愛する事、愛される事、この意味を求め世界中の恋人達が、家族が、友達が、切なく悲しく、そして悩み続けている永遠のテーマ「愛」。
その答えを求めて人々は悩み、数々の音楽が作られ、詩が生まれ、芸術が育まれ、また時には争いが繰り返され、この瞬間にも優しさや怒り、光や闇をこの世界に、この胸に生み出し続けています。
様々な解釈がある「愛」とはなんでしょうか?
アメリカの精神科医『モーガン・スコット・ペック(M. Scott Peck・1936-2005) 』は、1978年の大ベストセラー『愛と心理療法(The Road Less Traveled)』の中で、
「愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志。
愛は意志であって感情ではない。恋とも違う。怠惰の反対語だ。」と書いています。
新約聖書では、「愛」が色々な場面で使われておりキーワードですが、
恋愛の賛美はしておらず、むしろ異性との距離を開けるような内容であり、
結婚するのであれば、最終の形として離婚してはならないという記述もあります。
(私的解釈です)
愛は信念、すなわち信じる事で、能動的であり「愛される」事では無く、
「愛する」ことを重視する、すなわち「愛するから愛される」という解釈もあります。
また、能動的な愛、すなわち自らが考えて行動する愛し方もあれば、受動的、すなわち受け身の愛の在り方もあります。
それは、例えば幼少期に味わう親からの愛されているという感覚で、余り感じていないまま大人になると、トラウマ(精神に大きなダメージを与え、そのときに受けた精神的な外傷や、その影響が長期にわたって残るような体験。)となり、精神に影響を及ぼし、マイナスな方向になりやすくなります。
能動的であれ受動的であれ、この記事では「愛」という定義を明確にするのでは無く、「愛」がどのような感情で働きかけたり、影響を与え、受けるのかの身近な視点で話を進めていきます。
愛については、書ききれないほどの解釈や言葉があり、これが「愛」というものという明確な答えは、当然ありませんし、これからも探し続ける事でしょう。
人は病気や事故に逢った時、困難に出会った時、死を意識した時、
初めて身近な人の存在の大切さに、その大きさに、そして愛されている事に、愛している事に気付くことが多いのですが、それは、その人の存在、自分自身の存在を大きく認識するからです。
人生の短さや寿命、何の為に生れたか?
答えを出さなければいけなくなるかもしれないからです。
愛する時、それはとても勇気が必要になります。
無力感、挫折感を味わうかもしれません。
なぜなら同時に自分自身を受け入れ、試される事にもなるからです。
「自分を愛していますか?」言い換えれば「自分の存在を認めていますか?」そう問われた時、
自分自身をごまかし甘やかし、自分というものを大切にしていない自分が見えてくるかもしれません。
「愛すること」「愛の意味」を知ることが、いかに難しく、勇気のいる事か解ると思います。
まして自分以外のものが愛の対象となれば、なおの事です。
愛するということは決して犠牲になる事でも無いし、所有物にする事でも拘束する事でも、
また何かを与え、与えられる事でも無いのです。
存在を認め、ただ受け容れることだけなのです。
恋をしている時は、「孤独」
愛に変わると、本当の「独り」になる。
孤独は愛で癒せるけれど、恋はとても孤独。
だから時に、とても勇気がいる。
必要とされ、必要とした時に、「孤独」を感じる。
「独り」として、完結しないから。
孤独同志の出会いは、
私物化したがる。
見返りを求める。
そして「孤立」になる。
「独り」とは、経済的に自立している事を指しているのではありません。
誰かから見た自分を、そのまま自分として受け取らない事であり、地位や財産、見返りの入る余地など無い状態、すなわち「我」を捨てた時の穏やかな、ありのままの心を指します。
