孤独が、よく取りざたされている。
ニュースでも、厚労省などの調査アンケートを見ても、孤独と感じている人の割合いが、年々高くなっていて、自殺の原因の割合も高い。
人が孤立感や孤独感を感じる時は人それぞれだが、人との繋がりが無い、もしくは希薄になった時に感じる。
孤立感は、干渉されたくない、一人が好きという理由もあって、自らの選択でも可能な位置付けでもあるが、孤立から孤独になる可能性も高い。
希薄な人間関係多くなれば、相談相手もいなくなり、益々孤立してしまい、孤独感を感じるようになる。
自ら孤独を良しとするならば、ある程度孤独を感じる事も少ないであろうが、昔の様な総中流社会構造が崩れ、貧富の差が広がり、今の自分の立場、経済的な要因や社会の中での立ち位置を比べる対象が、身近なものとしての指針では無くなり、安心感を生み出さなくなっているのだ。
すなわち、例えは悪いが、赤信号みんなと渡れば怖くないという状況が、崩れてしまった事が大きな要因でもある。
例えば人並という言葉の裏には、その他大勢の同じようなレベルの人達がいる事が前提だが、貧富の差が、それを大きく変えてしまったのだ。
例を挙げると、マラソンをする選手の靴やユニホームに雲泥の差があり、途中の給水も満足に受けられない選手がいる状態なのだ。
他の選手が同じような状況だと不安も減るのだが、明らかに違う状況を見て、走る気力さえ無くなってしまう状態と言ってもいいだろう。
そして、スタートラインにさえ立てない人達も増えているのが現状で、すなわち孤立状態になっているという事だ。
多くの人達は、人並という言葉に囚われ、それに近づけない事への焦燥感(しょうそうかん)や落胆から孤立を感じてしまう。
一方、共働きなどで収入が多い人達は、TVやネットで、快適な生活という幻想を植え付けられ、追い求め、満足感を得ようと無理を承知で、もしくはリスクを考えずに行動してしまう。
見栄や過信は一度取り込んでしまうと、なかなか手放せなくなるのだ。
結果、チョットしたつまづきで、孤立というより孤独感を背負う事になるのだ。
そう、人は現在置かれている社会の中で基準となるモノを定め、照らし合わせ、自分の置かれているポジションを確認しながら生きている。
それは、個人だけでなく、政府も含め社会全体で作り出している基準なのだ。
標準世帯なる言葉の使い方も、終身雇用や、専業主婦、子供が2~3人という具合に照らし合わせて、色々な統計を作る事に用いる事が多いが、実際には、高齢化や共働き、子供なし等、大きく変化しているにも関わらず、いまだに使われている。
ましてLGBTQの人達や在留外国人のことなど、全く考慮もされていない。
一億総中流世帯を引きずりながら、実際とは大きくかけ離れた世の中になっているのに、意図してか、経済成長を夢見続けているお陰で、この国はひどくなる一方なのだ。
TV媒体でも、1円でも安く買い物をする為、スーパーを探すような生活をしている人達に向けの番組など、ほとんどない。
健康維持や若返り、財テク、旅行にグルメと、縁遠いそれどころではない人達が、まるでいないかのような扱いだ。
例えば教育であるが、子供達は、遅咲きや早咲きといった、その子だけのペースを持っているが、画一的な教育の中では、ほとんど考慮されない。
個性を大切にと教えながら、団体生活の大切さと称してはみ出しを許さない二面性の教育。
理解不能な校則を強い、服装の乱れは不良という呪縛から逃れられない教育方針。
それは、管理する側の都合の良い言い訳にしか過ぎない。
結局、ノルマとして与えられた教育内容をこなすだけになり、落ちこぼれを作り出している。
進学も塾頼りになり、親の経済力でますます開きが生まれるのだ。
好奇心や想像力をはぎ取って、選択の無い一方向しか見せない教育とは何か?
