心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

親子関係を考える大切さ

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TVのCM、芸能人で見かける様な、友達みたいな親子関係。

そんな関係はやめたほうがいい

何でも話せる間柄を本当の友達と作る方が良いのです。

人間は社会というコミュニティの中で生活をしなければいけないのですが、他人との関りが大切になってきます。

同級生や同じような歳の友達だけでなく、親以外の他人と関係性を築くべきです。

親と子は距離を置いて学び、そして学びあい、自分の置かれている立場から話し合う関係でいないと、いつまでも精神的に「独り」としての強さが、お互いの中に生れません。

「独り」は「孤独」とは違います。

「孤独」の埋め合わせに、親子関係を築いてはいけないのです。

 

相手の立場になってものを考える事と、相手に合わせ考える事とは意味が違います。

ある時は親として、ある時は友達として接する、そんな事をすれば相手だけではなく自ら戸惑い、混乱するだけです。

それぞれに役割があり、お互いに立場をわきまえ尊重し合う事で初めて、たくさんの理解が生まれるのです。

親が子供の親友として立ち位置を変える事は、何でも話せる間柄を作りたいのかもしれませんが、親子という関係の中で、一人の人間としての成長をお互いに潰し合う事になります。

 

年頃の子と接するのは大変です。

親は「言うことを聞かない」

子は「気持ちを解ってくれない」

お互い大切なのは頭では解っているのですが、どうしても行動が伴わないものです。

問題は距離です。

なんでも話せる関係を作り出す事でもありませんし、我慢し合う事でもなく、程よい距離を取る事。

子供は必ず親の後ろ姿を見ています。

「親父の背中が小さく見えた」その言葉どおり、ずっと見て育っていきます。

言葉はいりません。

ただ優しく抱きしめるだけ、肩をたたいてあげるだけ、それだけで十分です。

ぬくもりが言葉を越えて伝わるでしょう。

いくつになっても親は親で、子は子です。

 

私の少し年上の親友の話ですが、私と同じく奥さんがフィリピン人で、息子を授かりました。

これまた私と同じで、年齢的に遅くに授かったので、息子さんの事をとても可愛がっていました。

私達夫婦も息子さんの洗礼に立ち会い、親しくさせてもらっていました。

昭和生まれとしての、父の在り方で息子に接し、厳しくも優しく育てていらっしゃったのですが、

何がキッカケかはわかりませんが、中学生になった頃から、悪い友達と付き合うようになり、学校もあまり行かなくなり、高校進学も出来ませんでした。

多感な時期に親友の彼は、心機一転で海外に長期にわたり仕事の為、家を空けていました。

そして、息子の事を、夫の事を思い泣きながら私の妻に電話していた母親が、いつも不安と寂しさから、息子さんに𠮟っていた事。

それを見たり、聞いたりするのがイヤで、余計に荒れてしまったのかもしれません。

息子さんは乱れた生活をしていて、彼が日本に戻ってきてからも、無免許運転や事故、悪友からの借金、外泊や豪遊など、その後始末の為、多額のお金を使う事になってしまいました。

挙句の果てに、息子さんの悪友との借金などの話し合いの際に、軽い相手への接触が傷害事件まで発展し2ヵ月も拘束されてしまったのです。

友人は、自分に非が無いと信じ、自分の正当性を主張すれば、すぐ釈放されると思っていたのですが、傷害事件扱いとなり長期勾留となってしまいました。

釈放に向けて何をするべきかの助言が欲しい為、息子さんから私に電話があり、弁護士の必要性など色々と話をしました。

勿論、自分の事でお父さんが勾留されている事実を、彼なりに深刻に受け止めていました。

妻が外国人という事もあり、何をどうすれば良いか解からなかったらしく、当時十代後半の息子だけが頼りだったそうです。

結局、弁護士を雇い、多額の借金での釈放となったのです。

 

彼は、海外での仕事の為とはいえ、家を長期に開けていた事が、彼の人生を狂わせたのではないかと、悩んでいました。

彼は真面目な性格で正義感も強く、男らしい人間とした生き方をしていましたが、息子さんにも当然それを求めていたと思います。

ですから息子さんも、お父さんに応えようと頑張っていました。

しかし、彼の想いとは裏腹に、息子さんにとっては、重荷になってしまったのかもしれません。

お父さんに「認めてもらいたい」でもそれに答えられない葛藤が、負の方に流れてしまったのでしょう。

ここまでの話の中で、「家族愛」、「父子愛」「母子愛」「人間愛」という「愛」の存在が、どんな意味を持ち、どんな形でとらえれば良いのか、確かに「愛」はそこにあり、お互いに必要とされていたのです。

私も他人ごとでは無く、とても考えさせられたのです。

世の中には、親の育児拒否や依存症、暴力等で問題を抱えている家庭は沢山あります。

でも彼の場合、奥さんも、そして息子さんも誰も悪い人間では無く、むしろ幸せになる事を、お互いに考えていました。

友人の彼は、息子や奥さんの事を考え、幸せになる様にと、常に考えていた何処の家庭でもある普通の願いですが、どんどん崩れていく理想と現実の中で、それでも何とかしたいという、希望は捨ててはいませんでした。

親が思い描くように、子供が育っていく事は、なかなかありません。

親子と言えど、いや親子であるからこそ、違う人格として認め合い、普段の何気ない会話の大切さを再認識させられました。

今は息子さんも落ち着き、仕事に就き頑張っています。

遠回りした分、経験や後悔が、未来への原動力になってくれるよう祈るばかりです。

釈放後、友人と話をしましたが、息子に対する期待と喪失感、傍にいてやれなかった事への後悔を語ってくれました。

そして次々と問題を起こし、嘘をつく息子に対し、常に心の平穏が得られず、つい怒鳴ってしまう事も沢山あったという事でした。

 

忘れられない事があります。

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それは、私達家族3人と彼の家族で食事に行った時、彼の息子さんが、少し年下の私の息子に話していた事でした。

「いいか!俺のようにはなるなよ!」と。

たまたま聞いていた私は、救われる思いでした。

彼が、自分の置かれている立場や行動を彼なりに理解している事と、それでも抑えられない心のうっぷんを感じたからです。

私の息子も、それなりに受け止めていたようでした。

親友の彼に私が話したのは、「息子さんは、決して悪くはない」という言葉です。

確かに、やっている事は、人に迷惑をかける事であり、両親に対しての思いやりに欠けている行動ですが、あえてそのように話をしました。

「何でも尻拭いをして、先回りばかりするような事はやめて、嘘でもとことん信じてやって欲しい」そして「黙って、抱きしめてやって欲しい」と付け加えました。

そして、私の息子が小学生の高学年から中学に入った頃まで、仕事関係によって私自身が精神を病み、アルコールに溺れてアル中になり、息子に何もしてやっていなかった事や、ひどい父親像を息子の心に残してしまった事への後悔の話もしたのです。

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今でもハッキリと覚えていますが、私が中学生になった頃、母親から「昔、抱きしめてやってなかったから、今やってあげる」と言われた事があります。

勿論「いらない!」と断りました。

昭和の時代には珍しくなかった、子供を叩くという事を母親からされていた私にとって、布団叩きで追い回された記憶が忘れられずに、母親に対して憎しみの様な感情を抱いていたからです。

常に夫婦喧嘩が絶えなかった家庭での救いは、音楽と本との出会いでした。

親友の息子さんの事を考えると、昔の自分の置かれた状況と、自分の息子への接し方の後悔を思い出し、親子関係の負の連鎖を自分の世代で断ち切りたかったという想いと重なり、切なく悲しくなってしまいました。

 

私自身が子供を授かり、子育ての大変さを思うにつれ、私の両親も苦労して彼らなりの精一杯の子育てをしてくれたのだと思うようにはなっていますが、今でも、死んでしまった両親の事は、心のどこかでまるで喉に引っかかった魚の骨の様に、許せない感情が残っています。

育てられた環境のせいで、常に周りの人の言動ばかり気になって、自分を出せない人間に成ってしまったと、そしてそのせいで、精神を患う事になったと考えてしまう、心の中に消えない傷(トラウマ)があります。

結局、今でも自分の親に対して、反面教師の様に考えてしまいます。

 

何が正しくて、間違いなのか、誰にも解りません。

ただ、私の経験から言えるのは、

一貫して子供を信じてやる事が重要であることは間違いない。

 

