心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

心の中は、空っぽがいい(2)

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まっすぐ生きてる竹は

空間の積み重ね。

細くとも上へ上へと身は軽い

中身が無くとも側が曲がりを許さない

それは心とよく似てる

心は空(くう)である

持ち込むからこそ曲がっていく

重みで支えられなくなる

空(くう)の積み重ねこそ

見事な一本になる

節は節目であり

その上にまた

心を乗せていく

信念という側が曲がりを正す

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あなたが生きている中で、心に持ち込んだものを考えてみましょう。

自分で持ち込んだり、教育や学習で持ち込んだりしてきました。

それは、生きていく為の知識であり、社会の中でのルールやマナーもあるでしょう。

単純に食べ物を得、毎日を過ごしているなら、持ち込むものもそんな多くは無いでしょう。

単純、シンプルな生活の中では、複雑な人間関係も、ローンや資産の事も考える必要がありませんでした。

大きな石すら動かせなかった人間が、頭脳を使いピラミッドまで作れるように、脳が、他の動物には不可能な事を可能にしてきました。

人間はより豊かに、快適な生活を求めてきた一方で、欲がどんどん顔を出してきました。

それは、原動力にもなりますが、支配にもつながる諸刃の刃で、歴史を見れば明らかです。

単純な物々交換もお金に代り、社会もより複雑になり、ほとんどの人達が、その流れに遅れまいと、流されています。

まず、「選択」をする事が求められてきました。

自分にとって、

「敵か味方か」「得か損か」「役に立つか立たないか」「信じるか信じないか」

数え上げればキリがない選択を迫られるのです。

社会が追い打ちをかけるのです。

「やれば出来る」「成功する方法」「考え方を変えよ」「自分を持て」「幸せか不幸か」と次から次へと二択を求めるのです。

戦国武将のハウツーまで持ち込んでくるのです。

オーストリア出身の精神科医アドラー(注1)も、『苦しみから抜け出す方法はたった1つ。

他の人を喜ばせることだ。

「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。』と。

自分が幸せでもないのに、また苦しんでいる時に、自分に何が出来るか考え、他人を喜ばす事なんて、神様でない限り出来ないのです。

 

ここで、私達が失ってしまったのが、二択からでは生まれない選択でした。

自然の中に、二択を迫るものはありません。選択を望んではいません。

 

アドラーの言葉どおりなら1937年アドラー死後、世の中はもっとましな世界になっているはずです。

それに何故、いまだに「ことわざ」が通用するのでしょう?

〇か×しか求めない、また答えはないという断言に問題は無かったのでしょうか?

〇か×の選択で正しいのでしょうか?

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次に人間は、「価値」を持ち出しました。

「大切なもの」が、「比較する材料」と変わってしまったのです。

価値観も、社会が決めるように、求めるようになってしまい、値段が付き、買う事が出来るようになったのです。

またアドラーの言葉ですが、

『ほかの人の自分に対する評価は、その人の個人的な意見であり、自分の評価そのものには、関係しない。』

すなわち、「自分の価値は、人が勝手に決めるんじゃ無い」ということです。

一見正当のような言葉ですが、自分の評価、価値はどうやって見つけるのでしょう?

資産を築いたからか、役職に就いたか、せいぜいその程度のもので、結局「自分は評価の高い価値のある人間だ」と自分をなだめてる言い訳にしか過ぎません。

なぜなら、常に「比較」が存在するからです。

しかも、価値観は、時代に翻弄されるのです。

戦争も、競争も、そして差別も価値観や評価が人によって植え付けられ、自分ではどうしようもない価値や評価で虐げられてきたのです。

アドラーは、「人間には評価や価値があるから」「だから自分で評価しなさい」と言っているのです。

すなわち「比較」です。「比較しなさい」と言っているのと同じです

血統証付きという犬や猫は、自分で評価や価値観を見い出してはいません。

お金で人間が動物では無く、「価値」を買っています。

犬や猫が自身をどう思っているのか?

