心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

事故や災害に病気、犯罪や過失、そして戦争や紛争と、毎日の様に奪われていく数多くの命。

とりわけ生命に満ち溢れている幼い子や若者達の死は、心が張り裂ける。

残された者の心に浮かぶのは、まだまだやりきれていない人生への悔みや無力感に対する答えの出し方だ。

誰もが納得する答えなど持ち合わせていない。

ある人は神に問いただし、ある人は自責の念に取り憑かれ、ある人は思い出にすがる。

またある人は誰かを憎むだろう。

ただ、時間のみが救いになるだけ。

 

この世に生れ出たという事は、死ぬ為。

切り離す事は出来ず、一体だからだ。

コインの裏表と言っていいかもしれない。

放り投げ、手の甲に出る面で当てるゲームの様に、

何か大きな存在が、毎日繰り返しているのかもしれない。

もし裏が出れば全て終わる。

そう電気を消すように。

もう恐れる事も不安に思う事も

そして幸せも、愛も、自分をも感じる事は出来なくなる。

ただ塵となるだけ。

生と死の狭間の時間は、

常に苦との対話によって成り立っている。

誰にも介入できない自己との対話。

その選択は後追いの様に幸せを見せるか、

不幸をもたらすか誰にも判らない。

苦は生への賛美となるもので、

死を望んでは決していない。

むしろ、

生への執着と謳歌を引き寄せるモノだ。

 

才能が無い。

ついていけないかも。

バカにされる。

ムリに決まってる。

不安と心配。

 

キリがない。

止める理由の方が多くなる。

歳を取れば取るほどもっと理由が増えていく。

 

あれこれ理由を付けて先伸ばしするのなら、

いっそうの事やめればいい。

頭から追い出してしまう方がいい。

いつまでも考えない方が、違う方向に早く進める。

 

でも

片隅に少しでも残っているのなら、遅くはない。

みんな、そうして経験を積んでいく。

みんな、そうして変えていく。

そして…

若いと、大きく飛べる。

急な斜面も壁も登れる。

歳をとれば、ゆっくり、しかし確実に進める。

途中で休んでも、遠回りしても、また前に進む。

疲れたら、きっとあなたの手を引いてくれる人がいる。

後戻りはしない。

立ったままより、前に進むと景色が変わる。

知らなかった世界が広がり、見通しが良くなる。

色々な足跡を追うのも、足跡の無い道に行くのも、自由。

 

生を受け、歩き始めるその道は、平坦で道標がある道など始めから無い。

進む過程こそが答えそのもであり、だから歩き続ける意味がある。

愛する自身と誰かの為に。

勇気が荷を軽くするだろう。

諦め(あきら)は死を先取りするようなモノ。

諦めは愛すら殺す。

有限という避けられない死の為に生れた。

しかし生と死の狭間にある過程、時間こそが私達人間に与えられた宝物なのだ。

予期せぬことで、その宝物を手放さなければならない人がいる。

どんなに権力やお金を積んでも手に入らず、先延ばしも出来ない。

死者達がその気付きを授ける為、風を吹かし森を揺さぶり、雨を降らせ渇きを癒す。

陽が光と未来をもたらし、影が自戒と安息を与える。

過程という時間の大切さに彼らは黙ってはいられないのだ。

それほど愛おしい苦の時間だからだ。

 

誰でも一度は鳥の様に空を飛びたいと夢見た事があると思う。

勿論私もそうだったが、飛んでいる夢を見た次の日は決まって熱が出た。(笑)

それは別として、何故空を飛びたいか?。

それは自由だからだろうか。

鳥の様に広い空を、自由に生きたい場所や飛び回れるとしたら、そう考えるだけでもワクワクする。

動物園やペットショップに行くと、鳥たちがケージの中でジッとしている姿をよく見ると思うが、

彼らは飛び回る必要が無い。

敵もいなく捕食されず、食糧にも毎日ありつける。

けれども、大きな空をケージの網から見ることは出来ても、飛び回る事は二度と出来ない。

彼らはケージから出る事を望むのだろうか?

生れながらにケージの中で育った彼らの子供達は?

 

ケージの中では生と死の狭間が無い。

ただ生まれ、後は死を待つのみだからだ。

確かに人々の目を楽しめさせる事は出来るが、

彼らにとって何の意味があるのだろう。

 

外の世界では、いつも敵に狙われ飢餓に苦しむかもしれない

自然は厳しい苦の世界だからだ。

そう生きる事は苦の連続。

それでもケージが開け放たれると、彼らは飛んでいくだろう。

何故なら翼がそれを望むからだ。

多くの鳥たちが死に直面するだろう。

明日何が起きるか、死か、生き延びるか、

だが、大空を飛び回れる至福の時間を味わえる。

ぬるま湯のケージの中での生活からは決して得られない、

彼らの生と死の狭間。

飛ぶという彼らの本能は、例え瞬間に終わったとしても

何よりも代えがたい幸せの時間だからだ。

何よりも代えがたい自由がそこにある。

 

なぜ、生きなくてはいけないのか?

それは生まれたからだ。

生と死のわずかな時間に幸せが埋もれている。

苦と幸はどちらが欠けても成立しない。

苦ばかりと嘆くのは、幸を感じ取る力が足りないからだ。

陽が昇るのも、星がきらめくのも、

自然が見せる彩りも、決してあなたの為では無い。

けれども、生まれずしては決して見る事は出来ない。

生きているあなたにしか出来ない、あなたがそこに何を見出すかだ。

 

あなたの心の中には生まれながらに翼がある。

創造力と想像力の二枚の羽だ。

そこにはケージも取り巻く金網も無く

もしそれを感じているのなら、

自ら作り出している幻だ。

飛び立てば解る。

元々無かった事に。

過程を狭間を飛び回れ。

いつか翼は朽ちるのだ。

ならば、例え一瞬だとしても、

飛ぶ幸せを味わう事だ。

飛ばない言い訳は山ほどあるが

飛ぶ事自体に理由など無い。

何故ならそれが生そのものだからだ。

翼はある。

心の道標として。

そう飛べば解る。

飛び立てば解る。

 

教会にも寺院にも、そしてお墓にも

死者はそこにはいない。

死者は時を超え、形を変え、

そしてあなたに伝えたいのだ。

「後悔するな」

「それでも生きろ」

「生き抜け」と。

駐車場が家から少し離れた所にあり、街路樹や植え込みに囲まれた歩道を少し歩くのだが、植木屋さんの手入れが入っていないからか、丁度ほほのあたりに枝が張り出し、通るたびにほほを葉が撫でる。

最初は、うっとうしくて枝を折ってしまおうかと思ったが、ふと気付いた。

頬を撫でられるように触れる葉が、「今日も新しい一日だよ」とリセットしてくれている様に感じたのだ。

下ばかり見ながら歩いていた私に気付きを教えてくれている様で、何だか心が軽くなった。

いずれ剪定(せんてい)されるであろう枝葉に幸せを貰ったようだ。

それは手をそっと差出すように、温かい触感さえ感じさせてくれた。

 

何気ない日常に「気付き」が隠れている。

それは時に戒めであったり、幸せであったりと「気付き」が無ければ感じられない大切なもの。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

それは抜く為。

生れず、また道半ばで命を無くした人、死者に対する最高の贈り物となる。

彼らはそれをもって報われるからだ。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

それはこの世に遊びに来ているのだ。

危険を承知で遊ぶ為に。

思い出して欲しい。

幼い頃のはしゃぎまわっていた時を。

何も考えず、ただ夢中だったことを。

そして夕日が落ちれば、還るだけ。

月が昇れば眠りに落ちる。

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

たった一人でも幸せにする為。

そのたった一人が自分でも。

意味なんかそこには無い。

 

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

生きていないと味わえない

目に見えぬ細菌も

自然が織りなす色の移ろいも

果てしない宇宙も

まるでディナーのように

用意されている。

後は味わうだけ。

だって

席にもう座っているのだ。

なぜ、生きなくちゃいけないのか?

苦を味わい死ぬ為だ。

死者は語るだろう

死後では苦も無く

幸も無い

ただもう少し時間が欲しかったと

 

子供の頃は夢を持てと言われ、

規則を守れ、はみ出すなと叱られて

大人になるにつれ個性を出せと言われ

諦める理由をいくつも並べられ、

どんどん小さな世界に可能性を押し込んでいた。

自分が嫌いで

惨めで

憎らしくて

でも死ぬ勇気もない

世界で一番不幸だって。

 

でも私より不幸な人はいっぱいいた。

死と真剣に向き合っている人達がいた。

真面目な奴も

不公平な奴も

優しい奴も

意地悪な奴も

みんな何故か生きている。

 

これからどんな人間になるかって

人任せじゃないかも知れない。

もしかしたら

生きてみなきゃ解らない。

 

死ぬのは一回きりだけど

やり直しなら何回も出来る。

生きてさえいたなら。

 

「なぜ生きなくちゃいけないのか?」

その質問の答えは、残念ながらありません。

あの世がどんな所か、還ってきた人がいないから聞く事も出来ません。

世界中の人達が今もその答えを探し続けています。

 

初めていく所や、初めて何かをする時は緊張するし楽しみでもあります。

「もしかしたら」と負の方向に考えてしまうかもしれません。

でも、何が起きても帰る場所があります。

故郷、町や家や、友人、愛する人の胸の中。

しかし「死」には、帰る場所が無いのです。

やがて塵となり、新たな命の元となるだけです。

もしかしたら、あなたは閉じこもっているかもしれませんし、自分の居場所が無いと感じているかもしれません。

例え孤独と感じていても、あなたは、生きている「あなた自身」という帰る家があります。

あなたが考えているより、あなたの心の中はとっても広いのです。

もしかしたら、気付いていないだけかもしれません。

この宇宙にも勝るくらいの広さを持っているのです。

今すぐでなくても、いつか必ず外に出たくなる時が来ます。

だから安心して出かけて下さい。

振り返った時、自分の心の広さを感じ取れるでしょう。

苦しくなったら、帰ればいいだけ。

その時は心の中を飛び回り、広さを感じて下さい。

前よりもっと、見渡せるようになっています。

何故なら、「勇気」という名の明かりを手に持っているからです。

いずれ召される時が必ず来ます。

その日が来るまで。

でも、あっという間なんですよ。

 