親は時に「こんなにあなたの事を思っているのに、何で理解してくれないの?」と思う事がよくありますが、子供、特に思春期に差し掛かった頃から、他人を通して自分、すなわち自我が芽生え、一人の人間として自分を捉えるようになります。

受け身としての親からの愛は、身体では感じていますが、愛に、形や方法、ルールが無いので、親も、子供もどうすれば良かったか、どう受け止めればいいのか解らなくなってしまうのです。

誰でも、人が言う通りには動きませんし、当たり前の事です。

 

誰も悪くしようと思って行動しているのではなく、先の事を考えお互いに行動しています。

ただ、来てはいない未来の事ばかりに囚われていると、毎日の中に潜んでいる、色々な個々のサインを見落としてしまうのです。

子供に対して、将来を考え幸せになって欲しいと思うのは、親としてしごく当たり前の事です。

それは、自分の分身であり、想いを託す存在だからです。

相手の事を思う事が、しばし先回りを良しとして、あっちだの、こっちだのと指図しまい、

安全な道ばかり、まるで道路標識の様に、子供の歩いている道のあちこちに立ててしまっては、考える力を養う機会を奪ってしまう事になるからです。

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考えなくてはいけない事は、過去には戻れませんし、未来はどうなるかは分からない、すなわち今をどう生きるかという事を考えなければ、何も生まれませんし、問題の解決にもなりません。

子供の未来を考えるのは、親として当然の事ですが、その未来は「今」の積み重ねです。

日々接している子供達に対し、その時その時がとても大切な時間であり、先延ばしにしてはいけないのです。

時代はどんどん変化して、親が子供の頃味わった経験も、全く違うモノになっており、親自身が凝り固まった考えでいると、何か問題が起きた時に対応できなくなってしまいます。

その為には親である前に、一人の人間としての優しさや、寛容性を持っていないと対処出来ません。

それは、想像力であり謙虚さでもあります。

ギスギスした社会生活の中で、折れそうになればなるほど、必要な事だからです。

そして、子供の問題は、実は親側の問題としてとらえなければ、子供達の心の行き場が無くなってしまうのです。

 

SNSやTV、本などで子育てに関する記事を沢山見かけます。

その通りやったところで、うまくいくとは限りません。

金銭的に苦しい家庭では、習い事や塾、旅行など、やらせてあげたくても、思うように子供にお金をかける事が出来ない現実があり、今増加傾向になっています。

だからと言って、悪い人間に育つわけでもありません。

子供は、話さなくても自分の置かれた環境や境遇を、親が思った以上に理解しています。

幼少期から思春期に親が傍にいられない状況は、珍しい事ではありません。

ひとり親家庭もそうですし、仕事ばかりでパートナー任せ、育児放棄、家庭内不和など、様々な理由で、子供と関われない、もしくは関わらない状況はいくらでもあります。

だからと言って、皆がみんな子供達が負の方向に向かうという事は無いのです。

大人が考えている以上に、子供なりに自分の未来の事を考えています。

だからこそ、やけっぱちになったり、反抗したりするのです。

何も考えていないのではなく、周りを見て、夢を描くことが出来ない世の中に対しての失望感と言ってもいいでしょう。

それは、親だけの問題ではなく、社会全体の問題で、そんな不安や憤りから逃げ出す一番簡単な方法がドラッグや犯罪、自傷行為や自殺であり、それを生み出しているのが、大人達なのです。

イジメの問題にしても、どんなに親が気を付けていても防ぐことが出来ない問題ですが、犠牲になる子供達があと何人いれば、大人達は真剣に考えるのでしょうか?

責任逃ればかりしている大人達の罪はを償うのは、子供達ではありません。

 

2020年の自殺者は21.081人。内10~20代は3.298人にも上ります。

厚生労働省自殺対策推進室 警察庁生活安全局生活安全企画課、参照)

 

何が原因であるにせよ、子供達の選択から「死」という言葉を無くさなくてはいけません。

それは、大人達の責任です。

そして、決して無関心になってはいけないのです。

たとえ、間違ったやり方かもと不安になったとしても常に目を向け、話しかける事です。

子供を自分の所有物としてでは無く、一人の人間として見てあげる事です。

どんなやり方、育て方が正しいという基準なんかはありません。

つまずいたり、迷った時は、黙って抱きしめてあげるだけで十分かもしれません。

そして、問題を抱え込まないよう、外部に助けを求める勇気も必要です。

子供は決して悪くありません

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何があっても元気で生きてくれるだけで、幸せな事です。

 

18才までの子供がつながるチャイルドライン

https://childline.or.jp/

 

天然痘と戦った史実を描いたもので、種痘を子供を使って持ち帰る話です。

親子を伴っての冬山を乗り越えるなど、波乱に満ちた町医者の笹原良作の半生を描いた作品で、あらためて「吉村昭」という作者の描写の凄さがうかがえます。


雪の花 (新潮文庫)

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅子供達へ⦆(3)

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ヤングケアラーという言葉が、最近認知されるようになってきました。

親や祖父母、同居する家族の病気などで、介護する子供達の事を指す言葉です。

公共による援助は、介護される方に向いてはいますが、

介護する子供達の方には、援助するようなシステムが、未だ日本には整っていない、

もしくは何の支援も無いのが現状で、学業や進路など、ただでさえ人生の目標などを決めるような大切な時期に、介護という問題が重なり、多くの子供達が小さい胸を痛めているのです。

それに加え、家事や、介護に時間を取られ、友達とのコミュニケーションも希薄になり、本来の若い時期に味わえるような、友達との交流や部活動に支障が出て、満足に学生生活を送れていない現実が問題になっています。

 

「誰が悪い?誰のせい?」子供達に投げかけられる言葉ではありません。

それは、周囲を取り巻く大人達、市町村や国の責任であり、個人的な問題では無い事です。

子供達に責任はありませんし、勿論、個々の家庭を責める事でもありません。

子供達が現状を受け入れ、選択肢が若いうちから狭められる、

「仕方がない」という言葉を、子供達の口から出させるような社会の在り方や教育のされ方は、決して健全とは言えないのです。

介護を担う子供達や貧困で働かざるを得ない子供達の存在を、大人達が真剣に向き合う事をしなければ、未来は無いと言っていいでしょう。

 

自分の置かれた現状の中で、誰にも相談することなく、むしろ相談をする事自体をためらっている子供達の存在に、周りの大人達が手を差し伸べる事を、社会全体で後押ししなくてはなりません。

 

ヤングケアラーだけでなく、一人親の問題やイジメ、疎外感からの現実逃避、育児放棄や貧困、宗教二世問題など、子供達を取り巻く環境は、何一つ良くなっていない、むしろ表面化しにくくなっている今の日本の現状は、大人達が放置し、真剣に向き合う事をせず、誰も責任を取らない事の表れにほかなりません。

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自己責任という残酷な言葉を、子供達に掛けては絶対にいけない事です。

何度も繰り返される自殺問題にしても、過去から学ぶ事をしない、むしろ目をつむるような、責任逃れの大人達の行動を子供達は必ず見ているのです。

子供達のせいではない、責任を取るのは大人であり、関心を持ち続ける事の大切さや無関心でいる愚かさを、私達個人個人はもとより、マスコミは、もっと伝えなければならないのです。

 

子供達へ

私のフィリピン人の妻は、昔スモーキーマウンテンと呼ばれていたゴミ山のそばの貧困地区に、両親と姉、二人の弟と住んでいました。

幼い頃、4歳頃からゴミ山でプラスティックを拾い集めたり、ビニール袋を売ってりして、家計を助けていました。

妻の姉は母方のそう遠くない祖父母の所に預かってもらい、父方の妻の祖父母は、遠く離れた田舎で生活しており、食いぶちを減らすという事で、妻は、そちらに行かされそうになったのですが、母親と離れたくない一心で、三つ下の弟を連れてゴミ拾いをする事になったのです。

その頃妻が、誤って窓の転落防止策の尖った部分が、唇の下を突き刺したことがあったのですが、勿論病院に行くお金が無い事と、恥ずかしい事もあり、手で隠して親に話さなかった事もありました。

