心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

自分て何?⦅探求⦆(5)

誰かの為に死ねるか

それは命を尊いものと知る心

己の為に死ねるか

それは何があっても生きぬく信念

 

このブログでよく書いている事が、

「明日どんな気持ちであるか解らない自分なのだから、他人のこと等解るはずがない」という言葉です。

果たして自分の事を解っている人が本当にいるのでしょうか?

「解っているよ」という人も、よくよく考えて見て下さい。

それは自身で決めつけているだけで、「こんな部分があったのか」と思う事もあるはずです。

もしかしたら、他人の目を通しての自分を見ているだけかもしれません。

 

私達人間は、約37兆にも及ぶ細胞で構成されていて24時間365日、死ぬまで休みなく働いています。

特に脳は、一見リラックスしている時でも活発に活動していて、勿論無意識下でも働いています。

すなわち意識している時だけでなく、無意識の中でも脳は神経細胞を通じ情報のやり取りを行なっているのです。

 

近年、脳科学の研究は飛躍的に伸び、様々な事が解ってきました。

脳が指令を出していただけでなく、様々な臓器が逆に脳に指令を出している事や、決断をするのは自分の意志では無く、脳が先に決める事等、信じられないような、脳の持っている不思議な能力も明らかにされつつあり、私自身も驚いているほどです。

私は科学者でも医者でもありませんから、その様な立場での発言は信ぴょう性も含めて軽々に出来ませんので、このブログ「心の道標」として読み進めて頂きたいのですが、誰でも一度は、生まれた意味や自分という存在は何の為だろうか?等と考える事があると思います。

心を指す時、大抵の人は胸に手をやり、脳とは違う感覚と理解しています。

心という意味で自己と他者を明確に区別している生物は人間だけです。

勿論、他の生物も区別はしていますが、生殖活動や子育て、捕食、危険からの回避という意味での事です。

(この分野は研究過程で、動植物に自己意識や感情があるのか?は一部の動物で自己認識をしている事や、魚が痛みを感じているとの研究もあり、私達人間が想像できないような感覚でこの世界を生きているのかもしれません)

脳には生まれてからの記憶がどんどん記録されていくのですが、重要で無いモノや日々の当たり前の様な、例えば先週食べた朝飯などは、整理され消されていきます。

そして一方で、同じ事を何度も繰り返す事、トレーニングする事で脳が回路を作り、意識せずとも体が動きます。

日常的な自転車や車の運転は勿論の事、手足が全てバラバラな動きのバイクや、重機に至るまで数ミリの単位でコントロールする事も出来る様になります。

スポーツを始めとするプロ、匠と言われる人達も同じ事が言えるでしょう。

 

経験や学習によって脳の人としての機能が備わっていきます。

すなわち、心も様々な人間関係を経て構築されていきます。

それに加えて知識、例えば本や映画、音楽といった芸術や、様々な情報等へのアクセスといったインプットの量も心としての動きに大きな影響を与えます。

私自身は音楽をやっていましたので、詩や曲を生み出す為に苦労しましたが、フッとしたきっかけでアイデアが浮かんでくる事がよくありました。

それは、音楽とは関係のない物事、例えば本で読んだ事や映画で見た事が繋がる様に、関係性が無い、もしくは薄い事同士が結びついたり、他の事をしている時や寝る前に突然浮かんだりしました。

この事から考えると、無意識と意識とのやり取りが行われていて、取り込んで忘れてしまっているモノも含めて情報が思い出せなくても残っているという事です。

ただ条件として、経験から言うと課題になっている事、この場合「詩や曲」の事を考えている状態を維持するという事でしたが、昔の写真や景色、匂いや聞いていた音楽で、忘れていた記憶がよみがえる事でも解ります。

アインシュタインもよく思考実験(頭の中で実験をする事)をやっていたという事が知られていますが、ひらめきや、天からの声といわれるような事も、自身の無意識の中にため込んでいる情報が多いければ多いほど、意識下での新しい組み合わせや思考が多くなるのです。

逆に言うとマイナスな負の事ばかりが蓄積されると、無意識と意識との共有も狭い世界になって、思考も負の方向に動く事になってしまうのです。

そして、洗脳されるようにその負のイメージに、より囚われるようになり、思考や行動に出てしまうのです。

その様な状態が続いてしまうと正常な判断も出来なくなり、自分が解らなくなってしまうのです。

私も経験中の精神的な病気もその様な状態からかかってしまいました。

また、ニュースで見る事が多くなったマインドコントロールも、追い詰められた心を自分で処理できなくなってしまう事で、他者の言葉の言いなり、心の逃げ道として起きてしまうのです。

自分を見失った状態とも言い換えられるのですが、自分がどんな心を持っているのか?何をやり、どんな事を考えるのかは、決めつける事が出来ないし、本来出来る訳が無いのです。

だからこそ、誰かに「自分」というものを作らせてはいけないのです。

もしそうなれば、あなた自身の主導権を明け渡してしまう事になるからです。

昔から自分探し、探求がテーマとして何度も、また色々な人達によっても取り上げられているの事からも解る事です。

 

「経験や学習によって脳の、人としての機能が備わっていきます」と書きましたが、「人として」とは、倫理観や道徳観、やっていい事と悪い事といった、人との繋がりの中で重要な役割を担っている機能の事も含みます。

動物脳といわれる古い脳をコントロールする事で、社会というコミュニケーションを円滑にしている訳ですが、「心」という観点から考えて見ましょう。

まず自分という存在を決めつける事が出来ないなら、自分という定義を導き出す事は不可能に近い事となります。

それは心を取り囲んでいる自分という定義、例えば友達や職場の人から見られている自分や、うまく物事が進まない時、自信を失くした時に顔を出す内からの自己否定、逆にうぬぼれや見下しといった優越感の様なもの等、色々なものが自分を作り出しているという大きな勘違いを「心」から取り払っていくと、何も無い事に気付くはずです。

そう「自分て何?」と。

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魂とは?霊とは?という記事で書きましたが「心」とは「魂」の入れ物の事です。

入れ物と同時に感覚なのです。

感覚を「こうだ!」と決めつける事は出来ません。

何故なら常に流動しているからです。

心の中に取り込む「魂」という情報を選別するのも自分でしか出来ません。

詰め込みすぎてもダメですし、大切な「想い」を入れない事も「心」という感覚が鈍ってしまいます。

誰かに優しくしてもらった事が忘れられなかったりするというのは、優しさを受け取れる感覚をちゃんと持っているという事です。

もし、その優しさが当たり前の事として受け取っていたなら、心という感覚を無駄にしているのと同じ事です。

そして「想い」とは人それぞれの先祖の言葉や思い出かもしれませんし、亡くなった方達の言葉や先輩、先生や友人の助言かもしれません。

つまり、「自分」という概念は、流動していて、無意識下に蓄えられた情報(想いや言葉、映像や音、匂い等)とのやり取りで決まっていくものなのです。

いずれにせよ、「自分は、こうだ!」と決めつける事はムリであるし、決めつけてしまうと可能性まで失ってしまうのです。

 

考える時には、日本人であれば日本語を使って思考します。

その日本語の語彙力(その人がもっている単語の知識と、それを使いこなす能力「デジタル大辞泉」)がどのくらいあるかによって、大きく変わっていきます。

単語を短くしたり、表現の仕方を一律にしたりする様なSNS等で使われる短絡な言葉ばかりに接していると、自分の思考も自分の意志を伝える事も表現の幅が狭くなってしまいます。

「ヤバい」「エモい」に伝えたかった心の深い想いが表現できるのでしょうか?

勿論、仲間同士のコミュニケーションツールとしてはいいでしょうが、思考まで貧弱になってしまっては意味がありません。

流行りや言葉の変化はいつの時代でもあり、その事が悪いとは思いませんが、言葉の貧困は思わぬ落とし穴があります。

例えば嫌いな相手に対し、その気も無いのに「殺すぞ!」と発してしまうと、その先に続く言葉は、想像すればわかる通り、「やってみろよ」というような逃げ道が無い言葉で返される事になってしまいます。

もし集団であれば、言葉が引き金となりエスカレートしてしまいますし、実際そのような事でニュースになった死傷事件も沢山あります。

「我を忘れてしまった」「本気じゃなかった」「脅すつもりだった」と言い訳しても取り返しのつかない事になってしまうのです。

煽り運転もその危険性がありますから何か言われても相手にせず、すぐ警察に連絡して下さい。

心は感覚であり魂の入れ物であるということは、多くの言葉や思考という引き出しを持ち、意識下においての自分に問いかけや、警告を与えてくれるものなのです。

同時に、上記の様な様々なアイデアや気付きを導いてくれるものでもあるのです。

言葉の貧困や語彙力の無さが引き出しの数と比例し、意識下の自分にブレーキをかけたり、短絡に判断してしまう思考を一旦静めたりする事が出来無くなるのです。

 

今の時代は、ある意味で生きにくい世の中になってしまいました。

欧米に見られる「正義と悪」「天国と地獄」「賢いと馬鹿」という様にハッキリ線引きしていなかったグラデーションの考え方の日本が、常に境界線を求めるようになり、線引きをする人達が増えているのです。

そして、多数決の様に多い考え方の方へ引き込もうとしまうのです。

経済力や家庭環境、学校に至るまで、その様な傾向がみられるようになってしまいました。

勿論、そのような事は昔からありましたが、個々が世間に対し発信する情報量が桁違いに多くなったのも影響しているのでしょう。

経済、社会的弱者や成長の遅い人達を、簡単に切り捨てる様な線引きを平気でやってしまう人達に加え、政治家から公務員、教育委員会、はては町内会やPTA等などと保身ばかりに動く一部の人達の存在が、「自分」という存在を「かけがえのないもの」から「どうでも良い存在」にと思わせてしまう世の中にしています。

