心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

約束

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中学生の頃、先輩に憧れて体操部に入りました。

朝早くから、夜遅くまで練習していましたが、鉄棒の種目が苦手でした。

それは、鉄棒種目には欠かせない蹴上がり(けあがり)が出来なかったからです。

それを見かねた顧問の井上先生が中一の夏休み、毎日私の為に時間を作って、マンツーマンで教えてくれました。

そして、始める前に先生と約束をしたのです。

「絶対に出来るから頑張ろうぜ!あきらめるな!」と。

そして夏休みの後半、突然コツをつかみ出来るようになったのです。

夏休み明け、先生は私の所に来て「頑張ったな!」と言い、体操用の半パンツをプレゼントしてくれたのでした。

体操部はスポーツ刈りの髪形にしなくてはダメだったのですが、頭に怪我のハゲがある事を知って、

「お前は、長めのスポーツ刈りでもいい」と言ってくれた優しい井上先生との約束は、絶対に守ると、決めていました。

約束が守れたこともそうですが、何より笑っている先生の顔が私にとっての最高のプレゼントでした。

今思えば、夏休みでも忙しい先生が、約束を守る為に毎日付き合ってくれた事は、私の心に深く残り、名前も優しい顔も、40年以上たった今でもハッキリ残っています。

 

幼い頃、祖母や叔父は、たわいのない私の約束をちゃんと守ってくれました。

大人になるにつれ、私の周りは「約束」が「規則」になっていきました。

それは、互いにするものでは無い、一方向からの強制です。

そこには、何の裏打ちも無いただ、そういうルールという言い訳ばかりでした。

規則は、課した相手に責任を取らせるものです。

課す側にとっては、こんな都合のいいものは無いのです。

時代背景もありますが、今もあまり変わっていない気がします。

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出来ない約束は、しない方がよっぽどいい

約束は、飾り物では無く、誓いであり果たす事

約束を破る事は、自分に対する裏切り。

だから

もし、約束を果たせなかったら、素直に心を込めて謝る。

例え、謝罪して相手が受け入れてくれなくとも、それは、あなたへの教訓であり、学びになる。

言い訳は、あなたの約束を、陳腐で上辺だけなモノにする。

 

美辞麗句で使ったり、上辺だけ取り繕う為な約束も、その時だけのその場しのぎでしかありません。

 

沢山の約束なんて出来やしない

痛みと悲しみを知らない約束なんて

これっぽちも届かない

心無き約束の繰り返しは

グリムの三度目に来るオオカミになり

自らをおとしめるだけ

 

ちゃんと約束をしよう。

自分に対する約束でもある「約束」。

声に出さなくても、貫ける大切な約束を。

そんな沢山は出来ないけれど、自分に対する挑戦にもなる、試す事にもなる。

愛するものを守り抜く事でも、やりたい事を実現する事でも、成りたい自分像でもいい。

どうせなら、約束の先に景色が見えるモノがいい。

果たせたとき、笑顔がこぼれるような約束だと、なおいい

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児童虐待育児放棄など、悲しい事件が後を絶たない現状です。

子供を授かる事は、子供が一人で生きていけるまで、見守り、育てるという大切な約束です。

勿論、両親はもとより社会全体の大人達がする、子供達への大切な約束です。

弱い立場、自己主張が満足に出来ない相手を守る事は、人間として、いや生物として必ず果たさなければいけない自然、本能が求める約束なのです。

それは、子供達だけでなく、社会的弱者や障害を持った方へも同じです。

そして誰もが守らなければいけない、唯一の人類共通の命に対する約束です。

約束の裏には優しさと強さが隠れています。

弱い、虚勢を張る、自分本位の人には口先の約束は出来ても、大切な約束は出来ないのです。

 

本当の意味で、人生の中で大切な約束をする相手は自分自身と、後は数人ほどしかいません。

それは、人生の節々かもしれないし、大きな出来事(病気や事故、思わぬアクシデント)の時かもしれません。

 

人は時々、目標や希望を失い、生きている事の意味を自分に問いかけます。

挫折やあきらめが顔を出し「何の為に生きているのか」と。

人生という道は、日々の積み重ねであり、階段を下りたり登ったりしているようなものですが、

必ず、前には進んでいるのは間違いありません。それも100%の死へと。

 

