心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

人は必ず死ぬ

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「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉かな」

良寛(りょうかん)江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人漢詩人、書家の言葉です。

「死」が訪れた時、全てを見せて死ぬ事になる、すなわち、所詮生き物にとって生死は、大きな流れの中の、ほんの些細な水滴の様なものであり、逃げようが、隠れようが「死」は必ず訪れ、さらけ出しながら終える、ただそれだけだという訳です。

 

昔の仏教における修行、「瞑想」の一つに、死んだ人間がどのようになっていくかを観察するというやり方がありました。

それは、所詮人間というモノは、このようなモノであるという現実を見る事で、余計なモノの考え方や雑念を取り払っていくという修行でした。

 

この世で生きている時、人間の行動を含め、様々な事象において「絶対」という言葉は、あまり当てはまりません。

自然の中では、何が起きるか解らないものですし、人生においても、色々な出会いや運命と感じる様な出来事があり、選択肢が意志とは関係なく複数、いや無限大あり、絶対的な断言できる事柄が殆ど無いからです。

明日何が起きるかは誰にも分かりませんが、必ずいつか誰でも100%「死」は訪れるのです。

 

「死」を無くして「生」は無く、「死」があるからこそ「生」生きる事の意味があります。

この、確実な100%の出来事に関わらず、普段意識する事はほとんどありません。

毎日のあわただしい生活の中で埋もれてしまい、ゆっくりと向き合う時間も無く、いつの間にか重ねた時の長さで、やっと考える度合いが増えていきます。

勿論、思わぬ出来事、災害や事故、病気で意識する事もあるでしょうが、多くの人達は、死について考える機会は、それほど多くはありません。

昨今、若い人達の自殺が多く取りざたされていますが、「死」というモノに対して、真剣に考える機会が無かった結果からかもしれません。

生物にとって大切なのは、個体の死ではなく、種の保存や継続です。

種類によっては、数時間の命から、人間のように100年近くまで、はたまた数千年の木々まで、死に至るまでの時間は、子孫を残す為に与えられた時間とみる事が出来ます。

単なる遺伝子の受け渡しだけでなく、生き延びていく為の知識や経験を伝える時間でもあります。

唯一、人間だけが、「死」という概念を作り出し、意味を探り、価値を見い出してきました。

 

なぜ人間が、「死」に対してこれほど考え、対峙し、その意味を考えてきたのでしょうか?

何よりそれは、誰も経験を語る事が出来ない、未知なる領域という事に尽きます。

幼い頃から、「死」は恐怖を伴い、恐ろしい所であると教えられてきました。

地獄や悪魔、閻魔大王など、「死」と言われてイメージする事は、どうしても負のイメージが浮かびがちです。

根拠のない、仏教とも関係のない仏滅や友引を使い続けているのも、その事の表れでしょう。

色々考えてしまうのは、言い換えれば、生物の中で人間だけの特権であるという事です。

死ぬ事とは何かをよく考える事で、殺人や自殺を考え直すキッカケとなるかもしれません。

 

戦争や紛争で、自分の意志の有無に限らず、自ら命を絶ってしまった方々や、殺された人達、疫病や飢餓、強権政治下や国政の不安で、抗議の意味も含め、犠牲になる事で救おうとする例も、今日まで数多くありました。

 

それは、何の為に「死」という結果に至ったか、角度を変えて見ると、何の為に生きているのかを考えなくてはいけません。

生きている以上、自分と自分以外のモノの存在があります。

人や動物をはじめ、物やお金といった生きる上で、関わらなくてはいけないものから自然まで、自分の立ち位置を確認したり、生きる意味を見い出す為に、対象となるモノを時に物差しにしたり、基準にしたりしています。

例えば、誰かと比べて損か得か?優位か不利か?楽しいのか不快なのか?といった感情もその一つでしょう。

要するに、「不安」「不公平」「不平等」といった「負」を、自ら生み出しながら誰もが生きているのです。

それは、歳と共に背負うモノが多くなればなるほど増えていくかもしれません。

ただ、人は年齢に関係なく、その時に味わっている「負」が心の中を多く占めてしまい、他人から見ると、たいした事でも無い事でも、本人にとっては耐えられないような感情になってしまいます。

