最近、知り合いの訃報を聞きました。
彼は、私の妻と親しくして下さり、息子を川辺でのバーベキューや色々な所に連れ出してくれたりと、私自身お会いする事は無かったのですが、とてもお世話になった方でした。
2年ほど前に癌が見つかり既に転移しており、その時点でステージ4という辛い宣告をされ、以降手術や、放射線、辛い抗がん剤治療を続けながらも、妻に毎日SNSで冗談を言う様な優しい人柄の人でしたが、最近SNSの返事も無く心配していたところでの訃報でした。
私と同年代であり孫も含めて家族もいて、まだまだ働く事を望んでいた彼の事を思うと、さぞかし無念だったと思います。
それは、辛く苦しいのにも関わらず諦めずに治療を続けていた事からも想像できます。
心優しい人が、人生100年時代の中、若くして先立つのは不合理で、不公平と言わざるを得ませんが、彼がやってきた事は私達家族の幸せな時間として記憶に刻まれています。
私達の生活の中で彼は幸せの時間を見つけてくれた人であり、受け取った私達の心の中で生まれた誰かにも同じような楽しい想いをして欲しいという、幸せの種をまいてくれたのです。
そう、苦の中に潜んでいる幸せのおすそ分けと言ってもいいかもしれません。
それは、一人の人間の持つ大きな力の表れを示すもので、誰にでもその可能性を持っているものです。
いつ何が起きるか本当に解らないのが現実です。
病気や事故、災害、もしかしたら戦争が起きるかもしれません。
ニュースで見るそのような事も、別世界の話では無いのに、誰もが「自分には起きない」と考えているのです。
最新の家電に囲まれて、優越感に浸っていても病気で入院してしまえば意味がありません。
もし災害が起きれば、たちまちゴミとなってしまう可能性だってあるのです。
先祖や自身の死後の事を考え立派なお墓を立てても、生きている時間に幸せを感じる事が無ければ、何の為に生れたのか解らなくなってしまいますし、何よりご先祖様が喜ぶはずがありません。
いくつもの時計や靴やカバンを持っていても、体は一つで、手や足はそれぞれ二本しか無いのです。
勿論、全てが悪いとは書いていません。
自分に対する御褒美かもしれませんし、頑張った結果得られたものでもあるからです。
けれども、それは所有した時こそ満足感や喜びがあるとしても、ずっと続く訳では無いのです。
景色の良いタワーマンションでも、何日か住めば当たり前の景色にになるだけで、後は来客者に対しての優越感ぐらいでしょうか。
もう一つ、比較するという誰もがやる事ですが、「歳の割には若く見える」「ルックスに自信がある」「仕事が早い」これらは比較対象がいないと感じる事が出来ない幸せ感です。
もし、それが幸せというなら、本人がそう思うならそれはそれで良いとは思いますし、生きる事の楽しみになっているのも事実で全てが悪い事では無いでしょう。
が、前述した幸せ感はいつまでも続くものでは無く、対象となるものが変わる様な環境の変化や逆にそれが当たり前になってしまった時、心の状態ですぐ失ってしまうモノで、いわば人工的に作られた幸せ感とも言えます。
前回「欲」や「比較」が更に苦を作り出す原因になっていると書きました。
ただ、人間は欲や比較がある事で希望や夢を叶えたりする一面もあります。
欲を全部否定しろとは書いていません。
例えば病気などで使われる薬は、当たり前ですが病気などを治す為に使われます。
ただ、薬の効き目がずっと続くと生命まで危ぶむ様な状態になってしまいますが、肝臓が薬を無害にしてくれるからこそ、薬を使えるのです。
薬は毒と同じだという事です。
そう欲や比較も同じように両面があって、使い方を誤れば毒になってしまうのです。
処方箋の役割になるのが、幸せの気付きという事です。
当たり前ですが、幸せはお金では買えません。
