職業だけで、出身地だけで、そして病気だけで差別や見下す時代が日本にもありました。
その人なりを非難するのではなく、本人には全く非が無い事まで責任転嫁させていた現実がつい最近まであり、今も形を変え誰かを傷つけながら根を張り続けています。
ハンセン病患者へのひどい仕打ちや強制収容、強制避妊手術やいわれなき差別。
「日本書紀」や「今昔物語集」にも記述があるこの病気は、昭和時代に差別や偏見がピークを迎えました。
元患者の家族たちが隔離差別等での心身共に傷ついた損害を国に訴えた裁判が決着したのは2019年夏。途方もない時間がかかったのです。
また部落差別問題では結婚や就職の際に身元調査をしたり、何処の出身者かといった名簿を企業に売ったりする会社まであったのです。
高度成長期時代の裏で起きていたその事実を学生だった私が知ったのは、数十年後でした。
それは会社の為という根拠もないプライドやブランドの為、いつの間にか差別を助長し、加害者になってしまったのです。
子供の頃よく母親から糞尿を運ぶバキュームカー(当時のトイレは水洗ではなくいわゆるボッチャンという貯める方式で、定期的に吸い上げてもらう事が必要だった。)が家の前に止まり、ホースを持って作業している作業員の方やゴミ収集されている方を指さして「勉強しなければ、あんたもああなるんだからね」と言っていたのをよく思い出します。
それ以外にも在日朝鮮人の方々の悪口や侮蔑するような差別用語も聞かされた記憶があります。
親や大人が、子供に対して何も考えず、悪意も無かったかもしれませんが話す言葉は、刷り込みの様に心の片隅に残ってしまいます。
もし教科書にも出ていない、根深い差別の事を知っていなかったとしたら、事実を知る事も無く今の私は嫌な人間でいたと思うのです。
そして振り返って親の事を考えた時、情けなさと無知がどれほど恐ろしいか、そして優劣を作り出す元が、日常の生活の中に沢山ある事を改めて思い出し、教育や報道力の大切さを痛感しました。
目に見えない威圧的な優越性を振り回し、いかに自分が優れているかを誇示する人達。
自分がそのような目に会わなくて良かったという、差別や優劣の芽が自身から出ている事に気づかない人達。
「上を見ても下を見てもキリがない」と言いながら勝手に上下という根拠もない理由のラインを引き、無意識での蔑(さげす)む感情を自ら自身に植え付けている人達。
それは、そのほとんどの人がごく普通の人達なのです。
悪というレッテルを貼り追い払い、目の届かぬ所に送り込む。
すなわち疑いも無く正義が成されているという恐ろしい錯覚に気付いていないのです。
いや、今でもあり続け、心をむしばんでいるのです。
部落差別問題にしてもアイヌ民族差別問題にしても、法務省のサイトには未だに掲載されているのです。
福島原発問題でも、子供達がいわれのない差別を受けているとの報道も未だあります。
いつまで経っても人間は愚かで浅はかなままという事です。
つまり、誰の心の中にも差別する要素を持っていて、それは時に自分に降りかかった悪い事や不幸の憂(う)さ晴らしをする為、標的者を探し出し責任を押し付け、犯人探しをするのです。
運が悪かったのは、こんな目に会うのは「アイツのせい」と。
更に悪い事は前述した様に、ごく普通の人達が正義の名のもとにやってしまう事が多いのです。
媒体となり、病原体の様に広めてしまうのです。
この様な事は、終わった事として捉えては絶対にいけないのです。
コロナの問題から解るように、もし今後、未知の病気が発生した時、難民や外国人を多く受け入れるようになった時、私達はどんな行動をするのか?どんな情報を何処から集め対応するのかが問われるからです。
勿論、マスメディアも一部の人ではありますが、取材を続け、発信し続けていた人達の存在もありましたが、果たして私達には届いていたのか?というと甚だ疑問符がつきます。
私の経験からも、自ら積極的に集めようとしない限り、情報や現状を知る事はありませんでした。
それは、マスコミの力が弱かったのか?もしくは忖度があったのか、いずれにせよ検証しなくてはこれからも同じような失敗を繰り返すばかりか、発信が著しく増加した現代、正しい情報が埋もれて憎しみや差別を過去以上に増やしてしまう事になるのです。
以前このブログ「見方を変えなくてはダメになる!⦅映像を通して⦆」でも書きましたが、
昭和の時代に盛んにTVで何の意図も無く娯楽として放送されていた欧米の映画。
先住民を悪者とした映画や歴史、例えば騎兵隊と先住民との闘いや、戦争を題材として欧米からの視点で作られた映画やドラマもしかりで、一方向からの視点ばかりのその様な媒体に接していると、「正義」の意味を理解する事は出来ないでしょう。
その頃観ていた私は、騎兵隊が正義で先住民族が悪と信じ込んでいました。
また親から子に知らず知らずのうちに植え付けている言葉や態度で、いつの間にか性差、いわゆる「男らし」「女らしさ」や正義、自由、道徳といった親が持つ観念を刷り込まれていきます。
過去には様々な今の先進国と言われる国が、世界中に植民地を生み出してきました。
その土地からの資源や労働力、支配という名の権力で富を築いてきました。
妻の国フィリピンもスペインやイギリス、アメリカや第二次世界大戦の頃の日本による統治等、その歴史は植民地としての苦悩が詰まっています。
ですから色々な血が混じっていますし、言葉にも統治国の名残があります。
同時に宗教も国を二分する事となってしまい、今でも対立が起きています。
ではそんな歴史を背負ってきた先進国が掲げる「正義」とは何なんでしょうか?
