前回で自然の中には「正義(善)と悪」は存在せず、そして人間だけがそれらを決めつける事をしていると、そしてその根源にあるモノは「価値」と書きました。
人間が誕生して以来、自分達にとって価値の有る無しを決め続けながら今日に至るのです。
生きる上で大切な水や塩、食べ物の重要性と価値は残念ながら、現代では同列で考える事は出来ません。
すなわち価値は人間だけが、生き延びるという本来の目的以外にも優劣を、序列のレッテルを貼る為に作り出しているモノで、この世に価値の無いものは存在しませんし、そもそも価値にランク付けするものではありません。
石ころから大きな岩、木々や花、昆虫やウイルスから細菌、微生物からゾウや魚に至る全ての物は自然が必要とし、可能性を与え続けた結果そのものだからです。
自然が作り出した人間も例外では無いはずです。
何故ならこの星の住民の一人として迎えられているからです。
そしてそこには意味があり、すべきことがあるからです。
大きな自然の法則の中では、全ての物にその意味、価値があり、いらないものなど無いのです。
鳥のフクロウは、羽音もなく飛べます。それを応用して新幹線のパンタグラフ(架線から集電する屋根についている装置)の形状に活かしたという話もあります。
蛾の鱗粉(りんぷん・羽などの表面を覆っているうろこの様なもの)は捕食者、コウモリの超音波に感知されないステルス機能がある事や、以前も取り上げた人間の目に見えない波長の光を、見たり感知できたりする昆虫や爬虫類。
蜘蛛の糸の強靭性や見る角度によって変わる金属光沢の様な表面を持つ玉虫等、キリがないくらい自然が創り出したモノには人間の能力をはるかに超えているものが多く存在しています。
それらの能力は捕食されない為や捕食の為に備わった、すなわち「種」の継続の為です。
一度に数百も子供を生み出す事も出来ず、生まれてもすぐに立ち上がる事も食物を得る事も出来ず、皮膚というすぐに傷つく外観も、食物連鎖の中では非常に不利であるにも関わらず、人間がここまで繫栄してきたのは脳の発達です。
仮にこの星で生きていく中で人類という種の繁栄と食物連鎖の一部だけとしたら、個々の存在の意味は無い事になってしまいます。
個体として人間の遺伝子が残れさえすればよい事で、個人を重視する必要など無いからです。
(関連記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆1~3」もご覧下さい)
実際、愚かな人間はそれをやってきましたし、また現在進行形の事でもあります。
民族の大量虐殺や、宗教の名の元で繰り広げられる紛争、人種差別の様な恥ずべき出来事が如実にその事を表しています。
すなわち、人間は人類というひとくくりの動物というだけでなく、個々の思考や行動にも大きな意味があるモノとし、個々の考えや行動が人類という種族に大きく影響を及ぼしていると捉える事が出来ます。
一方でたった一人の行動や言動によって大きく歴史が動き、多くの命がもてあそばれる様な事態を何度も経験してきた人類。
人類というマクロと個人というミクロは複雑に入り乱れてもいます。
人種や宗教を始め、国家や利害、価値で繋がる集団など、そこに見えるものは正に「心」を持ったが為の負の部分の表れとも言えるでしょう。
本来人間は自ら考え、選択し行動する事が出来ます。
何かに属性を持たせる事も、単独で行動する事も可能ですが、まずその前に立ちはだかる壁があります。
ルーツや血、宗教という繋がりです。
それはある意味、強い結束と同時に逃れられない形となって日常に溶け込んでいきます。
宗教や民族、国家主義といった集団コミュニティという形で、生まれながらに、またその国や地域といった選択できない要素という壁です。
見方を変えて見ましょう。
果たして上記の様な組織や集団は、人類にとってプラスに作用してきたか?という側面です。
