心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)

人間としての個々の存在の意味は、多様性に他ならないのです。

前記事に書いた人間の武器とも言える「脳」

多用な考え方や、発見、知ろうとする好奇心や未来に対する想像力など、多くあればあるほど選択肢も増え、言い換えれば進化と同じ理屈になるのです。

もし独裁者や権力者の思考だけを頼りに生き延びようとしても、いずれは滅びてしまいます。

それは人物だけでなく、体制(政治や法など)や宗教にも言える事です。

それは自然の摂理であり、歴史を見れば明らかです。

そして遥か昔から権力や富の為に犠牲になった人達の存在は、その事実を知る事で無駄にはならないという事です。

すなわち、個々が自分なりの思考で過去から学び咀嚼(そしゃく)し、今を生き、経験を積んで次の世代に引き継いでいく為に、私達は存在しているのです。

ですから個々の思考停止が、無関心がどれほどマイナスになるか、よく考えなくてはいけません。

自分だけでなく、周りの人達や子孫にも影響を与えるからです。

「芯」「善」は自身との葛藤の中から獲得するものです。

誰かの受け売りや、偉人達の言葉からは得られない、経験とそれによる失敗の中から見つけ出す力の事です。

 

しかし「芯」となるモノをしっかりと確立する事はとても難しい事でもあります。

若気の至りという言葉がある様に、経験不足が招く間違った思い込みや、自らの存在を否定している時、取り巻く環境が劣悪ないしは過酷である時や、日々の生活に追われ金銭的な事や不幸が続くとそれどころでは無いかも知れません。

加えて大勢(たいせい)の動きに自分も知らず知らずに巻き込まれる事だってあります。

ただ、歴史はちゃんとそれに対し答えを出しています。

いつの世でも過酷な環境や差別、虐げられ疎(うと)まれた人達の中に必ず「芯」を持ち行動してきた人達がいたという事実です。

 

個々の色々な考え、知恵を出し合い集約し危機を乗り越える。

個々の存在、多様性が必要であり、それが人間という動物の位置づけなのです。

「芯」「善」となるモノが心の目となり、「正義」と「悪」を見極める基準となっていきます。

 

どうすれば「芯」となるモノ、この場合「人としての道」の事としますが、持ち続ける事が出来るでしょうか?

まず答えは残念ながら「無理」という事です

書いてきたように「心」は揺らぐという前提があります。

ですから、時にその揺らぎを正す為に宗教に、指導者にその揺らぎを確信へと変える力を求めている人達がいるのです。

ただ難しくさせているのは、その宗教や指導者自体の「芯」に対する考え方が間違っている可能性が多くある事です。

十字軍や宣教師、そして今問題になっている宗教団体や政党基盤の宗教まで、前述した「価値」によって本来の「教え」「本質」から外れたり逸脱してしまったりしている事が、多くの問題を逆に作り出している現状となっています。

ネットの世界でも、同じ宗教であっても解釈の仕方が違い、様々な正義や悪の定義が見受けられます。

仏陀を含め、マスターと呼ばれる人達は、自らの手で「教え」を書き残していません。

ただ、弟子たちが書き残したモノから、マスター達の教えを紐解く事が出来るだけです。

現代において、彼らの言葉、教えは本来の教えかどうかは解らないのです。

色々な宗派に別れいった事からもその事を証明しているのです。

今も世界中の何処かで繰り返されている戦争や紛争の多くが、宗教問題を発端として起きている事をみれば解るはずです。

 

戦争といった有事の際には、例え、自分なりの「芯」「信念」を持ち「正義」を確信していたとしても判断が難しくなるのは目に見えています。

大義、この場合国家・君主に対して国民のとるべき道といった理由をもって参加し、戦うのか、人間として行動するのかその判断が出来る状態とは言えない状況になってしまうからです。

普通の人間が極限状態の中で起こす行動は残酷で、卑劣な行為に走らせてしまう事が、過去の例を見ても解ります。

ですから、そもそも絶対に戦争をしてはいけないのです。

ゲーム、TVや映画で見る戦争からは想像も出来ない事実が裏にあるという事を考えなくてはいけません。

 

「芯」が無いと、もしくは本質からそれた「芯」を正しいモノとしている限り、「正義」は人類の為という名目だけのただの自己満足に終わってしまうのです。

「悪」は、正しいと信じている「正義」といつも隣り合わせで語られる為、宗教によってその意味も概念も大きく変わるのです。

それは宗教だけでなく、独裁者や崇拝者の「価値」の概念でも大きく変わってしまいます。

 

「告解(こっかい)」「懺悔(ざんげ)」という言葉を知っていると思いますが、キリスト教だけでなく色々な宗教にもある、犯してきた罪を告白し許しを請う事を指すのですが、日常生活の中でも自分に対して誰もが同じような事を繰り返しています。

「あんなことを言わなければ良かった」「あの時助けてさえあげれば」「信じてあげれば良かった」その様な事を繰り返しながら私達は生きています。

その時の心の動きを思い出してみて下さい。

多くの人が「自分にされて嫌な事は他人にもしてはいけない」という戒めや、「困った時はお互い様」という人間らしさが、心の中にあるはずですし、無ければ懺悔も不要でしょうし、人類は滅びるでしょう。

例え「告解」や「懺悔」をやったとしても、それで許されるものでも、無かった事にする事も出来ません。

が、経験として積まれていき、過去の自分よりも成長しているのです。

いや、成長しなければ、学ばなければ意味が無くなってしまうのです。

すなわち、同じ過ちを繰り返さないという教訓の事です。

 

「芯」を持ち続ける事はムリだとしても、ブレ幅を出来る限り少なくすれば良いとも言えます。

報復や償いを恐れ「道」からそれない様にとするなら、それはただの形だけで本質は何も変わってはいません。

「地獄に落とされる」「悪霊が取り付いている」「天国に行きたい」このような言葉が無くならないのは対価という考え方でしかありません。

「善行を施したから天国に行ける」「悪い事をしてきたから地獄に堕ちる」「これだけ祈っているのだから必ず助けてもらえる」これらも全て、何かの対価、見返りを求めての考えであるのに変わりありません。

お布施にしても寄付にしても、教祖や団体の為にするのではなく、本来マスター達が伝えたかった事は、「手放しなさい」という意味です。

持っている色々なモノや心、それは善悪関係なく手放す事で真理に近づく事が出来ますよと説いているのです。

人間は持つことは出来ても手放す事は中々出来ません。

だから、手放さなければならないのです。

自分がどの様な「芯」もって「正義」「悪」と判断しているのか?今一度振り返る必要があるのです。

心の動きから考えて見ると解りやすいと思いますが、例えば正義と信ずる思考やそれに伴う行動時の自分がどの様な心持で判断しているかという事です。

その時、今を生きている事に奇跡のごとく考え感謝している状態であれば、あなたが正義として考え、行動する事は正に「正義」と言えるでしょう。

そして迷いがあっても、あなたの「正義」が成された時、自分自身と相手に笑みが浮かぶ事になれば、心に温かいものが流れればそれは「善」であり「正義」が成されたと言えるのです。

結局、個々の「善」の広がりに関与する事が、私達人間一人一人に与えられた使命であり、その積み重ねとうねりが「正義」を作り出し、価値や権力を持つ数少ない者達に決断を委ねない、させない事になるのです。

 

正義と悪の本質は、実は誰にも解らない事なのです。

正義や悪は割り切れるモノでも無く、その境界線すらありません。

西洋では古くは「神の審判」として決闘という形での殺人が許容され、名誉の為としての位置づけと変わりながらその歴史は長く続いたのです。


敵討 (新潮文庫)

私の好きな作家、吉村昭『敵討』『最後の仇討』でも出てくる、いわゆる敵討ちという殺人。

江戸時代を中心に多く行われていたが、(成功率は数%だった)これもルールを守れば個人でも制裁が出来るお墨付きの殺人で、その行為に共感する者も多かったのですが、これも当時では「正義」が行われたという事になるのです。

国家による殺人の死刑制度も戦争も「正義」を貫くと信じて人類は行っています。

原爆一つとっても、肯定派は「早く戦争が終結した」と思っているだろうし、力のバランスとして必要不可欠と考えているでしょう。

反面、広島や長崎に落とされた原爆はまさに大量虐殺であり無差別攻撃で、許されるものでは無いのです。

使用されれば、人類にとって最悪のシナリオになる事は間違いありません。

また歴史が示すように、過去英雄と呼ばれる人達や冒険者達が正義を行ってきたか?

答えはNOです。

よく日本では戦国武将の言葉を引用し、ビジネスや生き方として活かそうとしますが、必ずしも「正義」の裏打ちがあるわけでも無く、彼らの言葉が正しいとは言い切れません。

権力、自国や民族、宗教サイドで見る正義と、侵略され、略奪された側から見る正義は全く違うものになるからです。

でも、大勢において正義が成されたとしても、個人個人の中では疑問に思う人達が出て来て、「正義とは?」「これでいいのか?」という問いを投げかけるのです。

その様な人達、歴史では命を懸けてでも信念を貫き通した人達が沢山いました。

その勇気ある人達の存在があってこそ、私達は今ここにいるのです。

 

自然の中ではその定義すらありません。

何か大きな存在が、人の中に心を持たせ、この星の為に今を生きる人達全員で「その本質に迫れ」という宿題を出しているのかも知れません。

「この世に価値の無いものは存在しません」と書きました。

それは「頂きます」「ご馳走さま」の言葉どおり、生き物に対してのありがたみや感謝であり、価値があるからこそ私達は生存できています。

微生物はもとよりこの地球上の全てのもの、そして宇宙全体にも言える事で、絶妙なバランスの元、私達の存在が許されています。

しかも、そのバランスは宇宙という途方もない時間で保たれている繊細なモノです。

しかし、壊れる瞬間は、人類にとってアッという間に起きるのです。

宇宙から見れば人が決めた正義(善)や悪など、どうでもいいくらいのちっぽけなものです。

しかし塵の様な存在である人類が存在できるのは、今生きている個々の人達の未来に対する選択です。

人類にとって良い方向へと舵を切る為には、個人個人が考え、意見を出し合い、間違いを正す事でしか、方法は無いのです。

決して今起きている不合理な事を傍観する事なく、自分の事として考える事です。

何故なら、明日何が起きるか解らない中、自分の身の回りに起きる可能性は決して0では無いからです。

人間が人間らしく生きる事を今一度考え、子供達に繋いでいかなくてはいけないのです。

塵の様なちっぽけな人間の存在だからこそ、価値の有るモノにしなくてはいけないのでしょう。

 

いずれにせよ「正義」と「悪」を一方向から見る事だけはしたくないものです

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(6)

前回で自然の中には「正義(善)と悪」は存在せず、そして人間だけがそれらを決めつける事をしていると、そしてその根源にあるモノは「価値」と書きました。

人間が誕生して以来、自分達にとって価値の有る無しを決め続けながら今日に至るのです。

生きる上で大切な水や塩、食べ物の重要性と価値は残念ながら、現代では同列で考える事は出来ません。

すなわち価値は人間だけが、生き延びるという本来の目的以外にも優劣を、序列のレッテルを貼る為に作り出しているモノで、この世に価値の無いものは存在しませんし、そもそも価値にランク付けするものではありません。

 

石ころから大きな岩、木々や花、昆虫やウイルスから細菌、微生物からゾウや魚に至る全ての物は自然が必要とし、可能性を与え続けた結果そのものだからです。

自然が作り出した人間も例外では無いはずです。

何故ならこの星の住民の一人として迎えられているからです。

そしてそこには意味があり、すべきことがあるからです。

大きな自然の法則の中では、全ての物にその意味、価値があり、いらないものなど無いのです。

 

鳥のフクロウは、羽音もなく飛べます。それを応用して新幹線のパンタグラフ(架線から集電する屋根についている装置)の形状に活かしたという話もあります。

蛾の鱗粉(りんぷん・羽などの表面を覆っているうろこの様なもの)は捕食者、コウモリの超音波に感知されないステルス機能がある事や、以前も取り上げた人間の目に見えない波長の光を、見たり感知できたりする昆虫や爬虫類。

