心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

宗教とは?⦅囚われるな⦆(3)

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聖典や教典と呼ばれる書物は、マスター達が直接書いたものではありません。

弟子達が、のちに記したものです。

すなわち、弟子達のフィルターを通しての言葉です。

マスターが、本当に伝えたかった言葉とは限らないのです。

なぜ、同じマスターからの言葉が、様々な宗派に別れたかを考えれば、判る事です。

言葉や言語の解釈の仕方や、聞き間違え、そして力や権力が解釈を曲げてきたのです。

まるで、伝言ゲームのように。

マスター達は、それぞれやり方は違えど、同じ教えをされてきました。

 

最近、家のポストに宗教関係のチラシが入っているので、読んでみると二極化の事ばかり書いてあります。

信じればこんな良い事があり、信じなければ、こんな恐ろしい事が待っていると、遠回しに伝聞で書かれた本からの例を引用して「だから信じなさい」と言わんばかりに書いてあります。

SNSでも、言葉の羅列のように一方的に神の御言葉として、今起きていいる事や、今後起きるであろう事をあらかじめ決められた筋書きのように書かれています。

そして、最後は信じる者が救われると。

信じる者が救われるとしたら、「いつ」でしょうか?

どの神や仏が救うのでしょう?

歴史に残る様々な布教と争いの下、亡くなっていった人々が多くいますが、これから救われる為に何人の犠牲が必要なのでしょう?

そこに、ありもしない「天国」や「地獄」を持ち込んで、死後の世界での「救い」を作り出しているのか?

はたまた「復活」の言葉によるものなのか?

私にはどうしても理解できないのです。

 

宗教は、残念ながら形骸化しています。

毎日のルーティン(routine、決まりきった仕事、慣例、手順)の様に、形や型に囚われて、本来の教えが生きて伝わっているとは思えません。

人生の中で色々な節目の時に宗教は関わってきます。

そのほとんどが、宗教の教えを意識して行ってはいません。

法事や法要を仏教で、七五三という神事、教会で結婚式をあげ、ハロウィンやクリスマスを楽しみ、初詣に神社に行き、様々な神様の元で願い事や誓いをしています。

文化として取り入れ、日本に溶け込んだその様な行事は、ある意味宗教という枠に縛られない良さでもあります。

外国では、政治や法律まで宗教が幅を利かせ、差別や暴動、紛争と、国のかじ取りの上で避けられない事で、その為に多大な費用や時間を費やされています。

その点からも、日本はその様な問題にあまり時間や費用を取られる事なく、経済に専念する事が出来たのです。

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私の妻の国、フィリピンでは、スペイン植民地時代に広まった90%以上を占めるキリスト教国で、カトリックが82.9%(カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占めています。(2000年調査)

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妻は、偶像崇拝キリスト像やマリア像等を礼拝すること)のカトリックとして洗礼を受けました。 

洗礼する事は、住民登録の役割も果たしているのですが、

ハーフ、例えばフィリピンに置き去りにされた日本人との子供や極貧生活者、

精神疾患、障害を持っている方、その他様々な人が洗礼を受けない、もしくは受けられない人達も沢山いて、国自体、国民の把握がちゃんとできていないのです。

 

彼女の父親は同じクリスチャンですが偶像崇拝をしないプロテスタント派でした。

彼女は幼い頃より、父親の教えを守って育てられるのですが、服装や髪の制約がとても嫌だったと話してくれました。

例えば髪は切ってはいけないと言われ、虱(しらみ)の多い生活環境での長い髪が辛くて仕方なかった事や教会には必ず白い服を着る事など、父親(プロテスタント)が絶対という社会での反抗できない気持ちを話してくれました。

ですから家族の中でも、小さな宗教対立があったようです。

国の法律もキリスト教をメインに作られている為、様々な問題があったようです。

強姦や無理やりの性交でも中絶できない事や、浮気や暴力を振るわれても離婚出来ないといった制約が、多くの女性たちを追い詰めているのでした。

日本と違い、治安が非常に悪い国の中で、身近に常にある問題なのです。

 

ただ、忠実にキリスト教に基づく法律を守っている人ばかりでなく、

堕胎をする為、薬草を飲んだり、木から飛び降りたりする人も多く、

時には、麻薬常習者にお金を払い(日本円で1~2万)暴力をふるう夫を殺害してもらう事もあるのです。

それは、珍しい事では無い、日常にどこでもあるケースでもあるのです。

フィリピンで人気のある教会の前には、沢山の小さな店が立ち並び、まるで浅草の様ににぎわっています。

日常製品や食品を売っているお店以外に、シャーマンと言われる呪術師や占い師のコーナーがあったり、堕胎する為や生理の調整の為の薬草の販売もしているのです。

教会の前にです。

 

フィリピンの人々は宗教というくくりの中で、生きていく為の危険なカケもしている訳です。

法律を破ると、逮捕され2~3年の裁判や刑務所送りになる可能性があるからです。

逮捕以前に、殺されてしまう恐れもあるのです。

おおらかな国民性の裏に、宗教によっての制約で苦しむ人達が大勢いる事と、違法性を承知で、殺人依頼や、貧しい環境での呪術師頼みの病気治療といった選択しか出来ない裏の部分が同居しているのです。

それでも、国民は神を信じ、教会に足を運んでいるのです。

また、LGBT等、性的マイノリティの人達の存在を認めていない宗教下で、TVや俳優としての地位を確立しているという矛盾というか、おおらかさもあるのです。

日本に住んでいる私達には、考えられない世界が、今でも存在しています。

 


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妻は幼い頃から、ゴミ山スモーキーマウンテンで、プラスティックを拾ったり、路上でビニール袋を売って生計を支えてきました。

食事も満足に食べられなく、それこそ塩だけの味付けで米を食べていた事もあったそうです。

何度も、このような辛い現実に対する耐え方を神様に、聞いていたそうです。

勿論、答えも無く、救いも得られませんでした。

 

彼女が私の妻となり、日本で暮らしている今、もう教会には行っていません。

彼女は息子にも洗礼をさせませんでした。

それは、私の影響もありますが、彼女なりに宗教の在り方に疑問を持ったようです。

前述のように形骸化された、ルーティンの様なあり方に意味を見い出せなくなったようです。

私の両親は仏教徒でしたので、たまに宗教について話す事がありますが、聖書の教えを否定しているのではなく、その先にある神(聖書)やキリスト、ブッダの教えの本質が同じであるという事を、彼女なりに理解しているようで、祈りも教会や、キリスト像に向かってするのが祈りではなく、何処にいても、どんな時でも祈る事が出来ると話していました。

それと同時に、彼女の中にある「神」の概念も大きく変わったようです。

それは、人間的な神様では無い、もっと大きな存在のようなモノとしてです。

 

彼女に「祈りはお願いするものでは無く、約束するものじゃないかな?」と話すと、

「今はそう思う事が出来る」と言いました。

過酷な生活を強いられた、フィリピンでの生活の中では、

神の存在無くしては、耐えられない気持ちも私には分かります。

ただ日本で、のほほんと暮らしていた私には、彼女の苦労や大変さを全部理解する事は、残念ながら出来ません。

ですから決して、彼女の宗教感を否定する事は、言いませんでしたし、逆に聞きたかったほどでした。

 

日本国憲法第20条で、信教の自由と政教分離原則がうたわれている日本。

宗教が、政治に介入する事をさせなかった事は、日本にとって良かった事です。

フィリピンの様に植民地にされたことが無かった事も、おおきな理由の一つかもしれません。

 