人間は単独では生きてはいけません。
助け合いながら社会を作り出しルールを決め、見返りとして衣食住や病気の治療などの保証が受けられるように人類誕生以来このシステムを積み重ねてきました。
しかし、人口が増えるに伴いまとまる事が難しくなり、沢山のコミュニティが出てきたのです。
中身もより複雑になり、生活し生きていくという本来の目的が、違う目的にとすり替わってしまったのです。
そして価値を持ち出して選別するようになってしまいました。
人間が集まると争いが始まるのは当然で、個々の考えや価値観が違うとどうしても衝突してしまいます。
まして欲が加わるのですから、争い事が起きるのは当然の事でしょう。
その際、敵か味方かの判断材料となるのが、上記の「血」や「ルーツ」、「宗教観」といったものになるのです。
結局、集団でしか生きられない人間ですから、妥協が必要となります。
しかし、妥協も限度を超えると、また争い事が始まる、すなわち平和と争いのループから逃れられないのが、残念ながら人類の歴史であり、集団コミュニティは「苦」を生み出し続けているといえ、プラスよりもマイナスの方が多いとも言えます。
大切な命と引き換えに得られるプラスだからです。
反面、先人たちの言葉という過去を記録し学び、活かし未来を創造する事も出来るのが、人類でもあるのです。
個々の存在が、集団、大勢の「負」に傾く事を良しとしない力を働かせる事で、均等を保っているのです。
私達は、種という大きなくくりだけでは、生き延びていく事は不可能になってしまいました。
価値や欲が必ず誰かを悪魔の様な独裁者にしてしまうからです。
だからこそ個々という種の中での多様性を重視しなければいけないのです。
自然に対する、この星に対する使命をもって生れ出てきている事に、その原点に戻らなければいけません。
そして改めて食物連鎖に組み込まれている事も忘れてはいけないのです。
資源としての動植物を管理したり、絶滅から救う事もその一部と言えるでしょう。
勿論自然に組み込まれている人間が知らず知らずのうちに、利用されている事もあります。
ミツバチも人間が関与する事で生き延びているとも言えますし、花々の一部も同じように人間が育て、その子孫を絶やす事無く生き延びています。
個々の存在の役割は、上記の目標を達成するために欠かせないものなのです。
かつて食べる為では無く、毛皮や象牙、鯨油といった資源を動物達から奪い取り、大量虐殺の様な事をやってきましたが、理科学、生物学の発展や保護に寄与した個々の人達により絶滅を招くような事態は、これ以上至らない様になりつつあります。
個人の力だけでは防ぐ事は出来ませんでしたが、その個人が知恵を出し合い、救いの手を広げる事で成しえた事とも言えるでしょう。
それではその個々に焦点を当てて考えて見ましょう。
人は自然ですから、心もじっとしている訳ではありません。
良からぬ事や様々な欲求、自己保全や快楽が「こちら側は楽しいぞ」と誘うかと思えば、自己のアイデンティティー(identity)すなわち自己・自我の意識の不安定さに悩み、自己肯定や保身、自己否定や投げやりの気持ちが「ジッとして耳をふさげ」そして「私って何?」とつぶやいたりと一時も同じ状態では無く、葛藤や迷いの中で物事を決断しています。
小さい頃、私は平行棒の上や鉄棒、道路のブロックやどぶ川の淵を歩くのが好きでした。
そんな経験は誰にでもあると思いますが、街中でも母親と手をつなぎ、幼い子供が植込みの淵のコンクリートの上やちょっとした高さのブロックや縁石の上を歩いているのを見かけます。
バランスを崩して足を踏み外すと、打ち所が悪ければ骨折するかもしれませんが、子供にとってはそんな事はお構いなし。
運悪く踏み外しても、親を含めた大人が手を差し伸べて怪我をさせないようにしているのですが、もし危ないからと何もさせなければどうでしょう?
