日本語には、沢山の素晴らしい表現力を持った言葉がある。
表意文字である漢字と、それに伴う音読み訓読み、カタカナ、ひらがな、表音文字のアルファベット。
誰もが好きな「桜」も
「桜」「さくら」「サクラ」「SAKURA」
文字によって浮かぶ映像も変わって来る。
例えば「雨」を表現する、言葉は、春雨(はるさめ)、菜種梅雨(なたねつゆ)、
五月雨(さみだれ)、夕立(ゆうだち)、秋雨(あきさめ)、霧雨(きりさめ)、
時雨(しぐれ)などほんの一部だが、一つの「雨」という言葉にも沢山の表現があり、伝える側の奥にある感情が込められているように、そして景色が浮かぶように伝わる。
このような表現を用いた言葉は、天気予報でたまに聞くぐらいになってしまったのはとても残念だ。
何故、こんなカタカナ英語や、おかしな言い回しが使われるようになったのだろうか?
まずネット社会になり、それを先導している英語圏の国の影響が考えられる。
昔から英語に対するコンプレックス「日本での使われ方でいうとインフェリオリティーコンプレックス(劣等感)」の影響が逆に多用される原因になっているのだろう。
特にお役所の方々が好むのも、発想や伝達の貧弱さを英語でごまかそうとしている節がある。
文字で書くとスペルの問題もあり、結局カタカナだらけになり、発音や文脈に合った言葉選びがおろそかになってしまう。
また文字を書かなくなってしまった事も大きな原因だろう。
すなわちデジタル化の影響だ。
省略する事でSNS上の文字数の制約を受けない様になる事から、おかしな言葉が当たり前の様に使われるようになった。
例えば「コスパ(cost performance)」というカタカナ省略英語は、「安い割には良いモノ」と理解していると思うが、実際は経済用語での「費用対効果」となり、会話ではほとんど使われない。
それに相当する言葉としてなら「good deal」になる。
もしかしたらグッディとでも省略される事を思うと悲しいが。
それに加え伝達も、手紙や葉書ではなくSNSで用を済ますようになって、ますます書く機会が減ってしまっている事にも原因がある。
特に漢字は、タブレットやスマートフォンでの変換ですぐ出てくる。
漢字は筆で書くと解るように、止めたり、引いたり、跳ねたりする事が書き順と伴って必要になる。
それを覚える事によって、崩し文字や感情を文字に込められるのだ。
息子の学校、小中校の学習内容を見ても、タブレットを使用した学習も多くなっていて、筆を持つのは宿題の書初めぐらいだった。
書き順にしても、そこに重きを置いた教育をしていない事が、息子の学習を見て感じた。
これでは、漢字を記号だけの認識としてしか使用できない事になる。
漢字はそれ自体に歴史が刻まれており、祖先が作り上げた芸術でもある。
一つ一つに、込められた想いがあり、アルファベットやカタカナでは表現できないような、微妙な表現を表す事が出来る良さを持っている。
ただ単に覚えるだけの学習なら、結果的に生かせないという事だ。
どんなに「匠」言われている人も、道具が無ければ何も出来ないし、だからこそ道具を大切にする。
それと同じ事が、言葉や言語にもいえる事で、育まれてきた言葉の歴史の重さを大切にしたい。
「愛」という漢字は、愛でる(めでる)、愛しむ(おしむ)、愛娘(まなむすめ)、
愛しい(かなしい)、愛しい(いとしい)、愛い(うい)愛してる(あいしてる)等と、読み方や意味が、文脈の中で使われる事により、より引き立つものとなる。