誰でも簡単に情報を発信できる裏で、裏付けも無く信じて知らず知らずのうちに、加害者に加担してしまったり、惑わすような情報や言葉の切り取りで攻撃したりするような事も日常の様に起きているのが現実なのです。

「自分」という位置づけは、時や場所、年齢や社会的な立場の中、色々な方向に行ったり来たりするという前提が崩れてしまっているのです。

いわゆる決めつけであり、時に弱者と呼んだり、未熟だ、無能だと言わせたりして自分達の手中に納めておきたいのです。

「自分て何?」それは可能性です。

年齢や社会的な地位など全く関係の無い事です。

可能性に限界も期限も有りません。

そして、その可能性があなた自身の言葉として次の世代に受け継がれていくのです。

言い方を変えれば「魂」と言ってもいいかもしれません。

可能性は、想像力と謙虚さが必ず伴います。

その為には「心」すなわち「感覚」を磨いて、当たり前を鵜呑みにしないで、疑問や好奇心を大切にする事です。

容姿や肩書、民族といった色眼鏡でモノを見ない、心の目で見られる自分を作っていく事です。

この事は他人が関係する事では無く、自分の問題であり、言い換えれば主導権を握っていて、比べる事でも無く他人に左右される事では無いという事です。

誰でも心にぽっかりと穴が開く時や、辛い思いをして自分の存在を消してしまいたいとか、より所を求めて何かの占いや、今問題になっている宗教に救いを求めたりしてしまう事もあるかもしれません。

残念ながら世の中は、弱みに付け込む悪い人が沢山います。

言葉や同調に飢えている時、情緒不安定な時、孤立感を感じている時ならなおさら警戒心や一歩下がって見る様な行動がとれなくなってしまいます。

優しさや痛みを解っている人ほど苦しめられる事も多いのです。

ただ、その事が外向き、家族も含めて他人に対しての向き合い方ばかりに気を取られてはいないでしょうか?

本当の優しさは自分に厳しく律する勇気から生まれます。

つまり、何度も書いている様に自分を「こんな人間だ」と決めつけない事と、生きる事自体が苦しみであるという現実を受け入れる事。

幸せは、感じる力が無いと見失ってしまう事。

そして軸になっているあなた自身が培ってきた、もしくは備わった「人間らしさ」を持ち続ける勇気です。

他人がどうあれ、冷たい世間であっても変えてはいけない自分に対する約束です。

以前の記事「対人関係に悩まない(2)」で載せた詩ですが、もう一度記します。

 

心優しい人間でありたければ

ずっと優しい人間でいればいい

誰も見ていなくても

道端のゴミを拾う人間でいればいい

悪口を言わないと決めたなら

ずっと悪口を言わない人間でいればいい

仕事に手を抜かないと決めれば

その通りやり抜けばいい

誰が見ていようといまいと

あんたは、あなたでいい

 

人生の終わりまで「自分」を探しながら生きていくのです。

だからその探求をやめてはいけません。

楽しいと思える時間が見つかるかもしれませんし、夢中になれる仕事と出会えるかも知れません。

師と仰げるような人や親友との出会いがあるかもしれません。

また逆もしかりです。

でも「生きる事は苦である」というベースで考えるわけですから、それ以下になる事は無いのです。

宝くじと同じで、夢を見ていても買わないと当たりません。

諦める事はいつでも出来ます。が、それは生きてはいても、死んでしまった事と同じです。

リスクだらけが「生きる」という事です。

その為に軸となるもの「人間らしさ」を持ち続けるのです。

始めから答えなど有りません。

自分て何?「可能性」だからです。

 

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不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)

日本の教育制度は、勿論悪い事ばかりではありません。

集団行動による通学や自ら掃除や給食配膳すること等は、掃除や食事と仕事が細分化され、日常生活の中で役割をハッキリと線引きしている様な欧米からも、児童自ら行う日本方式の良さを認めています。

すなわち、小さいうちから自分で出来る事は自分でするという事と、身の回りを綺麗に保つ事の大切さや人に迷惑を掛けないという謙虚な姿勢が評価されているのです。

妻の国フィリピンでは、運動会もありませんし、校外学習もお金が無いと参加できなく、貧しかった妻は悔しい思いを何度もした事を話してくれました。

また、何年も日本で住んでいる妻はフィリピンで道路を横断するのが怖くて出来ないとも話していました。

日本が安全な国であるからこそ上記のような事が実現しているのであり、誘拐や犯罪、事故に巻き込まれる確率が非常に小さいからこそ可能なのです。

徒歩で子供が安全に移動し、近所の目があり、近くに遊べる場所や買い物できる所が多いのも日本の素晴らしい所です。

よく欧米の映画などで親が子供を学校に送り迎えするシーンを見る事があると思いますが、その裏で我が子に気を取られ、発進やバックの際に他の子供を引いてしまうような事故が実は多くあるのです。

また、欧米と違って狭い道路は逆に車の速度を落とす要因にもなり、時間帯の道路規制や歩行者に対して距離を取ったり、ゆっくり走ったりする事が当たり前となっている事や、見守る大人達の存在で、子供達が事故に遭う確率が少なくなっているのです。

 

世界には当たり前ですが色々な国があり、大人になるまでの経験値が国によって全く違っているのです。

その点でいうと、日本は恵まれた国であるのは確かです。

もう一度、日本の教育の話に戻りますが、不公平がある事を、子供の内からもっと教えていくべきです。

世界の色々な国の同じような年代の子供達の生活を見る事や、自分達とどのような差があるのかなど、考える機会を、時間を作るべきです。

平等とは何か?公平との相違は?そして、色々な形態の家族の存在がある事や性別についてなど、早くから知る事で、当たり前が当たり前で無い事を、知識として取り込む事で、将来の生き方の「考える力」となるのです。

そして皆が同じ境遇で無いという現実や、同じ能力を持っていない事の方が当たり前であり、個々に差がある事を教えるべきで、はみ出すのを良しとしない教育は、逆に言えば多様性の否定、すなわち正に不公平を助長しているのです。

同じ値段の高い指定服を着て(安く、もしくは無償であれば良いのですが)、髪形やピアス等のアクセサリー、下着や靴下の色まで干渉する事を平等だと考えているなら、平等という事をはき違えています。

その平等の裏には、監視をし抑止力になると考えている人達が未だに多い事を表していて、裏を返せば信用や信頼というステップを踏んでいない一方的、人為的な不平等、不公平なやり方なのです

公平性を保つ事と平等に扱う事の違いを理解していない人達が多すぎるのです。

人は一生を懸けて勉強し続けるものなのです。

正に世間という厄介な大人のルールが不公平という壁を作り、邪魔をしているのです。

皆でそろってゴールなんて絶対に出来無いのですし、不公平が当たり前なのです。

遅い子も早い子も、個性に合わせて学ぶ機会をもっと増やすべきですし、色々なタイプの人間がいないと何も新しい事は生まれて来ないからです。

そしてそれこそが平等という事です。

 

食べ物を均等に分け合ったり、誰でも病気になれば治療が受けられたり、どんな人間でも等しく生きる権利を持つ事が出来たりと、それは社会という集団での生き残りの道を選んだからです。

しかし現実には、「平等」「公平」とは程遠い「不平等」「不公平」だらけなのです。

スポーツにしても勉強にしても、また仕事や人生においても、平等な立場を社会は装いたいだけで、上辺だけの幻の様なものです。

そして順位を付け、チャンスがあるかのように「公平」だけが独り歩きしているのです。

「平等」「公平」は、人間だけが作り出せると書きましたが、実は公平という名の「不公平」しか生み出してきてはいないのです

それは、所詮人間も自然の一部であり、カオスの中で生き、不平等という世界に生れ出ただけの話で、それでも「不公平」「不平等」と声を上げるのは比較という概念がそうさせるだけで、比較が無くなれば不公平や不平等は存在しません。

自然は元々不平等ですが、あくまでも人間側からの見方によるもので、実際にはその概念は自然の中には存在しないですし、公平もしかりです。

残念ながら「不平等」を容認しつつ「公平」という見せかけの理想を掲げる事で、社会を維持しているだけなのです。

複雑になりすぎ、シンプルな生活から遠ざかってしまった代償なのです。

教育という大切な人間が生み出した発明は、比較を教える為ではありません。

不平等の中でも競い合う事や助け合う事が本来の公平であり、それは強制するものでも押し付けるものでも無いのです。

公平性や平等に重きを置く事では無く、過去からの声を聞く力と未来を作り出す想像力を養う場であるのが本当の教育です。

大人になって「π」や「√」なんてほとんどの人が、使わずに生活していますが、覚える事が目的では無く、その過程、すなわち筋肉を鍛えれば太くなるように、頭、脳も使えば使うほど発達します。

読み書きもその手助けになる為に学ぶのであって、無駄のように思う方程式や元素記号も、たとえ将来直接役に立たなくても、思考するトレーニングになるのです。

頭の柔らかい時に、様々な脳内の回路を作り、連携させる為に学ぶのです。

スポーツでいうと、身体作り、基礎を身に付けトレーニングする事と同じです。

ですから初めからやっても無駄、自分は頭が悪いから、将来役に立たない、そんな考え方をしてしまうと、色々な機会を逃してしまうのです。

調べればすぐわかるような歴史の年代を記憶する為に学習しても意味がありません。

日々研究や見直しで、歴史や過去の情報が更新されているのですから。

特に歴史は、日本と世界に分けられて学習していますが、同時期にどんな事が起きたのかを知るような勉強の方が本当は大切ですし、世界との比較する事によって、大きな流れを把握する力もつくので、必ず役に立ちます。

個人差があるので、自分にあった教育の場は必ず見つかりますから、諦めないで欲しいのです。

 

