心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

人権問題は戦争への近道(2)

 

人権問題 は私の経験からも言えるが、教育が大きく関わってくる。

人間形成に欠かせない教育の役割は、その後の生き方にも大きく影響を及ぼすからだ。

知らず知らずのうちに刷り込んでいる危険性を、教育に携わる人達に今一度考えてもらいたい。

最近ではジェンダー平等の動きの中、制服などの見直しや着替え、トイレなどへの取り組みも一部で始まってはいるが、根底にある意識が変わっているのかと言うと疑問である。

改革は素晴らしいが、上辺を繕っている感はぬぐえない。

何故なら外観だけの話ではなく、内面、心の問題に焦点を当て、歴史が示してきた愚かさを教えるというアプローチが無さすぎるからだ。

我息子の中学時代の道徳の教科書を見たが、ジョン・レノンの「イマジン」(Imagine)やマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」(Heal The World)の曲を聞かせるほうがよっぽど心に届く。

道徳教育はそんな簡単に出来るものでも無いし、役人が決める事でも無い。

ただでさえ大変な仕事である先生に負担をかける今のこのやり方は、中途半端でしかない。

道徳を学んで欲しいのは、教育委員会や国のお偉方の方だ

後述しているが「教育再生実行会議」や「教育未来創造会議」といった政府の方針は、いじめ問題が発端になり、家族の在り方、後に「一人一人の多様な幸せと社会全体の豊かさ」「ジェンダーギャップや貧困」などに取り組むと書かれているが、そもそも、いじめが起きても誰も責任を取らない、身内をかばう姿勢の大人達がどうやって道徳なるものを教えられるのか、甚だ疑問なのだ。

教えるというよりも、考える事、想像する事に重きを置くべきで、正解を出す事では無いはずだ。

その為には家長制度などの歴史を紐解く必要があるし、ヒントが隠されている。

 

日本は、西洋から様々な文化や考え方を取り入れ発展してきたが、反面キリスト教などの宗教を重視していた国から学んだ事もあり、LGBTQは許されるものでは無いという意識が生まれた。

時の政府の西洋に学べという後押しもあり、それが一般的な考えとされ人々の中に定着していった。

皮肉にも学んだ国から遅れていると言われているのが日本の現状なのだ。

性差や差別にも関係が大きい、男尊女卑や家長制度も日本の長い歴史を顧みると浅い事が解る。

男尊女卑は中国や朝鮮半島の「祖先崇拝」という考えが日本にも影響を与えられたとされているが、江戸時代の武家社会以降、この考え方が主流となっていった。

逆を言えば、それまでは男女それぞれの役割、分担はあったものの、男尊女卑の考え方は無かったとも言える。

また、そもそも同性愛は神道でもタブー視されてはおらず、江戸時代初期の頃までは寛容だったという資料も残されているくらいだ。

もう一つ要因として考えられるのは、やはり権力の構図であろう。

LGBTQの問題は家族形態や家長制度が大きく関わっている。

江戸時代には平民には名字が無かったとされるが、実は持っていたとされ、武士だけが名乗る事を許されていたにすぎない。

そして明治時代の前述の西洋に学び追い越せという時代に徴兵目的での戸籍政策により姓名の届け出の義務化が進んだという経緯がある。

 

結局、国として権力を維持する為=戦争という短絡的かつ無理解者達が今の日本の在り方を変えたに過ぎない事が解る。

その裏で差別に苦しむ人達が多くいたし、無視されてきたのだ。

つまりその歴史は浅く、また権力者にコントロールされやすいシステム作りという訳だ。

それは、自公政権でも「家族という位置づけ」「まず家族で何とかして下さい」という発言からも解るとおり、政府が責任を持ちたくないという姿勢や関わると家族の在り方を明確にしている宗教団体の絡みもあり、選挙そのものにも影響が出てくるといった身勝手な議員達による、自己中心的なシステムを失いたくない為だけに過ぎない。

会社でも根拠のない、未来を見据えない頭の固い人間がトップにいると、下の者が苦労するのと同じ事なのだ。

 