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20221028152413

生きる事は苦である⦅幸せの涙⦆(2)

最近、知り合いの訃報を聞きました。

彼は、私の妻と親しくして下さり、息子を川辺でのバーベキューや色々な所に連れ出してくれたりと、私自身お会いする事は無かったのですが、とてもお世話になった方でした。

2年ほど前に癌が見つかり既に転移しており、その時点でステージ4という辛い宣告をされ、以降手術や、放射線、辛い抗がん剤治療を続けながらも、妻に毎日SNSで冗談を言う様な優しい人柄の人でしたが、最近SNSの返事も無く心配していたところでの訃報でした。

私と同年代であり孫も含めて家族もいて、まだまだ働く事を望んでいた彼の事を思うと、さぞかし無念だったと思います。

それは、辛く苦しいのにも関わらず諦めずに治療を続けていた事からも想像できます。

心優しい人が、人生100年時代の中、若くして先立つのは不合理で、不公平と言わざるを得ませんが、彼がやってきた事は私達家族の幸せな時間として記憶に刻まれています。

私達の生活の中で彼は幸せの時間を見つけてくれた人であり、受け取った私達の心の中で生まれた誰かにも同じような楽しい想いをして欲しいという、幸せの種をまいてくれたのです。

そう、苦の中に潜んでいる幸せのおすそ分けと言ってもいいかもしれません。

それは、一人の人間の持つ大きな力の表れを示すもので、誰にでもその可能性を持っているものです。

いつ何が起きるか本当に解らないのが現実です。

病気や事故、災害、もしかしたら戦争が起きるかもしれません。

ニュースで見るそのような事も、別世界の話では無いのに、誰もが「自分には起きない」と考えているのです。

最新の家電に囲まれて、優越感に浸っていても病気で入院してしまえば意味がありません。

もし災害が起きれば、たちまちゴミとなってしまう可能性だってあるのです。

先祖や自身の死後の事を考え立派なお墓を立てても、生きている時間に幸せを感じる事が無ければ、何の為に生れたのか解らなくなってしまいますし、何よりご先祖様が喜ぶはずがありません。

いくつもの時計や靴やカバンを持っていても、体は一つで、手や足はそれぞれ二本しか無いのです。

勿論、全てが悪いとは書いていません。

自分に対する御褒美かもしれませんし、頑張った結果得られたものでもあるからです。

けれども、それは所有した時こそ満足感や喜びがあるとしても、ずっと続く訳では無いのです。

景色の良いタワーマンションでも、何日か住めば当たり前の景色にになるだけで、後は来客者に対しての優越感ぐらいでしょうか。

もう一つ、比較するという誰もがやる事ですが、「歳の割には若く見える」「ルックスに自信がある」「仕事が早い」これらは比較対象がいないと感じる事が出来ない幸せ感です。

もし、それが幸せというなら、本人がそう思うならそれはそれで良いとは思いますし、生きる事の楽しみになっているのも事実で全てが悪い事では無いでしょう。

が、前述した幸せ感はいつまでも続くものでは無く、対象となるものが変わる様な環境の変化や逆にそれが当たり前になってしまった時、心の状態ですぐ失ってしまうモノで、いわば人工的に作られた幸せ感とも言えます。

 

前回「欲」や「比較」が更に苦を作り出す原因になっていると書きました。

ただ、人間は欲や比較がある事で希望や夢を叶えたりする一面もあります。

欲を全部否定しろとは書いていません。

例えば病気などで使われる薬は、当たり前ですが病気などを治す為に使われます。

ただ、薬の効き目がずっと続くと生命まで危ぶむ様な状態になってしまいますが、肝臓が薬を無害にしてくれるからこそ、薬を使えるのです。

薬は毒と同じだという事です。

そう欲や比較も同じように両面があって、使い方を誤れば毒になってしまうのです。

処方箋の役割になるのが、幸せの気付きという事です

当たり前ですが、幸せはお金では買えません。

とは言っても私ですら、目の前に大金があると幸せな気分になるでしょうし、借金の返済や、やりたい事が実現できると心が軽くなるでしょう。

「幸せはお金では買えない」それは誰でもいつか気が付く事ですが、現実はお金が無いとどうしようもない世の中で、自給自足でもしない限り必ず必要なものであり、綺麗ごとでは生きていけないのも確かです。

でもそれは幸せの為と勘違いしているだけかもしれないのです。

幸せと幸せ感は似ているようで、中身は全然違うものです。

もしお金で衣食住が豊かになったとしても、老後の心配が無くなったとしても比較によって得られた幸せ感の満足できる時間は続かず、持ち続ける事が目的になってしまう事と更に上を目指そうとする欲でキリがないのです。

執着心や比較、所有欲は、逆に囲い込む感情が生まれ、手放す事や無くなる事への恐れを生み出していきます。

すなわち「幸せ感」は現状の持続を前提としている為、肝心の幸せを感じる事より、持続が目的となってしまう所に大きな勘違いが生じてしまうのです。

 

もう一つ考えて欲しい事があります。

死後に地獄も天国もありません。

宗教などが死の先にある世界観を作り出しているのは、戒めであり生きている者に対してのものです。

ましてお金によって左右されるような事はありえないのです。

どんなに献金しても、立派な仏壇やお墓を建てても、心が静まる事は無いでしょう。

何故なら生きている事を忘れ、死んでいるのと同じだからです。

そう、生きている時こそ天国と地獄があり、それと向き合わず死後にそのツケを回しているという、滑稽な事をやっているのです。

あなたに幸せを感じられる時間を味わってもらう事が、何より死者達が望んでいる事であり、いずれあなたもそれを受け継ぐ時「死」が来るのです。

ウイキペディア引用(さとるる - 投稿者自身による著作物)

池袋での高齢者運転暴走事故で、奥様とお子さんを亡くされた被害者の男性の方が判決後に今後の上告の質問に対する中でのご発言で、相手に事実を認めてもらいたい事と出来るならこれ以上争いをしたくないという心情をお話しされ

「争い続ける私というのは二人(亡くなった奥様とお子さん)が愛した私では無いから」とおっしゃられていました。(注)

それは、愛し愛されていた家族であったからこその言葉で、亡くなった二人の想い、望みが遺族の方の心の中でちゃんと生きていらっしゃるからこその言葉だと思うのです。

永遠の命と言ってもいいかもしれません。

 

「幸せ」は内なる人間らしさが生み出す有限である事の気付きから感じるものです。

幸せは作れるモノでも無く、格差を生み出したり計れたり、まして比較し数を競うモノでもありません。

それは誰かのマネでも無く自身でしか感じられない奇跡の瞬間なのです。

心に流れる暖かい涙なのです。

子供達の笑顔や、一生懸命に生きようとしているその姿を見ている時の様に。

すなわち苦の中でしか生まれ出てこない、刹那と人間らしさが作り出す涙です。

心の隅々まで染み渡り、人生の瞬間を潤してくれるあなたの涙なのです。

これ以上も以下もありません。

「生」瞬間が全てなのです。

生きている中で幸せは沢山隠れています。

感じ取れるのは自身だけです。

雨が降っていると「うっとうしい」と思う事も出来ますが「緑が喜んでいるかも」とも取れます。

雨が降らないと虹を見る事も出来ません。

満員電車に揺られ、溜まった仕事の事を嫌々考えていたとしても、当たり前のように帰る家がある事だって幸せな事です。

苦を生み出す「想像力」の別の一面である賜物とも言えるでしょう。

そう考えて見ると、苦もまた幸せの元になるのです。

 

もう一つ大切な事があります。

誰でも歳をとりますが、その積み重ねで出てくるあなた自身の言葉は、どんな言葉でしょうか?

その経験からくる優しさや思いやりに溢れている言葉だとしたら、苦もまた報われるでしょう。

誰かをあなたの言葉で幸せにしてあげられると、何より自身が幸せに感じるからです。

共感とか共鳴という人間が持っている素晴らしい能力だからです。

発する言葉はウソをつきませんし、ウソだって事は解るものです。

何故ならあなた自身が気付かずとも無意識の心持を表すからです。

心に耳を傾ければ自身が一番分かっているはずです。

尊敬できる人達の言葉には重みと優しさに溢れています。

耳も相手の話をよく聞く為に、そして音楽や自然の移ろいの音を聞く為に使う様にして欲しいのです。

目は、嫌なものを見る為だけではありません。

大切な人の瞬間を記憶し、芸術や本、豊かな大きな自然を見る為の時間に使って下さい。

普段の生活の中では、なかなか気付きにくい、新たな発見や流れが変わる事だってあるのです。

ヘッドフォンをし、スマートフォンを見ながら下を向いて歩いている時、上を見れば空は青く深く、もしくは星々が輝いて、あなたが存在している事の意味を全て教えてくれています。

そして何より人との出会いが大切な要素でしょう。

どんな素敵な人と出会う事になっても、あなたに準備が出来ていなければその機会を逃してしまう事になります。

準備とは、賢いとか付き合いが上手い、話が面白いというような事では無く、まず自分の考えを素直に話せる状態の事です。

その為に話術テクニックの勉強をしろとか磨け、本を沢山読めとは言っていません。

自分の言葉で話すという事です。

誰かの受け売りをしたり、核心に至るまでお茶を濁したり、虚栄心を張るような事をしない事です。

 

