聖典や教典と呼ばれる書物は、マスター達が直接書いたものではありません。
弟子達が、のちに記したものです。
すなわち、弟子達のフィルターを通しての言葉です。
マスターが、本当に伝えたかった言葉とは限らないのです。
なぜ、同じマスターからの言葉が、様々な宗派に別れたかを考えれば、判る事です。
言葉や言語の解釈の仕方や、聞き間違え、そして力や権力が解釈を曲げてきたのです。
まるで、伝言ゲームのように。
マスター達は、それぞれやり方は違えど、同じ教えをされてきました。
最近、家のポストに宗教関係のチラシが入っているので、読んでみると二極化の事ばかり書いてあります。
信じればこんな良い事があり、信じなければ、こんな恐ろしい事が待っていると、遠回しに伝聞で書かれた本からの例を引用して「だから信じなさい」と言わんばかりに書いてあります。
SNSでも、言葉の羅列のように一方的に神の御言葉として、今起きていいる事や、今後起きるであろう事をあらかじめ決められた筋書きのように書かれています。
そして、最後は信じる者が救われると。
信じる者が救われるとしたら、「いつ」でしょうか?
どの神や仏が救うのでしょう?
歴史に残る様々な布教と争いの下、亡くなっていった人々が多くいますが、これから救われる為に何人の犠牲が必要なのでしょう?
そこに、ありもしない「天国」や「地獄」を持ち込んで、死後の世界での「救い」を作り出しているのか?
はたまた「復活」の言葉によるものなのか?
私にはどうしても理解できないのです。
宗教は、残念ながら形骸化しています。
毎日のルーティン(routine、決まりきった仕事、慣例、手順)の様に、形や型に囚われて、本来の教えが生きて伝わっているとは思えません。
人生の中で色々な節目の時に宗教は関わってきます。
そのほとんどが、宗教の教えを意識して行ってはいません。
法事や法要を仏教で、七五三という神事、教会で結婚式をあげ、ハロウィンやクリスマスを楽しみ、初詣に神社に行き、様々な神様の元で願い事や誓いをしています。
文化として取り入れ、日本に溶け込んだその様な行事は、ある意味宗教という枠に縛られない良さでもあります。
外国では、政治や法律まで宗教が幅を利かせ、差別や暴動、紛争と、国のかじ取りの上で避けられない事で、その為に多大な費用や時間を費やされています。
その点からも、日本はその様な問題にあまり時間や費用を取られる事なく、経済に専念する事が出来たのです。
私の妻の国、フィリピンでは、スペイン植民地時代に広まった90%以上を占めるキリスト教国で、カトリックが82.9%(カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占めています。(2000年調査)
妻は、偶像崇拝(キリスト像やマリア像等を礼拝すること)のカトリックとして洗礼を受けました。
洗礼する事は、住民登録の役割も果たしているのですが、
ハーフ、例えばフィリピンに置き去りにされた日本人との子供や極貧生活者、
精神疾患、障害を持っている方、その他様々な人が洗礼を受けない、もしくは受けられない人達も沢山いて、国自体、国民の把握がちゃんとできていないのです。
彼女の父親は同じクリスチャンですが偶像崇拝をしないプロテスタント派でした。
彼女は幼い頃より、父親の教えを守って育てられるのですが、服装や髪の制約がとても嫌だったと話してくれました。
例えば髪は切ってはいけないと言われ、虱(しらみ)の多い生活環境での長い髪が辛くて仕方なかった事や教会には必ず白い服を着る事など、父親(プロテスタント)が絶対という社会での反抗できない気持ちを話してくれました。
ですから家族の中でも、小さな宗教対立があったようです。
国の法律もキリスト教をメインに作られている為、様々な問題があったようです。
強姦や無理やりの性交でも中絶できない事や、浮気や暴力を振るわれても離婚出来ないといった制約が、多くの女性たちを追い詰めているのでした。
日本と違い、治安が非常に悪い国の中で、身近に常にある問題なのです。
ただ、忠実にキリスト教に基づく法律を守っている人ばかりでなく、
堕胎をする為、薬草を飲んだり、木から飛び降りたりする人も多く、
時には、麻薬常習者にお金を払い(日本円で1~2万)暴力をふるう夫を殺害してもらう事もあるのです。
それは、珍しい事では無い、日常にどこでもあるケースでもあるのです。
フィリピンで人気のある教会の前には、沢山の小さな店が立ち並び、まるで浅草の様ににぎわっています。
日常製品や食品を売っているお店以外に、シャーマンと言われる呪術師や占い師のコーナーがあったり、堕胎する為や生理の調整の為の薬草の販売もしているのです。
教会の前にです。
フィリピンの人々は宗教というくくりの中で、生きていく為の危険なカケもしている訳です。
法律を破ると、逮捕され2~3年の裁判や刑務所送りになる可能性があるからです。
逮捕以前に、殺されてしまう恐れもあるのです。
おおらかな国民性の裏に、宗教によっての制約で苦しむ人達が大勢いる事と、違法性を承知で、殺人依頼や、貧しい環境での呪術師頼みの病気治療といった選択しか出来ない裏の部分が同居しているのです。
それでも、国民は神を信じ、教会に足を運んでいるのです。
また、LGBT等、性的マイノリティの人達の存在を認めていない宗教下で、TVや俳優としての地位を確立しているという矛盾というか、おおらかさもあるのです。
日本に住んでいる私達には、考えられない世界が、今でも存在しています。
妻は幼い頃から、ゴミ山スモーキーマウンテンで、プラスティックを拾ったり、路上でビニール袋を売って生計を支えてきました。