後に教育未来創造会議と変わっていくのだが、安倍前首相が第一次政権で「教育再生会議」を、第二次政権で「教育再生実行会議」を開き、様々な戦前とも思われるような教育内容に一部変えてしまう事になった。

道徳に重きを置き、挨拶の仕方等細かく表記している教科書まで出てきた。

文科省が選定する教科書という事は、道徳も文科省が決める権利を有する事になる。

その内容は、あくまでも個人としての解釈だが、教育勅語そのものと言ってもよいくらい「らしさ」や「こうあるべき」と押し付けのオンパレードなのだ。

この令和の時代にだ。

Wikiwandより

 

この時期、旧統一教会問題は発覚しておらず、票欲しさに議員が関係を続けていた事は周知の事実だ。

この宗教が唱える家庭の在り方に議員も、当然賛同し、もしくは賛同せざるを得なかったと考えるのが自然である。

残念ながら、故安倍氏を含めその関係性を現政権はうやむやにしたままなのだ。

(詳しくは書ききれないので「東洋経済オンライン」で調べれば出てきますのでご参考に)

この事もLGBTQ、夫婦別姓外国人差別等の問題をどんどん先送り、むしろ逆行させてきた原因なのだ。

 

また政府・自公政権与党は当初、「こども庁」としていた名称を「こども家庭庁」に変更した背景にあるのは、子供は社会全体で見守るという考え方ではなく、家庭でやりなさいという古臭い議員たちの考えを反映させた結果だった。(票欲しさによる宗教の影響も考えられる)

結局少子化に歯止めをかけるどころか加速させる様な政策になってしまった。

 

岸田政権では、G7の一員としてのメンツの為、人権に関する問題を小手先の対策しか出せないでいる。

というより急場しのぎの中身の薄い対策ばかりなのだ。

差別発言で一部撤回、陳謝したものの、未だ問題になっている杉田水脈総務政務官の起用など、首相としての任命責任は余りにも重いし、理解に苦しむ。

軍拡には早々と予算を組みアメリカを喜ばせ、福島原発の後処理のめども立たない中、大企業救済としか思えない様な、原発延長や新設に加えて、政府は2月10日の閣議で、自衛隊の任務に不可欠な装備品を製造する企業の事業継続が困難になった場合は、生産ラインを国有化し、別の企業への委託を可能とすることなどを盛り込んだ法案を決定したのだ。

しかも装備移転・輸出の抜本的拡大も視野に入れている。

解りやすく言うと、武器も装備も大企業を支援して政府が後押しをし、管理をし、他国に売ってもいいのではないかという事だ。

肝心の国民に対する様々な緊急を要する政策は、「善処する」「広く国民の合意を得る為の努力が必要」等とはぐらかしている。

聞く耳は、国民ではなくG7内の要人と議員の身内の為にあるらしい。

 

いつも誰かを裁いている

己という名の法律で

根拠や弁明の余地もなく

有罪と声を荒げ読み上げる

次から次へと罪人を

作り出しては勝ち誇る

考えてみるがいい

裁かれているのは誰なのか

真の裁きの法廷に

己の姿がそこにある事を

 

人類は常に新しい事を見つけ出し、工夫し進歩してきた。

それは単に技術だけでなく、決して一人では生きていけない宿命を持った人間という存在の意味を問いかけ、この地球を共有している意味を常に上書きしなくてはならない。

世界に類を見ない平和憲法を持った国にふさわしい、人権や安心安全な国としての責務がこの日本の世界に対する役割なのだ。

自国の偏見や権力維持、責任を取らない人や政治、過去から学ばない姿勢を正さないと、他国で起きている人権問題にどうしてものが言えるのだろう?

国内の外国人に対する入管の対応のひどさも、私達は当事者目線で観てきただろうか?

もし自分の家族であったならどう思うであろうか?

政府は入管法を改正しようとしているが、難民申請中の母国送還を可能に出来たり、「在留が認められない者を迅速に送還」の項目では、退去を拒む外国人に対し強制送還や自発的出国の促しが付け加えられている。

今尚、入管収容施設に入っている外国人達の苦悩はどれほど私達に伝わってきただろうか?