蜘蛛の糸の強靭性や見る角度によって変わる金属光沢の様な表面を持つ玉虫等、キリがないくらい自然が創り出したモノには人間の能力をはるかに超えているものが多く存在しています。

それらの能力は捕食されない為や捕食の為に備わった、すなわち「種」の継続の為です。

一度に数百も子供を生み出す事も出来ず、生まれてもすぐに立ち上がる事も食物を得る事も出来ず、皮膚というすぐに傷つく外観も、食物連鎖の中では非常に不利であるにも関わらず、人間がここまで繫栄してきたのは脳の発達です。

仮にこの星で生きていく中で人類という種の繁栄と食物連鎖の一部だけとしたら、個々の存在の意味は無い事になってしまいます。

個体として人間の遺伝子が残れさえすればよい事で、個人を重視する必要など無いからです。

(関連記事「人間、生物は、なぜ存在しているのか?⦅牛や豚の命は⦆1~3」もご覧下さい)

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実際、愚かな人間はそれをやってきましたし、また現在進行形の事でもあります。

民族の大量虐殺や、宗教の名の元で繰り広げられる紛争、人種差別の様な恥ずべき出来事が如実にその事を表しています。

 

すなわち、人間は人類というひとくくりの動物というだけでなく、個々の思考や行動にも大きな意味があるモノとし、個々の考えや行動が人類という種族に大きく影響を及ぼしていると捉える事が出来ます。

一方でたった一人の行動や言動によって大きく歴史が動き、多くの命がもてあそばれる様な事態を何度も経験してきた人類。

人類というマクロと個人というミクロは複雑に入り乱れてもいます。

人種や宗教を始め、国家や利害、価値で繋がる集団など、そこに見えるものは正に「心」を持ったが為の負の部分の表れとも言えるでしょう。

本来人間は自ら考え、選択し行動する事が出来ます。

何かに属性を持たせる事も、単独で行動する事も可能ですが、まずその前に立ちはだかる壁があります。

ルーツや血、宗教という繋がりです。

それはある意味、強い結束と同時に逃れられない形となって日常に溶け込んでいきます。

宗教や民族、国家主義といった集団コミュニティという形で、生まれながらに、またその国や地域といった選択できない要素という壁です。

見方を変えて見ましょう。

果たして上記の様な組織や集団は、人類にとってプラスに作用してきたか?という側面です。

人間は単独では生きてはいけません。

助け合いながら社会を作り出しルールを決め、見返りとして衣食住や病気の治療などの保証が受けられるように人類誕生以来このシステムを積み重ねてきました。

しかし、人口が増えるに伴いまとまる事が難しくなり、沢山のコミュニティが出てきたのです。

中身もより複雑になり、生活し生きていくという本来の目的が、違う目的にとすり替わってしまったのです。

そして価値を持ち出して選別するようになってしまいました。

人間が集まると争いが始まるのは当然で、個々の考えや価値観が違うとどうしても衝突してしまいます。

まして欲が加わるのですから、争い事が起きるのは当然の事でしょう。

その際、敵か味方かの判断材料となるのが、上記の「血」や「ルーツ」、「宗教観」といったものになるのです。

結局、集団でしか生きられない人間ですから、妥協が必要となります。

しかし、妥協も限度を超えると、また争い事が始まる、すなわち平和と争いのループから逃れられないのが、残念ながら人類の歴史であり、集団コミュニティは「苦」を生み出し続けているといえ、プラスよりもマイナスの方が多いとも言えます。

大切な命と引き換えに得られるプラスだからです。

 

反面、先人たちの言葉という過去を記録し学び、活かし未来を創造する事も出来るのが、人類でもあるのです。

個々の存在が、集団、大勢の「負」に傾く事を良しとしない力を働かせる事で、均等を保っているのです。

私達は、種という大きなくくりだけでは、生き延びていく事は不可能になってしまいました。

価値や欲が必ず誰かを悪魔の様な独裁者にしてしまうからです。

だからこそ個々という種の中での多様性を重視しなければいけないのです。

 

自然に対する、この星に対する使命をもって生れ出てきている事に、その原点に戻らなければいけません。

そして改めて食物連鎖に組み込まれている事も忘れてはいけないのです。

資源としての動植物を管理したり、絶滅から救う事もその一部と言えるでしょう。

勿論自然に組み込まれている人間が知らず知らずのうちに、利用されている事もあります。

ミツバチも人間が関与する事で生き延びているとも言えますし、花々の一部も同じように人間が育て、その子孫を絶やす事無く生き延びています。

 

個々の存在の役割は、上記の目標を達成するために欠かせないものなのです。

かつて食べる為では無く、毛皮や象牙、鯨油といった資源を動物達から奪い取り、大量虐殺の様な事をやってきましたが、理科学、生物学の発展や保護に寄与した個々の人達により絶滅を招くような事態は、これ以上至らない様になりつつあります。

個人の力だけでは防ぐ事は出来ませんでしたが、その個人が知恵を出し合い、救いの手を広げる事で成しえた事とも言えるでしょう。

 

それではその個々に焦点を当てて考えて見ましょう。

人は自然ですから、心もじっとしている訳ではありません。

良からぬ事や様々な欲求、自己保全や快楽が「こちら側は楽しいぞ」と誘うかと思えば、自己のアイデンティティー(identity)すなわち自己・自我の意識の不安定さに悩み、自己肯定や保身、自己否定や投げやりの気持ちが「ジッとして耳をふさげ」そして「私って何?」とつぶやいたりと一時も同じ状態では無く、葛藤や迷いの中で物事を決断しています。

小さい頃、私は平行棒の上や鉄棒、道路のブロックやどぶ川の淵を歩くのが好きでした。

そんな経験は誰にでもあると思いますが、街中でも母親と手をつなぎ、幼い子供が植込みの淵のコンクリートの上やちょっとした高さのブロックや縁石の上を歩いているのを見かけます。

バランスを崩して足を踏み外すと、打ち所が悪ければ骨折するかもしれませんが、子供にとってはそんな事はお構いなし。

運悪く踏み外しても、親を含めた大人が手を差し伸べて怪我をさせないようにしているのですが、もし危ないからと何もさせなければどうでしょう?

人生は生まれてからずーっと「苦」であるとこのブログでは書いています。

「苦」を避けることは出来ません。何故なら誰でも「死」が訪れる事と、そもそも心も体も不完全だからです。

だからこそ、生れ出た意味を見い出さなければ、苦のまま人生を終えてしまうのです。

「危ないから」「やっても無駄だから」「意味を見い出せない」と言い訳は沢山出来ますが、やらないと経験になりません。

手を繋いで安全を担保してくれた親や周りの大人達の手を離す時が来ます。

もし落ちても自力で進まなくてはならないのです。

 

もし目をふさがれていたら、真直ぐに歩くことは出来ません。

まして細い縁石の上ならなおの事、足を踏み外してしまうでしょう。

見るという現実の行動は勿論ですが、心にも見るという力が備わっています。

ただ、実像であっても心の目であっても、本当の事を見ているのかが疑わしいのです。

脳が処理して初めて見ているモノを「これだ!」と認識するのですが、夜中にお化けを見たり、雲の形が人の形に見えたりするのも、それまで蓄積されてきた様々な情報と結び付けて判断しています。

すなわち、見ているものは見る側の心によって変わるという事になります。

いつもの朝日が、山頂で見ると拝みたくなるような神々しい太陽に見えるのも、また愛する人を見る時も、本質、あるべき姿は変わってはいませんが、見ている心が違う為に普段とは異なる見方をするのです。

では、見る側の心の事を考えて見ましょう。

心は常に流動していると書きました。

落ち込んだり、怒ったり、解放されたような気分の時もあれば、閉じ込められている様に感じる時もあります。

そんな色々な状態でモノを見るわけですから、たとえ同じものや同じ状況でも見たモノ、受け取ったモノも違うのが当たり前です。

イライラしている時に「大丈夫ですか」と聞かれても「ほっといてくれ」となってしまうでしょうし、道で転んだ時に「大丈夫ですか」と聞かれると、ありがたいと思ったりと受け手の心の動きが、反映されるのです。

詐欺のメールもわざと考えさせる時間を作らせないように巧妙に誘導してきます。

普段なら冷静に考える事が出来ても、矢継ぎ早に危機感をあおってこられると、焦りがその矛盾したメールの文字を真実だと捉えてしまうのです。

まるで縁石やブロックの上を歩いている様な私達は、落ちないようにとしっかりとした心の目で先を見据える事がとても大切になります。

その芯となるモノ、それは今まで色々な形で呼ばれてきました。

「道徳」「倫理」「人間性」「真理」「善行」「道」等いずれにせよ心の中にあるべき一つの指針の様なものです。

ぶれないモノと言ってもいいかもしれません。

ただ如何せん人間は誘惑や欲求といったブレる要因に負けてしまう事の方が多いのです。

加えて「価値」という誘惑が拍車をかけてきます。

ですから、見る目が狂い縁石の上を歩けなく、進めなくなってしまい、右や左にと落ちては怪我をし這い上がろうとしたり、転んだまま動けなくなったりするのです。

大切なのは、その狭い縁石、すなわち「道」から落ちる事、外れる事を怖がってはいけないという事です。

そして落ちたまま良しとしない事です。

皆が落ちているから自分も仕方がないと考えてしまう弱さを見つめ、修正する前向きな心の中の芯を持ち続ける事です。

時には留まり、落ちた人間があなたの足を引っ張る事もあるでしょうし、逆に引っ張り上げてくれる人もいます。

手を繋ぐか離すかは自分で決めなくてはならないのです。

その選択こそが「芯」を持つ「心」に左右されるのです。

 

全体主義、独裁主義の世界では、皆が同じ方向を向けと指示されます。

その方向が例え間違いだとしても従うほかありません。

個々の存在は消され、はみ出す事を良しとしない社会は「生きる」という人間の大切な喜びを奪うばかりか諦めや妥協を作り出し、やがて多くの人達は従属が当たり前となり考える力を失ってしまうのです。

それでも、個々が立ち上がり「おかしい」と声を上げる人が必ず現れるのは「芯」「人の道」を信じているからにほかなりません。

もし、その様な環境に日本がなった時、果たして「おかしい」と声を上げる人達の一人になれるか?

第二次世界大戦初期の日本国内がどの様な状態になったか?

答えは目に見えている事でしょう。

 

日々の生活の中、例え自由主義国であっても、組織や集団の中ではいつ起きてもおかしくない状況なのです。

パワハラを始めとするハラスメント(harassment)「嫌がらせ」に泣かされる人は後を絶ちません。

個々の存在が、そしてその個人が持ち合わせている「芯」がいかに大切か、そして声を上げる勇気の後押しである「守るべきもの」が何か?

