心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)

日本の教育制度は、勿論悪い事ばかりではありません。

集団行動による通学や自ら掃除や給食配膳すること等は、掃除や食事と仕事が細分化され、日常生活の中で役割をハッキリと線引きしている様な欧米からも、児童自ら行う日本方式の良さを認めています。

すなわち、小さいうちから自分で出来る事は自分でするという事と、身の回りを綺麗に保つ事の大切さや人に迷惑を掛けないという謙虚な姿勢が評価されているのです。

妻の国フィリピンでは、運動会もありませんし、校外学習もお金が無いと参加できなく、貧しかった妻は悔しい思いを何度もした事を話してくれました。

また、何年も日本で住んでいる妻はフィリピンで道路を横断するのが怖くて出来ないとも話していました。

日本が安全な国であるからこそ上記のような事が実現しているのであり、誘拐や犯罪、事故に巻き込まれる確率が非常に小さいからこそ可能なのです。

徒歩で子供が安全に移動し、近所の目があり、近くに遊べる場所や買い物できる所が多いのも日本の素晴らしい所です。

よく欧米の映画などで親が子供を学校に送り迎えするシーンを見る事があると思いますが、その裏で我が子に気を取られ、発進やバックの際に他の子供を引いてしまうような事故が実は多くあるのです。

また、欧米と違って狭い道路は逆に車の速度を落とす要因にもなり、時間帯の道路規制や歩行者に対して距離を取ったり、ゆっくり走ったりする事が当たり前となっている事や、見守る大人達の存在で、子供達が事故に遭う確率が少なくなっているのです。

 

世界には当たり前ですが色々な国があり、大人になるまでの経験値が国によって全く違っているのです。

その点でいうと、日本は恵まれた国であるのは確かです。

もう一度、日本の教育の話に戻りますが、不公平がある事を、子供の内からもっと教えていくべきです。

世界の色々な国の同じような年代の子供達の生活を見る事や、自分達とどのような差があるのかなど、考える機会を、時間を作るべきです。

平等とは何か?公平との相違は?そして、色々な形態の家族の存在がある事や性別についてなど、早くから知る事で、当たり前が当たり前で無い事を、知識として取り込む事で、将来の生き方の「考える力」となるのです。

そして皆が同じ境遇で無いという現実や、同じ能力を持っていない事の方が当たり前であり、個々に差がある事を教えるべきで、はみ出すのを良しとしない教育は、逆に言えば多様性の否定、すなわち正に不公平を助長しているのです。

同じ値段の高い指定服を着て(安く、もしくは無償であれば良いのですが)、髪形やピアス等のアクセサリー、下着や靴下の色まで干渉する事を平等だと考えているなら、平等という事をはき違えています。

その平等の裏には、監視をし抑止力になると考えている人達が未だに多い事を表していて、裏を返せば信用や信頼というステップを踏んでいない一方的、人為的な不平等、不公平なやり方なのです

公平性を保つ事と平等に扱う事の違いを理解していない人達が多すぎるのです。

人は一生を懸けて勉強し続けるものなのです。

正に世間という厄介な大人のルールが不公平という壁を作り、邪魔をしているのです。

皆でそろってゴールなんて絶対に出来無いのですし、不公平が当たり前なのです。

遅い子も早い子も、個性に合わせて学ぶ機会をもっと増やすべきですし、色々なタイプの人間がいないと何も新しい事は生まれて来ないからです。

そしてそれこそが平等という事です。

 

食べ物を均等に分け合ったり、誰でも病気になれば治療が受けられたり、どんな人間でも等しく生きる権利を持つ事が出来たりと、それは社会という集団での生き残りの道を選んだからです。

しかし現実には、「平等」「公平」とは程遠い「不平等」「不公平」だらけなのです。

スポーツにしても勉強にしても、また仕事や人生においても、平等な立場を社会は装いたいだけで、上辺だけの幻の様なものです。

そして順位を付け、チャンスがあるかのように「公平」だけが独り歩きしているのです。

「平等」「公平」は、人間だけが作り出せると書きましたが、実は公平という名の「不公平」しか生み出してきてはいないのです

それは、所詮人間も自然の一部であり、カオスの中で生き、不平等という世界に生れ出ただけの話で、それでも「不公平」「不平等」と声を上げるのは比較という概念がそうさせるだけで、比較が無くなれば不公平や不平等は存在しません。

自然は元々不平等ですが、あくまでも人間側からの見方によるもので、実際にはその概念は自然の中には存在しないですし、公平もしかりです。

残念ながら「不平等」を容認しつつ「公平」という見せかけの理想を掲げる事で、社会を維持しているだけなのです。

複雑になりすぎ、シンプルな生活から遠ざかってしまった代償なのです。

教育という大切な人間が生み出した発明は、比較を教える為ではありません。

不平等の中でも競い合う事や助け合う事が本来の公平であり、それは強制するものでも押し付けるものでも無いのです。

公平性や平等に重きを置く事では無く、過去からの声を聞く力と未来を作り出す想像力を養う場であるのが本当の教育です。

大人になって「π」や「√」なんてほとんどの人が、使わずに生活していますが、覚える事が目的では無く、その過程、すなわち筋肉を鍛えれば太くなるように、頭、脳も使えば使うほど発達します。

