ブログを始めた頃、どうしてもTwitterやFacebookとの連携をしたいと思い、色々挑戦しました。
ブログもそうでしたが、カタカナ言葉には四苦八苦しました。
リツイート、シェア、プロフ、タイムライン、リポスト……。
パソコンはある程度操作できますが、知らなかったカタカナ英語に苦戦。
私にとっては、かなりハードルが高く、間違えて押してしまったり、文字数の制限も知らずに送れなかったりと失敗だらけでした。
昔ポケットベル、通称ポケベル(ポケベルの呼び出し音が鳴り番号が表示されると、相手に公衆電話等から電話を掛ける)が世に出て、ずいぶん面倒くさくて、監視されているようで嫌で仕方なかったものです。
次に進化系の番号を送れる機能が付き、例えば「14106」は「愛してる」となり「1052167」は「何処にいるの」という意味になるように、頭をひねりながら、番号を押し、解読していました。
そしてガラケー携帯でメールが送れるようになり、便利になったもんだと思いました。
ちょうどその頃、私はフィリピンパブにハマって入りびたりになっていました。
そのうち、常連のお客さんと仲良くなり、どんどん輪が広がっていきました。
ある日その内の一人に「フィリピンパブ関連のボードがあるから、参加しない?」と言われ、当時は○○板と言われていた書き込みのサイトに参加しました。
内容は、「どこそこのフィリピンパブは、可愛い子がいる」とか「あの子には彼氏ができてる」等、情報交換や、たわいのない内容で、時には「上手い文章を書くもんだ」「よくそんな毎日書く時間があるなぁ」と感心したりと、覗いてはいましたが、そのうち、参加する人が増えるにつれ、陰湿な書き込みや悪口、攻撃する内容が増え、見るのをやめてしまいました。
私自身は、投稿していませんでしたが、匿名を利用した数々の心無い投稿に嫌になってしまったのです。
当時の書き込みボードは、パソコンが主で、通信費は高く、通信速度もはるかに遅い時代でしたので、アクセスする人も余り多くなかったのですが、ウインドウ95やMACの登場で、若者も含め一機に広がったとともに、色々な書き込みボード、板、サイトが増え、参加する人も増えていきました。
30年前からは、技術は格段の進化を遂げたのですが、残念ながら人間は全然、精神面では変わってはいません。
冒頭のSNSで、久しぶりに参加した私ですが、相変わらず揚げ足を取ったり、切り取りや、言葉尻をだけで批判したりと、残念な状態が続いていたのです。
同じような趣味や嗜好の集まりであるグループ内でも起きている現実。
素敵な投稿をしている方が、別の投稿者に辛辣(しんらつ)な投稿をしたりと、SNSの顔が見えない世界では、どうしても避けられない事なのでしょう。
そして、その様な投稿に対し、何か言ってやりたい気持ちになる自分がいる事にも、がっかりしてしまいました。
反論したくなってしまい文字を打ち込みながら「何やってんだろう」と。
もう一つ、SNSをやって気が付いたのは、常に頭の中にSNSの事を気に掛ける自分の存在です。
SNS等をやっていなかった時は、ニュースを見たり、調べ物をしたり、家族に関するデータ入力だけで、頻繁にパソコンやスマートフォンを見る事は無かったのでしたが、何かに動かされている、せかされている様な、不快な感覚がつきまとっているのでした。
加えて、端末機器が傍に無い時や、持って行くのを忘れた時は落ち着かない自分がいて「依存症だな、これは。」と考え込んだり。
イヤならやめればいいし、見なくても良い選択がある、そう思っていた私が、そのワナにハマってしまいました。
人間は、どうやら他人の発言がどうしても気になる動物で、しかも一度確立した考え方や、信念のようなものを、簡単には手放さないようです。
そして、自分に同調しないものを敵とみなし、攻撃したくなるようです。
他人が考えている事を知り、間違った考えを正そうとしたいという欲求と、自我を守り、同調を求めるという矛盾が、様々な問題を起しているのでしょう。
そして、それが手軽にできるようになった事も、世の中をギスギスさせる要因になっています。
情報が飛び交うようになって、いかにその情報に信ぴょう性があるか?裏を取っているのか?を精査し、
出来る限り調べてから発信する慎重さがいかに大切か、改めて考えてしまいました。
映像技術が格段に進歩して、フェイク、偽の映像を簡単に作成できるようになり、結果騙され、詐欺にあう事や嘘を信じ込んでしまう例も数多くあります。
特に命に関わるような、誹謗中傷は必ず自分に跳ね返ってきます。
つい最近もTVのリポーターが容疑者の画像が流れている時に、「少し、にやけるているように見えます」とコメントしていましたが、そもそも「にやける」の使い方が間違っているのと、ふてぶてしいという印象付けの一方的な報道に、「よくこんな事がマスコミの一員としてできるなぁ」と思ったのです。
「にやける」はふてぶてしいという意味では無く。「なよなよとしている」様(さま)を表している時に使う言葉です。
私が見る限り、被疑者はそんな顔をしていませんでしたし、視聴者、受け手に委ねる事でいいと思うのです。
そして、別の容疑者報道では、昔卒業時に書いてであろう将来の夢の話や、同級生の話を持ち出し、悪事をする可能性がすでにあった様な情報操作とも受け取れる様な事をしていますが、人間は変わっていくもので、過去の事をほじくり返す事がマスコミの仕事でしょうか?