私の妻は何度も書いていますがフィリピン人、すなわち外国人です。

彼女はパートで働いていますが、長年日本にいると言ってもまだまだ日本語、特にニュースで流れる様な難しい言葉は理解できていない様ですし、難しい表現の日本語を話す事は出来ませんが、仕事仲間や友人達からよく相談されます。

私が日本人なのでよく解るのですが、同じ日本人だと何処かで気構えてしまい、相手と釣り合っているのか?とか馬鹿にされるかも?こんな話をして、相手にあれこれ知られるのは嫌と思いがちですが、外国人相手だと全てとは言えませんが不思議とそんな気持ちにはなりません。

妻の例でいうと、彼女は自分をさらけ出す事に抵抗感が無いようで、遠回しに遠慮がちに話される事を嫌います。

言葉が上手く見つけられない時には必死で迂回して話します。

皆がみんな、その様な人格になれるわけではありませんが、彼女を傍で見ている私には大変参考になる存在です。

人との関りは、面倒である側面を持ってはいますが、人生の中では重要な要素である事には変わりありません。

だからこそ、誰かの心の片隅にでも残る様な人間でありたいものです。

その心構えが知らぬ間に幸せを呼び寄せるのかもしれません。

相手の心を変えようとする事より、自身と向き合い、常に問い続ける事で良い連鎖が生まれてきます。

 

普段当たり前と思っているだけで、実はその当たり前の中に幸せが隠れている事の方が多いのです。

ただ何か事が起きてからでないと気付かないもので、その時は、残念ながら後悔ばかりになってしまうでしょう。

そう、時間は遡る事も止める事も出来ない私達に与えられた、かけがえのない贈り物だからです。

 

有限、すなわち必ず死に、不完全であるからこそ幸せが輝くのです。

それは手に持つ事も、所有する事も出来ない一瞬の涙です。

このブログ「心は何処にあるの?」でも書きましたが、心は感覚なのです。

偏った見方や偏見も、そして不幸感も感覚が鈍くなっているせいです。

幸せを見逃さない様に、心を磨いておきましょう。

私達は何の為に生れたのか?

心配の種を撒く為でしょうか?

欲を実現させる為だけでしょうか?

誰かを傷つけ、優越感を得る為でしょうか?

言い訳ばかり、妥協しながら生きる為でしょうか?

それも、短い大切な時間を使ってでもやらなければいけない事でしょうか?

 

私の妻がいつも言っている言葉、

『レット イット ビー「Let it be」』『ケセラ セラ「Que Será, Será」』

彼女のその言葉に、私は何度も助けられました。

苦しい時にはまず「あるがまま」「何とかなる」と自分に言い聞かせましょう。

一呼吸おいて、そして大きく深呼吸してみて下さい。

小さくとも輝いている「幸せ」を感じる為に。

そして、幸せの涙が流れますように。

 

 

(注)切り取りの印象になってしまう可能性もありますから、ユーチューブで全編も見られますので、「池袋プリウス暴走事故裁判後で被害者遺族の夫の言葉」で検索し確認して下さい。

 

kenpa.blue

 

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20221028152413

生きる事は「苦」である(1)

なぜ今の人類の進化は個々に自我という高度な意識を持たせ、「心」という概念を作り出したのか?

そして「心」が生み出す様々な雑念や煩悩(仏教でいう所の自分自身を苦しめる心の事)を持つ羽目になったのか?

アダムが蛇にそそのかされ果実を食べたから?

勿論それで納得できる事ではありません。

何度もこのブログで書いている様に、人生は「苦」であるという事が前提になっています。

他の動物の思考は本能による行動が主になりますが、人間は本能だけで行動している訳ではありません。

誕生以来、敵や狩りをする時に感情を高ぶらせたり、恐怖や驚きが結果身を守る事になったりと、衣食住や集団生活する上での問題に対処する為に必要不可欠な「怒り」「嫌悪」「恐怖」「悲しみ」「驚き」という原始的な感情が生まれました。

個人という概念が生まれ、その表情や仕草で他人の心の動きを図る能力も発達していきました。

そして前頭葉が発達して今の私達の様に複雑な感情や思考が出来る様になっていくのですが、備わった能力のお陰で、言葉や文字によって過去の言葉や教えを学べ、後世に残せる様になりました。

これは自ら経験することなく、失敗や危険、その他衣食住に関する知識を得る事が出来るという事で、代々子孫に受け継がれ、より豊かに暮らせるようになっていったのです。

人間の一つの能力として「想像力」があります。

経験する前にあらかじめ可能性を考慮出来る力とも言えるかもしれません。

その様な能力を持った事が「苦」の始まりにもなったのです。

何故なら、本能だけであればその場だけの対応だけで終わるのですが、過去の出来事や未来に起きるであろう予測が結局、選択肢を増やす事になってしまったのです。

加えて価値観が生まれ、不安材料も同時に増えてしまったのです。

例えば、将来の為にお金を貯める事や、老後の資金調達や健康に気を付けたりと、仕方がありませんが心配ばかりしてしまうのです。

特に歳を重ねれば重ねるほど現実味を帯び、その影響は大きくなり備えをするといった想像力による「もしかしたら?」という心配の種がどんどん増えていきます。

また実生活でも快適性を必要以上に求めたり、良い暮らしというTVを始めとする媒体からの押し付けに踊らされて必要以上に買い込み、押し入れで眠ったままって事は、よくある話です。

それと並行して権力や優劣、序列が社会や宗教の中に生れ、富を蓄えたり自己の野望を満たしたりする者が現れ、一方で搾取される者との開きも大きくなっていきました。

欲や権力という力を一度手にしたものは、それを手放そうとはしません。

権威主義や独裁者というマクロだけの話ではなく、普段の日常の中でも起きている事です。

会社や学校、組織など、人が集まると起きてしまう事です。

持った力と引き換えに守る為の心配事が増え「苦」となるのです。

自分を大きく見せたり、知識があると装ったりと何処の社会にもそんな人達はいます。

彼らは、それを守る為に自ら必要のないものを背負い込んで「苦」を増やしているのです。

結果、その責任を誰かに押し付ける事で身を守ろうとしていますが、言い方を変えると、可愛そうな人達です。

自分に対し「苦」をさらに増やしているからです。

 

結局、私達は手にするものが多くなり、その欲求を満たす為更に手を出す事の繰り返しのループにハマってしまったのです。

これが「苦」の元になってしまったのです。

勿論、「死」の概念も単純に朽ちり、塵となるという当たり前の考え方から、生きる事は死を伴うもので、死という得体のしれないモノが最後に必ずやってくるという恐れと、天国や地獄などといった死後の世界まで持ち込んだ訳ですから、「苦」はますます増えてしまったのです。

そして輪をかけたのが「悪魔」「サタン」「閻魔」という存在です。

すなわち自己に起因するもが悪魔たちによるものだというすり替えの論理です。

明確な敵の出現により、呪われ、血を汚され、代々に引き継がれていくという恐れや不安が、天国や地獄という概念と結びつき、益々「苦」を呼び寄せたのです。

そうやって人間は「苦」をせっせと呼び寄せ、積み上げているとも言えるでしょう。

(誤解のない様に書きますが、宗教自体を否定している訳ではありません)

では何故そこまでしても人間は「苦」の要因を作り続けているのか?

それは、「有限」だからです。

私達が無限と感じられる宇宙に惹かれる様に、また魂や永遠の命、輪廻転生などの言葉に惹かれるのは、有限という、ある一定期間でしか存在を許されていないところから始まっているのです。

だから、日々の生活を快適にしようとしたり、子々孫々に財産を残す為に、人は動くのです。

自然界においても、全て有限であり、無限なものはありません。

すなわち限られた時間の中、限られた資源を追い求めているからです。

このブログでも書きましたが、時間の概念は人間が誕生してからのもので、それまでは無かったのです。

一秒という世界すら、自然界においては存在しませんでした。

時間という概念が生まれた時点から、時間に追われ時間の無さに嘆く羽目に陥ったのです。

他の生物にとって時間は何も意味をなさないものです。

与えられた生と子孫を残し、死を迎えるだけで余計なものを背負い込んではいません。

人間から見ると弱肉強食の世界にいる彼らに、自らを当てはめ「可哀そう」「命って大切」「生きる事って大変だ」と見えているだけで、彼ら生物からするとは淡々と物事が進んでいるだけに過ぎません。

だからと言って、私達人間に当てはめる事も納得できる訳でも無く、受け入れる事も出来ないでしょう。

もう一つの要因が「不完全」なのです。

何をもって「完全」と言えるかは、解釈の違いもあり難しい所でもありますが、生物としてほぼ完ぺきなのはゴキブリで、彼らのあのグロテスクな形は、遥か昔から変わらず、いわば究極の体を持つ生物です。

勿論エイリアンとの遭遇があり、人間が究極の形になるかどうかは解らないですが…。

余談になりなしたが「不完全」という事は、心身共に欠陥があるという事です。

ある人は神が完全なモノと解釈していますし、悟った者として仏陀を挙げる人もいるでしょう。

また「死」が有るのか無いのかによっても観念が変わってくる事で一概には言えませんが、不完全であるという事は、完全に近づきたいという欲求があり、誰もが完璧になれない事は解っていますが、それに近づく為様々な欲求が生まれます。

「若く見られたい」「トップに立ちたい」「支配したい」「皆と同じがいい」と人それぞれですが、不完全であるという潜在意識がその様な欲求を引き起こしています。

巷にあふれるハウツー本でも「完璧になる必要は無い」とか「完璧な人はいない」「完璧主義はダメ」といったテーマをよく取り扱っている事からも解ります。

価値も欲もそうやって「苦」を生み出しているのです。

一般的に仕事や勉強、生活の中で色々な問題が起き、それを苦痛と感じる事も「苦」の一つになるでしょう。

持って生まれた「苦」とは違い厄介なモノで、苦の先に達成するものや楽しい事があると、その様な苦も乗り越えやすくなりますが、その先の目標が無い、見えてこない場合は精神的にも辛い時間を過さなくてならなくなります。

