心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

見方を変えなくてはダメになる!⦅時間の観念⦆(3)

1日= 24時間×60分×60秒= 86.400秒

私達は意識せずとも86.400秒の毎日過ごしています。

1秒で音は、約340m「マッハ1」の速度で進みます。

光は約30万kmで地球を7周半もできるほどの速さです。

時速に直すと約10億8000万㎞と、とてつもない速さです。

月までの距離は、平均38万kmなので、光の速さだと1秒少しで着きます。

見るのも、話すのも、そして聞く事も、すさまじい光や音のスピードのお陰で、リアルタイムで対応できるのです。

 

夜空に輝く星々の光も光の速度で地球に届いています。

太陽を除く、地球に一番近い恒星(自ら光る星)ケンタウルス座のアルファ恒星系までの距離は4.3光年、すなわち光の速さで4.3年かかる距離です。

言わば、4.3年前の過去を見ている事になります。

見方を変えると、たった1秒でも自然の中では、ダイナミックなドラマが展開しています。

 

人間も感覚器官から得た情報を脳に伝え、反応しているのですが、各神経の伝達速度は差があり、例えば運転免許センターで習った人にはお分かりになると思いますが、アクセルやブレーキに反応する時間(認知時間)が、個人や年齢にもよりますが、1秒手前から2秒近くかかります。

仮に、時速40㎞で車を走行させている時、認知時間が1.5秒ですと、何か前に飛び出し、ブレーキを踏み、停止するまでに25~30mも車は進む事になります。

もし手元のスマートフォンで動画を見ていたとすると、認知時間の中では余りにも早い出来事が起きている事になるのです。

 

時間は人間が発明した概念で、人間がいないと時間もありません。

人間が作り出した時間も、宇宙規模から考えるとこの世界は正確に時間が流れてはいません。

アインシュタインの生み出した相対性理論の中で、重力と時間の事を説明していますが、重力が大きいと時間の流れが遅くなります。

あくまでも観測する立場(例えば走っている電車を外から見ているのか?、乗っているのか?)によって変わってきますが、詳しく書くと書ききれないので悪しからず。

もし、火星に人類が行く日が来ると、時間も違う事になるのです。

月も火星も重力が地球よりも小さいので、早くなるのです。

 

話を実社会に戻しましょう。

人間が作り出した一日という概念は、決して戻らない一日です。

太陽の回りを365日かけ、また一つ歳を取るのです。

もし地球外知的生命体がいて地球と同じ環境だとしても、彼らの生み出した時間の尺度であり、人間とは異なる感覚で日々を過ごしている事になるのです。

卵→幼虫(若虫)→成虫という段階で成長する不完全変態(ふかんぜんへんたい)のバッタは種にもよりますが一年

セミは幼虫の期間、土の中で十年使く過ごし、夏に鳴きだす成虫になると長くても一週間程度の寿命です。

同じ不完全変態のゴキブリは1~2年程度で、成虫の状態で数カ月から半年程度。

卵→(孵化)→幼虫→(蛹化)→蛹→(羽化)→成虫という段階を経る完全変態の蚊は、卵から成長し寿命を迎えるまでわずか2か月足らずです。

身近な動物である犬や猫の寿命は十数年です。

また長いとされている哺乳類の鯨や爬虫類のカメは2百年という推定記録も残っています。

 

地球にいる様々な生物には寿命があり、人間の作り出した時間の観念から考えると実に多様な生き方の中で、個々の与えられた時間を全うしています。

他の生き物を見る時、人間の尺度で考えがちですが、実は何の意味も有りません。

彼らにとっての時間は、生まれて死ぬという漠然たるものであり、その間に出来る限り子孫を残す為でしかありません。

ペットとして飼われている動物たちに喜怒哀楽を感じ、命の短さと尊さを教えられます。

過した時間は共有されていますが、時間の早さは異なります。

勿論、脳がある訳ですから学習能力も記憶も残り、本能的な行動もしますが、彼らにとって今のこの瞬間が全てであり、過去も未来も存在していません。

もし時間の概念を理解していれば、人間より遥かに精神的に苦しむ個体も沢山出てくるでしょう。

何故なら、時間こそが自分の過去やルーツを知り、未来を予測し、今を感じ取っているからです。

過去の事を悔んだり、未来の事を心配する事が出来るのは時系列で考えているからです。

 

コロナ禍で子供達の時間が奪われてしまった事はご存じの通りですが、80年の内の2年と16年の2年間を考えて見ると、いかに彼らにとって大切な時間だったかが解ると思います。

(余談ですが、年月の長さに対する主観的評価は、年齢に反比例するという歳と時間感覚の関係性、例えば歳をとると時間が早く感じる事をフランスの心理学者ピエール・ジャネの著作で叔父である哲学者ポール・ジャネの説として取り上げたのが「ジャネの法則」と言います。)

