心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

生きる事の意味?⦅死生観⦆(4)

私達は奇跡の様に生れ出た。

勿論、誰もが望んで生まれた訳では無いが、生まれたからにはその意味や、何を成すのか誰しも考える時がある。

このブログ「何の為生まれたのか?1~3」でも書いたが、

生まれた事自体に意味は無い

時代、時間や場所、環境で大きく人生が変わる可能性の中、たまたま日本に生まれた訳で、平和な国に生れた事には素直に感謝したい。

ただ「生まれて来なければ良かった」と考える人もいるのも確かだ。

私も思春期の時にそう考えた一人だった。

私に限らず、悩みや苦境、取り巻く環境で自分の居場所が見つからず、また自身の価値も見い出せない時、そう考えてしまう人も多くいるのではないだろうか。

また家族や身近な人達の死、とりわけ子供の死に直面した時、「何の為生まれたのか?」と考えてしまうのは当然だろう。

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生れた事自体に意味は無いが、どう生きていくかは自分次第で自分なりの答えを探す事になる。

同時に、身近な人の死の際、亡くなった人の死生観を自分なりに理解しようとする。

ただこの世で起きた事はこの世だけの話であり、何も持たずに生まれ、何も持てずに死んでいく。

この世の事はこの世の内に片づけてしまった方がいい。

 

例えば鼻歌を唄う時、「やらなければいけない」「その後これをやろう」と考えるだろうか?

自然と唄いたくなっただけで、強制された訳でも義務でも無いはずだ。

鼻歌は鼻歌で、唄った意味を考える事などしない。

息をし、食べ、排泄し、眠る。

当たり前だがいちいちそれらの行動に意味付けなんてしていないはずだ。

生きる事はその様なもので、何がしらの意味付けをしたがるだけなのだ。

 

体は考えずとも生きようと必死で活動し、自身を支えている。

もし飢餓状態になると、肝臓の働きでカロリー消費を少なくしようとする。

また筋肉からグリコーゲンをエネルギーに変え、その後体のたんぱく質や脂肪からエネルギーを生み出す仕組みになっている。

自らの組織を壊してまでも生命維持に全力で取り組む。

そう、死ぬことを目的に37兆個もの細胞は働いてはいない。

歳を重ね肉体的にも精神的にも衰えていくのは自然の流れであるが、それでも身体は死と抗(あらが)うのだ。

必然であり不確かさ、すなわち何が起きるか解らない事を前提として体を授けられ、この世に生み出されたのだから、生きる事自体に意味がないというのはそういう事だ。

それは戦争からの視点で考えれば解り易い。

国家、権力という母体を守り、支配力を高める為、兵士は前線へと送られる。

個体の死には意味がなく、身を削りながら目的を達成しようとしている。

すなわち国家や権力者の存続の為には犠牲者が出る事は仕方がないとする考え方だ。

ただここに大きな問題がある。

人間は肉食動物から身を守る為、多少の犠牲を出しても生き延びようとする道を選んだ動物ではないからだ。

個々の命の尊厳を前提として集団で生きる事の利点を理解し、もしくは孤立する事では生きていけない事を学び、社会が作られ、法が作られ、集団生活の中、共同で生きる道を選んだ人間。

だから戦争や紛争は、脳を発達させ集団で生き延びてきた人間のやる事では無いのだ。

 

人間以外の生物は、食べる事、必要とされる栄養を取る事を前提に生きている。

目的は、食べ、生き延び、子孫を残す事であり意味付けなどない。

個体が死んでしまっては子孫も残せない。

雑草もアスファルトの隙間さえも利用して必死で生き延びようとしている。

 

ところが人間は脳の発達と共に、色々な付加価値を「生」に持ち込んだ。

何の為に生きるのか?何をすべきか?意味は?と遥か昔から問い続けている。

加えて「死」が訪れる事により死生観を生み出し、益々「生」の価値に理由付けしているに過ぎない。

しかしそれはこの世に生まれ出たと意味という問いではなく、どう生きていくべきかの問いであり、どんな人生を歩むべきかを模索する旅なのだ。

 

