心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

自分て何?⦅探求⦆(5)

誰かの為に死ねるか

それは命を尊いものと知る心

己の為に死ねるか

それは何があっても生きぬく信念

 

このブログでよく書いている事が、

「明日どんな気持ちであるか解らない自分なのだから、他人のこと等解るはずがない」という言葉です。

果たして自分の事を解っている人が本当にいるのでしょうか?

「解っているよ」という人も、よくよく考えて見て下さい。

それは自身で決めつけているだけで、「こんな部分があったのか」と思う事もあるはずです。

もしかしたら、他人の目を通しての自分を見ているだけかもしれません。

 

私達人間は、約37兆にも及ぶ細胞で構成されていて24時間365日、死ぬまで休みなく働いています。

特に脳は、一見リラックスしている時でも活発に活動していて、勿論無意識下でも働いています。

すなわち意識している時だけでなく、無意識の中でも脳は神経細胞を通じ情報のやり取りを行なっているのです。

 

近年、脳科学の研究は飛躍的に伸び、様々な事が解ってきました。

脳が指令を出していただけでなく、様々な臓器が逆に脳に指令を出している事や、決断をするのは自分の意志では無く、脳が先に決める事等、信じられないような、脳の持っている不思議な能力も明らかにされつつあり、私自身も驚いているほどです。

私は科学者でも医者でもありませんから、その様な立場での発言は信ぴょう性も含めて軽々に出来ませんので、このブログ「心の道標」として読み進めて頂きたいのですが、誰でも一度は、生まれた意味や自分という存在は何の為だろうか?等と考える事があると思います。

心を指す時、大抵の人は胸に手をやり、脳とは違う感覚と理解しています。

心という意味で自己と他者を明確に区別している生物は人間だけです。

勿論、他の生物も区別はしていますが、生殖活動や子育て、捕食、危険からの回避という意味での事です。

(この分野は研究過程で、動植物に自己意識や感情があるのか?は一部の動物で自己認識をしている事や、魚が痛みを感じているとの研究もあり、私達人間が想像できないような感覚でこの世界を生きているのかもしれません)

脳には生まれてからの記憶がどんどん記録されていくのですが、重要で無いモノや日々の当たり前の様な、例えば先週食べた朝飯などは、整理され消されていきます。

そして一方で、同じ事を何度も繰り返す事、トレーニングする事で脳が回路を作り、意識せずとも体が動きます。

日常的な自転車や車の運転は勿論の事、手足が全てバラバラな動きのバイクや、重機に至るまで数ミリの単位でコントロールする事も出来る様になります。

スポーツを始めとするプロ、匠と言われる人達も同じ事が言えるでしょう。

 

経験や学習によって脳の人としての機能が備わっていきます。

すなわち、心も様々な人間関係を経て構築されていきます。

それに加えて知識、例えば本や映画、音楽といった芸術や、様々な情報等へのアクセスといったインプットの量も心としての動きに大きな影響を与えます。

私自身は音楽をやっていましたので、詩や曲を生み出す為に苦労しましたが、フッとしたきっかけでアイデアが浮かんでくる事がよくありました。

それは、音楽とは関係のない物事、例えば本で読んだ事や映画で見た事が繋がる様に、関係性が無い、もしくは薄い事同士が結びついたり、他の事をしている時や寝る前に突然浮かんだりしました。

この事から考えると、無意識と意識とのやり取りが行われていて、取り込んで忘れてしまっているモノも含めて情報が思い出せなくても残っているという事です。

ただ条件として、経験から言うと課題になっている事、この場合「詩や曲」の事を考えている状態を維持するという事でしたが、昔の写真や景色、匂いや聞いていた音楽で、忘れていた記憶がよみがえる事でも解ります。

アインシュタインもよく思考実験(頭の中で実験をする事)をやっていたという事が知られていますが、ひらめきや、天からの声といわれるような事も、自身の無意識の中にため込んでいる情報が多いければ多いほど、意識下での新しい組み合わせや思考が多くなるのです。

逆に言うとマイナスな負の事ばかりが蓄積されると、無意識と意識との共有も狭い世界になって、思考も負の方向に動く事になってしまうのです。

そして、洗脳されるようにその負のイメージに、より囚われるようになり、思考や行動に出てしまうのです。

その様な状態が続いてしまうと正常な判断も出来なくなり、自分が解らなくなってしまうのです。

私も経験中の精神的な病気もその様な状態からかかってしまいました。

また、ニュースで見る事が多くなったマインドコントロールも、追い詰められた心を自分で処理できなくなってしまう事で、他者の言葉の言いなり、心の逃げ道として起きてしまうのです。

