心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

心は何処にあるの?(2)

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「心」は人間が生み出した概念です。

心は感覚です。

(このブログ「心は何処にあるの?(1)」を見て下さいね)

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人間であるあなたを、皮をむくように、

例えば肩書や地位、職業や年齢、誰かさんのあなたという立ち位置や血筋等、

どんどん剝いていくと、何が残るでしょう?

きっと「自分て何だ」と思うでしょう。

結局、空「くう」のような「無」のようもので、

自分が何者であるかも解らずに、心の存在を、あーだの、こーなど考えても、いつまでも答えは見つかりません。

人間が考える「心」という概念、捉え方を変えて考えてみましょう。

 

例えば、木に心があるか?

あなたが、木を見て意識すると、心があり何かを伝えている様な感覚になります。

御神木として、日本のあちこちにあるのも、祖先が何かを木に感じたからです。

魂が宿っていると考えたのでしょう。

 

人間が考えるような「心」ではない「心」が存在しているのです。

「心は感覚」と書きました。

木もまた、感覚を持ち、根を張り、枝を伸ばし、静かに「木」の時間で流れているのです。

人間の想いを、捉え方を当てはめる事は出来ないのです。

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誰でも、海を見ると心が落ち着き、開放されたような気分になります。

海は生命の源で、人間は身体という箱に、海という環境を閉じ込めながら生きているのです。

そして、月との引力での満ち引きをしているように、

様々な存在の奇跡的なバランスに組み込まれています。

海にも「心」は存在しています。

あなたが、受け取る感情が、その海の想いだからです。

 

自然は、決して優しくありません。

人間の為にあるわけでは無いからです。

先祖達は、その事を海から学び、畏敬の念を持ち崇高な存在として、向き合ってきました。

風習や儀式、伝説を伝承という形で、後世に繋いできたのです。

もし、「海」に何らかの意思があると祖先が思わなければ、多くの犠牲を払ったに違いありません。

 

万物は全て、それぞれの世界の中で、「心」を宿し存在しています。

それは、私達が考える想像を超えての「心」の存在です。

互いに、釣り合うように作用しあって、それぞれの時間で存在しています。

 

人間もまた、そのような存在で生きてきましたが、

脳の進化と共に理論や哲学、科学で、考えるようになってしまったのです。

宗教の影響も大きかったに違いありません。

ですから、疑いもなく「心」というモノの正体を、一方向からばかり探り、定義しようとしてきたのです。

第六感や胸騒ぎも、本来持っていた感覚「心」だったのです。

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ある番組で、視覚障害のダニエル・キッシュさんが、舌打ちによるクリック音を出し、その反響音で周りを把握する映像を観ました。

いわゆるエコーロケーションという、コウモリやイルカ達が使う能力を手に入れているという内容の番組でした。

また、病気や事故で脳の一部、もしくは半分近く失っている方も、残りの脳が補い、普通の生活を送っている方もいらっしゃります。

遠い祖先達は、生き延びる為に、もっと遠くまで見る事が出来、

敵から逃げる為の、感覚も鋭く、

水がある場所を探知できる能力を持っていたでしょう。

自然の中で、万物と向き合い対話し、生きる術を身に付けていったのです。

ですから「心」の捉え方も現代人とは、違う見方をしていたと思います。

 

当たり前と思い込んでしまうと、肝心な事を見逃してしまうのです。

「心」とは「感覚」と書きました。

失ってしまった「感覚」の原点に戻り、

「心」というモノが何であるかを考えなければいけないのです。

 

この世界は、人間が中心に廻ってはいません。

何より、人間自身は、「自然」であり、生命という流れの一部でしかないのです。

職場や学校、近所と、狭い世界観の中で生活していると、些細な事で腹を立てたり、不満に思ったりしてしまいがちです。

そんな中で、宗教や、思想に救いを見い出そうとしているだけなのです。

 

どんな小さな虫にも「心」があり、一生を全力で全うしています。

私達は、たとえ弱く、儚い小さな虫からも、まだまだ学ぶ事があるのです。

私達は、その虫すら作り出せないのですから。

ネズミからゾウやクジラ、そして人間の一生に打つ、心臓の鼓動は、

大体同じだと言われています。

人から見て、短命だとしても、時間の流れ方が違っているのです。

このように、人間中心に物事を考えると、本質が見えてきません。

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「心は何処にでもある」

それは、「感覚」であり、「霊」であり、

あなたが目にするもの全てに存在するのです。

人間が持てる時間は、宇宙から見れば塵にも満たない時間です。

狭い小さな世界観で生き、ギスギスしながら生きている事を、馬鹿らしく思えるようにありたいものです。

 

全ての物に「心」があると思う生き方をすれば、おのずと自らの行動も変わってきます。

大切なのは、聞いて、調べて納得する事でも無いし、また誰かの言葉を鵜吞みにする事でも無く、角度を変えて見る「想像力」が人生を、豊かにしてくれるのです。

 

心は何処にでもあり、そのことに気が付けば、

全てが「教え」となり、「謙虚さ」を学べるのです。

そして、今よりもっと優しい人間になれるのです

 

私がフィリピンに行ったとき、自分の行動の変化に気付きました。

それは、ゴミに対する考え方です。

勿論、日本と違ってマニラやケソンという町は、ゴミが路上にも、あちらこちら、落ちています。

ホテルでも分別し、捨てるという事はありません。

そんな中で暮らしていると、いつの間にか平気で、ためらいなくゴミを捨てている自分がいたのです。

良い悪いという事を書いている訳ではありません。

 

日本は、豊かな自然に囲まれ、四季折々に見せる自然の変化を唄にし、

春雨(はるさめ)、

菜種(なたね)梅雨(づゆ)、

五月雨(さみだれ)

時雨(しぐれ)など、

雨一つとっても沢山の言い回しがあるように、自然に対し様々な言葉を育んできました。

その日本という国が、環境が、そこに住む私達にいかに影響しているかを感じたのです。

自然の中に見出(みいだ)す「心」という存在無くしては、生まれてこなかった事です。

海に囲まれ、四季が訪れるこの国の、自然が養ってきた「心」を決して忘れてはいけないのです。

感じ取れる、自分でいなくては、いけないのです。

 


アインシュタインにきいてみよう アインシュタイン150の言葉

アインシュタインの言葉より

「My belief is, to the outstanding spirit that is present in the weakness and fragility, are made up of humble tribute.」

『私の信念は、弱さや儚さの中に存在する卓越した精神に対しての、謙虚な賛辞から成り立っている。』

 

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