子供達の目から見ると、可能性という言葉は、周りの大人達の都合で変わるという認識になっている。
先進国でいう奨学金も、この国では借金という位置付けで、子供達への投資という考え方からは程遠いのが現状である。
このような状態では、孤立が生まれないわけが無いのだ。
そして、孤独な大人達と孤立が、イジメや不登校を、ヘイトを生み出しているのだ。
アインシュタインも、こう述べている。
「It is a miracle that curiosity survives formal education.」
『好奇心が型にはまった教育の後に残っていれば、それは奇跡である』と。
人間はどうしても、周りと比較してしまう。
特に、精神的に未熟な子供達にとって、経済的な理由や容姿等、自分ではどうしようもない事に、自分の力、可能性を試す機会を奪われる現状では、劣等感や、喪失感が生まれても不思議ではない。
親ガチャと呼ばれるような、バカげた考えが生まれるわけだ。
孤立は、人それぞれの捉え方があり、一人が好きな人や干渉されたくない人等、自らの意志によるものもあるが、問題は経済的な孤立である。
生きていく上でお金は必要なモノであることは確かな事実であり、教育の記述で触れたように、本来なら、公助としてやらなければいけない事を、まず自助で何とかしろと国は言う。
そして公助は、ある基準までは引き上げるが、それ以上はみ出すなという御上意識が見え見えなのだ。
可能性、すなわち未来に投資するという発想の欠如である。
孤独の話に戻ろう。
経済的な理由で孤立してしまうと、孤独に陥りやすい。
何故なら、昔と比べて情報量もはるかに増え、選択肢も多くなればなるほど、叶えられない事が比例して多くなる。
まして、ネットやマスコミが作り出している、上辺だけの幸せの安売りが氾濫する中、自分がどれほど「普通」とはかけ離れているかと念を押されてしまう。
考えてもらいたいのは、今まで書いてきたことは、物理的な要因ばかりで、いかにモノに左右されているのかが解るはずである。
すなわち、現代社会での孤独感は人間同士の中で一見生まれるように見えているが、実際にはモノという基準で右往左往していて、その基準の振れ幅で、優劣や劣等感を生み出しているに過ぎない。
結果、自分は孤独であると思い込んでしまうのだ。
後進国と呼ばれている国でも、孤独感を味わう人が多くないのも、モノでは得られないという考え方の持ちようで、生きていく為の直接的な忖度の無い人間関係によるものが大きい。
友人の数や地位、職業や権力で満たされるものでは無いからである。
加えて、自分が必要とされている人間かどうかに基準をおいてしまう事の誤りである。
それは、生まれた意味にもつながる話だが、この世に「生」を受けた事が全てであり、その事以外の事は「おまけ」なのだ。
誰でも「独り」で生まれ死んでいく。
存在自体が全てであり、「おまけ」として楽しむ時間がついてくるのである。
必要とされているかどうかは、他人が決めるものではそもそも無く、必要だったからこそ「生」を受けたのだ。
必要のない人間など、元々いないものであり、孤独に溺れ、孤独に主導権を握られ、誰も信用できなくなり、唯一の自分の存在価値として権力を振り回す事で、孤独を埋める人達、居て欲しくない人間が増えていくだけなのだ。
「独り」とは、自分を知り、生き抜く為の力を持っている状態を表す。
「死」を見つめ、対峙する力と言っても良いかもしれない。
本当の「孤独」では無い、思い込みによる「孤独」が多い事に気付かなくては、その呪縛からは逃れられないのである。
人との繋がりは孤独では無い「独り」としての人間の繋がりの中から、強い絆が生まれるのだ。
独りとしてなら、それでよし、二人ならもっと良し。
自分を知り、認めているからこそ相手を大切に出来、お互いを高め合う事が出来るのである。
孤独同士が集まっても何も生み出さないばかりか、傷のなめ合いをするだけなのだ。
孤独という言葉が、一人歩きして孤独では無い事まで孤独として捉えてしまう社会の中で、私達は生きている事に気付く事が必要なのだ。
本当の孤独に陥った、孤独に支配された人は、自分を傷つけるより、他人を攻撃し、服従させようとするのだ。
そこにしか自分という存在を見い出せなくなっていて、自分というモノを持っていない弱い、情けない虚像の様な人達で、やたらと吠えるのだ。
「ここにいるぞ」と。
勿論、誰もが孤独を感じる時があるし、私も例外では無かったが、それが本当に孤独かどうか、確かめる作業が必要なのだ。
一つずつはぎ取っていく様に、孤独感を生み出している要因は何かを探る作業が大切なのだ。
自分と向き合い、突き詰めていくと、意外に大したことでは無い場合が多い事に気付く。
そして気を付けなければいけないのは、孤独感は「依存」を呼び込む事だ。
要するに、孤独感の埋め合わせを他人やモノ、権力に主導権を与えてしまう事になるからだ。
所詮、人間が考える事はその域を出る事は無く、誰もが考える事であり、その中でもがいているに過ぎない。
友達がいなくても、分かってくれる人がいなくても、自分の事を一番分かる、愛してくれている自分がいる事にもっと目を向けるべきであり、自分への探求こそが生きている事の意味になる。
どうして、自分を愛せないで誰かを愛する事が出来る?
イヤなところも、嫌いな性格も愛する自分であり、無条件に認める事なのだ。
誰でも自己嫌悪にさいなまれるし、情けない自分に腹が立つ。
自分を取り巻く世界が狭ければ狭いほど、強く思うものだ。
ただ、その様な感情は、人間関係を営むうえでどうしても避けられない自然な感情であり、自分自身を知る為の過程に過ぎない。
相手に合わせる事を学べという事では無く、自身の問題であり、世界観を広げて物事を見よという事。
自分で作り出している呪縛の愚かしさを探れという事なのだ。
修正し少しずつ前へ進められるのも、己を知る正に自分だけなのだ。
モノに溢れ、人々に注目されていても、「孤独」からは逃れられないのであり、孤独を埋めては孤独に陥り、その繰り返しをしている人がどれほどいるか。
耳触りの良い言葉と、ありもしない幸福ばかり夢見ている中では決して得られない「独り」という存在は、本来誰もが持っている力であり、生き抜く為の本能のようなもので、誰かがくれたり、モノで満たすものでは無いのである。
自分にしか出来ない、自分への死ぬまでの探求だからだ。
小惑星が、もし地球に衝突すれば、人類は終わりである。
巨大地震が起きれば、グルメやインスタ映えなんか、どうでもいい事だ。
電気が切れれば、何も出来ない弱っちい社会で暮らしているのだ。
みんな孤独であり、いつ孤立するか解らない世の中で暮らしているのだ。
それを生み出しているのは、孤独な大人達と、とどめを刺す自然だという事を、忘れてはならない。
その時に「生」の素晴らしさに気付いても遅いのだから。
「Be a loner. That gives you time to wonder, to search for the truth. Have holy curiosity. Make your life worth living.」
『独りを愛しなさい。独りは、真実を追い求める時間を与えてくれる。真摯な探究心を持ちなさい。そして人生を価値あるものにしなさい。』