生きていく上で必要な人としての倫理を周りの大人達が教えながら、子供達は大きくなっていくものだが、倫理=ルールでは無い。
ルールは時代によって、社会情勢によって、はたまた欲やコントロールの為に使われ変わっていくもので、不変なものでは無い。
最近の事だが、高校生の息子がスマートフォンを屋外(学校内)で見ていたらしい。
高校では、緊急連絡用としての所持は認めてはいるが、それ以外の使用は禁止されている。
校則=ルールである。
帰って来るなり息子が「先生から電話有るけどお願いします」と言われ、どうやら先生に見つかり注意され反省文を書かされたとの事だった。
「まさかあんな所から先生が出てくるとは思わなかった」そして「学校行事で皆忙しい時だったので、処分も軽くて良かった」「普通だったら部活の人まで連帯責任で謹慎処分される可能性があった」と私に話した。
勿論、校則を破る事はダメなので息子に注意はしたが、何かがおかしいと、引っかかるものが私の中にあった。
夜9時頃、担任の先生から電話がかかってきて、「今回は口頭での注意ですが、次回は親御さんに学校に来てもらう事になります」
担任は、まだ若く今回が初めてのクラスの担任を任された先生で、勿論言葉を選びながら話されていた。
私「ルールを破った事はダメで注意はしておきました。夜分お手数をおかけしました」
私「ところで先生!次回もし学校に親が呼び出されたらどうなるのでしょうか?」
担任「もしかしたら謹慎でしょうが、退学とまではならないでしょう!」
そう!私の心の中に引っかかっていたのは此処の所だったのだ。
私「息子は見つかって運が悪かったと思っています。他の生徒も隠れてやっていませんか?」
担任「まあ、やっているでしょうね。見つかってないだけで…」
私「二度目はもっと厳しい罰がある。罰が怖いからやめる。これでは何の為にやってはいけないかがボケて、罰則を恐れさせる目的にすり替わっている様な気がしますが、その点はどうお考えですか?」
担任「確かにおっしゃる事は解ります……」
若い先生はきっと、上からの指導があったり慣れない担任業務で、朝から夜遅くまで仕事をして、大変だという事は想像でき、ちゃんとやらなければという焦りや単純に校則を「破る事=罰則」に囚われていたのでしょう。
もう一度、息子の違反を詫びて指導するという事で電話を切ったが、考え込んでしまった。
欠けているのは、何故その様なルールがあるかの生徒に対する説明だ。
生徒にとって、もしくは学校にとってマイナスになる事を説明すべきであるし(私個人は授業中の使用ならば集中力を欠く観点からなら禁止すべきと捉えているが)、納得させる力量が先生には必要だと思う。
最近もよく意味の解らない校則に関するニュースを目にするが、息子の学校でいうと最寄り駅だけでの制服でのスマートフォン禁止や寄り道禁止。
指定の小さなマークが入った値段の高いYシャツで以外はダメという理由が解らない。
しかも不定期でチェックされると聞く。
靴下しかり、髪の色や何センチまでとか色の指定まで生徒を縛る理由は何なのか?
そもそも校則とは何の為、誰の為にあるのか?