今、私達に突き付けられている問いとなっている事は間違いありません

 

「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆基準となるもの(7)」に続く

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割(5)

職業だけで、出身地だけで、そして病気だけで差別や見下す時代が日本にもありました。

その人なりを非難するのではなく、本人には全く非が無い事まで責任転嫁させていた現実がつい最近まであり、今も形を変え誰かを傷つけながら根を張り続けています。

ハンセン病患者へのひどい仕打ちや強制収容、強制避妊手術やいわれなき差別。

日本書紀」や「今昔物語集」にも記述があるこの病気は、昭和時代に差別や偏見がピークを迎えました。

元患者の家族たちが隔離差別等での心身共に傷ついた損害を国に訴えた裁判が決着したのは2019年夏。途方もない時間がかかったのです。

また部落差別問題では結婚や就職の際に身元調査をしたり、何処の出身者かといった名簿を企業に売ったりする会社まであったのです。

高度成長期時代の裏で起きていたその事実を学生だった私が知ったのは、数十年後でした。

それは会社の為という根拠もないプライドやブランドの為、いつの間にか差別を助長し、加害者になってしまったのです。

子供の頃よく母親から糞尿を運ぶバキュームカー(当時のトイレは水洗ではなくいわゆるボッチャンという貯める方式で、定期的に吸い上げてもらう事が必要だった。)が家の前に止まり、ホースを持って作業している作業員の方やゴミ収集されている方を指さして「勉強しなければ、あんたもああなるんだからね」と言っていたのをよく思い出します。

それ以外にも在日朝鮮人の方々の悪口や侮蔑するような差別用語も聞かされた記憶があります。

親や大人が、子供に対して何も考えず、悪意も無かったかもしれませんが話す言葉は、刷り込みの様に心の片隅に残ってしまいます。

もし教科書にも出ていない、根深い差別の事を知っていなかったとしたら、事実を知る事も無く今の私は嫌な人間でいたと思うのです。

そして振り返って親の事を考えた時、情けなさと無知がどれほど恐ろしいか、そして優劣を作り出す元が、日常の生活の中に沢山ある事を改めて思い出し、教育や報道力の大切さを痛感しました。

 

目に見えない威圧的な優越性を振り回し、いかに自分が優れているかを誇示する人達。

自分がそのような目に会わなくて良かったという、差別や優劣の芽が自身から出ている事に気づかない人達。

「上を見ても下を見てもキリがない」と言いながら勝手に上下という根拠もない理由のラインを引き、無意識での蔑(さげす)む感情を自ら自身に植え付けている人達。

それは、そのほとんどの人がごく普通の人達なのです。

悪というレッテルを貼り追い払い、目の届かぬ所に送り込む。

すなわち疑いも無く正義が成されているという恐ろしい錯覚に気付いていないのです。

いや、今でもあり続け、心をむしばんでいるのです。

 

部落差別問題にしてもアイヌ民族差別問題にしても、法務省のサイトには未だに掲載されているのです。

福島原発問題でも、子供達がいわれのない差別を受けているとの報道も未だあります。

いつまで経っても人間は愚かで浅はかなままという事です。

つまり、誰の心の中にも差別する要素を持っていて、それは時に自分に降りかかった悪い事や不幸の憂(う)さ晴らしをする為、標的者を探し出し責任を押し付け、犯人探しをするのです。

運が悪かったのは、こんな目に会うのは「アイツのせい」と。

更に悪い事は前述した様に、ごく普通の人達が正義の名のもとにやってしまう事が多いのです。

媒体となり、病原体の様に広めてしまうのです。

この様な事は、終わった事として捉えては絶対にいけないのです。

コロナの問題から解るように、もし今後、未知の病気が発生した時、難民や外国人を多く受け入れるようになった時、私達はどんな行動をするのか?どんな情報を何処から集め対応するのかが問われるからです。

勿論、マスメディアも一部の人ではありますが、取材を続け、発信し続けていた人達の存在もありましたが、果たして私達には届いていたのか?というと甚だ疑問符がつきます。

私の経験からも、自ら積極的に集めようとしない限り、情報や現状を知る事はありませんでした。

それは、マスコミの力が弱かったのか?もしくは忖度があったのか、いずれにせよ検証しなくてはこれからも同じような失敗を繰り返すばかりか、発信が著しく増加した現代、正しい情報が埋もれて憎しみや差別を過去以上に増やしてしまう事になるのです。

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以前このブログ「見方を変えなくてはダメになる!⦅映像を通して⦆」でも書きましたが、

昭和の時代に盛んにTVで何の意図も無く娯楽として放送されていた欧米の映画。

先住民を悪者とした映画や歴史、例えば騎兵隊と先住民との闘いや、戦争を題材として欧米からの視点で作られた映画やドラマもしかりで、一方向からの視点ばかりのその様な媒体に接していると、「正義」の意味を理解する事は出来ないでしょう。

その頃観ていた私は、騎兵隊が正義で先住民族が悪と信じ込んでいました。

また親から子に知らず知らずのうちに植え付けている言葉や態度で、いつの間にか性差、いわゆる「男らし」「女らしさ」や正義、自由、道徳といった親が持つ観念を刷り込まれていきます。

 

過去には様々な今の先進国と言われる国が、世界中に植民地を生み出してきました。

その土地からの資源や労働力、支配という名の権力で富を築いてきました。

妻の国フィリピンもスペインやイギリス、アメリカや第二次世界大戦の頃の日本による統治等、その歴史は植民地としての苦悩が詰まっています。

ですから色々な血が混じっていますし、言葉にも統治国の名残があります。

同時に宗教も国を二分する事となってしまい、今でも対立が起きています。

ではそんな歴史を背負ってきた先進国が掲げる「正義」とは何なんでしょうか?

ジェノサイド(大量虐殺)はやってはいけない事で、しかも民間人を殺してはいけないというジュネーブ条約で採択されたルールがあるにはありますが、批准をしていない国や、ゲリラ等には当てはまらない上、たとえ批准している国であっても、常任理事国の立場を利用すれば、裁く事すら出来ないのが現状なのです。

すなわち「正義」や「悪」は時の政府や情勢によってコロコロ変わってしまう可能性が大きいという事です。

加えて、その裏にある資源や難民といった問題、そして自国の保身や権力維持を見据えて表面上正義を装い、裏で画策している事は、どの国でもやっているのです。

 

知らずに正義という一方的な考えを、疑いもせず信じ込んでしまっているのかもしれません。

アメコミに出てくるスーパマンやバットマンの様に色分けされた正義と悪は、本当に正しいのでしょうか?『(クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)監督の2005年バットマン ビギンズ (Batman Begins)等に見られる様に、絶対悪という位置づけで作られる作品ばかりでは無くなってはいるが』

 

身の回りに起きている事でも、思い込みや間違った情報の鵜呑みや歴史観民族主義や宗教観で裁いているにすぎず、簡単に良し悪しを口にする事の危険性にもっと注視しなくてはいけないのです。

勿論、正そうという人達も沢山いるお陰で名誉を回復出来たり、正しい歴史認識を伝えたりしようとしていますが実際には、明らかになっている事例はほんの数パーセントで、ほとんど闇に葬られている事の方が、圧倒的に多いのです。

 

正義と悪、それは自身にまず最初に問いかけるべき問題なのです。

三者的な立ち位置や傍観、無関心やあきらめが、「誰かのせい」「アイツは正しい」という答えになってしまっているのです。

すなわち自身の判断では無く、他人に委ねている事になるのです。

選挙に行かず、政治批判しているのと同じです・

私達は社会を構築しそして維持して、協力し合う事で生きていけるのです。

犯人探しや、嫌がらせ、ヘイトの為に大切な人生という一度きりの時間を使う事が、どれほど悲しく無駄な事か、考えれば解る事です。

まして、そのような事をする為に生れたのではありません。

 

自然を見れば解るように、白黒ハッキリして流れている訳ではありません。

常にカオスで全く同じ事を繰り返す事はありません。

しかし、大きな法則の様なものの中で調和を保っています。

人間も、自然な存在である事を忘れがちですが、何が起き、どんな運命が待ち受けているかは当然解らないのです。

そして大切なのは、自然の中では善悪や正義と悪という概念は有りません。

肉食獣が草食動物を食べる事は悪い事ではありませんし、必要以上に狩りをする事もしません。

だからこそ、生きるという事は厳しく大変なのです。

 

文明が進み、貯蔵できるようになり動植物を管理できるようになり、対価としてお金が出てきた事によって、人間は自然を逸脱するようになってしまったのです。

すなわち度が過ぎた行動をやり続けてしまっているのです。

そう、この星、この宇宙の中で人間だけが価値という概念を生み出してしまったのです。

何億光年離れた星にダイヤモンドや金があっても、それはただの鉱物に過ぎず、価値を図るモノがいない世界ではただの石ころです。

価値それこそが文明を手にしてから今日まで「善悪」や「正義と悪」を生み出しているのです。

欲や権力、宗教や民族問題もお金という価値によってゆがめられてきたのです。

そして、モノだけでなく人間そのもにまで価値を、言い換えれば値踏みをして搾取し、色分けているのです。

そんな中で正義と悪という言葉だけが独り歩きをしているだけで、その裏にある思惑にまで考えが及ばないのです。

考える事を辞め、体制や権力者、果ては独裁者に委ねる方が楽だという歪んでしまったストレスの受け口を探しているだけかもしれません。

 

つい最近も自衛隊組織からの集団的なセクシャルハラスメントを受け、被害の声を上げ続けた女性の方がいますが、署名活動や顔出しでの発信等、とても辛い御立場であるにも関わらず訴え続け、自衛隊幹部はやっとその事実を認めました。

今の時代にしてこのような状態ですから、もし、昔の様にSNSが発達していなければ、もみ消され権利さえ行使出来なかったと思うと、その点では個人が発信する場があって本当に良かったと思います。

このような事から読み解けるのは、組織や権力によって簡単に「正義」を規律の乱れへの恐れや存続の為、名誉や権力者の経歴の為に捻じ曲げられ、隠蔽すら平気でするという事実です。

すなわち人、個人に対する価値を組織や権力と天秤にかけ、正義の名の元価値の無いものとしてしまう恐ろしさです。

それは政治の世界でも、いやこの社会のいたる所で現在進行形としてやっているのです。

 

だからこそメディアの力が大切であり、マスメディアは特に忖度することなく一貫性を持ち、中立性を保ちながら、間違いや不正、そして「悪」道理に反する事と、とことん闘う姿勢を持ち発信する義務があるのです。

残念ながら気骨のあるマスメディアが、従事する記者や組織の姿勢が劣化している様につくづく最近感じるのです。

ジャーリストも幅広く見る力が衰え、専門的な知識ばかりに特化している人ばかりになっている様に感じ、TV等の媒体での発言にしても歯に記せぬ発言をする人はごく少数で、忖度や何かの圧力をかけられている様な歯切れの悪さばかりが目につきます。

陰で長年にわたって様々な問題を取材されているジャーナリストも多くいらっしゃいますが、彼らに焦点を当てるマスメディアが余りにも少ない事も自浄作用が働かない原因でしょう。

このブログ記事でも以前から取り上げていましたが、今問題になっている宗教二世問題のマスコミの取り上げ方を見れば解ると思いますが、今になって話題性や視聴率の為に報道し、後は低予算で同じような芸能人でお茶を濁す番組作りばかりになってしまい、益々TV離れも進む事でしょう。

 

何より、過去の事を振り返り検証したり、追い続ける姿勢が、すぐ忘れてしまう国民性と相まってその役割の重要性を認識すらしていないメディアばかりになってしまっている事は、この国にとって大きな損失となっているのです。

何か事が起きなければ過去の事は一切触れず、動かない姿勢と、追及や批判に終始し、最後まで見届ける事無く終わってしまう在り様に失望を覚えるばかりです。

例えば過去の国会答弁を引っ張り出し、どの様な推移で何が今と違うのかといった矛盾をなぜ指摘しないのか?

疑惑がある政治家に対し、子供でも出来る様な連呼ばかりの勉強不足丸出しの質問をし、どうやって本質を聞き出せるのか甚だ疑問ですし、なぜ社をあげて追い詰める事が出来ないのか?