タレントや俳優の一部の人達の過去、例えば「昔暴走族の総長だった」と写真等で流し、これだけ真面目になって活躍していると報じている事はどう考えれば良いのでしょうか?
過ぎ去った事とは言え、その時代に迷惑をかけられた人への配慮はしなくてもいいのでしょうか?
マスコミやTVのこの矛盾を報道側はどう答えるのか知りたいものです。
また被疑者が成年に達しているのにも関わらず、親を追いかけまわしたり、家まで出向いてコメントを求めたりと、そんな時間があればもっと違う視点で深堀するのがマスコミの仕事であるはずです。
誰でも被害者に、加害者になる可能性があります。
まして容疑者の段階では、冤罪の可能性もあるかもしれないのです。
考慮し慎重に報道すべきなのです。
正しく裏打ちを取り、事実を伝える人ばかりではないという事を頭に入れておかなくてはいけません。
マスコミの劣化は、権力にねじ伏せられる事を意味します。
と同時にいらぬ先入観を人々に持たせ、攻撃の、うっぷんの対象にでっち上げてしまうのです。
また追い打ちをかける様にSNSで犯人探しをし、顔写真までSNS上で上げていたりと、なぜそこまでするのか理解に苦しみます。
同姓同名等で間違った情報を上げて、被害を受けたケースも何度もありました。
メディアが真実を伝えているかというと、残念ながらNOです。
メディアが正義を行っているか?YESです。
何故なら都合の良い「正義」だからです。
人は犯人探しが大好きな動物になってしまいました。
同時に、詮索する事を生きがいと思う人達が増えてきました。
昔からゴシップネタが好きな人は沢山いましたが、SNSによって桁違いに接する機会が増えてしまったのです。
歴史的にも私達は間違いを犯し、苦い経験をしているのにも関わらずにです。
目に見えない、細菌やウイルスの正体が解らなかった頃、標的にされたユダヤ人、修道士、外国人、巡礼者、ハンセン病患者。
このブログ記事「情報発信の危うさ」でも書きましたが、
この国が、うまくいかないのは〇〇国のせいでだからお前たちが出ていけというヘイト
違った考えや容姿だけでイジメて排除しようとする。
挙句の果てに遅刻したのも、雨に濡れたのも誰かのせいなのだと。
そして悪霊や悪魔まで作り出し、責任を擦り付けるのです。
人は正義感を振り回したがる動物
正義の名の下、自分の判断で裁きたがる
白黒はっきりさせないと、気が済まない
相手を打ちのめすまで、攻撃する
正しいのは自分であり、人の意見を聞き入れない
同調する者を呼び込もうとする
煽(あお)られると、ますます過激になる
さらに宗教まで持ち出す
いつも誰かを裁いている
己という名の法律で
根拠や弁明の余地もなく
有罪と声を荒げ読み上げる
次から次へと罪人を
作り出しては勝ち誇る
考えてみるがいい
裁かれているのは誰なのか
真の裁きの法廷に
己の姿がそこにある事を
行動を、悪魔や天使の仕業にすり替えてはいけないのです。
この世に悪魔も天使もいない、人の心の中にいるからです。
正義と悪は、そんな簡単に決められるものでも無く、境界線すらないのです。
心の中には誰でも、人には言えない事や忘れてしまいたい事があり、時に天使の様に、時に悪魔の様にとブレながら生きています。
ただ、人間らしさが悪魔の様な考えを否定し、制御しているだけに過ぎません。
もしかした何かのキッカケが引き金となり、悪魔が顔を出す可能性は誰にもあるのです。
貧困、差別、自虐、虐待、宗教、病気、生活環境など、そして戦争。
その引き金を引く原因は思っている以上に多く、増え続けているのです。
そしてメディアは役割を忘れ、逆に煽(あお)る様な存在になりつつある事を忘れてはいけないのです。
誰でも情報発信できる今、引き金を引かせない、キッカケを作らない発信を心がける事は、何より自らが加害者になったり、後悔にさいなまれたりする事をしなくて済むからです。
次回「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割」に続く