心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

孤独と独りは違う!⦅歳を重ねて⦆(2)

人間は、当たり前だが歳を取る。

長生きすればするほど次第に見送る人も多くなる。

ただ、命が長らえるだけの話なら簡単に済むが、生きている意味にも関わってくる事で、人間としてどう生きていけば良いかという事も考えていかなければならない。

 

このブログ「生と死と宗教の狭間(はざま)・前編」でも書いたが、チューブに繋がれたままベッドに横たわる人達を見てきた私は、生きる事とは何かを考える意味で、その事を考える大切さをつくづく痛切した。

とにかく一人で生まれ一人で死んでいく。

生と死の狭間をどう考えて生きていくのか?という事になる。

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最近、生涯現役や健康寿命という言葉をよく耳にするが、元気で、何か目標なるモノを持っている人ばかりではない。

人それぞれの生き方があり、基準やルールがあるわけでも無いし、環境が違うという要素も加わり、さらにお金の問題も大きく生き方に影響する。

日本人の貯蓄率は世界でも常に上位にランクされているが、裏返せば、政府は当てにならないから自己責任で人生を考えろとも言える。

要するに、国の老後設計の政策に対する不信、不安感が高いとも言える。

ただ単純にみんな貯蓄が多いわけでも無く、やはり年収の高い人ほど多く、かなりの開きがある。

 

現代は、私達にとって生きにくい世の中だ。

社会から取り残され、こぼれ落ち見過ごされている人が多くなっている。

親の貧困が、若い人達の不登校や引きこもり、ヤングケアラーに結びついている場合も多く、加えて孤独死と次から次へと問題が浮き彫りになってきている。

痴呆問題や老老介護も、いつ誰がなってもおかしくないのが現状だろう。

 

そして、お金が無いと悲惨な結果になる事も多い。

なにをするにも元手が必要であり、年金も少ない中どうしてよいか、私自身も含め途方に暮れてしまう。

不安ばかりが頭をよぎり、ただでさえ前向きに考えられなくなっている状態に拍車をかける。

先の事を考えると不安になる人達も増えていると聞く。

少ない年金や人生百年で働けと言われても歳がいけば体力も気力も衰えるのは仕方が無い事で、頑張りだけではどうしようもないのだ。

誰でも歳をとり、出来る事も出来ない事も増えていく。

勿論私も例外では無い。

まして貯金も無く病気を抱える私なんか、お先真っ暗状態だ。

 

人の数だけ人生があり、経験や教育もみんな違った人達で構成されている社会。

その社会の中で生きている限り、基本となるモノはどうしても他人との比較になる。

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「孤独と独りは違う!⦅1⦆」で書いたように、独りになりきれない人達が沢山いる。

今、その様な孤独な人達が溢れ、それを埋めるようにペットを飼い、消費し、上辺の美しさにお金をかけている。

心の隙間を埋める為に。

お金があればの話だが。

 

心の話に移るが、身近な人がいなくなるのは、とても寂しい。

冷たい表現になってしまうが、過ごしてきた中で本来当たり前でない事が当たり前のように思っていただけに過ぎない。

すなわち、誰もが死ぬという事実だ。

今の状態がいつまでも続く事は奇跡の連続であり、日々の変化に気付く落ち着いた時間の無さは、

例えば「あなただけ。ずっと想い続ける」と約束し合っても、やがて日常の一コマになり、車窓から流れる景色の様に過ぎていくものになってしまう。

それも、通勤電車から見る景色の様に、次第に外を見る事もやめてしまうという事だ。

人間は、「慣れる」そして「飽きる」だから刺激を求める。

脳が、同じような繰り返しを良しとしないからだ。

ただ、日常生活している中で、刺激のあるような出来事はそうそう起こらない。

サプライズもミラクルも、何度も起きればそうでなくなる理屈と同じだ。

以前にも書いたが、精神を患って以来、人と会うのが億劫になってしまった。

顔見知りならともかく、見知らぬ人に会うと途端気分が落ち込み、喉のあたりを締め付けられる様な感覚になり、頭の後ろ半分がまるで鉛でも詰まっているかの様な辛さを感じる。

