心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

戦争⦅日本の選択⦆(1)

昨今の世界情勢のニュースを見る度、本当に暗い気持ちになってしまいます。

宗教や民族がらみの紛争も一向に終わる気配がありません。           

権威主義自由主義独裁国家に民主国家とハッキリとした色分けがグラデーションの様になってしまい、人々は日々の暮らしを豊かにしてくれるという甘い言葉を話す政治家や権力者を支持するようになっています。

そしてひとたび権力を握ると、手放したくないのか強硬な手段に出る事も当たり前の様に報道されています。

「欲」という悪魔の側面がそうさせるのでしょう。

一方で、戦争というモノが身近に感じられる様な情報が日々更新され、過去の歴史からの警告を無視するかのように、防衛や軍事力強化を唱える人が増えています。

 

戦場のピアニスト」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」等の有名作を始め、「私の親友、アンネ・フランク」「ホロコーストの罪人」「黄色い星の子供たち」「杉原千畝 スギハラチウネ」「ふたつの名前を持つ少年」「エスケープ ナチスからの逃亡」等などと、第二次世界大戦下の悲惨な運命、特にユダヤ人に対する非道さを描いた作品は本当に沢山ありますし、色々な国で作られています。

映画好きの私は、時間があれば事実として作られた映画をメインに、以前観たものも含め少しずつ見直していました。

真実を元に、描かれた作品の多くは、どれも脚色されているとはいえ、見た後は、喪失感や無力感に襲われます。

戦争は、普通の人々を悪魔に変え、天使にもします。

映画を観ると、若い時に観た時と今改めて見直した時とは、感じ方に大きく変化が有りました。

 

例えばもし、加害者だったら?

もし、ユダヤ人ではない被害者だったら?

もし、当事者のユダヤ人だったら?と。

自分を、色々な立場に置き換えて観ていました。

 

地下組織に入って、武器の調達やビラを刷ったり、匿(かくま)ったり出来るか?

危険を冒してまで、助ける事が自分に出来るか、甚(はなは)だ疑問です。

拷問や殺されるという恐怖の中、仲間を売り、情報を売ってまでも、生き延びようとしたに違いありません。

平気で同胞からひったくり、落ちたスープ状の食べ物に顔をつけ、むしゃぶるように舐めたり、バケツに貯まった水を飲んだりしている人達の姿は、情けなさや虚しさより、正に自身に置き換えて見ている様なイヤな感覚になってしまいました。

何をしても必死で生きようとした人々がそこにいたのです。

もし自分だったら?

どう考えても、そんな勇気は私には無いと思うのです。

自分の家族の為なら、どんな拷問をうけようが、殺されてもいいと思っているのにです。

この境界線は、何だろうか?

映画の中の人々は、勿論ほんの一握り事例で、歴史に埋もれた誰にも知られていない勇気ある行動をした人々が、その裏には沢山いました。

人間の中にある残酷さや、残虐性、悪魔になる危うさは、誰にでもあるのだろうか?

日常的に人が殺されていく事が、当たり前になった時、慣れるものなのか?

自分は、どう行動するだろうかと。

たぶん、どの立場にいても、権力に迎合した態度をとり、意気地無しであり、情けない弱い人間であったと思いうのです。

 

このブログで実弟孤独死の事を書きましたが、発見されるまで一週間経っていました。

風呂場で亡くなっていたのですが、運ばれた後の風呂場の色と匂いは忘れられません。

一生懸命に掃除していたのですが、匂いも含めて綺麗にはなりませんでした。

戦争時にはそれが当たり前の光景として見る事になると思うと、人間って何だろうと思ってしまいます。

 

当然、戦後生まれの私には戦争の経験も無ければ、極限に追い詰められる様な体験も有りません。

亡くなった戦争経験をした父も、一切その事を話す事はありませんでした。

この地球上で悲惨極まりない争いが、今もずっと何処かで継続している事と、歴史から学ぶ人々の苦悩を考えた時、今自分が置かれている平和な環境とのギャップがあまりに大きく違い、正直戸惑ってしまいます。

それは、何処か遠い国の話で実感が無く無力感もありますが、いくら想像しても冷めた自分がいる事の情けなさです。

 

