心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

親子関係を考える大切さ

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TVのCM、芸能人で見かける様な、友達みたいな親子関係。

そんな関係はやめたほうがいい

何でも話せる間柄を本当の友達と作る方が良いのです。

人間は社会というコミュニティの中で生活をしなければいけないのですが、他人との関りが大切になってきます。

同級生や同じような歳の友達だけでなく、親以外の他人と関係性を築くべきです。

親と子は距離を置いて学び、そして学びあい、自分の置かれている立場から話し合う関係でいないと、いつまでも精神的に「独り」としての強さが、お互いの中に生れません。

「独り」は「孤独」とは違います。

「孤独」の埋め合わせに、親子関係を築いてはいけないのです。

 

相手の立場になってものを考える事と、相手に合わせ考える事とは意味が違います。

ある時は親として、ある時は友達として接する、そんな事をすれば相手だけではなく自ら戸惑い、混乱するだけです。

それぞれに役割があり、お互いに立場をわきまえ尊重し合う事で初めて、たくさんの理解が生まれるのです。

親が子供の親友として立ち位置を変える事は、何でも話せる間柄を作りたいのかもしれませんが、親子という関係の中で、一人の人間としての成長をお互いに潰し合う事になります。

 

年頃の子と接するのは大変です。

親は「言うことを聞かない」

子は「気持ちを解ってくれない」

お互い大切なのは頭では解っているのですが、どうしても行動が伴わないものです。

問題は距離です。

なんでも話せる関係を作り出す事でもありませんし、我慢し合う事でもなく、程よい距離を取る事。

子供は必ず親の後ろ姿を見ています。

「親父の背中が小さく見えた」その言葉どおり、ずっと見て育っていきます。

言葉はいりません。

ただ優しく抱きしめるだけ、肩をたたいてあげるだけ、それだけで十分です。

ぬくもりが言葉を越えて伝わるでしょう。

いくつになっても親は親で、子は子です。

 

私の少し年上の親友の話ですが、私と同じく奥さんがフィリピン人で、息子を授かりました。

これまた私と同じで、年齢的に遅くに授かったので、息子さんの事をとても可愛がっていました。

私達夫婦も息子さんの洗礼に立ち会い、親しくさせてもらっていました。

昭和生まれとしての、父の在り方で息子に接し、厳しくも優しく育てていらっしゃったのですが、

何がキッカケかはわかりませんが、中学生になった頃から、悪い友達と付き合うようになり、学校もあまり行かなくなり、高校進学も出来ませんでした。

多感な時期に親友の彼は、心機一転で海外に長期にわたり仕事の為、家を空けていました。

そして、息子の事を、夫の事を思い泣きながら私の妻に電話していた母親が、いつも不安と寂しさから、息子さんに𠮟っていた事。

それを見たり、聞いたりするのがイヤで、余計に荒れてしまったのかもしれません。

息子さんは乱れた生活をしていて、彼が日本に戻ってきてからも、無免許運転や事故、悪友からの借金、外泊や豪遊など、その後始末の為、多額のお金を使う事になってしまいました。

挙句の果てに、息子さんの悪友との借金などの話し合いの際に、軽い相手への接触が傷害事件まで発展し2ヵ月も拘束されてしまったのです。

友人は、自分に非が無いと信じ、自分の正当性を主張すれば、すぐ釈放されると思っていたのですが、傷害事件扱いとなり長期勾留となってしまいました。

釈放に向けて何をするべきかの助言が欲しい為、息子さんから私に電話があり、弁護士の必要性など色々と話をしました。

勿論、自分の事でお父さんが勾留されている事実を、彼なりに深刻に受け止めていました。

妻が外国人という事もあり、何をどうすれば良いか解からなかったらしく、当時十代後半の息子だけが頼りだったそうです。

結局、弁護士を雇い、多額の借金での釈放となったのです。

 

彼は、海外での仕事の為とはいえ、家を長期に開けていた事が、彼の人生を狂わせたのではないかと、悩んでいました。

彼は真面目な性格で正義感も強く、男らしい人間とした生き方をしていましたが、息子さんにも当然それを求めていたと思います。

ですから息子さんも、お父さんに応えようと頑張っていました。

しかし、彼の想いとは裏腹に、息子さんにとっては、重荷になってしまったのかもしれません。

お父さんに「認めてもらいたい」でもそれに答えられない葛藤が、負の方に流れてしまったのでしょう。

ここまでの話の中で、「家族愛」、「父子愛」「母子愛」「人間愛」という「愛」の存在が、どんな意味を持ち、どんな形でとらえれば良いのか、確かに「愛」はそこにあり、お互いに必要とされていたのです。