ただこの時期息子の進学という事もあり、役所や学校に何度か行かなくてはならないので、その度に薬を飲む間隔(医者の了解の元)も短くなる。

誰かと会わなければいけないと考えるだけで、具合が悪くなるので本当に困ったものだ。

そんな中、数十年ぶりにフィリピンパブで知り合った仲間から、飲み会のお誘いの電話がかかってきて、知り合いだし気分も変わると思い、会う約束をした。

居酒屋で待ち合わせをし、結局私を入れて4人集まったのだが、飲める人は1人だけ。

肝臓を傷めて飲めないとか、健康を考えて禁酒しているとか、アルコール依存症経験者の私も含めウーロン茶で寂しく乾杯をした。

殆ど歳が変わらないメンバー達だが、みんなそれぞれ苦労している中、必死で頑張ってきたようだ。

最初は身体の調子が悪いだの、どこそこが痛いだのと、まるで病院の待合室の様な会話が多かったが、彼らの目は、初めて合った時と変わらず子供っぽく、キラキラしていて束の間だったが、私も若さを取り戻したような気分になった。

職業も経験も全く違う彼らの話は、近況報告と思い出話から始まって、現在の政治情勢や社会の在り方、人生論まで実に幅広く、会話が途切れる事も無く、もう何年もあっていなかった友人達だったが、あっという間の3時間の飲み会となった。

何より健康で生きる事を楽しもうと約束して別れたのだが、最後までキラキラした彼らの目を思い出し、足取りが軽かった帰り道だった。

 

歳をとり、現状を素直に受け止められなくなり、事あるごとにいら立つようになってしまう事があるが、諦めと挫折、後悔や失敗は誰にでもあるし、そこから学ぶか立ち尽くすか、あるいは後戻りするかは個々の選択に過ぎない。

色々な経験をしてきた中で、思うように出来なかった事を糧とせず、常に「運が悪かった」「アイツのせいで」という他力本願的思考の責任探しをどうやら脳はやりたいようだ。

せめて、自分よりも恵まれていない人を見つけ安心したいのかもしれない。

それは、歳を重ねるほどその傾向になるようである。

切れやすい中高年のニュースも多い。

レジでも、お店の店員にも、並んでいても、運転している時もイライラしている中高年者をよく見る。

結局のところ「孤独」なのだ。

自分の存在を、他人に感情をぶつける事で確認したいのかもしれない。

そして、過去の不幸だった自分の人生の事を清算したがる。

マイナス分を取り返すつもりだろうが、さらにマイナスを増やしているだけで、不幸が不幸を招いている事になる。

 

孤独は、物理的なものと精神的なものの二種類あるが、単純には分けられない厄介なモノだ。

相互に絡み合っている事の方が多い。

前述した友人達も、決して裕福でも無く、私的な深刻な問題も多く抱えている。

ただ、彼らに共通している事は孤独では無く、独りでいる姿勢なのだ。

山ほどある課題、目の前にある事をまず片づける姿勢と過去にこだわらない事。

まだ来ない先の心配をしないなど、他力では無く自力で取り組む姿勢が、独りとしての自分を確立しているのだ。

若い時と、歳を重ねた時の孤独の感じ方は違うかもしれないが、生きている事が全てであり、後はおまけという考え方と言ってもいいかもしれない。

 

退職後に途方に暮れる人が多いと聞く。

会社では同僚や部下などとコミュニケーションがあり、人間関係には事欠かないが、退職したその日から話し相手も飲みに行く事も無くなる羽目になり孤独になってしまう。

やたら連れ合いに絡まったり、ペットを飼ったりと色々試すが、孤独のままでいる限り満たされる事は無いだろう。

孤独と独りは全然違う。

 

孤独は徐々に忍び寄るものだ。

奇跡の確率で生まれ、奇跡の様な毎日を生きている事が、当たり前の繰り返しの様に、そして誰かの助けが、繋がりがある事を考えなくなってしまいがちになる事で、孤独が忍び寄って来る。

勿論、身近な人を失くした時は喪失感や孤独感を味わう事になるが、だからと言ってイコール孤独とは言えない。

目の前からは居なくなっただけに過ぎず、心の中に存在している事への気付きが、孤独感をはねのけてくれるからだ。

孤独は客観的に自分を見る事が出来ない人、現実を受け入れる事を素直に認めない人が陥りやすい。

ただ誰にでも起きうる事でもあり、自分の存在を他人を、地位や財産、権力を通してしか自覚できない所から始まるまさに錯覚だ。

そもそも、自分がどんな人間なのかは死ぬまで判らない。

まして第三者からの評価すら、怪しいものなのだ。

どんな人間だったかは、関わった人達の記憶の中に刻まれるだけである。

どんな人間になるかは日々の生活の中で、築いていくものだからだ。

だから普段から○○の○○さんという生き方を変え、自分の廻りにまとわり付いている固定観念や社会的な位置を脱ぎ去る必要がある。

すなわち素の自分って何なのだろうと考える事が大切なのだ。

しかし、答えは死ぬまで出ないだろうが、その探求こそが「独り」への道と言える。

人間は決して一人で生きていける動物では無い。

身近な人に限らず見も知らぬ人達のお陰で生きていける。

私の父がよく言っていた「誰のお陰でメシが食えると思っているんだ!」というセリフ。

昭和のおやじ達がよく言っていた言葉だが、そのおやじ達を支えている人達は、会社の人間だけでは無い事に気付いていないところに不幸がある。

それは、自分という意味付けをやたらしたがる人達に欠けている視点だ。

 

