テストが終わって、高校生の息子が帰ってきた。
「テスト、どうだった?」
「……」
「もう一つって事か?」
「……理科が全然解らない」
目も合わせず、ボソッと話す。
「あっそう!残念!」
あれほど喋っていた小学生の頃の息子は、寡黙(かもく)の人となった。
自分の小さな部屋では、友達とゲームをオンラインでやりながら、叫んでいるのに!
「まぁ、いいか!」と小さくつぶやいた。
かつての自分は、親とまともに話した事も無かった。
彼の方が、わずかだが反応する。
「まぁ、いいか!」心の中でつぶやいた。
厚労省のまとめによると、19歳以下の自殺の理由(複数の場合あり)は「学業不振」が104人で最も多く、「進路に関する悩み(入試以外)」が84人、「入試に関する悩み」が40人だった。(読売新聞より)
原因は複合していて、これだ!という理由は解らないが、若い彼らの死に急ぐ現状に直視して、大人のありったけの知恵を出して防がなければならない。
それにしても、いたたまれない気持ちになる。
私なりに色々と考えたのだが、気になる点があった。
日本は、何でも一斉にスタートし、ゴールを目指す。
学校でも会社でもいえる事だが、皆が一団となって前を向くやり方が、もう時代に合ってない。
まるでタイムカードを押して、「閉め切りの時間内に与えられた事をやりなさいと」言っているのと同じだ。
昭和の時代、公園などほとんどなかったが、開発されつつある町でも、空き地やどぶ川、池や川があり、遊具の様な押し付けも無いから、自分達で工夫して遊ぶしかなかった。
段ボールで秘密基地を作ったり、ローラースケートを板にくくり付け、坂道を下ったりと毎日が忙しかった。
どぶ川や肥溜めに落ちた事も何度かあったが、心は冒険モードに入っているのでお構いなしだった。
何より、歳の差がある子供同士が一緒になって遊んでいた。
空き地には「ボール投げ禁止」なんて看板なんか見た事も無いし、危ない事をしていると年長や近所の人が怒ったものだ。
爆竹を蛙の口に突っ込み爆発させたり、玉地面に叩きつけて音を鳴らせて遊ぶ癇癪(かんしゃく)玉を投げ合ったりと子供ながら、惨い危険な遊びもしていた。
それは、考えて見ると火遊びであり、間違えれば火災や大怪我の元になる今では考えられない遊びだったが、堂々と駄菓子屋で売っていたものだから、当然手を出す事になる。
そんな、混沌の世界が昭和の時代だった。
そうスタートラインは決まっていなかったのだ。
やっちゃダメは、やってみてその意味に気付く時代だった。
オンラインゲームの様に、決められた枠の中で遊んではいなかった。
懐古趣味でも、昭和が良かったとも言っていない。
時代が変わったのだ。
勿論、学校では今よりも厳しかったし、叩かれもした。
長い校長先生の話を炎天下の中、直立不動で聞かされ、いつも誰かが倒れていた。
「根性が足りない」「気合を入れろ」が不可能なものを可能にする言葉と信じていたのだ。
もう、引きずる事はやめて、個人差を認め、余裕のある時間で子供達を見ていかなければならないと思う。
何度でも挑戦が可能で、年齢も関係なく、勿論性差にも影響されない社会の仕組みにどんどん変えていかなければ、息苦しくて仕方がない。
もう一つの要因として「空間」という視点がある。
情報に溢れて世界観が広がったのは確かだが、よく考えて見ると選択肢が多すぎる事が逆に狭くしている。
何でも調べれば出てくる事で、やってもいない事を諦めの対象にしてしまうのだ。
だから、失敗や挫折の経験も出来なくなる。
また、子育ても含め、悩みや人生の事まで誰かの発信を鵜呑みにしてしまう傾向も問題なのだ。
現実の人との繋がりの中から、スマートフォンの画面の繋がりへと、どんどん狭い空間でもがいているのだ。
仮想空間の世界もどんどん増え、デジタル上の世界が広がっているが、五感で感じる世界では無い。
一見繋がっていると見えているが、生身の繋がりでは無いのだ。
