まっすぐ生きてる竹は
空間の積み重ね。
細くとも上へ上へと身は軽い
中身が無くとも側が曲がりを許さない
それは心とよく似てる
心は空(くう)である
持ち込むからこそ曲がっていく
重みで支えられなくなる
空(くう)の積み重ねこそ
見事な一本になる
節は節目であり
その上にまた
心を乗せていく
信念という側が曲がりを正す
あなたが生きている中で、心に持ち込んだものを考えてみましょう。
自分で持ち込んだり、教育や学習で持ち込んだりしてきました。
それは生きていく為の知識であり、社会の中でのルールやマナーもあるでしょう。
単純に食べ物を得、毎日を過ごしているなら持ち込むものもそんな多くは無いでしょう。
単純、シンプルな生活の中では、複雑な人間関係もローンや資産の事も考える必要がありませんでした。
大きな石すら動かせなかった人間が、頭脳を使いピラミッドまで作れるように、脳が他の動物には不可能な事を可能にしてきました。
人間はより豊かな快適な生活を求めてきた一方で、欲がどんどん顔を出してきました。
それは時に原動力にもなりますが、支配にもつながる諸刃の刃で歴史を見れば明らかです。
単純な物々交換もお金に代り、社会もより複雑になり、ほとんどの人達がその流れに遅れまいと流されています。
まず、「選択」をする事が求められてきました。
自分にとって「敵か味方か」「得か損か」「役に立つか立たないか」「信じるか信じないか」
数え上げればキリがない選択を迫られるのです。
社会が追い打ちをかけるのです。
「やれば出来る」「成功する方法」「考え方を変えよ」「自分を持て」「幸せか不幸か」と次から次へと二択を求めるのです。
戦国武将のハウツーまで持ち込んでくるのです。
オーストリア出身の精神科医アドラー(注1)も、『苦しみから抜け出す方法はたった1つ。
他の人を喜ばせることだ。
「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。』と。
自分が幸せでもないのに、また苦しんでいる時に自分に何が出来るか考え、他人を喜ばす事なんて神様でない限り出来ないのです。
ここで私達が失ってしまったのが、二択からでは生まれない選択でした。
自然の中に二択を迫るものはありません。
選択を望んではいません。
アドラーの言葉どおりなら1937年アドラー死後、世の中はもっとましな世界になっているはずです。
それに何故、いまだに「ことわざ」が通用するのでしょう?
〇か×しか求めない、また答えはないという断言に問題は無かったのでしょうか?
〇か×の選択で正しいのでしょうか?
次に人間は、「価値」を持ち出しました。
「大切なもの」が「比較する材料」と変わってしまったのです。
価値観も社会が決めるように求めるようになってしまい、値段が付き、買う事が出来るようになったのです。
またアドラーの言葉ですが、
『ほかの人の自分に対する評価は、その人の個人的な意見であり、自分の評価そのものには、関係しない。』
すなわち、「自分の価値は、人が勝手に決めるんじゃ無い」ということです。
一見正当のような言葉ですが、自分の評価、価値はどうやって見つけるのでしょう?
資産を築いたからか、役職に就いたか、せいぜいその程度のもので、結局「自分は評価の高い価値のある人間だ」と自分をなだめてる言い訳にしか過ぎません。
何故なら常に「比較」が存在するからです。
しかも、価値観は時代に翻弄されるのです。
戦争も、競争も、そして差別も価値観や評価が人によって植え付けられ、自分ではどうしようもない価値や評価で虐げられてきたのです。
アドラーは、「人間には評価や価値があるから」「だから自分で評価しなさい」と言っているのです。
すなわち「比較」です。
「比較しなさい」と言っているのと同じです
血統証付きという犬や猫は、自分で評価や価値観を見い出してはいません。
お金で人間が動物では無く「価値」を買っています。
犬や猫が自身をどう思っているのか?
