心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

生きる事の意味?⦅死生観⦆(4)

私達は奇跡の様に生れ出た。

勿論、誰もが望んで生まれた訳では無いが、生まれたからにはその意味や、何を成すのか誰しも考える時がある。

このブログ「何の為生まれたのか?1~3」でも書いたが、

生まれた事自体に意味は無い

時代、時間や場所、環境で大きく人生が変わる可能性の中、たまたま日本に生まれた訳で、平和な国に生れた事には素直に感謝したい。

ただ「生まれて来なければ良かった」と考える人もいるのも確かだ。

私も思春期の時にそう考えた一人だった。

私に限らず、悩みや苦境、取り巻く環境で自分の居場所が見つからず、また自身の価値も見い出せない時、そう考えてしまう人も多くいるのではないだろうか。

また家族や身近な人達の死、とりわけ子供の死に直面した時、「何の為生まれたのか?」と考えてしまうのは当然だろう。

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生れた事自体に意味は無いが、どう生きていくかは自分次第で自分なりの答えを探す事になる。

同時に、身近な人の死の際、亡くなった人の死生観を自分なりに理解しようとする。

ただこの世で起きた事はこの世だけの話であり、何も持たずに生まれ、何も持てずに死んでいく。

この世の事はこの世の内に片づけてしまった方がいい。

 

例えば鼻歌を唄う時、「やらなければいけない」「その後これをやろう」と考えるだろうか?

自然と唄いたくなっただけで、強制された訳でも義務でも無いはずだ。

鼻歌は鼻歌で、唄った意味を考える事などしない。

息をし、食べ、排泄し、眠る。

当たり前だがいちいちそれらの行動に意味付けなんてしていないはずだ。

生きる事はその様なもので、何がしらの意味付けをしたがるだけなのだ。

 

体は考えずとも生きようと必死で活動し、自身を支えている。

もし飢餓状態になると、肝臓の働きでカロリー消費を少なくしようとする。

また筋肉からグリコーゲンをエネルギーに変え、その後体のたんぱく質や脂肪からエネルギーを生み出す仕組みになっている。

自らの組織を壊してまでも生命維持に全力で取り組む。

そう、死ぬことを目的に37兆個もの細胞は働いてはいない。

歳を重ね肉体的にも精神的にも衰えていくのは自然の流れであるが、それでも身体は死と抗(あらが)うのだ。

必然であり不確かさ、すなわち何が起きるか解らない事を前提として体を授けられ、この世に生み出されたのだから、生きる事自体に意味がないというのはそういう事だ。

それは戦争からの視点で考えれば解り易い。

国家、権力という母体を守り、支配力を高める為、兵士は前線へと送られる。

個体の死には意味がなく、身を削りながら目的を達成しようとしている。

すなわち国家や権力者の存続の為には犠牲者が出る事は仕方がないとする考え方だ。

ただここに大きな問題がある。

人間は肉食動物から身を守る為、多少の犠牲を出しても生き延びようとする道を選んだ動物ではないからだ。

個々の命の尊厳を前提として集団で生きる事の利点を理解し、もしくは孤立する事では生きていけない事を学び、社会が作られ、法が作られ、集団生活の中、共同で生きる道を選んだ人間。

だから戦争や紛争は、脳を発達させ集団で生き延びてきた人間のやる事では無いのだ。

 

人間以外の生物は、食べる事、必要とされる栄養を取る事を前提に生きている。

目的は、食べ、生き延び、子孫を残す事であり意味付けなどない。

個体が死んでしまっては子孫も残せない。

雑草もアスファルトの隙間さえも利用して必死で生き延びようとしている。

 

ところが人間は脳の発達と共に、色々な付加価値を「生」に持ち込んだ。

何の為に生きるのか?何をすべきか?意味は?と遥か昔から問い続けている。

加えて「死」が訪れる事により死生観を生み出し、益々「生」の価値に理由付けしているに過ぎない。

しかしそれはこの世に生まれ出たと意味という問いではなく、どう生きていくべきかの問いであり、どんな人生を歩むべきかを模索する旅なのだ。

 

生れたら死ぬ。

生きる事は苦である。

このブログで何度も書いているが、この当たり前の事を受け入れるには個人差があり、また個人個人を取り巻く環境、宗教観や伝統、風習や地域など様々な要因によって受け入れる心の準備も違う。

子供の頃は「死」は恐ろしく、怖いというイメージを大人が刷り込んでいると言っても過言ではない言葉や情報で、単に「死にたくない」「死んで欲しくない」と思っているが、成長するにしたがって色々な情報を得る事により死生観が出来上がっていく。

土台になるものが、子供の頃植え付けられた「死」のイメージであるから、どうしても消極的な発想になってしまう。

加えて、生きる事が「苦」である事を教わらず、「夢を叶えろ」「目的を持て」と言われ続けながら成長していく。

人生に何がしらの成功という様な期待や幸せ感の定義を持たせ、「人生とは?」「生きる意味とは?」と問いかけする。

そしてその人生における所業が死後の世界を左右し、生まれ変わりの事まで影響するとなると、生まれ出た事や日々の生活に隠れている「苦」から得る「幸せ」を見つける力は弱くなってしまう。

すなわち、後付けの要因で問いかけをする事自体、無理がある話で答えなど見つかるはずがない。

人生は

瞬間の選択の枝分かれ

そのキッカケは

学びという名のドミノ

この世のものは

無駄なものなど何もない

その全てが師であり

教えそのものだ

 

生れ出た途端「死」へのカウントダウンが始まる。

生きる事の意味は、どう生きるか、どんな人間でいるのかで、答えではなく探求そのものなのだ。

人生は筋書きのあるドラマでは無いし、何が起きるか解らない一寸先は闇の世界だ。

生れた事や死後の心配をするなら、今をどう生きるかを考える方がよっぽど意味がある。

生きる事の意味は無い。

探求の先にある死をもって、残された人達の心の中で、その人の生きた証の意味の答え探しが始まるだけなのだ。

 

余談

 

