心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

心の中は、空っぽがいい⦅竹に見習う⦆(3)

「自分を信じていますか?」

もしそんな問いかけをすると、ハッキリ「信じている」と断言出来る人は、そう多くはいないかも知れません。

よくスポーツ選手が「自分を信じて頑張ってきました」とインタビューなんかで話していますが、そもそも、「自分を信じる」とはどういう意味なのでしょうか?

 

信じる為には、「自信がある」と言われる「努力が実を結ぶ」の様な未来志向や経験の裏打ちがある事が前提です。

一般的には色々な葛藤を経て、自分自身でやり方や考え方の指針を見つけ、動じない一つの芯が心の中に出来た状態を指すのでしょう。

では、自分に対して自信が無い人とは、どんな人でしょう?

考えると解りますが、まず社会的な地位や財産、学歴等の裏打ちが他人に対して誇れるものでは無い場合も、自信の無さにつながるかもしれません。

その他、容姿や学習、運動機能といった身体に関する事も考えられます。

また、コミュニケーション能力や意思伝達等、他人に対する関わり方が上手くできないという事もあるでしょう。

経験不足で、出来るかどうか解らない場合も考えられます。

これらの自分を信じられない理由が示しているのは、ほぼ誰かと比べる事で起きる感情という事になります。

当然、社会生活を送る上で、誰でも感じる感情で、「他人と比べるな」「自分は自分」と頭では解っていても、どうしても比べてしまうものです。

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「心の中は、空っぽがいい(1~2)」を読んでいただければ理解できると思いますが、自分に対して、自信が有る無しは、実はどうでもいい事なのです。

裏打ちがいくらあっても、時代や環境が変わると、あっという間にひっくり返され、まして世の中のスピードが速い現代は、基準もコロコロ変わるからです。

ファッションやスイーツもすぐに時代遅れになってしまうのと同じ理屈です。

結局、自信も確たる根拠があるとは言えないのです。

冒頭の「自分を信じていますか?」という質問を書いたのは、このような観点から入り、心や自分と向き合うという話ばかりが巷(ちまた)に溢れかえっていて、この視点から入り込むと、答えなんか見つからない事を解ってもらいたかったのです。

別に自分を信じていようがいまいが、どうでもいいですし、信じているなら素晴らしいとも思いますが、何が起きるか解らない明日の自分の事すら、どんな事を考えているのか解らないのです。

夜、寝る前に考えていた事が、翌朝バカな考えをしていたと思うのと同じです。

 

要するに、「心」に対するアプローチ、見つめ、どのようなものなのかを探る作業が、間違っているのです。

自分の事をハッキリと解っている人などいませんし、一日たりともジッとしていない心の事なんか解るわけが無く、まして他人の事などもっと解るわけが無いのです。

だから人によっては禅をしたり瞑想をして、心の動きを見張ったり無の状態を作り出し、自己の探求をしているのです。。

 

「心の中が空っぽ」というと、マイナスなイメージで語られます。

喪失感や絶望感、無気力に自己嫌悪と虚無感の状態を表す状態の事になりますが、実際には心の中が色々なものに占領されて、整理がつかず何をしていいのか解らない状態なのです。

つまり、空っぽではなくパンパンで、身動きが取れない事です

「心の中は、空っぽがいい」

それは、余計なモノを詰め込みすぎて、入る余地が無いという状態や、中に入れるモノをごちゃごちゃかき回して、しかもどんどん入って来る意味のないモノで、整理が追いつかない状態を作らないという事なのです。

よく「想像力」「謙虚」「可能性」「多様性」という言葉をブログ内で書いていますが、前提になるのは、自分を「決めつけない」という事です。

決めつける要因は、世の中に出回っている価値観や常識という、根拠がハッキリしないものに、自分を近づけようとしている所にあります。

協調性は要らないという事ではありません。誰かのコピーになっても意味が無いという事です。

 

このブログで「心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。」

そして例として植物の「竹」の様なものと書きました。

竹の中がいっぱい詰まっていたら重くなり、しなやかさは生まれず簡単に折れてしまうでしょう。

電信柱が中空になっているのは、その理屈からです。

竹の中はカラ「空(くう)」で、心という器にあたる部分である「側(がわ)」「稈(かん)」が支えています。

もし、外側に穴や亀裂が入れば支えられなくなり、倒れてしまうでしょう。

側にあたるものは、人間性、人が従うべき道です。

すなわち「痛みの解る優しさと謙虚さ」 で、進化で獲得した新しい脳が生み出す感情の事です。

難病で入院している子供達や障害を持っている方々、災害や病気で、愛する人との予期せぬ別れを経験した人達などが持っている感情かもしれません。

その他、警察官や消防隊、自衛官の方々の根底に流れているものです。

年齢も経験値から見ると関係しますが、どれほど長生きしても学びの姿勢が無ければ、身につきませんし意味がありません。

歳を取っても理不尽な虚栄を張る人がいる事が、それを物語っています。

 

それらを身に付けていかないと、心に穴や亀裂が入るばかりか、上へ成長する事もままならないのです。

ただただ、時間だけが過ぎていき大きくなるだけで、いつ折れたり腐ったりしてもおかしくないという事です。

大切なのは、人間として元々備わっている人間性「側(がわ)」「稈」をしっかり作り上げていく事なのです。

そこから始めていかないから、迷いや誘惑、おかしな自尊心が絶えず顔を出し、落ち着かないまま不安になってしまうのです。

そして自分探しの為に、誰かを物差しにする羽目になるのです。

 

竹の根は土台に当たるもので、地下茎と言われる土の中で張り巡らされている根です。

その為、しなやかさに加え、地下茎のお陰で強い風でも倒れません。

また、茎同士つながりがある為に、水や養分を手に入れやすくなっています。

すなわち、地下では竹同士が繋がり合い、支え合っているとも言えます。

その土台、根にあたるものは「好奇心」「想像力」「夢」という言わば、知的生物が獲得した源になる力です。

日々、当たり前を良しとせず、疑問をそのままにしない。

そして「なぜ」という好奇心を持ち、「想像力」を働かせて物事を見る目を養うという事です。

この根がどんどん伸びれば、土台もしっかりしていきます。

そして土の中で繋がっている他の「多様性」という竹と共に支え合う事が出来るのです。

言い換えれば人との繋がりが豊かになり、相手あっての自分という捉え方の大切さを意味するのです。

竹は根から水や養分を吸い上げ、側(稈)の中を通る道管や師管と呼ばれる水と養分の通り道の束(維管束鞘いかんそくしょう)を経て大きくなります。

すなわち「多様性」という繋がりによる「想像力」や「可能性」という養分を吸い上げ、成長していく先に、未来という空(そら)に向かって伸びていく姿になるという事です。

 

竹の節の間隔は、下は短く上にいくほど長くなります。

他の樹木と違って、節に分裂組織があり、成長点の数が非常に多いので、節ごとに大きくなっていきます。洗濯機の排水や掃除機のホースの様なジャバラを伸ばすように成長する事が出来るので、大きくなるのも早いのです。

樹木の様に太くもない竹、折れる事が少ないのも、この節の長さが関係しています。

下は、自重を支える為短く、上はしなやかさを持つ為に長いのです。

人間の心に例えても、同じような事が言えます。

成長するに従い、心が大きくなっていきます。

節目節目に積み上げていく心は、次第に広くなっていくのです。

若い時よりも、持ち込む事が減っていき、広さと相まって軽くなり、どんな困難という風にも耐えられるようになっていくという事です。

 

自然は驚くほど巧(たくみ)で、人間もそうあるはずです。

ただ、残念な事に最大の武器である脳を活かしきれないで、現実社会の小さな世界で、もがいてしまっているのです。

重いものをしょい込んだままでは、折れてしまいます。

それも、本当に大切なものかどうかも、よく解らないでしょい込むのです。

心の積み重ねも出来なくなります。

ハウツーで得る様な知識は、所詮知識で、活かすも殺すも土台が、側がしっかりしていなくては、ただの紙屑です。

タケノコのように、生まれたての頃は、土台、側はまだ出来ていません。

タケノコなら掘り出して美味しく食べるだけの話ですが、人間はそうはいきません。

周りの親を含め様々な大人達が「側」の役割をしてくれ、守ってくれますが、大人になるにつれいつまでも守られる事は無くなっていきます。

「側にあたるものは、人間性、人が従うべき道」と書きましたが、幼い頃は、家庭では勿論、幼稚園や学校で、やってはいけない事を習っていきます。

また友達などの関係性から自我が芽生え、他人と自分の区別を理解するようになります。

そして人の嫌がる事をしてはいけない事を学んでいくのですが、同時に他人との比較をする事も学びます。

このブログで何度も書いていますが、人間は誰かの助けなしに生きてはいけません。

毎日の食事から移動、仕事と全て誰かの関りがあって生活しています。

その関わり合いを意識する事は余りありませんが、「いただきます」という言葉の意味が示すように、何気ない毎日に感謝する事であり、それには「謙虚さ」が必要になります。

諂(へつら)ったり、相手を立てたりするという意味では勿論ありません。

一歩引き、相手の立場になれる「想像力」です。

本当の意味での自我の芽生えとも言えるでしょう。

誰でも自他を問わず腹が立ったり不満に思ったりしますが、その様な感情をコントロールする為にも、「側」の役割は大きいのです。

残念ですが、子供のまま大人になった人が増えてきているようです。

民主主義国で、自由な発言が出来る事を盾にして誰かを傷つける人達は、「側」の無い裸の王様と同じで、寂しい限りです。

 

心の中には

全てがある

命の秘密も

過去からの声

無言の指針も

心の中の探求は

寿命という時間

思っているより

はるかに短い

 

全てを否定するわけではありませんが、子供の頃の教育の弊害とも言える、型にはまった人、型通りの事しか考える事が出来ない人を生み出す社会は、どんどん疲弊し活力が無くなり、住みにくいものとなる事でしょう。

何故なら自然は多様性無くしては、滅んでしまいます。

変化に順応する為の多様性が、生き残りのチャンスになるからです。

指標となる物差しも、誰かやモノで決めていくと、おのずと世界は狭まり、息苦しくなるでしょう。

モノに溢れ、どんなに便利になっても、逆に心はどんどん孤立していくかもしれません。

満たされない何かを求め続け、内なるもの、湧きだしてくるものの力を軽んじているからです。

 

重くなってしまった心を一旦(いったん)、

空っぽにしましょう。

私達は、この世に遊びに来ているのですから。

そして、

必ず還る時が来るのですから。

遊んでいる子供達、

きっと頭は空っぽですよ!

