていなかったグラデーションの考え方の日本が、常に境界線を求めるようになり、線引きをする人達が増えているのです。

そして、多数決の様に多い考え方の方へ引き込もうとしまうのです。

経済力や家庭環境、学校に至るまで、その様な傾向がみられるようになってしまいました。

勿論、そのような事は昔からありましたが、個々が世間に対し発信する情報量が桁違いに多くなったのも影響しているのでしょう。

経済、社会的弱者や成長の遅い人達を、簡単に切り捨てる様な線引きを平気でやってしまう人達に加え、政治家から公務員、教育委員会、はては町内会やPTA等などと保身ばかりに動く一部の人達の存在が、「自分」という存在を「かけがえのないもの」から「どうでも良い存在」にと思わせてしまう世の中にしています。

誰でも簡単に情報を発信できる裏で、裏付けも無く信じて知らず知らずのうちに、加害者に加担してしまったり、惑わすような情報や言葉の切り取りで攻撃したりするような事も日常の様に起きているのが現実なのです。

「自分」という位置づけは、時や場所、年齢や社会的な立場の中、色々な方向に行ったり来たりするという前提が崩れてしまっているのです。

いわゆる決めつけであり、時に弱者と呼んだり、未熟だ、無能だと言わせたりして自分達の手中に納めておきたいのです。

「自分て何?」それは可能性です。

年齢や社会的な地位など全く関係の無い事です。

可能性に限界も期限も有りません。

そして、その可能性があなた自身の言葉として次の世代に受け継がれていくのです。

言い方を変えれば「魂」と言ってもいいかもしれません。

可能性は、想像力と謙虚さが必ず伴います。

その為には「心」すなわち「感覚」を磨いて、当たり前を鵜呑みにしないで、疑問や好奇心を大切にする事です。

容姿や肩書、民族といった色眼鏡でモノを見ない、心の目で見られる自分を作っていく事です。

この事は他人が関係する事では無く、自分の問題であり、言い換えれば主導権を握っていて、比べる事でも無く他人に左右される事では無いという事です。

誰でも心にぽっかりと穴が開く時や、辛い思いをして自分の存在を消してしまいたいとか、より所を求めて何かの占いや、今問題になっている宗教に救いを求めたりしてしまう事もあるかもしれません。

残念ながら世の中は、弱みに付け込む悪い人が沢山います。

言葉や同調に飢えている時、情緒不安定な時、孤立感を感じている時ならなおさら警戒心や一歩下がって見る様な行動がとれなくなってしまいます。

優しさや痛みを解っている人ほど苦しめられる事も多いのです。

ただ、その事が外向き、家族も含めて他人に対しての向き合い方ばかりに気を取られてはいないでしょうか?

本当の優しさは自分に厳しく律する勇気から生まれます。

つまり、何度も書いている様に自分を「こんな人間だ」と決めつけない事と、生きる事自体が苦しみであるという現実を受け入れる事。

幸せは、感じる力が無いと見失ってしまう事。

そして軸になっているあなた自身が培ってきた、もしくは備わった「人間らしさ」を持ち続ける勇気です。

他人がどうあれ、冷たい世間であっても変えてはいけない自分に対する約束です。

以前の記事「対人関係に悩まない(2)」で載せた詩ですが、もう一度記します。

 

心優しい人間でありたければ

ずっと優しい人間でいればいい

誰も見ていなくても

道端のゴミを拾う人間でいればいい

悪口を言わないと決めたなら

ずっと悪口を言わない人間でいればいい

仕事に手を抜かないと決めれば

その通りやり抜けばいい

誰が見ていようといまいと

あんたは、あなたでいい

 

人生の終わりまで「自分」を探しながら生きていくのです。

だからその探求をやめてはいけません。

楽しいと思える時間が見つかるかもしれませんし、夢中になれる仕事と出会えるかも知れません。

師と仰げるような人や親友との出会いがあるかもしれません。

また逆もしかりです。

でも「生きる事は苦である」というベースで考えるわけですから、それ以下になる事は無いのです。

宝くじと同じで、夢を見ていても買わないと当たりません。

諦める事はいつでも出来ます。が、それは生きてはいても、死んでしまった事と同じです。

リスクだらけが「生きる」という事です。

その為に軸となるもの「人間らしさ」を持ち続けるのです。

始めから答えなど有りません。

自分て何?「可能性」だからです。

 

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不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)

日本の教育制度は、勿論悪い事ばかりではありません。

集団行動による通学や自ら掃除や給食配膳すること等は、掃除や食事と仕事が細分化され、日常生活の中で役割をハッキリと線引きしている様な欧米からも、児童自ら行う日本方式の良さを認めています。

すなわち、小さいうちから自分で出来る事は自分でするという事と、身の回りを綺麗に保つ事の大切さや人に迷惑を掛けないという謙虚な姿勢が評価されているのです。

妻の国フィリピンでは、運動会もありませんし、校外学習もお金が無いと参加できなく、貧しかった妻は悔しい思いを何度もした事を話してくれました。

また、何年も日本で住んでいる妻はフィリピンで道路を横断するのが怖くて出来ないとも話していました。

日本が安全な国であるからこそ上記のような事が実現しているのであり、誘拐や犯罪、事故に巻き込まれる確率が非常に小さいからこそ可能なのです。

徒歩で子供が安全に移動し、近所の目があり、近くに遊べる場所や買い物できる所が多いのも日本の素晴らしい所です。

よく欧米の映画などで親が子供を学校に送り迎えするシーンを見る事があると思いますが、その裏で我が子に気を取られ、発進やバックの際に他の子供を引いてしまうような事故が実は多くあるのです。

また、欧米と違って狭い道路は逆に車の速度を落とす要因にもなり、時間帯の道路規制や歩行者に対して距離を取ったり、ゆっくり走ったりする事が当たり前となっている事や、見守る大人達の存在で、子供達が事故に遭う確率が少なくなっているのです。

 

世界には当たり前ですが色々な国があり、大人になるまでの経験値が国によって全く違っているのです。

その点でいうと、日本は恵まれた国であるのは確かです。

もう一度、日本の教育の話に戻りますが、不公平がある事を、子供の内からもっと教えていくべきです。

世界の色々な国の同じような年代の子供達の生活を見る事や、自分達とどのような差があるのかなど、考える機会を、時間を作るべきです。

平等とは何か?公平との相違は?そして、色々な形態の家族の存在がある事や性別についてなど、早くから知る事で、当たり前が当たり前で無い事を、知識として取り込む事で、将来の生き方の「考える力」となるのです。