ただ漢字を覚える教育だけでは、先人たちの想いも、深みも伝えられないし、読み解く力も備わらない。
まして、外国人に日本の文化の事を聞かれる時に、漢字はとても有効だ。
よく漢字が書いてあるTシャツを着ている外国人を見るが、漢字やひらがな、カタカナがカッコよく見えているのだ。
映画「マトリックス」の緑の記号が雨のように流れるシーンにもカタカナ等が出てきているくらい、魅力がある。
驚いたのは、今の中学校ではアルファベットの筆記体をほとんど習っていない事。
これでは、外国からの手紙を読む事が出来ない。
妻のフィリピンにいる姉の手紙を見せても、ほとんど当時中三時の息子には読めなかった。
グローバル化と言われているにもかかわらず、何の為の教育なのか、とても疑問に思う。
文字を書くという工程を省いては、文字に力を与える事が出来ないばかりか、限定的な範囲での文字や単語ばかりの構成になってしまい、遊びや巾が無くなってしまう。
また、語彙力が低下してしまい、豊かな表現も出来なくなる。
そして、もう一つの原因として、グローバル化という風潮だ。
「世界的な規模」「包括的」と訳されるこの言葉だが、カタカナ英語を使う事がグローバル化では無いはずだし、自分の人間性を育んだ、住んでいる国の言語や言葉をより良く知り、活かし発信する事が不可欠で、それこそが本来のグローバル化に欠かせない要素ではないのか。
だからこそ、外国の方々が日本語を学び、漫画や小説を日本語で読みたいと思っているのだ。
そもそも、世界にこれだけ色々な言語があるのは、そこに住む人達の生活に合わせて、言葉が生み出された。
例えば、狩猟民族や農耕民族では自然に対する見方が違っている。
それに合わせ、同じ自然現象でも、沢山の表現を生み出してきた。
それは、生活形態とその維持に必要不可欠だったからだ。
的確に相手に伝わる様に工夫されていったと言ってもいいでだろう。
地域地域で、同じ日本語でも違う言い方、方言もその一つといっても良い。
それほど、言葉は大切なコミュニケーション方法だったという訳だ。
フィリピンに行った時に、日本の中古車が結構走っていたが、トラック等は社名などの漢字を消さないで走っているのをたまに見かけた。
訳を聞くとカッコイイという事だった。
日本の街中で見るトラックに書かれている文字のほとんどが、アルファベットや英語だが、「〇〇高速荷役」と書かれたトラックの文字を見た時に、ホントにカッコイイと思った。
また、仕事に向かう道中でいつも気になる会社名があった。
それは、カタカナで「〇〇クライム トップ」という会社の看板で、クライム(climb)の意味には、名詞として「登ること」と、(crime)「犯罪」「罪」という両方の意味ある。
〇〇の部分はプライバシーを考慮して書かないが、社名全てを読むと、犯罪集団の頂点の様な訳になってしまうのだ。
単純に横文字にすると、カッコイイと思ったのだろう。
まさか「〇〇犯罪の頂点」という意味では無いでしょうが、日本語で「最高峰」とした方がクールジャパン。(笑)
もう一つ例を上げよう。
高速道路の料金所で見る「ETC」という言葉、「Electronic Toll Collection System」訳すと電子料金徴収システムと言えるのだが、アメリカでは「NO CASH」「〇〇PASS」といった、分かり易い言葉で料金所では表記されている。
なぜ「自動」「現金」ではダメなのか?
機器の名前も、「自動徴収器」の方が誰にでも解りませんか?私はカッコイイと思いますけど!