だからこそ、生きている間にあなただけにしか出来ない「約束」を大切な人や大自然と交わし、生きていく糧(かて)とし、生き抜く力に、励みにしていくのです。

誰にでも出来る口約束では無く、あなただけの約束です。

 

約束は自分にもする言葉

「また、会おう」は、来世へと

「忘れない」は、魂の誓い

「守ってみせる」は、命への祈り

「だいじょうぶ」は、勇気の始まり

「必ずやるから」は、戒めとなり

「言わないで」は、慎みを

「裏切らない」は、希望になる

 

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「約束」は一方通行ではありません。

相手の、自分の心の中に灯す明かりなのです。

フッと消える沢山の明かりの中で、いつまでも輝いて消えない明かりが「約束」です。

どれほど時間が経とうとも、その明かりは消える事はありません。

受け継ぎ、次の世代にその明かりを灯すのも、今生きている私達の役割であり、それが約束なのです。

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この世に生まれ、生きていく意味は

そう「明日もここで遊ぼうね」という約束の様なもの

愛している人がいるなら

気持ちをちゃんと伝えましょう

目に焼き付けておきましょう

あなたの優しさが

愛する心が誰かの心の中で生き続けるように

明日、何が起きても

愛する人の記憶に残るように

それがあなたに出来る

あなただけの大切な約束

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長いようで短い人生に

あなたと、遠い約束を交わしたい

いつか、生まれ変われるなら

また巡り合えるという約束を

しっかり、あなたの手を握り

今度は、もっと回り道をして

たくさん景色を楽しめるように

溢れるほど語り合おうと

心残りを残さぬように

刻みながら歩んで行こうねと

 

そして約束はGIFT、言葉の贈り物なのです。

もらって嬉しい顔が浮かぶような、そんな贈り物です。

相手が受け取るか、気に入るかは分かりません。

そんな事どうでもいいからです。

忠犬ハチ公の話が、走れメロスの物語が受け繋がれていくのも、自身に対する約束を守り通した、生き方そのものに対する姿勢に共感出来るからです。

そして、

小さな子供が約束をする時を見れば、解る事でしょう。

叶えてあげたくような、優しい気持ちになれませんか?

 

このブログでも何回か書いていますが、

明日何が起きるかなんて、誰にも解らないのです。

紛争や戦争、災害や病気。

その時になって初めて気付く事が沢山あります。

後悔する事も、無念に思う事も出てくる事でしょう。

気が付いた時には遅いかもしれないのです。

その為に大切なのは、「想像力」を使い、大切な約束を、引き延ばしにしない事です。

それは、自分自身に対しても同じ事です。

そして、上記の様な困難な状況に陥った人達に対する想いを馳せる事です。

決して他人事として傍観してはいけないのです。

「もし?」は、傍観者からは出てこない言葉だからです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「The value of a man should be seen in what he gives and not in what he is able to receive. 」

『人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。』

 

あなたにとって大切な約束。

それは時を超え、誰かの胸の中でいつまでも残る宝物です。

 

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孤独と独りは違う!⦅人間力⦆(1)

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孤独が、よく取りざたされている。

ニュースでも、厚労省などの調査アンケートを見ても、孤独と感じている人の割合いが、年々高くなっていて、自殺の原因の割合も高い。

人が孤立感や孤独感を感じる時は人それぞれだが、人との繋がりが無い、もしくは希薄になった時に感じる。

孤立感は、干渉されたくない、一人が好きという理由もあって、自らの選択でも可能な位置付けでもあるが、孤立から孤独になる可能性も高い。

希薄な人間関係多くなれば、相談相手もいなくなり、益々孤立してしまい、孤独感を感じるようになる。

自ら孤独を良しとするならば、ある程度孤独を感じる事も少ないであろうが、昔の様な総中流社会構造が崩れ、貧富の差が広がり、今の自分の立場、経済的な要因や社会の中での立ち位置を比べる対象が、身近なものとしての指針では無くなり、安心感を生み出さなくなっているのだ。

