幼い頃
ビー玉を透かし見続けていた自分がいた
今起きている事は
本当じゃないんだと思いながら
空想好きの少年とって
神の存在を信じる事はたやすい事で
何かを叶える魔法の様に
ビー玉を見つめていた先にある
虹色の光があなただと
もうすっかり歳をとり
ビー玉はただのガラス玉になったけど
何かに守られ見張られて
無言の助言が聞こえてくると
遠い昔に語りかけた
あなたに会えた気がするよ
始めにお断りしておきますが、二度の大病と二度の交通事故での長期入院をし、「自分の存在意義」を考えた時期があり、様々な宗教にまつわる本や哲学関係の本等を読んでいましたが、何処にも満足できる答えは載っていませんでした。
アインシュタインが、一つの方程式でこの世界をまとめたかったように、私自身も、人生や生きる意味をまとめて答えられる方式の様な考え方があると信じてきました。
そして、自分なりにどの様な事象や疑問にも答えられる考えを見つけ、今日に至っております。
このブログの記事はその考え方に沿って書いているもので、あくまでも個人的な考え方です。
よって、専門知識等調べはしていますが、不確かな事や不快に思う方がいらっしゃる事も前提として記しています。
また特定の宗教を非難する為でもありません。
ご了承下さい。
以前にも書きましたが、もう一度「神」という存在について考えて見ようと思います。
現在、異常気象や戦争といった、人類にとって不安定要素、黙示録の様な状態になっています。
約46億年前から地球はそこにあり、大異変があり、多くの絶滅もありました。
時間という概念が生み出される前は、時間の存在も無く、ただただ、そこにあり、回り続けていただけでした。
やがて人類が誕生し、時間が流れ出し、心を持つ地球上最強の動物として君臨しています。
神という概念は、宗教という形になるまでは、自然現象に起因するものが多くありました。
そして多神教や一神教の誕生まで、世界中に神が存在しています。
宗教と形を変え、神の存在や役割も様々な解釈が成され、信ずる神に祈りを捧げています。
宗教を信じていらっしゃる方からすると、罰当たりと言われる事かもしれませんが、それを承知で書かせてもらうと、あくまでも私見ですが、私にとって神という存在はウルトラマンや仮面ライダーの様なものです。
茶化すつもりではありません。誤解のない様に。
人間が生み出した、最高の空想科学と言ってもいいかもしれません。
ウルトラマンシリーズや仮面ライダーのストーリー、脚本家たちが描く世界は、欧米の様な正義と悪という単純な描かれ方をしておらず、初期の頃から沖縄の問題や、絶対悪があるのか?人間の傲慢さや欲とは何か?というような話が盛り込まれています。
初代から現役で見てきた私ですが、当時勿論そんな事は考えてもいませんでしたし、単純にヒーローとしての存在でしたが、改めて映像を見ると当時の深い脚本家の想いが伝わってきました。
ヒーローも完璧では無いという事を学んだのも、彼らのお陰です。
いて欲しい存在のヒーロー達は、実際にはいないという事が解るまで、そんなには時間がかかりませんでしたが、今でもいて欲しい存在であるのは変わりませんし、心の中に今も生き続けています。
一方で、私自身、全面的に否定している訳ではありません。
アインシュタインは、
「Science without religion is lame, religion without science is blind.」
『宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である』
と言い残していますが、人間の想像を超えた何かの存在がある様に考えています。
すなわち、人間らしさなど持ち合わせていない、大きな力の様なものです。
この世に生れた途端に息をしなくてはいけませんし、誰かに保護される状態でないと死という選択しかありません。
高度な脳を持つ事で、生き抜く事を選択した人類は、生まれながらに、他の動物に比べ頭が大きいのです。
