心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)

人間としての個々の存在の意味は、多様性に他ならないのです。

前記事に書いた人間の武器とも言える「脳」

多用な考え方や、発見、知ろうとする好奇心や未来に対する想像力など、多くあればあるほど選択肢も増え、言い換えれば進化と同じ理屈になるのです。

もし独裁者や権力者の思考だけを頼りに生き延びようとしても、いずれは滅びてしまいます。

それは人物だけでなく、体制(政治や法など)や宗教にも言える事です。

それは自然の摂理であり、歴史を見れば明らかです。

そして遥か昔から権力や富の為に犠牲になった人達の存在は、その事実を知る事で無駄にはならないという事です。

すなわち、個々が自分なりの思考で過去から学び咀嚼(そしゃく)し、今を生き、経験を積んで次の世代に引き継いでいく為に、私達は存在しているのです。

ですから個々の思考停止が、無関心がどれほどマイナスになるか、よく考えなくてはいけません。

自分だけでなく、周りの人達や子孫にも影響を与えるからです。

「芯」「善」は自身との葛藤の中から獲得するものです。

誰かの受け売りや、偉人達の言葉からは得られない、経験とそれによる失敗の中から見つけ出す力の事です。

 

しかし「芯」となるモノをしっかりと確立する事はとても難しい事でもあります。

若気の至りという言葉がある様に、経験不足が招く間違った思い込みや、自らの存在を否定している時、取り巻く環境が劣悪ないしは過酷である時や、日々の生活に追われ金銭的な事や不幸が続くとそれどころでは無いかも知れません。

加えて大勢(たいせい)の動きに自分も知らず知らずに巻き込まれる事だってあります。

ただ、歴史はちゃんとそれに対し答えを出しています。

いつの世でも過酷な環境や差別、虐げられ疎(うと)まれた人達の中に必ず「芯」を持ち行動してきた人達がいたという事実です。

 

個々の色々な考え、知恵を出し合い集約し危機を乗り越える。

個々の存在、多様性が必要であり、それが人間という動物の位置づけなのです。

「芯」「善」となるモノが心の目となり、「正義」と「悪」を見極める基準となっていきます。

 

どうすれば「芯」となるモノ、この場合「人としての道」の事としますが、持ち続ける事が出来るでしょうか?

まず答えは残念ながら「無理」という事です

書いてきたように「心」は揺らぐという前提があります。

ですから、時にその揺らぎを正す為に宗教に、指導者にその揺らぎを確信へと変える力を求めている人達がいるのです。

ただ難しくさせているのは、その宗教や指導者自体の「芯」に対する考え方が間違っている可能性が多くある事です。

十字軍や宣教師、そして今問題になっている宗教団体や政党基盤の宗教まで、前述した「価値」によって本来の「教え」「本質」から外れたり逸脱してしまったりしている事が、多くの問題を逆に作り出している現状となっています。

ネットの世界でも、同じ宗教であっても解釈の仕方が違い、様々な正義や悪の定義が見受けられます。

仏陀を含め、マスターと呼ばれる人達は、自らの手で「教え」を書き残していません。

ただ、弟子たちが書き残したモノから、マスター達の教えを紐解く事が出来るだけです。

現代において、彼らの言葉、教えは本来の教えかどうかは解らないのです。

色々な宗派に別れいった事からもその事を証明しているのです。

今も世界中の何処かで繰り返されている戦争や紛争の多くが、宗教問題を発端として起きている事をみれば解るはずです。

 

戦争といった有事の際には、例え、自分なりの「芯」「信念」を持ち「正義」を確信していたとしても判断が難しくなるのは目に見えています。

大義、この場合国家・君主に対して国民のとるべき道といった理由をもって参加し、戦うのか、人間として行動するのかその判断が出来る状態とは言えない状況になってしまうからです。

普通の人間が極限状態の中で起こす行動は残酷で、卑劣な行為に走らせてしまう事が、過去の例を見ても解ります。

ですから、そもそも絶対に戦争をしてはいけないのです。

ゲーム、TVや映画で見る戦争からは想像も出来ない事実が裏にあるという事を考えなくてはいけません。

 

「芯」が無いと、もしくは本質からそれた「芯」を正しいモノとしている限り、「正義」は人類の為という名目だけのただの自己満足に終わってしまうのです。

「悪」は、正しいと信じている「正義」といつも隣り合わせで語られる為、宗教によってその意味も概念も大きく変わるのです。

それは宗教だけでなく、独裁者や崇拝者の「価値」の概念でも大きく変わってしまいます。

 

「告解(こっかい)」「懺悔(ざんげ)」という言葉を知っていると思いますが、キリスト教だけでなく色々な宗教にもある、犯してきた罪を告白し許しを請う事を指すのですが、日常生活の中でも自分に対して誰もが同じような事を繰り返しています。

「あんなことを言わなければ良かった」「あの時助けてさえあげれば」「信じてあげれば良かった」その様な事を繰り返しながら私達は生きています。

その時の心の動きを思い出してみて下さい。

多くの人が「自分にされて嫌な事は他人にもしてはいけない」という戒めや、「困った時はお互い様」という人間らしさが、心の中にあるはずですし、無ければ懺悔も不要でしょうし、人類は滅びるでしょう。

例え「告解」や「懺悔」をやったとしても、それで許されるものでも、無かった事にする事も出来ません。

が、経験として積まれていき、過去の自分よりも成長しているのです。

いや、成長しなければ、学ばなければ意味が無くなってしまうのです。

すなわち、同じ過ちを繰り返さないという教訓の事です。

 