つまり想像力の欠如です。
人は人、自分は関係ないと言い切ってしまう所からは何も生まれてきません。
ここで、形には出来ないお金に変えられない「価値」を見失ったのです。
そして「不遜」(ふそん)を持ち込んだのです。
不遜とは、おごりたかぶる。また、その様(さま)で、おうへいや高慢な事を指します。
またアドラーの言葉から。
『他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。』
正に、不遜な言葉が見えてきます。
「自己満足」は、得てして高慢な態度や認められない悔しさが隠れています。
宗教者が求め、伝えたがる言葉です。
私が書き換えるなら、
『他人からの賞賛や感謝など求める必要もない。自分が世の中に貢献しているというおごりを捨てなさい』と書くでしょう。
謙虚の反義語でもある不遜は、私達人間が自然に対する畏敬の念を破壊しつつあります。
絶対安全であるとした原発神話も、そんな高い津波なんて来ないと考えた学者も、想定外という言い訳でした。
不遜は人間関係をギスギスさせるばかりか、差別や優劣も生み出します。
不遜はそれを許容するリーダーが国のトップにいると、国民は不幸になってしまいます。
言い訳に
無知と不幸を後ろ盾
差別や偏見を正論とし
自ら安住の住み家とす
慰めるは自身のみ
存在は認めざるも
只々悲しい
察しの良い方なら解ると思いますが、アドラーの言葉が間違っていると断言していません。
楽観的で偉ぶらず、質素な生活を好み、人柄も良かったアドラーの言葉は今でも読み継がれています。
しかし読む人が意味を変えてしまうのです。
教えが宗教になった時と同じで、本来の意志や教えが変わってしまうのです
確かめてみればいい
自分だという確信が持てるなら
一つずつゆっくり剥がしてみるといい
肩書や地位も
年齢や財産も
容姿や性格も
結局何も残らなかった
初めからそこには無かった
「選択」「価値」「不遜」がもたらしたものは、特別な人達だけではなく、ごく普通の人間の心の中にシワジワ入り込み、知らずに不公平や差別をもたらしています。
現実を見る事なくTVや情報の選択権さえ放棄し、振り回され、自身で考える力がどんどん低くなっているのです。
社会の中での自分の立ち位置ばかりに気を使い続け、上を向いてはため息をし、下を向いては安堵感を味わう貧祖な考え方になって、無意識のうちに内なるありもしない優越感で人を見、良心という名の施しによる満足感と、自己保存による攻撃が同居しているのです。
そして自分で考えるより自己啓発本を読むのです。
心の中がごちゃごちゃしているにもかかわらず、さらに他人の法則を無理やりねじ込んでいるのです。
このブログ記事「心は何処にあるの」
「魂とは?霊とは?」
の中で書きましたが、
心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。
人任せでは感覚は鈍ってしまい、本来持っている人間の力、自然から学んできた祖先や亡くなった方からの言葉、魂の謙虚さが失われ余計なモノばかり取り込んでしまって魂の行き場が無いのです。
心の中は空っぽがいいのです。
空っぽは、感覚をリセットする事と同じです。
狭くなった間口を広げる事です。
もしそれに気付けば、心の中がとても広く穏やかである事が解るのです。
追い込んで追い詰めて苦しむのは、自分自身に対する問いかけを他人に委ねてしまったからかもしれません。
他人の言われるがまま選択無しに持ち込めば、持ち込むほど荷が重くなり歩けなくなっているのです。
自分はこんな人間なんだと決めつけられないのです。
何度も書いていますが、心は流動しています。
同じ考え方でずっといられないのが心です。
すなわち、可能性に満ち溢れているのです。
遥か昔から「自分が誰なのか」を世界中が探し続けているのです。
決めつけられない自分を、変えようとするアプローチから入る事はやめた方がいいのです。
まずは心を空っぽにする事です。
自分の心の中を覗き込むように、今の感情を第三者が見るように自分で覗くのです。
やがて、心の中が空っぽだった事に気付きます。
何故なら、外からの自分では無く、内なる自分を見ているからです。
何にも帰属しない自分を見つける為、地位や財産や誰かの自分、宗教や自尊心をどんどんはぎ取って行くのです。
そこには、ただの素の自分がいるはずです。
もしかしたら、少し怖くなるかもしれません。
何も持っていなかった事に気付くからです。
決して人の話を聞くなとは書いていません。
逆に、偏りのない沢山の人達や、経験豊かな年上の人達の言葉は余計な考えが浮かんだ時に、取り払う力となります。
すなわち、自分では気が付かなかったモノの見方が出来、一方向ばかりから見ない力がつくからです。
耳があるのはその為です。
とりあえず、
中のモノを一旦横に置いて、
熱いお茶を一杯飲む。
茶柱が立つかも知れませんよ。
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