生れたら死ぬ。

生きる事は苦である。

このブログで何度も書いているが、この当たり前の事を受け入れるには個人差があり、また個人個人を取り巻く環境、宗教観や伝統、風習や地域など様々な要因によって受け入れる心の準備も違う。

子供の頃は「死」は恐ろしく、怖いというイメージを大人が刷り込んでいると言っても過言ではない言葉や情報で、単に「死にたくない」「死んで欲しくない」と思っているが、成長するにしたがって色々な情報を得る事により死生観が出来上がっていく。

土台になるものが、子供の頃植え付けられた「死」のイメージであるから、どうしても消極的な発想になってしまう。

加えて、生きる事が「苦」である事を教わらず、「夢を叶えろ」「目的を持て」と言われ続けながら成長していく。

人生に何がしらの成功という様な期待や幸せ感の定義を持たせ、「人生とは?」「生きる意味とは?」と問いかけする。

そしてその人生における所業が死後の世界を左右し、生まれ変わりの事まで影響するとなると、生まれ出た事や日々の生活に隠れている「苦」から得る「幸せ」を見つける力は弱くなってしまう。

すなわち、後付けの要因で問いかけをする事自体、無理がある話で答えなど見つかるはずがない。

人生は

瞬間の選択の枝分かれ

そのキッカケは

学びという名のドミノ

この世のものは

無駄なものなど何もない

その全てが師であり

教えそのものだ

 

生れ出た途端「死」へのカウントダウンが始まる。

生きる事の意味は、どう生きるか、どんな人間でいるのかで、答えではなく探求そのものなのだ。

人生は筋書きのあるドラマでは無いし、何が起きるか解らない一寸先は闇の世界だ。

生れた事や死後の心配をするなら、今をどう生きるかを考える方がよっぽど意味がある。

生きる事の意味は無い。

探求の先にある死をもって、残された人達の心の中で、その人の生きた証の意味の答え探しが始まるだけなのだ。

 

余談

 

我が家はハイツなのでチラシが入れやすく、宗教のチラシもたまに投函されている。

ある仏教の宗教のチラシが投函されていたので、一応何が書いてあるか確認したのだが、未だにこんな事を平気で書いているのか?とビックリした。

死後、成仏するか地獄に堕ちるか、臨終の相で解るらしい。

書かれていた内容は、成仏は臨終ののち色が白くなり軽く柔らかくなる。

地獄行きは、黒く、硬く重たくなる…と。

思わず吹き出しそうになった。

大抵の場合、今は病院で亡くなる方が多い。

病院の廃棄物回収の仕事で中に入る事が多かったので解るのだが、特に高齢者でベッドに寝たきりの患者さんは胃ろう(チューブによる栄養補給)や点滴のチューブが繋がれている。

昔と違って必然的に体は水分で重くなる。

病院の方も「今の亡くなる方は、昔より重い」と話されていた。

「ん?みんな地獄行き?」

人生の目的は成仏であるとか、地獄という様な言葉を使って信じる事を説いているのだが、元々のマスターの教えを歪曲し解釈し、まるで言い方は悪いが脅しの様な文面で埋め尽くされていた。

決して宗教を否定してはいないが、これが現実であり、信じている人も多くいると思うと私としては空しくなってしまった。

生きている時こそ全てであり、死後の行方や心配をする時間では無いはずだ。

生きているからこそ死者を弔う事も学ぶ事も、そして教訓も次の世代に伝える事が出来る。

自身の死後ばかり気にしていて何が宗教なのか?

まるで自己中心的なこの考え方は(あくまで私個人の私見だが)反論も承知で書かせてもらうと、

受け入れ難い考え、教えであった。

 

人それぞれの死生観があって、尊重されなければいけない事であるし、無理に考えを変えさせたり、否定したりはやってはいけない事だが、一部と信じたいが宗教者こそその原点に戻って、教えを広めて欲しいものだ。

kenpa.blue

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