 

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孤独と独りは違う!⦅歳を重ねて⦆(2)

人間は、当たり前だが歳を取る。

長生きすればするほど次第に見送る人も多くなる。

ただ、命が長らえるだけの話なら簡単に済むが、生きている意味にも関わってくる事で、人間としてどう生きていけば良いかという事も考えていかなければならない。

 

このブログ「生と死と宗教の狭間(はざま)・前編」でも書いたが、チューブに繋がれたままベッドに横たわる人達を見てきた私は、生きる事とは何かを考える意味で、その事を考える大切さをつくづく痛切した。

とにかく一人で生まれ一人で死んでいく。

生と死の狭間をどう考えて生きていくのか?という事になる。

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最近、生涯現役や健康寿命という言葉をよく耳にするが、元気で、何か目標なるモノを持っている人ばかりではない。

人それぞれの生き方があり、基準やルールがあるわけでも無いし、環境が違うという要素も加わり、さらにお金の問題も大きく生き方に影響する。

日本人の貯蓄率は世界でも常に上位にランクされているが、裏返せば、政府は当てにならないから自己責任で人生を考えろとも言える。

要するに、国の老後設計の政策に対する不信、不安感が高いとも言える。

ただ単純にみんな貯蓄が多いわけでも無く、やはり年収の高い人ほど多く、かなりの開きがある。

 

現代は、私達にとって生きにくい世の中だ。

社会から取り残され、こぼれ落ち見過ごされている人が多くなっている。

親の貧困が、若い人達の不登校や引きこもり、ヤングケアラーに結びついている場合も多く、加えて孤独死と次から次へと問題が浮き彫りになってきている。

痴呆問題や老老介護も、いつ誰がなってもおかしくないのが現状だろう。

 

そして、お金が無いと悲惨な結果になる事も多い。

なにをするにも元手が必要であり、年金も少ない中どうしてよいか、私自身も含め途方に暮れてしまう。

不安ばかりが頭をよぎり、ただでさえ前向きに考えられなくなっている状態に拍車をかける。

先の事を考えると不安になる人達も増えていると聞く。

少ない年金や人生百年で働けと言われても歳がいけば体力も気力も衰えるのは仕方が無い事で、頑張りだけではどうしようもないのだ。

誰でも歳をとり、出来る事も出来ない事も増えていく。

勿論私も例外では無い。

まして貯金も無く病気を抱える私なんか、お先真っ暗状態だ。

 

人の数だけ人生があり、経験や教育もみんな違った人達で構成されている社会。

その社会の中で生きている限り、基本となるモノはどうしても他人との比較になる。

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「孤独と独りは違う!⦅1⦆」で書いたように、独りになりきれない人達が沢山いる。

今、その様な孤独な人達が溢れ、それを埋めるようにペットを飼い、消費し、上辺の美しさにお金をかけている。

心の隙間を埋める為に。

お金があればの話だが。

 

心の話に移るが、身近な人がいなくなるのは、とても寂しい。

冷たい表現になってしまうが、過ごしてきた中で本来当たり前でない事が当たり前のように思っていただけに過ぎない。

すなわち、誰もが死ぬという事実だ。

今の状態がいつまでも続く事は奇跡の連続であり、日々の変化に気付く落ち着いた時間の無さは、

例えば「あなただけ。ずっと想い続ける」と約束し合っても、やがて日常の一コマになり、車窓から流れる景色の様に過ぎていくものになってしまう。

それも、通勤電車から見る景色の様に、次第に外を見る事もやめてしまうという事だ。

人間は、「慣れる」そして「飽きる」だから刺激を求める。

脳が、同じような繰り返しを良しとしないからだ。

ただ、日常生活している中で、刺激のあるような出来事はそうそう起こらない。

サプライズもミラクルも、何度も起きればそうでなくなる理屈と同じだ。

以前にも書いたが、精神を患って以来、人と会うのが億劫になってしまった。

顔見知りならともかく、見知らぬ人に会うと途端気分が落ち込み、喉のあたりを締め付けられる様な感覚になり、頭の後ろ半分がまるで鉛でも詰まっているかの様な辛さを感じる。

ただこの時期息子の進学という事もあり、役所や学校に何度か行かなくてはならないので、その度に薬を飲む間隔(医者の了解の元)も短くなる。

誰かと会わなければいけないと考えるだけで、具合が悪くなるので本当に困ったものだ。

そんな中、数十年ぶりにフィリピンパブで知り合った仲間から、飲み会のお誘いの電話がかかってきて、知り合いだし気分も変わると思い、会う約束をした。

居酒屋で待ち合わせをし、結局私を入れて4人集まったのだが、飲める人は1人だけ。

肝臓を傷めて飲めないとか、健康を考えて禁酒しているとか、アルコール依存症経験者の私も含めウーロン茶で寂しく乾杯をした。

殆ど歳が変わらないメンバー達だが、みんなそれぞれ苦労している中、必死で頑張ってきたようだ。

最初は身体の調子が悪いだの、どこそこが痛いだのと、まるで病院の待合室の様な会話が多かったが、彼らの目は、初めて合った時と変わらず子供っぽく、キラキラしていて束の間だったが、私も若さを取り戻したような気分になった。

職業も経験も全く違う彼らの話は、近況報告と思い出話から始まって、現在の政治情勢や社会の在り方、人生論まで実に幅広く、会話が途切れる事も無く、もう何年もあっていなかった友人達だったが、あっという間の3時間の飲み会となった。

何より健康で生きる事を楽しもうと約束して別れたのだが、最後までキラキラした彼らの目を思い出し、足取りが軽かった帰り道だった。

 

歳をとり、現状を素直に受け止められなくなり、事あるごとにいら立つようになってしまう事があるが、諦めと挫折、後悔や失敗は誰にでもあるし、そこから学ぶか立ち尽くすか、あるいは後戻りするかは個々の選択に過ぎない。

色々な経験をしてきた中で、思うように出来なかった事を糧とせず、常に「運が悪かった」「アイツのせいで」という他力本願的思考の責任探しをどうやら脳はやりたいようだ。

せめて、自分よりも恵まれていない人を見つけ安心したいのかもしれない。

それは、歳を重ねるほどその傾向になるようである。

切れやすい中高年のニュースも多い。

レジでも、お店の店員にも、並んでいても、運転している時もイライラしている中高年者をよく見る。

結局のところ「孤独」なのだ。

自分の存在を、他人に感情をぶつける事で確認したいのかもしれない。

そして、過去の不幸だった自分の人生の事を清算したがる。

マイナス分を取り返すつもりだろうが、さらにマイナスを増やしているだけで、不幸が不幸を招いている事になる。

 

孤独は、物理的なものと精神的なものの二種類あるが、単純には分けられない厄介なモノだ。

相互に絡み合っている事の方が多い。

前述した友人達も、決して裕福でも無く、私的な深刻な問題も多く抱えている。

ただ、彼らに共通している事は孤独では無く、独りでいる姿勢なのだ。

山ほどある課題、目の前にある事をまず片づける姿勢と過去にこだわらない事。

まだ来ない先の心配をしないなど、他力では無く自力で取り組む姿勢が、独りとしての自分を確立しているのだ。

若い時と、歳を重ねた時の孤独の感じ方は違うかもしれないが、生きている事が全てであり、後はおまけという考え方と言ってもいいかもしれない。

 

退職後に途方に暮れる人が多いと聞く。

会社では同僚や部下などとコミュニケーションがあり、人間関係には事欠かないが、退職したその日から話し相手も飲みに行く事も無くなる羽目になり孤独になってしまう。

やたら連れ合いに絡まったり、ペットを飼ったりと色々試すが、孤独のままでいる限り満たされる事は無いだろう。

孤独と独りは全然違う。

 

孤独は徐々に忍び寄るものだ。

奇跡の確率で生まれ、奇跡の様な毎日を生きている事が、当たり前の繰り返しの様に、そして誰かの助けが、繋がりがある事を考えなくなってしまいがちになる事で、孤独が忍び寄って来る。

勿論、身近な人を失くした時は喪失感や孤独感を味わう事になるが、だからと言ってイコール孤独とは言えない。

目の前からは居なくなっただけに過ぎず、心の中に存在している事への気付きが、孤独感をはねのけてくれるからだ。

孤独は客観的に自分を見る事が出来ない人、現実を受け入れる事を素直に認めない人が陥りやすい。

ただ誰にでも起きうる事でもあり、自分の存在を他人を、地位や財産、権力を通してしか自覚できない所から始まるまさに錯覚だ。

そもそも、自分がどんな人間なのかは死ぬまで判らない。

まして第三者からの評価すら、怪しいものなのだ。

どんな人間だったかは、関わった人達の記憶の中に刻まれるだけである。

どんな人間になるかは日々の生活の中で、築いていくものだからだ。

だから普段から○○の○○さんという生き方を変え、自分の廻りにまとわり付いている固定観念や社会的な位置を脱ぎ去る必要がある。

すなわち素の自分って何なのだろうと考える事が大切なのだ。

しかし、答えは死ぬまで出ないだろうが、その探求こそが「独り」への道と言える。

人間は決して一人で生きていける動物では無い。

身近な人に限らず見も知らぬ人達のお陰で生きていける。

私の父がよく言っていた「誰のお陰でメシが食えると思っているんだ!」というセリフ。

昭和のおやじ達がよく言っていた言葉だが、そのおやじ達を支えている人達は、会社の人間だけでは無い事に気付いていないところに不幸がある。

それは、自分という意味付けをやたらしたがる人達に欠けている視点だ。

 

「独り」とは何でも一人でできるという意味では無い。

誰かに助けてもらう事が出来る力を持っている事と、謙虚さをもって生きている事に感謝している人の事だ。

出来る事と出来ない事をハッキリ分けて考える事でもある。

だから過去を振り返る事をあまりしないし、過去の失敗や不幸せを未来に、すなわち明日に持ち込まない。

だからこそ未来の起きてもいない事に煩わされる事も無くなっていく。

同じような景色を違った観点から見られ、新しい事や他人の意見に耳をかせられる柔軟な脳を持っている事だ。

すなわち、学びの姿勢を忘れないという事で、と同時に想像力や楽しい妄想を描ける余裕なのだ。

自分の中に果てしない宇宙を感じる力と言ってもいいかもしれない。

高齢化が進む中、やはり孤独の問題も多くなっている。

一人で住んでいようが、病気を持っていようが孤独では無く、独りとして生きていけられるようにする為には、何度も書くが○○の自分という肩書を捨てる事と、助けを必要とした時に自ら発信する行動力、そして何より、どんな事があっても生きる事に尽きる。