以前も書いたが、コロナで多くの命が失われている時に強行とも言える形で開かれたオリンピックは、誘致に賄賂を使った事で日本では無くフランスで未だ捜査され、セクハラや女性蔑視や盗用問題や過去の不適切な発言を暴露され、担当者が下ろされたり、最近では汚職収賄事件にまでなっていますが、コロナで苦しんでいる人達の横で、公共放送はそのほとんどの時間をつかってオリンピックを報道していたり、安倍元総理が復興五輪と銘打った五輪がどの様に復興と関わったかの検証もありません。

まして福島の原発事故を「アンダーコントロール」と発言したその根拠も未だ不明であるし、SDGsと謳いながら選手村での大量の食べ残し廃棄問題や多額の開催費用問題と新しく作り上げた様々な施設運営にかかる維持費や採算性等、ほとんどマスコミは関心を失ったのか?スポンサーや政府に忖度しているのか?検証もしなければ、責任追及すらしないのです。

まあ、オリンピックを支えてきた側からすれば、政府に忖度するようなマスコミが所詮やる事は無いとは想像できますが。

 

メディアは正義を行い償わせる力を持っている事を忘れて欲しくはありません。

少数者、マイノリティーの代弁者でもあるからです。

そして多様性を担保し、こぼれる人に焦点を当て続け、たとえ力で抑え込まれようとしても決してあきらめない姿勢を強く示すべきなのです。

何より「正義」とは何か?という問いを必ず持ち続けながら答えを探し続けてもらいたいのです。

力によってねじ伏せられてしまう様な、大戦以降かつてない世界情勢が不安定になっている時だからこそ、その存在意義を問われているのです。

この日本がどう進むべきかは、「正義」とは何かという一つの答えになるかもしれません。

それは私達個人個人の問題でもあります。

大戦後、この国が他国の人達を一人も傷つけていないという「誇り」を守る為にも。

 

自衛隊は日本国内では「Japan Self-Defense Forces」正に守る力と訳されていますが、「Japanese military force」「Japanese Army」「Japanese Navy」と海外では訳されていて、すなわち軍隊そのもの扱いです

自衛隊(Defense)として、他国に対する救助や支援を行ってきたこの国は、世界に誇りをもって今以上に名を知らしめて欲しいものです。

 

アインシュタインの言葉より

『正しいことは必ずしも一般的ではないし、一般的なことは必ずしも正しいとは限らない。』

 「What is right is not always popular and what is popular is not always right.」

 

「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆その本質(5)」に続く

 

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誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割(4)

ブログを始めた頃、どうしてもTwitterFacebookとの連携をしたいと思い、色々挑戦しました。

ブログもそうでしたが、カタカナ言葉には四苦八苦しました。

リツイート、シェア、プロフ、タイムライン、リポスト……。

パソコンはある程度操作できますが、知らなかったカタカナ英語に苦戦。

私にとっては、かなりハードルが高く、間違えて押してしまったり、文字数の制限も知らずに送れなかったりと失敗だらけでした。

 

ポケットベル、通称ポケベル(ポケベルの呼び出し音が鳴り番号が表示されると、相手に公衆電話等から電話を掛ける)が世に出て、ずいぶん面倒くさくて、監視されているようで嫌で仕方なかったものです。

次に進化系の番号を送れる機能が付き、例えば「14106」は「愛してる」となり「1052167」は「何処にいるの」という意味になるように、頭をひねりながら、番号を押し、解読していました。

そしてガラケー携帯でメールが送れるようになり、便利になったもんだと思いました。

 

ちょうどその頃、私はフィリピンパブにハマって入りびたりになっていました。

そのうち、常連のお客さんと仲良くなり、どんどん輪が広がっていきました。

ある日その内の一人に「フィリピンパブ関連のボードがあるから、参加しない?」と言われ、当時は○○板と言われていた書き込みのサイトに参加しました。

内容は、「どこそこのフィリピンパブは、可愛い子がいる」とか「あの子には彼氏ができてる」等、情報交換や、たわいのない内容で、時には「上手い文章を書くもんだ」「よくそんな毎日書く時間があるなぁ」と感心したりと、覗いてはいましたが、そのうち、参加する人が増えるにつれ、陰湿な書き込みや悪口、攻撃する内容が増え、見るのをやめてしまいました。

私自身は、投稿していませんでしたが、匿名を利用した数々の心無い投稿に嫌になってしまったのです。

当時の書き込みボードは、パソコンが主で、通信費は高く、通信速度もはるかに遅い時代でしたので、アクセスする人も余り多くなかったのですが、ウインドウ95やMACの登場で、若者も含め一機に広がったとともに、色々な書き込みボード、板、サイトが増え、参加する人も増えていきました。

 

30年前からは、技術は格段の進化を遂げたのですが、残念ながら人間は全然、精神面では変わってはいません。

冒頭のSNSで、久しぶりに参加した私ですが、相変わらず揚げ足を取ったり、切り取りや、言葉尻をだけで批判したりと、残念な状態が続いていたのです。

同じような趣味や嗜好の集まりであるグループ内でも起きている現実。

素敵な投稿をしている方が、別の投稿者に辛辣(しんらつ)な投稿をしたりと、SNSの顔が見えない世界では、どうしても避けられない事なのでしょう。

そして、その様な投稿に対し、何か言ってやりたい気持ちになる自分がいる事にも、がっかりしてしまいました。

反論したくなってしまい文字を打ち込みながら「何やってんだろう」と。

 

もう一つ、SNSをやって気が付いたのは、常に頭の中にSNSの事を気に掛ける自分の存在です。

SNS等をやっていなかった時は、ニュースを見たり、調べ物をしたり、家族に関するデータ入力だけで、頻繁にパソコンやスマートフォンを見る事は無かったのでしたが、何かに動かされている、せかされている様な、不快な感覚がつきまとっているのでした。

加えて、端末機器が傍に無い時や、持って行くのを忘れた時は落ち着かない自分がいて「依存症だな、これは。」と考え込んだり。

 

イヤならやめればいいし、見なくても良い選択がある、そう思っていた私が、そのワナにハマってしまいました。

人間は、どうやら他人の発言がどうしても気になる動物で、しかも一度確立した考え方や、信念のようなものを、簡単には手放さないようです。

そして、自分に同調しないものを敵とみなし、攻撃したくなるようです。

他人が考えている事を知り、間違った考えを正そうとしたいという欲求と、自我を守り、同調を求めるという矛盾が、様々な問題を起しているのでしょう。

そして、それが手軽にできるようになった事も、世の中をギスギスさせる要因になっています。

 

情報が飛び交うようになって、いかにその情報に信ぴょう性があるか?裏を取っているのか?を精査し、

出来る限り調べてから発信する慎重さがいかに大切か、改めて考えてしまいました。

映像技術が格段に進歩して、フェイク、偽の映像を簡単に作成できるようになり、結果騙され、詐欺にあう事や嘘を信じ込んでしまう例も数多くあります。

特に命に関わるような、誹謗中傷は必ず自分に跳ね返ってきます。

つい最近もTVのリポーターが容疑者の画像が流れている時に、「少し、にやけるているように見えます」とコメントしていましたが、そもそも「にやける」の使い方が間違っているのと、ふてぶてしいという印象付けの一方的な報道に、「よくこんな事がマスコミの一員としてできるなぁ」と思ったのです。

「にやける」はふてぶてしいという意味では無く。「なよなよとしている」様(さま)を表している時に使う言葉です。

私が見る限り、被疑者はそんな顔をしていませんでしたし、視聴者、受け手に委ねる事でいいと思うのです。

そして、別の容疑者報道では、昔卒業時に書いてであろう将来の夢の話や、同級生の話を持ち出し、悪事をする可能性がすでにあった様な情報操作とも受け取れる様な事をしていますが、人間は変わっていくもので、過去の事をほじくり返す事がマスコミの仕事でしょうか?

タレントや俳優の一部の人達の過去、例えば「昔暴走族の総長だった」と写真等で流し、これだけ真面目になって活躍していると報じている事はどう考えれば良いのでしょうか?

過ぎ去った事とは言え、その時代に迷惑をかけられた人への配慮はしなくてもいいのでしょうか?

マスコミやTVのこの矛盾を報道側はどう答えるのか知りたいものです。

 

また被疑者が成年に達しているのにも関わらず、親を追いかけまわしたり、家まで出向いてコメントを求めたりと、そんな時間があればもっと違う視点で深堀するのがマスコミの仕事であるはずです。

誰でも被害者に、加害者になる可能性があります。

まして容疑者の段階では、冤罪の可能性もあるかもしれないのです。

考慮し慎重に報道すべきなのです。

正しく裏打ちを取り、事実を伝える人ばかりではないという事を頭に入れておかなくてはいけません。

マスコミの劣化は、権力にねじ伏せられる事を意味します。

と同時にいらぬ先入観を人々に持たせ、攻撃の、うっぷんの対象にでっち上げてしまうのです。

また追い打ちをかける様にSNSで犯人探しをし、顔写真までSNS上で上げていたりと、なぜそこまでするのか理解に苦しみます。

同姓同名等で間違った情報を上げて、被害を受けたケースも何度もありました。

メディアが真実を伝えているかというと、残念ながらNOです。

メディアが正義を行っているか?YESです。

何故なら都合の良い「正義」だからです。

人は犯人探しが大好きな動物になってしまいました。

同時に、詮索する事を生きがいと思う人達が増えてきました。

昔からゴシップネタが好きな人は沢山いましたが、SNSによって桁違いに接する機会が増えてしまったのです。

歴史的にも私達は間違いを犯し、苦い経験をしているのにも関わらずにです。

目に見えない、細菌やウイルスの正体が解らなかった頃、標的にされたユダヤ人、修道士、外国人、巡礼者、ハンセン病患者。

kenpa.blue

このブログ記事「情報発信の危うさ」でも書きましたが、

関東大震災での火災や略奪も朝鮮半島出身者の仕業だと。

この国が、うまくいかないのは〇〇国のせいでだからお前たちが出ていけというヘイト

違った考えや容姿だけでイジメて排除しようとする。

挙句の果てに遅刻したのも、雨に濡れたのも誰かのせいなのだと。

そして悪霊や悪魔まで作り出し、責任を擦り付けるのです。

 

人は正義感を振り回したがる動物

正義の名の下、自分の判断で裁きたがる

白黒はっきりさせないと、気が済まない

相手を打ちのめすまで、攻撃する

正しいのは自分であり、人の意見を聞き入れない

同調する者を呼び込もうとする

煽(あお)られると、ますます過激になる

さらに宗教まで持ち出す

 

いつも誰かを裁いている

己という名の法律で

根拠や弁明の余地もなく

有罪と声を荒げ読み上げる

次から次へと罪人を

作り出しては勝ち誇る

考えてみるがいい

裁かれているのは誰なのか

真の裁きの法廷に

己の姿がそこにある事を

行動を、悪魔や天使の仕業にすり替えてはいけないのです。

この世に悪魔も天使もいない、人の心の中にいるからです。

正義と悪は、そんな簡単に決められるものでも無く、境界線すらないのです。

心の中には誰でも、人には言えない事や忘れてしまいたい事があり、時に天使の様に、時に悪魔の様にとブレながら生きています。

ただ、人間らしさが悪魔の様な考えを否定し、制御しているだけに過ぎません。

もしかした何かのキッカケが引き金となり、悪魔が顔を出す可能性は誰にもあるのです。

貧困、差別、自虐、虐待、宗教、病気、生活環境など、そして戦争。

その引き金を引く原因は思っている以上に多く、増え続けているのです。

そしてメディアは役割を忘れ、逆に煽(あお)る様な存在になりつつある事を忘れてはいけないのです。

誰でも情報発信できる今、引き金を引かせない、キッカケを作らない発信を心がける事は、何より自らが加害者になったり、後悔にさいなまれたりする事をしなくて済むからです。

次回「誰が悪い?誰のせい?⦅正義と悪⦆メディアの役割」に続く

 

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校則⦅誰の為にあるのか⦆

生きていく上で必要な人としての倫理を周りの大人達が教えながら、子供達は大きくなっていくものだが、倫理=ルールでは無い

ルールは時代によって、社会情勢によって、はたまた欲やコントロールの為に使われ変わっていくもので、不変なものでは無い。

最近の事だが、高校生の息子がスマートフォンを屋外(学校内)で見ていたらしい。

高校では、緊急連絡用としての所持は認めてはいるが、それ以外の使用は禁止されている。

校則=ルールである。

帰って来るなり息子が「先生から電話有るけどお願いします」と言われ、どうやら先生に見つかり注意され反省文を書かされたとの事だった。

「まさかあんな所から先生が出てくるとは思わなかった」そして「学校行事で皆忙しい時だったので、処分も軽くて良かった」「普通だったら部活の人まで連帯責任で謹慎処分される可能性があった」と私に話した。