我が家はハイツなのでチラシが入れやすく、宗教のチラシもたまに投函されている。

ある仏教の宗教のチラシが投函されていたので、一応何が書いてあるか確認したのだが、未だにこんな事を平気で書いているのか?とビックリした。

死後、成仏するか地獄に堕ちるか、臨終の相で解るらしい。

書かれていた内容は、成仏は臨終ののち色が白くなり軽く柔らかくなる。

地獄行きは、黒く、硬く重たくなる…と。

思わず吹き出しそうになった。

大抵の場合、今は病院で亡くなる方が多い。

病院の廃棄物回収の仕事で中に入る事が多かったので解るのだが、特に高齢者でベッドに寝たきりの患者さんは胃ろう(チューブによる栄養補給)や点滴のチューブが繋がれている。

昔と違って必然的に体は水分で重くなる。

病院の方も「今の亡くなる方は、昔より重い」と話されていた。

「ん?みんな地獄行き?」

人生の目的は成仏であるとか、地獄という様な言葉を使って信じる事を説いているのだが、元々のマスターの教えを歪曲し解釈し、まるで言い方は悪いが脅しの様な文面で埋め尽くされていた。

決して宗教を否定してはいないが、これが現実であり、信じている人も多くいると思うと私としては空しくなってしまった。

生きている時こそ全てであり、死後の行方や心配をする時間では無いはずだ。

生きているからこそ死者を弔う事も学ぶ事も、そして教訓も次の世代に伝える事が出来る。

自身の死後ばかり気にしていて何が宗教なのか?

まるで自己中心的なこの考え方は(あくまで私個人の私見だが)反論も承知で書かせてもらうと、

受け入れ難い考え、教えであった。

 

人それぞれの死生観があって、尊重されなければいけない事であるし、無理に考えを変えさせたり、否定したりはやってはいけない事だが、一部と信じたいが宗教者こそその原点に戻って、教えを広めて欲しいものだ。

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20221028152413

戦争⦅日本の選択⦆(4)

人類が誕生して以来、争い事が無くなる事は無かった。

国内での争いや他国との争い。

そして侵略や植民地化とどれも権力、利権争いが主な原因だ。

それ以外にも宗教や民族の違いによるによる争いと人類は平和とは無縁の歴史を刻み続けている。

未だに、世界のあちこちで紛争や戦争だけでなく、迫害や差別、権力争いが続いている。

 

第二次世界大戦後76年が過ぎた

毎年の様にこの時期になると様々なイベントが催され、番組が流される。

忘れてはいけない事として、年に一度は振り返る時があるのは素晴らしい事だが、単なる行事化となる事が恐ろしい。

戦争経験者もほとんどの方が亡くなり、歴史的な記録や残された証言、資料でしかその非道、悲惨さを知る事が出来ない。

実体験が無い者にとって、実感が湧かないのも致し方ない。

実際、戦争の恐ろしさなど気にも留めない人の方が多いのも、良くも悪くも平和の日本で暮らしているからだ。

そして、近代史の歴史認識を学べない教育の弊害かも知れない。

 

よく戦争では正義という言葉が使われ、祖国の為や愛国心、家族の為と次から次へと後付けの様に士気を高める為に使われるが、実際その事を信じ散っていた多くの人達は覚悟が出来ないまま、死ぬ事を恐れずに戦闘をしていた訳では無い。

まして、情報を与えられない、もしくは都合の良い情報ばかり流れてくれば判断する材料も無く、恐れる気持ちを奮い立たせる為の一種の自己暗示だったと思う。

それは純粋に愛国心や家族を守るという気持ちを持って戦いに挑んでいたとしても、普通の感覚でいられない戦時下に直面すれば、何の為の戦争であり、自分は何の為に駆り出されているか疑問に思うのも当然である。

ウクライナの戦争でも、ロシアでの若者の国内流失からも見て取れる。

 

一方で近代、戦争の在り方が変わりつつある。

それは、IT (information technology「情報技術」)・AI(artificial intelligenceの意味は、「人工知能」)・DX‘(digital transformationの意味は、「デジタル変革」)といったいわゆるデジタル機器等での戦争である。

特に無人機、ドローンによる攻撃やAIを駆使してミサイルからライフルまで確実に目標物を捉える技術の急激な技術革新、そして戦術核による使用や、最終兵器の脅しや最悪の使用。

また使用禁止になっている様な兵器の使用と兵士、すなわち人間の損失を減らし最大限の効果を出す戦争の戦い方に移行しつつある。

だが犠牲になるのは一般市民である事に変わりない。

とりわけ子供達は未来を奪われるだけでなく、孤児になり洗脳され兵士や自らの自爆等に利用される事である。

どれほど技術が進もうと、今まで以上に一般人の被害は多くなるのは目に見えている。

今年4年ぶり国際的な武器の見本市「DSEI JAPAN」が千葉市幕張メッセで行われ、今まで以上に近代兵器の展示も多く、日本も含め兵器開発による軍需産業の利益は今後も莫大になる。

正に戦争によるお金儲けであり、日本がその一端を担う事は大いに危惧するところである。

最近も日米間による首脳会議が開かれ、中国を念頭に同盟国としての連携を確認にしたが、どれをとっても「力には力で」という考えがベースに話が進んでいるのに変わりない。

 

私達一般国民が知らない内に、戦争という恐ろしい現実が裏では進みつつある。

考えれば解るが、メイドインジャパンの兵器で肉親を殺されたらどんな気持ちになるだろうか?

少子化と言われる日本で、過疎地や一人世帯や高齢者が増え、有事の際どんな自己防衛や避難、インフラの確保が出来るのであろうか?

今や日本の全てが射程内になっている。

すなわちミサイルだけでなく、ドローンによる攻撃をされる可能性は高い。

しかも島国であるが故、位置的にも国外退避はごく一部の人達だけだ。

だからと言って、力で対抗するとなると自国だけでは不可能だ。

逆を言えば同盟国の戦争によって、日本も重大な責務を負う事になる。

そう、以前にも書いたが戦争を始めれば終わりなのだ。

 

ではどうすれば平和憲法を持つ国としてやらなければいけない事は何か?