そして皆が同じ境遇で無いという現実や、同じ能力を持っていない事の方が当たり前であり、個々に差がある事を教えるべきで、はみ出すのを良しとしない教育は、逆に言えば多様性の否定、すなわち正に不公平を助長しているのです。

同じ値段の高い指定服を着て(安く、もしくは無償であれば良いのですが)、髪形やピアス等のアクセサリー、下着や靴下の色まで干渉する事を平等だと考えているなら、平等という事をはき違えています。

その平等の裏には、監視をし抑止力になると考えている人達が未だに多い事を表していて、裏を返せば信用や信頼というステップを踏んでいない一方的、人為的な不平等、不公平なやり方なのです

公平性を保つ事と平等に扱う事の違いを理解していない人達が多すぎるのです。

人は一生を懸けて勉強し続けるものなのです。

正に世間という厄介な大人のルールが不公平という壁を作り、邪魔をしているのです。

皆でそろってゴールなんて絶対に出来無いのですし、不公平が当たり前なのです。

遅い子も早い子も、個性に合わせて学ぶ機会をもっと増やすべきですし、色々なタイプの人間がいないと何も新しい事は生まれて来ないからです。

そしてそれこそが平等という事です。

 

食べ物を均等に分け合ったり、誰でも病気になれば治療が受けられたり、どんな人間でも等しく生きる権利を持つ事が出来たりと、それは社会という集団での生き残りの道を選んだからです。

しかし現実には、「平等」「公平」とは程遠い「不平等」「不公平」だらけなのです。

スポーツにしても勉強にしても、また仕事や人生においても、平等な立場を社会は装いたいだけで、上辺だけの幻の様なものです。

そして順位を付け、チャンスがあるかのように「公平」だけが独り歩きしているのです。

「平等」「公平」は、人間だけが作り出せると書きましたが、実は公平という名の「不公平」しか生み出してきてはいないのです

それは、所詮人間も自然の一部であり、カオスの中で生き、不平等という世界に生れ出ただけの話で、それでも「不公平」「不平等」と声を上げるのは比較という概念がそうさせるだけで、比較が無くなれば不公平や不平等は存在しません。

自然は元々不平等ですが、あくまでも人間側からの見方によるもので、実際にはその概念は自然の中には存在しないですし、公平もしかりです。

残念ながら「不平等」を容認しつつ「公平」という見せかけの理想を掲げる事で、社会を維持しているだけなのです。

複雑になりすぎ、シンプルな生活から遠ざかってしまった代償なのです。

教育という大切な人間が生み出した発明は、比較を教える為ではありません。

不平等の中でも競い合う事や助け合う事が本来の公平であり、それは強制するものでも押し付けるものでも無いのです。

公平性や平等に重きを置く事では無く、過去からの声を聞く力と未来を作り出す想像力を養う場であるのが本当の教育です。

大人になって「π」や「√」なんてほとんどの人が、使わずに生活していますが、覚える事が目的では無く、その過程、すなわち筋肉を鍛えれば太くなるように、頭、脳も使えば使うほど発達します。

読み書きもその手助けになる為に学ぶのであって、無駄のように思う方程式や元素記号も、たとえ将来直接役に立たなくても、思考するトレーニングになるのです。

頭の柔らかい時に、様々な脳内の回路を作り、連携させる為に学ぶのです。

スポーツでいうと、身体作り、基礎を身に付けトレーニングする事と同じです。

ですから初めからやっても無駄、自分は頭が悪いから、将来役に立たない、そんな考え方をしてしまうと、色々な機会を逃してしまうのです。

調べればすぐわかるような歴史の年代を記憶する為に学習しても意味がありません。

日々研究や見直しで、歴史や過去の情報が更新されているのですから。

特に歴史は、日本と世界に分けられて学習していますが、同時期にどんな事が起きたのかを知るような勉強の方が本当は大切ですし、世界との比較する事によって、大きな流れを把握する力もつくので、必ず役に立ちます。

個人差があるので、自分にあった教育の場は必ず見つかりますから、諦めないで欲しいのです。

 

昔は各家庭に百科事典があり、全巻そろえる事がステータスにもなっていました。

私の家もそれほど豊かな生活では無かったので、月単位で揃(そろ)えていました。

ただ、分厚く重い事もあって見る事はほとんどなく、無駄なスペースだったと記憶しています。

昭和の私から見ると、現代は羨ましいほど勉強できる環境になっています。

解らない事は、ネットですぐ調べられますし、何よりスマートフォンという素晴らしいツールがあるからです。

学校に行くことも大事ですが、便利になった現代、無理に行く必要はありません。

脳にたくさん刺激を与えるよう、本を読んだり、映画を観たり、自分の好きなことを調べたりするだけでも違います。

皆と同じ道を歩む必要はありません。

疑問を持ち、そのままにしない事と、当たり前の事を当たり前と思わない事。

何より「知りたい」という気持ちを持ち続ける事です。

そして、歳を重ねるほどその事が難しくなってしまいます。

その事は忘れないで下さい。

世界には不登校や、問題児とされながらも、のちに素晴らしい業績を残した人達がたくさんいます。

世間体や常識、人とは違うという先入観と価値観。

そんな、どうでもいい基準に、親も含めて自分を当てはめないようにしたいものです。

始めから不平等で公平では無いのですから

私が過ごしてきた昭和には選択肢が少なく、皆が同じ方向を目指す事でしか、人生という価値を見い出す事が出来なかったようにも思います。

それが良かったかどうかは解りませんが、少なくとも今の様な金銭的な大きな格差はありませんでした。

勿論、そろばんや習字、英語習得の様な習い事をする子もいましたが、進学塾など周りにはほとんど無かったと記憶しています。(ちょうど、進学の為の塾が出だした頃です)

まあ、近所に自由に出入り出来る空き地があり、車庫なんて無い家ばかりのドラえもんの「のび太」の様な世界です。

そして不公平や不平等はありましたが、先生や年上の子供、近所の繋がりが補っていたかもしれません。

良い意味で世間体も、目の役割をしていたのでしょう。

 

私達は、不公平・不平等という船に乗り、情報という大海の潮流に流されているように見えます。

自分で考える事を放棄し、体制や世間という流れの早い潮流の行く末は、たぶん破滅でしょう。

過去、歴史という素晴らしいマニュアル(手引き書・取扱説明書)がある事も、想像力という風を味方にする事も、謙虚という明かりも、そして信念というオールで漕ぐ事もしないで、行き先も解らずにただ流されているのです。