すなわち、例えは悪いが、赤信号みんなと渡れば怖くないという状況が、崩れてしまった事が大きな要因でもある。

 

例えば人並という言葉の裏には、その他大勢の同じようなレベルの人達がいる事が前提だが、貧富の差が、それを大きく変えてしまったのだ。

例を挙げると、マラソンをする選手の靴やユニホームに雲泥の差があり、途中の給水も満足に受けられない選手がいる状態なのだ。

他の選手が同じような状況だと不安も減るのだが、明らかに違う状況を見て、走る気力さえ無くなってしまう状態と言ってもいいだろう。

そして、スタートラインにさえ立てない人達も増えているのが現状で、すなわち孤立状態になっているという事だ。

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多くの人達は、人並という言葉に囚われ、それに近づけない事への焦燥感(しょうそうかん)や落胆から孤立を感じてしまう。

一方、共働きなどで収入が多い人達は、TVやネットで、快適な生活という幻想を植え付けられ、追い求め、満足感を得ようと無理を承知で、もしくはリスクを考えずに行動してしまう。

見栄や過信は一度取り込んでしまうと、なかなか手放せなくなるのだ。

結果、チョットしたつまづきで、孤立というより孤独感を背負う事になるのだ。

 

そう、人は現在置かれている社会の中で基準となるモノを定め、照らし合わせ、自分の置かれているポジションを確認しながら生きている。

それは、個人だけでなく、政府も含め社会全体で作り出している基準なのだ。

標準世帯なる言葉の使い方も、終身雇用や、専業主婦、子供が2~3人という具合に照らし合わせて、色々な統計を作る事に用いる事が多いが、実際には、高齢化や共働き、子供なし等、大きく変化しているにも関わらず、いまだに使われている。

ましてLGBTQの人達や在留外国人のことなど、全く考慮もされていない。

 

一億総中流世帯を引きずりながら、実際とは大きくかけ離れた世の中になっているのに、意図してか、経済成長を夢見続けているお陰で、この国はひどくなる一方なのだ。

TV媒体でも、1円でも安く買い物をする為、スーパーを探すような生活をしている人達に向けの番組など、ほとんどない。

健康維持や若返り、財テク、旅行にグルメと、縁遠いそれどころではない人達が、まるでいないかのような扱いだ。

 

例えば教育であるが、子供達は、遅咲きや早咲きといった、その子だけのペースを持っているが、画一的な教育の中では、ほとんど考慮されない。

個性を大切にと教えながら、団体生活の大切さと称してはみ出しを許さない二面性の教育。

理解不能な校則を強い、服装の乱れは不良という呪縛から逃れられない教育方針。

それは、管理する側の都合の良い言い訳にしか過ぎない。

結局、ノルマとして与えられた教育内容をこなすだけになり、落ちこぼれを作り出している。

進学も塾頼りになり、親の経済力でますます開きが生まれるのだ。

好奇心や想像力をはぎ取って、選択の無い一方向しか見せない教育とは何か?

子供達の目から見ると、可能性という言葉は、周りの大人達の都合で変わるという認識になっている。

先進国でいう奨学金も、この国では借金という位置付けで、子供達への投資という考え方からは程遠いのが現状である。

このような状態では、孤立が生まれないわけが無いのだ。

そして、孤独な大人達と孤立が、イジメや不登校を、ヘイトを生み出しているのだ。

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アインシュタインも、こう述べている。

「It is a miracle that curiosity survives formal education.」

『好奇心が型にはまった教育の後に残っていれば、それは奇跡である』と。

 

人間はどうしても、周りと比較してしまう。

特に、精神的に未熟な子供達にとって、経済的な理由や容姿等、自分ではどうしようもない事に、自分の力、可能性を試す機会を奪われる現状では、劣等感や、喪失感が生まれても不思議ではない。

親ガチャと呼ばれるような、バカげた考えが生まれるわけだ。

 

孤立は、人それぞれの捉え方があり、一人が好きな人や干渉されたくない人等、自らの意志によるものもあるが、問題は経済的な孤立である。

生きていく上でお金は必要なモノであることは確かな事実であり、教育の記述で触れたように、本来なら、公助としてやらなければいけない事を、まず自助で何とかしろと国は言う。

