「自分を信じていますか?」
もしそんな問いかけをすると、ハッキリ「信じている」と断言出来る人は、そう多くはいないかも知れません。
よくスポーツ選手が「自分を信じて頑張ってきました」とインタビューなんかで話していますが、そもそも、「自分を信じる」とはどういう意味なのでしょうか?
信じる為には、「自信がある」と言われる「努力が実を結ぶ」の様な未来志向や経験の裏打ちがある事が前提です。
一般的には色々な葛藤を経て、自分自身でやり方や考え方の指針を見つけ、動じない一つの芯が心の中に出来た状態を指すのでしょう。
では、自分に対して自信が無い人とは、どんな人でしょう?
考えると解りますが、まず社会的な地位や財産、学歴等の裏打ちが他人に対して誇れるものでは無い場合も、自信の無さにつながるかもしれません。
その他、容姿や学習、運動機能といった身体に関する事も考えられます。
また、コミュニケーション能力や意思伝達等、他人に対する関わり方が上手くできないという事もあるでしょう。
経験不足で、出来るかどうか解らない場合も考えられます。
これらの自分を信じられない理由が示しているのは、ほぼ誰かと比べる事で起きる感情という事になります。
当然、社会生活を送る上で、誰でも感じる感情で、「他人と比べるな」「自分は自分」と頭では解っていても、どうしても比べてしまうものです。
「心の中は、空っぽがいい(1~2)」を読んでいただければ理解できると思いますが、自分に対して、自信が有る無しは、実はどうでもいい事なのです。
裏打ちがいくらあっても、時代や環境が変わると、あっという間にひっくり返され、まして世の中のスピードが速い現代は、基準もコロコロ変わるからです。
ファッションやスイーツもすぐに時代遅れになってしまうのと同じ理屈です。
結局、自信も確たる根拠があるとは言えないのです。
冒頭の「自分を信じていますか?」という質問を書いたのは、このような観点から入り、心や自分と向き合うという話ばかりが巷(ちまた)に溢れかえっていて、この視点から入り込むと、答えなんか見つからない事を解ってもらいたかったのです。
別に自分を信じていようがいまいが、どうでもいいですし、信じているなら素晴らしいとも思いますが、何が起きるか解らない明日の自分の事すら、どんな事を考えているのか解らないのです。
夜、寝る前に考えていた事が、翌朝バカな考えをしていたと思うのと同じです。
要するに、「心」に対するアプローチ、見つめ、どのようなものなのかを探る作業が、間違っているのです。
自分の事をハッキリと解っている人などいませんし、一日たりともジッとしていない心の事なんか解るわけが無く、まして他人の事などもっと解るわけが無いのです。
だから人によっては禅をしたり瞑想をして、心の動きを見張ったり無の状態を作り出し、自己の探求をしているのです。。
「心の中が空っぽ」というと、マイナスなイメージで語られます。
喪失感や絶望感、無気力に自己嫌悪と虚無感の状態を表す状態の事になりますが、実際には心の中が色々なものに占領されて、整理がつかず何をしていいのか解らない状態なのです。
つまり、空っぽではなくパンパンで、身動きが取れない事です。
「心の中は、空っぽがいい」
それは、余計なモノを詰め込みすぎて、入る余地が無いという状態や、中に入れるモノをごちゃごちゃかき回して、しかもどんどん入って来る意味のないモノで、整理が追いつかない状態を作らないという事なのです。
よく「想像力」「謙虚」「可能性」「多様性」という言葉をブログ内で書いていますが、前提になるのは、自分を「決めつけない」という事です。
決めつける要因は、世の中に出回っている価値観や常識という、根拠がハッキリしないものに、自分を近づけようとしている所にあります。
協調性は要らないという事ではありません。誰かのコピーになっても意味が無いという事です。
このブログで「心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。」
そして例として植物の「竹」の様なものと書きました。
竹の中がいっぱい詰まっていたら重くなり、しなやかさは生まれず簡単に折れてしまうでしょう。
電信柱が中空になっているのは、その理屈からです。
竹の中はカラ「空(くう)」で、心という器にあたる部分である「側(がわ)」「稈(かん)」が支えています。
もし、外側に穴や亀裂が入れば支えられなくなり、倒れてしまうでしょう。
側にあたるものは、人間性、人が従うべき道です。
すなわち「痛みの解る優しさと謙虚さ」 で、進化で獲得した新しい脳が生み出す感情の事です。
難病で入院している子供達や障害を持っている方々、災害や病気で、愛する人との予期せぬ別れを経験した人達などが持っている感情かもしれません。
その他、警察官や消防隊、自衛官の方々の根底に流れているものです。
年齢も経験値から見ると関係しますが、どれほど長生きしても学びの姿勢が無ければ、身につきませんし意味がありません。
歳を取っても理不尽な虚栄を張る人がいる事が、それを物語っています。
それらを身に付けていかないと、心に穴や亀裂が入るばかりか、上へ成長する事もままならないのです。
ただただ、時間だけが過ぎていき大きくなるだけで、いつ折れたり腐ったりしてもおかしくないという事です。
大切なのは、人間として元々備わっている人間性「側(がわ)」「稈」をしっかり作り上げていく事なのです。
