なぜ今の人類の進化は個々に自我という高度な意識を持たせ、「心」という概念を作り出したのか?
そして「心」が生み出す様々な雑念や煩悩(仏教でいう所の自分自身を苦しめる心の事)を持つ羽目になったのか?
アダムが蛇にそそのかされ果実を食べたから?
勿論それで納得できる事ではありません。
何度もこのブログで書いている様に、人生は「苦」であるという事が前提になっています。
他の動物の思考は本能による行動が主になりますが、人間は本能だけで行動している訳ではありません。
誕生以来、敵や狩りをする時に感情を高ぶらせたり、恐怖や驚きが結果身を守る事になったりと、衣食住や集団生活する上での問題に対処する為に必要不可欠な「怒り」「嫌悪」「恐怖」「悲しみ」「驚き」という原始的な感情が生まれました。
個人という概念が生まれ、その表情や仕草で他人の心の動きを図る能力も発達していきました。
そして前頭葉が発達して今の私達の様に複雑な感情や思考が出来る様になっていくのですが、備わった能力のお陰で、言葉や文字によって過去の言葉や教えを学べ、後世に残せる様になりました。
これは自ら経験することなく、失敗や危険、その他衣食住に関する知識を得る事が出来るという事で、代々子孫に受け継がれ、より豊かに暮らせるようになっていったのです。
人間の一つの能力として「想像力」があります。
経験する前にあらかじめ可能性を考慮出来る力とも言えるかもしれません。
その様な能力を持った事が「苦」の始まりにもなったのです。
何故なら、本能だけであればその場だけの対応だけで終わるのですが、過去の出来事や未来に起きるであろう予測が結局、選択肢を増やす事になってしまったのです。
加えて価値観が生まれ、不安材料も同時に増えてしまったのです。
例えば、将来の為にお金を貯める事や、老後の資金調達や健康に気を付けたりと、仕方がありませんが心配ばかりしてしまうのです。
特に歳を重ねれば重ねるほど現実味を帯び、その影響は大きくなり備えをするといった想像力による「もしかしたら?」という心配の種がどんどん増えていきます。
また実生活でも快適性を必要以上に求めたり、良い暮らしというTVを始めとする媒体からの押し付けに踊らされて必要以上に買い込み、押し入れで眠ったままって事は、よくある話です。
それと並行して権力や優劣、序列が社会や宗教の中に生れ、富を蓄えたり自己の野望を満たしたりする者が現れ、一方で搾取される者との開きも大きくなっていきました。
欲や権力という力を一度手にしたものは、それを手放そうとはしません。
権威主義や独裁者というマクロだけの話ではなく、普段の日常の中でも起きている事です。
会社や学校、組織など、人が集まると起きてしまう事です。
持った力と引き換えに守る為の心配事が増え「苦」となるのです。
自分を大きく見せたり、知識があると装ったりと何処の社会にもそんな人達はいます。
彼らは、それを守る為に自ら必要のないものを背負い込んで「苦」を増やしているのです。
結果、その責任を誰かに押し付ける事で身を守ろうとしていますが、言い方を変えると、可愛そうな人達です。
自分に対し「苦」をさらに増やしているからです。
結局、私達は手にするものが多くなり、その欲求を満たす為更に手を出す事の繰り返しのループにハマってしまったのです。
これが「苦」の元になってしまったのです。
勿論、「死」の概念も単純に朽ちり、塵となるという当たり前の考え方から、生きる事は死を伴うもので、死という得体のしれないモノが最後に必ずやってくるという恐れと、天国や地獄などといった死後の世界まで持ち込んだ訳ですから、「苦」はますます増えてしまったのです。
そして輪をかけたのが「悪魔」「サタン」「閻魔」という存在です。
すなわち自己に起因するもが悪魔たちによるものだというすり替えの論理です。
明確な敵の出現により、呪われ、血を汚され、代々に引き継がれていくという恐れや不安が、天国や地獄という概念と結びつき、益々「苦」を呼び寄せたのです。
そうやって人間は「苦」をせっせと呼び寄せ、積み上げているとも言えるでしょう。
(誤解のない様に書きますが、宗教自体を否定している訳ではありません)
では何故そこまでしても人間は「苦」の要因を作り続けているのか?