 

確かに「比較するな」と言ったところで無理な話でしょう

隣の豪華極まりない船を羨ましく思うかもしれません。

食糧だって、燃料だって沢山積んでいる船に乗りたくなるのは仕方がない事です。

でも、自分の船は唯一無二の一隻キリなのです。

どんな立派な船でも、前に進まなければ意味がありませんし、ただただ流されているだけなら役立たずでしかありません。

 

不公平という壁は、生まれた時からあります。

そして比較がある限り、平等・公平に物事は進んでは行きません。

わめこうが、嘆こうが、残念ながらどうにもならないのです。

ボロ船でもマニュアルを読み、明かりを灯しオールを漕ぎ、風をつかまえて進めば、流される事無く目標にたどり着けるのです。

人生が尽きるまで、全ての事が勉強なのです。

それは航海の中、新たな発見や目印、ひらめきを見つけてくれるのです。

歳も性差も、そしてお金にも囚われない、比較しない自分だけがたどり着ける場所が見つかった時、

何もかもが既にそこにある事を、全て持っていた事を知り、生きてきた意味がきっと解るかもしれません。

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不公平という壁⦅平等と教育⦆(2)

この記事で不公平を是正せよとも、受け入れろとも書いていません。

ただ、諦めてとも書いていません。

見方を変える事の大切さを改めて考えて欲しいのです。

 

平等に日は上り、時間は過ぎていきますが、「自然」は見方を変えると不公平そのものです。

人間を含めた生物に対して、都合の良い様に流れてはくれません。

時も場所も選ばず、予告なしに選択と仕分けが始まるのです。

カオスであり調和であるという事は、バタフライエフェクト

(若者達へのメッセージ⦅幸せになれ⦆(3)参照してください)

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の様にそれぞれが繋がっていて、何処かが変化すると別の何かが動き出す事であり、しかし調和の中にいて大きな宇宙の流れの一部として均等を保っているのです。

「公平」「平等」という概念を作り出せるのは人間だけなのです。

その裏にある「比較」が生み出すものだからです。

 

まず平等と公平の違いをおさらいしておきましょう。

例えば運動会で100m走をするという事を頭に思い描いて下さい。

全員が運動会に参加する事が「平等」です。

権利が一様である事、すなわち条件を付けない事を指します。

そして能力に合わせて、靴の種類、スタートラインやゴールの位置を変えたりする事が「公平」です。

個々の能力・適性などを考慮した上で調整して、偏(かたよ)りやハンディーキャップ(不利、不利益)を無くす、この場合でいうと身体能力や身体の大小、性差の違いによる差が出ないようにするという意味になります。

すなわち公平性の担保は、学年に分けて選手全員が同じスタートラインに立ち、例え男女別にしたところで出来無いのです。

もう一つ例を挙げて見ましょう。

運動会に出た事で、皆がお菓子を貰える事が「平等」です。

学年(成長の時期、能力の違いや練習量)により、お菓子の量が違う事が「公平」なのです。

すなわち差が生まれる事を考慮するという事です。

勿論、生まれた日の違い、好き嫌いやアレルギー、歯が悪いという様な要素が加味されるので厳密には不可能ですが。

すなわち運動会は結局、平等で公平を担保出来ません。

明治7年(1.874年)海軍兵学校で日本で初めてとなる運動会が始まって、その内容も個々では無く、集団重視へ変化してきました。

運動会自体意義が無いとは言いません。

練習による体力アップや仲間との共有感を学べる良い機会であると同時に、助け合う事で公平で平等なイベントに近づく事が出来るからです。

が、大人達が公平や平等をはき違えたり、正しく理解していない面があり、やたら団体行動の正確さや細かい服装、髪形などのチェックを求めたり、家庭の事情を考慮してか、食事を子供だけで食べる事にしたり、また順位を付ける事を廃止したりと歪んでしまっているのが現状です。(コロナ禍では対応が違いますが)

平等ならば、安全を考慮したうえで家族と食事が出来るはずですし、来られない保護者や親族がいる子にはそれこそ配慮、すなわち他の家族と一緒にするとか、先生と食べるように公平にすれば良いのです。

考えれば解る事で、保護者が競技に参加する事自体、不平等なのです。

来賓だけが涼しいテントの下に座っている事自体が不公平そのものなのです。

正に大人が不公平と不平等を子供達の前で作り出しているのです。

もう一つ事例を挙げて見ましょう。

私の経験では、保育園から高校入学等、節目に式典がありますが、その光景を一緒に思い出して欲しいのですが、式典の檀上から見ると、左右どちらかに来賓席や先生方がいます。特等席です。

そして子供達、最後に保護者という順番です。

主役は子供達です。

式典が行われるまでに、学校は子供達に親への感謝の手紙を書かせます。

勿論、もらえば嬉しいものですが、式典では我が子が何処に居るのか解らない後ろ姿をずっと探しながら後ろから見る事になっています。

子供達が見て欲しい人は一体誰なのでしょうか?

感謝の手紙をもらった保護者は、誰を見たいのでしょうか?

お偉方、権力や肩書がある人は、本来柱の陰からそっと見守るのが筋ではないでしょうか?

もしくは、一番後ろで式典全体を祝福し味わう事では無いでしょうか?

生徒達、子供達が一番前で保護者の方を見て行われるのが本来の式典の意味、道理に叶う事です。

その姿の誇らしさを、笑顔で正面から見届けるのは保護者ですから。

お分かりになると思いますが、比較を生み出しているのは大人達です

 