やはり教育に尽きる。

歴史を紐解き、戦争の残虐性や普通の人間を悪魔に変えてしまう極限な世界である事、敵、味方に関わらず国民に遺恨を残すだけでなく、日本在住の外国人との衝突が起きる事や産業を含め輸入に頼る国として機能不全になる事、地球温暖化に加担する事やエネルギーの枯渇による混乱等、あらゆる損失や犠牲を想像力を使い、子供達が考える機会を増やすべき、いややらなければとんでもない事になるのだ。

学校だけでなく、家庭でもその様な機会を作るべきであるし、マスコミも先の大戦の反省も踏まえ、この時期だけでなく、もっと政府に忖度することなく情報や様々な意見を取り上げ世間に知らしめるべきだ。

 

今の政府は日本国憲法を理解しているとは思えない様な行動や言動を繰り返しているが、その憲法こそが権力者を暴走させないためのもである事を国民全体で再度共有すべきであり、国民が、マスコミが圧力をかける事で、危険な考えを押しとどめる権利の行使が出来る事を今一度考えるべき時期だと思う。

 

この時期、閣僚による参拝や奉納などがニュースになるが、生きている人達への尊厳なくして死者に対する尊厳を守る事は出来無い。

それは、死者が何の為に死んでいったかを考えると解るが、彼らは生きて日本を再生して欲しいと思いながら散っていったのだ。

それが平和である国の構築や存続であり、何より二度と戦争を起こすなという想いなのだ。

彼らへの尊厳を守るという事は、平和こそが表せるものであり、参拝や奉納では無いし、同盟国と足並みをそろえる事でも無い。

まして、最悪の事態で戦地に送り込まれる兵隊に対し、個人の尊厳など無視される事は明らかだ。

遺骨収集も遅々として進んではいない。

遺骨収集事業は1952年度に始まったのだが、沖縄などの国内以外に海外や海に沈んだ遺骨の収集もまだまだ進んではいない。

沖縄の辺野古基地問題でも、政府が埋め立て土砂の採取候補地に本島南部をあげ、遺骨が混じっている事で反対運動等大きな問題になった。

遺骨の取り違え、すなわちDNA鑑定の遅れによる日本人では無い事の可能性が高いという事実もあり、また遺族や関係者の高齢化により聞き取り情報も減る一方で政府が本気を出していない表れでもある。

肝心なのは遺族の元に還す事は、平和でなければ出来ない事でもある。

 

今方向を変えられるのは、私達国民一人一人の意識なのだ。

そして未来を担う子供達への想いであり、何より想像力だ。

決して、力での政策を許してはいけないのだ

語り部達が紡ぐのは

無念と心残りの千羽鶴

届く宛てない折り鶴は

今でも重なり風に舞う

いつか平和の訪れに

絆の糸が解き放ち

羽ばたくその日が来るのだろうか

 

 91歳で自身のシベリア抑留体験の語り部になった、西倉勝(にしくら・まさる)さん(96)のお話をごく一部だが聞く機会があったが、経験された本人から聞く事の重要性を再認識させらた。

今後、経験者の語り部の方達も高齢になり亡くなってしまうのだ。

 

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20221028152413

生と死の狭間⦅お盆と戦争⦆(3)

私にはお盆で帰る家もお墓も今は無くなってしまった。

本来なら琵琶湖から数キロの丘の上に両親が眠っていたのだが、管理費が払えず撤去されると5歳下の妹から聞いていた。

私の一つ下の弟も墓標に刻まれる事無くそこで眠っていた。

 

父は100歳過ぎ迄長生きしたが、元々私と幼い頃から会話も無かったが、戦争の話は一度も聞いた記憶がない。

亡くなった後、いくつかの写真の中から1枚だけ兵隊の格好をした父の写真を見つけ、少し驚いたぐらいだ。

私自身教科書で習うくらいの戦争に対する知識はあったが、近代史はいつも軽く飛ばされるような歴史しか学校では学んだ事が無く、戦争は過去の話で平和でよかったくらいにしか感じていなかった。

勿論戦争映画も観ていたが、正義はアメリカで悪はナチスという構図の、正に西部劇的な見方をしていた為知識は乏しかった。

 

20代の頃広島の原爆ドームや資料館にバイクツーリングのついでに見学した事がある。

その悲惨さに驚いたものだが、施設を出る頃には心から抜け落ちてしまっていた。

要は今から思うとほとんど関心が無かったからだと思う。

広島=原爆ドームという観光の観点から捉えていただけだった。

それは戦争だけでなく政治や経済も当てはまり、当時の私はただの何も知らないフリーターでしかなかった。

そんな脳天気な私の変わるキッカケは、30代にノンフィクション作家、吉村昭氏の本で、緻密な下調べや描写力に魅せられ彼の本を片っ端から読み、戦争の事もかなり学ばせてもらった。

彼のノンフィクション作品の中で、「戦争」に関する作品はかなりある。

良ければこの機会に是非読んでもらいたい。

もし彼の作品に出会えなかったら、今でも他人事の様に平和の名の元、無関心のまま私は生きていく事になっていたはずだ。

 

沖縄戦や空襲、そして原爆と民間人を巻き込んで大量の犠牲を払った日本。

勿論日本だけの話では無いが、大量虐殺、無差別攻撃は決して許されないはずだが、戦争になれば協定など反故にされる。

紛争や戦争は小さなキッカケで起きる場合も多いし、始まれば何もかもが崩れていく。

経験からいかに教育が大切か身をもって実感する。

今は調べれば直ぐ解る時代である。

それをわざわざ丸暗記する事に何の意味があるのか理解に苦しむ。

もっと近代史に時間を割くべきであり、他国の責任を追及する為ではなく、過去から学ぶ大切さを子供の頃から教えるべきだと思う。

そして自国がどんな事をやってきたのか、善悪も含め出来る限り伝えるべきである。

それこそが本当の愛国心(あまり使いたくない言葉だが)を持つキッカケとなる。

他国への関心も深まるだろうし、自分に何が出来るか考える子供や若者が増える事にもなる。

何より、未来を見据え自分達がどんな世界を望むのかといった考えさせる教育の方が、これからますます必要になるのではないだろうか。

生と死の狭間の生き方は、戦争によって選択肢が無くなり自分で決断できない生き方を強要させられるのだ。

 

都会ではマンションや物流倉庫の様な納骨堂が沢山作られ、ネット活用での参拝も行われているが、大切なのは先祖の生き様から学ぶ事だ。

そう過去から学ぶ事をしないまま墓参りをしても果たして、死者達はそれを望んでいるのだろうか?

