心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

不公平という壁⦅平等と教育⦆(2)

この記事で不公平を是正せよとも、受け入れろとも書いていません。

ただ、諦めてとも書いていません。

見方を変える事の大切さを改めて考えて欲しいのです。

 

平等に日は上り、時間は過ぎていきますが、「自然」は見方を変えると不公平そのものです。

人間を含めた生物に対して、都合の良い様に流れてはくれません。

時も場所も選ばず、予告なしに選択と仕分けが始まるのです。

カオスであり調和であるという事は、バタフライエフェクト

(若者達へのメッセージ⦅幸せになれ⦆(3)参照してください)

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の様にそれぞれが繋がっていて、何処かが変化すると別の何かが動き出す事であり、しかし調和の中にいて大きな宇宙の流れの一部として均等を保っているのです。

「公平」「平等」という概念を作り出せるのは人間だけなのです。

その裏にある「比較」が生み出すものだからです。

 

まず平等と公平の違いをおさらいしておきましょう。

例えば運動会で100m走をするという事を頭に思い描いて下さい。

全員が運動会に参加する事が「平等」です。

権利が一様である事、すなわち条件を付けない事を指します。

そして能力に合わせて、靴の種類、スタートラインやゴールの位置を変えたりする事が「公平」です。

個々の能力・適性などを考慮した上で調整して、偏(かたよ)りやハンディーキャップ(不利、不利益)を無くす、この場合でいうと身体能力や身体の大小、性差の違いによる差が出ないようにするという意味になります。

すなわち公平性の担保は、学年に分けて選手全員が同じスタートラインに立ち、例え男女別にしたところで出来無いのです。

もう一つ例を挙げて見ましょう。

運動会に出た事で、皆がお菓子を貰える事が「平等」です。

学年(成長の時期、能力の違いや練習量)により、お菓子の量が違う事が「公平」なのです。

すなわち差が生まれる事を考慮するという事です。

勿論、生まれた日の違い、好き嫌いやアレルギー、歯が悪いという様な要素が加味されるので厳密には不可能ですが。

すなわち運動会は結局、平等で公平を担保出来ません。

明治7年(1.874年)海軍兵学校で日本で初めてとなる運動会が始まって、その内容も個々では無く、集団重視へ変化してきました。

運動会自体意義が無いとは言いません。

練習による体力アップや仲間との共有感を学べる良い機会であると同時に、助け合う事で公平で平等なイベントに近づく事が出来るからです。

が、大人達が公平や平等をはき違えたり、正しく理解していない面があり、やたら団体行動の正確さや細かい服装、髪形などのチェックを求めたり、家庭の事情を考慮してか、食事を子供だけで食べる事にしたり、また順位を付ける事を廃止したりと歪んでしまっているのが現状です。(コロナ禍では対応が違いますが)

平等ならば、安全を考慮したうえで家族と食事が出来るはずですし、来られない保護者や親族がいる子にはそれこそ配慮、すなわち他の家族と一緒にするとか、先生と食べるように公平にすれば良いのです。

考えれば解る事で、保護者が競技に参加する事自体、不平等なのです。

来賓だけが涼しいテントの下に座っている事自体が不公平そのものなのです。

正に大人が不公平と不平等を子供達の前で作り出しているのです。

もう一つ事例を挙げて見ましょう。

私の経験では、保育園から高校入学等、節目に式典がありますが、その光景を一緒に思い出して欲しいのですが、式典の檀上から見ると、左右どちらかに来賓席や先生方がいます。特等席です。

そして子供達、最後に保護者という順番です。

主役は子供達です。

式典が行われるまでに、学校は子供達に親への感謝の手紙を書かせます。

勿論、もらえば嬉しいものですが、式典では我が子が何処に居るのか解らない後ろ姿をずっと探しながら後ろから見る事になっています。

子供達が見て欲しい人は一体誰なのでしょうか?

感謝の手紙をもらった保護者は、誰を見たいのでしょうか?

お偉方、権力や肩書がある人は、本来柱の陰からそっと見守るのが筋ではないでしょうか?

もしくは、一番後ろで式典全体を祝福し味わう事では無いでしょうか?

