若い頃というのは、車に例えると燃費が非常に悪い。
しょっちゅうドライブに出かけ、アクセルも吹かしっぱなしで、ギアチェンジ(マニュアル操作だが)も頻繁だから、おのずとガソリンも使うし、空気(酸素)の消費も大きい。
クルマ好きの方だと解るが、ギア付きのスポーツカーを飛ばすのは、たまらない魅力で、海を目指して走るならなおの事、気持ちも高揚したものだ。
燃費の悪い車をガンガン、ガソリンを使いながら走り回る爽快感は、今でもハッキリ覚えている。
しかし、歳を重ねるとだんだん省エネになっていく。
ドライブの楽しみも億劫になるし、エネルギーも余り使わなくなり、ましてかっ飛ばすこと等怖くて出来ないし、安全運転にもなる。
決まった道を、走るだけになり、見知らぬ所にワクワクする事も期待する事も無くなっていく。
人生って面白いものだとつくづく思うが、今の若い人達は、車にはあまり興味が無いらしい。
都会では、その必要性も薄れ、維持費もかかるし、昔のように女の子をデートに誘う手段でもなくなってしまった。
車での例えだが、今の若い人達は、どうやら省エネ運転に見えて仕方がない。
警察にお世話になる事は勿論ご法度であるが、燃費を気にすることなく、もっとドライブを楽しみ、遠くまで走って欲しい。
目的を決めず、地図頼りなら、尚の事いい!
昭和生まれの私から見れば今の時代、ついていけないほどの進歩で、慣れるのに一苦労する。
我息子は、スマートフォンをいとも簡単に操作し、見ている私が余計なボタンを押さないかヒヤヒヤするスピードで、画面を切り替えていく。
生まれながらに、デジタルが周りを取り囲んでいた世代ギャップをヒシヒシと感じる毎日だ。
ただ、何か何かが足りない気がしてならないのは私だけだろうか?
そう、燃費の悪いマニュアルのスポーツカーを運転する快感とよく似ている。
学校にしても、友人付き合いや勉強も型通り、彼なりにこなしているようだが、枠からはみ出る様な元気さがあまり見えてこない。
彼らなりに、今の自分を楽しんではいるようだが。
勿論、悪い方向に行っては困る。
言われたことをこなす力はあるようだが、自分で疑問を見つけ、答えを探っているより、時に方向を決められて流されているように見える事がある。
我身を振り返った時、スマートフォン等は勿論無く、新聞配達をしながらお金を貯め、大好きな音楽を聴く為の機材購入にひたすら時間を使っていた。
当時、出店しだしたマクドナルドで、ビッグマックを月に一回友人と食べるのが、楽しみでもあった。
部活もこなしながら大変ではあったが、苦しいと思った事は無かった。
少年ジャンプを、友達と折半し買うのも楽しみの一つで、ボロボロになるくらい読んでいた。
ブルースリーの映画に感化されたり、休日は自転車で友人と遠出し語り合ったりと、毎日があっという間に過ぎていったものだ。
お陰で、自転車のパンクも自分で直せるようになっていたし、道も沢山覚えたものだ。
相変わらず、息子はスマートフォンの画面を見ながら、離れた友達と会話し楽しんでいる。
何でも先回りの世の中になってしまい、引かれた道からはみ出す勇気や体験が無くなっている様な、若い人達を見るとそんな気がする。
勿論、今の時代だからこその生活スタイルなのかもしれないが、まるで設計図どおり作るプラモデルで、指定以外の色を塗ったり、カスタマイズする遊びの無さを感じ、少し寂しくなってしまう。
地図を見る楽しさや機械を自らコントロールするという、楽しさが奪われてしまっているのか、便利になる事は、反面省略する事と表裏の関係で、過程の楽しさまでが省略され、ドアを開けた途端に目的地に到達しているようなものだ。
若い人達がみんなそうとは限らないが、少なくとも私の周りを見ると、これが現状なのかと思ってしまう。
だから昭和の時代が良かったから?でもまた戻りたいとも思わないし、時代は変わっていくものだと思う。
ハエや蚊に悩ませれ、蛆(ウジ)が湧くトイレもうんざりだし、ハンコ偏重主義や、先生と名の付く人達に諂(へつら)う関係も経験したくないし、先生や親にこっぴどくたたかれるのも願い下げだ。
道もデコボコで、空気も悪かったし、医者に診てもらうのも一苦労だった。
新しい価値観や個人尊重、男女の格差是正も、昭和の時代には通用しなかったのも事実だ。
そんな時代に生きてきた私が見る令和は、ただただ人々の目が虚ろに見える。
商店で飛び交う声、オシャレして行くめったにないデパート参り、静まり返った正月、電話を借りたり、日用品を分けてもらった隣近所、捨てがたいものがあったのも確かだ。
こそこそ聞かれないよう家の黒電話で、通話時間を気にしながら話をしたのも、今では懐かしい。
沢山の、電話番号も記憶していた。
だが今は、節目が無く惰性のように時間が過ぎているように思う。
いつでも、好きなモノをボタン一つで買え、何時間もただ同然で電話が出来、仮想現実のアバターで、町を散歩するのも素晴らしい技術ではあるが、生身の人間が動く良さを無くしては欲しくない。
送料無料のサービスに、遠隔操作の家電があると同時に、数百円の傘が町にゴミとして捨てられ、放置自転車であふれ、周りを取り巻く全ての物のサイクルが短くなり、グルメの裏で大量の廃棄が行われ、消費が美徳とさえ言われる現代は、持続可能な開発目標SDGsを掲げ、いったい何をしたいのか解らない。
江戸時代にも劣る、リサイクルの劣化と引き換えに、失った「大切にする」という心をどう取り戻すのであろうか?