布教する事が目的ではないはずです。

何故なら、布教せよと書かれたものは、キリストやブッダの弟子達の書物であり、元々彼ら本人が書いたものではありません。

また、布教によって理を得ようとした可能性も高いのです。

例えば、宗教には戒律のようなものがありますが、(マスターは書いてはいません)布教する為に、どんどんハードルを下げ、守らなくても良いという妥協もしてきました。

根拠が無いのです。

枝分かれの様に宗派が出来たのも、マスター達の教えではなく、解釈や都合や権力等、全く教えとは関係のない所から始まっているのです。

そして、「私達の信じるモノが正しい」と言い争っているだけです。

だから、形骸化されてしまったのでしょう。

信じる者に目的を持たせる事で、組織が維持しやすいからです。

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宗教を、学校に例えると解りやすいと思います。

文部科学省の教育の目的や方針に沿って、学習指導要領が決められ、教科書選定を教育委員会や校長が決め、各学校の教育内容になります。

 

まずマスター達の発した言葉を、弟子達の経験も踏まえて書き残し、

学校を作り出します。

それを読んで、また別の場所にその弟子達が、学校を建てているのです。

学校に、生徒が集まらないと運営が厳しくなります。

また、評判が良いと、生徒が集まりやすい上に、威厳が付きます。

この時点で、色々な人達の思惑や、権力が介入し出します。

校則を厳しくするところやクラブ活動に力を入れたり、先生の質を上げたりと、

それぞれの学校は、特色を出そうとします。

大切なのは、教育を受ける事ですが、まず学校という形にこだわる事から始まってしまいます。

「あそこは優秀な生徒が多い」「有名な先生が教えてくれる」「生徒が荒れていない」

教える内容も、学校に箔(はく)をつける為や、学校や先生の都合で変えられていくでしょう。

そんな基準で、教育そっちのけの学校という、箱もののステータス(社会的地位や身分)を上げ、

一つのシンボルにしているのです。

立派で大きな、設備の整った箱ものを作りたいのです。

言わば、社会的地位の確立や影響力の強化です。

保護者達は、自分達の学校がどんなに素晴らしいかを話し、自慢するのです。

そして自分と同じ学校に自分の子供を、本人の意志とは関係なく入れるのです。

「生と死と宗教の狭間(はざま)・後編」

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でも取り上げた、宗教二世問題が起きているのです。

 

そもそも、教育方針も、教科書に書かれている事も、本当に正しいか?間違いがないのか?

本当にマスター達が伝えたかった事が教えられているのかは、もうどうでも良くなるのです。

自分が通っている学校が、一番と信じているからです。

だから、疑う事すらしないのです。

まさしく「井戸の中の蛙、大海を知らず」な状態です。

 

宗教は身近なモノであり、また根付いているモノでもあり、つかず離れずの関係の日本の在り方が、曖昧だとしても、良い関係で、良い距離感だとつくづく思います。

「何が正しくて、何が悪い」とか、「信じるのか、信じないのか」で宗教を語ると、もしくは布教すると、必ず反発が起きるのです。

どこの宗教も、「自分達の宗教が正しい」と思っていますから、違うアプローチで、それぞれの宗教者達が歩み寄らなければ、いつまでも人類にとってプラスにはならないでしょう。

元々は、皆同じ教えから始まっているのですから、歩み寄りは出来ると思うのです。

神や仏の名の下で、争い事は絶対にしてはいけないのです。

一歩間違えれば、争いによって大規模な戦争につながり、人類存亡の危機さえありうるシナリオです。

あと、どれほどの犠牲者を出せば、宗教による争いが無くなるのでしょうか?

 

本来のマスター達の伝えたかった事に想いを馳せ、日々の生活に生かせるようにしたいものです。

 

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イラスト図解 社会人として必要な世界の宗教のことが3時間でざっと学べる

心の中は、空っぽがいい(2)

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まっすぐ生きてる竹は

空間の積み重ね。

細くとも上へ上へと身は軽い

中身が無くとも側が曲がりを許さない

それは心とよく似てる

心は空(くう)である

持ち込むからこそ曲がっていく

重みで支えられなくなる

空(くう)の積み重ねこそ

見事な一本になる

節は節目であり

その上にまた

心を乗せていく

信念という側が曲がりを正す

 

あなたが生きている中で、心に持ち込んだものを考えてみましょう。

自分で持ち込んだり、教育や学習で持ち込んだりしてきました。

それは生きていく為の知識であり、社会の中でのルールやマナーもあるでしょう。

単純に食べ物を得、毎日を過ごしているなら持ち込むものもそんな多くは無いでしょう。

単純、シンプルな生活の中では、複雑な人間関係もローンや資産の事も考える必要がありませんでした。

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大きな石すら動かせなかった人間が、頭脳を使いピラミッドまで作れるように、脳が他の動物には不可能な事を可能にしてきました。

人間はより豊かな快適な生活を求めてきた一方で、欲がどんどん顔を出してきました。

それは時に原動力にもなりますが、支配にもつながる諸刃の刃で歴史を見れば明らかです。

単純な物々交換もお金に代り、社会もより複雑になり、ほとんどの人達がその流れに遅れまいと流されています。

 

まず、「選択」をする事が求められてきました。

自分にとって「敵か味方か」「得か損か」「役に立つか立たないか」「信じるか信じないか」

数え上げればキリがない選択を迫られるのです。

社会が追い打ちをかけるのです。

「やれば出来る」「成功する方法」「考え方を変えよ」「自分を持て」「幸せか不幸か」と次から次へと二択を求めるのです。

戦国武将のハウツーまで持ち込んでくるのです。

オーストリア出身の精神科医アドラー(注1)も、『苦しみから抜け出す方法はたった1つ。

他の人を喜ばせることだ。

「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。』と。

自分が幸せでもないのに、また苦しんでいる時に自分に何が出来るか考え、他人を喜ばす事なんて神様でない限り出来ないのです。

 

ここで私達が失ってしまったのが、二択からでは生まれない選択でした

自然の中に二択を迫るものはありません。

選択を望んではいません。

 

アドラーの言葉どおりなら1937年アドラー死後、世の中はもっとましな世界になっているはずです。

それに何故、いまだに「ことわざ」が通用するのでしょう?

〇か×しか求めない、また答えはないという断言に問題は無かったのでしょうか?

〇か×の選択で正しいのでしょうか?

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次に人間は、「価値」を持ち出しました。

「大切なもの」が「比較する材料」と変わってしまったのです。

価値観も社会が決めるように求めるようになってしまい、値段が付き、買う事が出来るようになったのです。

またアドラーの言葉ですが、

『ほかの人の自分に対する評価は、その人の個人的な意見であり、自分の評価そのものには、関係しない。』

すなわち、「自分の価値は、人が勝手に決めるんじゃ無い」ということです。

一見正当のような言葉ですが、自分の評価、価値はどうやって見つけるのでしょう?

資産を築いたからか、役職に就いたか、せいぜいその程度のもので、結局「自分は評価の高い価値のある人間だ」と自分をなだめてる言い訳にしか過ぎません。

何故なら常に「比較」が存在するからです。

しかも、価値観は時代に翻弄されるのです。

戦争も、競争も、そして差別も価値観や評価が人によって植え付けられ、自分ではどうしようもない価値や評価で虐げられてきたのです。

アドラーは、「人間には評価や価値があるから」「だから自分で評価しなさい」と言っているのです。

すなわち「比較」です。

「比較しなさい」と言っているのと同じです

血統証付きという犬や猫は、自分で評価や価値観を見い出してはいません。

お金で人間が動物では無く「価値」を買っています。

犬や猫が自身をどう思っているのか?

