昭和の時代、TVがお茶の間の主役であった時代。
当時、私の父は朝が早い為、夜遅い時間はTVを比較的に自由に見る事が出来ました。
夜の9時から始まる洋画を見るのが楽しみの一つでした。
「民放を見るな」と言っていた母親も、洋画だけは不思議と文句を言わなかったのです。
独特の語り口で番組の終わりに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」と言っていた、映画解説者の淀川 長治さんの事は今でもハッキリ覚えています。
特に好きだった映画が、西部劇でした。
ジョン・ウェイン(John Wayne)主演の「駅馬車」や「アパッチ砦」など、当時インデアンと呼ばれていた先住民族(ネイティブ・アメリカン)と戦う、正義のたくましい男の活躍を、ワクワクして観たものでした。
今から考えてみると、ネイティブ・アメリカンは悪、すなわち悪者で、白人が、正義という設定での映画ばかりでした。
小さい頃から、私に刷り込まれた正義と悪は、大人になるにつれて間違いだった事に気づきました。
土地を奪われ、食糧であり服や靴、武器の矢じりにも利用していたウシ科のアメリカバイソンを、毛皮の為だけに次々と銃で殺されてしまい、結局白人社会に取り込まれてしまうキッカケにもなったのです。
映画化もされた、小説『アンクル・トムの小屋(Uncle Tom's Cabin)』
黒人奴隷トムの数奇で不幸な半生を描いているこの作品。
読んだ方もいらっしゃると思いますが、昔読んだ時と大人になって読んだ時とは、全然見方が変わりました。
優しい白人のもとで、幸せだった奴隷のトム。
持ち主の事業失敗によって売られ、残虐な扱いを受け死ぬという話ですが、幸せといっても、奴隷には変わりなく、あくまで白人の持ち物であり、売り買いされているのです。
良き白人もいる、という前提で読みがちな事も、考えてみるとおかしな話なのです。
「幸せ」を、どこの視点から見るかによって、見方が全然変わってしまうのです。
1957年製作のアメリカ映画『十二人の怒れる男(12 Angry Men)』は、法廷を舞台とした、陪審員の苦悩を描いた作品です。
父親殺しの罪に問われた少年の裁判での陪審員の心の動きを、サスペンスドラマのように描かれており、ここでも違う見方をする人がキーマンとなって新たな展開を生み出し、疑問を持つ事や少数意見の大切さをこの作品から学べました。
ほとんど一室での会話から作られた作品で、テンポの速いものに慣れた方から観ると、入りずらい映画かも知れませんが、民主主義を学ぶ観点からも、お勧めしたい映画です。
2006年クリント・イーストウッド(Clinton Eastwood)監督のアメリカの戦争映画
『硫黄島からの手紙(Letters from Iwo Jima)』と
『父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)』は、同じ戦争を、敵と味方両方からの視点で作られた姉妹作品で、戦争がもたらす、非人道的な世界の裏の人間模様が丹念に描かれて、見方が変わるとこうも違うものかと考えさせられる映画でした。
荒野の用心棒やダーティーハリーなど、正義と悪の二極化した作品でスターになった彼が、監督して描き出したのは、正義や悪を分けて考えない、その中にある人間性を見つめている事です。
2008年の『グラン・トリノ(Gran Torino)』も、隠居暮らしの頑固な男と少年との交流を通じ、生きる事の大切さ、銃社会でのアメリカの持つ虚しさを伝える秀作で、クリント監督ならではの見方が奥の深い作品にしています。
一方日本は、アメリカのコミックブック会社「DCコミックス」に登場する、正義と悪の単純な色分けでのスーパーマンやバットマンとは違うヒーローを生み出してきました。
鉄腕アトムを始めとするマンガ以外にも、
特にウルトラセブンやウルトラマンコスモス等、背景にある時代や社会問題を作品の中に取り入れ、絶対悪を登場させてはいませんでした。
仮面ライダーもしかりで、正義、悪とは何かという視点で作られている作品が多く、大人になって見返してみると、子供の頃に観た想いとは別の見方が出来きます。
日本は、良くも悪くもあまり宗教の影響が大きくない国です。
マンガや特撮モノの中に見えてくるのは、自然に対する畏敬の念や、人間の中に存在する矛盾を題材にしたものが多く、その点も海外からの評価が高い理由でしょう。
フライトレーダー24(Flightradar24)というサイトをご存じでしょうか?