私も他人ごとでは無く、とても考えさせられたのです。

世の中には、親の育児拒否や依存症、暴力等で問題を抱えている家庭は沢山あります。

でも彼の場合、奥さんも、そして息子さんも誰も悪い人間では無く、むしろ幸せになる事を、お互いに考えていました。

友人の彼は、息子や奥さんの事を考え、幸せになる様にと、常に考えていた何処の家庭でもある普通の願いですが、どんどん崩れていく理想と現実の中で、それでも何とかしたいという、希望は捨ててはいませんでした。

親が思い描くように、子供が育っていく事は、なかなかありません。

親子と言えど、いや親子であるからこそ、違う人格として認め合い、普段の何気ない会話の大切さを再認識させられました。

今は息子さんも落ち着き、仕事に就き頑張っています。

遠回りした分、経験や後悔が、未来への原動力になってくれるよう祈るばかりです。

釈放後、友人と話をしましたが、息子に対する期待と喪失感、傍にいてやれなかった事への後悔を語ってくれました。

そして次々と問題を起こし、嘘をつく息子に対し、常に心の平穏が得られず、つい怒鳴ってしまう事も沢山あったという事でした。

 

忘れられない事があります。

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それは、私達家族3人と彼の家族で食事に行った時、彼の息子さんが、少し年下の私の息子に話していた事でした。

「いいか!俺のようにはなるなよ!」と。

たまたま聞いていた私は、救われる思いでした。

彼が、自分の置かれている立場や行動を彼なりに理解している事と、それでも抑えられない心のうっぷんを感じたからです。

私の息子も、それなりに受け止めていたようでした。

親友の彼に私が話したのは、「息子さんは、決して悪くはない」という言葉です。

確かに、やっている事は、人に迷惑をかける事であり、両親に対しての思いやりに欠けている行動ですが、あえてそのように話をしました。

「何でも尻拭いをして、先回りばかりするような事はやめて、嘘でもとことん信じてやって欲しい」そして「黙って、抱きしめてやって欲しい」と付け加えました。

そして、私の息子が小学生の高学年から中学に入った頃まで、仕事関係によって私自身が精神を病み、アルコールに溺れてアル中になり、息子に何もしてやっていなかった事や、ひどい父親像を息子の心に残してしまった事への後悔の話もしたのです。

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今でもハッキリと覚えていますが、私が中学生になった頃、母親から「昔、抱きしめてやってなかったから、今やってあげる」と言われた事があります。

勿論「いらない!」と断りました。

昭和の時代には珍しくなかった、子供を叩くという事を母親からされていた私にとって、布団叩きで追い回された記憶が忘れられずに、母親に対して憎しみの様な感情を抱いていたからです。

常に夫婦喧嘩が絶えなかった家庭での救いは、音楽と本との出会いでした。

親友の息子さんの事を考えると、昔の自分の置かれた状況と、自分の息子への接し方の後悔を思い出し、親子関係の負の連鎖を自分の世代で断ち切りたかったという想いと重なり、切なく悲しくなってしまいました。

 

私自身が子供を授かり、子育ての大変さを思うにつれ、私の両親も苦労して彼らなりの精一杯の子育てをしてくれたのだと思うようにはなっていますが、今でも、死んでしまった両親の事は、心のどこかでまるで喉に引っかかった魚の骨の様に、許せない感情が残っています。

育てられた環境のせいで、常に周りの人の言動ばかり気になって、自分を出せない人間に成ってしまったと、そしてそのせいで、精神を患う事になったと考えてしまう、心の中に消えない傷(トラウマ)があります。

結局、今でも自分の親に対して、反面教師の様に考えてしまいます。

 

何が正しくて、間違いなのか、誰にも解りません。

ただ、私の経験から言えるのは、

一貫して子供を信じてやる事が重要であることは間違いない。

 

親は時に「こんなにあなたの事を思っているのに、何で理解してくれないの?」と思う事がよくありますが、子供、特に思春期に差し掛かった頃から、他人を通して自分、すなわち自我が芽生え、一人の人間として自分を捉えるようになります。

受け身としての親からの愛は、身体では感じていますが、愛に、形や方法、ルールが無いので、親も、子供もどうすれば良かったか、どう受け止めればいいのか解らなくなってしまうのです。