趣味を持つ事や仲間を作る事など、当たり前の様な解決策なんか無視してもいい。

出来る人はとっくにやっているからだ。

ただ、もし力になってもらう事で、生き生きする事が出来るようになるなら、こんなに素晴らしい事は無いだろう。

誰かのチョットしたキッカケを活かせる事が出来れば、心が元気になる事もある。

病気になってしまい、身体が動かなくなるのは誰でも辛いし、その可能性は誰にでもある事で、身体の衰えや健康でないと心も沈んでいくのは事実だが、誰も「心」を縛ってはいないし、自由である。

孤独も独りも環境の問題だけでは無く心の問題として捉えるべきであり、どんなに居心地の良い環境の中にいても、また多くの人達に囲まれていても孤独になってしまう事だってある。

世の中のセレブ達がみんな幸せで孤独で無いなんて誰も思っていないのと同じだ。

病気と闘っている、もしくは障害を抱えている人が孤独であるとは思わない。

誰かの基準で線引きをする事を辞めなければ、心は自由にはならない。

 

誰でも生きている中、何度か孤独感にさいなまされる時がある。

若いうちなら立ち直れる可能性も高いが、歳がいけばいくほど抜け出す事が難しくなる。

新しい事を始める事や環境を変えたくなくなる。

体の衰えも拍車をかけるだろうし、病気だってするだろう

心細くなってしまう事もあるし、意味が無いと落胆する事だってある。

それは、誰もが思う事で、特別な事では無いごく普通の感情だ。

でも、それは自分の選択の結果であり、誰のせいでも無い事を今一度考えるべきだ。

残された時間、それまで歩んできた道を振り返るよりも、例え遅くともまっすぐ前を向いて歩み続けたい。

生きてきたんだ

記憶が多く積み重なり

だから

一輪の花からさえ

物語を紡げる

雨の匂いからさえ

遠い過去に戻れる

時間の流れは

その気付きの為にあり

死の恐れさえ和らぐ

 

これまで生きてきた自身の記憶は、たった一輪の花からでさえ多くの物語を引き出す事が出来る為のものであり、日々の生活の中に隠れていた幸せを感じる為でもある。

変わらない景色や日常を、考え方や見方を変える事で孤独から解放されるだろう。

但し、気付きが無いと折角人生で学び、経験した事も無駄になってしまう。

「気付き」それは謙虚さから生まれてくるものだ。

出会ってきた多くの人達や取り囲む自然に対する、生かせてくれた事への謙虚な心持とも言えよう。

死んでからは決して出来ない事であり、今すぐ必要な心の持ち方なのだ。

誰かの為、見知らぬ人でもいい、その為に時間を作る事、自分を捨てられる時間こそが孤独から解放される。

その事が、その誰かの中にあなた自身が生かされ、その人の人生の一部になる。

所詮人間は、一人で生まれ一人で死んでいく。

足掻(あが)いても、後悔しても、過去に縛られても必ず死んでいくのだ。

誰かのせいにしても元に戻るわけなど無い。

ならば、「独り」を楽しむ方がずっといい!

 

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若者達へのメッセージ⦅幸せになれ⦆(3)

これから先、若い人達はどんな勉強をし、どの様な生き方をすれば、自身を含め人類全体が幸せに暮らしていけるのか、残念ながら現状を鑑(かんが)みて私にはなかなか想像する事ができない。

政治情勢も不安定な国が多く、エネルギーや食糧の問題も今までずっと先送りしてきたからだ。

災害も、温暖化の影響も含め、規模も大きくなっていて、陸地の面積や森などの自然環境も徐々に減ってきている。

人間が作り出した物質が自然界に与える影響も問題視され始め、各国の諸問題に対する温度差が地球全体の課題にも関わらず一律では無い。

 

科学者を含めた専門家たちの研究や開発も目まぐるしいものがあるが、良くも悪くも各分野の細分化が進み、ある分野に特化した人達ばかりになって、まとめ役がいないという事だ。

全体像を見て先を予測し、専門家をまとめ、動かせる人がいなくなってきていると思う。

それらの事は、この星の未来に対する指針をどう取っていくかという事に繋がる。

 

さて、個々の事を考えてみよう。

独裁主義国家や専制国家では、情報も限られ、プロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為)的な事も起き、個々の行動に制限がかかり監視され、選択肢が少なくなる代わりに、自分達で考え行動する必要が無い。

そういう意味では、日本も同じような状態かもしれないと思う時がある。

政府のやる事に、文句を言いながらも従順すぎるぐらいに従っている。

1960年の安保闘争を始め、1968年~ 1970年にかけ学生運動が盛り上がっていたが、良し悪しは別として今では考えられない事となってしまった。

諦めか、慣れなのか、はたまた変えたくないのか解らないが、民主主義とは程遠いという事も付け加えておきたい。

民主主義の特に先進国では、余りにも情報量が多すぎて選択する事さえ大変な中、自分にとって何が必要で、何がいらないのかの基準すら解らなくなっている人達で溢れかえっている。

まして、自分の事で精一杯な状態で、日本いや世界に対してどうアプローチ出来るか等、考える事の余裕もないかもしれない。

 

人それぞれの価値観があり、その中で自分なりの人生や幸せを構築していくのだが、その価値観そのものを自分で見つける事をせず、色眼鏡で集めた情報で決めているように思うのは私だけだろうか?

「幸せは、こうすればつかめる」「いつまでも若く健康でいる為にやる事」「為になる名言」

「お金持ちになる方法」「やってはいけない○○」「人付き合いの方法」など上げたらキリがないほど溢れかえっている誰かの経験を、プロセス無しに短絡的に真に受け、イザやってみたところで上手くいくはずがない。

まして、簡単にポチっと押すだけでの情報選択は、脳も含め身体を動かすプロセスを踏まず、簡単にできるので、分ったつもりになっていたとしても、身についていない。

自分の置かれた立場や境遇に責任を取らせるのは簡単だ。

いつも誰かのせいにすれば、気持ちも楽になる。

が、それは一時的なものでどんなに大声で叫んでも耳を貸す人等ほとんどいないのが現状なのだ。

自分自身と、ちゃんと向き合ってきたか?問わなければいけない時が必ず来る。

そして、その時が遅くなればなるほど、立ち直りに苦労するものだ。

遅くまでたむろしたり、お酒をしこたま飲んだりするのもたまにはいいかもしれないが、人や境遇のせい、すなわち責任の所在を自分以外に求めての行動なら、すぐ辞める事だ。

「若さ」はエネルギーに溢れ、可能性に満ちている。

自ら振り返ってみても、一晩中遊んでも、ムチャ飲みしても翌日辛かったが、ちゃんと仕事はしていた。

細胞分裂が盛んで、どんどん垢として疲れが取れていく様に思ったものだが、振り返ってみると、その様な時間はあっという間だった様に今は感じている。

自ら動かないで、ブツブツ文句を言うのは歳がいけばいくらでも出来るものなのだ。

誰もが幸せになりたいと思っているはずだ。

それがどんな形のものかは人それぞれで、やりたい仕事に就く事や夢を叶える事、お金持ちになる事や結婚など、人の数だけあるだろう。

でも、それは「目的」であって幸せでは無い。

見たり聞いたりしたことの記憶によって、目的が幸せをもたらすものだと勘違いしているのだ。

確かに、夢を叶えたり仕事がうまくいった時には高揚感をもたらすだろうし、幸せだと思うかもしれない。

自分を高めていく事は素晴らしい事だし、目標のハードルを上げる事もいい経験になる。

自分に厳しくする事も、忍耐力を養う上でとても大切だと思う。

ただそれは同時にその後、更に次の目的を作っていかなくてはならない。

何故なら、脳は満足しないで更に新たな刺激を求めるからだ。

「諦めろ」という事では無い。

小さな目標を積み重ね、大きな夢を叶える人も多い。

ただ、皆がみんな出来る事でも無いのも事実なのだ。

 

例え、目標が叶ったとしても、いずれは壁にぶち当たったり、焦ったりと満足感は消えていく。

恋愛もよく似ていて、好きな相手が付き合ってくれる事になった時は、天にも昇る気持ちになるものだ。

でも、その時の気持ちはずっとは続かない。

「あんなに幸せだったのに、何処に行った?」

そう、過ぎていった事や慣れてしまった事、当たり前のようになってしまった事が「幸せ」を見逃しているだけなのだ。

よく、「初心に戻れ」という言葉を聞くと思うが、気持ちを新たにし、まるで初めて行うかのように心を一旦白紙に戻す事を意味する。

好きな相手に接する時も、うんざりするような一日の始まりも、まるで初めての様に思えればしめたものだ

 

誰かの成功体験をまねた所で、決して満足感は得られないし、その通りにはいかない。

ある番組で、今の文明生活とは無縁な先住民にこんな質問をしていた。

「生きる意味は?」

答えは「死ぬためだ」

そう、人は必ず死ぬ。

死ぬ為に生きるという事は、「死」をただ待っているという事では無く、永遠の命などは無く「死」が訪れる事を意識すれば、やるべきことを先延ばしにしないという意味だ。

このブログで何度も書いているが、生まれて死ぬまで、人生は「苦」がベースになっている。

まず、人生が「苦」である事を前提に考えるべきなのだ

辛い話かもしれなが、人生バラ色なんて嘘なのだ。

始めから楽で楽しい人生を期待する事自体滑稽で、その方法を見つけようとしている事自体、見方を誤っている。

若い人達は情報に敏感で、新しい事に興味を持つ事を得意としているが、その膨大な情報量の割に偽や思惑、すなわち誰かの「欲」が隠れている方が多い。

それを鵜呑みにして、取り込んでしまう事の危険性を解っていない若者が、どんどん広めてしまうという悪循環がある事を、よく考えてもらいたい。

占いや短期間でお金を…というサイトに結局多額のお金をつぎ込み、後悔している人達が沢山いるが、何をするにも簡単にいくはずが無いのだ。

 