生活費や教育費といった避けられないお金の問題も頭を悩ます事でしょう。

これもまた、背負い込む事になるのですが、残念ながら「何とかなる」という考えには中々至りません。

ただ実際には、日本国籍を持っていれば制度を利用して選択肢は限られ、最低限ではありますが、何とかなるのは、なるのですが。

そうは言っても、人間は今までの生活水準を下げる事は嫌ですし、勇気がいります。

 

「心」はそう考えて見ると厄介なものです。

まず、生きる事の前提として苦である事を今一度心に留めておいて欲しいのです。

そしてその苦は自ら作り出している事が多いという事。

そして価値観を変えない限り、何も変わらないという事。

欲は際限なく襲って来るもので、より欲求を満たす為に刺激が強いものにと手を伸ばしてしまうという事。

心は流動して一時もジッとはしてはいなく、欲を制御する事は難しくて手に入れたモノは手放さない、手放したく無いという事。

自分はこんな人間だと決めつけてしまいがちな事

 

当たり前ですが、死をもって全てが終わり、何も持っては行けずただ塵となるだけです。

 

「楽は苦の元、苦は楽の元」とよく言われますが、実際には「楽は苦の中、苦は楽伴わず」と言えるかもしれません。

では、「苦」をなるべく遠ざけたいと考えると、出家でもしない限りはムリと考えるかもしれません。

ならば、どうせ初めから苦の中にいるのですから、幸せを見い出す事の方が賢明かもしれません。

そして自ら生み出す価値や欲は反面、生きる希望や力になる側面を持っています。

「努力は報われる」「夢を持ち続けろ」という様な言葉の裏には、必ず価値や欲があるからです。

一方で苦を生み、一方で生きる原動力にもなっている私達。

「苦」に意味があり、そこから何を得るか?

そんな中で、垣間見せる「幸せ」にこそヒントがあります。

 

生きる事は「苦」である(2)に続く

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)

人間としての個々の存在の意味は、多様性に他ならないのです。

前記事に書いた人間の武器とも言える「脳」

多用な考え方や、発見、知ろうとする好奇心や未来に対する想像力など、多くあればあるほど選択肢も増え、言い換えれば進化と同じ理屈になるのです。

もし独裁者や権力者の思考だけを頼りに生き延びようとしても、いずれは滅びてしまいます。

それは人物だけでなく、体制(政治や法など)や宗教にも言える事です。

それは自然の摂理であり、歴史を見れば明らかです。

そして遥か昔から権力や富の為に犠牲になった人達の存在は、その事実を知る事で無駄にはならないという事です。

すなわち、個々が自分なりの思考で過去から学び咀嚼(そしゃく)し、今を生き、経験を積んで次の世代に引き継いでいく為に、私達は存在しているのです。

ですから個々の思考停止が、無関心がどれほどマイナスになるか、よく考えなくてはいけません。

自分だけでなく、周りの人達や子孫にも影響を与えるからです。

「芯」「善」は自身との葛藤の中から獲得するものです。

誰かの受け売りや、偉人達の言葉からは得られない、経験とそれによる失敗の中から見つけ出す力の事です。

 

しかし「芯」となるモノをしっかりと確立する事はとても難しい事でもあります。

若気の至りという言葉がある様に、経験不足が招く間違った思い込みや、自らの存在を否定している時、取り巻く環境が劣悪ないしは過酷である時や、日々の生活に追われ金銭的な事や不幸が続くとそれどころでは無いかも知れません。

加えて大勢(たいせい)の動きに自分も知らず知らずに巻き込まれる事だってあります。

ただ、歴史はちゃんとそれに対し答えを出しています。

いつの世でも過酷な環境や差別、虐げられ疎(うと)まれた人達の中に必ず「芯」を持ち行動してきた人達がいたという事実です。

 

個々の色々な考え、知恵を出し合い集約し危機を乗り越える。

個々の存在、多様性が必要であり、それが人間という動物の位置づけなのです。

「芯」「善」となるモノが心の目となり、「正義」と「悪」を見極める基準となっていきます。

 

どうすれば「芯」となるモノ、この場合「人としての道」の事としますが、持ち続ける事が出来るでしょうか?

まず答えは残念ながら「無理」という事です

書いてきたように「心」は揺らぐという前提があります。

ですから、時にその揺らぎを正す為に宗教に、指導者にその揺らぎを確信へと変える力を求めている人達がいるのです。

ただ難しくさせているのは、その宗教や指導者自体の「芯」に対する考え方が間違っている可能性が多くある事です。

十字軍や宣教師、そして今問題になっている宗教団体や政党基盤の宗教まで、前述した「価値」によって本来の「教え」「本質」から外れたり逸脱してしまったりしている事が、多くの問題を逆に作り出している現状となっています。

ネットの世界でも、同じ宗教であっても解釈の仕方が違い、様々な正義や悪の定義が見受けられます。

仏陀を含め、マスターと呼ばれる人達は、自らの手で「教え」を書き残していません。

ただ、弟子たちが書き残したモノから、マスター達の教えを紐解く事が出来るだけです。

現代において、彼らの言葉、教えは本来の教えかどうかは解らないのです。

色々な宗派に別れいった事からもその事を証明しているのです。

今も世界中の何処かで繰り返されている戦争や紛争の多くが、宗教問題を発端として起きている事をみれば解るはずです。

 

戦争といった有事の際には、例え、自分なりの「芯」「信念」を持ち「正義」を確信していたとしても判断が難しくなるのは目に見えています。

大義、この場合国家・君主に対して国民のとるべき道といった理由をもって参加し、戦うのか、人間として行動するのかその判断が出来る状態とは言えない状況になってしまうからです。

普通の人間が極限状態の中で起こす行動は残酷で、卑劣な行為に走らせてしまう事が、過去の例を見ても解ります。

ですから、そもそも絶対に戦争をしてはいけないのです。

ゲーム、TVや映画で見る戦争からは想像も出来ない事実が裏にあるという事を考えなくてはいけません。

 

「芯」が無いと、もしくは本質からそれた「芯」を正しいモノとしている限り、「正義」は人類の為という名目だけのただの自己満足に終わってしまうのです。

「悪」は、正しいと信じている「正義」といつも隣り合わせで語られる為、宗教によってその意味も概念も大きく変わるのです。

それは宗教だけでなく、独裁者や崇拝者の「価値」の概念でも大きく変わってしまいます。

 

「告解(こっかい)」「懺悔(ざんげ)」という言葉を知っていると思いますが、キリスト教だけでなく色々な宗教にもある、犯してきた罪を告白し許しを請う事を指すのですが、日常生活の中でも自分に対して誰もが同じような事を繰り返しています。

「あんなことを言わなければ良かった」「あの時助けてさえあげれば」「信じてあげれば良かった」その様な事を繰り返しながら私達は生きています。

その時の心の動きを思い出してみて下さい。

多くの人が「自分にされて嫌な事は他人にもしてはいけない」という戒めや、「困った時はお互い様」という人間らしさが、心の中にあるはずですし、無ければ懺悔も不要でしょうし、人類は滅びるでしょう。

例え「告解」や「懺悔」をやったとしても、それで許されるものでも、無かった事にする事も出来ません。

が、経験として積まれていき、過去の自分よりも成長しているのです。

いや、成長しなければ、学ばなければ意味が無くなってしまうのです。

すなわち、同じ過ちを繰り返さないという教訓の事です。

 

「芯」を持ち続ける事はムリだとしても、ブレ幅を出来る限り少なくすれば良いとも言えます。

報復や償いを恐れ「道」からそれない様にとするなら、それはただの形だけで本質は何も変わってはいません。

「地獄に落とされる」「悪霊が取り付いている」「天国に行きたい」このような言葉が無くならないのは対価という考え方でしかありません。

「善行を施したから天国に行ける」「悪い事をしてきたから地獄に堕ちる」「これだけ祈っているのだから必ず助けてもらえる」これらも全て、何かの対価、見返りを求めての考えであるのに変わりありません。

お布施にしても寄付にしても、教祖や団体の為にするのではなく、本来マスター達が伝えたかった事は、「手放しなさい」という意味です。

持っている色々なモノや心、それは善悪関係なく手放す事で真理に近づく事が出来ますよと説いているのです。

人間は持つことは出来ても手放す事は中々出来ません。

だから、手放さなければならないのです。

自分がどの様な「芯」もって「正義」「悪」と判断しているのか?今一度振り返る必要があるのです。

心の動きから考えて見ると解りやすいと思いますが、例えば正義と信ずる思考やそれに伴う行動時の自分がどの様な心持で判断しているかという事です。

その時、今を生きている事に奇跡のごとく考え感謝している状態であれば、あなたが正義として考え、行動する事は正に「正義」と言えるでしょう。

そして迷いがあっても、あなたの「正義」が成された時、自分自身と相手に笑みが浮かぶ事になれば、心に温かいものが流れればそれは「善」であり「正義」が成されたと言えるのです。

結局、個々の「善」の広がりに関与する事が、私達人間一人一人に与えられた使命であり、その積み重ねとうねりが「正義」を作り出し、価値や権力を持つ数少ない者達に決断を委ねない、させない事になるのです。

 

正義と悪の本質は、実は誰にも解らない事なのです。

正義や悪は割り切れるモノでも無く、その境界線すらありません。

西洋では古くは「神の審判」として決闘という形での殺人が許容され、名誉の為としての位置づけと変わりながらその歴史は長く続いたのです。


敵討 (新潮文庫)

私の好きな作家、吉村昭『敵討』『最後の仇討』でも出てくる、いわゆる敵討ちという殺人。

江戸時代を中心に多く行われていたが、(成功率は数%だった)これもルールを守れば個人でも制裁が出来るお墨付きの殺人で、その行為に共感する者も多かったのですが、これも当時では「正義」が行われたという事になるのです。

国家による殺人の死刑制度も戦争も「正義」を貫くと信じて人類は行っています。

原爆一つとっても、肯定派は「早く戦争が終結した」と思っているだろうし、力のバランスとして必要不可欠と考えているでしょう。

反面、広島や長崎に落とされた原爆はまさに大量虐殺であり無差別攻撃で、許されるものでは無いのです。

使用されれば、人類にとって最悪のシナリオになる事は間違いありません。

また歴史が示すように、過去英雄と呼ばれる人達や冒険者達が正義を行ってきたか?