「独り」とは何でも一人でできるという意味では無い。

誰かに助けてもらう事が出来る力を持っている事と、謙虚さをもって生きている事に感謝している人の事だ。

出来る事と出来ない事をハッキリ分けて考える事でもある。

だから過去を振り返る事をあまりしないし、過去の失敗や不幸せを未来に、すなわち明日に持ち込まない。

だからこそ未来の起きてもいない事に煩わされる事も無くなっていく。

同じような景色を違った観点から見られ、新しい事や他人の意見に耳をかせられる柔軟な脳を持っている事だ。

すなわち、学びの姿勢を忘れないという事で、と同時に想像力や楽しい妄想を描ける余裕なのだ。

自分の中に果てしない宇宙を感じる力と言ってもいいかもしれない。

高齢化が進む中、やはり孤独の問題も多くなっている。

一人で住んでいようが、病気を持っていようが孤独では無く、独りとして生きていけられるようにする為には、何度も書くが○○の自分という肩書を捨てる事と、助けを必要とした時に自ら発信する行動力、そして何より、どんな事があっても生きる事に尽きる。

趣味を持つ事や仲間を作る事など、当たり前の様な解決策なんか無視してもいい。

出来る人はとっくにやっているからだ。

ただ、もし力になってもらう事で、生き生きする事が出来るようになるなら、こんなに素晴らしい事は無いだろう。

誰かのチョットしたキッカケを活かせる事が出来れば、心が元気になる事もある。

病気になってしまい、身体が動かなくなるのは誰でも辛いし、その可能性は誰にでもある事で、身体の衰えや健康でないと心も沈んでいくのは事実だが、誰も「心」を縛ってはいないし、自由である。

孤独も独りも環境の問題だけでは無く心の問題として捉えるべきであり、どんなに居心地の良い環境の中にいても、また多くの人達に囲まれていても孤独になってしまう事だってある。

世の中のセレブ達がみんな幸せで孤独で無いなんて誰も思っていないのと同じだ。

病気と闘っている、もしくは障害を抱えている人が孤独であるとは思わない。

誰かの基準で線引きをする事を辞めなければ、心は自由にはならない。

 

誰でも生きている中、何度か孤独感にさいなまされる時がある。

若いうちなら立ち直れる可能性も高いが、歳がいけばいくほど抜け出す事が難しくなる。

新しい事を始める事や環境を変えたくなくなる。

体の衰えも拍車をかけるだろうし、病気だってするだろう

心細くなってしまう事もあるし、意味が無いと落胆する事だってある。

それは、誰もが思う事で、特別な事では無いごく普通の感情だ。

でも、それは自分の選択の結果であり、誰のせいでも無い事を今一度考えるべきだ。

残された時間、それまで歩んできた道を振り返るよりも、例え遅くともまっすぐ前を向いて歩み続けたい。

生きてきたんだ

記憶が多く積み重なり

だから

一輪の花からさえ

物語を紡げる

雨の匂いからさえ

遠い過去に戻れる

時間の流れは

その気付きの為にあり

死の恐れさえ和らぐ

 

これまで生きてきた自身の記憶は、たった一輪の花からでさえ多くの物語を引き出す事が出来る為のものであり、日々の生活の中に隠れていた幸せを感じる為でもある。

変わらない景色や日常を、考え方や見方を変える事で孤独から解放されるだろう。

但し、気付きが無いと折角人生で学び、経験した事も無駄になってしまう。

「気付き」それは謙虚さから生まれてくるものだ。

出会ってきた多くの人達や取り囲む自然に対する、生かせてくれた事への謙虚な心持とも言えよう。

死んでからは決して出来ない事であり、今すぐ必要な心の持ち方なのだ。

誰かの為、見知らぬ人でもいい、その為に時間を作る事、自分を捨てられる時間こそが孤独から解放される。

その事が、その誰かの中にあなた自身が生かされ、その人の人生の一部になる。

所詮人間は、一人で生まれ一人で死んでいく。

足掻(あが)いても、後悔しても、過去に縛られても必ず死んでいくのだ。

誰かのせいにしても元に戻るわけなど無い。

ならば、「独り」を楽しむ方がずっといい!

 

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