例えば「幸せ」はこうやれば手に入れられる。こんな事をすれば「幸せ」にはなれない、という決めつけや結論ありきの情報を信じてしまい、自分を責めたり奮起させようするのだが、そんな法則があれば、この世界は幸せな人で溢れかえっているはずだ。

まして運命を変える事や幸せをつかむ方法が本当にあれば、教えて欲しいくらいだ。

苦の中で見い出す幸せの意味は自分自身が感じるもので、感じられる力が無ければ、例え幸せな状態だったとしても、本人は気付けない事になる。

 

前半で書いた世界情勢を考えて見ても、決して楽観視できる状態では無いが、自分の廻りの世界ばかりに囚われて生きていくと、結局個人個人の幸せの追求をしても得るものが無い事になってしまう。

何故なら、人類という共通の動物の集合体の中で、私達は生きていけるからだ。

 

人との出会いや偶然がその後の生き方に大きく影響を及ぼすのは理解していると思うが、キッカケは誰にでも訪れる。が、受け入れる準備が出来ていないと、折角のチャンスも見逃してしまう。

すなわち、自分という人間がどんな人間として生きていくのかを模索し続けていく事だ。

自分が何者で、何が出来るかの模索の連続と言っていいかもしれない。

諦めや面倒くさいという言葉を吐かない事だ。

好きな事をやり続けるのも、本を読んだり映画を観たりする事でもいいから、自ら行動し、そこから得る力を信じる事だ。

 

過去を見ず

今を感じず

先を否定する

人生は瞬間の選択の枝分かれ

そのキッカケは

学びという名のドミノ

この世のものは

無駄なものなど

何もない

その全てが師であり

教えそのものだ

 

身の回りのミクロと世界というマクロの中で、私達は生きている。

バタフライエフェクトという言葉を耳にしたことがあると思うが、

「蝶の羽ばたきが地球の裏側で竜巻を引き起こす」

すなわち小さな変化が時間の経過とともに大きな変化になるという意味で、

バタフライ効果」とも呼ばれているが、自分の事を考える事の大切さは結局、世界に対して時に大きな影響をもたらす事もあるという事で、多くの人間の中の「一人」では無く、一人一人の集まりが「世界」を作っているという考えになる。

この様な事は、人間の歴史の中でも実際に起きてきた事だ。

 

すなわち、些細な出来事であっても、さまざまの要因が複雑に絡み合って、世の中を揺り動かす可能性があり、予測できないカオスの中で私達は日々生きているという事なのだ。

その「気付き」を知っているかどうかで、生き方も変わって来る。

それは、「可能性」であり「想像力」とも言える。

だからこそ、若い人達に諦めて欲しくないのだ。

「大きな事をやってくれ」「変革して」と言っている訳では無い。

他人と比べたり、同じ方向から見たりする事を考え直して欲しい。

何気ない、あなたのチョットした素敵な行動が世界を動かす事を想像して欲しいのだ。

道端のゴミを拾う事だって、困っている人を助ける事だって、それが分かれ道かもしれないのだ。

そして、

たった一人でもいいから誰かを幸せな気持ちにしてあげて欲しい

幸せは、誰かを通して伝わるもので、分け合えば増幅される。

その為には、何度も書くが幸せを感じる力が無いとダメなのだ

幸せを求める視点から入らない事。

目的達成=幸せでは無いし、逆に「幸せ」は見方や感じ方でいつでも見つける事が出来る。

自分が幸せと思った瞬間を逃さないように、丁寧に生きる事に尽きる。

 

「In order to learn something, there is no better way than to experience it yourself.」

『何かを学ぶためには、自分で体験する以上にいい方法はない。』

アインシュタインの言葉より

kenpa.blue

 

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日本の選択⦅選挙に行くべし⦆

参議院選挙が始まる。

選挙が行われる度公約が出されるが、まるで小学生の将来なりたい夢の寄せ書きの様に映るには私だけであろうか?

物価高も含めた家計の圧迫、経済活性化、安全保障政策、憲法改正が主な争点という事だ。

関心が高いのは医療福祉関連と経済雇用対策となっているようだが、ウクライナの事もあり、憲法改正を含めた安全保障問題も、関心が高いと各メディアは報じている。

 

総務省によると、令和元年7月の参議院議員通常選挙では、10歳代が32.28%、20歳代が30.96%、30歳代が38.78%(全年代を通じた投票率は48.80%)

やはり若年層の割合が低い結果となっている。

 

各党も有権者を取り込む目算がある為か、生活に直結した問題や戦争による食料やエネルギーの国家危機を訴えているようだが、視点を変えて見ていかなければ、後々大変な事になる。

心地よい言葉に酔わされてはいけないという事だ。

主権を持っているのは私達国民であり、政治家はその僕(しもべ)である事を改めて考えて欲しい。

国民の生活を守り、社会保障を充実させる。

すなわち安全な国でライフラインを維持し、国民がいかなる状況になっても、人間の尊厳を持ち続けられる社会を維持する為に働く人達の事である。

 

考えてもらいたいのは、限られた予算の中で、以上のような事にどれだけのお金を使うのか?

近い将来に対するビジョン「見る」「 見通す 」力を持っているのか?

世界の中でのこの国の立ち位置を明確にする事がちゃんと出来るのか?

という視点で政党を選んで欲しい。

 

例えば年金問題でも社会保険庁、今の厚労省が過去にグリーンピアと言われていた、年金福祉事業団が施設を整備して建設された大きな規模の年金保養施設を作り、採算が合わずに赤字になり、売却や取り壊しになった事や、2004年の政治家の年金未納問題、2007年の社会保険庁職員や地方自治体職員による年金横領問題等、もうほとんどの人が忘れているし、今の若い世代はその事すら知らない。

またGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による資産運用をご存じの方もいると思うが、この仕組みは、現在年金を受け取っている人と直接関係している事では無い。

過去に現役世代が、年金生活者よりも多くいた時代にその余剰分としてプールされたお金を運用している。

グリーンピアも同じ理屈で無駄遣いされ、「運用実績が悪くなっても、長期で見れば大丈夫。年金は安心してよい」と、ぬけぬけ発言しているに過ぎない。

すなわち年金を払っている現役世代のお金を年金生活者に回している事に変わりない。

勿論穴埋めとしての役割もしてはいるが、運用実績が悪くなれば仕方がないで終わり、誰も責任をとらないのだ。

だから少子化で、年金受給を遅らせたり、75歳まで納めても良いとするしかないのだ。

問題のすり替えを政治家たちは言葉巧みにやり、問題点を洗い出さずに、過去の過ちを認めない人が非常に多い。

過去の無駄遣いが無ければ、どれほど現役世代の負担が減るのか考えてみるいい機会だ。

 

国民主権という事をもう一度考える必要がある。

それは、自分にとってどんな国に住みたいのかという事でもある。

このブログでいつも書いているが、過去から学ぶ事を重視する事無く、目先の事ばかりに、やっつけ仕事の様な問題先送りの政策で判断してはいけないという事だ。

 

例えば、日本は放射能に関し辛く痛ましい経験をしてきた国である。

唯一の被爆国であり、原発汚染に今なお苦しんでいる国に住んでいる事を忘れてはならない。

世界に対して核兵器を廃絶する先頭に立って、平和の大切さを訴えなければいけない使命がある。

私自身、広島や長崎にも行き資料館を観てきたが、前もって知っていた知識での同じ過ちを犯させないという軽い気持ちが、まるで恥ずかしくなるほどの衝撃だった。

こんな愚かな事は、人間のする事では無いのだ。

 

また、戦争も経験し、その非人道的な歴史を学んできたはずである。

世界は、勿論日々情勢が変わっていくが、悲劇を繰り返さない事を芯に議論を尽くすべきで、まるで煽(あお)るような切羽詰まった様な言動を丸呑みする事が本当に正しいのか?

相手に合わせて、もしくは同盟国と称して言われるままの政策を取り続ける事が果たして良い事なのか?

自分ならどうすべきかという視点で考えなければならない。

防衛費もまず増額ありきの政策で、何をしようとしているのか具体策すら見い出せない。

隣国による海侵犯や脅し、ミサイル発射による漁業等への打撃も、当事者の方々には深刻な問題であろう。

ただそれと、防衛費の増額を一緒に考える事は危険で短絡しすぎる。

例えば、あなたがナイフを買うとする。

料理の為かキャンプの為か用途に合わせて予算を組み、店に行くだろう。

アーミーナイフもついでに買っておこうとは思わないはずだ。

まして、泥棒用に金属バットや長包丁までと考えが及ぶだろうか?

しかし今の政府の考えはそうでは無く、何を買うのかは決めていないが、とりあえず泥棒に入られると困るので、備えのお金だけは用意しておこうという事だ。

アメリカという銃を持った警察がいるにはいるが、俺たちの作った武器で予め武装しろと言い値で、あれこれと指南してくる状態だ。

そして最も危険な発想は、家の鍵を強化するのではなく、何に使うか解らない人殺し道具をそろえ、監視カメラ映像に映った泥棒の家に行き、焼き払う事もやってはいいのではないかという考え方をし始めているのだ。

そしてその裏では、何年も前から泥棒に水源となるような土地や山林、ビルを買われている事すら気にもしていないのだ。

 

もう一つ例を挙げてみよう。

農林水産省によると、食品ロス量の推計を行い、公表しているが、令和元年度の食品ロス量は570万トン)、このうち事業系食品ロス量は309万トン)、家庭系食品ロス量は261万トンに及んでいる。

すなわち日本の最新(2021年)の人口は、1億2550万2000人という事で、赤ちゃんも含め一人当たり年間約45キロも無駄にしている事になるのだ。

先の東京五輪でも食材廃棄が問題になったが、もう皆忘れているのだ。

私達が大切にしてきた「もったいない」という精神や「いただきます」「ご馳走様」からは、かけ離れた生活をしている事にもっと目を向けるべき事で、輸入に頼ってきた今までの政策のツケを払っているのだ。

 

経済についても考えてもらいたい。

デジタル庁が発足したが、今さらという感はぬぐえない。

未だにフロッピーデスクでデータのやり取りをしている自治体や町工場ではセキュリティー更新が終わったウインドウズ95を使っている所も沢山ある。

大手自動車メーカーの部品供給会社がサイバー攻撃で操業を一時ストップした事は記憶に新しいが、大企業にばかり目をやっている政府の認識の甘さと言ってもよい。

今に始まった事では無いからだ。

一応セキュリティー対策として国も安い価格で機器等の設置を促してはいるが、まだ数パーセントに満たない。

危機感がまるで感じられないのが私の感想だ。

日本は、全企業数に占める中小企業の割合99%以上で、全労働人口に占める中小企業労働者の割合は70%以上で、大企業ばかりに目を向けた国民に対するメッセージが多すぎるのだ。

テレワークやリモート会議も含め、賃金や雇用形態など大手企業ばかりが話題になってはいないだろうか?