誰でも、人が言う通りには動きませんし、当たり前の事です。

 

誰も悪くしようと思って行動しているのではなく、先の事を考えお互いに行動しています。

ただ、来てはいない未来の事ばかりに囚われていると、毎日の中に潜んでいる、色々な個々のサインを見落としてしまうのです。

子供に対して、将来を考え幸せになって欲しいと思うのは、親としてしごく当たり前の事です。

それは、自分の分身であり、想いを託す存在だからです。

相手の事を思う事が、しばし先回りを良しとして、あっちだの、こっちだのと指図しまい、

安全な道ばかり、まるで道路標識の様に、子供の歩いている道のあちこちに立ててしまっては、考える力を養う機会を奪ってしまう事になるからです。

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考えなくてはいけない事は、過去には戻れませんし、未来はどうなるかは分からない、すなわち今をどう生きるかという事を考えなければ、何も生まれませんし、問題の解決にもなりません。

子供の未来を考えるのは、親として当然の事ですが、その未来は「今」の積み重ねです。

日々接している子供達に対し、その時その時がとても大切な時間であり、先延ばしにしてはいけないのです。

時代はどんどん変化して、親が子供の頃味わった経験も、全く違うモノになっており、親自身が凝り固まった考えでいると、何か問題が起きた時に対応できなくなってしまいます。

その為には親である前に、一人の人間としての優しさや、寛容性を持っていないと対処出来ません。

それは、想像力であり謙虚さでもあります。

ギスギスした社会生活の中で、折れそうになればなるほど、必要な事だからです。

そして、子供の問題は、実は親側の問題としてとらえなければ、子供達の心の行き場が無くなってしまうのです。

 

SNSやTV、本などで子育てに関する記事を沢山見かけます。

その通りやったところで、うまくいくとは限りません。

金銭的に苦しい家庭では、習い事や塾、旅行など、やらせてあげたくても、思うように子供にお金をかける事が出来ない現実があり、今増加傾向になっています。

だからと言って、悪い人間に育つわけでもありません。

子供は、話さなくても自分の置かれた環境や境遇を、親が思った以上に理解しています。

幼少期から思春期に親が傍にいられない状況は、珍しい事ではありません。

ひとり親家庭もそうですし、仕事ばかりでパートナー任せ、育児放棄、家庭内不和など、様々な理由で、子供と関われない、もしくは関わらない状況はいくらでもあります。

だからと言って、皆がみんな子供達が負の方向に向かうという事は無いのです。

大人が考えている以上に、子供なりに自分の未来の事を考えています。

だからこそ、やけっぱちになったり、反抗したりするのです。

何も考えていないのではなく、周りを見て、夢を描くことが出来ない世の中に対しての失望感と言ってもいいでしょう。

それは、親だけの問題ではなく、社会全体の問題で、そんな不安や憤りから逃げ出す一番簡単な方法がドラッグや犯罪、自傷行為や自殺であり、それを生み出しているのが、大人達なのです。

イジメの問題にしても、どんなに親が気を付けていても防ぐことが出来ない問題ですが、犠牲になる子供達があと何人いれば、大人達は真剣に考えるのでしょうか?

責任逃ればかりしている大人達の罪はを償うのは、子供達ではありません。

 

2020年の自殺者は21.081人。内10~20代は3.298人にも上ります。

厚生労働省自殺対策推進室 警察庁生活安全局生活安全企画課、参照)

 

何が原因であるにせよ、子供達の選択から「死」という言葉を無くさなくてはいけません。

それは、大人達の責任です。

そして、決して無関心になってはいけないのです。

たとえ、間違ったやり方かもと不安になったとしても常に目を向け、話しかける事です。

子供を自分の所有物としてでは無く、一人の人間として見てあげる事です。

どんなやり方、育て方が正しいという基準なんかはありません。

つまずいたり、迷った時は、黙って抱きしめてあげるだけで十分かもしれません。

そして、問題を抱え込まないよう、外部に助けを求める勇気も必要です。

子供は決して悪くありません

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何があっても元気で生きてくれるだけで、幸せな事です。

 

18才までの子供がつながるチャイルドライン

https://childline.or.jp/

 

天然痘と戦った史実を描いたもので、種痘を子供を使って持ち帰る話です。

親子を伴っての冬山を乗り越えるなど、波乱に満ちた町医者の笹原良作の半生を描いた作品で、あらためて「吉村昭」という作者の描写の凄さがうかがえます。


雪の花 (新潮文庫)

 

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