昔は各家庭に百科事典があり、全巻そろえる事がステータスにもなっていました。

私の家もそれほど豊かな生活では無かったので、月単位で揃(そろ)えていました。

ただ、分厚く重い事もあって見る事はほとんどなく、無駄なスペースだったと記憶しています。

昭和の私から見ると、現代は羨ましいほど勉強できる環境になっています。

解らない事は、ネットですぐ調べられますし、何よりスマートフォンという素晴らしいツールがあるからです。

学校に行くことも大事ですが、便利になった現代、無理に行く必要はありません。

脳にたくさん刺激を与えるよう、本を読んだり、映画を観たり、自分の好きなことを調べたりするだけでも違います。

皆と同じ道を歩む必要はありません。

疑問を持ち、そのままにしない事と、当たり前の事を当たり前と思わない事。

何より「知りたい」という気持ちを持ち続ける事です。

そして、歳を重ねるほどその事が難しくなってしまいます。

その事は忘れないで下さい。

世界には不登校や、問題児とされながらも、のちに素晴らしい業績を残した人達がたくさんいます。

世間体や常識、人とは違うという先入観と価値観。

そんな、どうでもいい基準に、親も含めて自分を当てはめないようにしたいものです。

始めから不平等で公平では無いのですから

私が過ごしてきた昭和には選択肢が少なく、皆が同じ方向を目指す事でしか、人生という価値を見い出す事が出来なかったようにも思います。

それが良かったかどうかは解りませんが、少なくとも今の様な金銭的な大きな格差はありませんでした。

勿論、そろばんや習字、英語習得の様な習い事をする子もいましたが、進学塾など周りにはほとんど無かったと記憶しています。(ちょうど、進学の為の塾が出だした頃です)

まあ、近所に自由に出入り出来る空き地があり、車庫なんて無い家ばかりのドラえもんの「のび太」の様な世界です。

そして不公平や不平等はありましたが、先生や年上の子供、近所の繋がりが補っていたかもしれません。

良い意味で世間体も、目の役割をしていたのでしょう。

 

私達は、不公平・不平等という船に乗り、情報という大海の潮流に流されているように見えます。

自分で考える事を放棄し、体制や世間という流れの早い潮流の行く末は、たぶん破滅でしょう。

過去、歴史という素晴らしいマニュアル(手引き書・取扱説明書)がある事も、想像力という風を味方にする事も、謙虚という明かりも、そして信念というオールで漕ぐ事もしないで、行き先も解らずにただ流されているのです。

 

確かに「比較するな」と言ったところで無理な話でしょう

隣の豪華極まりない船を羨ましく思うかもしれません。

食糧だって、燃料だって沢山積んでいる船に乗りたくなるのは仕方がない事です。

でも、自分の船は唯一無二の一隻キリなのです。

どんな立派な船でも、前に進まなければ意味がありませんし、ただただ流されているだけなら役立たずでしかありません。

 

不公平という壁は、生まれた時からあります。

そして比較がある限り、平等・公平に物事は進んでは行きません。

わめこうが、嘆こうが、残念ながらどうにもならないのです。

ボロ船でもマニュアルを読み、明かりを灯しオールを漕ぎ、風をつかまえて進めば、流される事無く目標にたどり着けるのです。

人生が尽きるまで、全ての事が勉強なのです。

それは航海の中、新たな発見や目印、ひらめきを見つけてくれるのです。

歳も性差も、そしてお金にも囚われない、比較しない自分だけがたどり着ける場所が見つかった時、

何もかもが既にそこにある事を、全て持っていた事を知り、生きてきた意味がきっと解るかもしれません。

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不公平という壁⦅平等と教育⦆(2)

この記事で不公平を是正せよとも、受け入れろとも書いていません。

ただ、諦めてとも書いていません。

見方を変える事の大切さを改めて考えて欲しいのです。

 

平等に日は上り、時間は過ぎていきますが、「自然」は見方を変えると不公平そのものです。

人間を含めた生物に対して、都合の良い様に流れてはくれません。

時も場所も選ばず、予告なしに選択と仕分けが始まるのです。

カオスであり調和であるという事は、バタフライエフェクト

(若者達へのメッセージ⦅幸せになれ⦆(3)参照してください)

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の様にそれぞれが繋がっていて、何処かが変化すると別の何かが動き出す事であり、しかし調和の中にいて大きな宇宙の流れの一部として均等を保っているのです。

「公平」「平等」という概念を作り出せるのは人間だけなのです。

その裏にある「比較」が生み出すものだからです。

 

まず平等と公平の違いをおさらいしておきましょう。

例えば運動会で100m走をするという事を頭に思い描いて下さい。

全員が運動会に参加する事が「平等」です。

権利が一様である事、すなわち条件を付けない事を指します。

そして能力に合わせて、靴の種類、スタートラインやゴールの位置を変えたりする事が「公平」です。

個々の能力・適性などを考慮した上で調整して、偏(かたよ)りやハンディーキャップ(不利、不利益)を無くす、この場合でいうと身体能力や身体の大小、性差の違いによる差が出ないようにするという意味になります。

すなわち公平性の担保は、学年に分けて選手全員が同じスタートラインに立ち、例え男女別にしたところで出来無いのです。

もう一つ例を挙げて見ましょう。

運動会に出た事で、皆がお菓子を貰える事が「平等」です。

学年(成長の時期、能力の違いや練習量)により、お菓子の量が違う事が「公平」なのです。

すなわち差が生まれる事を考慮するという事です。

勿論、生まれた日の違い、好き嫌いやアレルギー、歯が悪いという様な要素が加味されるので厳密には不可能ですが。

すなわち運動会は結局、平等で公平を担保出来ません。

明治7年(1.874年)海軍兵学校で日本で初めてとなる運動会が始まって、その内容も個々では無く、集団重視へ変化してきました。

運動会自体意義が無いとは言いません。

練習による体力アップや仲間との共有感を学べる良い機会であると同時に、助け合う事で公平で平等なイベントに近づく事が出来るからです。

が、大人達が公平や平等をはき違えたり、正しく理解していない面があり、やたら団体行動の正確さや細かい服装、髪形などのチェックを求めたり、家庭の事情を考慮してか、食事を子供だけで食べる事にしたり、また順位を付ける事を廃止したりと歪んでしまっているのが現状です。(コロナ禍では対応が違いますが)

平等ならば、安全を考慮したうえで家族と食事が出来るはずですし、来られない保護者や親族がいる子にはそれこそ配慮、すなわち他の家族と一緒にするとか、先生と食べるように公平にすれば良いのです。

考えれば解る事で、保護者が競技に参加する事自体、不平等なのです。

来賓だけが涼しいテントの下に座っている事自体が不公平そのものなのです。

正に大人が不公平と不平等を子供達の前で作り出しているのです。

もう一つ事例を挙げて見ましょう。

私の経験では、保育園から高校入学等、節目に式典がありますが、その光景を一緒に思い出して欲しいのですが、式典の檀上から見ると、左右どちらかに来賓席や先生方がいます。特等席です。

そして子供達、最後に保護者という順番です。

主役は子供達です。

式典が行われるまでに、学校は子供達に親への感謝の手紙を書かせます。

勿論、もらえば嬉しいものですが、式典では我が子が何処に居るのか解らない後ろ姿をずっと探しながら後ろから見る事になっています。

子供達が見て欲しい人は一体誰なのでしょうか?

感謝の手紙をもらった保護者は、誰を見たいのでしょうか?

お偉方、権力や肩書がある人は、本来柱の陰からそっと見守るのが筋ではないでしょうか?

もしくは、一番後ろで式典全体を祝福し味わう事では無いでしょうか?

生徒達、子供達が一番前で保護者の方を見て行われるのが本来の式典の意味、道理に叶う事です。

その姿の誇らしさを、笑顔で正面から見届けるのは保護者ですから。

お分かりになると思いますが、比較を生み出しているのは大人達です

 

不公平という壁は、生きている限り必ずぶち当たります。

それはこの地球上の全ての生物に言える事です。

不平等の世界で魚達は、沢山卵を産み、食べられるリスクを考慮しています。

すなわち食べられる事、不公平を前提としての行動です。

鳥の雛も、弱ければエサを食べられず死んでしまいます。

そして食いぶちが減った分、残った雛の生存確率が高くなるのです。

人間は、生まれた状態では立つ事も、食べる事も自力では出来ません。

脳の発達を優先している為、生まれながらに頭が大きく、面倒を見てくれる存在を前提としているからです。

免疫が定着し、周りに起きる危険を避ける事を自力で出来るまで大人が見守ってくれます。

しかしながら、生まれた瞬間から不公平で不平等が始まるのです。

アメリカがアフガニスタンから撤退した後、女性に対する教育を閉ざし始めました。

学校に行かせない為、自宅待機させる事も行っています。

例え、紛争国や貧困国に生まれて来なかったとしても、ネグレスト(育児放棄、育児怠慢、監護放棄)、飢餓や病気や事故など、予測できない事だらけなのです。

一律にスタートラインには全く並んでいません。

生まれた途端不平等ですから、いくら不平等だとわめいても、平等にも公平にもなりません。

平等に公平に受ける事が出来る義務教育であっても、そうでは無いのです。

家庭の事情や周りの環境がまちまちの中で、公平性を保つ為運動会で一位を決めないというようなレベルの話では無いのです。

子供達は、肌感覚で解っています。「平等じゃない」「不公平」って。

 

教育はとても大切です。

歴史にもよく出てくる足利義輝織田信秀が活躍していた時代に、宣教目的で来日した教科書でも有名なフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が日本人の識字率の高さに驚いていたと言われています。ただ女性の場合はかなりその率は下がりますが。