生れてから死ぬまでは、「苦」の連続なのです。
有害でもある酸素を取り込み、37兆とも言われる細胞の調和を保ち、傷つきやすい皮膚を保護しながら生きているのです。
遥か昔は、自然に対し無防備でなされるままの状態で、食糧難や災害にあう度、災いとして自然の中にコントロールする存在を見い出そうとした結果、神という名前だけでなく、超人的な存在を作り出し信じるようになりました。
苦から逃れたいという気持ちや死を恐れる感情、そして集団として生きていく知恵として宗教が出てきたのです。
戒律も集団をまとめるだけでなく、その地にふさわしい環境、例えば食事の制限や健康維持の意味も含めて役割を担ってきました。
医療が進み、性差や家族といった認識が変化しても、守り続けている宗教もまだあります。
それだけの理由なら良いのですが、人間は権力やお金を欲しがります。
信者としての義務のように寄付を募り、勧誘し、どれほどの力を持っているか誇示したくなるのです。
全ての宗教が同じだとは言いませんが、加えて他の宗教を批判し、自分達の宗教がいかに正しいかを前提としています。
信じる事を非難している訳ではありません。
心のよりどころとしている人達は、私の廻りにも沢山います。
人間以外の動物は、ただ受け入れているだけ、というよりただ自分に起きた事すら認識してはいないでしょう。
だから、辛く苦しくても、その原因を探す事も無く、嘆く事も出来ないのです。
捨てられたり、虐待されたりされた犬や猫は、本能から人間を恐れ、恐れから攻撃しようとします。
生き残る為の記憶として残っていますが、次の世代に伝える事は安全か危険かの判断が主で、理由や過程を説明する事は出来ませんから、捕食されたり、理由なく虐待される危険は変わらないのです。
人間が環境を変える事で、動物達全般に計り知れない影響を与えることは勿論有りますが。
ただ人間だけは、過去の事も詳しく知る事も出来、経験しなくとも生き残る為の知識として、蓄積され回避できます。
すなわち、人間という種が生き残る為の知識です。
ただ単に種の存続という事なら、神や宗教は存在していなかったでしょう。
例えば、誰かが亡くなってしまっても、関心を示す事は無いはずです。
人間という種の存続が目的になるので、誰でも良く、代わりがきくからです。
しかし、人間という種という大きなくくりでは無く、自分という個々の存在を自覚し、他人の存在を仲間や敵として認識し出し、そして生まれた訳を探し続けているからこそ、神や宗教が誕生したのです。
人間は一人では生きていけない事はこのブログで何度も書いていますが、いわゆる社会が出来、病気に対する知識や食物の確保や敵からの攻撃に常に警戒する必要が無くなった時点で、個人が大きく顔を出してきます。
この社会が正しいのか、間違っているのか、理想郷なのか、それとも許容すべきかなど考える事もしなくなり、いつか必ず高みの社会を実現するという理想を描き続けているにすぎません。
種の存続は、そうやって人類というくくりでは無く、個人の血の繋がりや民族、宗派へと形を変えてしまったのです。
誰でも生きている限り、辛い事や困難な問題、悲しい思いをしたりしますが、大きな流れの中のほんの一瞬の出来事に過ぎず、もし神が見ているとしても、私達が歩いている時に蟻の存在を気にもしない事と同じで、何もしないし、「蟻に気を付けろ!」と歩き出した足を叩く事すら出来ないのです。
その後の宗教による様々な弊害はこのブログで書いていますが、いつの間にか人間は「神」にお願いをするようになってしまいました。
それは一体どうしてでしょうか?
罪悪感があなたの中に生れます。
「私だけが恵まれていても良いのか?」「もっと出来る事があるはず」「もし先祖が悪い事をしているなら罰を受けなければならない」「信じる事で誰もが天国に行けるのに、なぜ分かってくれないのか?」「このような世の中を許すはずがない」「心から信じていないから悪い事が起きる」……!
