心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

生と死の狭間⦅お盆と戦争⦆(3)

私にはお盆で帰る家もお墓も今は無くなってしまった。

本来なら琵琶湖から数キロの丘の上に両親が眠っていたのだが、管理費が払えず撤去されると5歳下の妹から聞いていた。

私の一つ下の弟も墓標に刻まれる事無くそこで眠っていた。

 

父は100歳過ぎ迄長生きしたが、元々私と幼い頃から会話も無かったが、戦争の話は一度も聞いた記憶がない。

亡くなった後、いくつかの写真の中から1枚だけ兵隊の格好をした父の写真を見つけ、少し驚いたぐらいだ。

私自身教科書で習うくらいの戦争に対する知識はあったが、近代史はいつも軽く飛ばされるような歴史しか学校では学んだ事が無く、戦争は過去の話で平和でよかったくらいにしか感じていなかった。

勿論戦争映画も観ていたが、正義はアメリカで悪はナチスという構図の、正に西部劇的な見方をしていた為知識は乏しかった。

 

20代の頃広島の原爆ドームや資料館にバイクツーリングのついでに見学した事がある。

その悲惨さに驚いたものだが、施設を出る頃には心から抜け落ちてしまっていた。

要は今から思うとほとんど関心が無かったからだと思う。

広島=原爆ドームという観光の観点から捉えていただけだった。

それは戦争だけでなく政治や経済も当てはまり、当時の私はただの何も知らないフリーターでしかなかった。

そんな脳天気な私の変わるキッカケは、30代にノンフィクション作家、吉村昭氏の本で、緻密な下調べや描写力に魅せられ彼の本を片っ端から読み、戦争の事もかなり学ばせてもらった。

彼のノンフィクション作品の中で、「戦争」に関する作品はかなりある。

良ければこの機会に是非読んでもらいたい。

もし彼の作品に出会えなかったら、今でも他人事の様に平和の名の元、無関心のまま私は生きていく事になっていたはずだ。

 

沖縄戦や空襲、そして原爆と民間人を巻き込んで大量の犠牲を払った日本。

勿論日本だけの話では無いが、大量虐殺、無差別攻撃は決して許されないはずだが、戦争になれば協定など反故にされる。

紛争や戦争は小さなキッカケで起きる場合も多いし、始まれば何もかもが崩れていく。

経験からいかに教育が大切か身をもって実感する。

今は調べれば直ぐ解る時代である。

それをわざわざ丸暗記する事に何の意味があるのか理解に苦しむ。

もっと近代史に時間を割くべきであり、他国の責任を追及する為ではなく、過去から学ぶ大切さを子供の頃から教えるべきだと思う。

そして自国がどんな事をやってきたのか、善悪も含め出来る限り伝えるべきである。

それこそが本当の愛国心(あまり使いたくない言葉だが)を持つキッカケとなる。

他国への関心も深まるだろうし、自分に何が出来るか考える子供や若者が増える事にもなる。

何より、未来を見据え自分達がどんな世界を望むのかといった考えさせる教育の方が、これからますます必要になるのではないだろうか。

生と死の狭間の生き方は、戦争によって選択肢が無くなり自分で決断できない生き方を強要させられるのだ。

 

都会ではマンションや物流倉庫の様な納骨堂が沢山作られ、ネット活用での参拝も行われているが、大切なのは先祖の生き様から学ぶ事だ。

そう過去から学ぶ事をしないまま墓参りをしても果たして、死者達はそれを望んでいるのだろうか?

もう一歩踏み込んで過去との対話をしたいものだとつくづく思う。

 

冒頭私には先祖のモニュメントとなる様なものは無いと書いた。

私もあくまでも自分の考えだが、モニュメントは要らないと思っている。

最近の調査で、夫のお墓に入りたくない妻が多いという。

理由は死んでからも一緒に居たいと思わないとか、姑との折り合いが悪かったのに一緒は嫌だとか、そんな理由で独自の死後の居場所を納得できる形で確保する人達も増えてきていると聞く。

ただ、どんな形であれ死後には何もないし何も出来ない。

まして、霊魂として化けて出る事さえ望んでも無理な話だ。

すなわちモニュメントは生きている人の為の拠り所という事になる。

ただ拠り所であるモニュメントに手を合わせる自分はどんな心持なのかの方が本当は大切な事であり、習慣だからというだけなら何の意味があるのだろうか?

 

手を合わせる事は何処に居ても、いつでも出来る事だ。

極端な例だが南アフリカ共和国の人種差別アパルトヘイト後の初の黒人大統領マンデラ氏も檻の中で祈っていた。

アウシュビッツ収容所でのユダヤの人達だってそうだ。

特攻隊員も機内や艦内で祈っていたに違いない。

それは今も過去も戦争や紛争で苦しんでいる人達にもいえる事だ。

 

お盆など風習や習慣は何も日本だけではなく、世界のあちらこちらで形は違えど存在している。

娯楽化してしまった日本のハロウィンもその一つだが、死者との接点を何らかの形で表す事で、ルーツや血の繋がり、死の捉え方を考える機会として続いているのだろう。

また、「お盆ぐらい」いう事で家族や親戚が集う機会の役割も大きい。

 

生き方や人生観も大きく変わってきている現代。

昔なら、家という制度に縛られ、近所や他人目を意識せざるを得なかった事も、違った選択が出来るようになりつつある。

すなわち家族や血、集団等のコロニーで決め事をするのでは無く、個々の意志が尊重される時代になってきている。

それの良し悪しは別として選択肢が増える事は、違った考え方をする人達を一方的に排除する事が無くなりつつあるのは喜ばしい事でもある。

お盆という習慣が悪いと言っている訳では無い。

前述のとおり、年に一度先祖の事を考え、家族同士の絆を再確認する上で有効な機会になるが、習慣化される事に疑問を感じるのだ。

故人が成仏でき、あの世でも安心して暮らせることを目的とされている日本のお盆

先祖の霊を供養するとは感謝する事だけでなく、今自分がどう生きていくか、どんな人間でいるのか、どんな人間でいたのかを約束するものだと私は理解している。

先祖の霊を向かい入れ、安心して帰ってもらうという意味合いでのお盆は、約束を交わす事と同じだからだ。

 

私達は生きている時間が全てなのだ。

死者はその事を知っている。

一人一人違った人生を歩み、それも「苦」を伴う片道切符の人生をだ。

人生を台無しにするのも、幸せを見つける事が出来るのも全て自分の責任だ。

ただそれは、平和という裏打ちが無ければ選択すら出来きなくなる。

花火大会の爆発音がミサイル着弾の音に聞こえる人がこの世界には沢山いる。

未だに遺族の元に還れない死者も日本だけでなく、世界中に存在している。

そしてその数は減るばかりか増え続けている。

彼らこそ生と死の狭間にいる。

だからこそ、単に身内の先祖だけでなく、歴史に翻弄され死を受け入れざるを得なかった人達に平和の約束をしたいものだ。

その時こそ、生と死の狭間から安らぎを得る唯一の方法ではないだろうか。


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