当時の外国では文字の読み書きが出来る人の割合が低かったからです。

その日本の現状ですが、義務教育は1.980年代以降、詰め込み教育の短所、例えば暗記に重点を置き、テストが終わると忘れてしまうような事ですが、このような事に対する反省から、学習の動機付けに重点を置くゆとり教育へと路線を変更する事となりました。

しかし、世界と比べて学力が落ちた事を理由に文部科学省は、2.008年に新学習指導要領を作成し、脱・ゆとりへと方向転換しました。

長い目で見ると、どちらにせよ教育方針に大きな差はなかったようで、結局教育現場や生徒たちが混乱し、時間のやりくり等、問題を増やしただけで、実験としては意味がありましたが、何も変わらない状況という結果に終わってしまいました。

義務教育就学率は日本国籍ではほぼ100パーセント近い(学校に行っていない子はいますが識字率と同列では無い)子供達が教育の機会を得ていますが、2019年文部科学省が全国調査をしたところ、義務教育を受ける年齢に相当する外国籍児12万4.049人のうち全体の15.8%にあたる1万9.654人が不就学という驚くべき数字になっているのです。

今もなお平等に子供達に勉学の機会が与えられていない貧困国や女性蔑視の国等では大きな課題となっていて、NGO組織「プランインターナショナル」でも、劣悪な環境下での労働力として、また早すぎる結婚、出産による教育機会を受けられない子供達の支援の大切さを訴えていますが、支援を受けられる子供達は、世界でもほんの一部でしかありません。

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幼少期から不平等という壁が立ちはだかっている人達は、私達が思っている以上に多く、外国籍の子供の達の救済に加え、世界に目を向ける政策を考え直さないと未来が無くなってしまうのです。

日本がその為にもっと手を差し伸べる事が出来るはずですし、日本にとっても良い影響をもたらし貢献する事で信頼を得て未然に紛争や争いごとに巻き込まれる確率も減るはずです。

 

子供や若者達の教育では、今しか出来ない、後回しに出来ない事って沢山あります。

塾や習い事等、将来に向けて色々出来る子供は、恵まれているかもしれません。

好きな事を見つけ、夢を描ける環境にいる人ばかりではありません。

キッカケも与えられず、ヤングケアラーやネグレクト(育児放棄)、宗教二世問題に加え。日々の生活に追われ、勉学に支障をきたしている人も沢山います。

登校拒否や引きこもり、イジメといった悲しい出来事も沢山あり、加えて貧困や格差という本人の意志とは関係なしにチャンスを奪われている子供達や若者。

自力で自分に投資が出来ない環境の中、仕方がないといった諦めや、我慢を強いている現状が、不平等や不公平を助長している事を、大人達は真剣に問題意識として社会の中で取りこぼされないよう考えていくべきです。

 

同じハイツに住んでいる、友人の一人親世帯、息子より一つ上の女の子がいますが、経済状況を考えて、塾の話すら親に出来なかったようで、高校選択時、公立がダメなら進学をあきらめ就職の道を模索していたようでしたが、やはり進学を諦めきれず、何とか頑張って公立に進学できました。

節約の為、片道1時間余り自転車を漕いで元気に通っていますが、こまごまとした費用や部活で、どうしてもお金が掛かるのです。

毎日、必要なお金、数百円を親から貰い、節約しながら頑張っています。

 

子供の夢を金銭で左右するこの世の中、親としたら、こんなに辛い事は無いでしょう。

つい「お金さえあれば」と思ってしまいます。

例え、どんな所でもやる気が無いとダメなモノはダメで、逆に努力次第で道は開けると、息子にも機会があるごとに話していますが、本音を言うとやはり無理な事が多いのも事実なのです。

教育に対する支援も少しは前進してはいますが、それでもまだまだ足りないのです。

(「来年高校受験を考えている保護者の方へのアドバイス」を参照してください。)

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高校に入ると将来像を描けと言われるようになりますが、振り返って自分の事を考えると、当時の私は全く考えていませんでした。

一つは昭和の時代であった事で、早々に就職するか、会社員として就職し、終身雇用で退職まで働くという流れが大きかったからです。

二つ目は、それとは逆にレールに乗る事に疑問を持ち、将来の事では無く、今を楽しみたいという生き方が出てきた頃なのです。


俺たちの旅 Vol.1 [Blu-ray]

ドラマ「俺たちの旅」が放映されていた時期で、当時のドラマは恋愛ものが少なく、生き方を問うモノが多かったと記憶しています。

勿論、私は後者の方でした。

ですから、親からは近所に顔向けできない息子として見られていました。

家庭環境が悪かったのもあり、10代後半には家を飛び出していました。

「音楽でメシを食う」と決めてからは、アルバイトに明け暮れる日々。

勿論本気で考えていましたが、現実はそんな甘くはありません。

「もし小さい頃にピアノを習わせてくれてたらなぁ」と思う事も何度もありました。

そして、時間だけが空しく過ぎてしまったのです。

そろそろ無理かなぁ!もっと真剣に取り組んで、頑張っていれば良かったと後悔するようになったの時、既に40代になっていました。

けれども、だからと言って今を後悔はしていません。

運命の歯車はどう転ぶかは誰にも解らないし、何本の枝分かれの末、たどり着いたのが今です。

最初の夢こそ叶いませんでしたが、今日までに至るまでの経験や人との出会いは、今の自分を作ってきた事であり、無駄では無かったと思っています。

昭和の時代を生きてきた私は、フリーターという言葉が出だした生き方をしてきた訳です。

人生の半分を正職につかずに過ごしてきた中から学んだ事は、不公平と不平等だらけで、理不尽な事が沢山ある事や、どんな事でも表と裏があるという事。

そして数々の仕事をしている中での人間関係の難しさと、どんな仕事も大変で、大切であるという事です。

そして、職が変わるたびに新たな事を学ばなければいけなかった事が、逆に人生という学びになった事です。

「一生勉強だな」と気付いた時、道端の雑草が愛おしく見えました。

名前も知らない草すら、少しのアスファルトの隙間から芽を出し懸命に生きている事に、改めて生きる事の意味を見たからです。

不公平で不平等だらけの隙間を縫って生きている「いじらしさ」にです。

不公平という壁⦅平等と教育⦆(3)に続く

戦争⦅日本の選択⦆(3)

それは、自分に無いモノを他人から得ようとし

底なしのような無力感を感じるはずだ。

そこにあるのは罪悪感に落ちる優越感。

穏やかには程遠い。

何も持てない人達の不幸と、お金や権力を持つ人達の不幸は、

選べるか、選べられないかの差だけで、不幸にかわりない。

仏像もキリストも目をみれば、幸や不幸はそこに無く、

決して、あなたに視線を合わさずに、

迷いも無く見つめている。

こうあるべきという教えも無い。

答えは自身の中にあると言いたげだ。

 

第二次世界大戦後77年目の夏、日本は類を見ない線状降水帯による豪雨で、沢山の方が被災されました。地震も相変わらず頻発しています。

これら天災は、地球温暖化等、人類が直接ないしは間接的にその引き金を引いているとも言われています。

未だ戦争や紛争が続き命が奪われ、戦闘による大量の二酸化炭素の排出をし続けている人類。

以前から海洋生物の体内にマイクロプラスチック(レジ袋、コンビニの弁当箱、ペットボトルの蓋などのプラスチックゴミが微細な粒子になったモノ)が検出され話題になりましたが、最近、人間の血液中にマイクロプラスチックが含まれているという恐ろしい報告のニュースが流れていました。

結局この星に人間が誕生した訳は何だったんでしょう?

46億年前に誕生した地球。約2億年かけて海を作り出しました。

その後38億年前頃、つまり誕生から約8億年後ついに生命が海の中で誕生したのです。

そして酸素が登場するまでに約22億年もかかっているのです。

 

人間が自然に与える影響のスピードがいかに速い事か解ると思います。

宇宙というスケールで考えると、人類はマイクロプラスチック以下の存在に過ぎません。

勿論この太陽系も、ゴミの様なものです。

有っても無くてもどうでも良いくらい、本当にちっぽけな存在なのです。

余りにも小さく、何が起きるか解らない危うさの中でしか人間が住める場所はありません。

それでも人間は、争う事を辞めません。

この星に対して、やらなければいけない事を、どんどん先送りにしながら。

 

欲は誰にでもあります。

けれどもその欲が自分の快適さだけを求めるものである限り、戦争も紛争も無くならないでしょう。

こんな、か弱い地球の上で欲にうごめく人類の姿を、行動を本当に私達は許容していいのでしょうか?

命が生まれるまで気の遠くなる時間と、偶然と奇跡を費やし、その大切な命を僅か数秒で終わらせる愚かな行為になぜ気が付かないのでしょう?