不服があれば訴える事も出来るが、そもそも紛争等で逃げてきた人達に証拠集めをさせるのは、国に帰れと言っている事と同じだ。

インバウンドで浮かれている裏で、技能実習生や留学生に対する扱いなど、明らかに差別ではないかという事例も頻繁に起きているのが「おもてなし」の国、日本の現実なのだ。

 

ウクライナからの受け入れ対応と、クルド人を含む他の外国人達への対応の違いはなぜこんなにも違うのか?

もしかしたら私達は同じ人間としてでは無く「らしさ」すなわち、伝統や文化に触れ心動かされ、治安の良さに感心し、食べ物の旨さに驚くという様な「外国人らしさ」で彼らを見ているだけではないのか?

特に感じるのは、アジア圏黄色人種と西洋人に対する見方の違いだ。

私の知る限り、接し方や扱いに差を非常に感じる。

この様な問題の全てのツケを払わされる時が何時か必ずや来るであろう。

まだ今なら間に合う事も沢山ある。

いや、やらなければならない。

それには国民一人一人が差別や偏見、理不尽な制度に「NO」を政府に突き付ける必要が不可欠なのだ。

けっして他人事ではないし、無関心に加え、何より傍観してはならない。

必ず周り廻ってツケを払わせられる事になるのは国民であり、未来を担う子供達なのだ。

政治家や官僚、学者や評論家で無い事は確かなのだ。

もしかしたら、尊い命でもって払わさせられるのかもしれない

 

私が非常に危険だと思う事は、現政権は戦前の政権の様相になっている事だ。

個々、国民の事では無く国としての方向ばかり、勝手に舵をきってアメリカの巧みな戦略に巻き込まれている事だ。

LGBTQ、夫婦別姓、在日外国人や訪日外国人差別に取り組む事に及び腰なのは、国の戦争準備としてか、また選挙に都合が悪い為なのか、むしろ歴史の逆行を願っているのが本音としか見えない。

岸田首相の同性婚の法制化について「社会が変わってしまう」発言は文字通り本音だろう。

何故なら、いつの時代でもキッカケは些細な事として問題を軽く扱い、そして見落とし対処を誤る事で大きな失敗に繋がっている事実を歴史が、そして社会が示している。

誰も責任を取らず、過去から学ばないほど愚かな行為しでかすものだ。

正にバタフライエフェクトだろう。

結果、平和を謳った民主国家の名ばかりの縛れらた自由の無い世界になっていく事は、目に見えているからだ。

そこから生まれるものはロクなものは無い。

現政権に対し危機感を持って見守る必要をつくづく感じる。

 

厳しい目で政権自公与党の動きを見、選挙という手段で態度を示したいものだ。

憲法は権力者の抑止の為にあり、法律は国民の安全安心と権利を守る為のものであるはずだ。

そう、性差や趣向、家族形態を一律に定義するものでは無い。

むしろ個々の尊厳と自由を保障するものなのだ。

人間が人間らしく、個々の考えが尊重される社会構築に近づける努力を常にし続け、実現するような政治、政策の実行でなくてはならない。

それは正に誰もが自分らしく生きる権利を持つ事を意味し、奪われてはならないし、誰にも奪うことは出来ないのだ。

この地球では人類、人間という一つの種であり、それ以上もそれ以下も無い。

性差、人種を超えて愛を感じ、夢を描き、共感し、共鳴でき、犠牲をいとわない勇気を持った人類という、暖かい赤い血が流れている種族ではなかったのか?

だからこそ、この地球の住人として住む事を許されているのではないか?

そこに国境など存在しない。

例えそれが理想としても、実現可能に出来るのは人間だけなのだ。

それを先陣きって世界に広める国、日本でありたいものだ。

見上げれば

電線が星を区切ってしまう

地上に引かれた境界線は問いかけた

ずっと眺めて来たけれど

星ぼしは

上からの景色に線など無いと言う

鳥も虫も動物も

当たり前だと空を仰いで同意した

地球や心の線引きを

黙って諭す限界に

自然は憐みをもって示すだろう。

君達はもう去るべきだと

 

kenpa.blue

 

 

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