自分を見失った状態とも言い換えられるのですが、自分がどんな心を持っているのか?何をやり、どんな事を考えるのかは、決めつける事が出来ないし、本来出来る訳が無いのです。

だからこそ、誰かに「自分」というものを作らせてはいけないのです。

もしそうなれば、あなた自身の主導権を明け渡してしまう事になるからです。

昔から自分探し、探求がテーマとして何度も、また色々な人達によっても取り上げられているの事からも解る事です。

 

「経験や学習によって脳の、人としての機能が備わっていきます」と書きましたが、「人として」とは、倫理観や道徳観、やっていい事と悪い事といった、人との繋がりの中で重要な役割を担っている機能の事も含みます。

動物脳といわれる古い脳をコントロールする事で、社会というコミュニケーションを円滑にしている訳ですが、「心」という観点から考えて見ましょう。

まず自分という存在を決めつける事が出来ないなら、自分という定義を導き出す事は不可能に近い事となります。

それは心を取り囲んでいる自分という定義、例えば友達や職場の人から見られている自分や、うまく物事が進まない時、自信を失くした時に顔を出す内からの自己否定、逆にうぬぼれや見下しといった優越感の様なもの等、色々なものが自分を作り出しているという大きな勘違いを「心」から取り払っていくと、何も無い事に気付くはずです。

そう「自分て何?」と。

kenpa.blue

魂とは?霊とは?という記事で書きましたが「心」とは「魂」の入れ物の事です。

入れ物と同時に感覚なのです。

感覚を「こうだ!」と決めつける事は出来ません。

何故なら常に流動しているからです。

心の中に取り込む「魂」という情報を選別するのも自分でしか出来ません。

詰め込みすぎてもダメですし、大切な「想い」を入れない事も「心」という感覚が鈍ってしまいます。

誰かに優しくしてもらった事が忘れられなかったりするというのは、優しさを受け取れる感覚をちゃんと持っているという事です。

もし、その優しさが当たり前の事として受け取っていたなら、心という感覚を無駄にしているのと同じ事です。

そして「想い」とは人それぞれの先祖の言葉や思い出かもしれませんし、亡くなった方達の言葉や先輩、先生や友人の助言かもしれません。

つまり、「自分」という概念は、流動していて、無意識下に蓄えられた情報(想いや言葉、映像や音、匂い等)とのやり取りで決まっていくものなのです。

いずれにせよ、「自分は、こうだ!」と決めつける事はムリであるし、決めつけてしまうと可能性まで失ってしまうのです。

 

考える時には、日本人であれば日本語を使って思考します。

その日本語の語彙力(その人がもっている単語の知識と、それを使いこなす能力「デジタル大辞泉」)がどのくらいあるかによって、大きく変わっていきます。

単語を短くしたり、表現の仕方を一律にしたりする様なSNS等で使われる短絡な言葉ばかりに接していると、自分の思考も自分の意志を伝える事も表現の幅が狭くなってしまいます。

「ヤバい」「エモい」に伝えたかった心の深い想いが表現できるのでしょうか?

勿論、仲間同士のコミュニケーションツールとしてはいいでしょうが、思考まで貧弱になってしまっては意味がありません。

流行りや言葉の変化はいつの時代でもあり、その事が悪いとは思いませんが、言葉の貧困は思わぬ落とし穴があります。

例えば嫌いな相手に対し、その気も無いのに「殺すぞ!」と発してしまうと、その先に続く言葉は、想像すればわかる通り、「やってみろよ」というような逃げ道が無い言葉で返される事になってしまいます。

もし集団であれば、言葉が引き金となりエスカレートしてしまいますし、実際そのような事でニュースになった死傷事件も沢山あります。

「我を忘れてしまった」「本気じゃなかった」「脅すつもりだった」と言い訳しても取り返しのつかない事になってしまうのです。

煽り運転もその危険性がありますから何か言われても相手にせず、すぐ警察に連絡して下さい。

心は感覚であり魂の入れ物であるということは、多くの言葉や思考という引き出しを持ち、意識下においての自分に問いかけや、警告を与えてくれるものなのです。

同時に、上記の様な様々なアイデアや気付きを導いてくれるものでもあるのです。

言葉の貧困や語彙力の無さが引き出しの数と比例し、意識下の自分にブレーキをかけたり、短絡に判断してしまう思考を一旦静めたりする事が出来無くなるのです。

 