人生は生まれてからずーっと「苦」であるとこのブログでは書いています。
「苦」を避けることは出来ません。何故なら誰でも「死」が訪れる事と、そもそも心も体も不完全だからです。
だからこそ、生れ出た意味を見い出さなければ、苦のまま人生を終えてしまうのです。
「危ないから」「やっても無駄だから」「意味を見い出せない」と言い訳は沢山出来ますが、やらないと経験になりません。
手を繋いで安全を担保してくれた親や周りの大人達の手を離す時が来ます。
もし落ちても自力で進まなくてはならないのです。
もし目をふさがれていたら、真直ぐに歩くことは出来ません。
まして細い縁石の上ならなおの事、足を踏み外してしまうでしょう。
見るという現実の行動は勿論ですが、心にも見るという力が備わっています。
ただ、実像であっても心の目であっても、本当の事を見ているのかが疑わしいのです。
脳が処理して初めて見ているモノを「これだ!」と認識するのですが、夜中にお化けを見たり、雲の形が人の形に見えたりするのも、それまで蓄積されてきた様々な情報と結び付けて判断しています。
すなわち、見ているものは見る側の心によって変わるという事になります。
いつもの朝日が、山頂で見ると拝みたくなるような神々しい太陽に見えるのも、また愛する人を見る時も、本質、あるべき姿は変わってはいませんが、見ている心が違う為に普段とは異なる見方をするのです。
では、見る側の心の事を考えて見ましょう。
心は常に流動していると書きました。
落ち込んだり、怒ったり、解放されたような気分の時もあれば、閉じ込められている様に感じる時もあります。
そんな色々な状態でモノを見るわけですから、たとえ同じものや同じ状況でも見たモノ、受け取ったモノも違うのが当たり前です。
イライラしている時に「大丈夫ですか」と聞かれても「ほっといてくれ」となってしまうでしょうし、道で転んだ時に「大丈夫ですか」と聞かれると、ありがたいと思ったりと受け手の心の動きが、反映されるのです。
詐欺のメールもわざと考えさせる時間を作らせないように巧妙に誘導してきます。
普段なら冷静に考える事が出来ても、矢継ぎ早に危機感をあおってこられると、焦りがその矛盾したメールの文字を真実だと捉えてしまうのです。
まるで縁石やブロックの上を歩いている様な私達は、落ちないようにとしっかりとした心の目で先を見据える事がとても大切になります。
その芯となるモノ、それは今まで色々な形で呼ばれてきました。
「道徳」「倫理」「人間性」「真理」「善行」「道」等いずれにせよ心の中にあるべき一つの指針の様なものです。
ぶれないモノと言ってもいいかもしれません。
ただ如何せん人間は誘惑や欲求といったブレる要因に負けてしまう事の方が多いのです。
加えて「価値」という誘惑が拍車をかけてきます。
ですから、見る目が狂い縁石の上を歩けなく、進めなくなってしまい、右や左にと落ちては怪我をし這い上がろうとしたり、転んだまま動けなくなったりするのです。
大切なのは、その狭い縁石、すなわち「道」から落ちる事、外れる事を怖がってはいけないという事です。
そして落ちたまま良しとしない事です。
皆が落ちているから自分も仕方がないと考えてしまう弱さを見つめ、修正する前向きな心の中の芯を持ち続ける事です。
時には留まり、落ちた人間があなたの足を引っ張る事もあるでしょうし、逆に引っ張り上げてくれる人もいます。
手を繋ぐか離すかは自分で決めなくてはならないのです。
その選択こそが「芯」を持つ「心」に左右されるのです。
全体主義、独裁主義の世界では、皆が同じ方向を向けと指示されます。
その方向が例え間違いだとしても従うほかありません。
個々の存在は消され、はみ出す事を良しとしない社会は「生きる」という人間の大切な喜びを奪うばかりか諦めや妥協を作り出し、やがて多くの人達は従属が当たり前となり考える力を失ってしまうのです。
それでも、個々が立ち上がり「おかしい」と声を上げる人が必ず現れるのは「芯」「人の道」を信じているからにほかなりません。
もし、その様な環境に日本がなった時、果たして「おかしい」と声を上げる人達の一人になれるか?
第二次世界大戦初期の日本国内がどの様な状態になったか?
答えは目に見えている事でしょう。
日々の生活の中、例え自由主義国であっても、組織や集団の中ではいつ起きてもおかしくない状況なのです。
パワハラを始めとするハラスメント(harassment)「嫌がらせ」に泣かされる人は後を絶ちません。
個々の存在が、そしてその個人が持ち合わせている「芯」がいかに大切か、そして声を上げる勇気の後押しである「守るべきもの」が何か?
今、私達に突き付けられている問いとなっている事は間違いありません。
「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)」に続く