考えさせられた一日だった。
交通ルールで考えれば解る事だが、例えば飲酒運転は認知機能も落ち、判断力も鈍り非常に危険だ。
勿論罰則も厳しいし場合によっては刑務所に入るし前科も付く。
悲惨な事故を何度も招いてきた飲酒運転は、絶対にやってはいけない事だが、警官が見ていなければ、検問に引っかからなければOKという事では無いのは当然だ。
一時停止や駐車違反も同じで、死傷者が出ない様に決められたルールであり、それには何より自覚が必要である。
単に反則金や行政処分がイヤだからという理由で守っている訳では無いのだ。
事故を起こすと人の命までも奪ってしまう可能性があり、加害者になってはいけないという自覚が無いと、単なる捕まって運が悪かったという言い訳で終わってしまうし、また同じような違反を繰り返すだろう。
挙句、後悔する事になるのは目に見えている。
息子が幼い頃、よく公園に連れて行ったが、私が幼い頃あった遊具、例えば対面式で乗れる箱型ブランコやコーヒーカップの様な回して遊ぶ乗り物は、事故があるとの理由で目にする事は無くなってしまっていた。
しかし滑り台やブランコ、ウンテイにジャングルジムと、考えれば危険だらけだ。
砂場は動物のフンがあったりするし、何でも口にする幼い子にとってはリスクも高い。
シーソーだって打ち所が悪ければ大けがをするだろう。
だからと言って「公園は立ち入り禁止だ」という短絡的な考えにはならない。
リスクはあるという前提で、それよりも子供達にとって得るものの方がリスクよりもはるかに多いからだ。
安全を考えて新たな遊具を作り出す事の方が、子供達にとっては幸せな事になる。
そう、それが大人の知恵であり工夫であり、過程というモノだ。
「危ない=禁止」と「校則=罰」の構造がよく似ていると思わないだろうか?
そこに欠けているのは過程が無いのだ。
髪形や靴下の色で非行が無くなる、抑止になるという短絡的な思考が問題なのだ。
伝統や校風は規則や罰で出来るものでは無い。
本気で叱ってくれる素晴らしい尊敬できる先生との出会いや、共同生活で育まれていく仲間意識等、生の人間が作り出していくものである。
それは短期間では出来ない日頃の人間同士の繋がりの、世代に渡る繰り返しによって生まれてくるものであり、まさしく伝統という校風が出来ていくものだと思う。
結局いくら形から入っても、人間同士のぶつかりあいの中からでしか生まれないもなのだ。
SNSやネットには学校の情報がいくつも記載されている。
現役の学生や親から卒業生まで口コミや批評もしかり、部活内容から進学率までランク付けされている、そんな世の中になっているのを、学校関係者は一度覗いて検証しても良いかも知れない。
昨今人口が減少し、学校も生徒を集めるのに大変になってきている。
ただ、今までの古い考え方で学生を集める事は、そろそろ見直した方が良い。
校舎の見てくれが良いとか、設備が整っている、進学率が高いなど誰でも考える事だ。
どの学校のホームページも似たり寄ったりで、良い事しか書かないのは当たり前だろう。
前述したように、ネット検索の方が生々しい情報が流れている今の状況の中で、生徒の心をつかむのは、もっと生徒たちの目線で発信しなくてはいけない。
そして、
校則ももっと考え直すべきに時期に来ている。
日本の学校は自分達で掃除をし、身の回りを整理し、遅刻もせず、マスクをしろと言われれば誰も文句を言わずにするし、通学も子供達だけで安全に出来る、それこそ素晴らしい伝統を持っている。
その様な普通の事が海外から見ればとんでもないくらい誇らしい所なのだ。
にも関わらず、おかしな校則で締め付けている事をよく考えてもらいたい。
子供達はもう充分頑張っている。
それを無駄に、ダメにしているのは大人達なのだ。
PTAから教育委員会まで、未だ行事ありきや不祥事を隠そうとする体質であり、権力や序列ばかりに囚われ子供の足を引っ張り続けている。
弱い物言えぬ子供達の代弁者である大人達がだ。