もし、無人島に漂着して一人ぼっちだとしたら?対象になる比べる要素が、選択幅が無くなり、「死」と「生」の二択になる事でしょう。

それは、前述の災難や災害の時も同じで、選択肢が無くなってしまうのです。

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今の時代、色々な情報が垂れ流されています。

沢山の選択肢が出てきて、何を選べばよいか迷ってばかりいます。

TVやネットの世界に出てくる、有名人やタレントも、見る側の人達が手に届くような身近な存在になってきました。

ひと昔なら、私生活を見せる有名人は、ほとんどいなかったのです。

身近になればなるほど、そうありたいと思うのも自然な事ですが、その様な身近になった人達を見るにつれ、思うようにいかない自分と比較してしまい、不幸と感じてしまう事が多くなってしまったのです。

CMでもネット通販でも、気軽にものが買え、欲しいもので溢れている反面、貧困家庭はどんどん増えています。

ごく少数の恵まれた人達の生活が、まるですぐに手が届くように錯覚してしまうほどです。

ますます、心の中で満たされない欲求が、諦めと無力感を増幅しギャップが傷のように残り続けているのです。

友達がいない、相談する人がいない、夢が無い、欲しいものが買えないなど、足りないものを探してばかりで、本当に必要かどうか、大切なものは何かという事がどんどん後回しになっているのです。

それは、個人個人のレベルではなく、国全体に言える事です。

 

元々、人間を含め生物には「生」か「死」選択肢は二つだけです。

生き抜く為にどうするのか?死の訪れをどう描くのか?

明日何が起きるか誰にも分からないからこそ、生きる事に必要な、湧き出る様な生の力を持つ事に、もっと目を向けるべきであり、それは誰かと比べ感じ、出てくるモノでは無いのです。

「死」があるからこそ、そして真正面から向き合う事で「生」に対する答えが見つかるのです。

 

この国でも先の戦争で、特攻隊をはじめ無茶な指令の下、沢山の命が奪われました。

沖縄戦も含め空襲や原爆投下でも多くの犠牲があり、近年は、阪神淡路大震災東日本大震災などの災害などでも沢山の方が、命を無くされています。

きっと、きっと生きていたかったに違いありません。

たとえ、自死を命ぜられたとしても、それは愛する人達に生きて欲しかったからです。

愛する人の未来を閉ざしたくなかったのです。

突然、奪われた命でも、残された愛する人の事を心に抱きながら、無念の死を迎えたのです。

心にいつまでも残るその様な人達の事を、私達は他人ごととしてではなく、決して忘れてはいけません。

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「生きる事の意味?」で書きましたが、

意味を探し続けながら生きている人が多数です。

生きる事の意味付けをしなければ、目標や夢を描けないからでしょう。

そして、その為に何かと比べる作業を日々繰り返しているのです。

いずれ、必ず死は訪れます。

そして、その時がいつかは誰にも分かりません。

人間が、生や死を考える事が出来るその訳は、愛する人に生きて欲しいという、時を超えてまでも伝わる「想い」という力を信じているからです。

何かの物差しで、生や死を軽々しく考える為では無いのです。

だからこそ、身近な人だけでなく、今なお戦争や紛争、弾圧で苦しみ命を奪われた人達も含め、無念の内に亡くなった人達に想いを馳せなければいけません。

それが人間として生まれた使命なのです。

生きる事は「想い」をどれだけ受け止め、残していけるかという事なのかもしれません。

だから人間でいられ、人間として死を迎えるのです。

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苦しみや悩みは、特別なものでは無く、誰もが持って生まれてきます。

生きる事が、「苦しみ」そのものだからです。

自ら生み出している、余計な「負」をもう一度見直し、もっともっと「生」に執着するべきなのです。

知らない所で、私達は繋がっています。

たった一つの命が人間全体に関わっている事を、子供達に伝え、命の大切さと、必ず死が訪れる事と、「想い」という力がどれほど大きな力になるのかを、教えていくのが大人の責任なのです。

平等に訪れる「死」だからこそ、それに至る「生」の力を信じ、無駄にしてはならないのです。

 

逝ってしまって

逢えない君は

助言者となり

道標となり

いつもここにいてくれる

生にしがみついた

僕の独り立ちを見届けて

やがて静かに去っていく

また逢えるのは

僕が全うした後で

 

「死」は恐ろしいものではありません。

けれども、安易にこちら側に誘うものではなく、むしろ覚悟を求めてきます。

「死」は、あなたから全てを奪います。

ただ「想い」だけは奪う事が出来ません。

「魂」と呼ばれているものかもしれません。

命は、単に遺伝子の引き継ぎでは無い、「想い」の受け渡しであり、

人間に与えられた時間の贈り物なのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「Nante man to send a life that is said to be normal, not palm not to be one. I would like see you If we had been.」

『普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらお目にかかりたいものだ』

 

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