つまり想像力の欠如です。

人は人、自分は関係ないと言い切ってしまう所からは何も生まれてきません。

ここで、形には出来ないお金に変えられない「価値」を見失ったのです。

 

そして「不遜」(ふそん)を持ち込んだのです。

不遜とは、おごりたかぶる。また、その様(さま)で、おうへいや高慢な事を指します。

 

またアドラーの言葉から。

『他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。』

正に、不遜な言葉が見えてきます。

「自己満足」は、得てして高慢な態度や認められない悔しさが隠れています。

宗教者が求め、伝えたがる言葉です。

私が書き換えるなら、

『他人からの賞賛や感謝など求める必要もない。自分が世の中に貢献しているというおごりを捨てなさい』と書くでしょう。

謙虚の反義語でもある不遜は、私達人間が自然に対する畏敬の念を破壊しつつあります。

絶対安全であるとした原発神話も、そんな高い津波なんて来ないと考えた学者も、想定外という言い訳でした。

不遜は人間関係をギスギスさせるばかりか、差別や優劣も生み出します。

不遜はそれを許容するリーダーが国のトップにいると、国民は不幸になってしまいます。

言い訳に

無知と不幸を後ろ盾

差別や偏見を正論とし

自ら安住の住み家とす

慰めるは自身のみ

存在は認めざるも

只々悲しい

 

察しの良い方なら解ると思いますが、アドラーの言葉が間違っていると断言していません。

楽観的で偉ぶらず、質素な生活を好み、人柄も良かったアドラーの言葉は今でも読み継がれています。

しかし読む人が意味を変えてしまうのです。

教えが宗教になった時と同じで、本来の意志や教えが変わってしまうのです

確かめてみればいい

自分だという確信が持てるなら

一つずつゆっくり剥がしてみるといい

肩書や地位も

年齢や財産も

容姿や性格も

結局何も残らなかった

初めからそこには無かった

 

「選択」「価値」「不遜」がもたらしたものは、特別な人達だけではなく、ごく普通の人間の心の中にシワジワ入り込み、知らずに不公平や差別をもたらしています。

現実を見る事なくTVや情報の選択権さえ放棄し、振り回され、自身で考える力がどんどん低くなっているのです。

社会の中での自分の立ち位置ばかりに気を使い続け、上を向いてはため息をし、下を向いては安堵感を味わう貧祖な考え方になって、無意識のうちに内なるありもしない優越感で人を見、良心という名の施しによる満足感と、自己保存による攻撃が同居しているのです。

そして自分で考えるより自己啓発本を読むのです。

心の中がごちゃごちゃしているにもかかわらず、さらに他人の法則を無理やりねじ込んでいるのです。

 

このブログ記事「心は何処にあるの」

kenpa.blue

「魂とは?霊とは?」

kenpa.blue

の中で書きましたが、

心は感覚であり霊であり、魂を入れる入れ物でもあります。

人任せでは感覚は鈍ってしまい、本来持っている人間の力、自然から学んできた祖先や亡くなった方からの言葉、魂の謙虚さが失われ余計なモノばかり取り込んでしまって魂の行き場が無いのです。

 

心の中は空っぽがいいのです。

空っぽは、感覚をリセットする事と同じです。

狭くなった間口を広げる事です。

もしそれに気付けば、心の中がとても広く穏やかである事が解るのです。

追い込んで追い詰めて苦しむのは、自分自身に対する問いかけを他人に委ねてしまったからかもしれません。

他人の言われるがまま選択無しに持ち込めば、持ち込むほど荷が重くなり歩けなくなっているのです。

 

自分はこんな人間なんだと決めつけられないのです。

何度も書いていますが、心は流動しています。

同じ考え方でずっといられないのが心です。

すなわち、可能性に満ち溢れているのです。

遥か昔から「自分が誰なのか」を世界中が探し続けているのです。

決めつけられない自分を、変えようとするアプローチから入る事はやめた方がいいのです。

まずは心を空っぽにする事です。

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自分の心の中を覗き込むように、今の感情を第三者が見るように自分で覗くのです。

やがて、心の中が空っぽだった事に気付きます。

何故なら、外からの自分では無く、内なる自分を見ているからです。

何にも帰属しない自分を見つける為、地位や財産や誰かの自分、宗教や自尊心をどんどんはぎ取って行くのです。

そこには、ただの素の自分がいるはずです。

もしかしたら、少し怖くなるかもしれません。

何も持っていなかった事に気付くからです。

 

決して人の話を聞くなとは書いていません。

逆に、偏りのない沢山の人達や、経験豊かな年上の人達の言葉は余計な考えが浮かんだ時に、取り払う力となります。

すなわち、自分では気が付かなかったモノの見方が出来、一方向ばかりから見ない力がつくからです。

耳があるのはその為です。

 

とりあえず、

中のモノを一旦横に置いて、

熱いお茶を一杯飲む。

茶柱が立つかも知れませんよ。

 


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心の中は、空っぽがいい(1)

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「努力すれば報われる」「悪い事があっても必ず良い事がある」

「嫌われる人間になれ」「人とうまく付き合う方法」

「ポジティブに生きる」「必要とされる人間に成れ」

「過去にこだわるな」「人と比べるな」

「人のせいにするな」

こんな言葉が、山ほど溢れています。

ハッキリ言って、こんな言葉は、ほとんど役にも立たない言葉であり、出来る訳が無いのです。

 

どんなに努力しても、自分の思い通りの結果のならない事や、頑張っても、頑張っても思いが叶わなかったり、自己啓発本を読んでやってみたりしても、上手くいかなかったりと、それが現実です。

「運命を切り開く」とか、「行いで変わる」なら、もっと世の中良くなっていいはずです。

上手くいった人達と、全く同じ道や環境、考え方にはなれないのが当たり前で、いくらやっても駄目なものは駄目なのです。

どんなに心地よい言葉を聞いて実行したとしても、その通りうまくいく事なんて、ほとんどありません。

うまくいく事すら、その定義も人それぞれであり、いつまでも続く保証も無いのです。

 

世の中には、理想や夢を追いかけ、挫折したり、諦めたりする人の方が、はるかに多いのです。

人との付き合いで悩まない人などいません。

ポジティブ思考を持続するなんて出来ません。

誰でも自分が可愛いし、守りたいのです。

過去の事を忘れることも出来ないのです。

なぜ、自分を追い込んでしまうのでしょうか?