ちなみにETCは「エトセトラ」…等々、「その他いろいろ」という意味でも使われる言葉でもある。
マンガの世界、例えばアキラ、エバンゲリオンや攻殻機動隊などでも、漢字が出てくる場面が沢山あるが、実にカッコイイと思う。
漢字は幼い頃から習い、記憶の中に刻まれていく。
私はそろばんをしていたのでよく解るのだが、計算する時には頭の中のそろばんを動かしているだけだ。
すなわち映像として出力しているだけで、頭の中では数字は出てこない。
同じように漢字も、慣れてくると脳は一つの絵の様に捉えるようになり、早く読む事が出来るようになる。
こんな素晴らしい言語をわざわざ横文字に置き換える意味が解らないのだ。
伝統や昔ながらのやり方が全て正しいとは思わないし、文字や言葉も時代に合わせ変わっていくものだが、人はコミュニケーションの手段として言葉を、文字を使ってきたのは事実なのだ。
そのおかげで、複雑な伝達や記録をする事が出来るようになり、文明を築き、文化や芸術を生み出してきた。
人間にとって、必要な能力だったからこそ、磨き上げ、伝える大切さを意識してきた。
伝達は相手がいる事が前提で、伝わってこそ意味がある。
冒頭の例では、相手が日本語を学んでいる外国人でもちゃんと伝わらないし、ごく一部の人のみを対象としている文章という位置付けなのでしょう。
受け手が、送り手の真意や内容を、ちゃんと受け止められる事が一番の目的であり、理解でき反芻する事で、行間にある熱意や想いを読み解けるのだ。
和歌や俳句も、そぎ落とした簡素な言葉の奥に映像や音、物語があり、だからこそ人それぞれの様々な受け止め方や味わいを生み出す。
そして、読み手が経験や語彙力が豊かであればあるほど、心の中の世界が広がっていく。
私の好きな言葉で、良寛さんが読んだ
『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』
『散る桜 残る桜も 散る桜』
なんと、見事に短い句の中に「人生観」を表しているのだろうと感動したものだ。
また、誰の言葉かは判らないが
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」
とい文は、もう何十年たっても忘れないくらい、情景が浮かび、素敵な、粋な言葉として焼き付いている。
それぞれの国は言葉という素晴らしい違った文化を持っている。
それこそ本来のグローバルで、単にカタカナ英語を多用するなら、グローバルの世界では、意味を成さないだろう。
かえって、英語圏の人達にとって混乱を招く事にもなるからだ
加えて、多用により日本語の表現力が貧弱になり、言葉が単なるツールになってしまう。
前述した言葉の持つ力をわざわざ、そいでいるのと同じだからだ。
紛争や戦争地域で占領した国がやる事は、占領した国の言葉以外使わせないという戦略だ。
近年の占領地域の実態からも読み取れる。
過去の日本軍による占領下の国でも同じような事が行われてきた。
すなわち日本語教育だ。
言葉は文化であり、誇りであり、生活そのものなのだ。
それを取り上げられる苦しみは、想像できないくらいの苦悩と侮辱以外、何ものでもない。
その様な歴史がある事も忘れてはならないのだ。
それを自ら手放そうとしている事に気付いて欲しい。
沢山の便利な機器やサービスが増えても、理解できない、理解しても真意が伝わらない言葉や説明では、本末転倒になってしまう。
特に政府、役所など公共からの発信には、命に関わる情報もあるので、気を付けて欲しいものだ。
特に、政治家の皆さんは、使えば使うほど品格が下がりますよ。
また、NHKも受信料を取って公共放送の立場で放送しているのなら、年配の方や外国人を含め、安易にカタカナ英語や略語、造語や和製英語を使わないでもらいたい。
「ハザードマップ」は「危険な地域の地図」で何が悪いのか?
せめて、注釈を入れるなり、短い解説の表示ぐらい出来るはずだ。
今も使われていると思うが、若い頃、言葉や服装の乱れは不良の証と言われてきた。
これでいうと、日本全国、不良だらけだ~!
カタカナ英語や和製英語は、IT(情報技術 information technologyの略称)関連、世界を相手にする様な仕事、デジタル時代の中で、これからもどんどん使われるようになっていく事だろう。
言葉は何も相手に意志を伝えるだけではなく、自分自身に対しても発するものだ。
色々な表現力や理解、思考する為には豊かな語彙力がかかせない。
投げやりな言葉を吐くと、その通りの行動になる事からも解るはずだ。
脳を最大の武器として前頭葉を発達させてきた人間。
入力も出力も言葉が大きく関わっている事を改めて認識したい。
今日もまた、新たな造語とカタカナ英語や和製英語との闘いと、自身のブログの書き間違い探しで「テンションが下がる」(笑)
ちなみにテンションは、精神的な緊張・不安、 機械などの張り・張力・伸長力という意味で、「テンションが上がる、下がる」の使い方は間違っているが、もう和製英語になってしまった。
「ん……!テンション下がる!」
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