「大勢(たいせい)」は、身に危険が及ぶまで、財産を失くすまでその恐ろしさを知ることは有りません。

すなわち、国民が大勢という流れの中で権力を見ている限り、権力者の思うつぼになります。

疑問も持たずに、その場その場で右往左往し、発信し、同調を求め、意にそぐわない者を攻撃する人達の存在を絶対に良しとしない社会であるべきです。

例え少数であっても、異なる意見を無視する事は、やがて大勢として危険な方向へと舵を切ります。

誰もが自由に意見を言い、話し合い議論を尽くすという民主主義の根幹である事を、私たち一人一人が認識し、政治家に丸投げしてはいけないのです。

大切になるのが、マスコミやSNS等のメディアの役割でしょう。

まだ記憶に新しい忖度という言葉、その様な兆候が最近どんどん問題として浮き上がってきました。

情報を都合の良い様に操作し、兵士や国民に高揚感を与え、正義を押し付ける事は、有事、戦争の際に必ず起きる事です。

事実を隠す事で、無駄に命が奪われる事は、歴史がハッキリと示しています。

その仲介をマスメディアが助長したり、忖度したりしてしまう事は十分考えられます。

そして、大勢が雰囲気を作り上げ、巻き込み、負の方向へと突き進んでしまいます。

SNS 等の個人による情報発信が簡単に出来るようになった現代。

扇動したりフェイクを流す事も簡単に出来る様になってしまい、情報に翻弄されて思わぬ行動を起こしてしまうのです

それは、政治に対しても言える事で、短絡的な民衆受けの良い言葉で、高揚させるような人達の言葉に浮かれてしまい、聞いた側自らが発信者となって後押しをする羽目に陥るのです。

自分を家族を守る為には、やはり歴史の示してきた過ちに目を向け、なぜ間違えてしまったのかという事を紐解く力です。

今だけの事ばかりに囚われて、早急な判断で行動を起したり、他の人達に押し付けたりする事は絶対に避けなければいけません。

 

誰でも過去の事をいちいち調べたり、悲惨な出来事を聞きたくないという気持ちは解ります。

まして自国が犯してきた過ちを認める作業は気の重いもですが、それなくしては未来はありません。

 

日本のすぐそばで、きな臭い事が増えています。

ただ、単純に防衛を含む力に頼る政策に舵を切る事に連動させる事は全く別問題であり、様々な方策を模索し、特に外交による話し合いに重点を置くべき事なのです。

勿論、普段からの外交力が大切ですが、今の日本を見る限り全てにおいて立ち位置が定まらず、場当たり的な政策ばかりをやって来たように思うのです。

原水爆一つとっても、とても被爆国がとる態度とは思えません

77年間、いったい何をこの国はやってきたのでしょうか。

例えば前回も書きましたが、日米地位協定の理不尽さは目を覆うばかりです。

FEN(Far East Network:極東放送網)という名前を知っている方も多いと思いますが、在日米軍向けラジオ局で、現在は名称をAFN(American Forces Network・米軍放送網 "Eagle 810")と名前が変わり、東京では810kHzのAMラジオで流されています。 AFNを含む在日米軍の無線局は全て日米地位協定に基づき電波法の適用対象外となっているのです。

すなわち外国政府や外国企業のほか、役員や議決権の3分の1以上を外資が占めている場合は、無線局の免許を与えないこととしているという制約を受けないという事です。

またアンテナ等の広大な土地も、未だ返還されていません。

空、航空法航空特例法という存在が盛り込まれている為、通常建造物の高さ+300mを保って飛ばなくてはいけないにも関わらず、米軍機は、航空特例法で最低安全高度規制や、迷惑な飛行の規制に縛られずに飛行する事が可能なのです。すなわち日本の上空を自由に飛び、日本の管制を無視できるのです。

またアメリカ軍による日本国内の航空管制のお陰で、航空機が迂回ルートを飛ばなくてはならない事も問題になっています。

低空飛行訓練ルートを勝手に設定もしているのですが、同じ先の大戦での敗戦国のドイツやイタリアは、自国が管理しているのです。

その他、この地位協定は犯罪が絡む様な様々な問題を起していますし、思いやり予算と言われる在日米軍駐留経費負担も、経費負担率(2002年)で実に74.5%も負担していて世界で一番の負担率で、毎年2.000億円ほどの支出をしているのです。この中から娯楽施設の人件費も支払われている事も解っています。

このような思いやり予算に対して、「守ってもらうから仕方がない」とか「防衛として考えるならば、むしろ安く済んでいる」という人達もいますが、言いたい事や主張も出来ず、犯罪者さえ厳正に日本の法律で処罰できない現実が、はたしてこの国の為になるのでしょうか?

前回でも書きましたが、大国は自国の利益を最優先に、それも巧みに計画を立てています。

いわば日本はカモにされている可能性が大きいのです。

対等に、自由主義国として渡り合える関係を持つ為には、曖昧なその場に合わせる様な態度でいては、いつまでたっても言いなりで、対等にはならないのです。

出来ない事にはハッキリとNOと言える政治家が必要なのです。

 

アメリカが良い悪いと言っているのではなく、むしろ日本政府の腰の引けた態度に危機感を感じるのです。

歴史は過去からの教訓を学ぶ為のもで、戦国武将の戦術や名言を評価する為ではありません。もっと近代史に力を入れるべきです

そして、全ての過ちも含めた事例を次の世代を担う子供達に教えていくべきです。

国歌斉唱も「日の丸」に一礼する事も、それが何の為にやっているのか、何を心に訴えかけるのか考える機会がないまま、形式だけでやったとしても意味があるとは思いません。

愚かな戦争で敵味方含め、亡くなった多くの人達の「お国の為」「生きろ」「生き抜いてくれ」という想いの裏にある「こんな愚かな事で死にたくない」「二度と同じ過ちを繰り返すな」「駒のように動かさる様な屈辱を、次の世代に味あわせないで欲しい」「無駄死にしてはならない」「生きて帰りたい」という悲痛な想いがあったはずです。

単に「尊い命があったからこそ…」とか「彼らの犠牲の上に…」「英霊の御霊に哀悼の誠を…」という言葉で、格好だけで済ましてしまうお偉方に、その裏にある一人の人間としての声にもっと耳を傾けるべきです

いつか世界中の人が、笑顔で青い空を見上げ、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込める日が訪れる事を願いたいものです。

その日、人類はやっと進化した日として、歴史に刻まれる事でしょう。

 

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戦争⦅日本の選択⦆(2)

「暑い、暑い」と風を待つ

木陰のまだらな陰陽が

涼感を呼び寄せて

当たり前の日常に感謝する

戦火の中で逃げ惑う

「暑い、暑い」と叫ぶ声

時を経て聞こえるその声に

想いを馳せて汗を拭く

無駄では無かった命だと

風は心を通り抜け

大きく心を揺さぶった

 

今の日本のGDP「Gross Domestic Product」国内総生産IMF国際通貨基金)が発表した2021年度世界3位で、まだ経済力は高い方ですから、そのおかげで防衛力は世界でも5位(GLOBAL FIREPOWER 2022参照)。

アメリカからの武器購入等で最新兵器を所有してはいますが、自衛隊員数は約26万人で、お隣の中国は2~3百万人もいます。(正確な数字は解りません)

また自国だけで情報収集する能力は同盟国無しでは極めて低く、情報共有というシステム無しでは、電子戦とも言われる近代の戦争で勝つ事はほぼ不可能に近いのです。

また攻撃や防御するとなると必ず補給、すなわち兵站(へいたん)が必要になります。

先の大戦でも、補給路を断たれ数多くの人達が飢餓や自決に追い込まれました。

島国である利点は、裏返せば不利な条件ともいえ、兵站(へいたん)が断たれれば何も出来なくなります。

今の台湾情勢を見れば解るはずです。

その時、同盟諸国はどうやって兵站を確保してくれるでしょうか?

制空権をいつまで保持できるか?

いくら最新の兵器があっても、弾薬や食糧や燃料が無くなれば意味のないものになってしまうのです。

ウクライナの戦争でも、ロシア軍の車両のタイヤ性能が悪く、役に立たなくなる事例もニュースとして流れています。

タイヤ一つとってもこのような事が起きるのです。

世界で起きている紛争地で見かける運搬や軍用車両として使用されている日本車の多さも、整備性や耐久性を考慮しているにほかなりません。

果たして空と海、四方八方からの攻撃にどうやって立ち向かうのでしょうか?

兵士に志願し、前線で戦える人材をどう確保し送り出すのでしょう?

ましてアメリカの核の傘の下と言っても、アメリカ本土を狙って攻撃されると日本の事等かまってられなくなるでしょう。

そして日本が狙われるのは通常であれば基地だけでなく、原発や発電設備、エネルギー貯蔵庫、放送局や海底ケーブルと誰が考えても解る事です。

勿論レーダー補足が出来ない無数のドローンなどの無人機による攻撃やサイバー攻撃にさらされ、インフラが破壊され、ガラス張りのビルから雨の様に降り注ぐガラス片や、道の狭さから緊急自動車は通れず、密集地域では次々と火災に見舞われる事でしょう。

タワーマンションは、逃げにくい構造、すなわちエレベーターが止まり、海からの強風や火災による火災旋風によりヘリも飛べないでしょうし、飛べたとしても一度に大勢乗せることなど不可能です。

そもそも有事の際に飛ばす事さえ出来なくなるのは目に見えています。

一極集中の東京はパニック状態になる事は間違いありません。

そして誰かが核のボタンを押せばもう破滅しかありません。

例え直接日本に落とされなくても、核爆発による電磁パルスの影響で電子機器は使用不可能になり、風向きによっては放射能が飛んできます。

それだけでも生活は一変します。

1986年4月に起きたチョルノービリ(チェルノブイリ原発事故での子供達の甲状腺がんの増加も現実にあった事ですし、未だに放射能を食い止める為、石棺(コンクリートの建造物)で封印され、さらにそれを覆う構造物まで作られているのです。

放射能は日本の雨水からも検出されるほどの規模でした。

責任や因果関係を未だ認めていない福島原発爆発による被ばく問題も、何ら解決もされていないし、最近ではニュースにもならないのです。

何度も書きますが、始まれば終わりなのです。

 

これまでに電力不足や災害による停電、通信事業者や銀行のシステムトラブル等が起きる度に、大騒ぎになる様な、いわば脆弱(ぜいじゃく)そのもののこの国の実態を、現実を見なければいけません。

当然ながら日々貯めている買い物ポイントも、全て消失しますし、カード類はゴミとなるでしょう。

 

想像すれば解るはずです。

どれほどの家に爆撃に耐えられるシェルターが備わっているのでしょうか?

何日にも渡って自給自足が出来る家が、どれほどあるのでしょうか?