 

外からのアプローチをやっているからです。

自分という意志も怪しいもので、遡(さかのぼ)っていくと実は刷り込みだったり、誰かの教えや言葉、目にした広告や、SNSだったりで、自分で決めた事とハッキリ断言できるものは、ほとんどないからです。

努力して報われるなら、苦労の連続をしてきた人が報われているなら、幸せな人で町中溢れているでしょう。

努力していても、

「まだ努力が足りない」「もっと上を目指せ」「君なら出来る」

雑音ばかりが耳に入り、個々のペースの配分やスピードを見失い、

その結果

「俺は駄目だ」「私には才能が無かった」という言葉が口から出たり、頭をよぎるのです。

悪い事が重なっても、必ず良い事が起きる保証など、何処にもありません。

「明日も、また日が昇る」「トンネルを抜けると光がある」「雨降って地固まる」

いつ死ぬか解らないのに、現実として夜中や、トンネルを抜ける前に事故で死んでしまう事もあるのです。

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他人と付き合いでも、なぜ人間は喋る事が出来、

聞く耳を持ち、顔色や仕草を読めるか、

考えれば解る事で、相手とのコミュニケーションする為で、

言い換えれば、

何もしなければ他人の事は解らないのが当たり前で、思い道りにはならないという事です。

勿論、相手も人間ですから、色々な環境や考え方を持っていますし、自分自身も同じで、上手くやろうと考える事に、はなから無理があるのです。

他人の上手く付き合う方法を聞いたり読んだりしても、うまくいくわけがありません。

親は、自分の子供に対し、幸せになって欲しいと願い、様々な事をさせたり教えたりします。

でも悪い道に入ってしまったり、グレたり、不安定な仕事を選んだりと、親の思い通りにはなりません。

自分の子供ですらそんな状態で、他人に対してはなおさらです。

 

何か、夢も希望もなく救いようのない話で、素直に受け入れがたいと思いますが、

努力したり、頑張る事を否定している訳では決してありません。

しかし、努力、忍耐、試練などが必ずしも報われるとは限らないという事を、

まず頭に入れて欲しいのです。

 

考えなければいけない事は、人それぞれ成長するスピードが違います。

能力も、みんな一律で生まれて来てはいません。

得手不得手もあり、集中できる時間も人それぞれです。

にも関わらず、学校では右にならえの教育で育てられるので、ストレスだらけです。

規律や協調性は、社会生活の中では必要ですが、みんな同じ色に染める事とは違うのです。

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言われた通りにやる事が、良いという基準は、まず「形」から入っているという事です。

それも、確かな裏打ちの無い「型」です。

「みんなそうやって来た」

「規則だから」

「中学生?高校生?男?女?○○らしさが必要」

「先生のいう事が正しい」

「まだ子供だから」

「もう大人なんだから」

「型」が多ければ、こんな楽なことは有りません。

生徒も先生も、考える必要が無いからです。

昔であれば、給食制度や教育の機会を与える意味で必要でしたが、時代がどんどん進むにつれ、

学校の在り方も変わっていかなければ、社会に取り残されたり、自分を見失ってしまいます。

まして世界グローバルの経済の中では、生きていけなくなってしまいます。

いつまでも同じ会社で働く事も、それに合わせての人生の長期計画も、もはや描きにくくなっています。

そんな中で、前述の様な右にならえの教育では、これからの社会の中で生きていく事が、大変になるのは目に見えているのです。

そして貯まる一方のストレスは、昔ながらの教育を受けたままの状態で、

社会の進むスピードに追い付かず、人間関係の方に頼る羽目になり、

ますます自分の中での人間関係の比率が高まり、

負の連鎖のようになり、悩んでしまうのです。

「他人と比べ、まだましかも」

「みんな同じ事で悩んでいる」

というように、道連れがいないと、不安で仕方がないのです。

道連れをいつも探し、共感を得、安心してやっとその日を乗り切っているのです。

やがて自分の理想とする生活像が描けなくなり、落ち込んでしまうのです。

 

TVやSNSでは、欲しい物で溢れ、夢のような生活が、頭の中にインプットされていきます。

いつの間にか、自分のやりたい事や、幸せ感がずれていき、

何が正しくて、何を信用すればいいのかの選択も、

他人やモノ、TVやSNSにその答えを委ね、いつまでたっても満足する事ができない負の連鎖に落ち込んでいるのです。

 

余裕が無いのです。

「あの人に出来て、なぜ私には出来ない」

「こんなに頑張っているのに評価してくれない」

「ちゃんと私の意見を聞いてくれない」……

特別な悩み事では無く、ほとんどの人が、同じように思っている事です。

世渡り上手な人がいるなんて、幻想です。

他人からそう見えているだけで、本人は色々問題を抱えているモノです。

もう一度書きますが、それは外からの作用によるものばかりで、中が抜け落ちているのです。

自分が何者であるか?を常に誰かに聞き、

「私は幸せになるべき」

「今の生き方は本当では無い」

と自分で自分に暗示をかけているのです。

そんな中で、自分磨きや自分を取り戻そうとノウハウばかり頭に入れても、上辺だけのすげ替えに終わるだけで、本質は何も変わってはいません。

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こんな話を聞いた事があると思いますが、水の入ったコップを見て、

「もう半分しかない」と思うか

「まだ半分もある」どちらがポジティブな考えでしょうかと。

どちらでもいいのです。

なぜなら、コップに半分水が入っているだけです。

コップにも水にも、何の落ち度はありません。

「もう半分しかない」は、

「備えあれば憂いなし」寄りでしょうし、

「まだ半分もある」は

明日は明日の風が吹く」と、捉える事も出来ます。

考えてみると、どちらも正しいのです。

思い込みが、その時の気分が勝手に解釈しているにすぎません。

ところが、心は時に

「まだ半分あるからだいじょうぶだよね?」

「半分しかないけどいいのかなぁ?」

もっと言えば

「その水は安心なの?」

「コップが割れたらどうするの?」

と心配になり、水の分析法や壊れない方法を一生懸命探しているのと同じ状態なのです。

そして「何の話だっけ?」となるわけです。

 

あなたが一瞬たりともあなたで無かった時など有りません。

どんなに頑張っても、他の誰かになることなど出来ません。

報われない事ばかりなのです。

夢で終わる事の方が、はるかに多いのです。

幸せと思える時間なんて、ほんの少ししかありません。

思い通りにならないことだらけなのです。

 

人間は弱い動物なのです。

社会という集団の中でないと、生きていけないからです。

そこには、不平等や不公平や不運が、ちりばめられているのが解っているのに、

集団の中に入っていたい、すなわち帰属感や安心感を失いたくないのです。

全てが平等な世界なんて何処にも存在しません。

自然界を見れば解る事です。

自然界では嘆いても、足掻(あが)いても、努力(練習や学習)してもどうにもならないことだらけです。

捕食される危険や、飢餓の危機が常にあり、明日よりも「今」なのです。

 

ならば、中、内に目を向ける、自分に問いただすしか方法は無いのです。

それが出来るからこそ、人間の素晴らしい所なのです。

 

続く


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何かの、誰かの自分では無く、依存しない一人の人間であるという意味です。

 

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車の運転は、真剣勝負・後編

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トラックドライバーの経験での、エピソード!

その日も、埼玉県や都内の医療廃棄物の収集を終え、横浜の処分場まで、車を走らせていました。

首都高速道路のC1環状線を5号池袋線から入り、横浜方面に行く為、走っていました。トンネル内の霞が関入り口に差し掛かった時、急に混みだしたのです。

電光表示盤で、いわゆるVIP 対応の為、一時通行規制がかかる事を見ていたので、

「あ~引っ掛かった~」とつぶやきました。

そして、まさに入り口の所に来た時、お巡りさんが、私のトラックの前に!