ジェノサイド(大量虐殺)はやってはいけない事で、しかも民間人を殺してはいけないというジュネーブ条約で採択されたルールがあるにはありますが、批准をしていない国や、ゲリラ等には当てはまらない上、たとえ批准している国であっても、常任理事国の立場を利用すれば、裁く事すら出来ないのが現状なのです。
すなわち「正義」や「悪」は時の政府や情勢によってコロコロ変わってしまう可能性が大きいという事です。
加えて、その裏にある資源や難民といった問題、そして自国の保身や権力維持を見据えて表面上正義を装い、裏で画策している事は、どの国でもやっているのです。
知らずに正義という一方的な考えを、疑いもせず信じ込んでしまっているのかもしれません。
アメコミに出てくるスーパマンやバットマンの様に色分けされた正義と悪は、本当に正しいのでしょうか?『(クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督の2005年バットマン ビギンズ (Batman Begins)等に見られる様に、絶対悪という位置づけで作られる作品ばかりでは無くなってはいるが』
身の回りに起きている事でも、思い込みや間違った情報の鵜呑みや歴史観、民族主義や宗教観で裁いているにすぎず、簡単に良し悪しを口にする事の危険性にもっと注視しなくてはいけないのです。
勿論、正そうという人達も沢山いるお陰で名誉を回復出来たり、正しい歴史認識を伝えたりしようとしていますが実際には、明らかになっている事例はほんの数パーセントで、ほとんど闇に葬られている事の方が、圧倒的に多いのです。
正義と悪、それは自身にまず最初に問いかけるべき問題なのです。
第三者的な立ち位置や傍観、無関心やあきらめが、「誰かのせい」「アイツは正しい」という答えになってしまっているのです。
すなわち自身の判断では無く、他人に委ねている事になるのです。
選挙に行かず、政治批判しているのと同じです・
私達は社会を構築しそして維持して、協力し合う事で生きていけるのです。
犯人探しや、嫌がらせ、ヘイトの為に大切な人生という一度きりの時間を使う事が、どれほど悲しく無駄な事か、考えれば解る事です。
まして、そのような事をする為に生れたのではありません。
自然を見れば解るように、白黒ハッキリして流れている訳ではありません。
常にカオスで全く同じ事を繰り返す事はありません。
しかし、大きな法則の様なものの中で調和を保っています。
人間も、自然な存在である事を忘れがちですが、何が起き、どんな運命が待ち受けているかは当然解らないのです。
そして大切なのは、自然の中では善悪や正義と悪という概念は有りません。
肉食獣が草食動物を食べる事は悪い事ではありませんし、必要以上に狩りをする事もしません。
だからこそ、生きるという事は厳しく大変なのです。
文明が進み、貯蔵できるようになり動植物を管理できるようになり、対価としてお金が出てきた事によって、人間は自然を逸脱するようになってしまったのです。
すなわち度が過ぎた行動をやり続けてしまっているのです。
そう、この星、この宇宙の中で人間だけが価値という概念を生み出してしまったのです。
何億光年離れた星にダイヤモンドや金があっても、それはただの鉱物に過ぎず、価値を図るモノがいない世界ではただの石ころです。
価値それこそが文明を手にしてから今日まで「善悪」や「正義と悪」を生み出しているのです。
欲や権力、宗教や民族問題もお金という価値によってゆがめられてきたのです。
そして、モノだけでなく人間そのもにまで価値を、言い換えれば値踏みをして搾取し、色分けているのです。
そんな中で正義と悪という言葉だけが独り歩きをしているだけで、その裏にある思惑にまで考えが及ばないのです。
考える事を辞め、体制や権力者、果ては独裁者に委ねる方が楽だという歪んでしまったストレスの受け口を探しているだけかもしれません。
つい最近も自衛隊組織からの集団的なセクシャルハラスメントを受け、被害の声を上げ続けた女性の方がいますが、署名活動や顔出しでの発信等、とても辛い御立場であるにも関わらず訴え続け、自衛隊幹部はやっとその事実を認めました。
今の時代にしてこのような状態ですから、もし、昔の様にSNSが発達していなければ、もみ消され権利さえ行使出来なかったと思うと、その点では個人が発信する場があって本当に良かったと思います。
このような事から読み解けるのは、組織や権力によって簡単に「正義」を規律の乱れへの恐れや存続の為、名誉や権力者の経歴の為に捻じ曲げられ、隠蔽すら平気でするという事実です。
すなわち人、個人に対する価値を組織や権力と天秤にかけ、正義の名の元価値の無いものとしてしまう恐ろしさです。