勿論、校則を破る事はダメなので息子に注意はしたが、何かがおかしいと、引っかかるものが私の中にあった。

夜9時頃、担任の先生から電話がかかってきて、「今回は口頭での注意ですが、次回は親御さんに学校に来てもらう事になります」

担任は、まだ若く今回が初めてのクラスの担任を任された先生で、勿論言葉を選びながら話されていた。

私「ルールを破った事はダメで注意はしておきました。夜分お手数をおかけしました」

私「ところで先生!次回もし学校に親が呼び出されたらどうなるのでしょうか?」

担任「もしかしたら謹慎でしょうが、退学とまではならないでしょう!」

そう!私の心の中に引っかかっていたのは此処の所だったのだ。

私「息子は見つかって運が悪かったと思っています。他の生徒も隠れてやっていませんか?」

担任「まあ、やっているでしょうね。見つかってないだけで…」

私「二度目はもっと厳しい罰がある。罰が怖いからやめる。これでは何の為にやってはいけないかがボケて、罰則を恐れさせる目的にすり替わっている様な気がしますが、その点はどうお考えですか?」

担任「確かにおっしゃる事は解ります……」

若い先生はきっと、上からの指導があったり慣れない担任業務で、朝から夜遅くまで仕事をして、大変だという事は想像でき、ちゃんとやらなければという焦りや単純に校則を「破る事=罰則」に囚われていたのでしょう。

もう一度、息子の違反を詫びて指導するという事で電話を切ったが、考え込んでしまった。

欠けているのは、何故その様なルールがあるかの生徒に対する説明だ。

生徒にとって、もしくは学校にとってマイナスになる事を説明すべきであるし(私個人は授業中の使用ならば集中力を欠く観点からなら禁止すべきと捉えているが)、納得させる力量が先生には必要だと思う。

最近もよく意味の解らない校則に関するニュースを目にするが、息子の学校でいうと最寄り駅だけでの制服でのスマートフォン禁止や寄り道禁止。

指定の小さなマークが入った値段の高いYシャツで以外はダメという理由が解らない。

しかも不定期でチェックされると聞く。

靴下しかり、髪の色や何センチまでとか色の指定まで生徒を縛る理由は何なのか?

そもそも校則とは何の為、誰の為にあるのか?

考えさせられた一日だった。

 

交通ルールで考えれば解る事だが、例えば飲酒運転は認知機能も落ち、判断力も鈍り非常に危険だ。

勿論罰則も厳しいし場合によっては刑務所に入るし前科も付く。

悲惨な事故を何度も招いてきた飲酒運転は、絶対にやってはいけない事だが、警官が見ていなければ、検問に引っかからなければOKという事では無いのは当然だ。

一時停止や駐車違反も同じで、死傷者が出ない様に決められたルールであり、それには何より自覚が必要である

単に反則金行政処分がイヤだからという理由で守っている訳では無いのだ。

事故を起こすと人の命までも奪ってしまう可能性があり、加害者になってはいけないという自覚が無いと、単なる捕まって運が悪かったという言い訳で終わってしまうし、また同じような違反を繰り返すだろう。

挙句、後悔する事になるのは目に見えている。

 

息子が幼い頃、よく公園に連れて行ったが、私が幼い頃あった遊具、例えば対面式で乗れる箱型ブランコやコーヒーカップの様な回して遊ぶ乗り物は、事故があるとの理由で目にする事は無くなってしまっていた。

しかし滑り台やブランコ、ウンテイにジャングルジムと、考えれば危険だらけだ。

砂場は動物のフンがあったりするし、何でも口にする幼い子にとってはリスクも高い。

シーソーだって打ち所が悪ければ大けがをするだろう。

だからと言って「公園は立ち入り禁止だ」という短絡的な考えにはならない。

リスクはあるという前提で、それよりも子供達にとって得るものの方がリスクよりもはるかに多いからだ。

安全を考えて新たな遊具を作り出す事の方が、子供達にとっては幸せな事になる。

そう、それが大人の知恵であり工夫であり、過程というモノだ。

「危ない=禁止」と「校則=罰」の構造がよく似ていると思わないだろうか?

そこに欠けているのは過程が無いのだ。

髪形や靴下の色で非行が無くなる、抑止になるという短絡的な思考が問題なのだ。

伝統や校風は規則や罰で出来るものでは無い。

本気で叱ってくれる素晴らしい尊敬できる先生との出会いや、共同生活で育まれていく仲間意識等、生の人間が作り出していくものである。

それは短期間では出来ない日頃の人間同士の繋がりの、世代に渡る繰り返しによって生まれてくるものであり、まさしく伝統という校風が出来ていくものだと思う。

結局いくら形から入っても、人間同士のぶつかりあいの中からでしか生まれないもなのだ。

SNSやネットには学校の情報がいくつも記載されている。

現役の学生や親から卒業生まで口コミや批評もしかり、部活内容から進学率までランク付けされている、そんな世の中になっているのを、学校関係者は一度覗いて検証しても良いかも知れない。

 

昨今人口が減少し、学校も生徒を集めるのに大変になってきている。

ただ、今までの古い考え方で学生を集める事は、そろそろ見直した方が良い。

校舎の見てくれが良いとか、設備が整っている、進学率が高いなど誰でも考える事だ。

どの学校のホームページも似たり寄ったりで、良い事しか書かないのは当たり前だろう。

前述したように、ネット検索の方が生々しい情報が流れている今の状況の中で、生徒の心をつかむのは、もっと生徒たちの目線で発信しなくてはいけない。

そして、

校則ももっと考え直すべきに時期に来ている。

本の学校は自分達で掃除をし、身の回りを整理し、遅刻もせず、マスクをしろと言われれば誰も文句を言わずにするし、通学も子供達だけで安全に出来る、それこそ素晴らしい伝統を持っている。

その様な普通の事が海外から見ればとんでもないくらい誇らしい所なのだ。

にも関わらず、おかしな校則で締め付けている事をよく考えてもらいたい。

子供達はもう充分頑張っている。

それを無駄に、ダメにしているのは大人達なのだ。

PTAから教育委員会まで、未だ行事ありきや不祥事を隠そうとする体質であり、権力や序列ばかりに囚われ子供の足を引っ張り続けている。

弱い物言えぬ子供達の代弁者である大人達がだ。

加えてそんな組織や序列により、先生自身が自分達の首を絞め、行動を制限され、時間ばかりに追われている事に気付いてもいいはずだ。

「大人も昔は子供」だったのだ。

思い出して欲しい。大好きだった先生の顔を。楽しかった友達との時間を。

 

時代は変わっていくもので、ならば未来に繋がる様な教育の場にしていくべきで、自分の大切さや人とのかかわり方、個性や多様性の大切さや性差、見た目で判断してはいけない事、未来の為に過去の歴史を忖度なく教える事など、やるべきことは沢山ある。

何より取り巻く大人達が変わらなければならない。

子供達はちゃんとそんな大人の後ろ姿を見ているのだ。

嘘つきや口先だけの大人を、彼らは見抜いているのだ。

日本の製品は今でも世界中で信頼を得ている。

例えばネジ一つとっても、緩まないネジや隙間が正確と、大きな製品のごく一部に使われるものであっても品質が良いから製品自体の信頼性も上がる。

そのネジを作り出してきた職人達や匠たちの苦労は並大抵では無かっただろう。

そして満足が出来るものが出来て初めてラインに乗り生産されていくのだが、そこまでの過程、何度も失敗し挑戦してきたであろう技術者や職人達の費やした時間の大切さだ。

いきなり信頼できるネジがラインに乗り大量生産できるはずはない。

言い換えれば、今の学校のほとんどがベルトコンベアーを効率よく回したいだけの、上からも下からも責められノルマに追われている工場長と同じだ。

時間に追われ不良品を出来るだけ出さない様に管理している事と変わりない

その為のマニュアルが校則という形となって生徒たちを縛っている。

一律に規則で縛って同じような個性のない人間作りをしても、それは教育では無いのだ。

何度も書くが過程が無い。

技術者や職人達の想いを感じず、端折って製品だけに焦点を当てても、次の新しい技術や製品は生まれて来ないのだ。

 

学校、校則という縛りがイヤで行かなくなったり、イジメや孤立感で不登校になってしまった人達の中から、素晴らしい活躍をしている人もどんどん出てきている。

選択肢が増える事はとても素晴らしい事だ。

縛られるのがイヤならば、孤立しているなら、大人達が無関心を装う態度なら、そんな学校に無理していく必要は無いし、行く意味がない。

多感な時期に、負の感情に埋め尽くされている子供達がいる事に心が痛む。

将来の事だって、どうなるかは誰にも解らない。

それはいつの時代でも同じ事で、私が過ごした昭和の時代もそうだった。

ただ皆が同じ方向を見て、同じ生活を夢見た事がその不安を払拭していたにすぎない。

逆を言えば、今の子供達は選択肢や情報が溢れかえっている中で、ちゃんとした選択をするのが難しくなっているのだ。

 

何が起きるか解らないという事は、普段の生活の中からは感じる事はほぼ無いが、それが「自然」というモノであり、だからこそ生きている事に感謝する気持ちになるし、やるべき事ややりたい事を後回しにする時間は、思っている以上に無いのだ

 

生徒、学生が、そしてその時代を生きている若者にとって過ごす時間は、大人が考えている以上に中身が濃い時間であり、大人はもっと彼らの時間の観念に近づき、自分がかつては子供だった事を今一度思い出さなくてはならない。

結局のところ最後にものを言うのは、人間力でしかない

 

映画やドラマで観る欧米の様な自由で楽しそうな学生生活の裏で、銃の乱射や誘拐、ドラッグの持ち込みという負の部分がある事を見落としてはいけない。

曖昧で自己主張が下手とか、意見を積極的でハッキリ言わない等、日本の若者に欠けている所ばかりに焦点を当て、国際社会、グローバルな視点という、いかにも夢が溢れ可能性に満ちているかのように一律に若者を駆り立てるやり方には無理がある様に思う。

弱点と言われる事は、逆を言えば魅力でもあり、旅行先に選ぶ国の上位にランクされている事からも解るはずだ。

何より、皆がみんな同じ考え方をしているわけでも無く、また境遇や経済力など本人とは関係のない足かせで苦しんでいる若者を助ける事の方が最優先だと考える。

可能性に満ちた彼らの芽を摘む様な、社会の仕組みや大人の思い込みを変えて欲しい。

イジメなどで死を選ぶ子供達を救えない学校や教育委員会、PTA、そして校則ならば、無い方がいいとさえ思うのだ。

 

先生が、校則が全て悪いとは書いていないし、工夫し手直しをしている学校も少なからずある。

社会全体に余裕がない中、一生懸命に生徒たちと向き合っている先生も沢山いる。

そんな先生達の首を絞めているのが校則かもしれないのだ

規則が多くなればなるほどチェック数も多くなるし、考えて行動する事よりも優先順位が高くなり、守らせる事が重要だと短絡的な思考になって、より深みにはまってしまうからだ。

縛られれば反発したくなるのが人間だからこそ、その意味を、在り方を社会や学校や家庭も含めて大人達は時間をかけ生徒たちに説明し、考えさせる時間が必要だと思う。

 

私が高校生の時は、学校全体が荒れていた時期だった。

私が通っていた公立の学校は、生徒がよく抜け出して喫茶店でタバコを吸っていた。

今と違って、外回りをする巡回の先生がいて見つかれば先生にガツンと叩かれて終わりだった。

下駄を履いてくる奴や学ランの裏地に見事な刺繍を施している奴、やたらと縦幅が長い詰襟(つめえり)をしていている奴、長~いスカートに化粧姿の女子、パーマをかけていたり、染めたり、反り込みを入れている奴など、いろんな格好の奴がいて先生も大変だったに違いない。