そして公助は、ある基準までは引き上げるが、それ以上はみ出すなという御上意識が見え見えなのだ。

可能性、すなわち未来に投資するという発想の欠如である。

 

孤独の話に戻ろう。

経済的な理由で孤立してしまうと、孤独に陥りやすい。

何故なら、昔と比べて情報量もはるかに増え、選択肢も多くなればなるほど、叶えられない事が比例して多くなる。

まして、ネットやマスコミが作り出している、上辺だけの幸せの安売りが氾濫する中、自分がどれほど「普通」とはかけ離れているかと念を押されてしまう。

考えてもらいたいのは、今まで書いてきたことは、物理的な要因ばかりで、いかにモノに左右されているのかが解るはずである。

すなわち、現代社会での孤独感は人間同士の中で一見生まれるように見えているが、実際にはモノという基準で右往左往していて、その基準の振れ幅で、優劣や劣等感を生み出しているに過ぎない。

結果、自分は孤独であると思い込んでしまうのだ。

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後進国と呼ばれている国でも、孤独感を味わう人が多くないのも、モノでは得られないという考え方の持ちようで、生きていく為の直接的な忖度の無い人間関係によるものが大きい。

友人の数や地位、職業や権力で満たされるものでは無いからである。

加えて、自分が必要とされている人間かどうかに基準をおいてしまう事の誤りである。

それは、生まれた意味にもつながる話だが、この世に「生」を受けた事が全てであり、その事以外の事は「おまけ」なのだ。

誰でも「独り」で生まれ死んでいく。

存在自体が全てであり、「おまけ」として楽しむ時間がついてくるのである。

必要とされているかどうかは、他人が決めるものではそもそも無く、必要だったからこそ「生」を受けたのだ。

必要のない人間など、元々いないものであり、孤独に溺れ、孤独に主導権を握られ、誰も信用できなくなり、唯一の自分の存在価値として権力を振り回す事で、孤独を埋める人達、居て欲しくない人間が増えていくだけなのだ。

 

「独り」とは、自分を知り、生き抜く為の力を持っている状態を表す。

「死」を見つめ、対峙する力と言っても良いかもしれない。

本当の「孤独」では無い、思い込みによる「孤独」が多い事に気付かなくては、その呪縛からは逃れられないのである。

人との繋がりは孤独では無い「独り」としての人間の繋がりの中から、強い絆が生まれるのだ。

独りとしてなら、それでよし、二人ならもっと良し。

自分を知り、認めているからこそ相手を大切に出来、お互いを高め合う事が出来るのである。

孤独同士が集まっても何も生み出さないばかりか、傷のなめ合いをするだけなのだ。

孤独という言葉が、一人歩きして孤独では無い事まで孤独として捉えてしまう社会の中で、私達は生きている事に気付く事が必要なのだ。

本当の孤独に陥った、孤独に支配された人は、自分を傷つけるより、他人を攻撃し、服従させようとするのだ。

そこにしか自分という存在を見い出せなくなっていて、自分というモノを持っていない弱い、情けない虚像の様な人達で、やたらと吠えるのだ。

「ここにいるぞ」と。

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勿論、誰もが孤独を感じる時があるし、私も例外では無かったが、それが本当に孤独かどうか、確かめる作業が必要なのだ。

一つずつはぎ取っていく様に、孤独感を生み出している要因は何かを探る作業が大切なのだ。

自分と向き合い、突き詰めていくと、意外に大したことでは無い場合が多い事に気付く。

そして気を付けなければいけないのは、孤独感は「依存」を呼び込む事だ。

要するに、孤独感の埋め合わせを他人やモノ、権力に主導権を与えてしまう事になるからだ。

 

所詮、人間が考える事はその域を出る事は無く、誰もが考える事であり、その中でもがいているに過ぎない。

友達がいなくても、分かってくれる人がいなくても、自分の事を一番分かる、愛してくれている自分がいる事にもっと目を向けるべきであり、自分への探求こそが生きている事の意味になる。

どうして、自分を愛せないで誰かを愛する事が出来る?