不公平という壁は、生きている限り必ずぶち当たります。

それはこの地球上の全ての生物に言える事です。

不平等の世界で魚達は、沢山卵を産み、食べられるリスクを考慮しています。

すなわち食べられる事、不公平を前提としての行動です。

鳥の雛も、弱ければエサを食べられず死んでしまいます。

そして食いぶちが減った分、残った雛の生存確率が高くなるのです。

人間は、生まれた状態では立つ事も、食べる事も自力では出来ません。

脳の発達を優先している為、生まれながらに頭が大きく、面倒を見てくれる存在を前提としているからです。

免疫が定着し、周りに起きる危険を避ける事を自力で出来るまで大人が見守ってくれます。

しかしながら、生まれた瞬間から不公平で不平等が始まるのです。

アメリカがアフガニスタンから撤退した後、女性に対する教育を閉ざし始めました。

学校に行かせない為、自宅待機させる事も行っています。

例え、紛争国や貧困国に生まれて来なかったとしても、ネグレスト(育児放棄、育児怠慢、監護放棄)、飢餓や病気や事故など、予測できない事だらけなのです。

一律にスタートラインには全く並んでいません。

生まれた途端不平等ですから、いくら不平等だとわめいても、平等にも公平にもなりません。

平等に公平に受ける事が出来る義務教育であっても、そうでは無いのです。

家庭の事情や周りの環境がまちまちの中で、公平性を保つ為運動会で一位を決めないというようなレベルの話では無いのです。

子供達は、肌感覚で解っています。「平等じゃない」「不公平」って。

 

教育はとても大切です。

歴史にもよく出てくる足利義輝織田信秀が活躍していた時代に、宣教目的で来日した教科書でも有名なフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が日本人の識字率の高さに驚いていたと言われています。ただ女性の場合はかなりその率は下がりますが。

当時の外国では文字の読み書きが出来る人の割合が低かったからです。

その日本の現状ですが、義務教育は1.980年代以降、詰め込み教育の短所、例えば暗記に重点を置き、テストが終わると忘れてしまうような事ですが、このような事に対する反省から、学習の動機付けに重点を置くゆとり教育へと路線を変更する事となりました。

しかし、世界と比べて学力が落ちた事を理由に文部科学省は、2.008年に新学習指導要領を作成し、脱・ゆとりへと方向転換しました。

長い目で見ると、どちらにせよ教育方針に大きな差はなかったようで、結局教育現場や生徒たちが混乱し、時間のやりくり等、問題を増やしただけで、実験としては意味がありましたが、何も変わらない状況という結果に終わってしまいました。

義務教育就学率は日本国籍ではほぼ100パーセント近い(学校に行っていない子はいますが識字率と同列では無い)子供達が教育の機会を得ていますが、2019年文部科学省が全国調査をしたところ、義務教育を受ける年齢に相当する外国籍児12万4.049人のうち全体の15.8%にあたる1万9.654人が不就学という驚くべき数字になっているのです。

今もなお平等に子供達に勉学の機会が与えられていない貧困国や女性蔑視の国等では大きな課題となっていて、NGO組織「プランインターナショナル」でも、劣悪な環境下での労働力として、また早すぎる結婚、出産による教育機会を受けられない子供達の支援の大切さを訴えていますが、支援を受けられる子供達は、世界でもほんの一部でしかありません。

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幼少期から不平等という壁が立ちはだかっている人達は、私達が思っている以上に多く、外国籍の子供の達の救済に加え、世界に目を向ける政策を考え直さないと未来が無くなってしまうのです。

日本がその為にもっと手を差し伸べる事が出来るはずですし、日本にとっても良い影響をもたらし貢献する事で信頼を得て未然に紛争や争いごとに巻き込まれる確率も減るはずです。

 

子供や若者達の教育では、今しか出来ない、後回しに出来ない事って沢山あります。

塾や習い事等、将来に向けて色々出来る子供は、恵まれているかもしれません。

好きな事を見つけ、夢を描ける環境にいる人ばかりではありません。

キッカケも与えられず、ヤングケアラーやネグレクト(育児放棄)、宗教二世問題に加え。日々の生活に追われ、勉学に支障をきたしている人も沢山います。

登校拒否や引きこもり、イジメといった悲しい出来事も沢山あり、加えて貧困や格差という本人の意志とは関係なしにチャンスを奪われている子供達や若者。

自力で自分に投資が出来ない環境の中、仕方がないといった諦めや、我慢を強いている現状が、不平等や不公平を助長している事を、大人達は真剣に問題意識として社会の中で取りこぼされないよう考えていくべきです。

 

同じハイツに住んでいる、友人の一人親世帯、息子より一つ上の女の子がいますが、経済状況を考えて、塾の話すら親に出来なかったようで、高校選択時、公立がダメなら進学をあきらめ就職の道を模索していたようでしたが、やはり進学を諦めきれず、何とか頑張って公立に進学できました。

節約の為、片道1時間余り自転車を漕いで元気に通っていますが、こまごまとした費用や部活で、どうしてもお金が掛かるのです。

毎日、必要なお金、数百円を親から貰い、節約しながら頑張っています。

 

子供の夢を金銭で左右するこの世の中、親としたら、こんなに辛い事は無いでしょう。

つい「お金さえあれば」と思ってしまいます。

例え、どんな所でもやる気が無いとダメなモノはダメで、逆に努力次第で道は開けると、息子にも機会があるごとに話していますが、本音を言うとやはり無理な事が多いのも事実なのです。

教育に対する支援も少しは前進してはいますが、それでもまだまだ足りないのです。

(「来年高校受験を考えている保護者の方へのアドバイス」を参照してください。)

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高校に入ると将来像を描けと言われるようになりますが、振り返って自分の事を考えると、当時の私は全く考えていませんでした。

一つは昭和の時代であった事で、早々に就職するか、会社員として就職し、終身雇用で退職まで働くという流れが大きかったからです。

二つ目は、それとは逆にレールに乗る事に疑問を持ち、将来の事では無く、今を楽しみたいという生き方が出てきた頃なのです。


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ドラマ「俺たちの旅」が放映されていた時期で、当時のドラマは恋愛ものが少なく、生き方を問うモノが多かったと記憶しています。

勿論、私は後者の方でした。

ですから、親からは近所に顔向けできない息子として見られていました。

家庭環境が悪かったのもあり、10代後半には家を飛び出していました。

「音楽でメシを食う」と決めてからは、アルバイトに明け暮れる日々。

勿論本気で考えていましたが、現実はそんな甘くはありません。

「もし小さい頃にピアノを習わせてくれてたらなぁ」と思う事も何度もありました。

そして、時間だけが空しく過ぎてしまったのです。

そろそろ無理かなぁ!もっと真剣に取り組んで、頑張っていれば良かったと後悔するようになったの時、既に40代になっていました。

けれども、だからと言って今を後悔はしていません。

運命の歯車はどう転ぶかは誰にも解らないし、何本の枝分かれの末、たどり着いたのが今です。

最初の夢こそ叶いませんでしたが、今日までに至るまでの経験や人との出会いは、今の自分を作ってきた事であり、無駄では無かったと思っています。

昭和の時代を生きてきた私は、フリーターという言葉が出だした生き方をしてきた訳です。

人生の半分を正職につかずに過ごしてきた中から学んだ事は、不公平と不平等だらけで、理不尽な事が沢山ある事や、どんな事でも表と裏があるという事。

そして数々の仕事をしている中での人間関係の難しさと、どんな仕事も大変で、大切であるという事です。

そして、職が変わるたびに新たな事を学ばなければいけなかった事が、逆に人生という学びになった事です。

「一生勉強だな」と気付いた時、道端の雑草が愛おしく見えました。

名前も知らない草すら、少しのアスファルトの隙間から芽を出し懸命に生きている事に、改めて生きる事の意味を見たからです。

不公平で不平等だらけの隙間を縫って生きている「いじらしさ」にです。

不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)に続く

戦争⦅日本の選択⦆(3)