今の時代は、ある意味で生きにくい世の中になってしまいました。

欧米に見られる「正義と悪」「天国と地獄」「賢いと馬鹿」という様にハッキリ線引きしていなかったグラデーションの考え方の日本が、常に境界線を求めるようになり、線引きをする人達が増えているのです。

そして、多数決の様に多い考え方の方へ引き込もうとしまうのです。

経済力や家庭環境、学校に至るまで、その様な傾向がみられるようになってしまいました。

勿論、そのような事は昔からありましたが、個々が世間に対し発信する情報量が桁違いに多くなったのも影響しているのでしょう。

経済、社会的弱者や成長の遅い人達を、簡単に切り捨てる様な線引きを平気でやってしまう人達に加え、政治家から公務員、教育委員会、はては町内会やPTA等などと保身ばかりに動く一部の人達の存在が、「自分」という存在を「かけがえのないもの」から「どうでも良い存在」にと思わせてしまう世の中にしています。

誰でも簡単に情報を発信できる裏で、裏付けも無く信じて知らず知らずのうちに、加害者に加担してしまったり、惑わすような情報や言葉の切り取りで攻撃したりするような事も日常の様に起きているのが現実なのです。

「自分」という位置づけは、時や場所、年齢や社会的な立場の中、色々な方向に行ったり来たりするという前提が崩れてしまっているのです。

いわゆる決めつけであり、時に弱者と呼んだり、未熟だ、無能だと言わせたりして自分達の手中に納めておきたいのです。

「自分て何?」それは可能性です。

年齢や社会的な地位など全く関係の無い事です。

可能性に限界も期限も有りません。

そして、その可能性があなた自身の言葉として次の世代に受け継がれていくのです。

言い方を変えれば「魂」と言ってもいいかもしれません。

可能性は、想像力と謙虚さが必ず伴います。

その為には「心」すなわち「感覚」を磨いて、当たり前を鵜呑みにしないで、疑問や好奇心を大切にする事です。

容姿や肩書、民族といった色眼鏡でモノを見ない、心の目で見られる自分を作っていく事です。

この事は他人が関係する事では無く、自分の問題であり、言い換えれば主導権を握っていて、比べる事でも無く他人に左右される事では無いという事です。

誰でも心にぽっかりと穴が開く時や、辛い思いをして自分の存在を消してしまいたいとか、より所を求めて何かの占いや、今問題になっている宗教に救いを求めたりしてしまう事もあるかもしれません。

残念ながら世の中は、弱みに付け込む悪い人が沢山います。

言葉や同調に飢えている時、情緒不安定な時、孤立感を感じている時ならなおさら警戒心や一歩下がって見る様な行動がとれなくなってしまいます。

優しさや痛みを解っている人ほど苦しめられる事も多いのです。

ただ、その事が外向き、家族も含めて他人に対しての向き合い方ばかりに気を取られてはいないでしょうか?

本当の優しさは自分に厳しく律する勇気から生まれます。

つまり、何度も書いている様に自分を「こんな人間だ」と決めつけない事と、生きる事自体が苦しみであるという現実を受け入れる事。

幸せは、感じる力が無いと見失ってしまう事。

そして軸になっているあなた自身が培ってきた、もしくは備わった「人間らしさ」を持ち続ける勇気です。

他人がどうあれ、冷たい世間であっても変えてはいけない自分に対する約束です。

以前の記事「対人関係に悩まない(2)」で載せた詩ですが、もう一度記します。

 

心優しい人間でありたければ

ずっと優しい人間でいればいい

誰も見ていなくても

道端のゴミを拾う人間でいればいい

悪口を言わないと決めたなら

ずっと悪口を言わない人間でいればいい

仕事に手を抜かないと決めれば

その通りやり抜けばいい

誰が見ていようといまいと

あんたは、あなたでいい

 

人生の終わりまで「自分」を探しながら生きていくのです。

だからその探求をやめてはいけません。

楽しいと思える時間が見つかるかもしれませんし、夢中になれる仕事と出会えるかも知れません。

師と仰げるような人や親友との出会いがあるかもしれません。

また逆もしかりです。

でも「生きる事は苦である」というベースで考えるわけですから、それ以下になる事は無いのです。

宝くじと同じで、夢を見ていても買わないと当たりません。

諦める事はいつでも出来ます。が、それは生きてはいても、死んでしまった事と同じです。

リスクだらけが「生きる」という事です。

その為に軸となるもの「人間らしさ」を持ち続けるのです。

始めから答えなど有りません。

自分て何?「可能性」だからです。

 

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