戦争を体験された方が高齢となり、お亡くなりになった方が増え、実体験を直接聞く事はほぼ不可能になってきました。

残された資料や映像等出来る限り見るようにしてはいますが、実感が湧いてこない自分がいます。

ただ、想像力を持っている私達は、身近な事として感じることは出来なくとも、同じような辛く悲しい体験をしてはならないという事は解ります。

自宅では無く、病院で亡くなる人は8割近くになり、「死」を見、感じる機会がどんどん減っています。

それは人間に限らず、食用としての家畜も同じで、肉として認識しているだけで、その裏にある殺傷まで想いが至りません。

またペットの可愛い動画や写真を見る機会は沢山ありますが、悪質なブリーダーやペットショップ業者、ペットショップそのもの存在意義を考えたり、捨て猫や犬といったペットの殺傷処分も見たり、考えたりする事はほとんど有りません。

すなわち「死」に対する問いかけや、死ぬという事の在り様を考える機会が無いまま、私達は今日に至っています。

 

死は誰にでも訪れる事です。

本来「死」は自然の法則に従って訪れるものです。

自然の災害による「死」も含まれるでしょう。

が、人間が人間を殺す事で「死」をもたらし、もしくは苦しみや痛みを、当事者だけでなく、関わった全ての人に降りかかる「戦争」という人間だけが作り出せる「罪」は、自然の在り方からは大きく逸脱した決して許されるものでは無く、忘れてはいけないし、考え続ける必要が私達にはあります。

この「罪」は憎しみという更に深い記憶として、人々に何千年に渡る遺恨を植え付けてしまう事になります。

どんな理由があるにせよ、人が人を死に至らしめ、悲しみをまき散らす事は、一番やってはいけない事です。

 

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クリント・イーストウッド((Clinton Eastwood)監督2006年作品の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で描かれていたように、戦争は、味方ばかりに悲しみをもたらすものでは無く、敵となった人も同じ思いをさせる事になります。

そして、何より人間である所以(ゆえん)の尊厳や思いやりを壊し、集団心理と極限状態による普通の人を悪魔のように非人道的な事までさせてしまい、非常に残忍な人を沢山生む事にもなります。

それは、個人の責任でどうにかなるモノでは無く、正義や愛国心という聞こえの良い言葉で片付けられる事ではありません。

 

日本も先の戦争で被害を受け、また与えた国です。

残忍な事をやってきたのも事実です。

事実関係はまだうやむやのまま今日に至っていますが、第二次世界大戦時日本軍731部隊が、中国東北部ハルビンの郊外にある施設で細菌兵器の開発を秘密部隊として存在し、人体実験を行っていたとされ、囚人は頭を丸坊主に刈られ、「マルタ」と呼ばれていたという事です。 

細菌の研究では、主としてペスト菌コレラ菌、パラチフス菌を扱っていて、ノミ爆弾なる細菌兵器も開発していました。(瀬戸物など割れやすい器の中に入れて空から落とす)

1988年に公開された香港映画、『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(黑太陽731、英題:Men Behind The Sun・The Devil 731)も制作されています。


蚤と爆弾 (文春文庫)

私の記憶では学校で習った事は一切ありません。が、ノンフィクション作家の吉村昭著「蚤と爆弾」でその事を知り衝撃を受けました。

 

いくらやってはいけない事の取り決め国際法の批准(ひじゅん)や、条約を結んでも、人間の中の悪魔が顔を出し、必ず騒ぎ出し、反故(ほご)にする人達が出てくるのです。

それは特別な人では無く、ごく普通の人達の中からも現れてきます。

またアメリカのベトナムイラクといった戦争地からの帰還兵にはPTSD心的外傷後ストレス障害)やうつ病が見られ、自殺したり何年も精神的に苦しんだりしている人が多くいます。

それは本人だけでなく、周りの親族にも悲惨な影響を与えているのです。

また日本でも例外では無く2015年安保法制をめぐる衆院の特別委員会で、志位和夫共産党委員長)の質問に答えて政府が認めた発言に「'03~'09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したと認定された隊員は29人。うち4人はイラク派遣が原因だった」「'01~'07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は25人」と報告されているのです。

つまり、インド洋・イラクに派遣された自衛隊員のうち、合わせて54人もの隊員が、自ら命を絶った事実があるのです。

 