相手の息遣いや表情、触れ合う時に感じるぬくもりはそこには無い。
感動したり、嬉しかったりした時、拍手するのはふれあいの表れと聞く。
子供が生まれれば、子供との生身同士のやり取りになるが、その体験に慣れていない親がネットで検索し対応するものだから、当然視野も狭くなり、自分の育て方が正しいのかそうでないのかの比重が大きくなってしまう。
子育てに正解など元々無いのにだ。
逆に狭い選択肢からの選択は、そこから飛び出そうとする力が生まれてくる。
挫折も、悲観もそんな中から生まれ、人生の肥やしになる。
SONYのウオークマンもホンダのカブも、カシオのデジタルカメラも、きっとそんな風にして生まれてきたに違いない。
勿論、遊びもそうだ。
広い空間の中、工夫しなければ遊べないという環境が、沢山の冒険や挑戦に繋がっていたのだが、今では提供されたモノの中で、決められたルールに沿って遊ぶ事を強いられる。
すなわち狭い空間でしか遊んでいない事になる。
空間がどんどん狭くなっている。
大人も子供も。
個々を取り巻く空間の狭さは、パーソナルスペース( personal-space)他人に近付かれると不快に感じる空間パーソナルエリア、個体距離、対人距離に見られるように、不快に感じる。
満員電車での密接が不快と感じる事と同じだ。
自分が動き回れる空間が広ければ、近づく事や遠ざかる自由があるが、狭い空間ではそもそも無理であるから、当然ストレスや、ギスギスした状況に陥る事になる。
最後に私が気になる事は、やはり歴史だ。
もっと近代史にも比重を置き、過去の戦争や内戦、政治がどう関わったかを教えるべきだと思う。
最近も漫画「はだしのゲン」の不掲載を決めた広島市教育委員会の決定が波紋を広げているが、子供達の過去の歴史の入り口としてのこの漫画の意義は大きかったはずだ。
負掲載をした理由は「補助的な説明が必要となり、時間が足りない」とし、子どもが浪曲を歌って小銭を稼ぐシーンについて「浪曲は現代の児童の生活実態に合わない」、母親に食べさせようと池の鯉を盗むシーンについては「鯉盗みは誤解を与えるおそれがある」(TOKYO MXより引用)という何ともお粗末で、奇妙な言い訳でしかない。
当時の生活を描きたかった作者の想いなど全く理解していない。
これでは、男女差別、固定観念だと言って「サザエさん」を観てはいけないと言っているのと同じ理屈だ。
何か裏がある事は間違いないだろう。
過去の歴史を知る事が有益かそうでないかを国や教育委員会が勝手に決めるものでは無い。
過去からの情報を大人達の都合でふるいにかけられ、子供達に教える事が将来を担う子供達にとって有益になるとは決して思わない。
何度も書くが、社会は変化し続けている。
これからデジタル社会が、その力を試される事になる。
デジタル空間が広がれば広がるほど現実の世界が狭く、窮屈になるこの皮肉に、どう向き合うのかが問われている。
子供が伸び伸びとやりたい事に何度でも挑戦できる生の社会は、大人にとっても余裕が出来、ギスギスした社会や人間関係から解放されるだろう。
そして、
大人達全員が親であり、保護者であり、時には叱り、優しく見守る社会を作らなければならない。
不規則に輝く木の葉のふれあいと
時を超える木の肌に
耳をきつく当てながら
いつ 生の流れを感じただろう
過去からのメッセージの携えて
未来に想いを馳せる輝きを
草の匂いと優しさの中
いつ 流れゆく夜空を味わっただろ
二度と来ない波の織りなすメロディーと
瞬間を乗せる緩やかな風に
ふかふかの砂のベッドで
いつ 時を忘れただろう
子供達が幸せな国は、誰もが幸せになる国だ。
命をもって償わせ、課題を再びスタートライン巻き戻す彼らの犠牲を、何度繰り返せば大人は気付くのであろうか。
解き放って、自由に羽ばたく翼を与えてやって欲しい。
心からそう願う。
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