加えてそんな組織や序列により、先生自身が自分達の首を絞め、行動を制限され、時間ばかりに追われている事に気付いてもいいはずだ。
「大人も昔は子供」だったのだ。
思い出して欲しい。大好きだった先生の顔を。楽しかった友達との時間を。
時代は変わっていくもので、ならば未来に繋がる様な教育の場にしていくべきで、自分の大切さや人とのかかわり方、個性や多様性の大切さや性差、見た目で判断してはいけない事、未来の為に過去の歴史を忖度なく教える事など、やるべきことは沢山ある。
何より取り巻く大人達が変わらなければならない。
子供達はちゃんとそんな大人の後ろ姿を見ているのだ。
嘘つきや口先だけの大人を、彼らは見抜いているのだ。
日本の製品は今でも世界中で信頼を得ている。
例えばネジ一つとっても、緩まないネジや隙間が正確と、大きな製品のごく一部に使われるものであっても品質が良いから製品自体の信頼性も上がる。
そのネジを作り出してきた職人達や匠たちの苦労は並大抵では無かっただろう。
そして満足が出来るものが出来て初めてラインに乗り生産されていくのだが、そこまでの過程、何度も失敗し挑戦してきたであろう技術者や職人達の費やした時間の大切さだ。
いきなり信頼できるネジがラインに乗り大量生産できるはずはない。
言い換えれば、今の学校のほとんどがベルトコンベアーを効率よく回したいだけの、上からも下からも責められノルマに追われている工場長と同じだ。
時間に追われ不良品を出来るだけ出さない様に管理している事と変わりない
その為のマニュアルが校則という形となって生徒たちを縛っている。
一律に規則で縛って同じような個性のない人間作りをしても、それは教育では無いのだ。
何度も書くが過程が無い。
技術者や職人達の想いを感じず、端折って製品だけに焦点を当てても、次の新しい技術や製品は生まれて来ないのだ。
学校、校則という縛りがイヤで行かなくなったり、イジメや孤立感で不登校になってしまった人達の中から、素晴らしい活躍をしている人もどんどん出てきている。
選択肢が増える事はとても素晴らしい事だ。
縛られるのがイヤならば、孤立しているなら、大人達が無関心を装う態度なら、そんな学校に無理していく必要は無いし、行く意味がない。
多感な時期に、負の感情に埋め尽くされている子供達がいる事に心が痛む。
将来の事だって、どうなるかは誰にも解らない。
それはいつの時代でも同じ事で、私が過ごした昭和の時代もそうだった。
ただ皆が同じ方向を見て、同じ生活を夢見た事がその不安を払拭していたにすぎない。
逆を言えば、今の子供達は選択肢や情報が溢れかえっている中で、ちゃんとした選択をするのが難しくなっているのだ。
何が起きるか解らないという事は、普段の生活の中からは感じる事はほぼ無いが、それが「自然」というモノであり、だからこそ生きている事に感謝する気持ちになるし、やるべき事ややりたい事を後回しにする時間は、思っている以上に無いのだ。
生徒、学生が、そしてその時代を生きている若者にとって過ごす時間は、大人が考えている以上に中身が濃い時間であり、大人はもっと彼らの時間の観念に近づき、自分がかつては子供だった事を今一度思い出さなくてはならない。
結局のところ最後にものを言うのは、人間力でしかない。
映画やドラマで観る欧米の様な自由で楽しそうな学生生活の裏で、銃の乱射や誘拐、ドラッグの持ち込みという負の部分がある事を見落としてはいけない。
曖昧で自己主張が下手とか、意見を積極的でハッキリ言わない等、日本の若者に欠けている所ばかりに焦点を当て、国際社会、グローバルな視点という、いかにも夢が溢れ可能性に満ちているかのように一律に若者を駆り立てるやり方には無理がある様に思う。
弱点と言われる事は、逆を言えば魅力でもあり、旅行先に選ぶ国の上位にランクされている事からも解るはずだ。
何より、皆がみんな同じ考え方をしているわけでも無く、また境遇や経済力など本人とは関係のない足かせで苦しんでいる若者を助ける事の方が最優先だと考える。