それは、自分に無いモノを他人から得ようとし

底なしのような無力感を感じるはずだ。

そこにあるのは罪悪感に落ちる優越感。

穏やかには程遠い。

何も持てない人達の不幸と、お金や権力を持つ人達の不幸は、

選べるか、選べられないかの差だけで、不幸にかわりない。

仏像もキリストも目をみれば、幸や不幸はそこに無く、

決して、あなたに視線を合わさずに、

迷いも無く見つめている。

こうあるべきという教えも無い。

答えは自身の中にあると言いたげだ。

 

第二次世界大戦後77年目の夏、日本は類を見ない線状降水帯による豪雨で、沢山の方が被災されました。地震も相変わらず頻発しています。

これら天災は、地球温暖化等、人類が直接ないしは間接的にその引き金を引いているとも言われています。

未だ戦争や紛争が続き命が奪われ、戦闘による大量の二酸化炭素の排出をし続けている人類。

以前から海洋生物の体内にマイクロプラスチック(レジ袋、コンビニの弁当箱、ペットボトルの蓋などのプラスチックゴミが微細な粒子になったモノ)が検出され話題になりましたが、最近、人間の血液中にマイクロプラスチックが含まれているという恐ろしい報告のニュースが流れていました。

結局この星に人間が誕生した訳は何だったんでしょう?

46億年前に誕生した地球。約2億年かけて海を作り出しました。

その後38億年前頃、つまり誕生から約8億年後ついに生命が海の中で誕生したのです。

そして酸素が登場するまでに約22億年もかかっているのです。

 

人間が自然に与える影響のスピードがいかに速い事か解ると思います。

宇宙というスケールで考えると、人類はマイクロプラスチック以下の存在に過ぎません。

勿論この太陽系も、ゴミの様なものです。

有っても無くてもどうでも良いくらい、本当にちっぽけな存在なのです。

余りにも小さく、何が起きるか解らない危うさの中でしか人間が住める場所はありません。

それでも人間は、争う事を辞めません。

この星に対して、やらなければいけない事を、どんどん先送りにしながら。

 

欲は誰にでもあります。

けれどもその欲が自分の快適さだけを求めるものである限り、戦争も紛争も無くならないでしょう。

こんな、か弱い地球の上で欲にうごめく人類の姿を、行動を本当に私達は許容していいのでしょうか?

命が生まれるまで気の遠くなる時間と、偶然と奇跡を費やし、その大切な命を僅か数秒で終わらせる愚かな行為になぜ気が付かないのでしょう?

「大勢(たいせい)」は、身に危険が及ぶまで、財産を失くすまでその恐ろしさを知ることは有りません。

すなわち、国民が大勢という流れの中で権力を見ている限り、権力者の思うつぼになります。

疑問も持たずに、その場その場で右往左往し、発信し、同調を求め、意にそぐわない者を攻撃する人達の存在を絶対に良しとしない社会であるべきです。

例え少数であっても、異なる意見を無視する事は、やがて大勢として危険な方向へと舵を切ります。

誰もが自由に意見を言い、話し合い議論を尽くすという民主主義の根幹である事を、私たち一人一人が認識し、政治家に丸投げしてはいけないのです。

大切になるのが、マスコミやSNS等のメディアの役割でしょう。

まだ記憶に新しい忖度という言葉、その様な兆候が最近どんどん問題として浮き上がってきました。

情報を都合の良い様に操作し、兵士や国民に高揚感を与え、正義を押し付ける事は、有事、戦争の際に必ず起きる事です。

事実を隠す事で、無駄に命が奪われる事は、歴史がハッキリと示しています。

その仲介をマスメディアが助長したり、忖度したりしてしまう事は十分考えられます。

そして、大勢が雰囲気を作り上げ、巻き込み、負の方向へと突き進んでしまいます。

SNS 等の個人による情報発信が簡単に出来るようになった現代。

扇動したりフェイクを流す事も簡単に出来る様になってしまい、情報に翻弄されて思わぬ行動を起こしてしまうのです

それは、政治に対しても言える事で、短絡的な民衆受けの良い言葉で、高揚させるような人達の言葉に浮かれてしまい、聞いた側自らが発信者となって後押しをする羽目に陥るのです。

自分を家族を守る為には、やはり歴史の示してきた過ちに目を向け、なぜ間違えてしまったのかという事を紐解く力です。

今だけの事ばかりに囚われて、早急な判断で行動を起したり、他の人達に押し付けたりする事は絶対に避けなければいけません。

 

誰でも過去の事をいちいち調べたり、悲惨な出来事を聞きたくないという気持ちは解ります。

まして自国が犯してきた過ちを認める作業は気の重いもですが、それなくしては未来はありません。

 

日本のすぐそばで、きな臭い事が増えています。

ただ、単純に防衛を含む力に頼る政策に舵を切る事に連動させる事は全く別問題であり、様々な方策を模索し、特に外交による話し合いに重点を置くべき事なのです。

勿論、普段からの外交力が大切ですが、今の日本を見る限り全てにおいて立ち位置が定まらず、場当たり的な政策ばかりをやって来たように思うのです。

原水爆一つとっても、とても被爆国がとる態度とは思えません

77年間、いったい何をこの国はやってきたのでしょうか。

例えば前回も書きましたが、日米地位協定の理不尽さは目を覆うばかりです。

FEN(Far East Network:極東放送網)という名前を知っている方も多いと思いますが、在日米軍向けラジオ局で、現在は名称をAFN(American Forces Network・米軍放送網 "Eagle 810")と名前が変わり、東京では810kHzのAMラジオで流されています。 AFNを含む在日米軍の無線局は全て日米地位協定に基づき電波法の適用対象外となっているのです。