イヤなところも、嫌いな性格も愛する自分であり、無条件に認める事なのだ。

誰でも自己嫌悪にさいなまれるし、情けない自分に腹が立つ。

自分を取り巻く世界が狭ければ狭いほど、強く思うものだ。

ただ、その様な感情は、人間関係を営むうえでどうしても避けられない自然な感情であり、自分自身を知る為の過程に過ぎない。

相手に合わせる事を学べという事では無く、自身の問題であり、世界観を広げて物事を見よという事。

自分で作り出している呪縛の愚かしさを探れという事なのだ。

修正し少しずつ前へ進められるのも、己を知る正に自分だけなのだ。

 

モノに溢れ、人々に注目されていても、「孤独」からは逃れられないのであり、孤独を埋めては孤独に陥り、その繰り返しをしている人がどれほどいるか。

耳触りの良い言葉と、ありもしない幸福ばかり夢見ている中では決して得られない「独り」という存在は、本来誰もが持っている力であり、生き抜く為の本能のようなもので、誰かがくれたり、モノで満たすものでは無いのである。

自分にしか出来ない、自分への死ぬまでの探求だからだ

 

小惑星が、もし地球に衝突すれば、人類は終わりである。

巨大地震が起きれば、グルメやインスタ映えなんか、どうでもいい事だ。

電気が切れれば、何も出来ない弱っちい社会で暮らしているのだ。

みんな孤独であり、いつ孤立するか解らない世の中で暮らしているのだ。

それを生み出しているのは、孤独な大人達と、とどめを刺す自然だという事を、忘れてはならない。

その時に「生」の素晴らしさに気付いても遅いのだから。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「Be a loner. That gives you time to wonder, to search for the truth. Have holy curiosity. Make your life worth living.」

『独りを愛しなさい。独りは、真実を追い求める時間を与えてくれる。真摯な探究心を持ちなさい。そして人生を価値あるものにしなさい。』

 

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ONLY YOU⦅出会い⦆

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昭和の頃ではお見合いやおせっかいな人達がいたおかげで、年頃になると恋愛対象や結婚する相手を見つける事は今よりも少しは楽だった。

今は恋愛相手も異性だけでなく様々な形態になり、対象になる人達の人口も減り晩婚化も進んで、おまけに社会も不安定でなかなか出会う機会や恋愛から結婚に至るハードルも高くなって、若い人達にとっては受難な時代だといえよう。

特に経済的な理由でその機会すら与えられない人も多く、一人暮らしや、親との同居が長い人も増えている。

経済格差社会では特に男性にとっては厳しい状況で、働き手の多くが中小企業に勤めており、派遣扱いも多い中、普通に家庭を持つ事も難しいのが現状だ。

ネットや婚活紹介会社などで出会いを求めてする人も多いと聞く。

若者だけでなく、高齢化の日本では中高年も出会いを望んでいる人が多い。

経済的な理由や寂しさから将来の選択肢を決めてしまう。

悲しい事だが、それが現実だろう。

しかしもしかしたら幻を見ているのかもしれない。

何故なら、誰も先の事は解らないからだ。

パートナーにしても家族にしても色々な形があって、本当は社会が強制している訳ではない。

理想像も知らない間に刷り込まれ作られたものかもしれないのだ。

 

自分を振り返ると、夢見のプー太郎(今では死語?)すなわちその日暮らしの様な昭和の時代にはあまり居なかった部類で、結婚など頭の隅にもなかった。

同様に、私と同じように生きてきた友人達は今でも独身が多い。

勿論、彼らが恋愛や結婚をあきらめていた訳では無く、時代が恋愛や結婚対象としては論外としていたからだ。

そして機会を得る事も無く月日が流れてしまったわけだ。

長く一人でいる時間が増えれば他人が入ってくる事がおっくうになってしまう。

私自身もそうだったが、気楽で何も考えずに済むからだが、たまに強烈な孤独感を感じてしまう。

自身を責め、時間を無駄にしてしまった事を後悔する。

ただ頭をかすめるのは経済的な事で、それを理由に結婚できないならその方がマシだとも思っていた。

それは、相手が私自身を品定めされている様な気持ちになったからだ。

当時も3高(高学歴・高身長・高収入)という条件が頭をよぎっていて、どの項目にも当てはまらない私には、夢の様な世界であった。

反面、人間性の力が、すなわち優しさや心の広さがいずれ道を開くという事も信じていて、今の自分に運が無いのは、「それだけの男だった」という何とも情けない理由を付けて、自身を慰めていたものだ。