便利さが生むのは、それを支える犠牲が裏に必ずあるもので、ショートカットすればするほど、結局自分の首を絞めている事に、気付かないといけない時代になって欲しいと思う。
貧困家庭が増え、格差が広がり、富める者が未来を決めていく。
気骨なマスコミ人がどんどん先立ち、反骨精神や筋の通った政治家もいなくなり、忖度するような国には、未来が無いのだ。
世界を狭め、仮面をかぶり自分を見失っていく子供達の存在や、追い込んでいく教育、貧困の為未来が描けないなら、食べていけないなら、昭和の時代に戻る方が、もしかしたら幸せかもしれない。
確かにその時代時代の生き方があり、それなりに、もがき苦しんで生きてきたのは確かだ。
ただ、そのもがいている世界が、あまりにも小さい世界の様に見えてならない。
それは、子供達から「想像力」を奪っている大人の責任が大きい。
子供や若者が幸せに、元気で夢を持ってもらいたいと皆が願っているとは思うが、それを阻(はば)んでいる大人達の作る社会が、はみ出しを許さない先回りの生き方が、彼らの未来を奪い続けている。
考えてもらいたいのは、ゲームも仮想現実やメタバースも、誰かが作った世界という事だ。
目にする色も形も、プログラミングされたものでしかない。
4Kになって8Kからどんどん進化する画面すら、道端の雑草の力強さは映し出せない。
喧嘩して殴られた痛みや殴った後の後悔は、数値化出来ないのだ。
みんなアバターを使い分けてるんだ。
会社、家、近所、学校、ネット。
もしかしたら、夢の中の世界?
この世界が本物って、どうやって証明できる?
みんな、アバターだらけなのに!
でも、
大きな災害や大きな困難が起きた時。
そして本物と出会った時。
その時アバターは使えないんだ。
だって本物は、厳しくて怖くて、容赦しないんだ。
本気だからね。
だから、本当の自分で本気でぶつからないと、
乗り越えられないんだ。
アバターなんか、何の役にもたたないよ。
夢じゃないからね。
送料無料という言葉は、その裏にある汗と苦しみを感じる事は出来ない。
相手がアプリで何処に居るか分かっても、待ちぼうけを食らって目にする景色が、楽しい事もあるのだ。
迷って、地図とにらめっこしたり、誰かに声を掛けて聞く楽しさは、いつまでも忘れないものだ。
なかなか届かない手紙を待つのも、また楽しいものだ。
傘一本忘れても、失くしても必死で探す方が、ありがたみと愛着が生まれる。
どんどん、便利になって、「生きにくい」世の中になるかもしれない。
それでも「生」受けた限り、生き続けるのが、支えてくれて来た過去の人達に対する「答え」なのは確かなのだ。
どれほど暮らしやすくなっても、技術が進化しても、人間は、人間の心は進化していない。
ならば、世界を自ら狭めてしまっては、失うモノが多くなるのも当然なのだ。
「心」は、何かに囚われては生きていけないような、檻(おり)は存在しないし、そんな弱っちいものでも無い。いつも自由なのだ。
まだ見ぬ色や感覚が、溢れるほど沢山ある。
何処かの誰かが作った世界には無いモノがそこにはきっとあるのだ。
想像してみて下さい。
小さな世界観の中で
井戸の中の蛙のように
もがいて閉じている事を
あなたが、あなた自身で
答えの出ない押し問答をしている事を
あなたを苦しめる
あなたが生み出している感情が潜んでいる事を
大切な時間を
見逃している事を
想像してみて下さい
毎日あなたの事など
気にもしない朝日の事を
あなたの都合など考えずに降る雨を
とんでもない災害が起きるかもしれない事を
明日もちゃんと、家に戻れる事を
想像してみて下さい
大切に思ってくれている人の存在を。
過ぎ行く時間が
あなたを変えている事を
二度と過去には戻れない事を
劣等感やコンプレックスが
偉大な人達を生み出した事を
想像力を決して忘れてはいけない。
想像力は、遊びと夢を生み出す源なのだ。
誰かが作った世界の中では、所詮作った頭の域を出ない。
お金儲けの看板が、そこら中に立ててあるのを見れば解る事だ。
鉄腕アトムやサンダーバードは、今でも昭和の心の中に飛んでいる。
私が死ぬまで、いや死んでからもずっと…飛び続けるだろう!
「Imagination is more important than knowledge.Knowledge is limited.Imagination encircles the world.」
『想像力は、知識よりも重要だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。』