もう一歩踏み込んで過去との対話をしたいものだとつくづく思う。

 

冒頭私には先祖のモニュメントとなる様なものは無いと書いた。

私もあくまでも自分の考えだが、モニュメントは要らないと思っている。

最近の調査で、夫のお墓に入りたくない妻が多いという。

理由は死んでからも一緒に居たいと思わないとか、姑との折り合いが悪かったのに一緒は嫌だとか、そんな理由で独自の死後の居場所を納得できる形で確保する人達も増えてきていると聞く。

ただ、どんな形であれ死後には何もないし何も出来ない。

まして、霊魂として化けて出る事さえ望んでも無理な話だ。

すなわちモニュメントは生きている人の為の拠り所という事になる。

ただ拠り所であるモニュメントに手を合わせる自分はどんな心持なのかの方が本当は大切な事であり、習慣だからというだけなら何の意味があるのだろうか?

 

手を合わせる事は何処に居ても、いつでも出来る事だ。

極端な例だが南アフリカ共和国の人種差別アパルトヘイト後の初の黒人大統領マンデラ氏も檻の中で祈っていた。

アウシュビッツ収容所でのユダヤの人達だってそうだ。

特攻隊員も機内や艦内で祈っていたに違いない。

それは今も過去も戦争や紛争で苦しんでいる人達にもいえる事だ。

 

お盆など風習や習慣は何も日本だけではなく、世界のあちらこちらで形は違えど存在している。

娯楽化してしまった日本のハロウィンもその一つだが、死者との接点を何らかの形で表す事で、ルーツや血の繋がり、死の捉え方を考える機会として続いているのだろう。

また、「お盆ぐらい」いう事で家族や親戚が集う機会の役割も大きい。

 

生き方や人生観も大きく変わってきている現代。

昔なら、家という制度に縛られ、近所や他人目を意識せざるを得なかった事も、違った選択が出来るようになりつつある。

すなわち家族や血、集団等のコロニーで決め事をするのでは無く、個々の意志が尊重される時代になってきている。

それの良し悪しは別として選択肢が増える事は、違った考え方をする人達を一方的に排除する事が無くなりつつあるのは喜ばしい事でもある。

お盆という習慣が悪いと言っている訳では無い。

前述のとおり、年に一度先祖の事を考え、家族同士の絆を再確認する上で有効な機会になるが、習慣化される事に疑問を感じるのだ。

故人が成仏でき、あの世でも安心して暮らせることを目的とされている日本のお盆

先祖の霊を供養するとは感謝する事だけでなく、今自分がどう生きていくか、どんな人間でいるのか、どんな人間でいたのかを約束するものだと私は理解している。

先祖の霊を向かい入れ、安心して帰ってもらうという意味合いでのお盆は、約束を交わす事と同じだからだ。

 

私達は生きている時間が全てなのだ。

死者はその事を知っている。

一人一人違った人生を歩み、それも「苦」を伴う片道切符の人生をだ。

人生を台無しにするのも、幸せを見つける事が出来るのも全て自分の責任だ。

ただそれは、平和という裏打ちが無ければ選択すら出来きなくなる。

花火大会の爆発音がミサイル着弾の音に聞こえる人がこの世界には沢山いる。

未だに遺族の元に還れない死者も日本だけでなく、世界中に存在している。

そしてその数は減るばかりか増え続けている。

彼らこそ生と死の狭間にいる。

だからこそ、単に身内の先祖だけでなく、歴史に翻弄され死を受け入れざるを得なかった人達に平和の約束をしたいものだ。

その時こそ、生と死の狭間から安らぎを得る唯一の方法ではないだろうか。


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20221028152413

偽りの自分がいる⦅環境⦆(3)

人間は置かれている環境に大きく影響される。

例えば私もそうだが、お金が無い時や困っている時、心から喜んだり楽しんだりできない。

考えまいとするのだが、いつも心の片隅に残って何かの拍子に顔を出す。

「何とかなる」と自身に言い聞かせてもつい「お金があれば」と愚痴が出る。

大抵そのような場合、前述の心持でいるからおのずと行動や言動も否定的になる。

世の中、お金では買えない大切なものがある事もお金が全てでない事も、そして幸せもお金では買えない事は承知しているがどうしても卑屈になってしまう。

私はこのブログで書いているので具体的ないきさつは省略するが、アルコール中毒、すなわち依存症になってしまい、ほぼ2年間を無駄にしてしまった。

その間生活は妻の給料ではやっていけなくなり銀行のフリーローンに手を出してしまった。

当時、景気もそれほど悪くなく銀行から融資増額の話の電話もあり、500万まで借り入れが出来るようになっていた。

借り入れは最初の時一旦思い直したり不安になったりするのだが、一度借りてしまうとその後は返すという事が頭から抜け落ち、まるで打ち出の小槌の様に次から次へと借り入れをしてしまう羽目になった。

1万返しても5千円ほどしか元金が返せなくなり、気が付けば返済額は月7万円を超えどうにもならなくなってしまった。

おまけに息子の進学や授業料、失職と悪いスパイラルに巻き込まれるかの様になってしまい、債務整理をする所まできてしまった。

今も返済中だが、常にお金の支払いに頭を抱える毎日で、妻の「何とかなる」の言葉が無ければ自分はどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。

 

2018年厚生労働省年金局の資料によると非加入者は96万人で、その内、繰下げ受給の為に支給されていない人を引くと56万人程度の人が無年金者となり、年齢が高くなるほどその割合も高くなっている。

国民年金制度は昭和36(1961)年4月から実施され、初期は任意であった事や支払いをしていない人も多くこのような結果になっている。

私が年金を受け取る時の金額は国民保険だけなので5万円にも満たない。

考えて見ればお先真っ暗な話という訳で、益々経済的な心配が増えるばかりである。

貧困は人間を卑屈に、消極的にさせる。

高齢者の問題だけでなく、若い人達にも増えている深刻な問題だ。

ひとり親家庭や引きこもりや独身者、無保険者と、年々増加している現状で、一体どのくらいの人が悠々自適な生活を送れているのか?

子供の貧困率も7人に1人と言われる中、日々のニュースからは、そして政府の政策からは全く危機感が感じられないのは私だけであろうか?