孤独は、愛の感情に似ていて勘違いしやすいのが、何処かで相手からの見返りやご褒美を期待しているところがあり、孤独のまま「愛している」という錯覚をしてしまうのです。
長く連れ添っている夫婦がいるとします。
30代には30代の自分と相手が、40代には40代の自分と相手がいます。
ずっと同じ姿、同じ考え方でいる人は、まずいないでしょう。
しかし毎日顔を合わせていると、日々の生活に流され、お互い意識することも少なくなり、大切なことを見落としてしまいます。
それは30代の自分と相手、40代の相手は決して同じではないという事です。
お互いの存在を認める事を忘れ、先の見えない老後ばかりを気にしながら。
その時、その瞬間の積み重ねが、未来となるにもかかわらずです。
今、愛し合わないで先延ばしにする事は出来ません。
気が付いた時には遅いかもしれません。
今、手をつなぎ、腕を組み仲良くできなければ、将来もやらないでしょう。
逆に言えば、今を大切に、出来る事をすれば歳を重ねても、違和感なく自然な事として、触れ合えるのです。
写真やVTRに撮ったら確かに形としては残ります。
でもそれは単なる記録であって、生ではありません。
一瞬一瞬を心に留め、存在を認める事と、記録するという事は、同じではありません。
たしかに記録を残す事は、思い出として楽しみなことです。
写真やVTRで思い出がよみがえることもあります。
でも、例えば子供が運動会で一生懸命走っている時、
写真やVTRに撮る事ばかりに気を取られると、頭の中は記憶容量、バッテリーや編集の事、場所探しにいっぱいで、そこには生の子供がいません。
その瞬間しか味わえない表情も、動きも見逃すことになります。
もし生の子供を自分の目で見ていたとしたら、そして瞬間を逃さないようにしていたら、子供は愛を感じ、自分もまた愛し愛されていることを感じるでしょう。
今この瞬間は今でしかなく、今しか味わえないのです。
今を過去に戻す事も、未来に先延ばす事も出来ません。
VTRや写真を仕舞ったまま、何年もそのままにしていませんか?
人には脳という素晴らしい記録装置があります。
思い出は時間が経つと、まるで演出されたようによみがることでしょう。
人の記憶の素晴らしさに優る記録装置は無いのです。
と同時に、祖先から受け継いでいるDNAの「危険を避ける」という意味合いから、苦い経験や嫌な苦しい経験は刻まれるように、いつまでも残り続けるのです。
それは、経験として記憶し、同じような過ちを繰り返さない為です。
ですから、
愛している人からの負の記憶は、とても辛い記憶として残るという事を、常に頭に入れて行動するようにしなくてはなりません。
素敵な思い出を沢山、脳に記憶する為には、今を大切にする事です。
後回しが出来ないからです。
先延ばしに出来ない瞬間を、焼き付けるようにすべきなのです。
それは自分の為だけではなく、周りを巻き込んで幸せになれるからです。
人間は、愛するという能力を持ち生まれました。
自分を愛することは生きるという事であり、自分以外への愛は生かされているという事です。
気付かないでいるだけ?
改めて考えて欲しいのです。
愛せる、与えられる、そんな対象(人間に限らず)がいる私達は幸せです。
美しい景色や花々、子供、それらを見ている時の心と、とてもよく似ていませんか?
何も愛の対象は人間だけではありません。
いつも使っているボールペンやノート、靴、カバン。
「愛用品」という言葉どおり、それらの存在を認めているからこそ大切にしているのです。
錆びたままの自転車やタンスの中に眠ったままの服は愛されていませんね。
車を例に考えてみましょう。
いつもピカピカに磨かれた愛車、ホントに言葉どおり愛車でしょうか?
車という存在を意識しているでしょうか?
車の構造や機能の把握、消耗部品の点検、おろそかにして、人任せではありませんか?
