心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

何の為に生きるのか(1)

前回、生まれた意味の事を記しましたが、では私達は何の為に生きるのでしょうか?

身体は出来る限り意志とは関係なく生きようと必死で頑張ります。

それは、人間だけでなく生物みなその様な仕組みで、死は遺伝情報を受け渡す代償として訪れます。

身近な昆虫である「蟻」

公園で蟻の動きを見ていると、黙々と与えられた事をこなしていて「何で俺だけこんな働いているんだ?」と愚痴も聞こえてきそうですが、実際には擬人化しているだけで、蟻たちにとってはどうでもいい事なのでしょう。

働き蟻はメスですが、卵を産むことは出来ません。

が、巣作りやえさの確保など重要な役割を担い、1~2年で寿命が来ます。

羽のついた蟻は、オスとメスがいますが、メスは女王蟻になり、長いと10年も卵を産み続けますが、オスは交尾後1年ほどで死んでしまいます。

ですから子孫を残す、遺伝子情報の受け渡しは直接的なモノばかりでなく、その目的を達成する為の様々な役割を持つ多くの個体の助けによって達成できるという事です。

 

人間も子供を守り育てるのは親だけでは成り立ちません。

社会という大きな支えとその社会を持続する為の様々な人達がいて、子育ても安心して出来ます。

生れながら親がいない子供や保護者が亡くなってしまった子供でも社会全体の仕組みや、その中での色々な人の係わりや支えによって大人へと成長していきます。

すなわち、子供に対して誰もが親であり保護者でもあります。

 

昨今、子供の安全を優先するあまり公園の遊具の撤去や殴り合いなどケンカの防止、自然とのふれあいの減少で、実体験をする事なく大人になっていきます。

良くも悪くも大人の先回りの処置の行き過ぎと言っても良いかも知れません。

また子供の声がうるさいとか、危険と騒音問題でのボール遊び禁止、近所の監視の目も少なり、子供達の自由度は大人の裁量によってかなり制限されていますし、ゲームやスマートフォンに時間を費やす子供も多く、五感をフルに使って成長する機会も減る一方です。

これらも、本当に子供達の為かというとそうでもなく、大人の都合、すなわち扱い易く言う事を聞く出しゃばらない子供達を管理する立場で生み出し、大人同士のコミュニケーション能力の低下で、争いを未然に避ける為の処置がますます子供達の精神を疲弊させてしまっている原因にもなっています。

 

本題の「何の為に生きるのか」

人類の存続の為です。

例え人類が滅んでも、他の生物は巧みに生き残るでしょう。

しかし人間は、一人では生きていけない動物であり、裏を返せば力を合わせ、知恵を出し合う事で生き残られる可能性があります。

憲法や法律があるのも、規律やルールを守る事も社会全体で生き延びていく上で必要だから存在していて、守らない者は罰せられる事で社会の維持やもっと大きく言えば地球という母体を守る為でもあります。

ただ個人個人、そんな事を意識しながら生活はしていません。

日々の子育てや生活、様々な事で時間に追われ、貧困や人間関係に悩まされ、老後やお金の心配をしているのが現実でしょう。

そんな時「何の為に私は生きているのか?」と疑問に思う事は当たり前のことです。

子孫を残す為の様々な取り組みを担っている実感が湧く事はほとんどないかも知れません。

まして歳をとると、子供達への関心の薄れていくものです。

これは、視野が狭くなってしまう事による要因と想像力の無さからどうしても身近な事ばかりに気を取られ、大きな役割の一部に組み込まれている事に気付けないからでしょう。

何もプロジェクトを立ち上げろとか運動を起せという意味ではなく、ほんの小さな事、例えば子供の手本になる事や誰かの手助け、勿論自分自身の生きる力をつける事等、出来る事をやるだけです。

それには視野を広める、すなわち想像力を働かせる事に尽きます。

人間は一人では生きていけないのですから、助け合う以外に生き延びてはいけません。

また、人間に適した環境を維持しなくては遠い将来ではなく、もしかしたら明日にでも人類が滅んでしまうかもしれないのです。

環境破壊や戦争は人間が作り出す最悪の滅亡のシナリオです。

勿論自然災害で命を落とす方も大勢いますが、その災害の原因の一部を私達人間が起こしている事にも気が付かなければいけません。

どれもが繋がっている事であり、だからこそ人間の英知を結集して乗り越えていかなければならないのです。

それは、前述の例でいうと、あなたが子供に優しくしたり、危ない事をやっていたら叱ったり、また大人として生き方を見せる事で、その子供が将来、人類を救う人間になる事だってあり得る事です。