すなわち外国政府や外国企業のほか、役員や議決権の3分の1以上を外資が占めている場合は、無線局の免許を与えないこととしているという制約を受けないという事です。

またアンテナ等の広大な土地も、未だ返還されていません。

空、航空法航空特例法という存在が盛り込まれている為、通常建造物の高さ+300mを保って飛ばなくてはいけないにも関わらず、米軍機は、航空特例法で最低安全高度規制や、迷惑な飛行の規制に縛られずに飛行する事が可能なのです。すなわち日本の上空を自由に飛び、日本の管制を無視できるのです。

またアメリカ軍による日本国内の航空管制のお陰で、航空機が迂回ルートを飛ばなくてはならない事も問題になっています。

低空飛行訓練ルートを勝手に設定もしているのですが、同じ先の大戦での敗戦国のドイツやイタリアは、自国が管理しているのです。

その他、この地位協定は犯罪が絡む様な様々な問題を起していますし、思いやり予算と言われる在日米軍駐留経費負担も、経費負担率(2002年)で実に74.5%も負担していて世界で一番の負担率で、毎年2.000億円ほどの支出をしているのです。この中から娯楽施設の人件費も支払われている事も解っています。

このような思いやり予算に対して、「守ってもらうから仕方がない」とか「防衛として考えるならば、むしろ安く済んでいる」という人達もいますが、言いたい事や主張も出来ず、犯罪者さえ厳正に日本の法律で処罰できない現実が、はたしてこの国の為になるのでしょうか?

前回でも書きましたが、大国は自国の利益を最優先に、それも巧みに計画を立てています。

いわば日本はカモにされている可能性が大きいのです。

対等に、自由主義国として渡り合える関係を持つ為には、曖昧なその場に合わせる様な態度でいては、いつまでたっても言いなりで、対等にはならないのです。

出来ない事にはハッキリとNOと言える政治家が必要なのです。

 

アメリカが良い悪いと言っているのではなく、むしろ日本政府の腰の引けた態度に危機感を感じるのです。

歴史は過去からの教訓を学ぶ為のもで、戦国武将の戦術や名言を評価する為ではありません。もっと近代史に力を入れるべきです

そして、全ての過ちも含めた事例を次の世代を担う子供達に教えていくべきです。

国歌斉唱も「日の丸」に一礼する事も、それが何の為にやっているのか、何を心に訴えかけるのか考える機会がないまま、形式だけでやったとしても意味があるとは思いません。

愚かな戦争で敵味方含め、亡くなった多くの人達の「お国の為」「生きろ」「生き抜いてくれ」という想いの裏にある「こんな愚かな事で死にたくない」「二度と同じ過ちを繰り返すな」「駒のように動かさる様な屈辱を、次の世代に味あわせないで欲しい」「無駄死にしてはならない」「生きて帰りたい」という悲痛な想いがあったはずです。

単に「尊い命があったからこそ…」とか「彼らの犠牲の上に…」「英霊の御霊に哀悼の誠を…」という言葉で、格好だけで済ましてしまうお偉方に、その裏にある一人の人間としての声にもっと耳を傾けるべきです

いつか世界中の人が、笑顔で青い空を見上げ、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込める日が訪れる事を願いたいものです。

その日、人類はやっと進化した日として、歴史に刻まれる事でしょう。

 

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戦争⦅日本の選択⦆(2)

「暑い、暑い」と風を待つ

木陰のまだらな陰陽が

涼感を呼び寄せて

当たり前の日常に感謝する

戦火の中で逃げ惑う

「暑い、暑い」と叫ぶ声

時を経て聞こえるその声に

想いを馳せて汗を拭く

無駄では無かった命だと

風は心を通り抜け

大きく心を揺さぶった

 

今の日本のGDP「Gross Domestic Product」国内総生産IMF国際通貨基金)が発表した2021年度世界3位で、まだ経済力は高い方ですから、そのおかげで防衛力は世界でも5位(GLOBAL FIREPOWER 2022参照)。

アメリカからの武器購入等で最新兵器を所有してはいますが、自衛隊員数は約26万人で、お隣の中国は2~3百万人もいます。(正確な数字は解りません)

また自国だけで情報収集する能力は同盟国無しでは極めて低く、情報共有というシステム無しでは、電子戦とも言われる近代の戦争で勝つ事はほぼ不可能に近いのです。

また攻撃や防御するとなると必ず補給、すなわち兵站(へいたん)が必要になります。

先の大戦でも、補給路を断たれ数多くの人達が飢餓や自決に追い込まれました。

島国である利点は、裏返せば不利な条件ともいえ、兵站(へいたん)が断たれれば何も出来なくなります。

今の台湾情勢を見れば解るはずです。

その時、同盟諸国はどうやって兵站を確保してくれるでしょうか?

制空権をいつまで保持できるか?

いくら最新の兵器があっても、弾薬や食糧や燃料が無くなれば意味のないものになってしまうのです。

ウクライナの戦争でも、ロシア軍の車両のタイヤ性能が悪く、役に立たなくなる事例もニュースとして流れています。

タイヤ一つとってもこのような事が起きるのです。

世界で起きている紛争地で見かける運搬や軍用車両として使用されている日本車の多さも、整備性や耐久性を考慮しているにほかなりません。

果たして空と海、四方八方からの攻撃にどうやって立ち向かうのでしょうか?

兵士に志願し、前線で戦える人材をどう確保し送り出すのでしょう?