それは政治の世界でも、いやこの社会のいたる所で現在進行形としてやっているのです。
だからこそメディアの力が大切であり、マスメディアは特に忖度することなく一貫性を持ち、中立性を保ちながら、間違いや不正、そして「悪」道理に反する事と、とことん闘う姿勢を持ち発信する義務があるのです。
残念ながら気骨のあるマスメディアが、従事する記者や組織の姿勢が劣化している様につくづく最近感じるのです。
ジャーリストも幅広く見る力が衰え、専門的な知識ばかりに特化している人ばかりになっている様に感じ、TV等の媒体での発言にしても歯に記せぬ発言をする人はごく少数で、忖度や何かの圧力をかけられている様な歯切れの悪さばかりが目につきます。
陰で長年にわたって様々な問題を取材されているジャーナリストも多くいらっしゃいますが、彼らに焦点を当てるマスメディアが余りにも少ない事も自浄作用が働かない原因でしょう。
このブログ記事でも以前から取り上げていましたが、今問題になっている宗教二世問題のマスコミの取り上げ方を見れば解ると思いますが、今になって話題性や視聴率の為に報道し、後は低予算で同じような芸能人でお茶を濁す番組作りばかりになってしまい、益々TV離れも進む事でしょう。
何より、過去の事を振り返り検証したり、追い続ける姿勢が、すぐ忘れてしまう国民性と相まってその役割の重要性を認識すらしていないメディアばかりになってしまっている事は、この国にとって大きな損失となっているのです。
何か事が起きなければ過去の事は一切触れず、動かない姿勢と、追及や批判に終始し、最後まで見届ける事無く終わってしまう在り様に失望を覚えるばかりです。
例えば過去の国会答弁を引っ張り出し、どの様な推移で何が今と違うのかといった矛盾をなぜ指摘しないのか?
疑惑がある政治家に対し、子供でも出来る様な連呼ばかりの勉強不足丸出しの質問をし、どうやって本質を聞き出せるのか甚だ疑問ですし、なぜ社をあげて追い詰める事が出来ないのか?
以前も書いたが、コロナで多くの命が失われている時に強行とも言える形で開かれたオリンピックは、誘致に賄賂を使った事で日本では無くフランスで未だ捜査され、セクハラや女性蔑視や盗用問題や過去の不適切な発言を暴露され、担当者が下ろされたり、最近では汚職や収賄事件にまでなっていますが、コロナで苦しんでいる人達の横で、公共放送はそのほとんどの時間をつかってオリンピックを報道していたり、安倍元総理が復興五輪と銘打った五輪がどの様に復興と関わったかの検証もありません。
まして福島の原発事故を「アンダーコントロール」と発言したその根拠も未だ不明であるし、SDGsと謳いながら選手村での大量の食べ残し廃棄問題や多額の開催費用問題と新しく作り上げた様々な施設運営にかかる維持費や採算性等、ほとんどマスコミは関心を失ったのか?スポンサーや政府に忖度しているのか?検証もしなければ、責任追及すらしないのです。
まあ、オリンピックを支えてきた側からすれば、政府に忖度するようなマスコミが所詮やる事は無いとは想像できますが。
メディアは正義を行い償わせる力を持っている事を忘れて欲しくはありません。
少数者、マイノリティーの代弁者でもあるからです。
そして多様性を担保し、こぼれる人に焦点を当て続け、たとえ力で抑え込まれようとしても決してあきらめない姿勢を強く示すべきなのです。
何より「正義」とは何か?という問いを必ず持ち続けながら答えを探し続けてもらいたいのです。
力によってねじ伏せられてしまう様な、大戦以降かつてない世界情勢が不安定になっている時だからこそ、その存在意義を問われているのです。
この日本がどう進むべきかは、「正義」とは何かという一つの答えになるかもしれません。
それは私達個人個人の問題でもあります。
大戦後、この国が他国の人達を一人も傷つけていないという「誇り」を守る為にも。
自衛隊は日本国内では「Japan Self-Defense Forces」正に守る力と訳されていますが、「Japanese military force」「Japanese Army」「Japanese Navy」と海外では訳されていて、すなわち軍隊そのもの扱いです。
自衛隊(Defense)として、他国に対する救助や支援を行ってきたこの国は、世界に誇りをもって今以上に名を知らしめて欲しいものです。
アインシュタインの言葉より
『正しいことは必ずしも一般的ではないし、一般的なことは必ずしも正しいとは限らない。』
「What is right is not always popular and what is popular is not always right.」
「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(5)」に続く