授業中に丸めた紙に火を点け投げる奴もいたし、若い女性の先生を泣かす奴もいた。

イジメもあったが(私も被害者だった)、逃げ場所があった。

気の弱そうな先生に顧問になってくれと頼み込んで軽音楽部を勝手に作り、放課後気の合う友達と会えたからだ。

ただし形だけの顧問の先生は一度も顔を見せに来なかったが。

また逃げ場の一つに、その頃中型二輪免許をとり、放課後学校の廻りをブンブン音を立てながら走り回っていた。

後ろに女子が乗りたがって、ヘルメットをわざわざ買ってくる子もいたくらいだ。

注意を何度もされたが、免許所得も学校は黙認していたのか、何も言われなかった。

勿論、校則違反に対しては厳しく、叩かれたり叱られもしたが、当時、停学や親の呼び出しといった罰則をちらつかせる先生は私の記憶では居なかった。

卒業後たまたま学校の傍を通ると、学校の塀の有刺鉄線が外部から入られないようにでは無く、生徒を出さない為に内側に傾いていた。

先輩である私達の功績?だろう。

今、良くも悪くもおおらかだったその頃を懐かしく思い出し、そして笑ってしまった。

 「今じゃ考えられないなぁ~」と。

 

昔は、クレーマーの様な親もほとんどいなかったし、逆に「先生」という言葉に重みがあったように思う。

当時無かったスマートフォンタブレットと持ち物も大きく変わり、生徒たちの情報量も格段と増え、おまけに親や世間に対する学校の印象といった気遣い等、先生方も対応が増え大変だろうと思う。

現に、「〇〇高校の制服を着た生徒が、コンビニ前でたむろしている」というような通報までする暇な大人もいる。(息子の高校の事だが)

先生方にとってはこの時代、受難な職業だとも言える。

長時間勤務で休みが無い、ストレスの多い先生という職業を目指す若者も減っているのもその表れだ。

国も、政府もいつまでたっても向き合おうとしないこの問題を、近々に改善しないと生徒達も不幸になる。

それでも、おかしな校則には反対だし、大人としてもっと余裕がある包み込む大きな心を、そして生の苦悩する姿を生徒たちに見せて欲しいと願うばかりだ。

 

たかが校則だがされど校則。これからどんな守りたくなるような校則が出てくるか、楽しみでもある。

それには、やはり大人が変わらなければ出てこないだろう。

余談だが、尊敬するアインシュタインは、何らかの言語障害があり、スペルをいつも間違えていたし、学生時代には教授に反抗的だったり、

以前にも書いたが、破れるのを嫌がって靴下も履かなかったりと、きっと今の日本の学校には絶対に通わないでしょう!?

 

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車の運転は、真剣勝負⦅知らないと事故をする⦆(3)

このブログの趣旨、趣向が異なるのだが、長年車の運転をしてきて、いよいよ言いたくなって、いや書きたくなってしまったのだ。

 

車は生活する上で欠かせない人も多いと思うし、高齢になっても必要としている人達が多いのも良く解るのだが、チョット考えてもらいたい事がある。

運転している人達の中に、まるで事故をして下さいといわんやばかりの人がかなり多い。

2021年の概要・事故発生件数は30万5425件で負傷者は36万1768人、死者数は2,636人(政府統計総合窓口による)減少傾向とはいえ、大切な命が毎年奪われている。

 

まず、車体の外についている様々な灯火(ランプ)は、何の為についているのか?だ。

信号待ちで、信号が変わった途端、指示器を出す輩(やから)

「まっすぐ行くと店に突っ込むぞ~」と後ろから突っ込みを入れたくなる。

「交差点30m手前から出すんだよ!」違反だぜ!

先に障害になるような何もない道でブレーキランプを踏まれる。

「何だ、何なんだ」と考えている時に、急に指示器を出したり、止まったり。

「ブレーキ踏む前に合図出してくれよ」と叫びたくなる。

ムリに入ってきてハザードランプでサンキューって、それは無いだろう!

ハザード出して終わりなら警察要らんでしょう。

元々は車両の危険を知らせる「非常点滅表示灯」という位置付けだが、スーパーの駐車場などで後続車にバックする意思を伝えたり、渋滞の最後尾時に点灯し、後続車に注意を促したりと、様々な使い方が増えてきている。

それはハザードランプの点灯でやってはいけない規定が無いからだ。

やみくもに使う事もいけないが、点灯さえすれば許されるという事では無い。

初心者の方やペーパードライバーの方は、今の使われ方を調べて頭に入れておくのが必要だ。

対向車「ハイビームで眩しいのが解らないのかなぁ?ちょっと考えれば分かるだろう…!」とぶつぶつ。

車のメーター周りにハイビーム表示が必ずあるので、っていうか前を見れば解る事なんだが?

対向車がいなければ、思う存分ハイにしていいから!

もう暗くなっているのに、ライトおろかポジションランプも点けない輩。

バックミラーを見ながら「見えてないぞ~」って言うか、危ないだろう!

最近のトンネル内は明るくなってはいるが、ライトを点けない車も多い。

バックミラーだと車の色にもよるが、見えにくいのだ。

昔の車はメーター類がヘッドランプを点けないと暗かったが、最近の車はメーター類が常に明るく点灯されているので、気付きにくいのも原因かなぁ~。

必ずトンネル内はライトをON!

自車をアピールしないと!

 

灯火類は、自分の車の行動を、他車に伝えるのが目的であり、事前に相手に伝える事で、自己防衛と事故を未然に防ぐ役割をしているのだが、そんな事もお構いなしで走っているのだ。

「あ~恐ろしい!!教習所で、一からやり直してこい!!」と言いたい。

メインの道、優先道路から右左折する時、その先の脇から出てくる車を待っている。

狭くて入れないなら仕方がない。解る。

考えてもらいたいのは、広い道は大動脈と同じ。走行する車が多い時は、出ようとしている車を待ってないで「早く曲がってくれ~」

狭い道では、前からくる車が右折しようと指示器を出していたら、バックミラーで後続車の確認してなるべく譲ってやろう!

その方がどの方向もスムーズに流れる。但しサンキュー事故に注意!

譲ってもらっても、自分の目で周りを確かめてね。

スーパーや給油所の駐車待ち。おいおい入り口で止まるなよ!もっと中に入ってくれ~!

バックで駐車する時もハザードランプを出して 、「何をするのか教えてくれ~」

交差点。右折する車の運転手さん!「もっと中央まで頭を出してくれ~」

道路の中央に目印がある所まで出て行かないと、「後続車の曲がれる台数が少なくなるんだよ~!」

周りの状況をよく見ようよ!自分の事ばかり考えないで!

それに中央まで進む事で死角も減って、歩行者も見つけやすくなるんだよ。

バスの発信を妨げては「法律違反だぞ~」

無理して抜いても、「バスの陰から飛び出してくる人がいても知らないよ~」

緊急自動車のサイレンが聞こえないのか?

交差点を避けて道を開け止まるって、「おいおい習ったろう?」なるべく窓は少し開けて、外の音が聞こえるようにした方がいい。

空気も流れて換気にもなるから。鳥の声も聞こえるよ!

たまに大音量で走っている車を見かけるけど、大丈夫?

海や山に行って、止まってから楽しめば?

前が詰まっているのに交差点に進入して止まるのは、なぜ?

前を見るというのは、目の前の車のケツを見る事じゃないんだけどねぇ

「お願いだからやめて欲しい~!」交差点付近の駐停車!交差点とその端から5メートル以内の場所は、駐停車禁止だぞ~

大型トラックなど全長の長い自動車は、後ろのタイヤから最後部まで、はみ出している車体が長い。

右折ラインに止まっている場合、その車両が右折する際、後ろが大きく左にはみ出す。道が狭いと特にだ!

並走している時や信号待ちで変わった途端目の前に、トラックの後ろが迫ってくるのだ。

トラックが左折しようとしている時も、自車が右折ラインに止まっている時も同じように起きる。

特に狭い道では、大きい車の横に止まったり、走行する時は横の間隔を開けなければ引っかかるんだよ!実際に私も目の前で右折のトラックの後ろが左横の車に当たり、横転したんだから!

右左折する時、それぞれ曲がる前に右や左に寄せるって教習所で習ったろう?

寄せる意味があるからだ。

バックミラーやサイドミラーで、自転車やバイク、歩行者が見やすいようにだぜ!おまけに、バイクや自転車もブロック出来るから安全なんだけど。

例えば左折する時、右にハンドル切ってから左に曲がる輩がいるが、内輪差が大きいトラックじゃないんだし、

トレーラーや牽引車は、左折時は特に左後輪を道路上に納める為、一旦右にハンドルを切る。前方にトラック等がいた場合、後続車は指示器を見て、曲がり終わるまで待機するのが常識です。右にハンドルを切ったから右折と勘違いする事はよくある事

おまけに死角が増えて「危ないぞ~」

それに、そんな車に限ってスピード出してるけど、変わらないよ着く時間!クセなんだろうなぁ?

対向車にとっては、正面衝突される様に見えるのですよ!

解るよ!店舗の駐車場に入れるのがめんどくさいって。

近くに止めたいって。誰かを待っているって。

でも店舗入り口付近に止められると、駐車場から出る時に左右が見にくいんだ!もし事故になったら「責任取ってくれるの?」

カーブミラーを過信しないで!ミラーとミラーの間に死角があるんだよ!

歩行者や自転車は、速度が遅いから死角に入って見えないんだよ!

実際、私の家の近くのカーブミラーでは、約4秒ほど歩行者が死角に入って見えないんだから。

一時止まれの白線って、ここで止まれって事だよ!良くはみ出して止まっていたり、ゆっくりと進んでいる車を見るけど、白線には意味がちゃんとあって、そこで止まってからゆっくり発進しないと事故を起こしますよ!

見通しのいい所ばかりじゃ無いから!日頃からクセをつけないと「やっちまうぜ~」

ビックリしたのは、サイドミラーを格納(折りたたんだ状態)して運転している人!

勘が良くても、それでは死角だらけでしょう?勘弁して下さいよ!

カンガルーバンパーと呼ばれる動物との衝突から車を守る、日本でも主に4WD(四駆)車に以前見られたバンパーで、精悍さや格好の良さで人気があったが最近見ないでしょ?

歩行者と衝突した時に、歩行者にダメージが大きいからなんです。

カッコだけでつけている人、もしもの事を考えるなら外した方がいいです。絶対!

元々、フロント部分は壊れやすく作られていて、衝撃を吸収する役割があるから、おかしな付け方をすると自分も危険になる。

後付けのフォグランプフォグランプ取付に伴うマウント用の部材なども、取り付け方を考えないと、歩行者にとっては非常に危険!「ホントにヤバイ!」

フロントフォグランプ(前部霧灯)の取り付け個数には基準が無いが、同時に3個以上点灯してはダメ。

フォグ(fog)霧の時に使用する目的ですから、光軸(光の射す方向)も下向きで調整されているはず。

やたら眩しいフォグランプを照らしながら走っている輩。「霧なんか出ていないよ~!一度自分の車の前に立って見れば解るでしょっ!」

あと夜間にフォグランプのみをつけて走行するのは、法律違反ですから。

誰もいない山奥でどうぞ!

一方、リアフォグランプ(後部霧灯)、よく後ろの下の方の真ん中についている赤いランプ!

取り付け個数が2個以下でなければならないと決まっているし、LEDで眩しい車が時々いるけど、霧や雪で見通しの悪い時だけ点灯して。

「お願いだから!たのむ!」それに「カッコ悪いぜ~」

「路上駐車しているそこの運転手さん!ドアの開け閉めは、他の車が走っている時にしないでくれ!!」

それと車道側のドアをあけたまま、車内に身を入れてゴソゴソするのは、ほんとやめて欲しいんだけど。

「習ったはずなんだけどなぁ~」それに急に開けると、自転車やバイクがぶつかるからね!