読み書きもその手助けになる為に学ぶのであって、無駄のように思う方程式や元素記号も、たとえ将来直接役に立たなくても、思考するトレーニングになるのです。

頭の柔らかい時に、様々な脳内の回路を作り、連携させる為に学ぶのです。

スポーツでいうと、身体作り、基礎を身に付けトレーニングする事と同じです。

ですから初めからやっても無駄、自分は頭が悪いから、将来役に立たない、そんな考え方をしてしまうと、色々な機会を逃してしまうのです。

調べればすぐわかるような歴史の年代を記憶する為に学習しても意味がありません。

日々研究や見直しで、歴史や過去の情報が更新されているのですから。

特に歴史は、日本と世界に分けられて学習していますが、同時期にどんな事が起きたのかを知るような勉強の方が本当は大切ですし、世界との比較する事によって、大きな流れを把握する力もつくので、必ず役に立ちます。

個人差があるので、自分にあった教育の場は必ず見つかりますから、諦めないで欲しいのです。

 

昔は各家庭に百科事典があり、全巻そろえる事がステータスにもなっていました。

私の家もそれほど豊かな生活では無かったので、月単位で揃(そろ)えていました。

ただ、分厚く重い事もあって見る事はほとんどなく、無駄なスペースだったと記憶しています。

昭和の私から見ると、現代は羨ましいほど勉強できる環境になっています。

解らない事は、ネットですぐ調べられますし、何よりスマートフォンという素晴らしいツールがあるからです。

学校に行くことも大事ですが、便利になった現代、無理に行く必要はありません。

脳にたくさん刺激を与えるよう、本を読んだり、映画を観たり、自分の好きなことを調べたりするだけでも違います。

皆と同じ道を歩む必要はありません。

疑問を持ち、そのままにしない事と、当たり前の事を当たり前と思わない事。

何より「知りたい」という気持ちを持ち続ける事です。

そして、歳を重ねるほどその事が難しくなってしまいます。

その事は忘れないで下さい。

世界には不登校や、問題児とされながらも、のちに素晴らしい業績を残した人達がたくさんいます。

世間体や常識、人とは違うという先入観と価値観。

そんな、どうでもいい基準に、親も含めて自分を当てはめないようにしたいものです。

始めから不平等で公平では無いのですから

私が過ごしてきた昭和には選択肢が少なく、皆が同じ方向を目指す事でしか、人生という価値を見い出す事が出来なかったようにも思います。

それが良かったかどうかは解りませんが、少なくとも今の様な金銭的な大きな格差はありませんでした。

勿論、そろばんや習字、英語習得の様な習い事をする子もいましたが、進学塾など周りにはほとんど無かったと記憶しています。(ちょうど、進学の為の塾が出だした頃です)

まあ、近所に自由に出入り出来る空き地があり、車庫なんて無い家ばかりのドラえもんの「のび太」の様な世界です。

そして不公平や不平等はありましたが、先生や年上の子供、近所の繋がりが補っていたかもしれません。

良い意味で世間体も、目の役割をしていたのでしょう。

 

私達は、不公平・不平等という船に乗り、情報という大海の潮流に流されているように見えます。

自分で考える事を放棄し、体制や世間という流れの早い潮流の行く末は、たぶん破滅でしょう。

過去、歴史という素晴らしいマニュアル(手引き書・取扱説明書)がある事も、想像力という風を味方にする事も、謙虚という明かりも、そして信念というオールで漕ぐ事もしないで、行き先も解らずにただ流されているのです。

 

確かに「比較するな」と言ったところで無理な話でしょう

隣の豪華極まりない船を羨ましく思うかもしれません。

食糧だって、燃料だって沢山積んでいる船に乗りたくなるのは仕方がない事です。

でも、自分の船は唯一無二の一隻キリなのです。

どんな立派な船でも、前に進まなければ意味がありませんし、ただただ流されているだけなら役立たずでしかありません。

 

不公平という壁は、生まれた時からあります。

そして比較がある限り、平等・公平に物事は進んでは行きません。

わめこうが、嘆こうが、残念ながらどうにもならないのです。

ボロ船でもマニュアルを読み、明かりを灯しオールを漕ぎ、風をつかまえて進めば、流される事無く目標にたどり着けるのです。

人生が尽きるまで、全ての事が勉強なのです。

それは航海の中、新たな発見や目印、ひらめきを見つけてくれるのです。

歳も性差も、そしてお金にも囚われない、比較しない自分だけがたどり着ける場所が見つかった時、

何もかもが既にそこにある事を、全て持っていた事を知り、生きてきた意味がきっと解るかもしれません。

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