答えはNOです。

よく日本では戦国武将の言葉を引用し、ビジネスや生き方として活かそうとしますが、必ずしも「正義」の裏打ちがあるわけでも無く、彼らの言葉が正しいとは言い切れません。

権力、自国や民族、宗教サイドで見る正義と、侵略され、略奪された側から見る正義は全く違うものになるからです。

でも、大勢において正義が成されたとしても、個人個人の中では疑問に思う人達が出て来て、「正義とは?」「これでいいのか?」という問いを投げかけるのです。

その様な人達、歴史では命を懸けてでも信念を貫き通した人達が沢山いました。

その勇気ある人達の存在があってこそ、私達は今ここにいるのです。

 

自然の中ではその定義すらありません。

何か大きな存在が、人の中に心を持たせ、この星の為に今を生きる人達全員で「その本質に迫れ」という宿題を出しているのかも知れません。

「この世に価値の無いものは存在しません」と書きました。

それは「頂きます」「ご馳走さま」の言葉どおり、生き物に対してのありがたみや感謝であり、価値があるからこそ私達は生存できています。

微生物はもとよりこの地球上の全てのもの、そして宇宙全体にも言える事で、絶妙なバランスの元、私達の存在が許されています。

しかも、そのバランスは宇宙という途方もない時間で保たれている繊細なモノです。

しかし、壊れる瞬間は、人類にとってアッという間に起きるのです。

宇宙から見れば人が決めた正義(善)や悪など、どうでもいいくらいのちっぽけなものです。

しかし塵の様な存在である人類が存在できるのは、今生きている個々の人達の未来に対する選択です。

人類にとって良い方向へと舵を切る為には、個人個人が考え、意見を出し合い、間違いを正す事でしか、方法は無いのです。

決して今起きている不合理な事を傍観する事なく、自分の事として考える事です。

何故なら、明日何が起きるか解らない中、自分の身の回りに起きる可能性は決して0では無いからです。

人間が人間らしく生きる事を今一度考え、子供達に繋いでいかなくてはいけないのです。

塵の様なちっぽけな人間の存在だからこそ、価値の有るモノにしなくてはいけないのでしょう。

 

いずれにせよ「正義」と「悪」を一方向から見る事だけはしたくないものです

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(6)

前回で自然の中には「正義(善)と悪」は存在せず、そして人間だけがそれらを決めつける事をしていると、そしてその根源にあるモノは「価値」と書きました。

人間が誕生して以来、自分達にとって価値の有る無しを決め続けながら今日に至るのです。

生きる上で大切な水や塩、食べ物の重要性と価値は残念ながら、現代では同列で考える事は出来ません。

すなわち価値は人間だけが、生き延びるという本来の目的以外にも優劣を、序列のレッテルを貼る為に作り出しているモノで、この世に価値の無いものは存在しませんし、そもそも価値にランク付けするものではありません。

 

石ころから大きな岩、木々や花、昆虫やウイルスから細菌、微生物からゾウや魚に至る全ての物は自然が必要とし、可能性を与え続けた結果そのものだからです。

自然が作り出した人間も例外では無いはずです。

何故ならこの星の住民の一人として迎えられているからです。

そしてそこには意味があり、すべきことがあるからです。

大きな自然の法則の中では、全ての物にその意味、価値があり、いらないものなど無いのです。

 

鳥のフクロウは、羽音もなく飛べます。それを応用して新幹線のパンタグラフ(架線から集電する屋根についている装置)の形状に活かしたという話もあります。

蛾の鱗粉(りんぷん・羽などの表面を覆っているうろこの様なもの)は捕食者、コウモリの超音波に感知されないステルス機能がある事や、以前も取り上げた人間の目に見えない波長の光を、見たり感知できたりする昆虫や爬虫類。

蜘蛛の糸の強靭性や見る角度によって変わる金属光沢の様な表面を持つ玉虫等、キリがないくらい自然が創り出したモノには人間の能力をはるかに超えているものが多く存在しています。

それらの能力は捕食されない為や捕食の為に備わった、すなわち「種」の継続の為です。

一度に数百も子供を生み出す事も出来ず、生まれてもすぐに立ち上がる事も食物を得る事も出来ず、皮膚というすぐに傷つく外観も、食物連鎖の中では非常に不利であるにも関わらず、人間がここまで繫栄してきたのは脳の発達です。

仮にこの星で生きていく中で人類という種の繁栄と食物連鎖の一部だけとしたら、個々の存在の意味は無い事になってしまいます。

個体として人間の遺伝子が残れさえすればよい事で、個人を重視する必要など無いからです。

(関連記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆1~3」もご覧下さい)

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実際、愚かな人間はそれをやってきましたし、また現在進行形の事でもあります。

民族の大量虐殺や、宗教の名の元で繰り広げられる紛争、人種差別の様な恥ずべき出来事が如実にその事を表しています。

 

すなわち、人間は人類というひとくくりの動物というだけでなく、個々の思考や行動にも大きな意味があるモノとし、個々の考えや行動が人類という種族に大きく影響を及ぼしていると捉える事が出来ます。

一方でたった一人の行動や言動によって大きく歴史が動き、多くの命がもてあそばれる様な事態を何度も経験してきた人類。

人類というマクロと個人というミクロは複雑に入り乱れてもいます。

人種や宗教を始め、国家や利害、価値で繋がる集団など、そこに見えるものは正に「心」を持ったが為の負の部分の表れとも言えるでしょう。

本来人間は自ら考え、選択し行動する事が出来ます。

何かに属性を持たせる事も、単独で行動する事も可能ですが、まずその前に立ちはだかる壁があります。

ルーツや血、宗教という繋がりです。

それはある意味、強い結束と同時に逃れられない形となって日常に溶け込んでいきます。

宗教や民族、国家主義といった集団コミュニティという形で、生まれながらに、またその国や地域といった選択できない要素という壁です。

見方を変えて見ましょう。

果たして上記の様な組織や集団は、人類にとってプラスに作用してきたか?という側面です。

人間は単独では生きてはいけません。

助け合いながら社会を作り出しルールを決め、見返りとして衣食住や病気の治療などの保証が受けられるように人類誕生以来このシステムを積み重ねてきました。

しかし、人口が増えるに伴いまとまる事が難しくなり、沢山のコミュニティが出てきたのです。

中身もより複雑になり、生活し生きていくという本来の目的が、違う目的にとすり替わってしまったのです。

そして価値を持ち出して選別するようになってしまいました。

人間が集まると争いが始まるのは当然で、個々の考えや価値観が違うとどうしても衝突してしまいます。

まして欲が加わるのですから、争い事が起きるのは当然の事でしょう。

その際、敵か味方かの判断材料となるのが、上記の「血」や「ルーツ」、「宗教観」といったものになるのです。

結局、集団でしか生きられない人間ですから、妥協が必要となります。

しかし、妥協も限度を超えると、また争い事が始まる、すなわち平和と争いのループから逃れられないのが、残念ながら人類の歴史であり、集団コミュニティは「苦」を生み出し続けているといえ、プラスよりもマイナスの方が多いとも言えます。

大切な命と引き換えに得られるプラスだからです。

 

反面、先人たちの言葉という過去を記録し学び、活かし未来を創造する事も出来るのが、人類でもあるのです。

個々の存在が、集団、大勢の「負」に傾く事を良しとしない力を働かせる事で、均等を保っているのです。

私達は、種という大きなくくりだけでは、生き延びていく事は不可能になってしまいました。

価値や欲が必ず誰かを悪魔の様な独裁者にしてしまうからです。

だからこそ個々という種の中での多様性を重視しなければいけないのです。

 

自然に対する、この星に対する使命をもって生れ出てきている事に、その原点に戻らなければいけません。

そして改めて食物連鎖に組み込まれている事も忘れてはいけないのです。

資源としての動植物を管理したり、絶滅から救う事もその一部と言えるでしょう。

勿論自然に組み込まれている人間が知らず知らずのうちに、利用されている事もあります。

ミツバチも人間が関与する事で生き延びているとも言えますし、花々の一部も同じように人間が育て、その子孫を絶やす事無く生き延びています。

 

個々の存在の役割は、上記の目標を達成するために欠かせないものなのです。

かつて食べる為では無く、毛皮や象牙、鯨油といった資源を動物達から奪い取り、大量虐殺の様な事をやってきましたが、理科学、生物学の発展や保護に寄与した個々の人達により絶滅を招くような事態は、これ以上至らない様になりつつあります。

個人の力だけでは防ぐ事は出来ませんでしたが、その個人が知恵を出し合い、救いの手を広げる事で成しえた事とも言えるでしょう。

 

それではその個々に焦点を当てて考えて見ましょう。

人は自然ですから、心もじっとしている訳ではありません。

良からぬ事や様々な欲求、自己保全や快楽が「こちら側は楽しいぞ」と誘うかと思えば、自己のアイデンティティー(identity)すなわち自己・自我の意識の不安定さに悩み、自己肯定や保身、自己否定や投げやりの気持ちが「ジッとして耳をふさげ」そして「私って何?」とつぶやいたりと一時も同じ状態では無く、葛藤や迷いの中で物事を決断しています。

小さい頃、私は平行棒の上や鉄棒、道路のブロックやどぶ川の淵を歩くのが好きでした。

そんな経験は誰にでもあると思いますが、街中でも母親と手をつなぎ、幼い子供が植込みの淵のコンクリートの上やちょっとした高さのブロックや縁石の上を歩いているのを見かけます。

バランスを崩して足を踏み外すと、打ち所が悪ければ骨折するかもしれませんが、子供にとってはそんな事はお構いなし。

運悪く踏み外しても、親を含めた大人が手を差し伸べて怪我をさせないようにしているのですが、もし危ないからと何もさせなければどうでしょう?