大きいと近くに、小さいと遠くにいるように見える。

これは目の錯覚で、すなわちバイク等は思ったよりも早く近づきますよ。

特に右折時、直進してくるバイクには注意して欲しい。

また車のすぐ後ろを走っていると見えないので、慌てて右折すると人生終わりですから。

 

高速道路や首都高など、慣れていないとかなり神経を使うものだが、ここでもお願いしたい事がある。

合流する為に側道から入ってくる車のスピードが遅い!

合流までの区間は加速ラインで、本線を走る車の速度に合わせるように入ってもらいたい。

不慣れでドキドキするのは解るが、ゆっくり走られると危なくて仕方がない。

また、入って来る車を嫌って右へ車線変更する時は、もっと手前でやってくれ!そもそも車間距離が短いからそうなるんだと思うけど。

首都高でよく見られる道路の構造上、右からの合流がけっこう多い。

トラック等、加速出来ない車が入って来る時は早めに左に車線変更するか、十分車間を開けて走ってもらいたい。

特に、右からのカーブの付いた合流は慣れた人でも危険なんですよ!

首都高なんか、トンネル内にあるから最悪です!しかも加速ライン短いし!

自信が無い方は、ベテランのドライバーの横に乗り予習するか、下の道を走るのが一番の方法。

渋滞時の本線への合流で困るのは、一番先で合流してもらいたい 。早く本線に入りたい気持ちは解るし、とっとと合流して流れやすい一番右車線に入ろうする気持ちも解らないでもないが、ハッキリ言って迷惑!

本線左を走る車が何台も前に入れる羽目になり、余計、全体的にスピードが遅くなるし、イライラもするだろう。あわてて入らなくても大丈夫なんだから。

坂道などで、路側の側壁に緑がかった青色の点滅しているLED。見た人もいると思うが、速度回復誘導灯(エスコートライト)というもので、点滅に合わせて走りなさいというモノ。

すなわち、点灯するLEDのスピードにあわせて速度を出せ!と言っているのだ。

渋滞対策の一環で多く見られるようになったが、知らぬ間に速度が落ちている事を運転手に注意を促す目的で、装飾している訳でも楽しませる為でもありません。

ちゃんと意味があるので、気を付けましょう。

 

その他にも

脇に車を止める際、路上のブロックなどでタイヤの側面をこする人がたまにいるけど、側面に傷が入ると、高速道路でバースト(破裂)の危険が大!点検点検!

空気圧も、意外と盲点。燃費も悪くなるしパンクもしやすくなるから、普段から乗り心地を体で覚えよう!

凹凸のある所を走る時なんかチャンスなんだ。

普段の走行音の違いで解るので、自分の車の走行音を覚えておくのも大切。

特に遠心力のかかる高速走行は、タイヤが遠心力で変形し易いからこれも点検点検

パンクした自転車が重いのと一緒!まあ自転車ならしんどいだけで済むけど。

最近の車は、補助タイヤがついていない車が多い。

自分の車がパンクしたらどうすれば良いか「JAF」頼りにしないで確認しておいた方がいい。

助手席に乗って、ダッシュボードに足を乗せている人。もし衝突したら深刻な体へのダメージを食らう事になりますよ!

例えばTVやソファーでくつろぐといった家の中の環境を車に持ち込む事は、本当にやめた方がいい!

あくまでも車は移動手段であり、非日常であり、それが楽しくもあり、危険を伴っている事でもある。

特に、映像を伴うようなTVやナビゲーション、スマートフォンの車内での扱いは、一歩間違えば人生を左右するような事故に結びつく。

この先完全自動運転技術が進むだろうが、それでも運転するのは人間なのだ。

そして人間は必ずミスをする し、機械も100パーセントでは無い。

機械による補助も、あくまでも補助という意識を持っていないと、何かあっては遅いのだ。

また、車の機能のほとんどが電気に頼っている。

電気が切れると窓も開けられない。

過信は禁物なのだ。

便利さの裏には、リスクが伴う事も頭に入れておいて損はない。

時間帯規制、すなわち登校時間帯には入ってはいけませんという標識の道を走っている人を見かけるが、子供達が安全に歩ける道としての規制で、大人の様にまだまだ予測不可能な行動をする子供達を守る為にある

急いでいる、近道だから、混んでいるから等といった利己主義の言い訳は通じないモノ。

ダメなものは駄目。

 

海や川への転落や大雨が降り、高架橋の下(アンダーパス)等、道路の冠水による車の水没事故も毎年のように報じられている。

電気が使えなくなるので、当然窓も開けられない。

落ち着いて、車内に水が天井ぐらいまで待てばドアは開きやすくなるが、まずパニックになってしまう。

窓破壊用ハンマーがあれば割れるが、無い場合はヘッドレストを引き抜き、支柱の金属棒で割れる。

大災害時は、ナビや携帯も使えなくなる可能性がある。

日頃からせめて東西南北ぐらい解るようにしておきたい。

なぜなら簡単な地図さえあれば役に立つが、方向が解らないと意味が無いから。

住宅の庭はほとんど南向きであるし、住宅やマンションのパラボラアンテナは南東方向を向いている。

勿論、太陽や星が見えれば東西も解る。サバイバルをしろと言っているのではないが、知っていて損はない。

最近は音声ナビが充実し出している。特に初心者の方は、音声によるナビゲーションに慣れるようにした方が良い。ただでさえ、運転に不慣れな上、操作や確認の為画面に目をやる機会を作らない方が、事故につながる確率も低くなる。

仮に時速40kmで走っている車は1秒間に約11mも進む。

1秒間は事故が発生するには十分な時間である

例え迷っても、間違えても道は必ず繋がっている。

時間と心の余裕を持つように運転して欲しい!

 

現役の運転手であり、バイクのライダーであり、歩行者や自転車という立場を経験している中で、鉄の塊と生身の人間では、人間の方がはるかにリスクがあるのは当然です。

歩行者や自転車に過失があったとしても、弱者優先の立場から、重量の重い車の順に責任が重くなります。

考えてもらいたいのは、弱者という視点を見直してもいいのではないかという事です。

道路を利用するものは、どちらかが弱者という立場ではなく、全て交通ルールを守り、同じ権利を持ち、歩行者も違反をすれば加害者になる。

見方を変えれば、同じ道路上の権利として、堂々と歩道を歩き、横断歩道を渡る事が出来るという考え方が本来だと思う。

 

NHKラジオで、稲垣 具志さん(中央大学研究開発機構 准教授)がお話しされていたが、子供に状況判断のエラーが起きているという内容で、子供の横断する際、どのタイミングで横断できるかの調査があり、いわゆる子供の認知機能に驚くべき結果が出たと報告されている。

それは、小学生が大人が思っていて以上に向かって来る車に対し、渡れると思う車と自分との距離が短いという事で、5、6メートルに車が迫ってきても、子供はまだ渡れると思っているという事。

「みんな同じ色を見ている?(2)」

kenpa.blue

でも触れたが、見ているようで、実際にはその情報が視界には入っていない場合もある事も頭に入れておくべきで、ましてスマートフォンを見ながらヘッドフォンをしていると、情報を遮断しているのと同じ。

 

今の流行りの車は大きなディスプレーで、カーナビ、ネット、ラジオや空調等、様々な事がタッチ式で操作可能になってきている。

アップデートが容易で、場所を集約できるという利点があるが反面、電気が切れると何も出来なくなってしまう。

最近の実験では、ラジオを聞くという作業で、昔ながらの押し込んだり回したりする物理的スイッチの方が、タッチパネル式よりもはるかに時間がかからない。

すなわち運手に集中し易い事が証明されている。

便利になるのも良いが、ガシャっと音がする昭和の車のラジオの方が個人的には好きではあるが。

 

色々書いてきたが、煽り運転の原因になるキッカケを作ってしまう事柄も含まれている。

勿論、煽ってくるドライバーが悪いのは当然ではあるが、知らずの内にそのキッカケを招いているかもしれない事をもう一度考えて運転してもらいたい。

自分がどんな運転をしているかは、なかなか解らないし、クセも自覚していない場合が多い。

もし、家族や知り合いの横に乗る機会があれば、指摘するべきだ。

高齢者に限らず運転に自信のある人ほど、意外と危ない行動をとっている事がままある。

指摘しにくい事ではあるが、後になって後悔するよりも注意をした方が自分の命も守れる。

 

今回、目に余る運転者に対する思いを書いたが、歩行者も自転車も、そしてキックボードもいつ加害者になってもおかしくない世の中で生活している事を、絶対に忘れないで欲しい。

後で後悔するような事をしてもらいたくないし、何より命は、無くなると取り戻せないのですから

 

事故で、怪我や亡くなるという悲惨な事が起きないよう気を付け、

今日も安全運転で!

 

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適応障害は他人ごとではない⦅自助と公助⦆

最近のドキュメント番組では、中高年者の孤独死や引きこもり、老々介護など暗くなる現実を放映しています。

2020年令和2年における自殺者数は、厚生労働省によると2万1,081人で、「40歳代」が3,568人で全体の16.9%を占め、次いで、「50歳代」(3,425人、16.2%)、「70歳代」(3,026人、14.4%)、「60歳代」(2,795人、13.3%)

40代~の中高年でひとくくりにすると1万2,814人で実に60%に及びます。

政府の2020年版自殺対策白書で09~19年に自殺した中高年・高齢者約20万8千人の状況を分析し、

その原因は、「健康問題」が最も多く、次に「経済・生活問題」、後期高齢者では「家庭問題」2番目という内訳でした。

また、厚労省は自殺には複数の原因が重なることが多く、健康問題にも経済事情などが複雑に絡んでいるという事です。

2021年令和3年度は1~11月累計19,113人でまだ詳細は解りませんが、コロナの影響もあり、かなりの数になるのは確かです。

 

G7先進国の中でも、2016年調査ですが、人口10万人あたりの自殺者数がトップという残念かつ深刻な結果になっています。

 

日本は第二次世界大戦後、経済成長を伴い、先進国としての地位を確立していくのですが、実際には今露見している様な、夫婦別姓やLGBTQ(注1)の人達に対する法整備、女性の社会進出の遅れ、温暖化対策、移民受け入れ及び入国管理省の対応、代用監獄=留置場という世界でもまれな被疑者に不利な制度や取り締まり尋問の可視化問題など、その他様々な事柄において、後進国のままであるのも事実です。

社会保障においても、憲法第25条に書かれた「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という理念にも、程遠い状態であるのも残念ながら事実です。

「誰でも」「どこでも」「いつでも」保険医療を受けられる体制、すなわち日本の国民皆保険制度や年金制度も、こぼれ落ちた人達が、沢山存在し、公助よりも自助を求める様な政府の姿勢で、弱者や困窮者対策は、民間任せの部分が多いのです。

コロナ禍でも露見した政府の後手後手の政策により、病院で見てもらう事すら出来ない人達も多く出してしまい、加えて脆弱な管理体制の露見や医療制度の崩壊等、政府が今までやってきた事は何だったのだろうか?と思わせる出来事ばかりです。

見本です。本文とは直接関係ありません

 

私も病気になり働けなくなってからより強く感じたのは、色々な救済制度が用意されていても、知らなければ、何も役に立たない、すなわち経済的にも精神的にも辛い立場で、落ち込んでいるのにもかかわらず、自ら調べ、行動しなければ、何にも活用できないという事実です。

生活が苦しいので、市役所に相談しに行きましたが、「生活保護制度を利用するのも考えて下さい」と言われ」財産の状況や借入金、親族関係など矢のように聞かれました。

私が「高校受験の息子の為に貯めた、郵貯に10万があるだけです」と答えた時は、「それも使ってダメならもう一度相談しましょう」と、そして借金等の負債も自力で銀行等に行って、話して解決してからの事になります。」と言われました。

勿論「生活困窮者の為の相談窓口」という名目で得た情報を頼りに行ったのですが、具体的な提案は無く、どの様な支援があるのかさえも最後まで聞くことは出来ませんでした。

私の場合、妻が外国人であり、自身精神を病んでしまったので、とても辛く「その様な手続きは中々すぐには出来ない」と言ったのですが、「あくまでも、その事が前提での話で、よく考えて下さい。」と話を打ち切られました。