子供達に流れている時間は、身体的にも精神的にも、大人の様にあれこれと心配する必要が余り無い、何でも出来る大切な時間です。

ヤングケアラーと言われている介護に時間を取られたり、経済的に、また病気やイジメ等で学業を諦めたりしている子供達ならなおさらです

「もう一年か」と暦を見ながら時の早さを口にする大人とは違った時間が流れている事になるのです。

同じように考えて見ると、犬や猫も十数年の内の一日としていかに貴重な時間かということが解ります。

よく「人間で例える」等と彼らの年齢を表現しますが、時間の観念が全く違うのです。

見方を変えると解るのですが、仮に寿命が80歳の人間の5年分の過ごす時間を約1年で過ごす事になります。

夏しか知らないセミよりも

季節の巡らない蝶よりも

僕らはなんて味気ない

千年の時を知る大木よりも

一点で見守る太陽よりも

僕らは戸惑いながら留まっている

無駄遣いな時間の狭間で

時間が無いと嘆いては

五感は日々に追われ

儚さも得られず

理解もそこには生まれない

 

成虫で木につかまって鳴いているセミは夏しか知りませんし、蝶やバッタにしても同じ季節は巡ってこないのです。

木は長いもので数千年の寿命があり、彼らから見ると人間はまるでウスバカゲロウの様に短命に見えている事でしょう。

一秒の間にミクロの世界では、何千年の時間が過ぎ、マクロの世界では全く動いていないのと同じなのです。

一日は一日、つまり太陽系の第三惑星地球では一日ですが、その時間の観念は人間だけもので、その他の世界観では全く違うという事です。

そしてその人間ですら個々の時間の流れ方が違うのです。

時間は経過を意味します。

それは、言い換えればすぐに過去のものとなるという事でもあり、常に未来を迎えるという事でもあります。

 

私達は常に時間を意識し生活しています。

遅刻しないか?約束の時間は?睡眠時間は?……

しかし、視点を変えると小さな世界の出来事であり、宇宙から見れば取るに足らない事でしかありません。

現実社会で生きていくには、人間が決めたルールで動かなくてはいけませんが、時にはもっと大きなスケールで物事を考える必要があるのです。

私達は子々孫々と受け継がれたきた命の一コマに過ぎません。

SF映画や映像で、何もない大地が森に変わっていくCGを見た事があると思いますが、正にその画像の一コマの切り取りが、今の私達なのです。

それが映画のフィルムの様に次々と画面が送られ、今もこれからも映し出されていくのです。

そして、どの様な展開になるかは、一コマの私達にかかっているのです。

喜劇役者で余りにも有名なチャップリン(Charlie Chaplin)の言葉に、

「Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.」

『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。』

という名言がありますが、正に的を得ているのかもしれません。

但し、人類の映し出す映画が喜劇になるとは限りませんが。

 

よく、度量や器の広さという言葉で心の許容量を表しますが、それは広い世界観を伴っての意味です。

自らの人生を小さな世界と思い込み、勘違いし右往左往していては生まれ出てこない心持です。

毎日の暮らし、決まった時間に起き、食べ、通学や通勤し帰宅という手順の繰り返しが小さな世界にしているのではありません。

見方、すなわちいつも同じ方向からしか世界を見ていないだけです。

一日たりとも同じ一日はありません。

見た目や巣などであまり良く思われていない節足動物のクモ・蜘蛛(間違えやすいですが昆虫ではありません)は、ゴキブリやハエ、ダニなどの家の害虫を捕食する益虫(虫では無いのですが)です。

(日本には「セアカゴケグモ」等、毒を持った蜘蛛もいます)

見つけたら「気味が悪い」「害虫」「悪さをする」という理由で殺虫剤で駆除している人もいるかもしれませんが、日々彼らは、人間にとって有害な虫を食べています。

見た目や先入観で嫌われている動物、長い目で、違った見方で見れば毎日良い仕事をしている職人という事になります。

もし蜘蛛の時間を想像力を働かして考えるなら、毎朝一生懸命、道路や歩道のゴミを拾っている心優しき人達と同じ事になります。

すなわち、人間の時間の尺度で判断する事を見つめ直さなくてはいけないのです。

見た目の悪さから排除してしまう事は一瞬ですが、彼らの時間の積み重ねが私達の快適さに、そして何より時間の概念こそ違え同じ生物としての生き様を共有している事を考えて見て下さい。

 

個々の人間の流れる時間の早さが違う事を書きましたが、私達人間も機械ではなく自然ですから、成長や発達もそれぞれ個々に違います。

脳も誰一人同じ脳を持ってはいません。

例えば職場の人達と飲みに行った時、早く帰りたいと思っている人と、楽しみたいと思っている人の時間感覚は全然違います。

無駄にした時間と有益だった時間は同じ時間なのにです。

遅れて来る人より待つ人の方が長く感じる事も同じ事です。

発達段階にいる子供達にとっての時間の流れを、大人の見方で見てしまう事にはムリがあるのです。

共通の時間という概念は社会上勿論必要ですが、一方的な見方で時間を押し付ける事を子供達にやっていないでしょうか?

共有しているとはいえ、他人の時間を自分の時間軸にして考え、合わせようとしない事です。

また逆を言えば共通の時間を元に社会が動いている中で、例えば前述例の遅刻する事は待たせている人の時間を無駄にしている、つまり時間泥棒とも言えるのです。

泥棒にならないよう、また泥棒には泥棒でという考えに至らない様にしたいものですが。

 

見方を変えなければ見えないモノが沢山あり、見えないモノの中に本質が隠れているかもしれません。

普段見落としな小さな世界と想像を超える様な大きな世界。

その狭間に私達は短い間の命として日々を送っているのです。

 

何気ない毎日に感謝しつつ、時間の概念を違った見方で考える為の想像力を忘れないで下さい。

 

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