食事も満足に食べられなく、それこそ塩だけの味付けで米を食べていた事もあったそうです。
何度も、このような辛い現実に対する耐え方を神様に、聞いていたそうです。
勿論、答えも無く、救いも得られませんでした。
彼女が私の妻となり、日本で暮らしている今、もう教会には行っていません。
彼女は息子にも洗礼をさせませんでした。
それは、私の影響もありますが、彼女なりに宗教の在り方に疑問を持ったようです。
前述のように形骸化された、ルーティンの様なあり方に意味を見い出せなくなったようです。
私の両親は仏教徒でしたので、たまに宗教について話す事がありますが、聖書の教えを否定しているのではなく、その先にある神(聖書)やキリスト、ブッダの教えの本質が同じであるという事を、彼女なりに理解しているようで、祈りも教会や、キリスト像に向かってするのが祈りではなく、何処にいても、どんな時でも祈る事が出来ると話していました。
それと同時に、彼女の中にある「神」の概念も大きく変わったようです。
それは、人間的な神様では無い、もっと大きな存在のようなモノとしてです。
彼女に「祈りはお願いするものでは無く、約束するものじゃないかな?」と話すと、
「今はそう思う事が出来る」と言いました。
過酷な生活を強いられた、フィリピンでの生活の中では、
神の存在無くしては、耐えられない気持ちも私には分かります。
ただ日本で、のほほんと暮らしていた私には、彼女の苦労や大変さを全部理解する事は、残念ながら出来ません。
ですから決して、彼女の宗教感を否定する事は、言いませんでしたし、逆に聞きたかったほどでした。
日本国憲法第20条で、信教の自由と政教分離原則がうたわれている日本。
宗教が、政治に介入する事をさせなかった事は、日本にとって良かった事です。
フィリピンの様に植民地にされたことが無かった事も、おおきな理由の一つかもしれません。
布教する事が目的ではないはずです。
何故なら、布教せよと書かれたものは、キリストやブッダの弟子達の書物であり、元々彼ら本人が書いたものではありません。
また、布教によって理を得ようとした可能性も高いのです。
例えば、宗教には戒律のようなものがありますが、(マスターは書いてはいません)布教する為に、どんどんハードルを下げ、守らなくても良いという妥協もしてきました。
根拠が無いのです。
枝分かれの様に宗派が出来たのも、マスター達の教えではなく、解釈や都合や権力等、全く教えとは関係のない所から始まっているのです。
そして、「私達の信じるモノが正しい」と言い争っているだけです。
だから、形骸化されてしまったのでしょう。
信じる者に目的を持たせる事で、組織が維持しやすいからです。
宗教を、学校に例えると解りやすいと思います。
文部科学省の教育の目的や方針に沿って、学習指導要領が決められ、教科書選定を教育委員会や校長が決め、各学校の教育内容になります。
まずマスター達の発した言葉を、弟子達の経験も踏まえて書き残し、
学校を作り出します。
それを読んで、また別の場所にその弟子達が、学校を建てているのです。
学校に、生徒が集まらないと運営が厳しくなります。
また、評判が良いと、生徒が集まりやすい上に、威厳が付きます。
この時点で、色々な人達の思惑や、権力が介入し出します。
校則を厳しくするところやクラブ活動に力を入れたり、先生の質を上げたりと、
それぞれの学校は、特色を出そうとします。
大切なのは、教育を受ける事ですが、まず学校という形にこだわる事から始まってしまいます。
「あそこは優秀な生徒が多い」「有名な先生が教えてくれる」「生徒が荒れていない」
教える内容も、学校に箔(はく)をつける為や、学校や先生の都合で変えられていくでしょう。
そんな基準で、教育そっちのけの学校という、箱もののステータス(社会的地位や身分)を上げ、
一つのシンボルにしているのです。
立派で大きな、設備の整った箱ものを作りたいのです。
言わば、社会的地位の確立や影響力の強化です。
保護者達は、自分達の学校がどんなに素晴らしいかを話し、自慢するのです。
そして自分と同じ学校に自分の子供を、本人の意志とは関係なく入れるのです。
「生と死と宗教の狭間(はざま)・後編」
でも取り上げた、宗教二世問題が起きているのです。
そもそも、教育方針も、教科書に書かれている事も、本当に正しいか?間違いがないのか?
本当にマスター達が伝えたかった事が教えられているのかは、もうどうでも良くなるのです。
自分が通っている学校が、一番と信じているからです。
だから、疑う事すらしないのです。
まさしく「井戸の中の蛙、大海を知らず」な状態です。
宗教は身近なモノであり、また根付いているモノでもあり、つかず離れずの関係の日本の在り方が、曖昧だとしても、良い関係で、良い距離感だとつくづく思います。
「何が正しくて、何が悪い」とか、「信じるのか、信じないのか」で宗教を語ると、もしくは布教すると、必ず反発が起きるのです。
どこの宗教も、「自分達の宗教が正しい」と思っていますから、違うアプローチで、それぞれの宗教者達が歩み寄らなければ、いつまでも人類にとってプラスにはならないでしょう。
元々は、皆同じ教えから始まっているのですから、歩み寄りは出来ると思うのです。
神や仏の名の下で、争い事は絶対にしてはいけないのです。
一歩間違えれば、争いによって大規模な戦争につながり、人類存亡の危機さえありうるシナリオです。
あと、どれほどの犠牲者を出せば、宗教による争いが無くなるのでしょうか?
本来のマスター達の伝えたかった事に想いを馳せ、日々の生活に生かせるようにしたいものです。