生徒達、子供達が一番前で保護者の方を見て行われるのが本来の式典の意味、道理に叶う事です。

その姿の誇らしさを、笑顔で正面から見届けるのは保護者ですから。

お分かりになると思いますが、比較を生み出しているのは大人達です

 

不公平という壁は、生きている限り必ずぶち当たります。

それはこの地球上の全ての生物に言える事です。

不平等の世界で魚達は、沢山卵を産み、食べられるリスクを考慮しています。

すなわち食べられる事、不公平を前提としての行動です。

鳥の雛も、弱ければエサを食べられず死んでしまいます。

そして食いぶちが減った分、残った雛の生存確率が高くなるのです。

人間は、生まれた状態では立つ事も、食べる事も自力では出来ません。

脳の発達を優先している為、生まれながらに頭が大きく、面倒を見てくれる存在を前提としているからです。

免疫が定着し、周りに起きる危険を避ける事を自力で出来るまで大人が見守ってくれます。

しかしながら、生まれた瞬間から不公平で不平等が始まるのです。

アメリカがアフガニスタンから撤退した後、女性に対する教育を閉ざし始めました。

学校に行かせない為、自宅待機させる事も行っています。

例え、紛争国や貧困国に生まれて来なかったとしても、ネグレスト(育児放棄、育児怠慢、監護放棄)、飢餓や病気や事故など、予測できない事だらけなのです。

一律にスタートラインには全く並んでいません。

生まれた途端不平等ですから、いくら不平等だとわめいても、平等にも公平にもなりません。

平等に公平に受ける事が出来る義務教育であっても、そうでは無いのです。

家庭の事情や周りの環境がまちまちの中で、公平性を保つ為運動会で一位を決めないというようなレベルの話では無いのです。

子供達は、肌感覚で解っています。「平等じゃない」「不公平」って。

 

教育はとても大切です。

歴史にもよく出てくる足利義輝織田信秀が活躍していた時代に、宣教目的で来日した教科書でも有名なフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が日本人の識字率の高さに驚いていたと言われています。ただ女性の場合はかなりその率は下がりますが。

当時の外国では文字の読み書きが出来る人の割合が低かったからです。

その日本の現状ですが、義務教育は1.980年代以降、詰め込み教育の短所、例えば暗記に重点を置き、テストが終わると忘れてしまうような事ですが、このような事に対する反省から、学習の動機付けに重点を置くゆとり教育へと路線を変更する事となりました。

しかし、世界と比べて学力が落ちた事を理由に文部科学省は、2.008年に新学習指導要領を作成し、脱・ゆとりへと方向転換しました。

長い目で見ると、どちらにせよ教育方針に大きな差はなかったようで、結局教育現場や生徒たちが混乱し、時間のやりくり等、問題を増やしただけで、実験としては意味がありましたが、何も変わらない状況という結果に終わってしまいました。

義務教育就学率は日本国籍ではほぼ100パーセント近い(学校に行っていない子はいますが識字率と同列では無い)子供達が教育の機会を得ていますが、2019年文部科学省が全国調査をしたところ、義務教育を受ける年齢に相当する外国籍児12万4.049人のうち全体の15.8%にあたる1万9.654人が不就学という驚くべき数字になっているのです。

今もなお平等に子供達に勉学の機会が与えられていない貧困国や女性蔑視の国等では大きな課題となっていて、NGO組織「プランインターナショナル」でも、劣悪な環境下での労働力として、また早すぎる結婚、出産による教育機会を受けられない子供達の支援の大切さを訴えていますが、支援を受けられる子供達は、世界でもほんの一部でしかありません。

寄付・募金ならプラン・インターナショナル・ジャパン

幼少期から不平等という壁が立ちはだかっている人達は、私達が思っている以上に多く、外国籍の子供の達の救済に加え、世界に目を向ける政策を考え直さないと未来が無くなってしまうのです。

日本がその為にもっと手を差し伸べる事が出来るはずですし、日本にとっても良い影響をもたらし貢献する事で信頼を得て未然に紛争や争いごとに巻き込まれる確率も減るはずです。

 