放射能からの防御体制、例えば風向きの把握や安定ヨウ素剤(40歳未満のみ服用化ですぐ飲まないと効果は薄れます)の備蓄をしている家や、自治体の何処にあって、どの様な配布方法をするのかは知っていますか?

戦争に伴う様々な病気の蔓延、化学兵器使用時にどう対処するのでしょうか?

陸路や空輸、船で本当に必要物資を届けられるのでしょうか?

そもそも日本の高速道路は緊急着陸できる構造になっていませんから、ガソリンや軽油が尽きれば車両による補給も困難になるのです。

 

そして、いったいどこの誰が責任を取るのでしょうか?

一体誰が検証するのでしょうか?

国民が安全な戦争があるなら教えて欲しものです。

被爆国である日本がやるべき事は、核廃絶と偏りのない世界の国に対する金銭的、人的支援や技術協力、経済やインフラ整備の支援や子供達への医療教育支援など、いくらでも出来るはずです。

国際的な人道支援団体に個人的に参加する人を増やす方法を考えてもいいかもしれません。

若者達の国際交流を盛んにしてもいいでしょうし、世界中に手紙やSNSで友達を作る企画や難民認定のハードルも必要以上に高いままにするのではなく、むしろ積極的に受け入れ、人口増加や若者が増えるようにする事だって考えても良いと思うのです。(一部の人達が民族や宗教、血縁といった理由で否定的な人達がいるのも事実ですが)

また核の傘核兵器を無くす事とは、次元の違う問題であるはずです。

にも関わらず、明確な態度を取らない姿勢は、かえって信頼を失います。

友好国との付き合いは対等な立場でこそ成り立つもので、正に忖度したり、顔色をうかがうような態度を取っていれば、世界の笑いものになる、いやなっているかもしれません。

世界で一番長い歴史を持ち、唯一の被爆国という立場でのNPT(核拡散防止条約)で核廃絶を夢物語に終わらせないようにリーダーシップを取り、国連の戦勝国に有利な在り方を改め、正常に機能させる役割、本来あるべき姿に変えていく事に真剣に努力をすべきなのです。

その姿勢こそが、日本を守る事が出来る最大の武器となるのです。

加えて日本の救助隊が海外に派遣され活躍したり、名も知られていない日本人が、世界中で現地の人の為に尽くしてきたりしてきた事を忘れてはいけないのです。

その様な行為に対して裏切ったり、無駄に終わらせる事は愚かな事以外何物でもありません。

そしてその様な支援が信頼や友好を強め、守りの壁となって攻撃対象とは絶対にならないでしょう。

親切にしてくれたり優しくしてくれたりした人を殺そうとうとは思わない事と同じ事です。

国際結婚している私も、妻の国の人達に親しみを持っていますし、友人もいます。

その彼らの国を攻めようなんて思いませんし、身近に外国人の方々と接している人なら解るはずです。

 

何より地理的にもそうですが、宗教問題や民族問題による国内における対立があまり無く(カルト的な宗教団体や政教分離と言われながらも政治に対する影響は、少なからず無くなっていませんし、ヘイトや入管による人権を踏みにじるような行為、外国人労働者に対する一部企業の搾取等は依然存在し、今のところ改善されてはいません)、政治的には、他の国に比べはるかにその様な問題に時間やお金を割く事が少ない国が日本です。

 

米ソの東西冷戦時、アフリカは鉱物の宝庫という事もあり、大国に翻弄されてきました。

今でもアフリカで話されている言葉の種類からも、それがうかがえます。

冷戦以降も、いや遥か昔から大国は自国の利益を求め他国を植民地化し、鉱物や石油に限らず人的な資源の確保をする為、航路確保や寄港地にする為、侵略や紛争へと突き進んできました。

アフリカに限らず、上記の理由に加え布教活動及び強制改宗の目的で占領された国は山ほどあります。

そして、彼らが去った後は内戦が勃発し、宗教争いが始まり、権力の取り合いと進んでしまったのです。

日本も歴史の教科書に出ている様に、植民地化しようと他国に翻弄されましたが、その頃は戦国時代であり、中央集権国として統一された時期で、武器(鉄砲等)や士気の高い戦士の数も多く、いわば軍事大国状態であった為、宣教師は本国に侵略は困難であるとの情報を送り、功を奏した事と、宣教師による布教(侵略する為という側面もあったとされる)でも国民全体を改宗させるような影響を与えなかったのが幸いしたのです。

(一方で日本は、他国を欧米の植民地支配(侵略)から独立させる、また日本が独立国家としての存続を脅かされる危険という前提で他国に対し勢力を拡大した側面もあり、今でも賛否が分かれるところで、国によって日本に対する感情が違うのは知っての通りです。)

 

日本は資源を他国に依存しています。

それは、非常に不利で弱点であると同時に、裏を返せば資源が無い事は、侵略されるリスクも多少でも低くなります。

他国から見れば災害が多く、資源が少ない国を手にしたところで何の利益もありません。

だからこそ話し合いや、時には仲裁を率先してやらなければいけませんし、それが出来る国なのです。

ご機嫌取りの様に、軍事的に足並みを揃えるばかりが外交ではありません。

同調できない事があれば、ハッキリと意思を示さなければ逆に信頼を失ってしまうからです。

何より重要なのは、歴史的な史実や事実を隠す事無く、未来につながる子供達に教えなければいけません。

無かった事にしたり、負の部分を載せないだの、こんな事を許してはいけないのです。

愛国心がそがれるといった意見を述べる政治家もいますが、全くの間違いで、正にプロパガンダであり、本当の意味での愛国心を生み出さなくしてしまいます。

人に例えれば解る事で、悪い部分を知ってもなお理解してくれるからこそ、お互いに信頼関係が生まれます。

上辺だけの美化された人や国は、やがて化けの皮が剥がれ落ちるのです。

 

「Never do anything against conscience even if the state demands it.」

『もし状況がそうすることを求めても、良心に反することはどんなことであってもするな。』

アインシュタインの言葉より

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このブログ「魂とは?霊とは?」でも書いていますが、戦争になれば命の引き継ぎの中での「魂」という故人の想いを、伝える事すら憚(はばか)ったり話さなかったりと、受け継ぐことが出来なくなってしまいます。

それは、当事者が味わったあまりにも無残な経験が、口を閉ざさせてしまうからです。

死はその人の全てを消してしまうのですが、残された者に想いが託されていきます。

一人一人の想いが積み重なって、争う事の愚かさを歴史として積み重ねてきているのです。

地球上で、過去の事を知る事が出来る動物は人間だけという事には必ず意味があるはずです。

 

何の為に生れ、死んでいくのかさえ解らないまま命が失われる事の無念さや悲しみは、本人のみならず社会にとっても、そして未来にとっても何もいい事はありません。

軍事費が必要で無いとは書いてはいません。

残念ながら、領海侵犯による脅威や漁業に影響を及ぼす事例も沢山発生しているのも事実です。

「日本政府は弱腰だ!」との声も聞かれるようになってきました。

ただ、だからと言って単純に防衛費を増額し、防衛力を高める事と短絡に結びつけることが果たして正しい事なのでしょうか?

別の問題として考える必要があるのです。

何故なら、走り始めると止める事が出来ない事は歴史が証明しています。

だからこそ前述の様な外交努力が今以上に必要であり、物事を短絡的に考えてはいけないのです。

本当の事を僕らは知らない

臆病で弱くて

残忍で粗暴

古い動物脳がそうさせる事を

動物は生きる為

人は恨みの為

引き出すのは戦争だ

この星は

それを良しとしない

命溢れる星として託した人間を

許しはしないだろう

 

国のやる事を傍観者として見ては絶対にダメです。

誰も責任を取ってはくれません。

何より、死んだ人間は行き返らないのです。

そして、若い人達や子供達が真っ先に死ぬ事で国が存続すること等ありえません。

あなたの家族や、知り合いが派兵される事を想像してみて下さい。

有事が起き、日常生活が一変する事を、憎しみが連鎖していく恐ろしさを、どうか想像して欲しいのです。

日本国憲法第2章「戦争の放棄」第九条 

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

そして日本国憲法の前文には、

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

と記されています。

読めば解りますが、「全世界の国民」という文言が入っている事に心打たれはしないでしょうか?

 

権力者や政治の暴走を止める役目になっているこの憲法を、そして日本国民だけでない世界に目を向けての決意を記した憲法を私は誇りに思います。

前にも書きましたが、憲法は例え選挙で選ばれた政治家であっても、人間である以上間違いを犯します。もしくは、保身や権力行使による望まない判断を下す事もあります。

その様な事から国が思わぬ方向に舵を切り、国民にとって不利益になる事を防ぐ防波堤の役割をしています。

世界情勢が変わったからと言って、簡単に改正するものでは無く、あくまでも自国の権力に対する抑止という観点から十分な議論と時間をかけて考えていかなくてはいけません。

何故、この条文が作られ、どんな意図があるのかを、歴史を紐解きながら全ての国民が考えなくてはならない大切な事なのです。

と同時に、世界に類を見ない平和を謳(うた)っているその趣旨を、もっと世界中に知らしめる必要があるのではないでしょうか?。

日本は一度決めた事を、やめたり見直したりする事をしてこなかった事を思い出して欲しいのです。

自衛隊の海外派遣やオリンピック、元首相の国葬などを始め、原発再稼働から議員に対する様々な使途不明金?手当や忖度。政教分離の在り方まで、おかしいと解っているのにもかかわらず、検証や見直しも逃げ腰で責任を誰も取らない、取らなかった事を繰り返してきた事実を忘れてはいけません。

