心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

人権問題は戦争への近道(1)

「LGBTQ」の事が取りざたされるようになって、キッカケの良し悪しは別として良い方向に少しは動き出した。

この問題は夫婦別姓問題や外国人差別少子化問題と切り離しては考えられない問題だからだ。

何故なら、根底に流れている差別意識や植え付けられた歪んだ常識が招いている問題だからだ。

加えて手を打たず放置すれば、民主主義が犯され争いへの道に進んでしまう。

 

昭和の時代を生きてきた私にとってLGBTQの人達の事は全く頭に無かった。

逆に気持ち悪い人達と当時思っていた。

学校でも男であるのにナヨナヨしている友達を見るとついからかってしまう風潮があった。

らしさ」にこだわり、植え付けられていたからだった事が解るまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。

らしさ」という言葉は、性を表現する方法として社会全体が受容していたからだ。

「男のクセに…」と何度も聞かされ、自分でもそう言い聞かせていた。

それは家庭内にとどまらず、学校や社会でもそうだったから、未熟な私にとって選択や疑問を持つこと等考えもしなかったし、考えられなかった。

多くの人の娯楽だったTVも、「男はこうあるべき」とか「女性はこう振舞いなさい」というベースの上に作品が多く作られていた時期で、家庭像もマンガ「サザエさん」に見られる様な形態が普通、当たり前とされていた。

実際私の母は、当時では珍しく外で活躍したいという願望があった人だったが、女は家にいるものだという父の考えで、ずいぶん苦しんでいたように思う。

その為か、夫婦喧嘩が絶えなかった。

また教育現場でも「トランスジェンダー」「性同一性障害」に関する授業おろか情報も皆無でその言葉すら聞いた事も無かった。

せいぜい友達と異性に対しての好奇心からくる思春期特有の会話くらいだった。

振り返ってみると、性差に苦しんでいる友達もいたかもしれないと思うと、その胸中は現在よりもさぞかし苦しかったに違いない

 

1980年代はエイズ(AIDS ・Acquired immune deficiency syndrome, 後天性免疫不全症候群)と呼ばれる病気が認知され出した頃で、同性同士の濃厚接触等(他の感染ルートもあります)によりうつり、不治の病として恐れられていた時期で、その事もLGBTQの人達に対して風当たりが強かった。

日本でも差別や偏見が渦巻いていて、エイズ=同性愛という図式で見ていた人が多かった。

後に、感染が粘膜や血液からと、情報が増えるにつれ実際には感染のリスクが無い手を握る事や、その場に一緒にいる事さえも許せないという空気になったのを今でも鮮明に覚えている。

 

私の友人も心当たりがあったのか、体の不調をエイズかも?と思い大変怖がっていた。

彼は献血する事でエイズ感染の有無を知る事が出来るとい情報を得て献血をし、結果陰性だった。

結果が解るその間、私は彼の傍にいる事を少し恐れている自分がいた事を今でも思い出す。

偏見や差別は許されないと自信を持っていたこの私だったはずなのに。

今では治療法、薬も進歩し、不治の病では無くなり、最近ではエイズの言葉さえ聞かないようになっている。

 


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2018年公開のイギリス・ロンドン出身のロックバンドで1970年代前半にデビューしたクイーン(Queen)の伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見た方も多いだろう。

映画館で私も妻と一緒に観て素晴らしい映画だったので、家に帰ってクイーンの曲を聴き直したくらいだ。

クイーンのボーカリストであるフレディー・マーキュリー(Freddie Mercury)もエイズで1991年、45歳の若さで亡くなった。

彼は両性愛者、バイセクシュアリティ(bisexuality)であったとされ(公に明かす事はなかった)彼の死でエイズが大きくクローズアップされたのは周知の事実だ。

 