加えて、育児休業など子育てに関する事も、中小企業まで浸透していないのが現状だ。

中小企業中心に新しい雇用形態や賃金の適正化を主導してこなかった政府の責任は重い。

頭脳流出と言われるような事まで起き、低賃金で若い人達の働く意欲さえ湧かない中で、いくら少子化対策をしたところで意味が無い。

今日(こんにち)に至るまで、政府は何をやって来たのであろうか?

 

ただそんな中でも日本の産業は、世界に誇れるものが沢山ある。

戦後を支えていたこれらの中小企業は、今でも素晴らしい技術力を持っている。

匠と言われるような人もどんどん生み出してきた。

水産物や畜産も、ブランド化されるほどの素晴らしいモノを生み出してきている。

それは関わる人達の時間と絶え間ない努力の結晶である。

その他、物理や宇宙探査、鉄道、工作機器を作るマザーマシンからネジまで、日本製は信頼を得ている。

これほどの力があるにも関わらず、低賃金で働き、お上の言う通り働く日本人。

もっと声を出してもいいはずだ。

 

税金で報酬を受け取っている政治家の責任は重いはずだ。

故に問題が起きれば、責任を取るのがスジであるが、この国は誰も責任を取らない。

自殺者まで出した改ざん問題やお花見もお咎め無しという有り様だ。

何故、このような事が罷(まか)り通るのか理解に苦しむ。

 

国民皆保険で安心な国。

何時でも誰でも医療が受けられるこの国で、医療を受けられず自宅待機で日々亡くなっていく人達を横目に、女性蔑視発言やイジメ問題で関係者が辞めたいわくつきの福島復興五輪と称し、一兆四千億もかけてオリンピックをやる国に住んでいるのだ。

それも今後も続く膨大な維持費は含まれていないのに、多額のお金を使ってレガシーという訳の解らない言葉で濁している。

そのお金で、どれほどの貧困者や中小企業を救えたであろうか?考えて、検証する必要はないのか?

五輪開催で福島の方の想いは伝わったのか?

 

更に問題なのは、立候補者の女性割合や若い人の少なさだ。

若さやその「性」でしか解らない事、見る視点が違うはずである。

他国では、若い女性が首相になり国を引っ張っているのを見るとうらやましい。

男ばかりの、しかも二世三世といった人達ばかりでは、あまりにも庶民感覚からズレた発想しか出てこない。

また立候補するにも世界でも高いとされる供託金や女性や若年といった偏見やハラスメントの壁があり、新しい血が入りにくい制度が未だに整備されていない。

現職や縁故に頼る議員の為と疑われても仕方が無いのだ。

 

前述の主権は国民であるという事を、自分がこの国をどんな国にしたいのかという視点を絶対に忘れてはいけない。

戦後、どこの国の人達も自衛隊は殺してはいない。

そして国内、海外問わず人命の為に労力を惜しまず頑張ってくれている。

他国の災害に対しても、また技術やインフラも人命を第一に協力してきたからこそ、G7の中で唯一のアジア圏の国という立場でいられる。

時の首相や政府の力ではなく、民間も含めた信頼を世界から得てきたからの地位なのだ。

たかが一票だがされど大きな一票に変わりない。

「頼まれたから」「選ぶ人がいないから」「面倒くさい」「関心が無い」の言い訳は、折角手に入れた民主主義の放棄と同じである。

過去の事を都合よく忘れる様な国民ばかりではないと、態度を示すのも選挙の大きな役割である。

まだまだ日本が国内外問わずやれることは沢山あるし、その知恵を持った人達も頑張っている。

というより日本がやらなければいけない使命が、運命的にあるような気がしてならない。

〇〇組合や〇〇組織、○○宗派等の制約を自ら放棄し、自分で判断し選んで欲しい。

個々の利益に結びつくような安易な考えで、政治家を選んではいけないのだ。

何故ならこの先、日本の行方を決める夢を語れる政治家が、色々な知恵を出せる性差や年齢で判断しない政治家が必要なのだ。

そしてちゃんと責任を取れる大人の政治家を選びたいものだ。

25歳以上の税金を納めている男性という制約の中、明治時代から始まった選挙制度

昭和20年になってやっと満20歳以上の女性にも選挙権が与えられた。

そして現在18歳以上の日本国籍の方が誰でも行使できるようになった選挙権。

悔しい思いをしてきた人達に想いを馳せながら、

是非投票所に行って欲しい!

 

 

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想像力は未来に⦅次のステップへ⦆(3)

想像力は、子供ならみんな持っています。

オモチャで遊ぶ時も、友達と話す時も、想像力全開で挑んでいるのです。

大人になるにつれ、忘れてしまう想像力の素晴らしさやその力は、大人にこそ今必要なモノなのです。

何故なら、未来である子供達を、居場所である地球を守らなければいけないからです。



街角で見る点字ブロックに自転車やモノを置いたままにする人。

駅のホームの点字ブロックの上に、スマートフォンを見ながら立っている事で、視覚障害者を危険にさらしている事。

スマートフォンを見ながら音楽を聴き、その結果、踏切で亡くなってしまった悲惨な出来事。

人や自転車とぶつかって、怪我や死亡事故を招いている事。

歩行中、急に立ち止まったり、バッグの存在を意識せず、ぶつけてしまう人。

信号無視や飲酒等、お構いなしにキックボードで走る人。

 

出す日を無視し、分別しないまま出しているゴミ。

回収に来る人達、それを運び、分別しどのように処理されるかなんて考えもしない。

風で飛ばされたビニール袋が、海洋生物にどんな影響を及ぼすのかなんて考えもしない。

ポイ捨てタバコやゴミが火災の原因や排水溝を詰まらせ、流されて海を汚す事。

助けてと言えない子供を虐待したり、放置したり。

自己満足の為に、執拗に煽り運転をする輩(やから)

どの様な結果になるか想像も出来ない人達が、周り廻って自分に跳ね返ってくることすら想像もしないし考えもしない。

 

何処かで繋がっている人達に対する、想像力欠如から迷惑をかけている事を考えない人達。

優しさや、心遣いは「想像力」の生み出す魔法のようなもので、幸せになれる自分に対する一番の近道なのに。

やっていい事と悪い事は、あなたがその行為を見てられる?か、平気でいられるか?で判断できる。

しかし、その判断をする自分に「想像力」が無いとしたら、どう判断すればいいのだろうか?

 

相変わらず差別やヘイトの話が毎日の様にニュースで流れている。

児童虐待育児放棄、イジメと、そんなニュースを目にする度、「なぜ?」と思う。

どうすれば、その様な残酷な、人間とも思えない事が出来るのか?私には本当に分からない。

在日外国人に対するヘイトも、ウクライナ戦争が始まってよく耳にするようになった。

人はなぜこんなにも残酷な事が出来るのだろうか?

この地球上で厚かましく、無礼で、生きている事の意味を疎(おろそ)かにする動物は人間だけだ。

 

人間は、進化の過程で素晴らしい脳を手にした。

kenpa.blue

このブログ「人間、生物は、なぜ存在しているのか?」でも書いたが、生き抜く為の人間脳を手に入れたおかげで、これほどまでも繁栄したのだ。

 

脳の進化で生き延びた生物がなぜ同類を殺し、蔑(さげす)み、差別やイジメ、ルールを守らないのであろうか?

人間は一人では生きていけない動物であり、共感や共鳴をしながら助け合ってこそ知恵が生まれ、記録する事で未来にも伝えられる、地球上で唯一の次元を超えられる生物である。

もう一度書くが、次元を超えられる動物は人間だけだ

いい加減、古い脳を捨てて次の段階に行くべき時なのかもしれない。

何故なら、地球自体が人間に対し、いや生物全体に対して「もう少し考えないと住まわせてあげないよ!」と言っているように感じはしないだろか?

そう、地球は人間がやってきた事を記憶しているのかもしれない

地球は大きな磁石である事はご存じであろう。

そのおかげで宇宙線太陽風からの人体に有害な物質から守られているのだが、その磁場(北を向く磁石が南を指す現象)が過去360万年の間に11回も逆転し、最後の磁気逆転の時期は約77万年前と報告されている(ウイキペディアより)事をご存知でしょうか?

その逆転も急に変わるのではなく、ゆっくりと何年もかかる。

地表に対する影響は詳しくは解ってはいないが、雲が増え、日射量の減少や太陽からの宇宙線の増加などがあるとされている。

その他、隕石の衝突の可能性もあり、回避するほどの技術はまだ確立していない。(米航空宇宙局NASAが、ロケットをぶつけ、軌道を変える実験を始めています)

また、温暖化の話も度々ニュースになるが、環境省によると21世紀末(2081年~2100年)の世界の平均気温は、2.6~4.8℃上昇、厳しい温暖化対策をとった場合でも0.3~1.7℃上昇する可能性が高くなり、さらに、氷河の融解等の影響で平均海面水位は、最大82cm上昇する可能性が高いと予測されている。

すなわち、国土を失う可能性の国も出るという、いや既に始まっている事なのだ。

当然、農作物の影響や気温の上昇や異常気象の頻度も高くなるだろう。

 

昭和の頃は、「暑い暑い」と言いながらカキ氷を食べながらうちわで過ごしていたが、どうにかなったものだ。

おまけに当時は運動中に水を飲むなと教育されていた。

そして鉄でできた扇風機の登場で最高の涼を与えてくれたものだ。

ところが、現在はクーラー無しでは死んでしまう可能性まで出てきた。

余談だが、当時の扇風機は危なくて、子供が誤って指を無くす事例も多かった。

私の小学生の同級生も指が3本無かった事を今でもよく覚えている。

 

人間が地球の変化を感じるのは、徐々にであり、知りえる予測はあくまでも過去の事例とデータによるシュミレーションで、未だ間近の地震さえ何時何処で起きるのか?予測できないほど自然は何をするのか解らない。