大義名分として「議論は尽くした」「国民の総意」とか「理解を得ている」「反対する者はごく少数」「真摯に受け止める」「意見として参考にする」「取り組んでまいりたい」という言葉を真に受けてしまう事は、ごまかしや道をそれてしまう可能性があるという事も十分考えられますし、実際に起きているのです。

決めてしまうと後戻りをしないという事が、いかに恐ろしいかは、先の大戦を始め歴史が示し、警告しているのですから。

更に、マスメディアによる監視の目も、その機能を発揮していないばかりか、政府に忖度するような姿勢でいる事も非常に懸念されるところです。

先の五輪でも、コロナ患者が多数出て、死者の数が増えている時に、公共放送は朝から晩までオリンピック番組を放映していたのを思い出して下さい。

 

私達は、備わっている「想像力」を大いに働かせて、未来を救う道を見つける時を迎えているのです。

その担い手になる国として、日本であればこんな素晴らしい事は無いでしょう。

 

この時期、お盆にお墓参りをしたり、モニュメントや寺社に行ったりする事でしょう。

そこでの祈りは先祖がいたらこそ、自分がいて今を生きている事への感謝の祈りでしょう。

そして、過ちを繰り返さないという決意のはずです

今の時代、SNS等で個々に出来る事は沢山あります。

声を上げる事や、呼びかけ、世界に対する発進と、若い力が平和へと動かせる時代です。

世界中の未来を担う子供達の為にも、戦争は絶対にしてはいけません。

 

「Peace is not intended to be forced.It is only by understanding, something that can not be reached.」

『平和は強制できるものではない。それは理解することでしか、到達することができないものだ。』

アインシュタインの言葉より

 

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(記事は出来るだけ正確に記しているつもりですが、間違い等があれば指摘をお願い致します)

戦争⦅日本の選択⦆(3)に続く

 

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戦争⦅日本の選択⦆(1)

昨今の世界情勢のニュースを見る度、本当に暗い気持ちになってしまいます。

宗教や民族がらみの紛争も一向に終わる気配がありません。           

権威主義自由主義独裁国家に民主国家とハッキリとした色分けがグラデーションの様になってしまい、人々は日々の暮らしを豊かにしてくれるという甘い言葉を話す政治家や権力者を支持するようになっています。

そしてひとたび権力を握ると、手放したくないのか強硬な手段に出る事も当たり前の様に報道されています。

「欲」という悪魔の側面がそうさせるのでしょう。

一方で、戦争というモノが身近に感じられる様な情報が日々更新され、過去の歴史からの警告を無視するかのように、防衛や軍事力強化を唱える人が増えています。

 

戦場のピアニスト」「シンドラーのリスト」「ライフ・イズ・ビューティフル」等の有名作を始め、「私の親友、アンネ・フランク」「ホロコーストの罪人」「黄色い星の子供たち」「杉原千畝 スギハラチウネ」「ふたつの名前を持つ少年」「エスケープ ナチスからの逃亡」等などと、第二次世界大戦下の悲惨な運命、特にユダヤ人に対する非道さを描いた作品は本当に沢山ありますし、色々な国で作られています。

映画好きの私は、時間があれば事実として作られた映画をメインに、以前観たものも含め少しずつ見直していました。

真実を元に、描かれた作品の多くは、どれも脚色されているとはいえ、見た後は、喪失感や無力感に襲われます。

戦争は、普通の人々を悪魔に変え、天使にもします。

映画を観ると、若い時に観た時と今改めて見直した時とは、感じ方に大きく変化が有りました。

 

例えばもし、加害者だったら?

もし、ユダヤ人ではない被害者だったら?

もし、当事者のユダヤ人だったら?と。

自分を、色々な立場に置き換えて観ていました。

 

地下組織に入って、武器の調達やビラを刷ったり、匿(かくま)ったり出来るか?

危険を冒してまで、助ける事が自分に出来るか、甚(はなは)だ疑問です。

拷問や殺されるという恐怖の中、仲間を売り、情報を売ってまでも、生き延びようとしたに違いありません。

平気で同胞からひったくり、落ちたスープ状の食べ物に顔をつけ、むしゃぶるように舐めたり、バケツに貯まった水を飲んだりしている人達の姿は、情けなさや虚しさより、正に自身に置き換えて見ている様なイヤな感覚になってしまいました。

何をしても必死で生きようとした人々がそこにいたのです。

もし自分だったら?

どう考えても、そんな勇気は私には無いと思うのです。

自分の家族の為なら、どんな拷問をうけようが、殺されてもいいと思っているのにです。

この境界線は、何だろうか?

映画の中の人々は、勿論ほんの一握り事例で、歴史に埋もれた誰にも知られていない勇気ある行動をした人々が、その裏には沢山いました。

人間の中にある残酷さや、残虐性、悪魔になる危うさは、誰にでもあるのだろうか?

日常的に人が殺されていく事が、当たり前になった時、慣れるものなのか?

自分は、どう行動するだろうかと。

たぶん、どの立場にいても、権力に迎合した態度をとり、意気地無しであり、情けない弱い人間であったと思いうのです。

 

このブログで実弟孤独死の事を書きましたが、発見されるまで一週間経っていました。

風呂場で亡くなっていたのですが、運ばれた後の風呂場の色と匂いは忘れられません。

一生懸命に掃除していたのですが、匂いも含めて綺麗にはなりませんでした。

戦争時にはそれが当たり前の光景として見る事になると思うと、人間って何だろうと思ってしまいます。

 

当然、戦後生まれの私には戦争の経験も無ければ、極限に追い詰められる様な体験も有りません。

亡くなった戦争経験をした父も、一切その事を話す事はありませんでした。

この地球上で悲惨極まりない争いが、今もずっと何処かで継続している事と、歴史から学ぶ人々の苦悩を考えた時、今自分が置かれている平和な環境とのギャップがあまりに大きく違い、正直戸惑ってしまいます。

それは、何処か遠い国の話で実感が無く無力感もありますが、いくら想像しても冷めた自分がいる事の情けなさです。

 

戦争を体験された方が高齢となり、お亡くなりになった方が増え、実体験を直接聞く事はほぼ不可能になってきました。

残された資料や映像等出来る限り見るようにしてはいますが、実感が湧いてこない自分がいます。

ただ、想像力を持っている私達は、身近な事として感じることは出来なくとも、同じような辛く悲しい体験をしてはならないという事は解ります。

自宅では無く、病院で亡くなる人は8割近くになり、「死」を見、感じる機会がどんどん減っています。

それは人間に限らず、食用としての家畜も同じで、肉として認識しているだけで、その裏にある殺傷まで想いが至りません。

またペットの可愛い動画や写真を見る機会は沢山ありますが、悪質なブリーダーやペットショップ業者、ペットショップそのもの存在意義を考えたり、捨て猫や犬といったペットの殺傷処分も見たり、考えたりする事はほとんど有りません。

すなわち「死」に対する問いかけや、死ぬという事の在り様を考える機会が無いまま、私達は今日に至っています。

 

死は誰にでも訪れる事です。

本来「死」は自然の法則に従って訪れるものです。

自然の災害による「死」も含まれるでしょう。

が、人間が人間を殺す事で「死」をもたらし、もしくは苦しみや痛みを、当事者だけでなく、関わった全ての人に降りかかる「戦争」という人間だけが作り出せる「罪」は、自然の在り方からは大きく逸脱した決して許されるものでは無く、忘れてはいけないし、考え続ける必要が私達にはあります。

この「罪」は憎しみという更に深い記憶として、人々に何千年に渡る遺恨を植え付けてしまう事になります。

どんな理由があるにせよ、人が人を死に至らしめ、悲しみをまき散らす事は、一番やってはいけない事です。

 

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クリント・イーストウッド((Clinton Eastwood)監督2006年作品の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で描かれていたように、戦争は、味方ばかりに悲しみをもたらすものでは無く、敵となった人も同じ思いをさせる事になります。

そして、何より人間である所以(ゆえん)の尊厳や思いやりを壊し、集団心理と極限状態による普通の人を悪魔のように非人道的な事までさせてしまい、非常に残忍な人を沢山生む事にもなります。

それは、個人の責任でどうにかなるモノでは無く、正義や愛国心という聞こえの良い言葉で片付けられる事ではありません。

 

日本も先の戦争で被害を受け、また与えた国です。

残忍な事をやってきたのも事実です。

事実関係はまだうやむやのまま今日に至っていますが、第二次世界大戦時日本軍731部隊が、中国東北部ハルビンの郊外にある施設で細菌兵器の開発を秘密部隊として存在し、人体実験を行っていたとされ、囚人は頭を丸坊主に刈られ、「マルタ」と呼ばれていたという事です。 

細菌の研究では、主としてペスト菌コレラ菌、パラチフス菌を扱っていて、ノミ爆弾なる細菌兵器も開発していました。(瀬戸物など割れやすい器の中に入れて空から落とす)

1988年に公開された香港映画、『黒い太陽七三一 戦慄!石井七三一細菌部隊の全貌』(黑太陽731、英題:Men Behind The Sun・The Devil 731)も制作されています。


蚤と爆弾 (文春文庫)

私の記憶では学校で習った事は一切ありません。が、ノンフィクション作家の吉村昭著「蚤と爆弾」でその事を知り衝撃を受けました。

 

いくらやってはいけない事の取り決め国際法の批准(ひじゅん)や、条約を結んでも、人間の中の悪魔が顔を出し、必ず騒ぎ出し、反故(ほご)にする人達が出てくるのです。

それは特別な人では無く、ごく普通の人達の中からも現れてきます。

またアメリカのベトナムイラクといった戦争地からの帰還兵にはPTSD心的外傷後ストレス障害)やうつ病が見られ、自殺したり何年も精神的に苦しんだりしている人が多くいます。