振込詐欺やなりすまし、SNSによる強盗と手っ取り早く大金を手にする犯罪も多い。

警視庁によると、2023年上半期の特殊詐欺の被害額は37億7,000万円。

これは都内だけで、2022年全国では370億8000円にも上る。

額にも驚くが、いかに個人資産が多いかにも目が行く。

言い換えれば、国の老後に対する政策が貧弱であるという裏返しでもある。

 

一概には言えないが、貧困は人間をむしばむ。

犯罪に手を染める人はごく一部ではあるが、お金至上主義の考えになってしまったり、自身の力の無さを責め、人とのコミュニケーションを取らなくなったり、弱い立場や良しとしない考え方の人を攻撃したりと、自己中心型の人達を生み出す原因にもなりうる。

すなわち、おかれている環境次第で人間は思いもしない行動や言動をするのだ。

昨今の車販売店の保険金詐欺ケースでも社員達は入社前、きっと車好きの優しい人達だったのだろう。

入管での死者まで出してしまった人権を無視する不当扱いや外国人労働者に対する暴行。

権力が、お金が、組織が人間を変えてしまうのだ。

 

私自身お金が無い事で、自分よりも恵まれていない人を見ると同情しつつも安心し、心が軽くなってしまう。

旅行やグルメ番組には「よくそんなお金があるな」と心でつぶやく。

そんな自分が嫌で、本当の自分はどんな人物でなのか?どんな人物でいたいのか?

自己嫌悪に陥ってしまった。

ブログで何度も書いているが、心は流動している。

自分をおとしめる様な環境から抜け出し、例え抜け出せなくても常に自分を見張っていたいとつくづく思う毎日である。

 

だいぶ前だがアメリカ多発テロが起きた後、容疑者や捕虜に対する虐待や拷問があった事が明るみに出た。

ただアメリカは、時間差はあるが不正を表に出す人間がいて、真相究明をするマスメディアが機能している。

この手の犯罪は映画化もされモーリタニアン 黒塗りの記録』(2021)や『ザ・レポート』(2019)でもその裏側にある、正義の名の下に行われた非道な事実を浮き彫りにしている。

この国日本は有事の際、果たして同じように機能するだろうか?

 

普通にどこでもいる様な人達を、悪魔の様に変えてしまう環境という要因。

すなわち、権力乱用、紛争や戦争といった人間自らをおとしめる様な行為に加え災害や貧困等、社会基盤が機能不全に陥った時、考えられないような残忍で欲望丸出しの人間を作り出してしまう。

きな臭い国際情勢の中、唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約すら批准する事なく、未だ抑止力だと西側諸国との認識共有という何とも歴史の警告を無視する立場を取り続ける政府。

戦争を始めたいのか?と疑う様な副総裁を含め政治家の発言や政策がこの国にどんな環境を作り出すのか心から危惧している。

本当に防衛費の大幅増額を国民は、自公政権支持者は良しとしているのだろうか?

本当に西側諸国と足並みをそろえる事が正しい道と考えているのだろうか?

島国の利点を活かし、話し合いの道を模索しないのは何故なのであろうか?

国内の少子化や貧困対策に何故税金をもっと使わないのだろうか?

貧困ですら心がすさんでしまう現実の中、更なる過ちをこの国が繰り返すかもしれない事を思うと、寒気がするし恐ろしい事が一般の人達にも必ず降りかかってくるだろう。

 

置かれた環境に影響される事無く、自身を善の方へと軌道修正出来る人達は確かにいる。

しかし極限での環境ではそれさえも奪ってしまう可能性が高い。

取り巻く環境は、良きにせよ悪しきにせよ人間を変えてしまう。

時にどんなに優しい人でも、悪魔に変えてしまう力を持っている事を忘れてはならない。

先祖達が無駄死にならない様に、歴史から学ぶ事を、そして日の出(いずる)国の誇りを忘れないで欲しい。

僕らは知らないといけない

残忍で情け知らず

野蛮で無秩序

古い動物脳がそうさせる事を

動物は生きる為

人は恨みと正義感

引き出すのは臆病と弱さだ

見張っていなさい

心の動きを

大切な人の為

自分がいる事を

 

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20221028152413

偽りの自分がいる⦅選択⦆(2)

誰でも憧れる人がいて、自分もそうなりたいと考えるものだ。

スポーツ選手や芸能人など活躍している人達だけでなく、理想とする外観や生き方。

でもたいていの場合、実現出来る人はほんのわずかだろう。

 

このブログ「心の道標」は、ごく一般の人達に焦点を当てて書いてきた。

TVやSNSで活躍している人達や生活に困らないほど稼いでいる人達では無く、苦労しながらも子供を育てている方々や明日の事すら考えられないような生活を送っている人達への道標として書いてきたつもりだ。

私が生きてきた中、出会った人達はそのほとんどが生きる為に苦労を重ねている人達だった。

倒産した人や精神を患った人、孤独に苛まれている人や人間関係で疲れ切っている人、離婚した人や過去の栄光を捨てきれない人、そして勿論私の妻と同じ外国の人達。

それは本人しか解らない苦悩や挫折を背負い、それでも幸せを求め、あるいはその日を生き延びる為に必死で生にしがみついている人達だ。

 

政治家がモデルにしている様なサザエさん一家の様な人達には出会う事も無かった。

言い換えれば、幸せとされるモデルそののもが虚像であり、楽な人生など無いという事でもある。

 

世間では若い人達の自殺が増えている。

亡くなった人達からその理由を聞くことは出来ないが、本人にとっては本当に苦しかったに違いない。

他人から見れば、「え!そんな理由で!」と思う事かも知れないが、みんな同じ考えや同じ生き方をしているのでは無いし、物事の捉え方も全て違う。

想いを馳せることは出来ても、残念ながら本当の心の痛みは本人でしか知りえない。

 

溢れるほどの情報の中、勝手に幸せ像が作られていく。

植え付けられていると言ってもよいくらい記憶に蓄積されていく。

それは、まるで映画やドラマを見るように、そして主人公が自身である様な錯覚を生み出している。

でも現実では無い。

それを毎日の様に実感させられ、その落差に嘆き、今を楽しむ事すら忘れてしまっている。

誰にでも、大きさは違えど幸せな時間があったはずだ。

友達と遊んだ事や誕生会、初めて自転車に乗れた時や逆上がりが出来た時。

でもそれらは全て過去の話だ。

しかもその年代でしか感じられない幸せであって、過去に戻ったとしても同じように幸福感は得られない。

今、自転車に乗る事が出来る自分が、過去に戻って初乗りに感動する事は出来ない。

そして、前述の理想像だ。

まだ来てもしない、どうなるか解らない未来の理想像

幼い頃から、「先の事を考えなさい」「夢を持ちなさい」「努力すれば叶うから」と教えられてきた。

でも「今、やらないと将来に困る」とは教えられても「過去でも未来では無く、今、この瞬間を大切にしなさい」とは教わらない。

 