子供や若者達の教育では、今しか出来ない、後回しに出来ない事って沢山あります。

塾や習い事等、将来に向けて色々出来る子供は、恵まれているかもしれません。

好きな事を見つけ、夢を描ける環境にいる人ばかりではありません。

キッカケも与えられず、ヤングケアラーやネグレクト(育児放棄)、宗教二世問題に加え。日々の生活に追われ、勉学に支障をきたしている人も沢山います。

登校拒否や引きこもり、イジメといった悲しい出来事も沢山あり、加えて貧困や格差という本人の意志とは関係なしにチャンスを奪われている子供達や若者。

自力で自分に投資が出来ない環境の中、仕方がないといった諦めや、我慢を強いている現状が、不平等や不公平を助長している事を、大人達は真剣に問題意識として社会の中で取りこぼされないよう考えていくべきです。

 

同じハイツに住んでいる、友人の一人親世帯、息子より一つ上の女の子がいますが、経済状況を考えて、塾の話すら親に出来なかったようで、高校選択時、公立がダメなら進学をあきらめ就職の道を模索していたようでしたが、やはり進学を諦めきれず、何とか頑張って公立に進学できました。

節約の為、片道1時間余り自転車を漕いで元気に通っていますが、こまごまとした費用や部活で、どうしてもお金が掛かるのです。

毎日、必要なお金、数百円を親から貰い、節約しながら頑張っています。

 

子供の夢を金銭で左右するこの世の中、親としたら、こんなに辛い事は無いでしょう。

つい「お金さえあれば」と思ってしまいます。

例え、どんな所でもやる気が無いとダメなモノはダメで、逆に努力次第で道は開けると、息子にも機会があるごとに話していますが、本音を言うとやはり無理な事が多いのも事実なのです。

教育に対する支援も少しは前進してはいますが、それでもまだまだ足りないのです。

(「来年高校受験を考えている保護者の方へのアドバイス」を参照してください。)

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高校に入ると将来像を描けと言われるようになりますが、振り返って自分の事を考えると、当時の私は全く考えていませんでした。

一つは昭和の時代であった事で、早々に就職するか、会社員として就職し、終身雇用で退職まで働くという流れが大きかったからです。

二つ目は、それとは逆にレールに乗る事に疑問を持ち、将来の事では無く、今を楽しみたいという生き方が出てきた頃なのです。


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ドラマ「俺たちの旅」が放映されていた時期で、当時のドラマは恋愛ものが少なく、生き方を問うモノが多かったと記憶しています。

勿論、私は後者の方でした。

ですから、親からは近所に顔向けできない息子として見られていました。

家庭環境が悪かったのもあり、10代後半には家を飛び出していました。

「音楽でメシを食う」と決めてからは、アルバイトに明け暮れる日々。

勿論本気で考えていましたが、現実はそんな甘くはありません。

「もし小さい頃にピアノを習わせてくれてたらなぁ」と思う事も何度もありました。

そして、時間だけが空しく過ぎてしまったのです。

そろそろ無理かなぁ!もっと真剣に取り組んで、頑張っていれば良かったと後悔するようになったの時、既に40代になっていました。

けれども、だからと言って今を後悔はしていません。

運命の歯車はどう転ぶかは誰にも解らないし、何本の枝分かれの末、たどり着いたのが今です。

最初の夢こそ叶いませんでしたが、今日までに至るまでの経験や人との出会いは、今の自分を作ってきた事であり、無駄では無かったと思っています。

昭和の時代を生きてきた私は、フリーターという言葉が出だした生き方をしてきた訳です。

人生の半分を正職につかずに過ごしてきた中から学んだ事は、不公平と不平等だらけで、理不尽な事が沢山ある事や、どんな事でも表と裏があるという事。

そして数々の仕事をしている中での人間関係の難しさと、どんな仕事も大変で、大切であるという事です。

そして、職が変わるたびに新たな事を学ばなければいけなかった事が、逆に人生という学びになった事です。

「一生勉強だな」と気付いた時、道端の雑草が愛おしく見えました。

名前も知らない草すら、少しのアスファルトの隙間から芽を出し懸命に生きている事に、改めて生きる事の意味を見たからです。

不公平で不平等だらけの隙間を縫って生きている「いじらしさ」にです。

不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)に続く