「芯」を持ち続ける事はムリだとしても、ブレ幅を出来る限り少なくすれば良いとも言えます。

報復や償いを恐れ「道」からそれない様にとするなら、それはただの形だけで本質は何も変わってはいません。

「地獄に落とされる」「悪霊が取り付いている」「天国に行きたい」このような言葉が無くならないのは対価という考え方でしかありません。

「善行を施したから天国に行ける」「悪い事をしてきたから地獄に堕ちる」「これだけ祈っているのだから必ず助けてもらえる」これらも全て、何かの対価、見返りを求めての考えであるのに変わりありません。

お布施にしても寄付にしても、教祖や団体の為にするのではなく、本来マスター達が伝えたかった事は、「手放しなさい」という意味です。

持っている色々なモノや心、それは善悪関係なく手放す事で真理に近づく事が出来ますよと説いているのです。

人間は持つことは出来ても手放す事は中々出来ません。

だから、手放さなければならないのです。

自分がどの様な「芯」もって「正義」「悪」と判断しているのか?今一度振り返る必要があるのです。

心の動きから考えて見ると解りやすいと思いますが、例えば正義と信ずる思考やそれに伴う行動時の自分がどの様な心持で判断しているかという事です。

その時、今を生きている事に奇跡のごとく考え感謝している状態であれば、あなたが正義として考え、行動する事は正に「正義」と言えるでしょう。

そして迷いがあっても、あなたの「正義」が成された時、自分自身と相手に笑みが浮かぶ事になれば、心に温かいものが流れればそれは「善」であり「正義」が成されたと言えるのです。

結局、個々の「善」の広がりに関与する事が、私達人間一人一人に与えられた使命であり、その積み重ねとうねりが「正義」を作り出し、価値や権力を持つ数少ない者達に決断を委ねない、させない事になるのです。

 

正義と悪の本質は、実は誰にも解らない事なのです。

正義や悪は割り切れるモノでも無く、その境界線すらありません。

西洋では古くは「神の審判」として決闘という形での殺人が許容され、名誉の為としての位置づけと変わりながらその歴史は長く続いたのです。


敵討 (新潮文庫)

私の好きな作家、吉村昭『敵討』『最後の仇討』でも出てくる、いわゆる敵討ちという殺人。

江戸時代を中心に多く行われていたが、(成功率は数%だった)これもルールを守れば個人でも制裁が出来るお墨付きの殺人で、その行為に共感する者も多かったのですが、これも当時では「正義」が行われたという事になるのです。

国家による殺人の死刑制度も戦争も「正義」を貫くと信じて人類は行っています。

原爆一つとっても、肯定派は「早く戦争が終結した」と思っているだろうし、力のバランスとして必要不可欠と考えているでしょう。

反面、広島や長崎に落とされた原爆はまさに大量虐殺であり無差別攻撃で、許されるものでは無いのです。

使用されれば、人類にとって最悪のシナリオになる事は間違いありません。

また歴史が示すように、過去英雄と呼ばれる人達や冒険者達が正義を行ってきたか?

答えはNOです。

よく日本では戦国武将の言葉を引用し、ビジネスや生き方として活かそうとしますが、必ずしも「正義」の裏打ちがあるわけでも無く、彼らの言葉が正しいとは言い切れません。

権力、自国や民族、宗教サイドで見る正義と、侵略され、略奪された側から見る正義は全く違うものになるからです。

でも、大勢において正義が成されたとしても、個人個人の中では疑問に思う人達が出て来て、「正義とは?」「これでいいのか?」という問いを投げかけるのです。

その様な人達、歴史では命を懸けてでも信念を貫き通した人達が沢山いました。

その勇気ある人達の存在があってこそ、私達は今ここにいるのです。

 

自然の中ではその定義すらありません。

何か大きな存在が、人の中に心を持たせ、この星の為に今を生きる人達全員で「その本質に迫れ」という宿題を出しているのかも知れません。

「この世に価値の無いものは存在しません」と書きました。

それは「頂きます」「ご馳走さま」の言葉どおり、生き物に対してのありがたみや感謝であり、価値があるからこそ私達は生存できています。

微生物はもとよりこの地球上の全てのもの、そして宇宙全体にも言える事で、絶妙なバランスの元、私達の存在が許されています。

しかも、そのバランスは宇宙という途方もない時間で保たれている繊細なモノです。

しかし、壊れる瞬間は、人類にとってアッという間に起きるのです。

宇宙から見れば人が決めた正義(善)や悪など、どうでもいいくらいのちっぽけなものです。

しかし塵の様な存在である人類が存在できるのは、今生きている個々の人達の未来に対する選択です。

人類にとって良い方向へと舵を切る為には、個人個人が考え、意見を出し合い、間違いを正す事でしか、方法は無いのです。

決して今起きている不合理な事を傍観する事なく、自分の事として考える事です。

何故なら、明日何が起きるか解らない中、自分の身の回りに起きる可能性は決して0では無いからです。

人間が人間らしく生きる事を今一度考え、子供達に繋いでいかなくてはいけないのです。

塵の様なちっぽけな人間の存在だからこそ、価値の有るモノにしなくてはいけないのでしょう。

 

いずれにせよ「正義」と「悪」を一方向から見る事だけはしたくないものです

 

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