ましてアメリカの核の傘の下と言っても、アメリカ本土を狙って攻撃されると日本の事等かまってられなくなるでしょう。

そして日本が狙われるのは通常であれば基地だけでなく、原発や発電設備、エネルギー貯蔵庫、放送局や海底ケーブルと誰が考えても解る事です。

勿論レーダー補足が出来ない無数のドローンなどの無人機による攻撃やサイバー攻撃にさらされ、インフラが破壊され、ガラス張りのビルから雨の様に降り注ぐガラス片や、道の狭さから緊急自動車は通れず、密集地域では次々と火災に見舞われる事でしょう。

タワーマンションは、逃げにくい構造、すなわちエレベーターが止まり、海からの強風や火災による火災旋風によりヘリも飛べないでしょうし、飛べたとしても一度に大勢乗せることなど不可能です。

そもそも有事の際に飛ばす事さえ出来なくなるのは目に見えています。

一極集中の東京はパニック状態になる事は間違いありません。

そして誰かが核のボタンを押せばもう破滅しかありません。

例え直接日本に落とされなくても、核爆発による電磁パルスの影響で電子機器は使用不可能になり、風向きによっては放射能が飛んできます。

それだけでも生活は一変します。

1986年4月に起きたチョルノービリ(チェルノブイリ原発事故での子供達の甲状腺がんの増加も現実にあった事ですし、未だに放射能を食い止める為、石棺(コンクリートの建造物)で封印され、さらにそれを覆う構造物まで作られているのです。

放射能は日本の雨水からも検出されるほどの規模でした。

責任や因果関係を未だ認めていない福島原発爆発による被ばく問題も、何ら解決もされていないし、最近ではニュースにもならないのです。

何度も書きますが、始まれば終わりなのです。

 

これまでに電力不足や災害による停電、通信事業者や銀行のシステムトラブル等が起きる度に、大騒ぎになる様な、いわば脆弱(ぜいじゃく)そのもののこの国の実態を、現実を見なければいけません。

当然ながら日々貯めている買い物ポイントも、全て消失しますし、カード類はゴミとなるでしょう。

 

想像すれば解るはずです。

どれほどの家に爆撃に耐えられるシェルターが備わっているのでしょうか?

何日にも渡って自給自足が出来る家が、どれほどあるのでしょうか?

放射能からの防御体制、例えば風向きの把握や安定ヨウ素剤(40歳未満のみ服用化ですぐ飲まないと効果は薄れます)の備蓄をしている家や、自治体の何処にあって、どの様な配布方法をするのかは知っていますか?

戦争に伴う様々な病気の蔓延、化学兵器使用時にどう対処するのでしょうか?

陸路や空輸、船で本当に必要物資を届けられるのでしょうか?

そもそも日本の高速道路は緊急着陸できる構造になっていませんから、ガソリンや軽油が尽きれば車両による補給も困難になるのです。

 

そして、いったいどこの誰が責任を取るのでしょうか?

一体誰が検証するのでしょうか?

国民が安全な戦争があるなら教えて欲しものです。

被爆国である日本がやるべき事は、核廃絶と偏りのない世界の国に対する金銭的、人的支援や技術協力、経済やインフラ整備の支援や子供達への医療教育支援など、いくらでも出来るはずです。

国際的な人道支援団体に個人的に参加する人を増やす方法を考えてもいいかもしれません。

若者達の国際交流を盛んにしてもいいでしょうし、世界中に手紙やSNSで友達を作る企画や難民認定のハードルも必要以上に高いままにするのではなく、むしろ積極的に受け入れ、人口増加や若者が増えるようにする事だって考えても良いと思うのです。(一部の人達が民族や宗教、血縁といった理由で否定的な人達がいるのも事実ですが)

また核の傘核兵器を無くす事とは、次元の違う問題であるはずです。

にも関わらず、明確な態度を取らない姿勢は、かえって信頼を失います。

友好国との付き合いは対等な立場でこそ成り立つもので、正に忖度したり、顔色をうかがうような態度を取っていれば、世界の笑いものになる、いやなっているかもしれません。

世界で一番長い歴史を持ち、唯一の被爆国という立場でのNPT(核拡散防止条約)で核廃絶を夢物語に終わらせないようにリーダーシップを取り、国連の戦勝国に有利な在り方を改め、正常に機能させる役割、本来あるべき姿に変えていく事に真剣に努力をすべきなのです。

その姿勢こそが、日本を守る事が出来る最大の武器となるのです。

加えて日本の救助隊が海外に派遣され活躍したり、名も知られていない日本人が、世界中で現地の人の為に尽くしてきたりしてきた事を忘れてはいけないのです。

その様な行為に対して裏切ったり、無駄に終わらせる事は愚かな事以外何物でもありません。

そしてその様な支援が信頼や友好を強め、守りの壁となって攻撃対象とは絶対にならないでしょう。

親切にしてくれたり優しくしてくれたりした人を殺そうとうとは思わない事と同じ事です。

国際結婚している私も、妻の国の人達に親しみを持っていますし、友人もいます。

その彼らの国を攻めようなんて思いませんし、身近に外国人の方々と接している人なら解るはずです。

 

何より地理的にもそうですが、宗教問題や民族問題による国内における対立があまり無く(カルト的な宗教団体や政教分離と言われながらも政治に対する影響は、少なからず無くなっていませんし、ヘイトや入管による人権を踏みにじるような行為、外国人労働者に対する一部企業の搾取等は依然存在し、今のところ改善されてはいません)、政治的には、他の国に比べはるかにその様な問題に時間やお金を割く事が少ない国が日本です。

 

米ソの東西冷戦時、アフリカは鉱物の宝庫という事もあり、大国に翻弄されてきました。

今でもアフリカで話されている言葉の種類からも、それがうかがえます。

冷戦以降も、いや遥か昔から大国は自国の利益を求め他国を植民地化し、鉱物や石油に限らず人的な資源の確保をする為、航路確保や寄港地にする為、侵略や紛争へと突き進んできました。

アフリカに限らず、上記の理由に加え布教活動及び強制改宗の目的で占領された国は山ほどあります。

そして、彼らが去った後は内戦が勃発し、宗教争いが始まり、権力の取り合いと進んでしまったのです。

日本も歴史の教科書に出ている様に、植民地化しようと他国に翻弄されましたが、その頃は戦国時代であり、中央集権国として統一された時期で、武器(鉄砲等)や士気の高い戦士の数も多く、いわば軍事大国状態であった為、宣教師は本国に侵略は困難であるとの情報を送り、功を奏した事と、宣教師による布教(侵略する為という側面もあったとされる)でも国民全体を改宗させるような影響を与えなかったのが幸いしたのです。

(一方で日本は、他国を欧米の植民地支配(侵略)から独立させる、また日本が独立国家としての存続を脅かされる危険という前提で他国に対し勢力を拡大した側面もあり、今でも賛否が分かれるところで、国によって日本に対する感情が違うのは知っての通りです。)

 