自然災害にしても、その兆候の様な熱波や規模の大きな台風や竜巻がニュースで報じられるように、何かがおかしくなっている。

冒頭で書いた想像力の無さが、例え小さな事でも積み重なれば大きくなるのは当然だ。

人類存続の為、地球に負荷をかけてきた上、一人一人の小さな想像力の無さから生まれる資源の無駄使い。

にも関わらず戦争や権力争い、差別に時間とお金をかけている愚かしい行為が行われている地球は、銀河系を含む宇宙の中で存在する太陽からの距離や大きさ、傾きや自転の早さ等、様々な奇跡的な重なり合いの星だという事を考えて欲しい。

憎んで殺してやりたいと思う

更に、生んだ親をも

守っている民族をも

育てた国にも

そしてずっと遡(さかのぼ)り

たどり着いた憎むべき相手は

アフリカに降り立った一人のアダムになった

そう

同じ血が流れていたんだ

だから、もうよそう

そんな風に

思える日が来る時が

本当の人間の進化だろう

 

旅人が訪れた場所で親切にされたり優しさを感じると、その国全体を優し所と思う気持ちが生まれる。

自分の立場を相手に置き換える力を持って生まれた人間。

おのずと答えは出てくるはずである。

 

有史以来、人類は宗教というくくりの無い「神」を生み出してきた。

自然に対する畏敬の念や自然あっての存在であるという謙虚さが、色々な神として祀(まつ)られ、祈り、伝承し続けてきたのだ。

日本でも、「罰が当たる」とよく言われるが、宗教を抜きにして語られる言葉だ。

落ちている花を踏んづけたりしない事や、鳥居が書かれている所で、立小便をしてはいけなくなる気持ちと同じであろう。

地球という惑星が起こす災いや災害は、人類をまとめる、結束させる為のものでは無いであろうか?

人間同士の争いなんかやめて次のステップに進め!と言っている様な気がする。

想像力はその為に人間に持たされた力であり、人類が生き残る為に何をすべきか知恵を出し合い、次世代に希望を与える力だ。

もはや、国や民族、宗教や人種、性差などにこだわっている暇など無いのだ。

そして、その一歩は小さな事から始まる。

想像力をもって、お互いに助け合う事や自然との共存の為に今出来る事は何か?

その積み重ねであり、その過程無くして答えは決して出ないだろう。

 

幾千万の星が夜を駆け巡り

過去の光で地球を覆う

無駄なものは無く

摂理と謙虚さで満ち溢れている

人間の存在など塵にも満たない

けれども

それを見上げ

心惹かれる人間の存在は

何よりも捨てがたい

いずれ星の一部となる時が来る

誰かが見上げるその為に

 

「Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow. The important thing is not to stop questioning.」

『昨日(過去)から学び、今日のために生き、明日(未来)に対して希望をもつ。大切なことは、疑問、質問を持ち続ける事。』

アインシュタインの言葉より。

 

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外国人労働者の受入れ(2)

外国人労働者を安易に受け入れてはいけないのです。

弊害は日本人そのものにも影響してきます。

3Kと言われる仕事を始め、低賃金での働き手ばかりが増える事で、給料も上がらないうえ、今でも見かける様な、根拠も自制心無い、無教養な排他主義民族主義者の輩(やから)が、ヘイトや差別を助長するでしょう。

外国人労働者を安い労働力、いやモノとして扱うと、結局日本人の評価、すなわち国際的信用も落ちる上、賃金も上がらない事になってしまうのです。

何より、知らぬ間に自分の心を傷つけているのです

ブログを書いているので、他のサイトもよく閲覧しますが、とんでもない事を書いているブログも、たくさん目にします。こんな例がありました。

情報元の明記も曖昧で、しかも、いくら調べても裏が取れないものでした。

「タレントの8割が混血です。もう狂いまくっています。混血が悪いのか?悪いんです。必ず滅びるのです。歴史が伝えています。また混血が先行する南アメリカの劣化度で分かります。(中略) ダーウインは混血させたら駄目だと言ってるのです。ダーウインフインチなど絶対に混血したら死ぬのです。同じ様にイグワナに陸と海があるけどコレも混血は駄目なんです。生存に勝てなくなるのです。黒人と混血したら駄目なんです。……」

 

明らかに差別発言と思われる、裏打ちの無い記事には、「どうやったら、そこまで考えが至る様になったのか」同じ人間として、理解できないのです。

怒りより悲しくなってしまいます。

この手の話を信じ、広める人が増えているかもしれません。本当に悲しい事です。

もしハーフの私の息子が、妻が何かされることにならないか、それを考えると恐怖さえおぼえます。

その時は、どんな事をしても守るつもりですが。

 

にもかかわらず、未だに鎖国の様な外国人受け入れの少なさや、在日外国人や仮放免された人達に対する、対応のひどさは、この国がどのような未来を描いているのか、不安になってしまうのです。

何故なら、最強のパスポート(ビザ無しで渡航出来る国の多さ)を持つ日本人であっても、外国に行けば異邦人であり、何かのトラブルに遭う可能性もあるのですが、その時に前述の様な扱いを受けるとしたら?

もし日本政府が助けてくれなかったら?

自己責任?

世界で起きている、様々な紛争や戦争も、民族間の対立であったり、宗教の違いであったりと、自分達と異なる文化を排除する勝手な解釈が元になっている事が多い事でも解ります。

そして、その犠牲になるのは、いつも弱い立場の一般市民、子供達です。

 

この事は、弱い立場、物言えぬ人達に対する差別やイジメと同じ構図で、自分の不幸を、誰かの責任にする卑劣なやり方で、現在進行形の話でもある深刻な問題なのです。

これは単なる個人だけの問題では無く、全ての企業に当てはまる事で、対応を間違えると企業として生き延びていけなくなる時代になっている事を、経営者は肝に銘じて欲しいものです。

 

現在、フィリピンパブは激減しました。興行(芸能)ビザという枠でフィリピンからの入国が殆ど出来ないからです。

他国、主にアメリカから2004年『人身売買に関する年次報告書(英語版)』の中で、日本が人身売買容認国として名指しされ「性的搾取による人身売買であり、被害者である外国人女性を全く保護していない」と報告書で批判しました。

結局2006年頃からほぼビザが下りなくなり、査証審査や関連業者に厳しくなったのです。

私の妻も含め、当時彼女達は、ダンサーや歌手といった通称芸能ビザで入国し、お店と同じビル内にある、一室に数十人がたこ部屋の様に詰め込まれて、ゴキブリと、そのフンがウヨウヨしているその部屋で、6ヶ月ほぼ休みなしで働いていました。

(妻の場合は一月に一回の休み)もし6ヶ月休みなしで働けと言われたら、働けますか?

彼女達と親しくなってから、住んでいる所に入らせてもらった(内緒)のですが、あまりのひどさに絶句しました。

そして、エージェントと呼ばれる人達の事や、マージンなどの搾取の事も知りました。

当時は悪質な業者も多く、彼女達からも知り合いの話として、休み無しの労働や、賃金未払の事も聞いたのです。

それが、直接的な原因ばかりではありませんが、フィリピン人が逃げ出し不法滞在や偽装結婚などの問題が増えていきました。

裏には、食い物にする日本人が必ず絡んでいたのです。

偽装結婚した相手の日本人に毎月、数万円~数十万円を支払って滞ると、脅しをかけてくる輩(やから)もいました。

そんな仕組みや考え方が残念ながら、少なからず存在しているのです。

最近も知り合いの人の会社の事ですが、ベトナム人が研修生の枠で来日し、働いているのですが、繁忙期は、朝9時から夜9時まで働いているのです。

この会社はまだ、法律を守っているマシな会社という事ですが、昼休み以降15分程度の休憩しかなく、若い彼女達でもクタクタになるそうで、有給制度もあるのですが、制限を掛けられたり、言い出せなかったりと、自由に取れない現状だと話していたそうです。

何人も、日本人も含め働いてはすぐ辞める様な、過酷な仕事らしく、どうしても会社としては、外国人に頼る事になっているそうです。

勿論、彼女達は来日前に100万ほどの借金をして来ている事に変わりありません。

来日する発展途上国を中心とした国からの外国の人達を苦しめている事に、他人事としては決していけないのです。

 

この国は一体何を目指し、何をやろうとしているのでしょうか?

そもそも移民にもかなり消極的な政府であり、入国管理庁での外国人に対する扱いも、うやむやにする国なのです。

領土問題、避難民、北朝鮮による拉致問題アフガニスタンからのアメリカの撤退に伴う自国民や家族、協力者の保護など、とても信頼できる国には映りません。

勿論、自衛隊の位置づけや憲法の問題といった事情があるのも解りますが、それにしても、この国の国民に対する発信力の弱さは、目を覆うばかりです。

他国の人権侵害に対する取り組みも、この国が自由主義国なのか?と疑うような対応なのです。

外国人であろうと、日本人であろうと、そしてLGBTQの人であろうとも同じ赤い血の流れる人間です。

優劣も、血筋も、肌の色も、人間としての線引きに使う事を絶対にしてはならないのです。

そして、金儲けや欲、排他主義の為に人間の権利を侵す人達や組織を放置しては、必ずしっぺ返しが待っているでしょう。

誰でも法に守られ、自由に、何処でも出かけ、自由に発言出来き、働けば相応の報酬をもらうという当たり前の世の中は、少なくとも自由主義国のこの国にいる限り、例え外国人であろうと、容姿や性別を問わず保証されているはずです。

 

誰かの犠牲の上に成り立つような社会なら、それは見せかけの社会であり、保証も安心も無いたわ言の様なもので、同じ思いをいつか私達も味わう事になるのです。

同じ過ちを繰り返さないようにする事。

それは歴史を見れば、学べば一目瞭然で、多様性を失い、排他的な、不寛容な社会は、いずれまた過ちを繰り返すでしょう。

ヨーロッパ諸国に見られる移民政策やその事による失業、抗議やデモを見れば解る事です。

外国人を受け入れるなと書いているのではありません。

受け容れるなら、日本人と同等の権利や保証を整え、特に子供達の教育環境も含め、差別や格差を無くしてから、受け入れるべきです。

 

今多くのウクライナの方が来日をしています。

ニュースやSNSでしか情報は解りませんが、自治体を始め、ボランティアや一般市民が一生懸命助けようと動いている事に、同じ日本人として嬉しく、誇りに思いますが、一方で金銭的な問題や就労や、子供の学校や教育等、問題が徐々に浮き彫りになってきているのも事実です。

それは、外国人受け入れをやってこなかった経験不足や、地方自治体や個人や民間任せのほったらかしの政策を続けてきた政府のツケの表れとも言えます。

既に書いたように、外国人が住みだしたのはここ最近の事ではありません。

戦前、戦後から、在日の方々が暮らしていますし、戦中孤児と言われるような方々もいます。

その人達に対し、政府は、私達は正面からちゃんと向き合ってきたのでしょうか?

