あれほど騒いでいた宗教関連のニュースもあまり報道されなくなった。
政治家が票欲しさに宗教団体を利用している事も、宗教二世問題も何かあやふやなまま時ばかりが過ぎていく感じだ。
新興宗教も含めて宗教と共に生き、関わりのある人達は欧米に比べ少ない事は確かだが、宗教心は誰でも持っているだろう。
節目節目の行事や冠婚葬祭時には、何らかの形で宗教というものが関わってくるからだ。
また、自然と植え付けられてきた謙虚さの表れともいえる。
動植物を殺める時や事故が起きない様に、災害が起きないようにと手を合わす事も、教祖や経典、聖書を読んでいようがいまいが自然と身についている習慣だ。
ただ、誰しもが良心と言ってもよい根底に流れている教えを守って生きている訳では無い。
「宗教を信じていないからだ」という意見もあれば「宗教こそ争いの源ではないか」という人もいる。
以前の記事で書いたが、「教え」が宗教になったしまった時点で様々な人間の欲望が入り込み、マスター達(この記事では仏陀やイエス、ムハンマド達の様に宗教と言われる形以前の教えを説いた人達の事を指しています)の伝えたかった事を歪めてしまっている。
私の両親は仏教徒であったし、妻はキリスト教だが私自身は、どの宗派も信じてはいない。
ただ無神論者かと聞かれると、神と呼ばれる存在を否定してはいないのでYESともNOとも言える。
大きな宇宙全体の流れに組み込まれた私達が何かしらの大きな存在の意志によるものかもしれないという意味で、仮に「神」と呼んでいるだけである。
ブログ記事の中で、私の廻りで大変な思いをしている事を書いた。
私より年上の夫婦は今離婚の危機に面している。
20年以上私の妻も含めての付き合いだったから、私達も辛い。
私達も含め、お金さえあれば解決できる?問題なのだが、色々考えてしまった。
人間は窮地に追い込まれてしまうと、その度合いにもよるが思わぬ行動に出てしまう。
我を失った状態と言ってもいいだろう。
友人夫婦を見て、自分に置き換えてみると客観的に見る事は出来ないとさえ思った。
問題の受け皿も自身を責める人もいれば、人を傷つける方向に向かう人もいる。
そして宗教に救いを求める人達と、何かしら行動する事でその場から離れたいと思うからだ。
死刑囚が信心に目覚めるのとよく似ている。
宗教により自尊心を取り戻し、生きる力を得たならば素晴らし事だと思うし、自身も含めて他人に危害を加える方法での逃避よりも遥かに良い選択だろう。
人間は弱い。
人生は苦の連続であるし、生きる事、生き抜く事は至難の業である事に変わりない。
まして、天敵が同じ人間であるから何か他のものにすがりたくもなる。
ただ、やはりお金では何も変える事は出来ない。
どんなに献金しても、多くの寄付やお布施をしても根本的な捉え方を間違っていては、何の意味も無さない。
すなわち、お金で幸せや安息は買えないという事実だ。
先回りして支払っておけば大丈夫という一種の保険のようなモノでは無いからだ。
交通安全のお守りを持っていれば事故を起こさないという考えと、さほど変わりないし、以前も書いたが、「子供が乗っています」のプライバシーをさらけ出すステッカーは、後部にではなくフロントガラスに自分が見るように貼る方が、よっぽど効果がある。
要するに自分が抜け落ちてしまっている。
昔、同じ宗派の人間が助けてくれたからこそ、今があり助かったという話を何人からも聞いたし、「信心の力は大きい」「信心が病気を克服できた」そして「あなたも信じなさい」と熱心に説く人達にも出会ってきたが、宗派の中で助け合うだけなら、宗教の意味から逸脱している事になる。
「あなたの為に祈る」ならまだしも「信じなければ救われない」という主張は自分自身の存在を殺してしまっているのと同じ事だ。
そんな事をマスター達は望んでいない。
例えば「他力本願ではダメだ!」という言葉をよく耳にすと思うが、「他力」は誰かに頼るという意味ではない。
よりどころにし、謙虚であれという意味であり、問題を丸投げする事でも、誰かの力を借りて解決する事でも無い。
他力は自我を捨てる事を意味する。
様々な苦しみや悲しみの元になるものを捨てる事で見えてくるものがあるとも言える。
どのマスター達も伝え方は違えど、同じ事を伝えようとしていた。
宗教ではその信仰する人達は教祖や指導者、そして神に対し常にYESで答えている
仮に疑心暗鬼になったとしてもYESという答えを用いる事で、迷いや不安を消そうとしている。
周りの人の意見も含め、他の考え方もある事すら拒否し、自分の考えすら否定する。
すなわち無条件で考える事を辞めてしまっている思考停止状態だ。
NOは宗教に対しての裏切りであるという思い込みと、そんな自分を正そうとより宗教にのめり込んでしまうのだろう。
閉じる事は簡単だ。
責任を誰かに委ねる事と同じで、自ら世界観を狭める事で、まるで小さな子供が隅っこで膝を抱えているのと同じであり、自ら行動する事をしなくなる。
声を掛ける人が宗教だとしたら、頼ってしまうのも仕方が無い事だろう。
その言葉は心地の良く、信じさえすれば解放されると思い込んでしまうからだ。
教祖や指導者、そして神にYESと答えるなら、自分自身や他の人の言葉もYESでいるべきだ。
すなわち自分に正直でいる事に尽きる。
つまり冷静な判断力を持つ事と同時に、生きる事への執着と覚悟なのだ。
それは、見返りを求めない事であり、自身の幸福や死後の世界での安泰、生まれ変わり等を心配する事では無い。
幸せや不幸、来世や輪廻はあなたがいないと存在すらしない
心が生み出しているそれらの恐れや心配は
心だけが答えを出せる
その心さえ人任せにしては
生れた意味さえ台無しにする
自身への問いかけこそ
かけがえのない安息への扉だ
誰もが悩みを持っている。
誰もが生きる意味を探している。
生きる事は「苦」であり
始めから楽な事は無いのだ。
ただ、大きな流れとカオスに満ちた秩序に全てが組み込まれている。
「自分が居なくても」「何故こんな思いをしなくてはいけないのか?」と考えるのは、その大きな流れを理解していない事と等しい。
その流れこそ「神」と呼ばれているモノなのだ。
その神は願い事を聞いたり、望みをかなえたりする訳でも無い。
あなたの存在が欠ける事がいかに大きな影響を及ぼすか、何も語らず見ているのだ。
だからこそ、自身の存在を神にさらけ出す事で、その神の意志を知る事になるのだろう
自身の「欲」から出来る限り遠ざかる事。
そして誰かの幸せを願う事が大きな流れには必要で、あなたはその流れの中に既に存在しているのだ。
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