存在を意識する事、この場合自分自身でしっかりと車の構造や状態を知り、観察し点検していれば、車もちゃんと答えてくれます。
洗車する事が、悪いとは言っていません。
洗車の際に、不具合が見つかる事もあるからです。
ただ磨き上げる事や、キズばかり気にしているだけならば、それは、「所有欲」「執着心」の表れで、自己満足に過ぎず、少し傷がついただけでも、常に車が頭の中につきまとうでしょう。
所有、執着は、勿論愛ではありません。
執着は、何も生み出さないばかりか、本質を見失い、つきまとい、頭から離れられなくなり、結局大切な時間を失ってしまいます。
車やモノならまだしも、対人間となると執着は形を変え憎しみとなり、相手は勿論、自分さえもを傷つけてしまいます。
人間は、モノではありません。モノであれば簡単に捨てる事が出来ますが、どんなに、関係が深くなったとしても、一人の人間としての尊厳があり、自分の思うようにさせる事など、求める事も、強要する事も決して出来ないのです。
愛とは、「対象その物の存在を認めること」
愛するとは「認めたものを受け容れること」
存在を認める事というのは、対象になるモノをよく観察し、自分の中で反芻し味わい逃さないようにするといっても良いでしょう。
そして良いことも悪いことも、長所や欠陥も含め全てを受け容れる事が、愛するという事なのです。
対象が自分にとって都合が良く、居心地が良く、もしくは思い通りになる事を愛と勘違いしてはいけないのです。
そうなると与えた分だけ、もしくはそれ以上に返してもらわないと、愛がないという短絡な考え方になってしまうのです。
愛に、愛するという事に損も得もありません。
また強い、弱いという愛もありません。
そしてあげる事でも、もらう事でも無いのです。
「愛してるから……」の先は無いのです。
「愛してる」それだけです。
愛とは?(2)に続く…
映画大好きな私のお勧めの作品です。
ご覧になった方も、もう一度観てみると、違った見方が出来るかもしれませんよ。
★1993年アメリカのロマンティック・コメディ映画
『めぐり逢えたら(Sleepless in Seattle)』は、名優トム・ハンクス(Thomas Jeffrey "Tom" Hanks)、メグ・ライアン(Meg Ryan)主演で、まだ若いトムやメグが繰り広げる、見えない赤い糸を思わせる様な素敵な作品です。
1939年の映画『邂逅(Love Affair)』のリメイクが、有名な1957年アメリカ制作の『めぐり逢い(An Affair to Remember)』で、こちらもアメリカ人なら必ず知っている名作です。そのまたリメイクが、「めぐり逢えたら」で、作品の中で「めぐり逢い」をTVで観るシーンが出てくるのも面白いところです。
★1997年イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』
ロベルト・ベニーニ(Roberto Benigni)監督・脚本・主演作品。
喜劇仕立てではありますが、第二次世界大戦のナチ強制収容所での生活で、子供に夢を与え続ける父親の姿に、涙がこぼれます。辛い境遇の中でも「人生は美しい」という言葉のどおり、愛で溢れた家族の作品です。親子や恋人とご覧になるのも、お勧めの映画です。
★2005年ブラジル映画『フランシスコの2人の息子(2 filhos de Francisco - A história de Zezé di Camargo e Luciano)』は、ブラジルのミュージシャン、『ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノ(Zeze Di Camargo & Luciano)』とその家族の半生を事実に基づき描いています。
貧しい中、家族を基点として様々な人生模様を描き出している作品で「愛」の色々な形が垣間見えます。
劇中の後半に流れる『エ・オ・アモーレ」(È o Amor)』が心を揺さぶります。
★2016年フランス映画『あしたは最高のはじまり(Demain Tout Commence)』
LGBT『レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)』や人種といった問題、血の繋がり等を、さり気なく触れながら、フランスらしい映像で見せる作品です。コメディではありますが、「幸せ」「愛」がテーマになっています。
主演は、2011年の映画『最強のふたり』の主役でも有名なオマール・シー(Omar Sy)
今回も、素晴らしい演技を見せてくれています。心が暖まる素敵な作品ですよ。