今でも、傷跡が残っています。

学校も満足に行けず、学校で行われる行事もお金が無いので参加できませんでした。

ですから、友達も出来ず悔しい思いをしてきたと話してくれました。

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家族は狭い部屋の中で、重なる様に寝ていたそうです。

妻は、それでも勉強がしたくて頑張っていましたが、進学は当然出来ませんでした。

幼い頃の彼女、妻の記憶は貧乏との闘いと、同年代の他の人達に対する、引け目や憧ればかりで、そんな中での救いは、家族で一緒にいられる事だけだったそうです。

フィリピンという国は、困っている人達に対する援助の仕組みが、ほとんど機能していません。

ですから住民同士、家族同士のつながりがとても強く、そうならずには生きていけないのが現実です。

困った時、遠慮していると死に直結する事も多いので、助けを求める事に、何の抵抗も無いのです。

助け合いが生きていく上で、欠かせないモノであり、諦めや絶望が、ゴロゴロ転がっている国なのです。

ですから、稼いだお金は、貯める事なく(実際は貯められない)使い、今日を生きる事だけを考えながら、明日を迎えるという、ある意味、楽天家でないと、とても精神が持たないという事です。

 

あなた達に、「もっと下の人がいる」だから「まだ幸せな方だ」というつもりで書いたわけではありません。

それは、妻が苦しい中での日本に行くという、行動があって今があるという事を解って欲しいからです。

心もとない支援しかないこの日本という国ですが、フィリピンに比べれば、はるかにマシな部分があるのも確かです。

ですから、我慢する必要はまったくありません。

声を上げて欲しいのです。行動して欲しいのです。

確かに難しい事だと思います。

周りの友達に、気楽に話せない事も沢山あるでしょう。

友達すらいない人もいるでしょう。

誰でも、言いたいけれども、素直に話せない事を経験します。

恥ずかしかったり、同情して欲しくなかったりと、理由は沢山あるでしょう。

なぜ僕が、私がと思う事もあって当然です。

でも、あなた達のせいでは決してありません。

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とにかく声を上げてもいいのです。

「自分が我慢すれば」という優しい気持ちがあるあなたは、もう充分頑張っているのです。

将来に対して希望が持てるように、色々な選択が出来るようにして欲しいのです。

あなた達若者は、なによりのお金では買えない宝物で、きっと心優しいあなた達は、未来を変えてくれる存在だからです。

だから、一人で悩まず誰かに助けてもらって下さい。

自分を責める事は、何一つありません。

決して恥ずかしいことでも、迷惑かけることでもありません。

あなた達が声を上げる事で、沢山の同じような境遇にいる人達を救う事が出来ます。

運命という言葉は、諦める為の言葉ではありません。

が、残念ですが不平等や不公平は、大人になってもあり続けます。

でも、今のあなた達が経験している事が、ギスギスしている世の中の銃滑剤になると信じています。

心優しい大人もいます。

あなた達は、その様な人達を呼ぶ力をすでに持っています。それが、自然の流れ、摂理だからです。

もう一度書きます。

自分で抱え込まない事と、あなた達に今起きている現状の責任は、一切ありません。

助けを求める事は、とても勇気がいるかもしれませんが、どうか声を上げるようにして下さい。

 

頭が、心が疲れ、意欲が無くなってしまっても、あなた達のその若い身体は、毎日毎日細胞が、どんどん生まれ変わり、表にはじき出したいエネルギーでいっぱいなのです。

だから、その身体の声を、叫びに逆らわず、思いっきり外に出して下さい。

 

誰のせい?あなたのせいでは、ありません。

それは大人のせいです。

 

日本国憲法第二十五条

1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

厚生労働省ホームページ(ヤングケアラーに関する支援制度)

https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer.html

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅因果応報と輪廻転生⦆(2)

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因果応報(いんがおうほう)という言葉があります。

自業自得も同じような意味で、よい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるという意味で使われています。

自業自得も同じような意味になりますが、「恩を仇で返しやがって!あいつは自業自得だよ」という

どちらかというと悪い意味に使われます。

しかし読んで字のごとく、悪い事だけでは無く、良い事も、自分の行為によって起きるという意味にもなります。

考えてみましょう。

「良い事(行い)」と「悪い事(行い)」とは、何を物差しに決めているのでしょうか?

良かれと思ってやった事が、かえって悪化させてしまう事もありますし、よこしまなな考えで、成功する人もいます。

「アイツのせいで」と憎む事や「早く気付いておけばこんな事には」というような後悔は、誰でも生きている中で湧いてくる感情でしょう。

また単純に、法を犯す事が悪いとも言いきれません。

圧政に苦しむ人達が、反旗を翻(ひるがえ)す事だってあるでしょうし、貧困や飢餓で、配給物を我先に人を押しのける事もあります。

人殺しの道具になる武器製造に、携わっている人もいます。

戦車や戦闘機、戦艦や砲弾、銃などキリがありません。

どうでしょうか?このような人達は、悪い行いの人達と言い切れるのでしょうか?

自分の会社が兵器を作っている事で、悩むかもしれませんし、仕事だからと深く考えないかもしれません。

因果応報という言葉は、良い悪いで判断し、結果ご褒美や罰が与えられるという事で解釈してはいけないのです。

物事が動くことで、何か結果が起きるという単純な事を意味しているだけです。

「誰かに道案内をしてあげたから」という例でいうと、

してあげたから、いつか困ったときに誰かが助けてくれると、捉える事も出来ますし、ただ困っていたから手を差し伸べただけで、それ以上の事を考えて行動してはいないかも知れません。

道が解らない人に対して、道案内という行動の結果、無事目的地に着けたという事実だけです。

よく、災害が起きると天罰だという人がいますが、災害が起きた、だから犠牲者が出たというだけで、天罰でも、自業自得でもないのです。

 

すなわち物事が動く事で結果が起きるだけの事で、その事を頭に入れて、行動するようにとの意味なのです。

災害が起きれば、教訓として次に備えたり、戦争を起こさないように語り継いだりせよという意味なのです。

誰かのせいにするのではなく、教訓として活かせという事です。

そしてあなたの行動が引き起こす事をよく考えて行動しなさいという戒めなのです。

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では「応報」は何を指しているかという事ですが、前述のように起きた事をそのままにしないで、教訓とし、不幸な目に会わない人を増やさないという事です。

ただ単に自分だけに還ってくると捉えると、人間は損得勘定で動いてしまう事がままあります。

あなたが、良い行いと思ってやる事で、良い事があなたに還って来るという単純なことではありません。

道案内でいうと、あなたの行動「因果」によって、困っている人が助かった事が「応報」です。

もしその時に、心が暖かくなったなら自業自得として、また困っている人を助ける人間に成るでしょうし、もし子供が見ていたなら、その子も同じ行動を起こす人間となり、自得となります。

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輪廻転生」(りんねてんせい、てんしょう)という言葉があります。

仏教に詳しい方ならご存じだと思いますが、簡単に説明すると、

輪廻」は、死んだ後、何度も生まれ変わる事で、人間だけでなく、あらゆる生物にも当てはまります。

転生」も生まれ変わるという点では同じですが、魂が別の肉体に宿り生まれ変わるという事と、繰り返すことが無いという違いがあります。

他の宗教でも、一部を除き同じような考え方を説いています。

一般的な受け止め方として、上記の様な認識でしょう。

詳しい事は、ここでは書きませんが、この「輪廻転生」という言葉の意味、すなわち教えは、どのような事を指しているのでしょうか?

 

あなたが何か悪い行い(行い=業)をすると、死んだ後、魂が極楽浄土や天国でなく、苦を伴う世界に行き、また誰かの、もしくは他の生物として生まれ変わり、過ちを正さない限り、グルグル廻る事を意味していますが、どう思われるでしょうか?