人生は生まれてからずーっと「苦」であるとこのブログでは書いています。

「苦」を避けることは出来ません。何故なら誰でも「死」が訪れる事と、そもそも心も体も不完全だからです。

だからこそ、生れ出た意味を見い出さなければ、苦のまま人生を終えてしまうのです。

「危ないから」「やっても無駄だから」「意味を見い出せない」と言い訳は沢山出来ますが、やらないと経験になりません。

手を繋いで安全を担保してくれた親や周りの大人達の手を離す時が来ます。

もし落ちても自力で進まなくてはならないのです。

 

もし目をふさがれていたら、真直ぐに歩くことは出来ません。

まして細い縁石の上ならなおの事、足を踏み外してしまうでしょう。

見るという現実の行動は勿論ですが、心にも見るという力が備わっています。

ただ、実像であっても心の目であっても、本当の事を見ているのかが疑わしいのです。

脳が処理して初めて見ているモノを「これだ!」と認識するのですが、夜中にお化けを見たり、雲の形が人の形に見えたりするのも、それまで蓄積されてきた様々な情報と結び付けて判断しています。

すなわち、見ているものは見る側の心によって変わるという事になります。

いつもの朝日が、山頂で見ると拝みたくなるような神々しい太陽に見えるのも、また愛する人を見る時も、本質、あるべき姿は変わってはいませんが、見ている心が違う為に普段とは異なる見方をするのです。

では、見る側の心の事を考えて見ましょう。

心は常に流動していると書きました。

落ち込んだり、怒ったり、解放されたような気分の時もあれば、閉じ込められている様に感じる時もあります。

そんな色々な状態でモノを見るわけですから、たとえ同じものや同じ状況でも見たモノ、受け取ったモノも違うのが当たり前です。

イライラしている時に「大丈夫ですか」と聞かれても「ほっといてくれ」となってしまうでしょうし、道で転んだ時に「大丈夫ですか」と聞かれると、ありがたいと思ったりと受け手の心の動きが、反映されるのです。

詐欺のメールもわざと考えさせる時間を作らせないように巧妙に誘導してきます。

普段なら冷静に考える事が出来ても、矢継ぎ早に危機感をあおってこられると、焦りがその矛盾したメールの文字を真実だと捉えてしまうのです。

まるで縁石やブロックの上を歩いている様な私達は、落ちないようにとしっかりとした心の目で先を見据える事がとても大切になります。

その芯となるモノ、それは今まで色々な形で呼ばれてきました。

「道徳」「倫理」「人間性」「真理」「善行」「道」等いずれにせよ心の中にあるべき一つの指針の様なものです。

ぶれないモノと言ってもいいかもしれません。

ただ如何せん人間は誘惑や欲求といったブレる要因に負けてしまう事の方が多いのです。

加えて「価値」という誘惑が拍車をかけてきます。

ですから、見る目が狂い縁石の上を歩けなく、進めなくなってしまい、右や左にと落ちては怪我をし這い上がろうとしたり、転んだまま動けなくなったりするのです。

大切なのは、その狭い縁石、すなわち「道」から落ちる事、外れる事を怖がってはいけないという事です。

そして落ちたまま良しとしない事です。

皆が落ちているから自分も仕方がないと考えてしまう弱さを見つめ、修正する前向きな心の中の芯を持ち続ける事です。

時には留まり、落ちた人間があなたの足を引っ張る事もあるでしょうし、逆に引っ張り上げてくれる人もいます。

手を繋ぐか離すかは自分で決めなくてはならないのです。

その選択こそが「芯」を持つ「心」に左右されるのです。

 

全体主義、独裁主義の世界では、皆が同じ方向を向けと指示されます。

その方向が例え間違いだとしても従うほかありません。

個々の存在は消され、はみ出す事を良しとしない社会は「生きる」という人間の大切な喜びを奪うばかりか諦めや妥協を作り出し、やがて多くの人達は従属が当たり前となり考える力を失ってしまうのです。

それでも、個々が立ち上がり「おかしい」と声を上げる人が必ず現れるのは「芯」「人の道」を信じているからにほかなりません。

もし、その様な環境に日本がなった時、果たして「おかしい」と声を上げる人達の一人になれるか?

第二次世界大戦初期の日本国内がどの様な状態になったか?

答えは目に見えている事でしょう。

 

日々の生活の中、例え自由主義国であっても、組織や集団の中ではいつ起きてもおかしくない状況なのです。

パワハラを始めとするハラスメント(harassment)「嫌がらせ」に泣かされる人は後を絶ちません。

個々の存在が、そしてその個人が持ち合わせている「芯」がいかに大切か、そして声を上げる勇気の後押しである「守るべきもの」が何か?

今、私達に突き付けられている問いとなっている事は間違いありません

 

「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)」に続く

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割(5)

職業だけで、出身地だけで、そして病気だけで差別や見下す時代が日本にもありました。

その人なりを非難するのではなく、本人には全く非が無い事まで責任転嫁させていた現実がつい最近まであり、今も形を変え誰かを傷つけながら根を張り続けています。

ハンセン病患者へのひどい仕打ちや強制収容、強制避妊手術やいわれなき差別。

日本書紀」や「今昔物語集」にも記述があるこの病気は、昭和時代に差別や偏見がピークを迎えました。

元患者の家族たちが隔離差別等での心身共に傷ついた損害を国に訴えた裁判が決着したのは2019年夏。途方もない時間がかかったのです。

また部落差別問題では結婚や就職の際に身元調査をしたり、何処の出身者かといった名簿を企業に売ったりする会社まであったのです。

高度成長期時代の裏で起きていたその事実を学生だった私が知ったのは、数十年後でした。

それは会社の為という根拠もないプライドやブランドの為、いつの間にか差別を助長し、加害者になってしまったのです。

子供の頃よく母親から糞尿を運ぶバキュームカー(当時のトイレは水洗ではなくいわゆるボッチャンという貯める方式で、定期的に吸い上げてもらう事が必要だった。)が家の前に止まり、ホースを持って作業している作業員の方やゴミ収集されている方を指さして「勉強しなければ、あんたもああなるんだからね」と言っていたのをよく思い出します。

それ以外にも在日朝鮮人の方々の悪口や侮蔑するような差別用語も聞かされた記憶があります。

親や大人が、子供に対して何も考えず、悪意も無かったかもしれませんが話す言葉は、刷り込みの様に心の片隅に残ってしまいます。

もし教科書にも出ていない、根深い差別の事を知っていなかったとしたら、事実を知る事も無く今の私は嫌な人間でいたと思うのです。

そして振り返って親の事を考えた時、情けなさと無知がどれほど恐ろしいか、そして優劣を作り出す元が、日常の生活の中に沢山ある事を改めて思い出し、教育や報道力の大切さを痛感しました。

 

目に見えない威圧的な優越性を振り回し、いかに自分が優れているかを誇示する人達。

自分がそのような目に会わなくて良かったという、差別や優劣の芽が自身から出ている事に気づかない人達。

「上を見ても下を見てもキリがない」と言いながら勝手に上下という根拠もない理由のラインを引き、無意識での蔑(さげす)む感情を自ら自身に植え付けている人達。

それは、そのほとんどの人がごく普通の人達なのです。

悪というレッテルを貼り追い払い、目の届かぬ所に送り込む。

すなわち疑いも無く正義が成されているという恐ろしい錯覚に気付いていないのです。

いや、今でもあり続け、心をむしばんでいるのです。

 

部落差別問題にしてもアイヌ民族差別問題にしても、法務省のサイトには未だに掲載されているのです。

福島原発問題でも、子供達がいわれのない差別を受けているとの報道も未だあります。

いつまで経っても人間は愚かで浅はかなままという事です。

つまり、誰の心の中にも差別する要素を持っていて、それは時に自分に降りかかった悪い事や不幸の憂(う)さ晴らしをする為、標的者を探し出し責任を押し付け、犯人探しをするのです。

運が悪かったのは、こんな目に会うのは「アイツのせい」と。

更に悪い事は前述した様に、ごく普通の人達が正義の名のもとにやってしまう事が多いのです。

媒体となり、病原体の様に広めてしまうのです。

この様な事は、終わった事として捉えては絶対にいけないのです。

コロナの問題から解るように、もし今後、未知の病気が発生した時、難民や外国人を多く受け入れるようになった時、私達はどんな行動をするのか?どんな情報を何処から集め対応するのかが問われるからです。

勿論、マスメディアも一部の人ではありますが、取材を続け、発信し続けていた人達の存在もありましたが、果たして私達には届いていたのか?というと甚だ疑問符がつきます。

私の経験からも、自ら積極的に集めようとしない限り、情報や現状を知る事はありませんでした。

それは、マスコミの力が弱かったのか?もしくは忖度があったのか、いずれにせよ検証しなくてはこれからも同じような失敗を繰り返すばかりか、発信が著しく増加した現代、正しい情報が埋もれて憎しみや差別を過去以上に増やしてしまう事になるのです。

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以前このブログ「見方を変えなくてはダメになる!⦅映像を通して⦆」でも書きましたが、

昭和の時代に盛んにTVで何の意図も無く娯楽として放送されていた欧米の映画。

先住民を悪者とした映画や歴史、例えば騎兵隊と先住民との闘いや、戦争を題材として欧米からの視点で作られた映画やドラマもしかりで、一方向からの視点ばかりのその様な媒体に接していると、「正義」の意味を理解する事は出来ないでしょう。

その頃観ていた私は、騎兵隊が正義で先住民族が悪と信じ込んでいました。

また親から子に知らず知らずのうちに植え付けている言葉や態度で、いつの間にか性差、いわゆる「男らし」「女らしさ」や正義、自由、道徳といった親が持つ観念を刷り込まれていきます。

 

過去には様々な今の先進国と言われる国が、世界中に植民地を生み出してきました。

その土地からの資源や労働力、支配という名の権力で富を築いてきました。

妻の国フィリピンもスペインやイギリス、アメリカや第二次世界大戦の頃の日本による統治等、その歴史は植民地としての苦悩が詰まっています。

ですから色々な血が混じっていますし、言葉にも統治国の名残があります。

同時に宗教も国を二分する事となってしまい、今でも対立が起きています。

ではそんな歴史を背負ってきた先進国が掲げる「正義」とは何なんでしょうか?