日本は資源を他国に依存しています。

それは、非常に不利で弱点であると同時に、裏を返せば資源が無い事は、侵略されるリスクも多少でも低くなります。

他国から見れば災害が多く、資源が少ない国を手にしたところで何の利益もありません。

だからこそ話し合いや、時には仲裁を率先してやらなければいけませんし、それが出来る国なのです。

ご機嫌取りの様に、軍事的に足並みを揃えるばかりが外交ではありません。

同調できない事があれば、ハッキリと意思を示さなければ逆に信頼を失ってしまうからです。

何より重要なのは、歴史的な史実や事実を隠す事無く、未来につながる子供達に教えなければいけません。

無かった事にしたり、負の部分を載せないだの、こんな事を許してはいけないのです。

愛国心がそがれるといった意見を述べる政治家もいますが、全くの間違いで、正にプロパガンダであり、本当の意味での愛国心を生み出さなくしてしまいます。

人に例えれば解る事で、悪い部分を知ってもなお理解してくれるからこそ、お互いに信頼関係が生まれます。

上辺だけの美化された人や国は、やがて化けの皮が剥がれ落ちるのです。

 

「Never do anything against conscience even if the state demands it.」

『もし状況がそうすることを求めても、良心に反することはどんなことであってもするな。』

アインシュタインの言葉より

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このブログ「魂とは?霊とは?」でも書いていますが、戦争になれば命の引き継ぎの中での「魂」という故人の想いを、伝える事すら憚(はばか)ったり話さなかったりと、受け継ぐことが出来なくなってしまいます。

それは、当事者が味わったあまりにも無残な経験が、口を閉ざさせてしまうからです。

死はその人の全てを消してしまうのですが、残された者に想いが託されていきます。

一人一人の想いが積み重なって、争う事の愚かさを歴史として積み重ねてきているのです。

地球上で、過去の事を知る事が出来る動物は人間だけという事には必ず意味があるはずです。

 

何の為に生れ、死んでいくのかさえ解らないまま命が失われる事の無念さや悲しみは、本人のみならず社会にとっても、そして未来にとっても何もいい事はありません。

軍事費が必要で無いとは書いてはいません。

残念ながら、領海侵犯による脅威や漁業に影響を及ぼす事例も沢山発生しているのも事実です。

「日本政府は弱腰だ!」との声も聞かれるようになってきました。

ただ、だからと言って単純に防衛費を増額し、防衛力を高める事と短絡に結びつけることが果たして正しい事なのでしょうか?

別の問題として考える必要があるのです。

何故なら、走り始めると止める事が出来ない事は歴史が証明しています。

だからこそ前述の様な外交努力が今以上に必要であり、物事を短絡的に考えてはいけないのです。

本当の事を僕らは知らない

臆病で弱くて

残忍で粗暴

古い動物脳がそうさせる事を

動物は生きる為

人は恨みの為

引き出すのは戦争だ

この星は

それを良しとしない

命溢れる星として託した人間を

許しはしないだろう

 

国のやる事を傍観者として見ては絶対にダメです。

誰も責任を取ってはくれません。

何より、死んだ人間は行き返らないのです。

そして、若い人達や子供達が真っ先に死ぬ事で国が存続すること等ありえません。

あなたの家族や、知り合いが派兵される事を想像してみて下さい。

有事が起き、日常生活が一変する事を、憎しみが連鎖していく恐ろしさを、どうか想像して欲しいのです。

日本国憲法第2章「戦争の放棄」第九条 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

そして日本国憲法の前文には、

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

と記されています。

読めば解りますが、「全世界の国民」という文言が入っている事に心打たれはしないでしょうか?

 

権力者や政治の暴走を止める役目になっているこの憲法を、そして日本国民だけでない世界に目を向けての決意を記した憲法を私は誇りに思います。

前にも書きましたが、憲法は例え選挙で選ばれた政治家であっても、人間である以上間違いを犯します。もしくは、保身や権力行使による望まない判断を下す事もあります。

その様な事から国が思わぬ方向に舵を切り、国民にとって不利益になる事を防ぐ防波堤の役割をしています。

世界情勢が変わったからと言って、簡単に改正するものでは無く、あくまでも自国の権力に対する抑止という観点から十分な議論と時間をかけて考えていかなくてはいけません。

何故、この条文が作られ、どんな意図があるのかを、歴史を紐解きながら全ての国民が考えなくてはならない大切な事なのです。

と同時に、世界に類を見ない平和を謳(うた)っているその趣旨を、もっと世界中に知らしめる必要があるのではないでしょうか?。

日本は一度決めた事を、やめたり見直したりする事をしてこなかった事を思い出して欲しいのです。

自衛隊の海外派遣やオリンピック、元首相の国葬などを始め、原発再稼働から議員に対する様々な使途不明金?手当や忖度。政教分離の在り方まで、おかしいと解っているのにもかかわらず、検証や見直しも逃げ腰で責任を誰も取らない、取らなかった事を繰り返してきた事実を忘れてはいけません。

大義名分として「議論は尽くした」「国民の総意」とか「理解を得ている」「反対する者はごく少数」「真摯に受け止める」「意見として参考にする」「取り組んでまいりたい」という言葉を真に受けてしまう事は、ごまかしや道をそれてしまう可能性があるという事も十分考えられますし、実際に起きているのです。

決めてしまうと後戻りをしないという事が、いかに恐ろしいかは、先の大戦を始め歴史が示し、警告しているのですから。

更に、マスメディアによる監視の目も、その機能を発揮していないばかりか、政府に忖度するような姿勢でいる事も非常に懸念されるところです。

先の五輪でも、コロナ患者が多数出て、死者の数が増えている時に、公共放送は朝から晩までオリンピック番組を放映していたのを思い出して下さい。

 

私達は、備わっている「想像力」を大いに働かせて、未来を救う道を見つける時を迎えているのです。

その担い手になる国として、日本であればこんな素晴らしい事は無いでしょう。

 

この時期、お盆にお墓参りをしたり、モニュメントや寺社に行ったりする事でしょう。

そこでの祈りは先祖がいたらこそ、自分がいて今を生きている事への感謝の祈りでしょう。

そして、過ちを繰り返さないという決意のはずです

今の時代、SNS等で個々に出来る事は沢山あります。

声を上げる事や、呼びかけ、世界に対する発進と、若い力が平和へと動かせる時代です。

世界中の未来を担う子供達の為にも、戦争は絶対にしてはいけません。

 

「Peace is not intended to be forced.It is only by understanding, something that can not be reached.」

『平和は強制できるものではない。それは理解することでしか、到達することができないものだ。』

アインシュタインの言葉より

 

kenpa.blue

(記事は出来るだけ正確に記しているつもりですが、間違い等があれば指摘をお願い致します)

戦争⦅日本の選択⦆(3)に続く

 

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