とは言っても私ですら、目の前に大金があると幸せな気分になるでしょうし、借金の返済や、やりたい事が実現できると心が軽くなるでしょう。
「幸せはお金では買えない」それは誰でもいつか気が付く事ですが、現実はお金が無いとどうしようもない世の中で、自給自足でもしない限り必ず必要なものであり、綺麗ごとでは生きていけないのも確かです。
でもそれは幸せの為と勘違いしているだけかもしれないのです。
幸せと幸せ感は似ているようで、中身は全然違うものです。
もしお金で衣食住が豊かになったとしても、老後の心配が無くなったとしても比較によって得られた幸せ感の満足できる時間は続かず、持ち続ける事が目的になってしまう事と更に上を目指そうとする欲でキリがないのです。
執着心や比較、所有欲は、逆に囲い込む感情が生まれ、手放す事や無くなる事への恐れを生み出していきます。
すなわち「幸せ感」は現状の持続を前提としている為、肝心の幸せを感じる事より、持続が目的となってしまう所に大きな勘違いが生じてしまうのです。
もう一つ考えて欲しい事があります。
死後に地獄も天国もありません。
宗教などが死の先にある世界観を作り出しているのは、戒めであり生きている者に対してのものです。
ましてお金によって左右されるような事はありえないのです。
どんなに献金しても、立派な仏壇やお墓を建てても、心が静まる事は無いでしょう。
何故なら生きている事を忘れ、死んでいるのと同じだからです。
そう、生きている時こそ天国と地獄があり、それと向き合わず死後にそのツケを回しているという、滑稽な事をやっているのです。
あなたに幸せを感じられる時間を味わってもらう事が、何より死者達が望んでいる事であり、いずれあなたもそれを受け継ぐ時「死」が来るのです。
ウイキペディア引用(さとるる - 投稿者自身による著作物)
池袋での高齢者運転暴走事故で、奥様とお子さんを亡くされた被害者の男性の方が判決後に今後の上告の質問に対する中でのご発言で、相手に事実を認めてもらいたい事と出来るならこれ以上争いをしたくないという心情をお話しされ
「争い続ける私というのは二人(亡くなった奥様とお子さん)が愛した私では無いから」とおっしゃられていました。(注)
それは、愛し愛されていた家族であったからこその言葉で、亡くなった二人の想い、望みが遺族の方の心の中でちゃんと生きていらっしゃるからこその言葉だと思うのです。
永遠の命と言ってもいいかもしれません。
「幸せ」は内なる人間らしさが生み出す有限である事の気付きから感じるものです。
幸せは作れるモノでも無く、格差を生み出したり計れたり、まして比較し数を競うモノでもありません。
それは誰かのマネでも無く自身でしか感じられない奇跡の瞬間なのです。
心に流れる暖かい涙なのです。
子供達の笑顔や、一生懸命に生きようとしているその姿を見ている時の様に。
すなわち苦の中でしか生まれ出てこない、刹那と人間らしさが作り出す涙です。
心の隅々まで染み渡り、人生の瞬間を潤してくれるあなたの涙なのです。
これ以上も以下もありません。
「生」瞬間が全てなのです。
生きている中で幸せは沢山隠れています。
感じ取れるのは自身だけです。
雨が降っていると「うっとうしい」と思う事も出来ますが「緑が喜んでいるかも」とも取れます。
雨が降らないと虹を見る事も出来ません。
満員電車に揺られ、溜まった仕事の事を嫌々考えていたとしても、当たり前のように帰る家がある事だって幸せな事です。
苦を生み出す「想像力」の別の一面である賜物とも言えるでしょう。
そう考えて見ると、苦もまた幸せの元になるのです。
もう一つ大切な事があります。
誰でも歳をとりますが、その積み重ねで出てくるあなた自身の言葉は、どんな言葉でしょうか?
