このブログで人生は「苦」であると書いています。
では一体「苦」とは何のことなのでしょうか?
・苦痛・苦悩・労苦・苦戦・苦手・苦悶・苦情等など沢山の苦の付く言葉があります。
精神的なものや肉体的なものと、また両者が重なるものまで、生きている中で何度も味わうものです。
仏教では四苦と言われる
・生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の4つと
・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを合わせて八苦となり、四苦八苦という言葉が生まれました。
一方、キリスト教では、私的解釈となるので恐縮ですが「苦」は神の存在を認め、苦によって持たされた慰めを知り、結果自分だけでなく隣人を愛せるようになる為とし、それが人に「安息」をもたらすという事になっているのです。
よく、「災害や戦争で神がいるのに何もしないのは何故か?」という事を考える事があると思いますが、上記の様な考え方ですから、個々にもたされた苦によって安息を得る事となるので、神が何か救う様な奇跡でも起こす様な事はそもそも起きません。
すなわち苦は誰にでも起き、それが気付きとなるという事です。
いずれにせよ、宗教でも「苦」は生まれた時から隣り合わせの様に存在している事を前提としていて、すなわち楽な人生を送ろうとする事自体、不可能と言っても良いでしょう。
そもそも生きる事自体、常にエネルギーを消費し続け、体に負荷(苦)をかけています。
その為には元となる食べ物を得なくては体は維持できないし、脳も働かず子育てや災害からも身を守る事さえ不可能です。
現代社会は当然のことながら仕事をし、対価としてお金を得て食料を確保しています。
自給自足で賄う事が出来たとしても、仙人でない限り?何がしらお金が必要になります。
貧困世帯も増え、世界的にも飢餓が進む状況の中、満足に食料を手に出来ない人達にとっては、大きな「苦」となっている現代。
要するに人間には様々な「欲」があり、生存や種の存続の為の必要最小限の「欲」ならば、そして自然に逆らわない、ただ受け入れる様な生活ならば、「苦」も受け入れ易いともいえます。
それは、病気や死に対しても同じで、医療が進んでいない頃であれば受け入れる気持ちが今とは違っていたでしょう。
ところが、前述に記した遥か昔から「苦」とされたもの以外に、先ほどの「欲」が次々と現れ、「苦」の元を作り出しています。
科学技術や医療の発達により、特に先進国では長生きするのが当たり前のようになりました。
例えばペットである犬や猫もエサの品質が良くなり、常に人間が見守っているお陰で平均寿命が大幅に伸び、短命であった頃、ほとんど話題にもならなかった人間の様に肥満や高血圧や癌等にかかるようになったのです。
これもまた良し悪しは別として飼い主やペットにとって苦とは何かを考えさせられる例でしょう。
薬や機械による延命治療が正しいのかは議論の分かれるところですが、単に長寿国として喜べない側面でもあり、緩和ケアもかなり進みましたが、本人が望む望まないは別として痛みなど苦しみながらの延命も大きな現代医療の課題であるのは確かです。
前述の仏教でいう・老・病・死の苦が長寿や医療発達の産物として一度に訪れる事になる可能性も高くなっています。
世の中が便利になればなるほど生活の質も上がり、それに伴って様々な「欲」も増えていきます。
欲は満たされない事で苦を作り出していきます。
平均寿命も延び、生活スタイルや家族の在り方も変わり、更に上を目指して人々は様々なサービスを受け快適さを実現させる為に欲求を満たそうとしています。
例えば昔は黒電話で、必要性の高い時以外は余り使われませんでした。
勿論今と比べ遥かに不便な時代だったのですが、今の様にスマートフォンに振り回される事もなく、それなりに社会は回っていました。
先日も電車に乗ると90%以上の人達がスマートフォンを見ながら電車に揺られていましたが、窓から見える景色を楽しむ事無くひたすら画面ばかりを見ている人達を見て、時間の使い方もどんどん変わり、情報に溢れる良くも悪くもそんな社会になってしまったと改めて感じてしまいました。
情報のほとんどが欲を搔き立てる宣伝や噂ばかり流されています。
誰かと比べて自分はどうなのかと比較させられる様な、考えさせられる様な情報の多さは加速し続けています。
満たされぬ欲求と、現実の狭間を多くの欲による苦が漂っている様に見え、人類の進歩とは何か?考えさせられました。
「苦」は自然からもたらされる災害ならば、納得まではいかないにせよあきらめもつきますが、例えば福島原発事故や、不法投棄による土砂流失、交通事故など人災であったり、また人間観関係であったりすると中々後を引きずってしまいます。
情報もしかりで、必要以上のものを求めさせられ、例えば老化は悪い、もしくは年よりも若く見えるといった事が良いと印象操作されています。
また外見の印象が全てだと言い切る専門家もいるほどです。
その結果欲求が増え、背負う苦も多くなります。
一時話題になった宗教問題も、先祖の負を自分が背負っていると思い込ませる形で、多額の献金をさせられる、いわば詐欺の様な事も死生観や血の繋がりといった誰にでもある当たり前の事を、まるで罪人の様に仕立てられ、苦を背負わせるのです。
そもそもブログで記していますが、死後の世界なんてありません。
もしあるとしたら、そこら中、霊魂や幽霊、怨念や悪魔が漂っていてもおかしくないはずです。
まして、人類は何がしら元をたどれば繋がっているのですから、先祖をさかのぼる事も滑稽ですし、責任は死後で清算され、後に託されるわけもありません。
死をもってその人生は完結し最後となるからです。
例えば幼い頃の虐待や性被害、DV等を受けた人が、大人になり子供を授かったとしても、誰もが同じ事を我が子に繰り返す事はありません。
私自身も、精神的にも、また叩かれた記憶もPTSDの様に残ってはいますが、反面教師として捉えています。
自分の未来を早々に決めつけてしまう事こそが、可能性を殺してしまうのです。
苦から逃れる事は誰にも出来ません。
どんなにお金を持っていても、権力を持っていても、持てば持つほど荷は重くなるのです。
では苦から始まり、苦に終わる人生をどう考えれば良いのでしょうか?
