人間は 間違えやすく、すぐ信じてしまう動物です。
私は、もともと疑いやすい性格もあって、これが正しいと確信したことは余りありませんでした。
ですから、電波時計のような正確な時計か、もしくは手回しの機械式の時計の両方が好きなのです。
確実に正確であるか、手回しの時計に正確さを求めない遊びがあるからです。
日本では先の大戦が終戦した途端、社会の在り方や思想、民主主義等、それまでの価値観が変わり、信じていたものがもろくも崩れてしまいました。
結果、時代についていけない人達が沢山生まれました。
人間は、信じてしまうと、疑わなくなる側面を持ち、信じ込んでしまいます。
その危ういその側面を、権力者がコントロールしてしまう事は、歴史が証明しています。
原発の安全神話もしかり、不沈船と言われた、タイタニックや大和も、結局多くの犠牲が伴いました。それを覆すかのように、当たり前と思わない想像力が、時間が遅くなる事や光が曲がる事の発想を生み出しもしました。
もし神が人間の定めを、運命を決めているなら、向上心も可能性も必要ない。
良い方向だろうと、その逆であろうと、始めから決められているから。
ただ、運命として受け止めながら、何かの意志の糸で、操り人形のように動く。
そう操り人形には、意志が無い。
自由意志を放棄する条件が必要だから。
時に、ちゃんと糸が張られているか、結び目はほどけていないか確認しながら、またその糸が導く動きに惑わされても、「信じる」という「糸」で繋がっている事を確認し委ねる。
「あなたが糸を操っていているのですよね」と。
起きた事が、起きるであろう事全てにおいて、神の意志であるからだ。
だから、いつまでも信じ続けなくては、悪い事や予期せぬ事が起きた時も、耐えられない。
そして問いかける。「なぜ、答えてくれないのですか?」と。
仏像の目をみれば、そこに幸せや不幸は無く、ただそこにいる事を迷いも無く見つめている。
十字架も、キリスト像やマリア像も、ただそこにあり、あなたに視線を合わせない。
そこには、こうあるべきという教えも無い。
見つめているというより、見透かされている。
あなたは、そこに何を見、何を求めるのでしょう?
希望や願い、存在の意味?
人々は問う。
「なぜ…」その後に続く言葉は、不平や不満に不平等、苦しみや救い
でも、あるのは静寂であり、無言という答え
応えられないから答えないのではない。
答えこそ、無言で応える。
あなたの問いは、人間的な問いであり、その域を出ない。
では、誰に問うているのか?
想像を超えた創造主に?
はたまた、悟ったブッダ達に?
隠されている神の計画や約束を聞いても、運命や定めを聞いても、
そんなものなど始めから無いのです。
もし神がいて、沢山の願い事を聞き、救いを求められても、
いっぺんに叶えられないだろうし、
どれほど信じていたとしても、優先順位を考えなければならない。
「教えを守っているか?」「どこか抜かりはないか?」「心から信じてるか?」
神はそこも考えなくてはならない。
そう、考えている神は人間的であり、その域から出ない。
「神が考える?」「神が線引きをする?」「天秤にかける?」
だから、いくら答えを求めても答えないのです。
その辺に落ちている石ころに、あなたは願ったり、答えを求めません。
石ころは、ただの石ころで人間的では無いからです。
もしその石ころが、大切な人からもらった石ころなら、お守りにもなるし、お願いごともするでしょう。
あなたの見る目が、心が、ただの石ころを特別な石ころに変えただけで、他人から見ればただの石ころに過ぎないのです。
あなたが考える「神」は石ころと同じです。
そこに人間的な、人間の域を出ない「意味」を見い出し、特別な想いを持たせ、ひたすら何も答えない石ころに、問いかけているのです。
抜け落ちているのは、石ころを見ていない所です。ただの石ころだと。
そこに、意味付けをする事も無ければ、見い出す必要も無いのです。
大きな、想像も出来ないほど広い世界に存在する、唯一の石ころですが、ただの石ころです。
そして、それは見てもいない石ころに意味を持たせ、人伝(ひとづて)に「あの石ころには力がある」「信じなさい」と言われているだけです。
そして見てもいない石ころに、問いかけをしているのです。
「あなたは、そこにいて見守って下さる」と。
私は以前の仕事で、毎日のように仏壇や塔婆、十字架のペンダントや遺品と思われるような物など、トラックから処分する為、放り投げてきました。
私は罰当たりな事をしているのでしょうか?
いや、処分を依頼した人達や運んできたドライバーは、罰せられるのでしょうか?