その経験からくる優しさや思いやりに溢れている言葉だとしたら、苦もまた報われるでしょう。
誰かをあなたの言葉で幸せにしてあげられると、何より自身が幸せに感じるからです。
共感とか共鳴という人間が持っている素晴らしい能力だからです。
発する言葉はウソをつきませんし、ウソだって事は解るものです。
何故ならあなた自身が気付かずとも無意識の心持を表すからです。
心に耳を傾ければ自身が一番分かっているはずです。
尊敬できる人達の言葉には重みと優しさに溢れています。
耳も相手の話をよく聞く為に、そして音楽や自然の移ろいの音を聞く為に使う様にして欲しいのです。
目は、嫌なものを見る為だけではありません。
大切な人の瞬間を記憶し、芸術や本、豊かな大きな自然を見る為の時間に使って下さい。
普段の生活の中では、なかなか気付きにくい、新たな発見や流れが変わる事だってあるのです。
ヘッドフォンをし、スマートフォンを見ながら下を向いて歩いている時、上を見れば空は青く深く、もしくは星々が輝いて、あなたが存在している事の意味を全て教えてくれています。
そして何より人との出会いが大切な要素でしょう。
どんな素敵な人と出会う事になっても、あなたに準備が出来ていなければその機会を逃してしまう事になります。
準備とは、賢いとか付き合いが上手い、話が面白いというような事では無く、まず自分の考えを素直に話せる状態の事です。
その為に話術テクニックの勉強をしろとか磨け、本を沢山読めとは言っていません。
自分の言葉で話すという事です。
誰かの受け売りをしたり、核心に至るまでお茶を濁したり、虚栄心を張るような事をしない事です。
私の妻は何度も書いていますがフィリピン人、すなわち外国人です。
彼女はパートで働いていますが、長年日本にいると言ってもまだまだ日本語、特にニュースで流れる様な難しい言葉は理解できていない様ですし、難しい表現の日本語を話す事は出来ませんが、仕事仲間や友人達からよく相談されます。
私が日本人なのでよく解るのですが、同じ日本人だと何処かで気構えてしまい、相手と釣り合っているのか?とか馬鹿にされるかも?こんな話をして、相手にあれこれ知られるのは嫌と思いがちですが、外国人相手だと全てとは言えませんが不思議とそんな気持ちにはなりません。
妻の例でいうと、彼女は自分をさらけ出す事に抵抗感が無いようで、遠回しに遠慮がちに話される事を嫌います。
言葉が上手く見つけられない時には必死で迂回して話します。
皆がみんな、その様な人格になれるわけではありませんが、彼女を傍で見ている私には大変参考になる存在です。
人との関りは、面倒である側面を持ってはいますが、人生の中では重要な要素である事には変わりありません。
だからこそ、誰かの心の片隅にでも残る様な人間でありたいものです。
その心構えが知らぬ間に幸せを呼び寄せるのかもしれません。
相手の心を変えようとする事より、自身と向き合い、常に問い続ける事で良い連鎖が生まれてきます。
普段当たり前と思っているだけで、実はその当たり前の中に幸せが隠れている事の方が多いのです。
ただ何か事が起きてからでないと気付かないもので、その時は、残念ながら後悔ばかりになってしまうでしょう。
そう、時間は遡る事も止める事も出来ない私達に与えられた、かけがえのない贈り物だからです。
有限、すなわち必ず死に、不完全であるからこそ幸せが輝くのです。
それは手に持つ事も、所有する事も出来ない一瞬の涙です。
このブログ「心は何処にあるの?」でも書きましたが、心は感覚なのです。
偏った見方や偏見も、そして不幸感も感覚が鈍くなっているせいです。
幸せを見逃さない様に、心を磨いておきましょう。
私達は何の為に生れたのか?
心配の種を撒く為でしょうか?
欲を実現させる為だけでしょうか?
誰かを傷つけ、優越感を得る為でしょうか?
言い訳ばかり、妥協しながら生きる為でしょうか?
それも、短い大切な時間を使ってでもやらなければいけない事でしょうか?
私の妻がいつも言っている言葉、
『レット イット ビー「Let it be」』『ケセラ セラ「Que Será, Será」』
彼女のその言葉に、私は何度も助けられました。
苦しい時にはまず「あるがまま」「何とかなる」と自分に言い聞かせましょう。
一呼吸おいて、そして大きく深呼吸してみて下さい。
小さくとも輝いている「幸せ」を感じる為に。
そして、幸せの涙が流れますように。
(注)切り取りの印象になってしまう可能性もありますから、ユーチューブで全編も見られますので、「池袋プリウス暴走事故裁判後で被害者遺族の夫の言葉」で検索し確認して下さい。
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