このブログでも書きましたが、極楽浄土、天国や地獄はありませんし、死後の世界もありません。

それは、まるで空想科学特撮の様な話なのです。

マスター達の教えとは結びついていない事の方が多いのです。

先祖が犯した罪を、生きている私達が償うというなら、償わなければいけないというなら、人類全員が当てはまります。

人類が誕生して以来、殺戮の繰り返しだからで、今この瞬間もその状況は変わってはいません。

ルーツをどんどん遡っていくと、何処かで誰かが殺生をしているからです

これでは、永遠の繰り返しで、地獄や六道(注1)には入りきらないほど溢れている事になります。

また、「どうせ、ほとんどが苦の世界に行くんだから」と悪い事をする人が出ても不思議ではありません。

宗教を信じていても、「どうせ地獄行き」と思うでしょうし、信じていなくても、悪い事をする人がいるというおかしな論理が成立してしまい、何の為の教えなのか矛盾している事になり、このような教えをマスター達が説くはずがありません。

もう少し分かり易く例を出してみましょう。

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「おい!賢い人が、幸せになる話をするらしいから、聞きに行こう」

暮らしがよくなかったり、悪い事が重なったりした人達は、ぞろぞろ集まってきます。

「みんなに解りやすく説明するからよーく聞くんだぞ」

「私のいう事を信じれば、幸せになれる」

「いいか!お前たちは先祖からの祟(たた)りを背負っておる。お前たちの子供がそうならないように、良い行いをしなさい」

「それは解りますが、今の俺たちはどうしたら幸せになれるのですか?」

「良い事をすれば、死後に素晴らしい世界に行けるのである。もし信じなければ、恐ろしい所に行く羽目になっていたのだよ。だからその事を教えにやって来たのだ。感謝しなさい。」

「あ~聞かなければ良かったぁ~」

「死んだらどうなるんだ?俺は今も苦しい生活でいるのに、死んでも苦しむのかぁ?」

「ほら!お前が踏んでいる虫は、悪い事をした奴の生まれ変わりだぞ!」

「俺はそんな話は信じない」

「信じなければ、苦しみが待っているのだ」

「やっぱり聞かなければ良かった~」

「今、辛い事ばかりが続いているのは、どうしたら良くなるのですか?」

「良い行いをすれば、良い事が起きる!いつかは解らん!この世か来世か、必ず起きる」

「私の子供はまだ幼いので、何も悪い事はしていません。でも何で辛い思いをしているのですか?」

「だから、悪い魂がお前の子供の身体を借りて生まれてきたからだ。」

「俺は、悪い事をしたことがある。俺はこの先どうなる?」

「悪い事をしたなら、報いを受ける。生まれ変わっても、人間としては生まれて来れないぞ」

「どんな悪い事をしたか、私に話しなさい。悔い改めれば死んでも良い世界に行けるが、償う為に誰かが生まれ、苦しむことになるが、その様な仕組みなのだ!」

「生きている間に、とにかく私の言葉を信じ、祈り続けるのだ。そうすれば救われる」

「いいか!信じる事が全てなのだ。よく聞くのだ!話が前へ進まないではないか!」

 

どうでしょう?結局、信じる信じないは、関係ない事であり、前提となっている、天国や極楽、地獄の存在も意味が無い事になってしまいます。

たとえ話や空想などの手段を取る事で、多くの人達に上辺だけでも理解してもらい、

それが歯止めとしての心の線引き、道徳を生み出す事になるからです。


が、その本当の教えがどのようなモノなのかを理解していないのです。

 

 

(注1)地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上、の6つを指す事で、差はありますが、全て「苦」と言われています。

 

輪廻転生」とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

もし誰かが虫や動物に生まれ変わったと考えれば、むやみに殺生はしないでしょう。

すなわち、生まれ変わるという前提で、生物を見る「心」の在り様の事を教えているのです。

実際に生まれ変わらないとしても、見方を変えて見る事の大切さを、教えているのです。

食事をする時も、ありがたみをを感じる事が出来るようになりなさいという教えなのです。

無駄な、動植物に対する殺生も、食べ物を粗末にする事も、誰かの生まれ変わりだと考える事で、生かされている事に気付き、食品ロスも減らすことが出来たり、ペットを捨てたりしなくなります。

「生まれ変わる」というところに焦点を当てている宗教に問題があるのです。

だから、あの世や地獄の話が出てきて、迷わされて教えが活きてこないのです。

 

亡くなった人達の魂が、別の肉体に宿る事なんてありえません。

それは連鎖を断ち切る事と繋げていく事を意味しているのです。

誰かの悪い行いだと思う事があれば、あなたが良いとする行いで、その悪い行いをやめさせられるのです。

子供達の前で、平気で信号無視する大人達は、連鎖を断ち切っていないという事です。

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信号無視の話でいうと、あなたがお手本となる事で、子供達の命を守る事が出来ると考えてみれば分かりやすいと思います。

例えとして、魂が肉体に入り込んで、入り込まれたあなたが、悪い連鎖を断ち切れと教える方が、理解できるからです。

天国や地獄、魂といった空想の世界観で働きかけるのが、誰にでも一番伝わりやすい方法で、実際には無い事を、作り話として解りやすい様にしているだけなのです。

あなたの生きている時の行動が、次の世代に関わるのですから、よく考えて行動しなさいと、そして悪い行いをすれば、真似をする人を増やす事になるから、やめなさいと説いているのです。

逆もしかりで、良い行いは子供達も含めて、他の人に繋がっていくのです。

言い換えれば、その想いが詰まった「魂」というあなたの想いが、亡くなった後も世代を超えて、心の中に伝わり引き継がれていくのです。

 

宗教にまつわる話になりましたが、仏教だけに当てはまる事では無く、他の宗教も同じような事が伝えられています。

ただ、表現が異なる事や、言葉の解釈によって、本来の教えが伝わっていないのです。

 

マスター達は、生まれる前の事や、死んだ後の事を話したわけでではなく、今生きている、その生(せい)の中に全てが詰まっていて、ないがしろにしないようにと伝えているのです。

誰のせいでも無く、良い事も悪い事も自分自身に対する戒めであり、あなたの生き方が問われている、自業自得という事です。

 

波の音で気持ちをリラックス


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誰が悪い?誰のせい?⦅心の持ち方⦆(1)

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誰のせいでもありません。自分のせいです。

でも、だからと言って自分を責める事ではありません。

その気持ちは、やり場のない気持を一時的に避難させ、先延ばしにしているだけです。

たとえ理不尽、一方的な言葉や要求であっても、一旦立ち止まり自らを省(かえり)みる事は、短絡に考える事への警告となります。

まずは自分の非、至らなかった事を考えるきっかけとし、誰かのせいにしない事です。

決して自身を否定する事ではなく、むしろ自身を高める事になるでしょう。

 

ただし… 一時的な避難は心を楽にしてくれます。

聖人君主でもない限り、誰にでも起きる感情です。

そんな時

1、人間に与えられた想像力をかき立て、頭が混乱するくらいの答えの出ない「一人問    答」で切り抜ける。ただし一度のみ

2、誰かに愚痴る。但し、引き延ばさない事。(注・お酒や、薬に依存しないように)

3、自分がいかに正しいか、相手がいかに悪いかを書き出してみる。(思考実験でも良し)

4、寝る。眠くなるまで起き続ける。

5、何か他のものに、わざと注意を向ける。映画、音楽、美術、読書、今までに関心が無かった分野にも触れてみる。

6、環境を変える。引っ越しや職場、学校を休む。もしくは変える。旅行する等と、普段とは違う場所に自らを置く。

 

難しいです。

頭で解っていてもなかなか出来ません。

例え一時しのぎだとしても、自ら行動しなければ、気持ちを楽に出来ない事の方が多いのです。

気を付けなくてはいけないのが、「一時しのぎ」のやり方であり、解決法ではないという事です。

 

出会いや、環境の悪い時があるのも事実です。

悔しい思いや、感情を逆なでする人は何処でもいます。

騙す人や、悪意を持つ人、容姿だけで決めつける人。

それでも「誰かのせいにする」という逃げ道に、進まないよう心掛けるのです。

よこしまな、ひねくれ者は何処にでもいます。

その様な人が、あなたを苦しめているのでしょう。

悪いのは勿論、その人達ですが、罠に引っかかってしまうのです。

 

「誰かのせい」それは受動的、つまり受け身であり、問題の解決を人に委ねる事です。

「自分のせい」は能動的、すなわち自身に主導権があります。

「魔が差した」「悪魔の誘惑」「アイツさえ、いなければ」「あの人のいう事を聞いたから」

数えればキリがないほど、責任を取ってくれるモノを探してしまいます。

それは自分で作り出している幻のようなものです。

そう、心の中に余計な、ねちっこい煩わしさが、根を張りだすのです。

あなたの一生を面倒見て、責任を取ってくれる人なんていません。

あなたが居なくても、会社や学校、世界は回り続けます。

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隣の葉っぱが気になった。

いつかあいつの影になり、きっと光が届かぬと。

隣の葉っぱが枯れだした。

虫に喰われて穴開いて、知らぬ間に消えていた。

葉っぱは、はたと気が付いた。

隣の葉っぱが支えてた、僕らの大事な木の事を。

 