すると、持っていた棒を振って、行けと合図をしました。

後ろをミラーで見ると、車が止められていました。

「良かった!ギリギリセーフ!」

幸運な事に、私のトラックが、最後に規制を免れたのです。

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トンネルを抜け、芝公園に近づく頃、後ろから2台の白バイが近づき、運転席の横に来ると、手で「早く行け」と合図。

首都高は最高時速が60キロで、勿論守って走っていたのですが、70キロまで速度を上げて走ると、今度は白バイからスピーカーで、「もっと速く走れ」と命令口調に。

湾岸線へ入ると白バイ2台増えて、パトカー2台も追いついて、スピーカーで「もっと早く走れ」と怒っていました。

東京港トンネル内、制限速度70キロを120キロぐらい出して走りました。

もっとスピードを出したかったのですが、トラック故、120キロが限界でした。

勿論後ろには、白バイ4台とパトカー2台がいたのですが、生まれて初めて、お巡りさん公認のスピード超過違反を、お巡りさんの、お怒りのこもった勧めで、しかも目の前で違反走行しました。

この時は、何とも言えない普段では味わえない楽しさで、湾岸線を走行したのです。

 

大井出口ですぐ降りたのですが、後から同僚の運転手に聞くと、

足止めを食らった事と、天皇陛下の走行の為の規制だったとの事でした。

VIP走行時は、後ろだけでなく、前もだいぶ開けて走る事を、身をもって知りました。

勿論スピード違反はこれっきりで、それ以降もしていませんよ。

 

その日朝早く埼玉県内の大通りから、車2台がやっと通れる脇道を走っていました。

普段から走っていたので、規制こそ無い道でしたが、近くに保育園もある事から、

ゆっくり走行していました。

脇道でしたが、優先道路で、交差する左右の脇道には止まれの標識がある道です。

小さな交差点を通り抜けた途端、ガシャーンとすごい音が。

細い脇道から軽自動車が、一旦停止や左右確認をせずに、交差点に入ってぶつかったのです。

 

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トラックは右、丁度、軽油タンク辺りから後ろを破損、軽自動車は前部を大破していました。

勿論すぐに警察と会社に連絡を入れました。

はっきり言って、私自身、気が動転していたのです。

警察が現場検証をしている時、運行責任者の会社の部長も来て、

私は少し落ち着き、相手の免許証番号と名前、電話番号を聞き、

警察からは「相手は止まれの標識どおり止まって、トラックが急に前に現れたと主張しているが、どう見ても、もらい事故だね」と、慰めてくれました。

トラックの後方にぶつかっている事と、軽自動車が先に飛び出せば、当然付くトラックのブレーキ跡が路上に無いとの事でした。

残念な事に双方ドライブレコーダーはついていませんでした。

運行部長は、相手と少し話し、様子を見て、「走れるか?」と聞いて帰って行きました。

どうにか気を取り直し、仕事を終え、会社に帰ったのですが、

普段から会社には、ほとんど顔を見せない社長からの電話がかかってきました。

「この、馬鹿やろう」が第一声でした。

「大丈夫か?」と言うとばかり思っていた私は、びっくりしました。

「相手の保険会社から連絡がこないのは何でだ?」と怒り心頭の声で

「何でちゃんと連絡先を聞かなかったんだ!」と追い打ちをかけるように責め立てられました。

結局、翌日相手方の保険会社から連絡があり、事故をした軽自動車は友人から借りていた事で、持ち主からの連絡が遅く、連絡が今になってしまったという事のでした。

そこからが私にとって地獄のような日々が始まったのです。

 

こちらが運転している事が解っているにもかかわらず、日に何度も電話をかけてくる社長。

挙句の果てに、人身事故に切り替えろとの命令。

やり直しの現場検証に供述調書作成、事故証明の取り直しと、病院に通えなど、長時間拘束される日が続いて精神的にきつくなったのです。

 

そして、なぜ社長がこれほど、この事故にこだわったのか解る日が来ました。

事故から半年過ぎた頃です。

それは、事故現場近くのレストランで、双方の保険会社と、社長と私で話をしていた時の社長の言葉でした。

要は事故に遭ったトラックは、特別な許可を得て運転できる車で、その車が稼働していない為、多額の損害が出て、故にその分まで保証してくれとの内容でした。

傍にいた私は、ビックリしました。

なぜなら、トラック自体の破損は部品交換で、すぐに済み、稼働させていたからです。

社長は、保険会社からのお金を釣り上げ、賠償させる意図があったからでした。

 

結局、数百万のお金が、社長に転がり込んだのです。

私には、何の保証もありませんでした。

数日後、会社に新車のハイエースが止まっていました。

なんでも、社長が趣味の釣りに行く為に購入したとの事。

 

この会社が、特別だとは思いません。

劣悪な、環境や従業員を大切にしていない会社は、そこら中にあるでしょう。

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だからと言って、事故を起こせば、事故に遭えば、運転手は大変な時間と精神を消耗する事に変わりはありません。

今から考えると、もっと自己主張すれば良かったかもしれませんが、職を失いたくない一心でした。

結局、精神を病んでやめる事になりましたが。

 

車を動かすのは、人間です。

誰も事故をしたいと思って運転してはいません。

どうか、ドライバーを抱えてる会社のトップの皆さん、従業員あっての会社だという事を、もう一度考えて下さい。

働き易い会社は、困難が起きても従業員が支えてくれることを。

 

ドライブレコーダーの必要性を実感した出来事でした。

以前も経験した事ですが、話していた事が、時間が経つに連れ変わっていくのです。

それは、悪意や保身の為だけでなく、思い込みによっても起きうるのです。

 

運転は、いつも真剣勝負なのです。

 

(以上の話は、あくまでも私個人が見聞きした事実でありますが、私の一方的な見方でもあります。当事者である、私以外の人達から、直接真相を聞いたわけではありません。ご理解ください)

 

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車の運転は、真剣勝負・前編

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私が運転免許を取ったのは、18歳。

まず原付免許で腕試し。我ながら褒めてやりたい一発合格!

それから自動二輪中型を教習所で所得。

20代で普通自動車免許を教習所で所得。。

30代で自動二輪大型免許を教習所で所得。

 

当時、車の免許は若者にとっては必需品で、彼女を乗せてドライブに行く事が夢!という時代でした。

教習所も沢山の人が通っていました。

ですから、今のように男女問わず優しくて、素敵な教官は、私の経験では…、いませんでした。

女性に対しては解りませんが、教習中、「ダメだろう!バカヤロー!」と暴言を吐かれ、太ももをつねられたり、怒って教官用ブレーキをかけられたり、軽くですが、頭を叩かれたりと、かなりの今でいうパワハラのオンパレードでした。

とにかく、早く免許を取ってここから抜け出したい一心で、頑張り取りました。

 

と、まあまあ順調に免許を取ったように見えますが、

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実は普通免許を取って2年ぐらいたった頃、男女4人、一台の車で河原にバーベキューをする為出かけたのですが、日本酒を二升も飲んでバカ騒ぎをしてしまいました。

当然帰る為に車を、運転しなくてはならないわけで、ジャンケンで負けた、私がする事になったのです。

そして、もう少しで家に着く時に検問に遭い、飲酒運転の現行犯で逮捕されてしまいました。

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今よりは厳しくなかった、飲酒運転の罰則でしたが、即、拘留されてしまいました。

捕まった日が、金曜日か土曜日でしたので、身柄の検察送りが出来ないと言われ、警察の留置場に泊まる羽目になったのです。

「運が悪かったなぁ」と警官から言われ、留置場へと。

入れられた部屋には先客がいて、「どうしたんや、兄ちゃん?」と声を掛けられ、私は経緯を説明すると、「あかんやないか!あほやなぁ!」と説教されました。

私は一見怖そうなその同居人のお兄さんに「何でここに入れられたのですか?」と丁寧にお伺いすると「覚せい剤や!」と。

その後も、その人から一晩中説教され、立場がおかしいな?と複雑な思いで泣く泣く聞いていました。

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翌朝、留置場に入った方(笑)は解ると思いますが、留置場の部屋のトイレにはレバーが付いていないのです。しかも上半身が丸見え。