それは、「有限」だからです。
私達が無限と感じられる宇宙に惹かれる様に、また魂や永遠の命、輪廻転生などの言葉に惹かれるのは、有限という、ある一定期間でしか存在を許されていないところから始まっているのです。
だから、日々の生活を快適にしようとしたり、子々孫々に財産を残す為に、人は動くのです。
自然界においても、全て有限であり、無限なものはありません。
すなわち限られた時間の中、限られた資源を追い求めているからです。
このブログでも書きましたが、時間の概念は人間が誕生してからのもので、それまでは無かったのです。
一秒という世界すら、自然界においては存在しませんでした。
時間という概念が生まれた時点から、時間に追われ時間の無さに嘆く羽目に陥ったのです。
他の生物にとって時間は何も意味をなさないものです。
与えられた生と子孫を残し、死を迎えるだけで余計なものを背負い込んではいません。
人間から見ると弱肉強食の世界にいる彼らに、自らを当てはめ「可哀そう」「命って大切」「生きる事って大変だ」と見えているだけで、彼ら生物からするとは淡々と物事が進んでいるだけに過ぎません。
だからと言って、私達人間に当てはめる事も納得できる訳でも無く、受け入れる事も出来ないでしょう。
もう一つの要因が「不完全」なのです。
何をもって「完全」と言えるかは、解釈の違いもあり難しい所でもありますが、生物としてほぼ完ぺきなのはゴキブリで、彼らのあのグロテスクな形は、遥か昔から変わらず、いわば究極の体を持つ生物です。
勿論エイリアンとの遭遇があり、人間が究極の形になるかどうかは解らないですが…。
余談になりなしたが「不完全」という事は、心身共に欠陥があるという事です。
ある人は神が完全なモノと解釈していますし、悟った者として仏陀を挙げる人もいるでしょう。
また「死」が有るのか無いのかによっても観念が変わってくる事で一概には言えませんが、不完全であるという事は、完全に近づきたいという欲求があり、誰もが完璧になれない事は解っていますが、それに近づく為様々な欲求が生まれます。
「若く見られたい」「トップに立ちたい」「支配したい」「皆と同じがいい」と人それぞれですが、不完全であるという潜在意識がその様な欲求を引き起こしています。
巷にあふれるハウツー本でも「完璧になる必要は無い」とか「完璧な人はいない」「完璧主義はダメ」といったテーマをよく取り扱っている事からも解ります。
価値も欲もそうやって「苦」を生み出しているのです。
一般的に仕事や勉強、生活の中で色々な問題が起き、それを苦痛と感じる事も「苦」の一つになるでしょう。
持って生まれた「苦」とは違い厄介なモノで、苦の先に達成するものや楽しい事があると、その様な苦も乗り越えやすくなりますが、その先の目標が無い、見えてこない場合は精神的にも辛い時間を過さなくてならなくなります。
生活費や教育費といった避けられないお金の問題も頭を悩ます事でしょう。
これもまた、背負い込む事になるのですが、残念ながら「何とかなる」という考えには中々至りません。
ただ実際には、日本国籍を持っていれば制度を利用して選択肢は限られ、最低限ではありますが、何とかなるのは、なるのですが。
そうは言っても、人間は今までの生活水準を下げる事は嫌ですし、勇気がいります。
「心」はそう考えて見ると厄介なものです。
まず、生きる事の前提として苦である事を今一度心に留めておいて欲しいのです。
そしてその苦は自ら作り出している事が多いという事。
そして価値観を変えない限り、何も変わらないという事。
欲は際限なく襲って来るもので、より欲求を満たす為に刺激が強いものにと手を伸ばしてしまうという事。
心は流動して一時もジッとはしてはいなく、欲を制御する事は難しくて手に入れたモノは手放さない、手放したく無いという事。
自分はこんな人間だと決めつけてしまいがちな事。
当たり前ですが、死をもって全てが終わり、何も持っては行けずただ塵となるだけです。
「楽は苦の元、苦は楽の元」とよく言われますが、実際には「楽は苦の中、苦は楽伴わず」と言えるかもしれません。
では、「苦」をなるべく遠ざけたいと考えると、出家でもしない限りはムリと考えるかもしれません。
ならば、どうせ初めから苦の中にいるのですから、幸せを見い出す事の方が賢明かもしれません。
そして自ら生み出す価値や欲は反面、生きる希望や力になる側面を持っています。
「努力は報われる」「夢を持ち続けろ」という様な言葉の裏には、必ず価値や欲があるからです。
一方で苦を生み、一方で生きる原動力にもなっている私達。
「苦」に意味があり、そこから何を得るか?
そんな中で、垣間見せる「幸せ」にこそヒントがあります。
生きる事は「苦」である(2)に続く
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