たった一度きりの人生
大切な時を積み重ね
毎日毎日飽きるほど
奇跡を味わって
先の見えない連続を
僕らは当たり前だと装って
何を求めているのか
何を刻んでいくのか
こんなにも切なくなるほど
生きているのに
以前このブログにも書きましたが、私は精神をやられ、その辛さからお酒に頼るようになり、結局アルコール依存症までなってしまいました。(注1)
最後のほうは、字がまともに書くこともできず、起きたら飲み、ロクに食べないでまた飲むという、最悪な生活をしていました。
様々な不快で苦しい症状から逃げるには、一番手っ取り早い方法だったのです。
母親や弟もアルコール依存症で、結局死んでしまった事を一番分かっていた私自身なのにです。
勿論その代償は大きく、大切な時間を無駄にしたばかりか、友人達とも疎遠になってしまいました。
妻が黙って支えてくれていた事が、地獄から抜け出すキッカケとなりました。
噓っぱちの自分でいた時間は、たとえそのキッカケが病気だとしても、夫として、父親としての大切な時間を、酔っ払いとして過ごしてしまったのです。
私の父親は大手鉄道会社に勤めていました。
昔の写真を見ると、社員旅行や新年会など、昔ながらの光景が写っています。
どの写真も、笑顔で写る白黒の父の顔が映っていました。
社員達は家族よりも長い時間を過ごし、苦楽を共にする仲間、家族の様でした。
父は真面目な人間で、それゆえ学歴が高卒という負い目があり、苦労していたらしく、私が中学校の頃、ストレスで胃に穴が開き手術、ほどなくしてうつ病になってしまいました。
確か完治するまで半年くらい掛かったと記憶しています。
ただそんな真面目な父親でしたが、家庭では笑顔を見る事はありませんでした。
私が小学生だって頃、夕方父とキャッチボールを一度した記憶だけを今でも鮮明に覚えています。
たった一度だけのキャッチボールでした。
会社で見せる顔と家で見せていた顔、二つの顔を持っていたように思います。
気が強かった母とも、よくケンカをしていました。
それでも、親戚の集まりや近所には、にこやかな顔を見せていた両親。
まだ精神的に不安定だった私は、その矛盾に苦しみ、居場所がありませんでした。
家を飛び出したのは、18才頃で、それ以来ずっと実家には寄り付かなくなりました。
30代の初め、父から突然電話があり、母親を何とかしてくれという事でした。
それは、キッチンドリンカーから、アルコール依存症になり、毎日朝からお酒ばかり飲んで、食事もしないという内容でした。
実家に戻り、母の様子を見た時、息子として、何とかしなくてはという気持ちより正直、生気が無く気味が悪い思いと嫌悪感が、ふつふつ湧いてきました。
ここまでほったらかしにしていた父に対してもです。
依存症の治療病院に入院させ、何度か様子を見に行きました。
当時は、大きな部屋にベッドがいくつも並んでいて、カーテンも無く大勢の患者でいっぱいでした。
アルコールを飲むと気分が悪くなる薬を飲む治療だけで、あとは寝るだけの惨めな母の姿を見る度、自分でも不思議なくらい、母に対し愛情を感じる事が出来ないしらけた自分がいました。
結局、2度の入退院を繰り返して、脳の萎縮からテンカンを起すまでになったしまったのです。
その後、母と会ったのは彼女の死後でした。
後を追うように父と弟が亡くなり、家の整理をしている時にアルバムを見つけました。
若い幸せそうな両親が写っている、黄ばんだ白黒写真を見つけ、初めて涙が出てきました。
今でも、私の心の中の両親は噓っぱちのままです。
もっとたくさん一緒に笑いたかったし、もっと話を聞いて欲しかったのです。
手作りケーキもキャッチボールも、やって欲しかったのです。
人生は本当にあっという間に過ぎていき、子供もすぐに大人になっていくもんです。
確かに社会に出ると、自分を殺し我慢することだらけです。
ストレスだって貯まるし、愚痴も言いたくなります。
でも、大切なのは、その為に生きているのではないという事です。
嘘っぱちで溢れている世の中で、嘘っぱちのまま人生を終わらせる為に、私達は生まれた訳ではありません。
誰か、たった一人でも本当に幸せにする事が出来れば、それは静かな波紋のように広がっていくのです。
その幸せを生み出すのは、本当の自分で、本気でやらないと生み出せません。
幸せに嘘っぱちはありません。