要は、凶器に使われるという理由で、用が済むと声を掛けて流してもらうのです。

その後、鉄格子やら床の拭き掃除をやらされて、とんでもない所にいる実感が湧いてきました。

そして、事情聴取後、網の貼られたマイクロバスで検察庁に送られました。

手錠と腰ひもつきで、まさにテレビドラマで見る、あの光景です。

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結局、罰金と免許取り消しという刑が下され、やっと釈放されました。

この時、自由のありがたみを、ヒシヒシ感じたのは言うまでもありません。

当時の私は、なんにも後先の事を、責任がある事を考えない、大バカだったのです。

 

そして、免許が取れない欠格期間が過ぎて、再び原付からの取り直しです。

さすがに、普通免許はお金が掛かるので、一発取り(警察の運転免許センターで、学科と実技を受けて試験まで)でチャレンジする事に。

仮免許を取る為、時間貸しの教習所で練習し、勉強し直してのチャレンジです。

費用は安く済むのですが、運転免許センターでの、仮免許の実技試験には、本当に苦労しました。

何せ、その日に変わるセンター内のコースを覚え、合図や視線のタイミングと、狭い敷地内での動作が、目まぐるしく、反射神経の、テストをされているかのような?厳しさでした。

勿論、コース途中で教官から「はい、終わり!」とミスを指摘され、最後まで走れたのは、5度目の試験を受けた時でした。

走り終えて、「ヤッター!」と思い、車のドアを開けた時、

教官から「残念!ドアを開ける時に後方確認していなかったでしょう!失格!」

いやぁ~悔しかったです。

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そして6度目の挑戦で合格し、広―い路上試験も、難なく突破してやっと手に入れる事が出来ました。

 

もし、過去に戻れるなら「事故や人を轢いたりしなくて、本当に良かったんだぞ!このうすらトンカチ!」「金を返せ!」と自分に言ってやりたいです。

 

40代に知人からの頼みで、自転車卸の会社で働いていました。

中国からコンテナで届く大量の自転車を、敷地内に運んだり、関東圏の自転車屋さんに自転車を届け、営業もかねてトラックを運転する仕事でした。

そして、約一年半後、私が辞める事になり、新しい後輩が入り引継ぎで色々運転も含めて教えて、会社を去りました。

1年もたたない頃、社長から突然電話が入り、後輩が事故を起こして大変だという内容でした。

詳しく聞いてみると、夕方トラックで運転中、交差点で女性のお年寄りを轢き、死亡させてしまい、逮捕され、禁錮3年で刑務所に入れられたとの事。

馴染みの自転車屋さんの一部の人から「人を轢いたトラックで来るな!」といわれた事。

保証問題やトラック購入で資金繰りが厳しく、倒産するという話でした。

私は言葉を失い、何も話せませんでした。

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後輩は、ごく普通の、真面目な青年でしたが、歯車が狂ったことに、私が、少しだけ関与していた時期もあり、あの時、もっと運転の事をきつく指導してやれば良かったと、後悔とため息しか出ませんでした。

 

飲酒運転は、絶対にしてはいけません。

事故もいつ起きるか解りません。

誰にでも起きる可能性があります。

自分は絶対大丈夫、は決してありません。

車は凶器にもなるのです。

 

そしてひとたび事故を起こすと、自分だけの問題ではなく、多くの人達の、悲しみや苦しみを生み出すことを、今一度考えて、安全運転して下さい。

また、高齢者の事故も増え、少しでも動作が鈍くなったと感じた時、出来れば運転を控える勇気も必要です。

 

冒頭の私の情けない、馬鹿な行動を書きましたが、

その「つけ」を払わさせられる事がありました。

後編に書きます。

 

気を付けていても事故は起きるのです。

加害者にも、被害者にもならないよう、

「だろう」ではなく

「もしかしたら」運転をどうかして下さい。

 

運転は、いつも命のかかった真剣勝負です。

続く…

 


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人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆(4)

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あなたが見ている世界。

スマートフォンやTVも色の三原色「赤・緑・青」の組み合わせで作られています。

ノーベル物理学賞を受賞した、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏らの青色LED発光ダイオード)の発明で、薄くて軽いディスプレイが実現しました。

人間の目には、錐体細胞という色を感知する3種類と光に感度が高い桿体細胞で、

色や明るさを認識しています。

すなわち三原色の原理で、色々な色を見る事が出来る反面、

色を識別する、感度が低い錐体細胞が、焦点が合う網膜の中心部分にある為、

暗い中では、色が解りにくいのです。

 

哺乳類、例えば、犬などの大部分の哺乳類は2原色「赤・青」で色を見ています。

種類にもよりますが、人間よりも色の数が少なく見えています。

例えばネコは、弱視であまり色を見るのが不得意な動物です。

 

一方、魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞を持つものが多い為、

人間には見る事が出来ない紫外線も見る事が出来ます。

昆虫は複眼(目が沢山寄り集まっている構造)を持ち、

30000ものレンズで、紫外線まで感知する能力があり、

蛍光灯などの紫外線を出す光に寄って来るのもその仕組みからです。

 

モノを見るという事は、脳の中で信号を処理して、映像として見ています。

進化の中で獲得した色の見る力は、生存の為、

すなわち同種の顔色や、食物を得る為だったり、

敵から逃れる為や種族保存、遺伝子の受け渡しの為に必要だったからです。

 

人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆(1) - 心の道標 (kenpa.blue)

「人間、生物は、なぜ存在しているのか?」の中で、

遺伝子の受け渡し、種の受け継ぎの事を書きました。

牛や豚が、人間に食べられる事で、個体の生存時間が短くなったとしても、遺伝子は引き継がれていくという事。

人間も自然の中に取り込まれていて、利用されていると書きました。

牛や豚に限らず、花もまた人間によって、生きながらえている事も書いています。

 

この話をすると、「殺されるためにいるのでは無い」「人間のエゴであり、人間の悪業だ」との見解がありました。

前述の色の話で考えてみると解りやすいので、話を進めていきます。

人間が、多彩な色を見分けられるのは、他の人の顔色や皮膚の色の変化で、感情や健康状態を知る事が出来、果実の食べ頃や敵の発見、自然の中での生き方の学習の為に必要だったからです。

同じように、他の動植物も夜行性や水中等といった環境や、その中での捕食や敵から逃れる手段、そして、繁殖の為に、色を利用しています。

ハナカマキリという昆虫。

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熱帯のラン科の花に集まると考えられていたことから、「ランハナカマキリ」

とも言われているカマキリは、擬態という花にそっくりな色で花に成りきり、

捕食し、幼虫も成虫も紫外線を反射し、紫外線を見ることのできる昆虫にはカマキリと花の区別が難しく、花と間違えて集まってくる虫を捕食していると考えられています。(その他にもある種の物質での誘因作用もあるとされています。)

花も、受粉の為には、虫たちの協力なしでは生き延びていけません。

虫から見た花の色は、蜜がある場所が解りやすいような色をして、引き寄せています。

 

アルビノ(albino)という言葉をご存じでしょうか?