(市町村によって対応が違いますので一概には言えませんが)

幸い、傷病手当を受け取る事が出来たので、しばらくはギリギリやってはいけそうなのですが、そもそも、傷病手当は、全国健康保険協会(通称、協会けんぽ)と健康保険組合(通称、組合健保)に加入しているのが前提になっています。

給付期間は最長1年半です。

派遣会社で働いていた私が、保険に加入できたのは、入社して1年以上経過してからでした。

それ以前は国民健康保険には加入していましたが、傷病手当金という制度は原則ありません。

(コロナ等で特例処置として認められることは有りますが)

私が所属していた派遣会社は、約50人程度在籍していたのですが、会社の運営者以外、保険に加入できたのは私を含め、たった2人でした。

もし、会社に社会保険加入の意志を強く求めていなければ、そして時間かかり、諦めていたらと考えるとゾッとします。

派遣であれ、アルバイト、パートも、要件(下部ホームページ参照)さえ満たせば、加入出来ます。

目先の利益に目がいきがちですが、もし病気になった時の事を考え、加入するように強くお勧めします。

合わせて、失業保険加入の有無、失業手当がもらえるかどうかの確認もして下さい。

被保険者期間すなわち失業保険加入期間が1年未満の方は失業手当を受けられません。

民間の保険も視野に入れる事も大切ですが、精神疾患でも入院でないと保険が下りなかったりする場合(私の場合、県民、国民共済はダメでした)があるので、社会保険が無い人は、よく保険の約款(やっかん)説明をよく読み、無駄のない様にしておくべきでしょう。

派遣会社が派遣している会社でのパワハラでしたので、労災(労働災害)も考えましたが、それを証明する録音記録も無く、派遣先の会社の社員は証言をしてくれない事や、また労災認定まで早くても1か月以上かかる事も、断念の理由でした。

後で解った事ですが、弁護士が間に入る事で慰謝料等が受け取れる可能性もあるという事です。

費用や時間もかかるようですが、相談し、過失を認めさせれば費用も相手方に請求も出来ます。

正当な手段として行使するのも良いと思います。

実際に、私が派遣されていた会社での女性事務員の方が、パワハラで弁護士に相談した結果、パワハラをしていた男性上司は、会社を辞めていきました。慰謝料も払われたとの事です。

やはり証拠が大変重要になって、録音や証言してくれる人の確保など、出来る限り準備する必要がありますから、異変を感じたら証拠となるモノを集める事を始めて下さい。

まず各都道府県の労働局に相談しても良いと思います。労働基準監督署は、パワハラに対して事業所に指導する権限が与えられていない為、相談するだけとなります。ご注意を。

但し不当な労働時間や賃金未払いに関しては、私も経験がありますが非常に有効な手段です。

 

要件を満たせば在職中に受給していた傷病手当金を退職後も継続して受給できる「継続給付」は受けることができるという事も、調べなければ判りませんでした。

 

傷病手当をもらいながら3ヶ月経った頃、派遣会社の社長が自宅に来てくれとの話があり、妻と一緒に行きましたが、その親しげな態度とは裏腹に、自主退職してくれという説得でした。

てっきり、他の出来そうな仕事を与えてくれると思っていた私は、非常にショックでした。

今から考えると、現役の時の窮状を訴えていた事もあり、会社都合による退職にしてもらえばよかったと後悔しています。

自立支援医療受給制度(各市町村役場での手続き)は、医療費にかかる費用を補填してくれる仕組みなのですが、申請には診断書が必要で、私の場合1万円ほど掛かりました。

お金が無い時には痛い出費ですが、その後の医療費がかなり安くなります。

 

また、障害者手帳を所得出来るケースもあり、就職活動の際に利点があり、バスなど交通機関優遇といった特典もあります。

市町村で手続きが可能です。早めに相談して下さい。

自立支援医療受給による救済制度の存在や失業保険も、手続きを怠るともらえなる事など、調べないと解らない事ばかりなのです。

特に、もし退職したら、ハローワークに失業保険の手続きを忘れずにやって下さい。

たとえ自己都合(会社都合では無い)の退職でも、病気であれば医師による証明で2ヶ月待機期間が無くなり、支給開始がすぐできる場合があります。また支給の延長も可能で、必要書類等は職員に相談すれば教えてくれます。

 

前述に記した私の場合は、私自身で全て手続きをやらなければいけないので、精神を病んだ身としては、とても辛い事でした。

息子の高校受験とも重なり、経済的にも追い込まれる事も、自身の病気に悪影響を及ぼしているという自覚がある中で、自分ではどうしようもない、何も生まれない毎日を送る中で、同じような苦しみを抱えながら生きていらっしゃる人達の存在の多さが、逆に励みにもなりました。

 

私が自律神経失調症(発症当時の病名で、今はもう少し細分化されています)と診断されたのは、30代半ばでした。

胃に穴が開き、すなわち穿孔して手術を受け、再びこの病気になったのは、10年後でした。

このブログでも書いていますが、上司や仕事関連の同僚からの言葉による暴力で、暗い穴に落ちていく感覚になり、その時の病名が「身体表現性障害」。

精神科(心療内科)のクリニックでの、初めての問診では、溢れる心の叫びを表に出すうちに、涙が止まらなくなってしまった事をハッキリと覚えています。

そして、4年後またパワハラに遭い、心がポッキリ折れてしまいました。

私の場合、ひどい肩こりから始まり、喉が狭まる違和感、まるで食道の中に下から上へと拳をねじり込んでいる感じでした。

また、後頭部の脳が圧迫されている感覚と常にひどい肩こりに伴う頭の重さ、そして誰かと会う事や、電話やSNSなど、一切が出来なくなりました。

この時に、助けとなったのは現実逃避、お酒です。

何もかも忘れ、考える事もしなくて済む実存しないかのように時間を過ごす事が、そして、明日をあきらめる事が出来るそのお酒の力は、絶大でした。

政府は、「公助の前に自助せよ」すなわち自分の力で何とかしろと言います。

「助けてくれる親族を探せ」そして「申請すれば手助けが出来るかも?しれません」というのです。

私の場合は、幸いにして今残った、たった一人のうつ病で苦しむ妹と、何より妻がいたからこそ、立ち直る兆しが見えてきましたが、誰にも相談や傍にいてくれる人がいない人達の事を思うと、心が痛みます。

私の経験から、周りの人達の無理解がいかに多いかという事と、未だ精神論を振りかざす人達の存在です。

特に弱い立場の人に「そのくらい我慢しろ」「事を大きくしないでくれ」「考え方を変えろ」「そんな事は日常茶飯事だから騒ぎ立てるな」「病気じゃなくて精神が弱いからそうなるんだ」等など、本人は痛いほど分かっている事であり、逆に理解してくれない人達に対しての諦めが先行してしまうのです。

経済面での支援や理解者が無いと悲惨なことになりかねないこの病気。

厚労省によると『適応障害(てきおうしょうがい) Adjustment Disordersとは、日常生活の中で、何かのストレスが原因となって心身のバランスが崩れて社会生活に支障が生じたもの。原因が明確でそれに対して過剰な反応が起こった状態をいう。』とされています。

 

治療をしないと、うつ病にもなる可能性が非常に高くなります。

私も一歩手前までの状態でした。

治療は、精神科医との面談が主ですが、場合によっては薬も処方されます。

私は、抗うつ薬睡眠導入剤を処方されましたが、今でも薬なしには残念ながら、まともな生活が出来ません。

副作用は主に眠気で、とにかく主治医とよく話し合う事が大切なのです。

私に経験では、精神科医との相性がとても大切だという事で、上から目線で話してくるタイプの医者もやはり存在します。

話を最後までしっかり聞いてくれる医師と出会えれば、治りも早いのです。

その為に、病院や主治医を変えて見るのも良いと思います。

私の経験では、話をちゃんと聞かずに「もう解っている」といった顔や態度をとる医者や、先回りして話の腰を折る医者がいて、ただ薬を処方してもらう為の診察という事もありました。

精神面での病気は外から判らないので、医師とのコミュニケーションがとても大切になるのです。

「この先生はあわない」と思うという事は、先生の言葉も信用できるはずがありません。

主治医や病院を変える勇気を持って下さい。

ストレスは負荷がかかった状態ですが、全てのストレスが悪いわけではありません。

生きている以上、必ず何らかのストレスはかかりますし、個人レベルでも大きな差異があります。

ストレスは場合によっては原動力にもなるからです。

環境、都会と地方による差といった事よりも、現代は社会全体に、ストレスを与える要因が増え、いらない情報も頭に入ってしまう事も大きな原因です。

選択肢が増えれば増えるほど、ストレスも増えていくのです。

あまりにも、物事がポチっと指で済ませられる時代だからこそ、過程を経て学ぶ機会を逃してしまい、逆に他人の行動が気になるのかもしれません。

そして何より、心無い人達の存在が大きな理由になるのも確かです。

時代の変化についていけないのは仕方がありませんが、学びの無い堅い頭のままでいる権力を振りかざす人達は、自分達の言動や行動がどんな結果を招くかなんて気にも留めていないのです。

 

そうポチっと誹謗中傷出来る世界の中で、私達は生きているのです。

会社だけでなく、近所付き合いやPTA、ママ友、ネット等そこら中に心無い人達がいます。

誰でも、いつ発症してもおかしくないこの病気は、対応を誤れば大きく人生を変えられる、命までも脅かされる恐ろしい病気という事を社会全体で共有しないと、誰もが生きにくい社会になってしまうのです。

 

先述で書いた公助等は、各市役所や加入している保険協会、厚労省のホームページで確認できます。

もし、あなたの傍で苦しんでいる人がいるならば、中には期限付きのモノもあるので、調べて出来るだけ早く申請してあげて下さい。

当然の権利の行使ですので、面倒でも決してあきらめないようにして下さい。

やるかやらないかで大きな差が出てくるのです。

 

そしてやはり大切なのは、アルコール依存症などでも同じですが、本人が病気だと自覚する事から治療が始まります。

精神面で問題を抱えてしまうと、人間は弱いですからお酒やギャンブル、過食、万引きなどの犯罪に繋がってしまう事が多いのです。

引きこもってしまったり、逆に暴言や理解の無い言葉の投げかけは、より病気を悪化させてしまいます。

私の母もアルコール依存症でしたし、父もうつ病だったので近親者にとっては大変な思いをするのも理解しているつもりです。

兎に角、問題を抱え込まないで第三者助けを求めて下さい

決して恥ずかしい事でもありませんし、対応が早ければ早いほど治りも早く、周りの人間も苦痛から解放されます。

場合によっては暴力的な事に発展する可能性がある、精神の病気の事を軽く見ないで下さい。

私の経験からも、本人の自覚(病気なのだ)と周りの理解がとても大切です

 

誰でもこの時代、かかってしまう可能性がある病気です。

そうならない為に息抜きが出来る時間や、そうなった時の為の知識を身に付けておいて下さい。

 

(注1)LGBTQセクシュアルマイノリティ(性的少数者)を表す言葉で、性的指向性自認を意味する英語の頭文字をとって作られた。Lesbian(レズビアン)は同性を恋愛の対象とする女性、Gay(ゲイ)は同性を恋愛の対象とする男性、Bisexual(バイセクシュアル)は同性も異性も恋愛対象となりうる人、Transgender(トランスジェンダー)は体の性と心の性が異なる人、Questioning(クエスチョニング)またはQueer(クイア)は性的指向性自認が定まっていない人を意味する。

出典 朝日新聞出版

 

協会けんぽ

https://www.kyoukaikenpo.or.jp

 

組合けんぽ

https://www.kenporen.com/

 

厚生労働省ホームページ

https://www.mhlw.go.jp/

 

厚労省のホームページより「障害者福祉」へ

または、「厚労省 社会保険適応拡大」で検索

 

依存症や、引きこもりに関しては地域差がありますが、NPO法人も数多くありますので、市役所やネットで検索して下さい。

依存症対策全国センター/

 

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