誰でも勝手にほっておいても大人になりますが、人間として大人になる事とは違います。
誰かを傷つけたり悲しませる度、おとしめたり、差別する度に、大切なカケラを失くしていくのです。
自分をごまかしたり、妥協ばかりしたりしても、失くしてしまいます。
まるでジグソーパズルのピースを一つ一つ失くしてしまうのと同じです。
一つ一つのピースは、見ても何かよく解りませんが、組み上がっていくと、一つの作品になります。
だからこそ、小さなカケラ、ピースを失くしては作品は出来上がりません。
何だか解らないピースこそ、失くしてはいけない大切なモノなのです。
誰かを幸せにする事は、その人のピースを組み合わせるお手伝いのようなものです。
失くしたピースを見つけてあげる事です。
ピースを見つけた時が、組み上げる手伝いをしている時が幸せの時間なのです。
だから真剣にならなければ出来ない事なのです。
もしあなたが大切なカケラを失くした時、それは人生という大きなジグソーパズルをくみ上げている事を忘れてしまった時なのです。
小さな世界観で右往左往しながら、アバターを使っていては、決してその事に気付きません。
それに気が付いた時が、噓っぱちから本物になった時でしょう。
私達は、良くも悪くも人間として生まれてきました。
人間は独りでは生きていけない事を、自然の摂理が選んだのです。
それは、支え合う必要性を伴っての事です。自然の選択なのです。
自然は本物であり、噓っぱちではありません。
厳しく、辛く、時には命までも奪う本物です。
だから生きる事自体が、苦を伴うのであり、その中で垣間見る幸せが、愛おしいものとして、輝くのです。
もしあなたが噓っぱちであったとしても、その時に失ったカケラ、ピースは、探し出す事が出来ます。
あなたが、自然体として噓っぱちでなくなると、一緒に失くしモノを探してくれる、組み上げてくれる人が必ず現れるでしょう。
大切な人達や、もしかしたら見知らぬ誰かが、あなたのジグソーパズルを組み上げるために。
それが人間としてこの地球に誕生した自然の摂理、選択だからです。
当たり前ですが、時間をさかのぼる事は出来ません。
今この瞬間が過去になり、未来になります。
すなわち今が一番若くて、一番年寄りなのです。
噓っぱちに気が付いた時が、一番早くて遅いのです。
生きる事自体が苦を伴い大変な事だという教えを、童話でも、また学校でも教えて欲しいのです。
当たり前の様に思う事が、当たり前では無い事や、おかしな価値観を教えるのではなく、正義と悪の境界線を自分の力で見い出せるように。
アヒルもウサギも、カメやオオカミも、素晴らしいあるがままの姿であり、何より他のものにはなれない事。そして、なる必要も無い事。
あなたも、あなたで誰のマネも出来ないし、誰もあなたを演じる事は出来ない事も。
一度きりの人生をどう生きていくか?
選択するのは、まぎれもなくあなた自身です。
沢山の本物に出会い、味わえる機会を見逃さないようにして下さい。
そして噓っぱちを見抜く力を付けていくようにしたいものです。
「In some open-minded social environment, people mentioned the sober opinion is limited.
On the contrary, it is most people can not even have an opinion.」
『偏見のある社会環境で、冷静な意見を述べられる人は限られている。
それどころか、意見を持つことさえ出来ない人がほとんどだ。』
(注1)アルコール依存症やその他のギャンブル、薬等、間違えていけないのは「病気」という事です。
本人がいくら「大丈夫、やめるから」と言っても、病気だという自覚がありません。
出来るだけ早く、病院で治療しなくてはいけません。
また依存症での行動をたしなめても、逆効果になってしまいます。(私がそうでした)
「病気」という事を周りの人達も理解して対応しなければ、深みにはまってしまう可能性が高くなります。とにかく早く適切な治療を受けるよう、受けさせるようにして下さい。
治療をすれば治りますが、経験から強い意志が必要なのも確かです。
本人の「病気」としての自覚が、とても大切なのです。
そして支えとしての人間関係も必要です。