戦争を始めれば、家族の歴史は勿論の事、今までの歴史の警告も全てが無駄になってしまうのです。

軍隊にしろ自衛隊にしろ、出来る範囲で透明性を求められるはずです。

何故なら権力を持っている組織である以上、歯止めが必要だからです。

にも関わらず、政府の拡大解釈によって日本では2016年南スーダンPKOに参加し、

自衛隊海外派遣部隊がイラク南スーダンで日報をとりまとめていたにもかかわらず、防衛省自衛隊が日本国民や国会に対してその存在を隠蔽していた一連の疑惑問題があった事も、もう忘れてしまっています。

 

「もし攻められるような事になったら、どうする?」

「そんな甘ちょろい事では無く、考えておかなくてはダメだ」

「現実を見ろ」という人達が沢山いる事も解っています。

現在アメリカでは、日本の核保有容認の話をする人達が出てきています。

トランプ前大統領(否認しているとも発言)や米軍事アナリスト、アンダース・コー博士、フランスの人口歴史学者エマニュエル・トッド氏等。

そして日本の中からも前総理を始め議員からも議論すべきとの声を聞きますし、核シェアリングも含めた、核保有を容認する様な発言、自民党の元首相や一部議員、ジャーナリスト達が増えてきているように感じます。

日本の周辺国は核を持つ国が多いのも確かですし、核の傘が抑止力になっているのかもしれません。

「かも」というのは本当に抑止に繋がっているのかは今の世界情勢を見ても危ういのです。

持たない国は、核の脅しを突き付けられ、同盟国はその脅しに何も出来ない事も解ってきました。

誰も自ら核のボタンを押したくはないでしょうし、緊張状態がずっと続くのです。

 

今の日本の技術力からすると、原料もあり核武装は可能でしょう。

勿論ロケット製造は国産でも開発されてはいますが、もしそうなれば、せかされて顔色をうかがう国ですから廃棄が近い固形燃料型のロケットをアメリカから高く売りつけられるかもしれません。

歴史から見ても、アメリカはしたたかな国で、自国の利益になるよう常に考えているからです。

 

果たして日本はどの方向に行こうとしているのでしょうか?

核の傘にいる事の大切さや重要性を軽々しく発言して欲しいとは思いませんし、何より傘の下という立場での物言えぬ弱腰な姿勢こそ危険なのです。

憲法改正や核三原則や敵基地攻撃を含めた政府の拡大解釈をやる前に考えなければいけない事が沢山あるはずです。

日本が核を持っていない事で逆に信用、信頼されている部分は無いのか?

アメリカの後ろ盾が本当に国益になっているのか?

割高な武器装備を買わされ、軍需産業をもうけさせる意図はないのか?

(例ですがPAC-3パックスリーと言われる迎撃ミサイルは、1発8億円もかかります)

そもそも人殺しの武器製造をこのまましてもいいのでしょうか?

日本でも軍需産業に携わっている企業は、大手も含め沢山存在しています。

戦争というワードがある限り、無くならないでしょうし、世界にマーケットを広げれば、莫大な利益につながるかもしれません。

ウクライナ戦争でもその実態が解るはずです。

他国に日本製の武器を買わせて良いのでしょうか?

ならば殺す武器に「MADE IN JAPAN」と大きく表記すべきです

 

沖縄の基地問題や1995年の沖縄米兵少女暴行事件(この事での地位協定は改善されたが改正では無い)を始め、コロナ対策でも露見した米軍の運用に国内法が適用されない日本の地位協定の見直し、被爆国としての役割等、徹底的に検証し議論を尽くす事を先にやるべきです。

考えれば解る事ですが、友好国、同盟国という側面とその裏にある戦略とは別物であるという事。

そして口先で終わるのか、先頭に立って戦ってくれるのかは、誰にも解りません。

どの国も自国民を優先するのが当たり前ですから。

ただ言えるのは戦争が始まれば必ず全てが終わりになります。

 

アインシュタインの予言として、

「I know not with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones. 」

『何の武器で第三次世界大戦が戦われるのかは知らないが、第四次世界大戦は杖と石で戦われるだろう。』

すなわち、これから起きるかもしれない世界的な大戦後、人類は滅んでいるかもしれないのです。

 

戦争⦅日本の選択⦆(2)へ続く

 

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