誰かに罪悪感を植え付ける事は、思っている以上に簡単に出来ます。
困難や不幸が起きる事は、目に見えない「力」の様なものの存在が関与していて、信じていない事が原因だと錯覚させるのです。
そして裁きがあるかのように決断を迫る、言い方は悪いですが脅しの様な文句を並べてきます。
責任を取りたくない気持ちや、誰か責任を取って欲しいという願望が拍車を掛けます。
「私は此処にいます。なぜ答えてくれないのですか?」
それは、委ねているだけであって、現実として捉えていないからです。
祈りは「約束」です。
お願いするものではありません。
例えば先祖に祈る時、敬う気持ちも込めての事でしょうが、命を繋いでくれたことに対する、自分の行いを恥じないものとする為です。
前を向き、歩いていく事を誓う為のもので、「助けて下さい」と祈ったところで、誰も聞いてはいません。
気持ちは解りますが、交通安全のお守りステッカーも、そのお金を交通遺児支援団体に寄付する方が、よっぽど効き目があると思います。
勿論、家族の健康や安全を祈りに込める事は、誰もがする事です。
何が起きるか解らないという前提があるからこそ祈るのであって、ならば今を大切にしなさい と言う意味なのです。
息子が幼い頃、散歩途中で拾ったどこにでもある様な小枝を彼からもらった時、その小枝を捨てる事は出来ませんでした。
何か特別なモノのような気がしたのです。
昔から人間は、見るものや感じるものに何かの意味付けをしたがります。
そこに何か特別な力や奇跡といった言葉を当てはめたいのです。
神様や悪魔、魂や霊、天国や地獄など幼い頃から見聞きし、より現実味を帯びて、在りもしないそれらのワードを現実の世界で起きる事に関連付けしてしまうのです。
言い換えれば、不自然な事をやっているという事です。
自然は不規則であり、人間にとって良くも悪くもいろいろな変化をもたらしますが、調和の中で動いてもいます。
時間の流れは人間だけが意識しているにすぎず、自然はただそこに存在し、均等を保とうとします。
生物の死、星の死は、新たな誕生には不可欠で、それがいつ起きるかは時間という観念の無い中では無意味な質問なのです。
宗教は、本来その様な仏教でいう諸行無常
「この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないという事」
を気付かせるものであり、人間も例外では無く、全てがカオスのように見えても大きな調和の中の一部に過ぎず、物事は動いていくもので、固執しても仕方がないと教えるものであり、そこに何かの境界線や上下、すなわち天国や地獄などの存在などは無く、生きている今を大切にする事、すなわち死は必ず訪れ、死後では何も出来ませんよと説いているのです。
マスターと呼ばれた人達の真理は、人も含めこの世のもの全てが「神」であり、その気付きこそが根本で、「心の中を落としなさい」と説くのです。
キリスト教では「神」=「愛」「真理」とも言われています。
だからこそ、完璧なものは存在せず「神」でさえ完璧では無く、その事を認める事こそが、苦の中にある幸せを見い出せる力だと言っているのです。
例えば完璧な「愛」は存在しません。
だからこそ今を大切にし、日々変化する心の動きを注意しながら、高め合う事をするべきで、死んでは何も相手にしてあげられません。
「真理」も前述から言うと完璧ではありません。
「真理とは」と言葉で説明できないものだからです。
Goo辞書によると真理とは「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。」と書いてありますが、ただ、正しいとか道理は不変ではありません。
また仏教でも真理を重視してはおらず、生き方そのものを説いています。
例を挙げると前述の「諸行無常」も真理とされているし、西洋でも色々な解釈がありますが、真理を突き詰めたところでそれは真理の一部でしかなく、真理を追究する事こそ真理だとも言われているのです。
この事からも解るように、完璧なものは無いという事です。
教えはこのように、色々な形を変えて伝わるものです。
特に宗教という組織になれば、多かれ少なかれ人間性が加味され易く、本来の目的から逸脱するようなカルトの集団になってしまったり、教えよりも罪悪感による心理を、悪く言えば利用し勧誘する組織になってしまうのです。
私も選挙の時に○○さんをお願いしますと、宗教団体からよく言われますが、彼らは自分で考える事を放棄しているのと同じです。
ですから、悪霊だの、日頃の行いだのと話してくる人は、マスター達の教えを理解していないばかりか、今を生きずに弱さから逃げているだけの人なのです。
そして気を付けなければいけないのは、教祖と言われる人を神格化してしまう事です。
本来マスター達は神格化される事を望んではいません。
何故なら教えを説く為であり、使者もしくは教師の役割を担ってきたからです。
神格化は、独裁者となる危険性があり、「教え」という本来の目的では無い、何かよからぬ裏が潜んでいる事が多いのです。
全ての人が、全ての物が「神」であり、特定の人物を「神」のように崇(あが)める事は、出来るはずが無いのです。
死後や先祖の霊魂の心配よりも、今を大切に生きる事が全てであり、その全てが完璧を目指す「神」そのものなのです。そして後はただ死ぬだけという事です。
川のように流れていれば
腐る事は無いだろう
海のように広ければ
波もまた戯れて
木のように動じなければ
鳥も静かに羽を閉じ
森のように深ければ
多くの命が舞を舞う
教えは秘密を隠さずも
そこに見い出す者は無く
只々空虚の息をする
生きる事が教えであり
神であり
宗教かもしれません
今を、この瞬間を大切に
それが出来るのは
あなた自身だけ
神が創造したと言われるこの世界。
いわゆるビッグバンから始まったと言われる私達が住む宇宙は、今なお膨張し続けているのです。
それは、私達が想像出来る範囲を、遥かに超えている事でしょう。
まだまだ、神が作ったこの世は未完成なままなのです。