以前にも書いたアインシュタインの言葉にヒントがあります。
「There are only two ways to live your life.One is as though nothing is a miracle.
The other is as though everything is a miracle.」
『人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。』
そして
「I believe that a simple and unassuming manner of life is best for everyone, best both for the body and the mind.」
『シンプルで控えめな生き方が、だれにとっても、体にも、心にも、最善であると信じています。』
この言葉の裏には、自ら必要以上の「苦」の元を作り出している事に気付き、生きている事自体を無駄にしない様にと言っているのです。
そして「苦」があるからこそ少し顔を覗かせる幸せが輝き、その幸せを見つける力を身に付ける事の大切さを語っているのです。
だからこそ、謙虚でシンプルがいいと。
人間はひとりでは生きていけません。
集団で生き延びる事を選択したからです。
ですから人間関係は良くも悪くも発生し、時として「苦」をもたらす事が多くあります。
家族、親族関係から、近所、学校や仕事と、その人間関係に悩ませられる事は多々あり、最悪病気にもなってしまいます。
これは、身体ではなく心の苦であり、やがて身体にも不調をきたします。
威圧的な言葉や暴力的な言動、俗にいう上から目線や差別とキリがないほど、節操のない人間がハードルの様に立ちふさがる世の中です。
ただでさえ、生きる事が苦であるのに、その苦を更に増やす輩が多くいるのが現実でしょう。
私が通院している精神科のお医者さんが言われていましたが「その様な人達はそんな生き方でしか出来ない可哀そうな人達です。関わらない事が一番ですが耐える必要もないと思います。時にはガツンと言うか、遠ざかればいいと。何故ならその様な人がいる組織はろくでもない組織だからいても意味が無いのです。」と話されていました。
勿論、仕事など生活の基盤となる所ではおいそれと辞める事は勇気がいる事ですし、家族がいればなおさらです。
生活の基盤を失うのですから躊躇し「私が我慢すれば」と考えがちです。
ただ、私の経験からも言えるのですが、ろくでもない人がいる組織は、結局悪い方向にしか進め無いのです。
類は類を呼ぶとのことわざもある様に、傷のなめ合いをしている人と一緒にいる必要は無いのです。
まして傍観する事は更に自分を追い込む事にもなり、結局余計な苦を背負う事になります。
彼らは、一時の優越感を得る為に大きな代償を払っている、正に苦の連続を選択した悲しい人達なのです。
自分までそのろくでもない人間になっては、苦の中にある幸せなど見つけられるはずがありません。
ですから出来る限り離れるか、その場を去って新しい人生を迎え、苦の中にある幸せを感じ取れる人間により一層磨きをかける方が、自分も含め家族や友人達を今度は自分が幸せに出来る立場の人間になれるのです。
その為には、誰かに助けを求める事を躊躇せず行動する事であり、逆に自分に自信が付く事になります。
人間は助け合いながら生き延びてきたのですから、必ず良い人との出会いがあるのです。
その為には一歩踏み出す勇気を、どうせ一度きりの人生ですから何も卑下する事はありません。
人生は「苦」
そして苦の中にこそ、まるで宝探しの様に幸せが埋もれています。
見つけられるか?見落とすかは自分次第であり、決して他人と全く同じ想いは共有できないものです。
すなわち、他人のマネをしたところで同じ想いを持つ事は出来ません。
ただ共感は、唯一与え、受け止められる人間の素晴らしい能力であり、人間としての優しさや謙虚さが共感する事で心の隙間を埋めてくれるのです。
生きる事
死んでいく事
それは問いなのか
答えなのか
交差する思考を解く鍵は
未来の手に委ねられ
そして
託した記憶の中で開けられる
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