そして何より相手の心を和ませられる事で、自分も幸せな心持でいられます。

誰でも、助けてもらった時や助けられると嬉しいものです。

これはわざと自分で作り出している感情ではなく自然に湧き出る感情ですから、そうあるべきだという人間に備わっている能力なのです。

 

誰かをイジメたり苦しめる感情は、生まれた時から持っている訳ではありません。

また攻撃的になったり、すぐ感情的になったりするのは古い脳が元々持っている感情で、新しい脳である前頭葉でコントロール出来るようになっています。

人間は進化でその様な素晴らしい脳を手に入れたのですから、古い脳ばかり使う事は進化の過程で止まったままの状態とも言えるのです。

人間らしさの部分を使わず、短絡的な脳の回路が出来上がってしまうと、人との繋がりという大切な機会も逃してしまう事でしょう。

みんな何か目的を持ち、達成する事を目指しながら生きています。

若いほど、自分の将来像を描き前に向かって進んで行こうとしているでしょう。

その目的はいい暮らしや素敵なパートナーとの出会い、趣味の充実、お金儲け、やりたい仕事に就く事など人の数だけ目標があり、誰もが幸せになる事を願っています。

そしてそれぞれの目標達成自体も個人差があり、幸せと感じる度合いも違います。

ただ、誰もが思い通りに生きられるわけでは無いのも事実です。

辛い事や悲しむ事、落ち込む事だらけです。

何の為に生きるのかは、目標を達成する事でも、個々の幸せを得る為でもありません。

「夢を叶える」「幸せな人生を送る」といった目標はどれをとっても、誰かの手を借り、助けを得ないと実現出来ません。

また、例え思い通りに達成できなくても、生きていく上で必ず誰かの世話になります。

身近な家族や友人だけでなく、社会を支えている人達のお陰で生きていけるからです。

逆もしかりで、あなたが誰かの手助けをする、している事と同じ事です。

生きる事は「苦」である事は何度もこのブログで書いていますが、楽に生きる事からスタートラインを引いてしまうと、つまずいた時になかなか立ち上がることは出来ません。

何故なら、成功者を羨んだり自分の力の無さを悔んだりと次から次へとキリがなく、それがまた生きていく事に対する意欲の消失に繋がってしまう事もあります。

元々「苦」である人生ですから、暖かい誰かの言葉だけで幸せになれるのです。

目標を高く持つ事も、夢を叶える事も悪い事では勿論ありませんが、生れ、何の為生きるのかとは別の事として捉える必要があります。

小さな事でも、自分も含め誰かの為に助け、生きていく事が何の為に生れたかの答えでしょう。

ですから、やりたい事や理想像と混同してはいけないのです

その事ばかりに囚われると本来の意味から逸れ、人生を見失ってしまうからです。

色々な事が人生の中で起き、辛い方が多いのがまた人生です。

ただ、生を受けたならその時点で成功者なのです。

優しい謙虚な人間として生きる事を選ぶ事は勇気もいるし、痛みも伴います。

何故挫折や自己嫌悪、失敗や後悔するのか?

それは優しく謙虚な人間になる為です。

もしその経験のうっぷんを誰かに向けてしまうと水の泡になってしまうでしょう。

責任転嫁という事になってしまうからです。

そして気を付けなければいけないのは、他人の責任にする事ほど簡単で逃げやすいという事です。

そう、優しく謙虚な人間になる事はとても大変な事なのです。

だからこそ目標とし、より高みを目指す事で自身も成長できるのです。

ただ八方美人になる事や、また人に好かれる人間になる事ではありません。

誰からも愛される、好きになってもらう人間になれるわけがありません。

そもそも、相手が関係するような思考では無いからです。

経験と学び、想像力がその手助けをしてくれます。

全て自分に跳ね返ってくる事だからこそ、自らの意志で優しく謙虚な人間でいるのです。

それがまた、良い方向に導いてくれる事になります。

 

世の中、色々な事がどんどん変化し、進歩し続けています。

未だに人を蔑んだり、憎んだり、差別や偏見、権力を持ちたがる人間は、悲しい事に進歩というより後退しているのでしょう。

そしてこれから先、益々彼らは新たなターゲットを見つけ、うっぷん晴らしをするはずです。

言い換えれば無知からくる、一度きりの人生を台無しにしている人達とも言えるのです。

たった一度の人生です。

心穏やかに過ごしていきたいものです。

 

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