免許証を持っている人なら必ず習う事ですが、

「だろう!」ではなく

「かもしれない?」運転に心掛けなさいと。

正に、先手を打つのです。

これから起こりうる事柄の「自身が主導権を持つこと」が、とても大事なことなのです。

決して他人に主導権を、握らせないようにする事です。

相手を打ち負かせようとか、リベンジする意味ではありません。

もし、あなたが見方を変える事が出来たとしたら、どうでも良くなる事なのです。

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弱い者ほど強がる。

弱い者ほど誘惑に魅せられ、未来を見ず、過去から学ばない。

弱い者ほど群れたがる。

進化によってせっかく手に入れた脳と心を自ら放棄し、実に悲しく愚かな事。

強がるな。

粋がるな。

心に隙が生まれ、大切な時や人との出会いを失うことになる。

己を自覚し見失うな。

常に謙虚でいなさい。

心はいつも曖昧で虚ろで意に反する事をしたがるから。

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一番気を付けなくてはいけない事は、

誰かのせいにしている時に、自分の行く方向が正しく決められるわけが無いという事なのです。

この世の中、理不尽な事ばかりです。

その矛先を自分に向けたくないのは、誰もが同じです。

ただ、簡単な抜け道を、「すなわち誰かのせい」を選ぶ事ばかり続けていると、大切な機会を見逃し、大切なものを失うでしょう。

 

大切なのは、今のあなたの生き方です。

どう生きていくのか、何を伝えたいのかの、自らの選択権を放棄しない事です。

確かに、いつも穏やかで優しい人間でいる事は、難しいに決まっています。

ただ、主導権を他人に委ねてしまうと、あなたに訪れるであろう素晴らしい出会いや出来事を、放棄する事になってしまうのです。

 

苦手な相手、嫌な相手に対する対処法のレッスンをしても、出来ないから悩んでいるのでしょう。

急に、生き方や考え方を変える事が出来るなら、苦労しません。

よほど、環境や思わぬ出来事が無い限り、簡単に人は変われないのです。

あなたが、あなたでいる事で、生の答えを出していくしかないのです。

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柔道や剣道、空手、合気道などの武術は、相手を倒す事を目的としていません。

日々の鍛錬の中で自分を見つめ直す事から始まります。

そして、軸となる重心を定め、それでいてリラックスした状態で、相手と向き合います。

肩に力が入るわけでもなく、とはいえスキもありません。

どれほど練習しても、心と身体が一体として伴っていないと負けてしまうのです。

 

「誰かのせいにする事」は、根本となる部分を学ばずに、技だけ会得しようとしているのと同じ事なのです。

技に頼ってばかりいると、失敗から学ぶ事も出来ません。

軸となるモノが無いから、何度も同じ事を繰り返してしまうのです。

剣道がだめなら、柔道の技でとか、フェンシングがいいかもとか。

誰かのアドバイスは、技を教えているにすぎません。

だから、何の役にも立たないのです。

しっかりとした軸と柔軟な頭を持つ事で、常に自分と向き合い会話をし、謙虚でいるからこそ、主導権を握れるのです。

 

「全て起きた事は、自分に責任があり、すなわち行動が結果を生み、だから「自業自得である」と書いているのではありません

災害といった予期せぬ不可抗力な事や病気、事故に会う事だってあります。騙される事もあるでしょう。

自分の力だけでは、どうしようもない事だっていくらでもあります。

 

だからこそ日頃から、逃げ道を作るようなことを、そのテクニックを学ぶような姿勢でいると、いざという時に立ち向かっていけなくなるのです。

地震や台風はもとより、誰かに「あなたのせいだ」と叫んだところで、仕方がないのです。

災害が起きる事を想定して、日頃より備えを整えたり、家族の連絡場所を決めたり、あらかじめシュミレーションや訓練する事で、災害が起きた時に役に立ちます。

頭でだけ覚えた知識は、いざという時にとっさの判断が出来ません。

何より、人任せにしていては、逆に危険を招くことになりかねないのです。

 

誰かのせいにする事は、過程を省く事です。

始めと、終わりの間にある、過程こそが一番大切な事です。

それは、経験となったり、戒めとなったりと、行動を起こす為の知恵や勇気を与えてくれるものだからです。

誰かの真似事で得られるものでは無いのからです。

 

今まで書いてきた事は、、あなたの人生であるという、本質を見失わない事と、安易な逃げ道を作らない事です。

あなたの行動の選択や主導権はあなたにあり、他人に握らせる事の無い様にする為の事です

一旦、問題を持ち帰り、考える時間、すなわち過程を大切にするという意味です。

もし、苦しくてどうしようもない状態なら、誰かに話しをする勇気を出して下さい。

それも出来ないなら、その場から去りましょう。

それこそあなたが選べる事です。

必ず助けてくれる人が現れます。

その為に普段の自分の見直しが必要なのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

「Madness. It repeats the same thing, to expect a different result that.」

『狂気。それは、同じ事を繰り返し行い、違う結果を予期すること。』

 

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対人関係に悩まない(2)

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どうしても、この社会の中で生きていく上で、対人関係は悩みの一つになります。

この手の問題解決法として溢れているのは、常に自分に対する対処法、すなわち、悩ませる相手では無く、自分を変えていく事がメインになって話が進んでいます。

考えてみると、自分自身の課題にする事には、無理があるのです。

考え方を変えたり、あしらい方や付き合いの距離などのほとんどが、悩まさせられる当人に向けての言葉です。

「お前にはイライラするな!」「グズグズするなよ」と言われて、

たとえその場で我慢出来たとしても、後から愚痴るのが本当のところでしょう。

無視したり、会話を控えたりしても、家に帰れば愚痴がポロポロ出てきます。

問題を解決しているどころか、より深く根をはらして自分の中に留まるだけで、ストレスばかりしょい込み、何の解決にもなってはいません。

「誰かのせいにしない」「ポジティブ思考に」……

キリがないこれらの言葉は、上辺だけの正論であり、実際には、かなりハードルが高く、簡単に自分の意識を変える事が出来ないのが現実ではないのでしょうか。

名言や教訓、その手の言葉は、世間的に知られ、うまくやって来た人の言葉が多いのです。

それを真似したところで役に立つなら、それらの言葉はもう必要ないはずでしょう。

実践する事すら難しいのが現実なのです。

 

人間はそう簡単には変われません。

誰もが苦しんだり、悩んだりして生きていますし、望んでいた生き方が出来ている人など、ほんの一握りかも知れません。

そして、その多くが名も無き人達の人生であり、名言や教訓を生かせないまま、人生を終えているのです。

ただ、幸せかどうかは別の話です。

たとえ苦労の連続だったとしても、幸せと思える人生を歩んできた人も、

沢山いるのです。

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まず振り回されている事に気付くべきです。

自分にとって、得か損か、役に立つか立たないかが、常に頭によぎっているとしたら、人間関係問題へのすり替えをしているだけです。

自己改革をしないと、良い方向には行かないという暗示をかけない事です。

人に優しくすれば、優しくされるという法則などに囚われない事です。

行動が結果を生むという理屈から、一旦離れてみる事です。そこに問題があるのです。

出来ない事は、出来ません。

しかし諦めろとは言っていません。

根本的なところから考えなくては、前に進んで行かないという事を、まず理解しなくてはいけないのです。

何の為に、自己の見直しだの、心の持ち方だのをやっているのでしょうか?

人間関係をよくする事=幸せとは限りません。

自己改革=相手に合わせる為?

抜けているのです。自分が。

 

人間関係で悩む為に生れてきたのでしょうか?

誰かを幸せにする為でしょうか?

何の為に、努力をし、試練に耐え、頑張るのでしょうか?

自分が何をしたいのか?生まれてきた事に対する、答えは何であるのか?

どのような生き方をし、どのような信念を持ち続けたいのか?

どんな人間として、この世を生き、死んでいくのか?

自分というものを見直さないと、本来の問題点が見えてきません。

目まぐるしく、狭い社会で過ごしていると、以上の様な視点が抜け落ちて、

目先の対処ばかりに気を使い、結局その場しのぎばかりになっているだけです。

 

例えば、宝くじで1億円が当たったとします。

もう、あなたは人間関係の悩みなど、頭の片隅にもないでしょう。

人間ってそんなものです。

あくまでも、宝くじに当たったという前提ですが。

言い換えれば、それ程悩むことであったのかどうか?

人生の中で、それ程大きな問題だったのか?