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動物学においては、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある個体の事で、

稀に体が白い動植物が生まれますが、敵から見つけられやすく、

植物は、光合成が出来ない為死滅してしまいます。

(劣性遺伝で生じた白い個体になる白変種という種類もあります)

珍しい個体の為、人間の場合アフリカ等では、迷信的な呪術の道具として殺されたりする例が多数あり、

神からの罰や不運などとも言われ、差別的な扱いを受けているのです。

逆に神聖なものとして扱われたりと、白色というだけで運命に振り回されているのです。

その他の動植物も、自然界では前述のように生き残る確率は非常に低いのですが、

人間が珍しいといった理由や生物学的な意味での介入で、種の保存も可能になるのです。

 

私達が見ている世界は、あくまでも人間の目を通して見ているだけで、

本当の世界の様子は、動植物によってかなり変わるのです。

人間の為、喜ばせ、楽しませる為だけに、生物界に色があるわけではありません。

逆に、色を利用して人間を引き寄せ、種を存続させている例もあるという事です

 

生物にとって一番の目的は、種を残す事、遺伝子を受け渡す事です。

牛や豚といった家畜も、同じ目的です。

地球上では、数々の動植物が絶滅してきました。

環境の変化についていけなかったり、劇的な地球規模の災害、そして人間が絶滅させてきました。

人間の生息地汚染、らん獲や密猟、開発等、衣食住のあらゆる分野での快適性や利便性を優先させる為、殺されてしまった動植物の種類は、たった一年で数万種類の生物とも言われているのです。

生物が誕生して以来、10%しか生き延びていないとも言われています。

 

人間も自然の中に組み込まれた生物です。

組み込まれている限りにおいて、他の生物が利用しても不思議ではありません。

動物も植物も、微生物まで人間は、品種改良し、自らの生活の為に色々な種を作り出しました。

虫が、風が受粉をする代わりに、筆で人間が受粉させてくれるのです。

敵の心配もなく、餌も運んでくれるのです。

パンダもトキも同じ理屈です。

 

人間だけが、特別な存在では無いのです。

だからこそ、気を付けなければ、大きな代償を支払わせられる羽目になります。

野生動物の捕獲や接触からのウイルスや、永久凍土が溶ける事による、未知なる細菌やウイルスの出現の可能性。

温暖化による、蚊や蟻といった有害な昆虫の生息域の拡大等、もう始まっているのです。

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私達は、肉眼では紫外線も見る事も出来ないし、磁気や赤外線を感じる事も、超音波を発する事も出来ません。

機械の手を借りなければ、情報を得る手段は、虫にも劣るのです。

 

近年、食糧危機という言葉を耳にする機会が増えました。

牛肉1キロの為に、約11キロの穀物を必要とし、その穀物を育てる為に、大量の水、約2.000ℓを使用しながら生産された食事をし、食品ロスで捨てられているこの状況は、何処かで破綻するでしょう。

何度も書きますが、人間も自然の中に取り込まれ、食物連鎖に関係しています。

私達の存在は、そんな危うい綱渡りの上で成り立っています。

もし人間が滅べば、家畜や園芸用の花々は、多くが死んでしまうかもしれませんが、生き延びる為に別の手段を選ぶ事でしょう。

それは、武器になるような大きな身体か、牙や角かもしれません。

植物もまた、虫を引き寄せる色を強化するか、突然変異かもしれません。

さて、人間はどうするのでしょう?

最大の武器は、脳です。

どのような知恵を出し、人間という種を守っていくのか、考えるだけでもため息が出ます。

 

いずれにせよ、この地球を空き家にはしない力が働くと思います。

それは、人間でなくてはならないという保証など有りません。

宇宙の流れから見ると、たわいもない事であり、取るに足らない一瞬の出来事なのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「Only two things are infinite, the universe and human stupidity and I’m not sure about the former.」

『無限なものは二つある。宇宙と人間の愚かさ。前者については今は断言出来ないが。』

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目があるのに何も見ず

口があるのに話さない

鼻があるのにつまんでて

耳があるのに聞いてない

きっとそのうち進化して

のっぺらぼうの顔になる

光の自由を失った

人より何にも見てなくて

言葉の自由を失った

人より何にも語れない

香りの自由を失った

人より何にも味わわず

音の自由を失った

人より何にも気が付かない

きっとそのうち進化して

のっぺらぼうの人になる

 

日々の生活の中で私達に出来る事は、「当たり前」と思わない事です。

沢山の犠牲の元に、今の生活が成り立っている事や、紛争や飢餓で苦しんでいる人達に、思いを馳(は)せる事です。

「いただきます」と「ご馳走様」の意味をかみしめながら、命の事を考える時間を少しでも持つ事が、大切だと思います。

それは、自分の存在の意味を知る手掛かりになると思うからです。

 

銀河連邦、太陽系、唯一の青い小さな第三惑星、地球を、何処か遠い所から、薄目で覗いている大きな存在が、きっとつぶやくでしょう

「今度は誰がそこに住む?」って!

 

(注 本文中の数字は、出来る限り情報を集め記しましたが、あくまでも試算であり、正確な数ではありません。)

 

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神様はいるの?(2)なぜ答えてくれない?

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人間は 間違えやすく、すぐ信じてしまう動物です。

私は、もともと疑いやすい性格もあって、これが正しいと確信したことは余りありませんでした。

ですから、電波時計のような正確な時計か、もしくは手回しの機械式の時計の両方が好きなのです。

確実に正確であるか、手回しの時計に正確さを求めない遊びがあるからです。

 

日本では先の大戦終戦した途端、社会の在り方や思想、民主主義等、それまでの価値観が変わり、信じていたものがもろくも崩れてしまいました。

結果、時代についていけない人達が沢山生まれました。

人間は、信じてしまうと、疑わなくなる側面を持ち、信じ込んでしまいます。

その危ういその側面を、権力者がコントロールしてしまう事は、歴史が証明しています。

原発安全神話もしかり、不沈船と言われた、タイタニックや大和も、結局多くの犠牲が伴いました。それを覆すかのように、当たり前と思わない想像力が、時間が遅くなる事や光が曲がる事の発想を生み出しもしました。

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もし神が人間の定めを、運命を決めているなら、向上心も可能性も必要ない。

良い方向だろうと、その逆であろうと、始めから決められているから。

ただ、運命として受け止めながら、何かの意志の糸で、操り人形のように動く。

そう操り人形には、意志が無い。

自由意志を放棄する条件が必要だから。

時に、ちゃんと糸が張られているか、結び目はほどけていないか確認しながら、またその糸が導く動きに惑わされても、「信じる」という「糸」で繋がっている事を確認し委ねる。

「あなたが糸を操っていているのですよね」と。

起きた事が、起きるであろう事全てにおいて、神の意志であるからだ。

だから、いつまでも信じ続けなくては、悪い事や予期せぬ事が起きた時も、耐えられない。

そして問いかける。「なぜ、答えてくれないのですか?」と。

 

仏像の目をみれば、そこに幸せや不幸は無く、ただそこにいる事を迷いも無く見つめている。

十字架も、キリスト像やマリア像も、ただそこにあり、あなたに視線を合わせない。

そこには、こうあるべきという教えも無い。

見つめているというより、見透かされている。

あなたは、そこに何を見、何を求めるのでしょう?

 

希望や願い、存在の意味?

人々は問う。

「なぜ…」その後に続く言葉は、不平や不満に不平等、苦しみや救い

でも、あるのは静寂であり、無言という答え

応えられないから答えないのではない。

答えこそ、無言で応える。

 

あなたの問いは、人間的な問いであり、その域を出ない。

では、誰に問うているのか?

想像を超えた創造主に?

はたまた、悟ったブッダ達に?