最近は梅毒や淋菌、クラミジア等の性病が流行っているとのニュース報道があったが、自覚症状が初期に出ない事や、恥ずかしさもあって受診をためらう人も多いと聞く。

大切なパートナーと自身を守る為にも、勇気を出して受診してもらいたい。

恐れられていた病気はLGBTQと紐づけされ、多くの傷ついた人を生み出したが、粘膜、唇や性交等でうつってしまう病気は存在しているのだ。

要するに、LGBTQの人達の問題としてではなく、誰にも起こりうる事であり、だからこそ偏見や差別をさせない、しないを自覚し、助長させてはならない。

そう、過去から学ぶ事に尽きる。

私が30代にアマチュア用音楽スタジオで働いていた時の事だが、準備の為スタジオ内を掃除し、一息ついた時に一人の外国人男性が入ってきた。

多分20歳後半か30代くらいだろうか。

「営業時間はまだですけど、練習ですか?中で待ちますか?」と声を掛けたのだが、返事が無く小さな待合室のソファーに座った。

「日本語は解りますか」と私。

彼は言いにくそうに「I want you to be my friend」と話をした。

当時英語力はカーペンターズの曲を少し理解できる程度で、英語で会話などした事も無かった私は返答に困ってしまった。

身振り手振りも含めて、寂しい生活を送っている事と男性のパートナーが必要だという事が解った。

私が初めてゲイの人と会った日だった。

「ごめんなさい…」と言うと寂しげに帰る彼の後ろ姿は、今でも鮮明に記憶している。

きっと、看板の「music studio」の文字を読み訪ねてきたと思うと、胸が痛い。

音楽をやっている若者達が出入りする仕事なので、「男のくせに」「女だてらに」という価値観は私の頭からすっかりなくなってしまった。

音楽に、性別や人種、価値観を持ち込んだりする人などいなかった。

化粧をしたり、女性の様に話したりする人等、沢山の個性豊かな人達の出会いが、幼い頃受けてきた押し付けや偏見を拭い去ってくれたと思う。

もしそのような出会いや経験が無ければ、理解していなかったかもしれない。

昭和の時代を過ごしてきた人達の大半は、無意識の中で表にも出さない偏見を持っていたと思う。

TVでは大人達が、「男女(おとこおんな)」「おかま」と呼んでいたタレントが出てきだした頃だった。

先進国G7の中で日本だけがLGBTQ法整備をほとんど整えていない事はニュースでも大きく取り上げられているが、私の妻の国フィリピンでは、キリスト教を元に国の制度が定まっている為当然、LGBTQの結婚や権利は保証されてはいない。

原則、離婚も出来ないし、堕胎もダメで犯罪や売春による、いわゆる望まない出産も多い。

そもそも日本の様な戸籍で国民を把握しておらず出生記録証明書や洗礼証明書がその代わりの役目をしているが、それさえもやっていない人も多い。

LGBTQの事を妻に聞くと確かに昔は偏見があったが、今は無いという。

トンボイ・バクラと呼ばれていて、TVの司会やタレントにも多くいる。

妻に言わせると、「国民の四分の一は、いるんじゃない」という事だった。

実際妻の従兄弟にもバクラ、男性だけど脳は女性という心の優しい人がいて、少し前まで妻の母の身の回りの世話をしてくれていた。

同じ従姉妹にはトンボイ、体は女性だが脳は男性の人もいて、周りの人達も何の偏見も無く、同じ人間として生活をしている。

国としての結婚等の法整備は宗教の事もあり難しいが、遥かにその面では日本よりも理解が進んでいる。

生活している上での偏見も無いが、妻に聞くともし結婚したいならアメリカに行く人もいるとの事だった。

妻はよく自宅でフィリピンのドラマや映画を観ているのだが、それはそれは個性豊かな人達がいっぱいで、自分を性でひとくくりにすることなく、ありのままでいる事を見せている。

カミングアウト(正確にはcome out)等する必要もなく、服装やアクセサリー、髪形などの規則で縛られるような学校がもそもそも存在しない(制服もあるが、ある程度収入が無ければ用意出来ない。またお金持ちが行く、日本の学校形態の様なプライベートスクールはあるが、ほんの一部である)ので、心だけでなく服装や髪型といった外観も含めてが個性だと皆が認めている。

何より、それが普通の事であり、LGBTQの事に関しては性よりも人間性が重視されている国なのだ。

 

人権問題は戦争への近道(2)へ続く

 

(文中に出てくる言葉で、不快な思いをされた方がもしいらっしゃればお詫びいたします。

記事の意図をご理解の上、お読みくだされば幸いです。)

 

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