 

あなた自身が「自分」というものに確信が持てなければ、何をやっても、アドバイスを聞いても、良い方向に行くはずがないのです。

人との出会いは、大切です。

思いがけない幸せをもたらしてくれたり、道が開けたりします。

それは、起きるべきして起きた事であり、上辺だけの繕いでは、起きる事は無いのです。

 

自分がどう生きたいのかの裏打ちが、その後の出会いや人間関係に影響するのです。

大金持ちに成りたいなら、徹底的にそれに向かって進むだけです。

優しい人間でありたいなら、出会いを期待する必要などあるはずがありません。

ただ優しい人間でいるあなたでいれば良いだけで、出会いは後からついてくるのです。

人を追い詰め、困らしてやろうと思うなら、それが自分の生き方として選んだのであれば、結果その様な人達に囲まれて、生きていくのです。

その場しのぎの誤魔化しでは、人間関係がうまくいくわけがなく、また別の機会に同じような人が目の前に現れ、同じように悩むのです。

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例えば、あなたは音楽が好きで、シンガーソングライターを目指しているとしましょう。

最初は、誰かにならうか、独学で誰かのマネからのスタートです。

さらに上を目指す決意があれば、自分の好きな事である為、一生懸命に努力するでしょう。

でも、まだ基礎の段階です。

そして音楽でプロを目指し始めます。

バンドを組むかもしれません。すると仲間が出来てきます。

ところがです。だんだんと横やりが入ってくるのです。

「いつまでそんな事をやってるんだ」「プロになんかなれるわけがないだろう」

「そんな曲売れるわけがない」「下手くそだよなぁ」と

でも、そんな横やりに耳を貸す事はありませんし、当然耳も傾けません。

あなたに「信念」や「夢」があるからです。

練習中にアドバイスしてくれる人も現れます。

解らなければ、教えてくれる人も出来るでしょう。

何故なら、みんな音楽が大好きだからです。

あなたの中に、大切にしたい何かがあれば、周りの事は雑音でしかなく、集まってくる仲間も、あなたと考えを共有できる、夢を語れる人達が集まってくるのです。

そして、もしプロとしての夢が叶わなかったとしても、出会ってきた人達、夢を一緒に見てきた人達は、一生の宝物になります。

何より、音楽が好きでいるあなたが、変わらずいられる事です。

 

30代の頃、アマチュアバンド練習用の音楽スタジオで働いていました。

録音のオペレーターや接客など、朝から晩まで忙しくしていましたが、私自身も音楽をやっていたので、仕事が楽しくて仕方ありませんでした。

音楽という共通のテーマで集まってくる色々な人達。

職業も、国籍も様々でしたが、みんな素敵な人達ばかりでした。

肩書や年齢、性別など、どうでもよく、共通の目標を持つこの場所で、数多くの出会いがあり、数多くの話をし、夢を語り合えた事は、私にとって未だに忘れられない良い思い出となっています。

 

人間関係で悩むのは誰にでもあり、辛い事です。

誰だって傷つきたくはありませんし、楽しく毎日を過ごしたいのです。

が、あなたの中に自分という何か、生きがいでも、夢でも、人間性でも、生き方そのものでも、いつも大切にしたい一本の木のようなものがあれば、出会いにしろ、チャンスにしろ、必ず訪れるものなのです。

たとえ苦境に立たされたとしても、あなたが自分に正直に生きていれば、乗り越える事が出来ます。

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もう一度書きますが、

心優しい人間でありたければ、

ずっと優しい人間でいればいいのです。

誰も見ていなくても、道端のゴミを拾う人間でいればいいのです。

悪口を言わないと決めたなら、ずっと悪口を言わない人間でいればいいのです。

仕事に手を抜かないと決めれば、そのようにし続ければいいだけなのです。

誰かに評価されたり、逆にひがまれても、そんな事は、関係ないからです。

誰が見ていようといまいと、あなたの生き方であり、あなたでいいのです。

どんなに嫌な人達が、あなたに近づいても、彼らから離れていく事でしょう。

テクニックなんか学ぶ必要はありません。

一貫性に欠けているからこそ、ブレて抜け出す方法を学ぼうとしているのです。

 

私自身、幼い頃からイジメられっ子でした。

大人になり色々な仕事をやってきて、社長や派遣先の上司や、同僚からパワーハラスメントも経験してきました。

「こんなにも人の事を考えられない人がいるのか」と何度も思ったこともあります。

ただ、そんな中でも助けてくれる人達がいたのです。

どれほど心が休まったか、感謝しかありません。

そんな経験から、どんな事があっても、自分らしさを失わない大切さを学んだのです。

同時に、自分が損得勘定で動いていれば、助けてくれる人は現れないのです。

 

いずれにしても、たった一度きりの人生です。

そして、必ず死ぬのです。

イヤな人間関係に時間を使っては、もったいないのです。

あなたは、あなたでいいし、いつまでもあなたです。

そして、どんなあなたでいられるかも、あなたが決められるのです。

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3Dリアル自然音「波の音」

想像力は未来に!(2)⦅アインシュタインに想いを寄せて⦆

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(Ferdinand Schmutzer Public domain, via Wikimedia Commonsより)

 

このブログに、よくアインシュタインの言葉を使わせてもらっています。

私がアインシュタインに興味が湧いたのは、1991年の4月から12月にかけて放送された、NHKスペシャルアインシュタインロマン』を見た時からです。

番組のコメンテーターをミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende)がしていたのに、まず驚きました。

エンデの小説『はてしない物語』の映画化された作品、1984年の『ネバーエンディング・ストーリー( The NeverEnding Story)』に心躍らせて観ていたからです。

児童文学『モモ(Momo)』でも有名なでもあった彼の姿を見る事が出来ただけでも、ワクワクしていました。

物理学者アルベルト・アインシュタインをテーマにしたこのドキュメンタリー番組は、当時宇宙や、神や宗教に興味があった私に、衝撃を与えるモノでした。

VTRに録画し、何度も見直した記憶があります。

ただ、残念ながら当時のVTRは再生機が壊れて見られないのです。参った!

名前こそ知っていたアインシュタインでしたが、その想像力の凄さや、信念を垣間見る事が出来たこの番組で、彼の虜になったのです。

有名な「E=MC2」の方程式がどのようなモノなのか、光の正体など興味が尽きない問いに、解りやすく解説されていたのを覚えています。

彼が、生きていた時代1879年- 1955年は、大きな戦争が起きた時代でもあり、

物理や化学が、戦争に対してどのように向き合うべきかを問われた時代でもありました。

 

第一次世界大戦では、平和運動をし、第二次世界大戦では、当時のナチスを倒すべく、考えを変えたりと、ユダヤ人であった彼の、学者と人間的な側面との葛藤があった事を知り、ますます彼に興味が湧きました。

 

数えきれないほどの功績の裏に、学校嫌いや離婚、自身による家庭内暴力など、人間的な悩みがあった事。

靴下に穴が開くことがイヤで、はかないという選択を選び、服装にも、選ぶのに時間がかかるのを嫌って同じ服を何着も持っていた事(アップルの創業者スティーブ・ジョブズも同じ事をやっていた)や、あのぼさぼさ頭で解るように、外見に対し無頓着であったこと等、彼の人となりをうかがわせるエピソードに触れる度、ますます惹かれていきました。

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(Photograph by Orren Jack Turner, Princeton, N.J.Modified with Photoshop by PM_Poon and later by Dantadd. 米国議会図書館の版画と写真部門より

1922年11月30日撮影 日本のアルバートとエルザ・アインシュタイン

 

彼は、日本好きでも有名であったとされ、当時アメリカにいた日本人として初めてのノーベル賞受賞で理論物理学者の湯川秀樹に、原爆投下での過ちを涙ながらに許しを請う言葉を話したともされ、私の中での彼の存在は、尊敬へと変化していったのです。

(原爆製造のマンハッタン計画には、アインシュタインは入っていません)

 

彼が残した言葉、名言は確証が得られていない言葉もあり、

使わせて頂く立場としては、心もとなく思いますが、

それでも、彼の人間性も含め、夢を見させてくれた人物には変わりありません。

 

彼が生み出した、神の方式、物事をシンプルする方程式を理解する力は、

私には全然ありませんが、冒頭にも書きましたが、彼の考えた事が、実際にこの世界で証拠が出て証明される度に、子供のようにワクワクするのです。

最近も、重力レンズによる見えないものが見えるといった映像が、どんどん発表されています。

2019年4月にイベント・ホライズン・テレスコープ

(地球上の8つの電波望遠鏡を結合させた国際協力プロジェクト)

によって実際のブラックホールの撮影(注1)に成功しニュースになりましたが、それ以前に作られた


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2014年『インターステラー( Interstellar)』

クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)』監督によるSF映画の中で、ブラックホールの姿が見事に再現されていて、科学考証の正確さや、視覚効果の素晴らしさの賜物で、この映画の凄さには、私もビックリし、再度観直しました。