ジェノサイド(大量虐殺)はやってはいけない事で、しかも民間人を殺してはいけないというジュネーブ条約で採択されたルールがあるにはありますが、批准をしていない国や、ゲリラ等には当てはまらない上、たとえ批准している国であっても、常任理事国の立場を利用すれば、裁く事すら出来ないのが現状なのです。

すなわち「正義」や「悪」は時の政府や情勢によってコロコロ変わってしまう可能性が大きいという事です。

加えて、その裏にある資源や難民といった問題、そして自国の保身や権力維持を見据えて表面上正義を装い、裏で画策している事は、どの国でもやっているのです。

 

知らずに正義という一方的な考えを、疑いもせず信じ込んでしまっているのかもしれません。

アメコミに出てくるスーパマンやバットマンの様に色分けされた正義と悪は、本当に正しいのでしょうか?『(クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督の2005年バットマン ビギンズ (Batman Begins)等に見られる様に、絶対悪という位置づけで作られる作品ばかりでは無くなってはいるが』

 

身の回りに起きている事でも、思い込みや間違った情報の鵜呑みや歴史観民族主義や宗教観で裁いているにすぎず、簡単に良し悪しを口にする事の危険性にもっと注視しなくてはいけないのです。

勿論、正そうという人達も沢山いるお陰で名誉を回復出来たり、正しい歴史認識を伝えたりしようとしていますが実際には、明らかになっている事例はほんの数パーセントで、ほとんど闇に葬られている事の方が、圧倒的に多いのです。

 

正義と悪、それは自身にまず最初に問いかけるべき問題なのです。

三者的な立ち位置や傍観、無関心やあきらめが、「誰かのせい」「アイツは正しい」という答えになってしまっているのです。

すなわち自身の判断では無く、他人に委ねている事になるのです。

選挙に行かず、政治批判しているのと同じです・

私達は社会を構築しそして維持して、協力し合う事で生きていけるのです。

犯人探しや、嫌がらせ、ヘイトの為に大切な人生という一度きりの時間を使う事が、どれほど悲しく無駄な事か、考えれば解る事です。

まして、そのような事をする為に生れたのではありません。

 

自然を見れば解るように、白黒ハッキリして流れている訳ではありません。

常にカオスで全く同じ事を繰り返す事はありません。

しかし、大きな法則の様なものの中で調和を保っています。

人間も、自然な存在である事を忘れがちですが、何が起き、どんな運命が待ち受けているかは当然解らないのです。

そして大切なのは、自然の中では善悪や正義と悪という概念は有りません。

肉食獣が草食動物を食べる事は悪い事ではありませんし、必要以上に狩りをする事もしません。

だからこそ、生きるという事は厳しく大変なのです。

 

文明が進み、貯蔵できるようになり動植物を管理できるようになり、対価としてお金が出てきた事によって、人間は自然を逸脱するようになってしまったのです。

すなわち度が過ぎた行動をやり続けてしまっているのです。

そう、この星、この宇宙の中で人間だけが価値という概念を生み出してしまったのです。

何億光年離れた星にダイヤモンドや金があっても、それはただの鉱物に過ぎず、価値を図るモノがいない世界ではただの石ころです。

価値それこそが文明を手にしてから今日まで「善悪」や「正義と悪」を生み出しているのです。

欲や権力、宗教や民族問題もお金という価値によってゆがめられてきたのです。

そして、モノだけでなく人間そのもにまで価値を、言い換えれば値踏みをして搾取し、色分けているのです。

そんな中で正義と悪という言葉だけが独り歩きをしているだけで、その裏にある思惑にまで考えが及ばないのです。

考える事を辞め、体制や権力者、果ては独裁者に委ねる方が楽だという歪んでしまったストレスの受け口を探しているだけかもしれません。

 

つい最近も自衛隊組織からの集団的なセクシャルハラスメントを受け、被害の声を上げ続けた女性の方がいますが、署名活動や顔出しでの発信等、とても辛い御立場であるにも関わらず訴え続け、自衛隊幹部はやっとその事実を認めました。

今の時代にしてこのような状態ですから、もし、昔の様にSNSが発達していなければ、もみ消され権利さえ行使出来なかったと思うと、その点では個人が発信する場があって本当に良かったと思います。

このような事から読み解けるのは、組織や権力によって簡単に「正義」を規律の乱れへの恐れや存続の為、名誉や権力者の経歴の為に捻じ曲げられ、隠蔽すら平気でするという事実です。

すなわち人、個人に対する価値を組織や権力と天秤にかけ、正義の名の元価値の無いものとしてしまう恐ろしさです。

それは政治の世界でも、いやこの社会のいたる所で現在進行形としてやっているのです。

 

だからこそメディアの力が大切であり、マスメディアは特に忖度することなく一貫性を持ち、中立性を保ちながら、間違いや不正、そして「悪」道理に反する事と、とことん闘う姿勢を持ち発信する義務があるのです。

残念ながら気骨のあるマスメディアが、従事する記者や組織の姿勢が劣化している様につくづく最近感じるのです。

ジャーリストも幅広く見る力が衰え、専門的な知識ばかりに特化している人ばかりになっている様に感じ、TV等の媒体での発言にしても歯に記せぬ発言をする人はごく少数で、忖度や何かの圧力をかけられている様な歯切れの悪さばかりが目につきます。

陰で長年にわたって様々な問題を取材されているジャーナリストも多くいらっしゃいますが、彼らに焦点を当てるマスメディアが余りにも少ない事も自浄作用が働かない原因でしょう。

このブログ記事でも以前から取り上げていましたが、今問題になっている宗教二世問題のマスコミの取り上げ方を見れば解ると思いますが、今になって話題性や視聴率の為に報道し、後は低予算で同じような芸能人でお茶を濁す番組作りばかりになってしまい、益々TV離れも進む事でしょう。

 

何より、過去の事を振り返り検証したり、追い続ける姿勢が、すぐ忘れてしまう国民性と相まってその役割の重要性を認識すらしていないメディアばかりになってしまっている事は、この国にとって大きな損失となっているのです。

何か事が起きなければ過去の事は一切触れず、動かない姿勢と、追及や批判に終始し、最後まで見届ける事無く終わってしまう在り様に失望を覚えるばかりです。

例えば過去の国会答弁を引っ張り出し、どの様な推移で何が今と違うのかといった矛盾をなぜ指摘しないのか?

疑惑がある政治家に対し、子供でも出来る様な連呼ばかりの勉強不足丸出しの質問をし、どうやって本質を聞き出せるのか甚だ疑問ですし、なぜ社をあげて追い詰める事が出来ないのか?

以前も書いたが、コロナで多くの命が失われている時に強行とも言える形で開かれたオリンピックは、誘致に賄賂を使った事で日本では無くフランスで未だ捜査され、セクハラや女性蔑視や盗用問題や過去の不適切な発言を暴露され、担当者が下ろされたり、最近では汚職収賄事件にまでなっていますが、コロナで苦しんでいる人達の横で、公共放送はそのほとんどの時間をつかってオリンピックを報道していたり、安倍元総理が復興五輪と銘打った五輪がどの様に復興と関わったかの検証もありません。

まして福島の原発事故を「アンダーコントロール」と発言したその根拠も未だ不明であるし、SDGsと謳いながら選手村での大量の食べ残し廃棄問題や多額の開催費用問題と新しく作り上げた様々な施設運営にかかる維持費や採算性等、ほとんどマスコミは関心を失ったのか?スポンサーや政府に忖度しているのか?検証もしなければ、責任追及すらしないのです。

まあ、オリンピックを支えてきた側からすれば、政府に忖度するようなマスコミが所詮やる事は無いとは想像できますが。

 

メディアは正義を行い償わせる力を持っている事を忘れて欲しくはありません。

少数者、マイノリティーの代弁者でもあるからです。

そして多様性を担保し、こぼれる人に焦点を当て続け、たとえ力で抑え込まれようとしても決してあきらめない姿勢を強く示すべきなのです。

何より「正義」とは何か?という問いを必ず持ち続けながら答えを探し続けてもらいたいのです。

力によってねじ伏せられてしまう様な、大戦以降かつてない世界情勢が不安定になっている時だからこそ、その存在意義を問われているのです。

この日本がどう進むべきかは、「正義」とは何かという一つの答えになるかもしれません。

それは私達個人個人の問題でもあります。

大戦後、この国が他国の人達を一人も傷つけていないという「誇り」を守る為にも。

 

自衛隊は日本国内では「Japan Self-Defense Forces」正に守る力と訳されていますが、「Japanese military force」「Japanese Army」「Japanese Navy」と海外では訳されていて、すなわち軍隊そのもの扱いです