その方々の背景をちゃんと理解してきたのでしょうか?

どんな想いで祖国を離れ、日本で暮らし、子供を養ってい来たのか?

彼らは日本に対するどんな想いを次の世代に伝えてきたのでしょうか?

 

外国人も当たり前ですが人間です。

入国後色々な経験をし、自分の未来を考え残りたい人も出てくるかもしれませんし、子供が生まれたり、家族を呼び寄せたくなったりと、考えが変わっていくのは当然の事と言えます。単なる人手不足解消の為に外国人を受け入れ、ビザの期限が来たらハイ終わりという訳にいく事でしょうか?

私自身何度も書いていますが、外国人労働者の受け入れを反対している訳では無く、むしろ日本で幸せに暮らしていけるのなら、受け入れるべきだと思っています。

何故なら、新しい違った価値観を持った人達が増える事は、国の発展には欠かせないからです。

何より、同じ人間だからです。

勿論、世界で一番歴史が長いこの国の素晴らしい良い所を残しつつ、変わっていかなければいけない時期だと思うからです。

 

世界は、常に争いが何処かで続いており、本来、幸せの為に使うお金を殺人兵器につぎ込んでいるのが現実です。

武器を持って対抗する事は、無理だと本当は皆解っているのです。

戦争になれば、ルールなんか無視する事は、過去の事を調べれば解る事ですし、何より戦争体験者の言葉が物語っています。

ミサイルを撃ち込まれて、迎撃、撃ち落とせる確率も残念ながら年々の技術革新で無理になっています。

どれほど、軍事力を強化し、核を手にしたところで誰も幸せになる事など無く、むしろ自分達の首を絞める事になるだけです。

妻の国フィリピンでは、銃を持つ事は勿論許可制ですが、闇でいくらでも手に入る状況で、犯罪にも銃がよく使われます。

警官による犯罪も多く、銃による拉致や銃撃事件も発生しています。

アメリカの例を出すまでもなく銃がある事による防衛よりも攻撃、すなわち殺人に使われ、尊い命が奪われています。

越えてはいけない線引きがあり、理屈や思想を持ち出し、何かの誰かの利益になるような危険な線を越えてしまうと、決して元には戻れないのです。

 

戦争が始まれば、それはすべてが終わる事を意味するのです。

何より日本を標的にさせないような外交、話し合いでしか方法はありません。

それが、日本の役割であり運命だと思います。

 

何故、四季のある自然豊かな温暖な島国に位置し、様々な災害が起きる試練を自然は与えてきたのでしょうか?

そして災害が起きる度に、結束し誰もが優しさを与え、前向きに進んできたのでしょう?

国の真ん中に一つの山だけ突出し、あんなにも高くそびえ立ち、私達を引き付けるのはなぜでしょうか?

何故、夜も女性は独り歩きしていても、駅のホームや路上で酔っぱらって寝込んでも危害を与えられずに済むのでしょうか?

何故落とした財布が高い確率で返ってくるのでしょうか?

警察官が銃を持っていても、ちっとも怖くないのはなぜでしょう?

例え一円でも交番に子供が届ければ、ちゃんと書類を作ってくれ、「いい事をしたね」と警察官や大人達は褒めるのでしょう?

宗教が違っていても、何も気にならないのはなぜでしょう?

クリスマスやハロウィン、初詣にお参りと何のこだわりもなく受け入れているのはなぜでしょう?

それは、この国を取り巻く自然が、先祖たちに知恵を授け受け継いできたからです。

宗教や民族というような小さなくくりではなく、自然という大きな世界感を感じ取ってきたからです。

日本における民族のルーツをたどれば、近年のDNA研究でいくつもの血が混じっており、単一民族では無いという事も解ってきています。

(起源はアフリカなので、結局同じ種族ですけどね)

すなわち、血の繋がり云々(うんぬん)ではなく、この国で育ちながら自然が授けてくれた謙虚さや豊かな心を教えてこられているからです。

 

そして次の段階にきているのです。

この日本に住んでいる誇りを外国人というくくりではなく、世界中の人達に広める時なのです。

 

フィリピン国籍の妻は日本で暮らして、10年以上たちますが、選挙権はありません。

日本国籍を取ればいい」そうかもしれませんが、家族が暮らす生まれた国に対する想いは、なかなか私が考える以上に思い入れがあり、死ぬ時は祖国でと考えているようです。

ただ選挙がある時などは、もしできるなら参加したいとは言っていましたが……。

外国人による、政治介入という観点からの選挙権を与えないという考え方は理解しているつもりですが、だからこそ、日本人が、社会の中で埋もれがちな、外国籍の人達の事を考えなくてはいけないと思うのです。

 

そして在日外国人に対する、差別や偏見も未だに後を絶たない状況です。

彼らの母国の政治家や体制が即、在日の人達の考えだと短絡的に結び付けてしまう愚かさ。

問題は、外国人本人の問題では無いのに、嫌がらせやヘイトなどをする心の醜さと狭さ。

SNSでの攻撃や器物破損、嫌がらせなど、良識ある人間がする事ではありません。

さらに、見ぬふりをしたり、無関心でいたりと、これも間接的な差別や偏見と同一視されてもおかしくない事なのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタインもこう残しています。

「The world is a dangerous place, not because of those who do evil, but because of those who look on and do nothing.」

『この世は危険なところだ。悪いことをする人がいるためではなく、それを見ながら、何もしない人がいるためだ』

 

SNSの心無い投稿や器物を壊され、それでも日本が好きだと言っている人達の涙。

昼間から、ショッピングモールで遊んでいるクルドの子供達の目に、この国はどう映っているのでしょう?

 

どうか子供達に、このような事実がある事を教えてあげて下さい。

もし、外国の方と話す機会があれば話してみて下さい。

身近な人と少しでもいいですから、このような現実があるという事を話す機会を作って下さい。

それは、未来を担う子供達の選択ではなく、今生きている、私達大人の選択にかかっているのです。

外国の方が、日本を選んでよかったと思ってくれる国でありたいものです。

そして、その想いがどんどん広がっていく事を願っています。

そんな想いが沢山集まれば、共有出来れば、

日本が世界を平和にできるという夢も叶える事が出来るはずです。

そして残された時間があまり無い事も。

 

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外国人労働者の受入れ(1)

私がフィリピン人の妻と結婚したのは、フィリピンの首都マニラのすぐ横にあるケソン市という所です。

ビザの関係もあり、現地で結婚し、日本人の妻としてビザを発給してもらい、来日という段取りでした。

結婚式は、裁判所内の市民登録事務局で裁判官の格好をした人(誰なのかよく解らなかった(笑))の前で宣誓するという形でした。

まず、結婚を証明する書類にサイン(日本人だからハンコを押せと言われ、シャチハタのハンコを押した(笑))

牧師さんの言った言葉の後に続けて話し、指輪を交換するという映画でよく見るシーンと同じで、全てが英語なので、非常に緊張した事しか覚えていません。

学校の一クラスぐらいの部屋で、4組のカップルの内の一組でした。

立ち会ってくれたのは、フィリピンパブで親しくなり、妻や私の妹の様な存在の友人と、妻の母と姉だけでした。

あっという間に終わり、何処かのレストランに行き、パーティーが始まりました。

どこの誰だか、妻も知らない人まで飲み食いするおおらかさで、数万円しかかかっていなかっただけはよく覚えています。

私は、結婚の事を家族に話もしていませんでしたので、事後報告という形でした。

私が小さい頃から、外国人という事に偏見を持っていた母親だったのも理由の一つです。

結婚する為には、当時フィリピンに2週間滞在が義務で、数千円のホテル暮らし。

朝早くから熱い国なので、すぐ横でのビル工事が始まり、ガーガーと音を立てるクーラーと相まって、よく眠れなかった2週間でした。

費用は渡航費も含め20万円ぐらいだったと記憶しています。

まあ、はるかに日本で式を挙げるよりも安かったのです。

先に私が帰国し、妻の日本のビザが下りるまで半年も待たされました。

その間、何度もラブレターを交わしたのも良い思い出です。

 

妻の日本人配偶者ビザを発給してもらう為には、沢山の書類と時間がかかるのです。

偽装結婚を防止する目的だったようですが、付き合っていた事実証明、例えば写真や手紙を提出しなくてはならないのです。

彼女は、フィリピンパブで、恋愛していた時期も半年働き、半年後にまた日本に戻るという生活だったので、手紙も何通にもなっていました。

入国管理局(当時の名称)に提出する書類は、原本と日本語に訳したものが必要で、手紙から何から何まで、書類を翻訳する為、辞書と格闘しながら書いていました。

代行業者もあるのですが、数十万円もかかり、当時の私にはとても払える金額では無かったからです。

結婚の宣誓をしても、実感が無かった私でしたが、彼女が日本に来て一緒に暮らし始めて、やっと結婚という重みを感じました。

日本人である私が、彼女を守らなければ、この国では何もできないと解っていましたし、遠くから、バカな私を信じ、来てくれた事に答えなければいけないと思っていたからです。

今でも、私の事を支え、頑張っている彼女は、フィリピンで過ごした時間よりも日本での時間が長くなって、それでも、日本人特有の本音を出さないという人達を相手に、日々仕事に、家事に、子育てに頑張ってくれています。