恥ずかしい話ですが、ブラックホールが丸いとは思ってもいなかったのです。

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(ファイル:ブラックホール - メシエ87.jpg。(2021年、9月27日)。ウィキメディア・コモンズ、無料メディアリポジトリ. https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File:Black_hole_-_Messier_87.jpg&oldid=593847062 から取得。)

 

最近も、香取秀俊(東京大学 教授/理化学研究所 主任研究員)さんが、光格子時計を作り、話題となりました。

要は、とても正確な時間を測れる時計です。

ニュースでは、スカイツリーの上と下では、下の方、

すなわち重力が大きい方(地球に近い)が時間が遅れている事を、確認した話など、

アインシュタインの理論を実際に確認できる時代に生きていられて、

本当に幸せだと思います。

もしアインシュタインが生きていたら、どれほど喜ぶか。

そんなことを考えるだけでも楽しくなります。

 

私が、アインシュタインから学んだものは、彼が良くやっていた「思考実験」

すなわち頭ので色々と考え、疑問を問い、解読するその想像力の大切さが、

いかに大切かという事と、想像力が生まれやすい、教育の大切さです。

アインシュタインも、自分の受けた教育に疑問を持っていたそうです。

彼はこんな言葉を残しています。

「The only thing that interferes with my learning is my education.」

『私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。』

 

規則ずくめで軍国主義的な校風が、彼を苦しめていたらしく、退校しています。

ただ、独学でピタゴラスの定理微分学と積分学も習得し、それが十代前半の事なので、驚くばかりです。

 

アインシュタインは、好奇心と想像力の塊のような人だったようです。

ですから、規則や厳格といった枠に閉じ込められるのが、イヤだったのでしょう。

 

覚えれば良い勉強は、調べればすぐ分かる事で、意味がほとんど無いのです。

大化の改新」は645年と習ったものが、646年に変わったり、

「イイクニつくろう鎌倉幕府」と覚えた1192年は1180年から1190年にかけて段階を経たと変わったり(1185年と記載されている教科書もあります。)と、

私が受けた覚える教育も、意味が無かったのです。

あの、人間の進化を描いた絵。

サルから段々人間と進化するあの図も、正しくないのです。

ネアンデルタール人」て良く耳にしますが、現代の人間とネアンデルタール人は、共存していたのです。

ジャワ原人北京原人も、絶滅したとされています。

708年の和同開珎が日本最古の貨幣であると教えられてきましたが、

687年製造の富本銭が発見された為、現在では富本銭が日本最古の貨幣とされていますし、

私の好きな天文部門でも、太陽系の惑星である冥王星は、2006年に国際天文学連合が「冥王星は惑星とは言えない」という見解で、準惑星という定義になっています。

最近も、もう一つ惑星があるかもしれないといった情報も流れています。

結局、覚えた事でも全く、当てにならない事が多いのです。

 

いかに記憶するだけの教育が、無駄な事だ分かる事例だと思います。

日本史を習っていても、その時の世界情勢がどうであったかは、結びついていません。

あのドラマ「大草原の小さな家」(注2)でおなじみのアメリカの開拓時代は、日本では江戸時代でした。

西部劇でも見られるように、アメリカではすでに窓ガラスもありました。

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想像力が生まれないような教育、すなわち覚えるだけでは、何も生み出さないのです。

子供達は、想像力の源だったのに、その力を奪うような社会では、新しいモノを生み出す力が、無くなってしまいます。

と同時に、想像力をもって研究している若者達の境遇が、

残念ながらこの日本は整備されていません。

近年日本は、基礎研究よりも、すぐに結果が出る事ばかりを重視するようになり、

研究者の待遇も、一向に良くならず、頭脳の海外流出が問題になっています。

 

災害国であり、食料自給率37%(注3)の、不安定な国に住んでいる事を私達は、忘れてはいけないのです。

SDGsも名ばかりで、やった感を出しているようにしか見えません。

その為にも、想像力の大切さを教え、活かすようにするべきなのです。

若い人達が、次の世代を担っていきます。

彼らの足を引っ張るような、教育や環境を、この国はもっと考えなければいけません。

海外に比べ、奨学金制度も学生たちの足かせになっている現状。

大学に残って研究する為の生活保障など、日本は、かなり低レベルな状態なのです。

 

人間は、想像できる地球上唯一の動物です。

この与えられた能力が芸術や音楽を生み出し、様々な発明をも生み出してきたのです。

アインシュタインは、自らの式「E = mc2」がもたらした(証明されてしまった)核兵器の誕生に心を痛めていました。(前述)

想像力が、不幸をもたらす事に使われ続ける今の世界。

日本でも、大戦を生き抜いて来られた方が亡くなってしまい、その戦争という悲惨さを語れる人が、居なくなりつつあります。

もう一度考え直さないと、自らを滅ぼすことになるかもしれません。

それこそ想像力を働かせてもらいたいものです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

「Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world.」

『空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。』

 

(注1)ブラックホールは、強力な重力により光も脱出出来ない為、直接には見る事が出来ません。リング状の周囲のガスを捉えられた映像です。

(注2)『大草原の小さな家(Little House on the Prairie)』

原作はローラ・インガルス・ワイルダーで、日本ではNHKで 1975年から1982年にかけて放送され、人気のあった海外TVドラマでした。

ファミリードラマという位置付けもあり、先住民や黒人といった差別問題に、配慮して作られていましたよ。

(注3)農林水産省の発表。2020年度(令和2年度)の日本のカロリーベースによる試算

 

 良ければ、こちらもご覧ください。

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宗教とは?⦅囚われるな⦆(3)

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聖典や教典と呼ばれる書物は、マスター達が直接書いたものではありません。

弟子達が、のちに記したものです。

すなわち、弟子達のフィルターを通しての言葉です。

マスターが、本当に伝えたかった言葉とは限らないのです。

なぜ、同じマスターからの言葉が、様々な宗派に別れたかを考えれば、判る事です。

言葉や言語の解釈の仕方や、聞き間違え、そして力や権力が解釈を曲げてきたのです。

まるで、伝言ゲームのように。

マスター達は、それぞれやり方は違えど、同じ教えをされてきました。

 

最近、家のポストに宗教関係のチラシが入っているので、読んでみると二極化の事ばかり書いてあります。

信じればこんな良い事があり、信じなければ、こんな恐ろしい事が待っていると、遠回しに伝聞で書かれた本からの例を引用して「だから信じなさい」と言わんばかりに書いてあります。

SNSでも、言葉の羅列のように一方的に神の御言葉として、今起きていいる事や、今後起きるであろう事をあらかじめ決められた筋書きのように書かれています。

そして、最後は信じる者が救われると。

信じる者が救われるとしたら、「いつ」でしょうか?

どの神や仏が救うのでしょう?

歴史に残る様々な布教と争いの下、亡くなっていった人々が多くいますが、これから救われる為に何人の犠牲が必要なのでしょう?

そこに、ありもしない「天国」や「地獄」を持ち込んで、死後の世界での「救い」を作り出しているのか?

はたまた「復活」の言葉によるものなのか?

私にはどうしても理解できないのです。

 

宗教は、残念ながら形骸化しています。

毎日のルーティン(routine、決まりきった仕事、慣例、手順)の様に、形や型に囚われて、本来の教えが生きて伝わっているとは思えません。

人生の中で色々な節目の時に宗教は関わってきます。

そのほとんどが、宗教の教えを意識して行ってはいません。

法事や法要を仏教で、七五三という神事、教会で結婚式をあげ、ハロウィンやクリスマスを楽しみ、初詣に神社に行き、様々な神様の元で願い事や誓いをしています。

文化として取り入れ、日本に溶け込んだその様な行事は、ある意味宗教という枠に縛られない良さでもあります。

外国では、政治や法律まで宗教が幅を利かせ、差別や暴動、紛争と、国のかじ取りの上で避けられない事で、その為に多大な費用や時間を費やされています。

その点からも、日本はその様な問題にあまり時間や費用を取られる事なく、経済に専念する事が出来たのです。

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私の妻の国、フィリピンでは、スペイン植民地時代に広まった90%以上を占めるキリスト教国で、カトリックが82.9%(カトリック教会が80.9%、アグリパヤンが2%)、福音派が2.8%、イグレシア・ニ・クリストが2.3%、その他のキリスト教が4.5%を占めています。(2000年調査)