少し前のニュースでアフリカ系の母と日本人の父との間に生れたハーフの高校生の卒業式での対応に問題があった事を伝えていた。

伝統的なアフリカの髪形、コーンロウ(編み込みスタイル)で式に参加する事を、学校は校則違反として別室で待機させ、卒業生の読み上げにも返事をさせなかった。

SNSではこの高校の対応に異議を唱える人が多くいたが、中には「事前に相談すべき問題で責任は高校生側にもある」との意見も見受けられた。

単純にこの事を考えて見ると、教師らのアフリカ系の文化に対する無知や理解の無さ、校則重視という縛り、対応の悪さや高校生側の自覚といった要素ばかりで見てしまうが、問題はそこでは無い。

一生に一度きりの卒業式に参加できなかった彼に寄り添う人達が居なかった事だ。

その瞬間は彼は理解されていなかった。

後から、対応が良くなかったとか、相談してくれれば等と言い訳しても、済んだ事、過去の話になってしまう事だ。

卒業式に出席する為に彼はそこにいたのだ。

 

性的マイノリティの人達にも同じ事が言える。

過去の事や未来の事では無く、今の自分を大切にしたいと思っている。

その事が社会の中で認められないとしたら?

また誹謗中傷の標的にされたら?

攻撃や差別した側から見れば、後で謝っても、訂正しても既に過去の事として認識している。

その様な人達は、自分に自信がない人や間違った正義感、道徳を持っている人達で、過去を引きずっている人達だ。

すなわち今の自分では無く、引きずったままの古い自分、虚像に気が付いていない。

同じ時間軸にいる事すら認めない人達なのだ。

自分が誰なのか?

以前にも例として書いたが、他人と自分を認識し出す幼少時、つまり年長から小学生の頃受ける授業では、持ち物に全て名前を書き、ケンカしない様に、また他人のものと区別できるようにする事が自己の確立を形成する大切な事とされている(先生の負担が少なくなるという反面もある)が、世界では教科書やノート、筆記用具すら満足に支給されたり買う事が出来なかったりする子供達が沢山いる。

失くした時や忘れた時、持っていなかった時、そして黙って他人のモノを使った時にどう対応できるかが大切な事で、他人の事を思う想像力こそ自己確立に繋がる。

大げさな表現になるが、持ち物全てに名前を書くという事は過去の事であり、未来の先取りだ。

そこには「今」が抜け落ちる。

その「今」「瞬間」に何をするかが最も大切な事だ。

謙虚さと想像力を養う絶好のチャンスを逃し、安心安全を先取りするやり方は大きな間違いだ。

 

前述の高校生の例でいうと、その場で話し合うべきであり、参加した一人一人が問題意識を共有できる良い機会だったのだ。

それで式の予定が遅れようがどうでも良い事だし、温かみのある式になったかもしれない。

参加を認めて、後で話し合っても良かった事だ。

そう、瞬間の中に答えがあったのだ。

あなたを映し出す鏡は

あなたに誠実だろうか

その鏡は

権力や財力

世間体や見栄の鏡かも知れない

割れた時

そして

あなたはいなくなる

 

他の誰かになる事も、なる必要もない。

過去も未来も、今を生きてこそ語られる。

経験してきた事を活かし、前を向いて歩くのも今の自分の選択なのだ。

 

例えばこの瞬間、誰かに嘘をついたり見栄を張ったりする。

口から出た言葉は本当のあなたの言葉では無いのに。

すると、また自分の偽物を増やす事になり、背負うモノも重くなっていく。

自分を偽りの世界に自身で引き込んでいる。

もう演じるしかない。

そうドラマの脇役としてだ。

そして主役争いを始める。

しかも自分の中で。

様々な衣装に高価な飾り物。

次から次へと幻の自分にお金をかける。

 

ふてくされ、悲観している自分が選択するよりも、朝ちゃんと目覚め生きている事に喜びを見い出している自分の選択の方が、遥かに良い方向になる。

 

大切なのはこの瞬間の自分であり、過去でも未来でも無い。

そして、それは同じ時間軸にいる人達と共有している事を忘れてはならない。

 

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20221028152413

宗教とは?⦅自分と向き合う⦆(5)

あれほど騒いでいた宗教関連のニュースもあまり報道されなくなった。

政治家が票欲しさに宗教団体を利用している事も、宗教二世問題も何かあやふやなまま時ばかりが過ぎていく感じだ。

新興宗教も含めて宗教と共に生き、関わりのある人達は欧米に比べ少ない事は確かだが、宗教心は誰でも持っているだろう。

節目節目の行事や冠婚葬祭時には、何らかの形で宗教というものが関わってくるからだ。

また、自然と植え付けられてきた謙虚さの表れともいえる。

動植物を殺める時や事故が起きない様に、災害が起きないようにと手を合わす事も、教祖や経典、聖書を読んでいようがいまいが自然と身についている習慣だ。

ただ、誰しもが良心と言ってもよい根底に流れている教えを守って生きている訳では無い。

「宗教を信じていないからだ」という意見もあれば「宗教こそ争いの源ではないか」という人もいる。

以前の記事で書いたが、「教え」が宗教になったしまった時点で様々な人間の欲望が入り込み、マスター達(この記事では仏陀やイエスムハンマド達の様に宗教と言われる形以前の教えを説いた人達の事を指しています)の伝えたかった事を歪めてしまっている。

私の両親は仏教徒であったし、妻はキリスト教だが私自身は、どの宗派も信じてはいない。

ただ無神論者かと聞かれると、神と呼ばれる存在を否定してはいないのでYESともNOとも言える。

大きな宇宙全体の流れに組み込まれた私達が何かしらの大きな存在の意志によるものかもしれないという意味で、仮に「神」と呼んでいるだけである。

ブログ記事の中で、私の廻りで大変な思いをしている事を書いた。

私より年上の夫婦は今離婚の危機に面している。

20年以上私の妻も含めての付き合いだったから、私達も辛い。

私達も含め、お金さえあれば解決できる?問題なのだが、色々考えてしまった。

人間は窮地に追い込まれてしまうと、その度合いにもよるが思わぬ行動に出てしまう。

我を失った状態と言ってもいいだろう。

友人夫婦を見て、自分に置き換えてみると客観的に見る事は出来ないとさえ思った。

問題の受け皿も自身を責める人もいれば、人を傷つける方向に向かう人もいる。

そして宗教に救いを求める人達と、何かしら行動する事でその場から離れたいと思うからだ。

死刑囚が信心に目覚めるのとよく似ている。

宗教により自尊心を取り戻し、生きる力を得たならば素晴らし事だと思うし、自身も含めて他人に危害を加える方法での逃避よりも遥かに良い選択だろう。

 