ほぼ8~9割が離婚すると言われている国際結婚。

何組も私の周りでも、離婚したカップルがいます。

原因の多くは、やはり経済的な理由、お金の事です。

フィリピン人の多くは、出稼ぎで外貨を得て暮らしています。

フィリピンパブで働いて、稼いだそのほとんどを、フィリピンの家族の為に使うお金で、結婚したからと言って、終わりでは無いのです。

ですから、その事で日本人の夫とイザコザが起き、離婚してしまうのです。

離婚すると、子供が日本国籍を持っている事で、ビザを持ち続ける事は出来ますが、ほとんど別れた相手からの養育費を貰っていない人ばかりです。

生活困窮者となる家庭も多いのが現状なのです。

中には、「フィリピンに帰れば」という人もいますが、子供の教育やさらなる貧困に陥る事を考えると、簡単にはいかない事情があるのです。

勿論、日本以外の様々な国に出稼ぎに出ていっています。

香港や中南米、中東諸国等は、主に家政婦として。

たまにニュースで見ると事があると思いますが、日本の大型船の船員として働いている人達も大勢います。

1年以上家族の元に帰れない事もあるようです。

大抵の場合給料は安く、国によっては暴力やレイプなど悲惨な目に会う事も珍しくありません。

やはり日本は安全な国という事で認知されています。

 

日本政府は、少子化や人手不足という事もあり、外国人労働者を受け入れようとしていますが、ニュースでご覧になった方もいらっしゃるように、一部(全てではありませんが)の日本人による、搾取や暴行が問題になっています。

特に、後進国と呼ばれている様なアジア諸国からの、労働者、留学生や研修生は、多額の借金を背おわされて来日します。

これは仲介するエージェンシーという存在があるからで、そこを通さないと、日本に来ることはまず無理だからです。

どういう訳か、先進国、特に白人に対しては、そのあたりが緩いのです。

国内逃亡、不法滞在の心配が少ないのが理由かもしれませんが、未だに納得出来ません。

安い労働力目当てで、またキツイ、汚い、危険という、いわゆる3Kに人材を求める為なら、そして安価な労働力として受け入れをするなら絶対にやってはいけない事なのです。

と同時に、お金の為に彼らが来日しているという事実から目を背けてはいけないのです。

どの様に働き、まっとうな報酬を得る事が出来るのか?考えているのです。

そこに、抜け道を作り、弱みに付け込み利用している日本人の存在がある事と、それをどうすればなくせるかを、行政は真剣に取り組まなければいけないのです。

中間マージンを取る業者を無くすか、審査を厳しくし、体裁だけの日本語学校や個人も含めた、悪質な企業を排除しない限り、お互いに信頼関係が無くなるばかりか、人生を狂わす卑劣な仕打ちをしてしまう事になりかねないからです。

安心、安全な国として日本を選んでくれた外国人の人達。

念願が叶いやっとの事で来日しても、劣悪な、悪質なそれらの日本の扱いによって、逆に不法滞在も増え、結果、悲しい事に犯罪に手を出さざる得えない人を、この国が作り出しているのです。

ですからニュースで見る外国人の犯罪の裏に様々な不合理があり、犯した者が悪いのは当たり前ですが、犯罪に至る過程にもっと焦点を当てて報道してもらいたいのです。

例えば、記憶に新しい岡山市の建設会社で働いていたベトナム人技能実習生が、日本人従業員による暴行の被害を訴えていた問題で露見した通り、「岡山産業技術協同組合」は、企業と外国人労働者(実習生とは程遠い扱いが多い)の仲介をしたり、問題が起きれば解決に手を差し伸べる業務を行う機関ですが、実際はまったく機能していない実態が露見し、その監督機関の法人「外国人技能実習機構」という機関も何の役にも立っていなかった事が解りました。

この問題は、労働組合「福山ユニオンたんぽぽ」が訴えた事で解った事ですが、もし彼らが手を差し伸べていなかったらと思うと、ゾッとします。

ただこの事件は氷山の一角に過ぎず、泣き寝入りしている人はもっと多くいると思われます。

公的機関がいかに機能していないか解る事案でした。

監査や検査が入る事を事前に知らせたり、上辺だけなぞって終わりという事例を過去、私も職場で何度も見てきました。

残念な事にそれは、色々な職場で見てきた事であり、公的機関の必要性を全く感じなかったばかりか、時間と税金の無駄だと強く感じました。

子供の虐待事件が起きる度に、言い訳する役所の体質と何ら変わっていません。

抜き打ち検査や査察、聞き取りなど、人の命がかかっている事をもっと真剣に考えてもらいたいのです。

そして、責任を取る立場の人間を明確にして、事件等が起きれば責任を取らせなければ、いつまでたっても、うやむやのままです。

もう30数年前の話ですが、派遣で大手の製造会社で働いていました。

冷蔵庫を作るコンベアー作業員としてです。

その会社には、タイからの研修生が多く働いており、歳が近い事もあり仲良くなりました。

言葉は中々通じませんでしたが、同じ派遣の同僚がタイ好きで、タイ語が話せる事で仕事後も彼らの寮でタイのインスタントラーメンを食べながら、いろんな話をしました。

そんな中で彼らは「なぜ同じ仕事をしているのに社員と同じ給料をもらえないのか?」と質問してきました。

同じ質問を社員にもしたらしく答えは「研修生だから」と言われたそうです。

私は後日、その大手会社社員にそれとなく、タイ人の給料の事を聞くと「安く使えるし、彼らの母国水準に合わせているから」との事でした。

当時、タイの物価は日本の半分以下で、彼らの給与も10万円ぐらいだったと記憶しています。

今から考えるとおかしな事で、結局人件費を安くする事が目的だったという訳です。

もうその会社は、業績悪化になり外国資本に頼る事となり、社名は日本語ですが、残念ながら日本企業では無くなってしまいました。

別の話ですが、以前勤めていた会社が3.11震災の影響で業績不振に陥り、「今後残業代は出せません」と言われました。

ひどい時は朝8時半から夜中の2時まで働いていたのです。

小さな町工場でしたが、家族用の奥さんが使用するでかい車に、若社長自身が仕事には必要のない大型免許をとる為(免許制度が変わる事と、将来何かあった時の為らしい)に教習所に通ったりと、削れる経費はいくらでもあったのにも関わらずの発言に、私を含め3人の従業員は不満を抱いておりました。

勿論仕事が減って大変だから、工夫して乗り越えようと話し合っていましたし、先代の社長に世話になった事もあり、一時的に給料が減るのも仕方がないとは思っていましたが、それ以降何の方針や、説明もなく社長に対する不信感が募るばかりでした。

私はその発言後、タイムカードをコピーする事を始め、資産売却しても影響のないモノの写真を撮ったりして、数カ月後労働監督署に告発し、辞表を提出しました。

誰が報告したかすぐ判るような職場での仕事の継続はムリと考えたからです。

「従業員を大切にしない会社は、絶対につぶれる」と言いながら辞表を社長に渡しました。

結果、監査が入り残業代や退職金全てを取り返す事が出来ました。

その後、2人もやめ、仲の良かった出入りのトラック運転手に聞くと廃業寸前という事でした。

もしこのようなケースが、外国で労働している時に起きたらおそらく私には何も出来なかったでしょう。

 

もう一つの例として、建設会社で働いていた外国人がいます。

彼には二人の娘さんと奥さんがいますが、いずれも外国籍です。

上の娘さんは日本人と結婚した為、配偶者ビザで日本での生活は可能です。

そんな状況の中、旦那さんが就業中脳梗塞で倒れ、仕事が出来なくなってしまいました。

彼ら家族は働き先からの就業ビザで滞在し何年も日本で生活してきました。

ただ、当たり前ですが病気で働けない状態ではビザ延長はムリですし、もしビザ延長手続きをすると、会社としても責任問題となり、社長も心を痛めておりましたが断念せざるを得ない状況でした。

さらに追い打ちをかけるように、奥さんに骨の癌が見つかりました。

保険適用でも、医療費を払える状態ではありません。

生活保護も視野に入れましたが、受給は原則日本国籍者であり、例外として適応するような日本人の配偶者、永住者、定住者等に該当しないので、滞在ビザ日数が迫っており、母国に帰る方法しか選択肢がありません。

長年日本で暮らしていた家族、母国には家も仕事も無いのです。

要するに、母国で何もしないで死ぬのを待つという選択です。

制度に伴う規則や法律がある事は当然の事ですし、法治国家として当たり前ですが、ただ、そこからこぼれ落ちる人達がいる事を、辛い立場にいる人達の事を知る必要があると思います。

人道上や歴史的背景から、一部外国籍の方も生活保護を受給してはいますが、彼らに対する風当たりも強く、中には「税金を使いやがって」とか「国に帰れ」という意見をいう人も沢山いますが、単に国際法に無知な人の発信による、悪意に満ちた偏見が多いのも事実です。

勿論、悪用している人もいるでしょうが、それは日本人にも言える事です。

 

人間ですから、事故にあったり、病気になったりと何が起きるかは誰にも判らないのです。

そして、それらの不運は、何処でいつ、国籍やビザの有る無しを問わずに起きうる事柄です。

私達が住んでいるこの国は、自由主義国であり、先進国という立場で国際的にも高い評価を得ている国です。

最近でも世界経済フォーラムで世界117の国と地域の観光競争力をランキングした「Travel & Tourism Development Index 2021」を発表し、日本は一位でした。

日本の治安の良さもトップクラスです。

そんなこの国が、世界、特にアジア圏に対する貢献出来る事はまだまだ沢山あり、それが結果的には、武力を使わない防衛という選択になりうるのです。

それは、単に観光客だけでなく、日本に来られ、働いたり住んでいる人全員に対する、国として、日本人としての資質を問われる事でもあり、自分達の国や生活の事ばかり考える事は、もはや時代遅れの過去に学ばない愚かな考えであり、同時にこの国の防衛も含めた未来を考える上でも大切な岐路の選択でもあります。

と同時に、お金の為に彼らが来日しているという事実から目を背けてはいけないのです。

どの様に働き、まっとうな報酬を得る事が出来るのか?考えているのです。

そこに、抜け道を作り、弱みに付け込み利用している日本人の存在がある事と、それをどうすればなくせるかを、行政は真剣に取り組まなければいけないのです。

中間マージンを取る業者を無くすか、審査を厳しくし、体裁だけの日本語学校や個人も含めた、悪質な企業を排除しない限り、お互いに信頼関係が無くなるばかりか、人生を狂わす卑劣な仕打ちをしてしまう事になりかねないからです。

外国人を受け入れるという事は、安易な考えの下に出来る事では無いのです。

国の制度の充実も大切ですが、私達一個人の、日本人としての意識改革が無ければ、本当の意味での新自由主義などの実現は不可能でしょう。

ただそれが理想としても、少しでも前に進む事が出来れば、この国を愛してくれる外国人が増え、防衛や経済にも大きな支えになる事になるのです。

 

次回につづく!

 

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