つまり想像力の欠如です。

人は人、自分は関係ないと言い切ってしまう所からは、何も生まれてきません。

ここで、形には出来ない、お金に変えられない「価値」を見失ったのです。

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赤い太陽沈むとき、

川辺の鉄塔喜んだ。

長い影見て喜んだ。

土手の小さな桜の木、

影絵の中で触れ合って、

川辺の鉄塔赤くなる。

まっすぐ生きてる鉄塔は、

優しい曲線惹かれてる

 

そして「不遜」(ふそん)を持ち込んだのです。

不遜とは、おごりたかぶる。また、その様(さま)で、おうへいや高慢な事を指します。

 

またアドラーの言葉から。

『他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。』

正に、不遜な言葉が見えてきます。

「自己満足」は、得てして高慢な態度や認められない悔しさが隠れています。

宗教者が求め、伝えたがる言葉です。

私が書き換えるなら、

『他人からの賞賛や感謝など求める必要もない。自分が世の中に貢献しているというおごりを捨てなさい』と書くでしょう。

謙虚の反義語でもある不遜は、私達人間が自然に対する畏敬の念を、破壊しつつあります。

絶対安全であるとした原発神話も、そんな高い津波なんて来ないと考えた学者も、想定外という言い訳でした。

不遜は、人間関係をギスギスさせるばかりか、差別や優劣も生み出します。

不遜は、それを許容するリーダーが国のトップにいると、国民は不幸になってしまいます。

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言い訳に

差別や偏見を正義とし

無知と不幸の後ろ盾

自ら安住の住み家とす

慰めるは自身のみ

存在は認めるも

只々悲しい

 

察しの良い方なら解ると思いますが、アドラーの言葉が間違っていると断言していません。

楽観的で偉ぶらず、質素な生活を好み、人柄も良かったアドラーの言葉は、今でも読み継がれています。

しかし読む人が意味を変えてしまうのです。

教えが宗教になった時と同じで、本来の意志や教えが変わってしまうのです

 

確かめてみればいい

自分だという確信が持てるなら。

何も難しいことではない。

一つずつ、ゆっくり取り除くだけでいい。

肩書も

地位も

年齢も

財産も

容姿も

結局何も残らなかった。

初めからそこにあったんだ。

 

「選択」「価値」「不遜」がもたらしたものは、特別な人達だけではなく、

ごく普通の人間の心の中に、シワジワ入り込み、知らずに不公平や差別をもたらしています。

現実を見る事なく、TVや情報の選択権さえ放棄し、振り回され、自身で考える力が、どんどん低くなっているのです。

社会の中に、自分の立ち位置ばかりに気を使い続け、上を向いてはため息をし、

下を向いては安堵感を味わう貧祖な考え方になって、無意識のうちに、

内なるありもしない優越感で人を見、良心という名の施しによる満足感と、自己保存による攻撃が同居しているのです。

そして自分で考えるより自己啓発本を読むのです。

心の中がごちゃごちゃしているにもかかわらず、さらに他人の法則を無理やりねじ込んでいるのです。

 

このブログ

「心は何処にあるの」

kenpa.blue

「魂とは?霊とは?」

kenpa.blue

の中で書きましたが、

心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。

人任せでは、感覚は鈍ってしまい、本来持っている人間の力、自然から学んできた祖先や亡くなった方からの言葉、魂の謙虚さが失われ、余計なモノばかり取り込んでしまって魂の行き場が無いのです。

 

心の中は、空っぽがいいのです。

空っぽは、感覚をリセットする事と同じです。狭くなった間口を広げる事です。

もしそれに気付けば、心の中がとても広く、穏やかである事が解るのです。

追い込んで、追い詰めて苦しむのは、自分自身に対する問いかけを、他人に委ねてしまったからかもしれません。

他人の言うがまま、選択無しに持ち込めば、持ち込むほど荷が重くなり、歩けなくなっているのです。

 

自分はこんな人間なんだと、決めつけられないのです。

何度も書いていますが、心は流動しています。

同じ考え方でずっといられないのが心です。

すなわち、可能性に満ち溢れているのです。

遥か昔から、「自分が誰なのか」を世界中が探し続けているのです。

決めつけられない自分を、変えようとするアプローチから入る事は、やめた方がいいのです。

まずは、心を空っぽにする事です。

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自分の心の中を覗き込むように、今の感情を第三者が見るように、自分で覗くのです。

やがて、心の中が空っぽだった事に気付きます。

何故なら、外からの自分では無く、内なる自分を見ているからです。

何にも帰属しない自分を見つける為、地位や財産や誰かの自分、宗教や自尊心をどんどんはぎ取って行くのです。

そこには、ただの素の自分がいるはずです。

もしかしたら、少し怖くなるかもしれません。

何も持っていなかった事に気付くからです。

 

決して人の話を聞くなとは書いていません。

逆に、偏りのない沢山の人達や、経験豊かな年上の人達の言葉は、余計な考えが浮かんだ時に、取り払う力となります。

すなわち、一方向ばかりから見ない力がつくからです。

耳があるのはその為です。

 

とりあえず、

中のモノを一旦、横に置いて、熱いお茶を一杯飲む。

茶柱が立つかも知れませんよ。

 


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