リアルタイムで、地図上に行先や便と共に機体が表示されるサイトです。
勿論世界中を見る事が出来、見たい場所もズームできます。
羽田や成田辺りを見ると、次から次へと飛行機が出入りし、見ているだけで楽しめます。
世界中にこんなにも飛行機が飛んでいるのかと最初はビックリしました。
地上で見る機体は「何でこんなものが空を飛べるの?」と思うくらいの大きさですが、大きなスケールで見る時の沢山の飛行機の小ささと、その一機一機に何百人もの命と、その人の人生が乗っていると考えた時、このサイトを見ている自分が、見方を変えると感じ方も変わるんだと思いました。
どんどん画面を引いていくと、
そこに見えるものは、こんな狭い世界に蟻のようにうごめく飛行機が今飛んでいる事と、国境も無ければ混乱や紛争も見えない、ある意味混沌と、でも淡々と過ぎていく時間の連続ですが、実際には争い事、紛争、差別、自由主義や共産主義、独裁者の上を、色々な想いを乗せた飛行機が飛んでいるのです。
普段の日常生活においては活動範囲は狭く、同じような事の繰り返しに見えますし、そう感じています。
そして、他人の行動や言動に一喜一憂し、目先の事ばかりに目がいってしまいます。
同じ事の繰り返しほど退屈で味気ないものはありません。
人間は刺激が欲しいからです。
それを狭い範囲の中に求めるのですから、ギスギスするのは目に見えています。
その繰り返しが、暴力になったり精神を病んだり、数々の依存症の原因になったりします。
同じ方向からは景色が変わりません。
それは、幼い頃ら植え付けられた価値観や日々の生活、当たり前と思っている事が当たり前ではないという事です。
同時に人間はすぐに忘れてしまいます。
災害に伴う停電や断水、ガスの遮断など、その時はありがたみを思っても、普段の生活に戻れば、何もなかったように過ごしてしまうのです。
ネズミはミッキーになり、害獣になる。
蜘蛛はダニや蚊を食べ、嫌われる。
イルカはショーの花形になり、食べられる。
カラスは歌われ、追い払われる。
雑草は生き様を褒められ、引き抜かれる。
雨は潤し、うとまれる。
感情での曖昧な位置付けほどいい加減なものは無い。
そんな目で
誰かを見ていませんか?
見方を変える事は、簡単ではありません。
子供や配偶者、職場の人達、身近にいる人達、その人達が日々、
心も身体も変わっている事になかなか気付きにくいのですが、
その為には、相手の言葉を聞く事や変化を見逃さない事が大切ですが、
自身の見方を変えなくては出来ない事なのです。
昼間の星はそこにあり
太陽は沈みながら昇る
月は欠けても丸く
雨の先に命がある
川は流れて角を取り
風は海を躍らせる
事実は見た目だが
真実は想像力を伴う
人類は最初、地球を中心に世界が回っていると考えてきました。
端まで行くと落ちてしまうと信じられた時代もありました。
いわゆる天動説と言われるものですが、紀元前5 - 4世紀前後には地動説、地球が公転、動いて回っている事に気付いた人もいたのです。
ただ空を見上げ観測する道具も無かった時代に、その様な考えを持つ人がいたという事実。
多くの人達が目で見る事象や世界だけを信じ込んでた時代に、違った見方をする人がいたおかげで、そしてその積み重ねで今日の科学や物理があるのです。
勿論アインシュタインの残した功績も周知の事実でしょう。
同じものを見ても「もしかしたら?」
という疑問や想像力が、発見や発明につながっていきます。
意識を、ずーっと上の方へ上げてみるのもいいと思います。
例えば、自分を見下ろす様にどんどん遠くから見る感じです。
やがて粒のようになり、宇宙の闇に包まれていくようになるでしょう。
そして逆にどんどん上から近づいて、やがて心の中まで入り込むのです。
中に見えるものは、もしかしたら空洞かもしれませんよ。
見上げた月が追いかける
時速3.600km
どうりで、追いつかれる訳だ
ジェット機だって
時速900km
今度はまったく追いつけない
走って走って立ち止まる
ネコがゆっくり横切って
時の不思議を巻き戻された
見方を変えなくてはダメになる!(1) - 心の道標 (kenpa.blue)
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