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隠されている神の計画や約束を聞いても、運命や定めを聞いても、

そんなものなど始めから無いのです。

もし神がいて、沢山の願い事を聞き、救いを求められても、

いっぺんに叶えられないだろうし、

どれほど信じていたとしても、優先順位を考えなければならない。

「教えを守っているか?」「どこか抜かりはないか?」「心から信じてるか?」

神はそこも考えなくてはならない。

そう、考えている神は人間的であり、その域から出ない。

「神が考える?」「神が線引きをする?」「天秤にかける?」

だから、いくら答えを求めても答えないのです。

 

その辺に落ちている石ころに、あなたは願ったり、答えを求めません。

石ころは、ただの石ころで人間的では無いからです。

もしその石ころが、大切な人からもらった石ころなら、お守りにもなるし、お願いごともするでしょう。

あなたの見る目が、心が、ただの石ころを特別な石ころに変えただけで、他人から見ればただの石ころに過ぎないのです。

あなたが考える「神」は石ころと同じです。

そこに人間的な、人間の域を出ない「意味」を見い出し、特別な想いを持たせ、ひたすら何も答えない石ころに、問いかけているのです。

抜け落ちているのは、石ころを見ていない所です。ただの石ころだと。

そこに、意味付けをする事も無ければ、見い出す必要も無いのです。

大きな、想像も出来ないほど広い世界に存在する、唯一の石ころですが、ただの石ころです。

そして、それは見てもいない石ころに意味を持たせ、人伝(ひとづて)に「あの石ころには力がある」「信じなさい」と言われているだけです。

そして見てもいない石ころに、問いかけをしているのです。

「あなたは、そこにいて見守って下さる」と。

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私は以前の仕事で、毎日のように仏壇や塔婆、十字架のペンダントや遺品と思われるような物など、トラックから処分する為、放り投げてきました。

私は罰当たりな事をしているのでしょうか?

いや、処分を依頼した人達や運んできたドライバーは、罰せられるのでしょうか?

正直、抵抗はありましたが、それは、そのように思う自分として育ってきたからです。

 

日本も、かつては死者を山に捨てたり、世界では、野ざらしにする鳥葬や川に流したりと、育ってきた環境や教えられてきた事で、死生観や見方が全然違います。

それは、どれが正しくて、どれが間違いかは関係の無い事です。

 

人間は、ただの石ころにも、命を吹き込み、願いを託すことができる地球上での唯一の生物です。

と、同時に無いものまで想像も創造する事も出来るのです。

石ころは、そんな事はもう分かっていて、そこにあるだけなのです。

 

「神」とは、ニュートンアインシュタインやボーア(注1)、ホーキング(注2)達が探し続けてきた、この広大な宇宙に隠された法則であり、カオス(注3)のように装うバランスなのです。

人間は、その中のほんの一部に組み込まれているだけで、人間が抱く苦しみや悲しみは、ただの電気信号で、素粒子(注4)の集まりでしかありません。

カオスが悪戯をし?、人間が生まれてきたにすぎません。

同種を殺し続ける人間、もがいている人間をしり目に、自然は大きな法則に従いながら、流れているだけです。

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マスター達は、それに気が付き、理解に到達した弟子たちに口頭で伝えてきました。

なぜ、マスター達は記する事をしなかったのか?

間違って解釈されることを望まなかったから。

感情移入されかねない恐れがあったから。

例えば、大勢の前で話す時と、個人に話す時は、言葉も変わります。

また聞く者が、どんな理解で聞くかでも変わってきます。

高みにいる者には、無言に近かったでしょう。

理解に達していない者に話す時はマスターが下に降りて、例え話しを交え話した事でしょう。

小学生に教える時と、大学生に教える時、やり方が違うのと同じ理屈です。

何より、自身を見せ、語り、伝えたかったからに違いありません。

 

教えは、形を変え宗教として伝わってしまいました。

マスター達の教えは、皆同じものであり、「教え」であり「宗教」では無いのです。

教えに答えを求める事は出来ません。

宗教にはそれが出来るのです。

いや出来るように装う事が出来るのです。

先延ばしにも時にはするでしょう「もっと信じなさい」「信心が足りない」と。

教えは、凝りもせず同じ事ばかりする人間への戒めであり、また命の謳歌であり、踊るような生の賛美です。

だからこそ、問いに無言で応え、「自身で見つけよ」と、いざなうだけなのです。

「あなたが、生きているあなたが答え」だと。

 

宗教を持つ、持たないは自由であり、認められた権利です。

宗教を通して弱者と言われている人達に、救いの手を差し伸べている行動には、頭が下がります。

ただ、その裏にある、不条理な側面も、私には見え隠れするのです。

「天国と地獄」「天使や悪魔」等の言葉に心が動かされないのです。

自身が、そこには無く、外圧のような物に囚われている気がしてなりません。

誰かの仕業にする事ほど、楽な解決はありませんから。

 

何故、宗教の名の元で多くの命が奪われ、いまだに世界はいがみ合うのか?も。

その事で、見放された人を宗教が助ける事も。

歴史もその事を示しているにもかかわらず、同じ過ちを繰り返すのか?も。

はたして、宗教は必要なのか?とも。

聖書マタイによる福音書24章32-51節に、終末の事が書かれています。(私的解釈ですが)

「色々な戦争や災いが起き、災害や、偽の救い主が現れるが……キリストの再臨が起き……」

この文章を読みますと、地球の最後を表しているように読み取れます。

 

私達の太陽は約50億年ほど先に、そのエネルギーの水素を使い切った後、外側での核融合により、大きく膨らんでいき、地球は飲み込まれていき、赤色巨星になります。それ以前に、大気ははぎとられ高温で、死滅するでしょう。

やがて太陽は小さくなり惑星状星雲になると考えられています。

人類は、太陽と同じ核融合という禁断の果実を手にしました。

太陽によって人類が滅ぶか、手にした核によって自ら滅ぼすのか解りませんが、いずれにせよ、そんな先の事では無く、今生きている人達の事を、愚かしい戦争や自然破壊によって亡くなってしまう命をどう助けるかに、目を向けなければ、マタイの福音書を救いとしても全く意味が無いのです。

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私には、その矛盾が理解できないのです。

ノアの方舟を待っている間に、どれだけの尊い命を犠牲にすれば良いのか?

 

人類は神に答えをずーっと求めてきました。

これからも求め続けるでしょう。

ただ言えるのは、「答えない」という事です。

川に向かって「何で流れているんだ?」と聞いているようなものだからです。

何時間も川を見ていた若き日のブッダは、その答えを見い出したに違いありません。

 

凡人である私としては、まあ、その答えない答えを、死んでから考える事にします。

 

↓このブログ記事も読んでみて下さいね

神様はいるの?(1) - 心の道標 (kenpa.blue)

 

(注1)デンマーク理論物理学者ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr)量子力学の確立に大いに貢献した人物で、アインシュタインと論争した事でも知られている。

(注2)イギリスの理論物理学者スティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking)

(注3)混沌という意味。物事が入り混じっている状態や無秩序で、まとまりがない状態

(注4)物質を構成する最小の単位

 


イマジン (2010 Digital Remaster)

以前も紹介しましたが、1971年「ジョン・レノン」の楽曲である『イマジン(Imagine)』は、私の大好きな曲です。

「天国や国、宗教が無い事を想像してごらん?」という詩にとても共感出来ます。

有名な曲でご存じの方も多いと思います。もう一度聞いてみて欲しいと思います。

 


オール・バイ・マイセルフ〜ベスト・オブ・エリック・カルメン

1949年生まれのアメリカの歌手『エリック・カルメン(Eric Carmen、Eric Howard Carmen、)』

1975年の曲『オール・バイ・マイセルフ( All by Myself)』は、独りでは生きていけないという歌詞のバラードの名曲で、セリーヌ・ディオンがカバーしています。昔の曲ですが、今聞いてもジーンときますよ。

 

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