人間は弱い。

人生は苦の連続であるし、生きる事、生き抜く事は至難の業である事に変わりない。

まして、天敵が同じ人間であるから何か他のものにすがりたくもなる。

ただ、やはりお金では何も変える事は出来ない。

どんなに献金しても、多くの寄付やお布施をしても根本的な捉え方を間違っていては、何の意味も無さない。

すなわち、お金で幸せや安息は買えないという事実だ。

先回りして支払っておけば大丈夫という一種の保険のようなモノでは無いからだ。

交通安全のお守りを持っていれば事故を起こさないという考えと、さほど変わりないし、以前も書いたが、「子供が乗っています」のプライバシーをさらけ出すステッカーは、後部にではなくフロントガラスに自分が見るように貼る方が、よっぽど効果がある。

要するに自分が抜け落ちてしまっている。

昔、同じ宗派の人間が助けてくれたからこそ、今があり助かったという話を何人からも聞いたし、「信心の力は大きい」「信心が病気を克服できた」そして「あなたも信じなさい」と熱心に説く人達にも出会ってきたが、宗派の中で助け合うだけなら、宗教の意味から逸脱している事になる。

「あなたの為に祈る」ならまだしも「信じなければ救われない」という主張は自分自身の存在を殺してしまっているのと同じ事だ。

そんな事をマスター達は望んでいない。

例えば「他力本願ではダメだ!」という言葉をよく耳にすと思うが、「他力」は誰かに頼るという意味ではない。

よりどころにし、謙虚であれという意味であり、問題を丸投げする事でも、誰かの力を借りて解決する事でも無い。

他力は自我を捨てる事を意味する。

様々な苦しみや悲しみの元になるものを捨てる事で見えてくるものがあるとも言える。

どのマスター達も伝え方は違えど、同じ事を伝えようとしていた。

 

宗教ではその信仰する人達は教祖や指導者、そして神に対し常にYESで答えている

仮に疑心暗鬼になったとしてもYESという答えを用いる事で、迷いや不安を消そうとしている。

周りの人の意見も含め、他の考え方もある事すら拒否し、自分の考えすら否定する。

すなわち無条件で考える事を辞めてしまっている思考停止状態だ。

NOは宗教に対しての裏切りであるという思い込みと、そんな自分を正そうとより宗教にのめり込んでしまうのだろう。

 

閉じる事は簡単だ。

責任を誰かに委ねる事と同じで、自ら世界観を狭める事で、まるで小さな子供が隅っこで膝を抱えているのと同じであり、自ら行動する事をしなくなる。

声を掛ける人が宗教だとしたら、頼ってしまうのも仕方が無い事だろう。

その言葉は心地の良く、信じさえすれば解放されると思い込んでしまうからだ。

 

教祖や指導者、そして神にYESと答えるなら、自分自身や他の人の言葉もYESでいるべきだ。

すなわち自分に正直でいる事に尽きる。

つまり冷静な判断力を持つ事と同時に、生きる事への執着と覚悟なのだ。

それは、見返りを求めない事であり、自身の幸福や死後の世界での安泰、生まれ変わり等を心配する事では無い。

幸せや不幸、来世や輪廻はあなたがいないと存在すらしない

心が生み出しているそれらの恐れや心配は

心だけが答えを出せる

その心さえ人任せにしては

生れた意味さえ台無しにする

自身への問いかけこそ

かけがえのない安息への扉だ

 

誰もが悩みを持っている。

誰もが生きる意味を探している。

生きる事は「苦」であり

始めから楽な事は無いのだ。

ただ、大きな流れとカオスに満ちた秩序に全てが組み込まれている。

「自分が居なくても」「何故こんな思いをしなくてはいけないのか?」と考えるのは、その大きな流れを理解していない事と等しい。

その流れこそ「神」と呼ばれているモノなのだ。

その神は願い事を聞いたり、望みをかなえたりする訳でも無い。

あなたの存在が欠ける事がいかに大きな影響を及ぼすか、何も語らず見ているのだ。

だからこそ、自身の存在を神にさらけ出す事で、その神の意志を知る事になるのだろう

 

自身の「欲」から出来る限り遠ざかる事。

そして誰かの幸せを願う事が大きな流れには必要で、あなたはその流れの中に既に存在しているのだ。

 

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生と死の狭間⦅今何をすべきか⦆(2)

人生も後半に迫り残りの事を考える様になった。

この歳になると訃報も増え、見送った人も多くなる。

以前の記事でも書いたが、「死」を意識したのは大好きだった叔父の死からだ。

今の様に病院で亡くなり、葬儀業者が全て用意し、棺桶に入った顔を見るといった過程ではなく、自宅に運ばれ、死装束(しにしょうぞく)に着替えさせ、遺体の周りに親族が集まり一夜を過ごす時代。

私にとって「死」は動かず、話も出来ず、硬くなる叔父を陰から見ながら、恐ろしもの、怖いものとしての認識しかなかった。

当たり前だが、誰でも「死」の事を考え、恐れを抱いき死後どうなるのかという疑問を持つ。

誰も死後の世界の事を知らないからなおさらの事だ。

拍車をかけるのが、地獄や天国といった話や映像媒体で死後どうなるのかという情報を幼い頃から植え付けられる事だ。

TVでは老いる事がさも悪い様に、健康食品や化粧品、健康器具と実際に若く見える人達を映し出し、「え~そんな歳には見えない」と人に言われる事の快感を人々の中に植え付け、売り上げを伸ばしている。

 

反対に老いる事は仕方が無い事であり、老いる事は経験も積んでいて老いなければ見えてこない事があるといったような前向きな意見もある。

否定的な、いや受け入れるのを認めたくないとする風潮や肯定的にとらえ、まだまだ幸せに生きる事が出来るという二極的な見方が多い。

しわを取り健康食品を飲み、日々運動を欠かさない生き方が幸せな生き方かどうか?