正直、抵抗はありましたが、それは、そのように思う自分として育ってきたからです。
日本も、かつては死者を山に捨てたり、世界では、野ざらしにする鳥葬や川に流したりと、育ってきた環境や教えられてきた事で、死生観や見方が全然違います。
それは、どれが正しくて、どれが間違いかは関係の無い事です。
人間は、ただの石ころにも、命を吹き込み、願いを託すことができる地球上での唯一の生物です。
と、同時に無いものまで想像も創造する事も出来るのです。
石ころは、そんな事はもう分かっていて、そこにあるだけなのです。
「神」とは、ニュートン、アインシュタインやボーア(注1)、ホーキング(注2)達が探し続けてきた、この広大な宇宙に隠された法則であり、カオス(注3)のように装うバランスなのです。
人間は、その中のほんの一部に組み込まれているだけで、人間が抱く苦しみや悲しみは、ただの電気信号で、素粒子(注4)の集まりでしかありません。
カオスが悪戯をし?、人間が生まれてきたにすぎません。
同種を殺し続ける人間、もがいている人間をしり目に、自然は大きな法則に従いながら、流れているだけです。
マスター達は、それに気が付き、理解に到達した弟子たちに口頭で伝えてきました。
なぜ、マスター達は記する事をしなかったのか?
間違って解釈されることを望まなかったから。
感情移入されかねない恐れがあったから。
例えば、大勢の前で話す時と、個人に話す時は、言葉も変わります。
また聞く者が、どんな理解で聞くかでも変わってきます。
高みにいる者には、無言に近かったでしょう。
理解に達していない者に話す時はマスターが下に降りて、例え話しを交え話した事でしょう。
小学生に教える時と、大学生に教える時、やり方が違うのと同じ理屈です。
何より、自身を見せ、語り、伝えたかったからに違いありません。
教えは、形を変え宗教として伝わってしまいました。
マスター達の教えは、皆同じものであり、「教え」であり「宗教」では無いのです。
教えに答えを求める事は出来ません。
宗教にはそれが出来るのです。
いや出来るように装う事が出来るのです。
先延ばしにも時にはするでしょう「もっと信じなさい」「信心が足りない」と。
教えは、凝りもせず同じ事ばかりする人間への戒めであり、また命の謳歌であり、踊るような生の賛美です。
だからこそ、問いに無言で応え、「自身で見つけよ」と、いざなうだけなのです。
「あなたが、生きているあなたが答え」だと。
宗教を持つ、持たないは自由であり、認められた権利です。
宗教を通して弱者と言われている人達に、救いの手を差し伸べている行動には、頭が下がります。
ただ、その裏にある、不条理な側面も、私には見え隠れするのです。
「天国と地獄」「天使や悪魔」等の言葉に心が動かされないのです。
自身が、そこには無く、外圧のような物に囚われている気がしてなりません。
誰かの仕業にする事ほど、楽な解決はありませんから。
何故、宗教の名の元で多くの命が奪われ、いまだに世界はいがみ合うのか?も。
その事で、見放された人を宗教が助ける事も。
歴史もその事を示しているにもかかわらず、同じ過ちを繰り返すのか?も。
はたして、宗教は必要なのか?とも。
聖書マタイによる福音書24章32-51節に、終末の事が書かれています。(私的解釈ですが)
「色々な戦争や災いが起き、災害や、偽の救い主が現れるが……キリストの再臨が起き……」
この文章を読みますと、地球の最後を表しているように読み取れます。
私達の太陽は約50億年ほど先に、そのエネルギーの水素を使い切った後、外側での核融合により、大きく膨らんでいき、地球は飲み込まれていき、赤色巨星になります。それ以前に、大気ははぎとられ高温で、死滅するでしょう。
やがて太陽は小さくなり惑星状星雲になると考えられています。
人類は、太陽と同じ核融合という禁断の果実を手にしました。
太陽によって人類が滅ぶか、手にした核によって自ら滅ぼすのか解りませんが、いずれにせよ、そんな先の事では無く、今生きている人達の事を、愚かしい戦争や自然破壊によって亡くなってしまう命をどう助けるかに、目を向けなければ、マタイの福音書を救いとしても全く意味が無いのです。
私には、その矛盾が理解できないのです。
ノアの方舟を待っている間に、どれだけの尊い命を犠牲にすれば良いのか?
人類は神に答えをずーっと求めてきました。
これからも求め続けるでしょう。
ただ言えるのは、「答えない」という事です。
川に向かって「何で流れているんだ?」と聞いているようなものだからです。
何時間も川を見ていた若き日のブッダは、その答えを見い出したに違いありません。
凡人である私としては、まあ、その答えない答えを、死んでから考える事にします。
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(注1)デンマークの理論物理学者ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr)量子力学の確立に大いに貢献した人物で、アインシュタインと論争した事でも知られている。
(注2)イギリスの理論物理学者スティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking)
(注3)混沌という意味。物事が入り混じっている状態や無秩序で、まとまりがない状態
(注4)物質を構成する最小の単位
以前も紹介しましたが、1971年「ジョン・レノン」の楽曲である『イマジン(Imagine)』は、私の大好きな曲です。
「天国や国、宗教が無い事を想像してごらん?」という詩にとても共感出来ます。
有名な曲でご存じの方も多いと思います。もう一度聞いてみて欲しいと思います。
1949年生まれのアメリカの歌手『エリック・カルメン(Eric Carmen、Eric Howard Carmen、)』
1975年の曲『オール・バイ・マイセルフ( All by Myself)』は、独りでは生きていけないという歌詞のバラードの名曲で、セリーヌ・ディオンがカバーしています。昔の曲ですが、今聞いてもジーンときますよ。