可能性に満ちた彼らの芽を摘む様な、社会の仕組みや大人の思い込みを変えて欲しい。
イジメなどで死を選ぶ子供達を救えない学校や教育委員会、PTA、そして校則ならば、無い方がいいとさえ思うのだ。
先生が、校則が全て悪いとは書いていないし、工夫し手直しをしている学校も少なからずある。
社会全体に余裕がない中、一生懸命に生徒たちと向き合っている先生も沢山いる。
そんな先生達の首を絞めているのが校則かもしれないのだ。
規則が多くなればなるほどチェック数も多くなるし、考えて行動する事よりも優先順位が高くなり、守らせる事が重要だと短絡的な思考になって、より深みにはまってしまうからだ。
縛られれば反発したくなるのが人間だからこそ、その意味を、在り方を社会や学校や家庭も含めて大人達は時間をかけ生徒たちに説明し、考えさせる時間が必要だと思う。
私が高校生の時は、学校全体が荒れていた時期だった。
私が通っていた公立の学校は、生徒がよく抜け出して喫茶店でタバコを吸っていた。
今と違って、外回りをする巡回の先生がいて見つかれば先生にガツンと叩かれて終わりだった。
下駄を履いてくる奴や学ランの裏地に見事な刺繍を施している奴、やたらと縦幅が長い詰襟(つめえり)をしていている奴、長~いスカートに化粧姿の女子、パーマをかけていたり、染めたり、反り込みを入れている奴など、いろんな格好の奴がいて先生も大変だったに違いない。
授業中に丸めた紙に火を点け投げる奴もいたし、若い女性の先生を泣かす奴もいた。
イジメもあったが(私も被害者だった)、逃げ場所があった。
気の弱そうな先生に顧問になってくれと頼み込んで軽音楽部を勝手に作り、放課後気の合う友達と会えたからだ。
ただし形だけの顧問の先生は一度も顔を見せに来なかったが。
また逃げ場の一つに、その頃中型二輪免許をとり、放課後学校の廻りをブンブン音を立てながら走り回っていた。
後ろに女子が乗りたがって、ヘルメットをわざわざ買ってくる子もいたくらいだ。
注意を何度もされたが、免許所得も学校は黙認していたのか、何も言われなかった。
勿論、校則違反に対しては厳しく、叩かれたり叱られもしたが、当時、停学や親の呼び出しといった罰則をちらつかせる先生は私の記憶では居なかった。
卒業後たまたま学校の傍を通ると、学校の塀の有刺鉄線が外部から入られないようにでは無く、生徒を出さない為に内側に傾いていた。
先輩である私達の功績?だろう。
今、良くも悪くもおおらかだったその頃を懐かしく思い出し、そして笑ってしまった。
「今じゃ考えられないなぁ~」と。
昔は、クレーマーの様な親もほとんどいなかったし、逆に「先生」という言葉に重みがあったように思う。
当時無かったスマートフォンやタブレットと持ち物も大きく変わり、生徒たちの情報量も格段と増え、おまけに親や世間に対する学校の印象といった気遣い等、先生方も対応が増え大変だろうと思う。
現に、「〇〇高校の制服を着た生徒が、コンビニ前でたむろしている」というような通報までする暇な大人もいる。(息子の高校の事だが)
先生方にとってはこの時代、受難な職業だとも言える。
長時間勤務で休みが無い、ストレスの多い先生という職業を目指す若者も減っているのもその表れだ。
国も、政府もいつまでたっても向き合おうとしないこの問題を、近々に改善しないと生徒達も不幸になる。
それでも、おかしな校則には反対だし、大人としてもっと余裕がある包み込む大きな心を、そして生の苦悩する姿を生徒たちに見せて欲しいと願うばかりだ。
たかが校則だがされど校則。これからどんな守りたくなるような校則が出てくるか、楽しみでもある。
それには、やはり大人が変わらなければ出てこないだろう。
余談だが、尊敬するアインシュタインは、何らかの言語障害があり、スペルをいつも間違えていたし、学生時代には教授に反抗的だったり、
以前にも書いたが、破れるのを嫌がって靴下も履かなかったりと、きっと今の日本の学校には絶対に通わないでしょう!?