老いを受け入れ、経験を活かし何か生きがいになるものを探し、静かに暮らす生き方をどれほどの人が実行できているのだろうか?

結局根底にあるのは、老いは辛い事であり、死を意識する時間である事に変わりない。

先延ばしにするか現実を受け止めるかの心の持ちようであり、その選択が幸せかどうかは別問題ではなかろうか。

もっと言えば、一時的な幸福感を手に入れているだけで、それを維持する為に奮闘しているといっても良いかもしれない。

 

若く見えるといわれて嫌な人はまずいないだろう。

女性だと、なおの事嬉しく感じるものだ。

その事が生きていく活力になり、幸福感を得られるなら良い事だと思うし、健康でいる事も大切な要素であるには変わりない。

 

私事で恐縮だが、若い頃はよく鏡を見ていた。

勿論異性を意識しての事だが、中年以降鏡はほとんど見ない。

特に心を病んでからは急激に老けた顔になってしまった。

それでも、ハローワークや履歴書、運転免許更新等で写真を撮らなければいけないので、その老け顔と対面する事になる。

男性の私ですら、目の下のたるみやシワを見るとがっかりするのだから、女性だともっと辛い気持ちになる事だろう。

しかし、これも現実で仕方がないと思うと、少しは気が楽になる。

「よし、中身で勝負だ」と言い聞かせ日々精進しているのだが、そんな簡単に上手くいくわけが無い。

「死」が身近になり意識する事が多くなったのも歳のせいだが、まだまだ借金返済や高校生の息子の事やフィリピン人の妻の事も関係している。

当たり前だが負債を残したくないし、年金をもらえたとしてもとても生活できる金額では無い。

また働けなくなった時の備えもほぼ見通しが無い状態で、「今死ぬわけにはいかない」と考えるばかりである。

ただ「死」は若かった頃に比べて、受け入れられるようにもなった。

恐ろしい怖いものという考えは今は無い。

残された家族の事が心配なだけで、十分な財力があればの話だがいつ死んでも悔いはない。

 

誰でも必ず死ぬ。

そして生き方や死生観も人それぞれの考えを持っている。

それは生まれてからの経験、すなわち様々な情報を取り込み、自分なりに消化しているという事だ。

時代はどんどん変わっていき、情報が溢れ、人と比べる機会が増えている現代。

ほとんどは、失敗の事より成功の話をしたがり、身の丈よりも大きく見せたいのが人間だ。

自分よりも大変な思いをしている人達を同情しながらも、まだ自分はいい方だと考え、安心感を得、それをお茶の間で見ては、いつの間にか忘れてしまうの繰り返しをしている。

人間は優越感を得るのが好きな動物なので、逆を言えば劣等感を受け入れたくないという防衛本能が働くのだ。

そしてドーパミン欲しさに次から次へと情報を集め、満足感を得ようとしている。

ニュースで動機がよく解らない凶悪な犯罪、例えば「誰でもいいから殺して見たかった」という様な事件から、つきまといやストーカーから殺人事件に発展するような事件報道をよく見るようになった。

一見繋がりが無いように思うこれらの事件。

その裏にあるのは、誰かと比べ自分の立ち位置が余りにも低いと感じ、「何故自分だけが」という不幸を自らの手で作り出し限界を超えてしまった結果の行動とも言える。

 

TVでもSNSでも、若くいられる事を幸せと結び付け、グルメや旅行、恋愛の理想像ばかり垂れ流されている。

それらの情報を鵜呑みにし、理想を幸福感を得る為のゴールにしてしまっているのだ。

それは、経験なしに答えに行き着く短絡的な思考になっている事を意味している。

そう、過程が無いのだ。

以前にも書いたが、今パートナーと手を繋げないならその先も繋がないだろうし、歳をとったらゆっくりと旅でもと考えていたとしても、その時にはもう行かないだろう。

当たり前の生活の時間の中で、相手を幸せに出来なければ、先延ばしにして将来にやろうと思っても出来なくなる。

そう、だからこそ過程が大切なのだ。

死は個々としてはゴールである事に変わらないが、本当はゴールなど無いのだ。

積み上げてきた生の経験から学び、それを誰かの役に立て、つなげていくリレー選手の様なものだ。

自身の欲求を満たす為に、幸福感を味わう為に生れた訳では無い。

このブログでいつも書いているが、死ぬ為に生れたのだ

そしてルールに縛られない、遊びを、それも出来るなら大勢の人達と楽しむ為でもある。

それは、年齢や外観に囚われる事では無い。

リレー選手の例えでいうなら、スタートラインもゴールも走る距離も、そして外観もみんな違う。

それぞれの生き方でバトンを渡していく。

自分が若い世代や子供達に何を伝え、身近にいる人にどんな事を出来るかが一番の幸せにつながる道だ。

そしてその事は、先延ばしでも誰かの受け売りでもなく、今、自分自身で決めやる事なのだ。

どんなに若作りに励んでも、健康食品を買いジムに通って鍛えても、クレマーになったり子供の前で信号無視を平気でしたりする生き方なら、バトンを手渡してはいないまま死を迎える本当のゴールになる。

歳をとってもあきらめないという事は素晴らしい事だが、その目的が目先の幸福感を得る為だとしたら、生まれた意味はいったい何の為なのだろうか?

 

平均寿命も延び、介護や貧困の数もどんどん増える日本。

お金が無いと心配事ばかり増えるこの国で、歳をとる事、老いる事が不安になる人が増えてもおかしくない状況の中で、残された時間に何をすべきか?を振り返りながら考える必要があるのだ。

「やり残したことがある」というのが死を目前にした人達の一番の後悔だと言われている。

決して時間を無駄に生きてきた訳でも、後悔する為に過ごしてきたわけでも無いはずだろう。

いつ死んでもいいという生き方も口で言うのは簡単だが、経済的な理由や健康等、現実問題に追われて、そこまでの覚悟が出来ないのが普通だろう。

ならば、周りの情報に惑わされる事無く生きる意味を考え、何をすべきかに時間を少しでも使うべきだと思う。

日々の優しさの積み重ねが、悔いのない最後となる事は間違いない。

 


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