自衛隊(Defense)として、他国に対する救助や支援を行ってきたこの国は、世界に誇りをもって今以上に名を知らしめて欲しいものです。

 

アインシュタインの言葉より

『正しいことは必ずしも一般的ではないし、一般的なことは必ずしも正しいとは限らない。』

 「What is right is not always popular and what is popular is not always right.」

 

「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(5)」に続く

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割(4)

ブログを始めた頃、どうしてもTwitterFacebookとの連携をしたいと思い、色々挑戦しました。

ブログもそうでしたが、カタカナ言葉には四苦八苦しました。

リツイート、シェア、プロフ、タイムライン、リポスト……。

パソコンはある程度操作できますが、知らなかったカタカナ英語に苦戦。

私にとっては、かなりハードルが高く、間違えて押してしまったり、文字数の制限も知らずに送れなかったりと失敗だらけでした。

 

ポケットベル、通称ポケベル(ポケベルの呼び出し音が鳴り番号が表示されると、相手に公衆電話等から電話を掛ける)が世に出て、ずいぶん面倒くさくて、監視されているようで嫌で仕方なかったものです。

次に進化系の番号を送れる機能が付き、例えば「14106」は「愛してる」となり「1052167」は「何処にいるの」という意味になるように、頭をひねりながら、番号を押し、解読していました。

そしてガラケー携帯でメールが送れるようになり、便利になったもんだと思いました。

 

ちょうどその頃、私はフィリピンパブにハマって入りびたりになっていました。

そのうち、常連のお客さんと仲良くなり、どんどん輪が広がっていきました。

ある日その内の一人に「フィリピンパブ関連のボードがあるから、参加しない?」と言われ、当時は○○板と言われていた書き込みのサイトに参加しました。

内容は、「どこそこのフィリピンパブは、可愛い子がいる」とか「あの子には彼氏ができてる」等、情報交換や、たわいのない内容で、時には「上手い文章を書くもんだ」「よくそんな毎日書く時間があるなぁ」と感心したりと、覗いてはいましたが、そのうち、参加する人が増えるにつれ、陰湿な書き込みや悪口、攻撃する内容が増え、見るのをやめてしまいました。

私自身は、投稿していませんでしたが、匿名を利用した数々の心無い投稿に嫌になってしまったのです。

当時の書き込みボードは、パソコンが主で、通信費は高く、通信速度もはるかに遅い時代でしたので、アクセスする人も余り多くなかったのですが、ウインドウ95やMACの登場で、若者も含め一機に広がったとともに、色々な書き込みボード、板、サイトが増え、参加する人も増えていきました。

 

30年前からは、技術は格段の進化を遂げたのですが、残念ながら人間は全然、精神面では変わってはいません。

冒頭のSNSで、久しぶりに参加した私ですが、相変わらず揚げ足を取ったり、切り取りや、言葉尻をだけで批判したりと、残念な状態が続いていたのです。

同じような趣味や嗜好の集まりであるグループ内でも起きている現実。

素敵な投稿をしている方が、別の投稿者に辛辣(しんらつ)な投稿をしたりと、SNSの顔が見えない世界では、どうしても避けられない事なのでしょう。

そして、その様な投稿に対し、何か言ってやりたい気持ちになる自分がいる事にも、がっかりしてしまいました。

反論したくなってしまい文字を打ち込みながら「何やってんだろう」と。

 

もう一つ、SNSをやって気が付いたのは、常に頭の中にSNSの事を気に掛ける自分の存在です。

SNS等をやっていなかった時は、ニュースを見たり、調べ物をしたり、家族に関するデータ入力だけで、頻繁にパソコンやスマートフォンを見る事は無かったのでしたが、何かに動かされている、せかされている様な、不快な感覚がつきまとっているのでした。

加えて、端末機器が傍に無い時や、持って行くのを忘れた時は落ち着かない自分がいて「依存症だな、これは。」と考え込んだり。

 

イヤならやめればいいし、見なくても良い選択がある、そう思っていた私が、そのワナにハマってしまいました。

人間は、どうやら他人の発言がどうしても気になる動物で、しかも一度確立した考え方や、信念のようなものを、簡単には手放さないようです。

そして、自分に同調しないものを敵とみなし、攻撃したくなるようです。

他人が考えている事を知り、間違った考えを正そうとしたいという欲求と、自我を守り、同調を求めるという矛盾が、様々な問題を起しているのでしょう。

そして、それが手軽にできるようになった事も、世の中をギスギスさせる要因になっています。

 

情報が飛び交うようになって、いかにその情報に信ぴょう性があるか?裏を取っているのか?を精査し、

出来る限り調べてから発信する慎重さがいかに大切か、改めて考えてしまいました。

映像技術が格段に進歩して、フェイク、偽の映像を簡単に作成できるようになり、結果騙され、詐欺にあう事や嘘を信じ込んでしまう例も数多くあります。

特に命に関わるような、誹謗中傷は必ず自分に跳ね返ってきます。

つい最近もTVのリポーターが容疑者の画像が流れている時に、「少し、にやけるているように見えます」とコメントしていましたが、そもそも「にやける」の使い方が間違っているのと、ふてぶてしいという印象付けの一方的な報道に、「よくこんな事がマスコミの一員としてできるなぁ」と思ったのです。

「にやける」はふてぶてしいという意味では無く。「なよなよとしている」様(さま)を表している時に使う言葉です。

私が見る限り、被疑者はそんな顔をしていませんでしたし、視聴者、受け手に委ねる事でいいと思うのです。

そして、別の容疑者報道では、昔卒業時に書いてであろう将来の夢の話や、同級生の話を持ち出し、悪事をする可能性がすでにあった様な情報操作とも受け取れる様な事をしていますが、人間は変わっていくもので、過去の事をほじくり返す事がマスコミの仕事でしょうか?

タレントや俳優の一部の人達の過去、例えば「昔暴走族の総長だった」と写真等で流し、これだけ真面目になって活躍していると報じている事はどう考えれば良いのでしょうか?

過ぎ去った事とは言え、その時代に迷惑をかけられた人への配慮はしなくてもいいのでしょうか?

マスコミやTVのこの矛盾を報道側はどう答えるのか知りたいものです。

 

また被疑者が成年に達しているのにも関わらず、親を追いかけまわしたり、家まで出向いてコメントを求めたりと、そんな時間があればもっと違う視点で深堀するのがマスコミの仕事であるはずです。

誰でも被害者に、加害者になる可能性があります。

まして容疑者の段階では、冤罪の可能性もあるかもしれないのです。

考慮し慎重に報道すべきなのです。

正しく裏打ちを取り、事実を伝える人ばかりではないという事を頭に入れておかなくてはいけません。

マスコミの劣化は、権力にねじ伏せられる事を意味します。

と同時にいらぬ先入観を人々に持たせ、攻撃の、うっぷんの対象にでっち上げてしまうのです。

また追い打ちをかける様にSNSで犯人探しをし、顔写真までSNS上で上げていたりと、なぜそこまでするのか理解に苦しみます。

同姓同名等で間違った情報を上げて、被害を受けたケースも何度もありました。

メディアが真実を伝えているかというと、残念ながらNOです。

メディアが正義を行っているか?YESです。

何故なら都合の良い「正義」だからです。

人は犯人探しが大好きな動物になってしまいました。

同時に、詮索する事を生きがいと思う人達が増えてきました。

昔からゴシップネタが好きな人は沢山いましたが、SNSによって桁違いに接する機会が増えてしまったのです。

歴史的にも私達は間違いを犯し、苦い経験をしているのにも関わらずにです。

目に見えない、細菌やウイルスの正体が解らなかった頃、標的にされたユダヤ人、修道士、外国人、巡礼者、ハンセン病患者。

kenpa.blue

このブログ記事「情報発信の危うさ」でも書きましたが、

関東大震災での火災や略奪も朝鮮半島出身者の仕業だと。

この国が、うまくいかないのは〇〇国のせいでだからお前たちが出ていけというヘイト

違った考えや容姿だけでイジメて排除しようとする。

挙句の果てに遅刻したのも、雨に濡れたのも誰かのせいなのだと。

そして悪霊や悪魔まで作り出し、責任を擦り付けるのです。

 

人は正義感を振り回したがる動物

正義の名の下、自分の判断で裁きたがる

白黒はっきりさせないと、気が済まない

相手を打ちのめすまで、攻撃する

正しいのは自分であり、人の意見を聞き入れない

同調する者を呼び込もうとする

煽(あお)られると、ますます過激になる

さらに宗教まで持ち出す

 

いつも誰かを裁いている

己という名の法律で

根拠や弁明の余地もなく

有罪と声を荒げ読み上げる

次から次へと罪人を

作り出しては勝ち誇る

考えてみるがいい

裁かれているのは誰なのか

真の裁きの法廷に

己の姿がそこにある事を

行動を、悪魔や天使の仕業にすり替えてはいけないのです。

この世に悪魔も天使もいない、人の心の中にいるからです。

正義と悪は、そんな簡単に決められるものでも無く、境界線すらないのです。

心の中には誰でも、人には言えない事や忘れてしまいたい事があり、時に天使の様に、時に悪魔の様にとブレながら生きています。

ただ、人間らしさが悪魔の様な考えを否定し、制御しているだけに過ぎません。

もしかした何かのキッカケが引き金となり、悪魔が顔を出す可能性は誰にもあるのです。

貧困、差別、自虐、虐待、宗教、病気、生活環境など、そして戦争。

その引き金を引く原因は思っている以上に多く、増え続けているのです。

そしてメディアは役割を忘れ、逆に煽(あお)る様な存在になりつつある事を忘れてはいけないのです。

誰でも情報発信できる今、引き金を引かせない、キッカケを作らない発信を心がける事は、何より自らが加害者になったり、後悔にさいなまれたりする事をしなくて済むからです。

次回「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割」に続く

 

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