それは本人だけでなく、周りの親族にも悲惨な影響を与えているのです。

また日本でも例外では無く2015年安保法制をめぐる衆院の特別委員会で、志位和夫共産党委員長)の質問に答えて政府が認めた発言に「'03~'09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したと認定された隊員は29人。うち4人はイラク派遣が原因だった」「'01~'07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は25人」と報告されているのです。

つまり、インド洋・イラクに派遣された自衛隊員のうち、合わせて54人もの隊員が、自ら命を絶った事実があるのです。

 

戦争を始めれば、家族の歴史は勿論の事、今までの歴史の警告も全てが無駄になってしまうのです。

軍隊にしろ自衛隊にしろ、出来る範囲で透明性を求められるはずです。

何故なら権力を持っている組織である以上、歯止めが必要だからです。

にも関わらず、政府の拡大解釈によって日本では2016年南スーダンPKOに参加し、

自衛隊海外派遣部隊がイラク南スーダンで日報をとりまとめていたにもかかわらず、防衛省自衛隊が日本国民や国会に対してその存在を隠蔽していた一連の疑惑問題があった事も、もう忘れてしまっています。

 

「もし攻められるような事になったら、どうする?」

「そんな甘ちょろい事では無く、考えておかなくてはダメだ」

「現実を見ろ」という人達が沢山いる事も解っています。

現在アメリカでは、日本の核保有容認の話をする人達が出てきています。

トランプ前大統領(否認しているとも発言)や米軍事アナリスト、アンダース・コー博士、フランスの人口歴史学者エマニュエル・トッド氏等。

そして日本の中からも前総理を始め議員からも議論すべきとの声を聞きますし、核シェアリングも含めた、核保有を容認する様な発言、自民党の元首相や一部議員、ジャーナリスト達が増えてきているように感じます。

日本の周辺国は核を持つ国が多いのも確かですし、核の傘が抑止力になっているのかもしれません。

「かも」というのは本当に抑止に繋がっているのかは今の世界情勢を見ても危ういのです。

持たない国は、核の脅しを突き付けられ、同盟国はその脅しに何も出来ない事も解ってきました。

誰も自ら核のボタンを押したくはないでしょうし、緊張状態がずっと続くのです。

 

今の日本の技術力からすると、原料もあり核武装は可能でしょう。

勿論ロケット製造は国産でも開発されてはいますが、もしそうなれば、せかされて顔色をうかがう国ですから廃棄が近い固形燃料型のロケットをアメリカから高く売りつけられるかもしれません。

歴史から見ても、アメリカはしたたかな国で、自国の利益になるよう常に考えているからです。

 

果たして日本はどの方向に行こうとしているのでしょうか?

核の傘にいる事の大切さや重要性を軽々しく発言して欲しいとは思いませんし、何より傘の下という立場での物言えぬ弱腰な姿勢こそ危険なのです。

憲法改正や核三原則や敵基地攻撃を含めた政府の拡大解釈をやる前に考えなければいけない事が沢山あるはずです。

日本が核を持っていない事で逆に信用、信頼されている部分は無いのか?

アメリカの後ろ盾が本当に国益になっているのか?

割高な武器装備を買わされ、軍需産業をもうけさせる意図はないのか?

(例ですがPAC-3パックスリーと言われる迎撃ミサイルは、1発8億円もかかります)

そもそも人殺しの武器製造をこのまましてもいいのでしょうか?

日本でも軍需産業に携わっている企業は、大手も含め沢山存在しています。

戦争というワードがある限り、無くならないでしょうし、世界にマーケットを広げれば、莫大な利益につながるかもしれません。

ウクライナ戦争でもその実態が解るはずです。

他国に日本製の武器を買わせて良いのでしょうか?

ならば殺す武器に「MADE IN JAPAN」と大きく表記すべきです

 

沖縄の基地問題や1995年の沖縄米兵少女暴行事件(この事での地位協定は改善されたが改正では無い)を始め、コロナ対策でも露見した米軍の運用に国内法が適用されない日本の地位協定の見直し、被爆国としての役割等、徹底的に検証し議論を尽くす事を先にやるべきです。

考えれば解る事ですが、友好国、同盟国という側面とその裏にある戦略とは別物であるという事。

そして口先で終わるのか、先頭に立って戦ってくれるのかは、誰にも解りません。

どの国も自国民を優先するのが当たり前ですから。

ただ言えるのは戦争が始まれば必ず全てが終わりになります。

 

アインシュタインの予言として、

「I know not with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones. 」

『何の武器で第三次世界大戦が戦われるのかは知らないが、第四次世界大戦は杖と石で戦われるだろう。』

すなわち、これから起きるかもしれない世界的な大戦後、人類は滅んでいるかもしれないのです。

 

戦争⦅日本の選択⦆(2)へ続く

 

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切なくて

幼少期にはTVのヒーローに憧れ、青年期は実現しそうな映画の主人公やドラマに出てくる主人公に自分の未来を投影させていた。

20代、30代の頃は、それでも夢を追いかけ、実現させる為の余力もあったし、周囲の動向などどうでも良かった。

同年代が次々と就職していく中、髪を伸ばし好きな事をやってきたのだが、自分の理想とする将来像がどんどん遠くに離れる様に感じ始め、と同時に50代以降途方に暮れている自分を想像して落ち込んだものだ。

挫折し、失望し、無力感にさいなまれる。

当たり前だが、一足飛びに自分が理想とする人物や生活様式にはたどり着けない。

だんだんと限界やタイムリミットを設けるようになっていったが、焦りと共にきっとどこかで一変するような期待もあった。

それは、将来の自分の姿を見たくないという逃げだったのかもしれない。

バブル期が終わった事を横目で見ながら、焦りだしたのは言うまでもない。

上を見ても下を見てもキリがない。

普通と言われるような将来を描かなかった私。

何の疑問も持たずにレールの上を進みたくなかったささやかな抵抗だった。

それは、人生や生まれた意味という疑問が常に頭の中にあり、何をやっても見つからず、誰も答えを教えてくれなかったからかもしれない。

何より自分で見つける事が出来ないもどかしさに、大切な時間を使ってしまった。

最近、夢の中に過去に出会った人達が日替わりで出てくる。

起きた途端「あの人とも知り合いだったなぁ」という記憶ぐらいで、ストーリーも無茶苦茶だし、時代も交差している。

しばらくボーっとした後、「そういえば、あの時こうやっておけばよかった」と夢に出てきた人を思い出し、後悔が頭をよぎる様になった。

勿論、自分にとっては会いたくない人も出てくる。

「今の私ならガツンと言えるのになぁ~」等と、これも後悔だ。

考えて見ると、様々な出会いがあった。

自分の人生に関わった人達は、誰一人欠けても今の自分は存在していない。

終わりよければすべて良しという事だろうが、その時々では悩みや苦しみがあり、自身も含め人との関わり合いの難しさに悩んだものだ。

どうしようもない無力感や、焦り

やるせなさに襲われて

答え探しの旅はいつまでか

自分の存在が、あまりに薄っぺらで

厄介な思考は、行き場のない想いを影として

夜な夜な張り付いては、殴りかかるのだ

一体、誰と戦っているのか

自分は、何処にいるのか

自分は、何処にいくのか

空回りする心は

ひたすら誰かを求めている

会いたい

話してみたい

心の空虚を満たすほどの

あなたの言葉の海に溺れたい

切ないこの想いを吐き出して

 

誰でも悩み苦しみ、怒り泣いたりしながら人生を生きています。

大きな存在が、それを上の方から覗き込んでいる様に思うのです。

それは、ただそこにあるだけで、カオスであり調和を保っています。

そう、まるでダンスを踊っている様に。

だからこそ、「生きる事が全てだと」「もっと舞いなさい」と言っている様な気がするのです。

線香花火の様に、人生は一瞬のはかない時間だという事を、なぜ私達は実感できないのでしょうか?

「暑い!暑い!」と叫びながら自分が線香花火である事を忘れ、燃え尽きてしまうだけでしょうか?

見方を変えると、人生は切なく物悲しくもあり、消えて欲しくない名残惜しい花火だと解るはずです。

その気付きこそが、燃え尽きるまでの一瞬の中にある光の雫(しずく)の様な「幸せ」を見せてくれるのです。

 

例外無くこの世の全ての物は壊れ、死を迎えます。

死は新たな誕生の元となります。

大きな存在は、それを見守り誕生に歓喜しているのでしょう。

そして、

「いつ死んでも悔いは無いのかい?」

「やりたい事はやったのかい?」

「言いたい事は伝わったかい?」

「優しくしてあげたかい?」

「自分を見つけたかい?」

 そして

「愛しているよってちゃんと言ったかい?」

と問いかけをしている様に、グルグル地球を回しながらチャンスを与え続けているのかもしれません。

今も時々宇宙(そら)を見上げる度にちっぽけな自分を想い、切なくなってしまうのです。

 

振り返ってみると、「時間が無いよ」と過去の自分に言い聞かせてやりたいと思う時があります。

「なんて時間の無駄遣いをしているんだろう」って。

自分で自分を好きになれなかったり、嫌いになったりと誰にでも一度は抱く感情です。

嫌いなところも好きなところも全て自分だと気付いた時、相手と対等に話せる事もやっと解りました。

どうにもならない感情に悩まされた事も、湧き出てくる苛立ちさえ懐かしく思います。

何か大きな見えない存在に助けを求めている時、それは自分に対して約束をする時かもしれません。

約束を破らないよう見張っていて下さいと。

心の中には

全てがあった

命の秘密も

過去からの声も

無言の指針も

そして

まだ知らぬ可能性も

 

心の中の探求は

寿命という時間を使ってもなお

足りないのだ

気付きという名の明かりを持って

自我を捨て

重荷を落とせ

思っているより

はるかに深い

 

『切なくて』オリジナル曲

youtu.be

 

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