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妻は、偶像崇拝キリスト像やマリア像等を礼拝すること)のカトリックとして洗礼を受けました。 

洗礼する事は、住民登録の役割も果たしているのですが、

ハーフ、例えばフィリピンに置き去りにされた日本人との子供や極貧生活者、

精神疾患、障害を持っている方、その他様々な人が洗礼を受けない、もしくは受けられない人達も沢山いて、国自体、国民の把握がちゃんとできていないのです。

 

彼女の父親は同じクリスチャンですが偶像崇拝をしないプロテスタント派でした。

彼女は幼い頃より、父親の教えを守って育てられるのですが、服装や髪の制約がとても嫌だったと話してくれました。

例えば髪は切ってはいけないと言われ、虱(しらみ)の多い生活環境での長い髪が辛くて仕方なかった事や教会には必ず白い服を着る事など、父親(プロテスタント)が絶対という社会での反抗できない気持ちを話してくれました。

ですから家族の中でも、小さな宗教対立があったようです。

国の法律もキリスト教をメインに作られている為、様々な問題があったようです。

強姦や無理やりの性交でも中絶できない事や、浮気や暴力を振るわれても離婚出来ないといった制約が、多くの女性たちを追い詰めているのでした。

日本と違い、治安が非常に悪い国の中で、身近に常にある問題なのです。

 

ただ、忠実にキリスト教に基づく法律を守っている人ばかりでなく、

堕胎をする為、薬草を飲んだり、木から飛び降りたりする人も多く、

時には、麻薬常習者にお金を払い(日本円で1~2万)暴力をふるう夫を殺害してもらう事もあるのです。

それは、珍しい事では無い、日常にどこでもあるケースでもあるのです。

フィリピンで人気のある教会の前には、沢山の小さな店が立ち並び、まるで浅草の様ににぎわっています。

日常製品や食品を売っているお店以外に、シャーマンと言われる呪術師や占い師のコーナーがあったり、堕胎する為や生理の調整の為の薬草の販売もしているのです。

教会の前にです。

 

フィリピンの人々は宗教というくくりの中で、生きていく為の危険なカケもしている訳です。

法律を破ると、逮捕され2~3年の裁判や刑務所送りになる可能性があるからです。

逮捕以前に、殺されてしまう恐れもあるのです。

おおらかな国民性の裏に、宗教によっての制約で苦しむ人達が大勢いる事と、違法性を承知で、殺人依頼や、貧しい環境での呪術師頼みの病気治療といった選択しか出来ない裏の部分が同居しているのです。

それでも、国民は神を信じ、教会に足を運んでいるのです。

また、LGBT等、性的マイノリティの人達の存在を認めていない宗教下で、TVや俳優としての地位を確立しているという矛盾というか、おおらかさもあるのです。

日本に住んでいる私達には、考えられない世界が、今でも存在しています。

 


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妻は幼い頃から、ゴミ山スモーキーマウンテンで、プラスティックを拾ったり、路上でビニール袋を売って生計を支えてきました。

食事も満足に食べられなく、それこそ塩だけの味付けで米を食べていた事もあったそうです。

何度も、このような辛い現実に対する耐え方を神様に、聞いていたそうです。

勿論、答えも無く、救いも得られませんでした。

 

彼女が私の妻となり、日本で暮らしている今、もう教会には行っていません。

彼女は息子にも洗礼をさせませんでした。

それは、私の影響もありますが、彼女なりに宗教の在り方に疑問を持ったようです。

前述のように形骸化された、ルーティンの様なあり方に意味を見い出せなくなったようです。

私の両親は仏教徒でしたので、たまに宗教について話す事がありますが、聖書の教えを否定しているのではなく、その先にある神(聖書)やキリスト、ブッダの教えの本質が同じであるという事を、彼女なりに理解しているようで、祈りも教会や、キリスト像に向かってするのが祈りではなく、何処にいても、どんな時でも祈る事が出来ると話していました。

それと同時に、彼女の中にある「神」の概念も大きく変わったようです。

それは、人間的な神様では無い、もっと大きな存在のようなモノとしてです。

 

彼女に「祈りはお願いするものでは無く、約束するものじゃないかな?」と話すと、

「今はそう思う事が出来る」と言いました。

過酷な生活を強いられた、フィリピンでの生活の中では、

神の存在無くしては、耐えられない気持ちも私には分かります。

ただ日本で、のほほんと暮らしていた私には、彼女の苦労や大変さを全部理解する事は、残念ながら出来ません。

ですから決して、彼女の宗教感を否定する事は、言いませんでしたし、逆に聞きたかったほどでした。

 

日本国憲法第20条で、信教の自由と政教分離原則がうたわれている日本。

宗教が、政治に介入する事をさせなかった事は、日本にとって良かった事です。

フィリピンの様に植民地にされたことが無かった事も、おおきな理由の一つかもしれません。

 

布教する事が目的ではないはずです。

何故なら、布教せよと書かれたものは、キリストやブッダの弟子達の書物であり、元々彼ら本人が書いたものではありません。

また、布教によって理を得ようとした可能性も高いのです。

例えば、宗教には戒律のようなものがありますが、(マスターは書いてはいません)布教する為に、どんどんハードルを下げ、守らなくても良いという妥協もしてきました。

根拠が無いのです。

枝分かれの様に宗派が出来たのも、マスター達の教えではなく、解釈や都合や権力等、全く教えとは関係のない所から始まっているのです。

そして、「私達の信じるモノが正しい」と言い争っているだけです。

だから、形骸化されてしまったのでしょう。

信じる者に目的を持たせる事で、組織が維持しやすいからです。

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宗教を、学校に例えると解りやすいと思います。

文部科学省の教育の目的や方針に沿って、学習指導要領が決められ、教科書選定を教育委員会や校長が決め、各学校の教育内容になります。

 

まずマスター達の発した言葉を、弟子達の経験も踏まえて書き残し、

学校を作り出します。

それを読んで、また別の場所にその弟子達が、学校を建てているのです。

学校に、生徒が集まらないと運営が厳しくなります。

また、評判が良いと、生徒が集まりやすい上に、威厳が付きます。

この時点で、色々な人達の思惑や、権力が介入し出します。

校則を厳しくするところやクラブ活動に力を入れたり、先生の質を上げたりと、

それぞれの学校は、特色を出そうとします。

大切なのは、教育を受ける事ですが、まず学校という形にこだわる事から始まってしまいます。

「あそこは優秀な生徒が多い」「有名な先生が教えてくれる」「生徒が荒れていない」

教える内容も、学校に箔(はく)をつける為や、学校や先生の都合で変えられていくでしょう。

そんな基準で、教育そっちのけの学校という、箱もののステータス(社会的地位や身分)を上げ、

一つのシンボルにしているのです。

立派で大きな、設備の整った箱ものを作りたいのです。

言わば、社会的地位の確立や影響力の強化です。

保護者達は、自分達の学校がどんなに素晴らしいかを話し、自慢するのです。

そして自分と同じ学校に自分の子供を、本人の意志とは関係なく入れるのです。

「生と死と宗教の狭間(はざま)・後編」

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でも取り上げた、宗教二世問題が起きているのです。

 

そもそも、教育方針も、教科書に書かれている事も、本当に正しいか?間違いがないのか?

本当にマスター達が伝えたかった事が教えられているのかは、もうどうでも良くなるのです。

自分が通っている学校が、一番と信じているからです。

だから、疑う事すらしないのです。

まさしく「井戸の中の蛙、大海を知らず」な状態です。

 

宗教は身近なモノであり、また根付いているモノでもあり、つかず離れずの関係の日本の在り方が、曖昧だとしても、良い関係で、良い距離感だとつくづく思います。

「何が正しくて、何が悪い」とか、「信じるのか、信じないのか」で宗教を語ると、もしくは布教すると、必ず反発が起きるのです。

どこの宗教も、「自分達の宗教が正しい」と思っていますから、違うアプローチで、それぞれの宗教者達が歩み寄らなければ、いつまでも人類にとってプラスにはならないでしょう。

元々は、皆同じ教えから始まっているのですから、歩み寄りは出来ると思うのです。

神や仏の名の下で、争い事は絶対にしてはいけないのです。

一歩間違えれば、争いによって大規模な戦争につながり、人類存亡の危機さえありうるシナリオです。

あと、どれほどの犠牲者を出せば、宗教による争いが無くなるのでしょうか?

 

本来のマスター達の伝えたかった事に想いを馳せ、日々の生活に生かせるようにしたいものです。

 

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