そこから始めていかないから、迷いや誘惑、おかしな自尊心が絶えず顔を出し、落ち着かないまま不安になってしまうのです。
そして自分探しの為に、誰かを物差しにする羽目になるのです。
竹の根は土台に当たるもので、地下茎と言われる土の中で張り巡らされている根です。
その為、しなやかさに加え、地下茎のお陰で強い風でも倒れません。
また、茎同士つながりがある為に、水や養分を手に入れやすくなっています。
すなわち、地下では竹同士が繋がり合い、支え合っているとも言えます。
その土台、根にあたるものは「好奇心」「想像力」「夢」という言わば、知的生物が獲得した源になる力です。
日々、当たり前を良しとせず、疑問をそのままにしない。
そして「なぜ」という好奇心を持ち、「想像力」を働かせて物事を見る目を養うという事です。
この根がどんどん伸びれば、土台もしっかりしていきます。
そして土の中で繋がっている他の「多様性」という竹と共に支え合う事が出来るのです。
言い換えれば人との繋がりが豊かになり、相手あっての自分という捉え方の大切さを意味するのです。
竹は根から水や養分を吸い上げ、側(稈)の中を通る道管や師管と呼ばれる水と養分の通り道の束(維管束鞘いかんそくしょう)を経て大きくなります。
すなわち「多様性」という繋がりによる「想像力」や「可能性」という養分を吸い上げ、成長していく先に、未来という空(そら)に向かって伸びていく姿になるという事です。
竹の節の間隔は、下は短く上にいくほど長くなります。
他の樹木と違って、節に分裂組織があり、成長点の数が非常に多いので、節ごとに大きくなっていきます。洗濯機の排水や掃除機のホースの様なジャバラを伸ばすように成長する事が出来るので、大きくなるのも早いのです。
樹木の様に太くもない竹、折れる事が少ないのも、この節の長さが関係しています。
下は、自重を支える為短く、上はしなやかさを持つ為に長いのです。
人間の心に例えても、同じような事が言えます。
成長するに従い、心が大きくなっていきます。
節目節目に積み上げていく心は、次第に広くなっていくのです。
若い時よりも、持ち込む事が減っていき、広さと相まって軽くなり、どんな困難という風にも耐えられるようになっていくという事です。
自然は驚くほど巧(たくみ)で、人間もそうあるはずです。
ただ、残念な事に最大の武器である脳を活かしきれないで、現実社会の小さな世界で、もがいてしまっているのです。
重いものをしょい込んだままでは、折れてしまいます。
それも、本当に大切なものかどうかも、よく解らないでしょい込むのです。
心の積み重ねも出来なくなります。
ハウツーで得る様な知識は、所詮知識で、活かすも殺すも土台が、側がしっかりしていなくては、ただの紙屑です。
タケノコのように、生まれたての頃は、土台、側はまだ出来ていません。
タケノコなら掘り出して美味しく食べるだけの話ですが、人間はそうはいきません。
周りの親を含め様々な大人達が「側」の役割をしてくれ、守ってくれますが、大人になるにつれいつまでも守られる事は無くなっていきます。
「側にあたるものは、人間性、人が従うべき道」と書きましたが、幼い頃は、家庭では勿論、幼稚園や学校で、やってはいけない事を習っていきます。
また友達などの関係性から自我が芽生え、他人と自分の区別を理解するようになります。
そして人の嫌がる事をしてはいけない事を学んでいくのですが、同時に他人との比較をする事も学びます。
このブログで何度も書いていますが、人間は誰かの助けなしに生きてはいけません。
毎日の食事から移動、仕事と全て誰かの関りがあって生活しています。
その関わり合いを意識する事は余りありませんが、「いただきます」という言葉の意味が示すように、何気ない毎日に感謝する事であり、それには「謙虚さ」が必要になります。
諂(へつら)ったり、相手を立てたりするという意味では勿論ありません。
一歩引き、相手の立場になれる「想像力」です。
本当の意味での自我の芽生えとも言えるでしょう。
誰でも自他を問わず腹が立ったり不満に思ったりしますが、その様な感情をコントロールする為にも、「側」の役割は大きいのです。
残念ですが、子供のまま大人になった人が増えてきているようです。
民主主義国で、自由な発言が出来る事を盾にして誰かを傷つける人達は、「側」の無い裸の王様と同じで、寂しい限りです。
心の中には
全てがある
命の秘密も
過去からの声
無言の指針も
心の中の探求は
寿命という時間
思っているより
はるかに短い
全てを否定するわけではありませんが、子供の頃の教育の弊害とも言える、型にはまった人、型通りの事しか考える事が出来ない人を生み出す社会は、どんどん疲弊し活力が無くなり、住みにくいものとなる事でしょう。
何故なら自然は多様性無くしては、滅んでしまいます。
変化に順応する為の多様性が、生き残りのチャンスになるからです。
指標となる物差しも、誰かやモノで決めていくと、おのずと世界は狭まり、息苦しくなるでしょう。
モノに溢れ、どんなに便利になっても、逆に心はどんどん孤立していくかもしれません。
満たされない何かを求め続け、内なるもの、湧きだしてくるものの力を軽んじているからです。
重くなってしまった心を一旦(いったん)、
空っぽにしましょう。
私達は、この世に遊びに来ているのですから。
そして、
必ず還る時が来るのですから。
遊んでいる子供達、
きっと頭は空っぽですよ!