私が今のフィリピン人の妻と出会い、結婚できたのも偶然の重なりの様なモノで、経済力一つとっても日本の女性から見ると明らかに対象外だったし、年齢や容姿でもプラスになる要因にはならなかった。

もし、友人の誘いでフィリピンパブに行かなかったらずっと独身でいただろう。

もし妻が他のお金持ちの若い男性をフラなかったら?そんな偶然や運が今を作っている。

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今になって思う事は、頭でどんなに考えていても、何もしないと何も起こらないという事と、自身が動けば出会いは必ず誰にでも訪れるという事だ。

そして、何かの理由を付けて諦める事の愚かしさだと思う。

選択は必ず自分でするもので、その為には行動が絶対条件になる。

結果、どの道を選んでもそれは自分の選んだ答えに沿うモノであり、考えが変わったなら行動を起せばよいだけなのだ。

過去に囚われない生き方という事でもある。

人間は弱い。

その弱さこそが生きる為の糧になり、繋がりを生み出していく。

だからこそ、その弱さを知らなければ優しい人間にはなれない。

その為に、自分を知らなければならないのだ。

弱さがマイナスになる考えは捨てるべきだ。

隠す為に嘘をつく必要になる。

相手に対しても、そして自分自身にも。

器が小さいと、入るモノも少なくなるのと同じだ。

自分を知る事は、そして理解する事は世間という物差しで測ることは出来ない。

どんな人間か。

人は普段の行動に見て取れる。

 

正直者が損をするという言葉があるが、正直者はずっと正直者でいて、損はしない。

損をしたと思うなら、それは誰かと比べた時だから。

優しい心の持ち主は、ずっと優しくあればいい。

優しさの主(あるじ)だから。

 

今の世の中は複雑になりすぎて余計な事までしょい込む事ばかりだが、逆にチャンスかもしれない。

上辺だけの繕いが陳腐であるという事に飽きてきている事に気付き始めているし、そう信じたい。

弱さが優しさを生むように、この社会が病んで行けばいくほど優しさが輝いていくからだ。

その為に自分と向き合う時間だけは、どんなに忙しくても作らなくてはいけない。

自分に嘘をつけばつくほど優しさは遠ざかって行き、出会いを失っていくだろう。

心優しい人間には、必ず同じような人達が集まってくる。

目に見えぬものこそが、大切なものなのだ。

時の行方を手探りで

探り流され留まって

寂しく切なくなるこの気持ち

二人がもたらす贈り物

独りになれない

半人前の埋め合わせ

その手を離すまいとするように

視界に留めて寄り添い重なり

いつまでも

願う不安は未来を避けて

夢を作らず今だけ信じる

ありのままの不安定な心地よさ

こぼれ出る言葉は

いつも「あなただけ」

 

ずーっと同じ気持ちで相手と過ごす事はほとんど無理でしょう。

何故なら、私達にはジッとしていない心を抱えながら時が流れているからです。

そして、少しずつ歳を重ねながら、死が訪れるまで経験を積んでいくのです。

時にその経験は、当たり前の事として流してしまいます。

人間には、過去に戻る事も未来の事を知る事も出来ません。

当たり前の中から生まれ出た経験は、本当は奇跡のようなものです。

思い返した時、心が暖かくなるような積み重ねがまだ訪れない未来の方向を決めていきます。

それは、いつ起きるか解らないちょっとした隙間に潜んでいるのです

 

オリジナル曲『ONLY YOU』

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20221028152413

昭和から見る未来

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若い頃というのは、車に例えると燃費が非常に悪い。

しょっちゅうドライブに出かけ、アクセルも吹かしっぱなしで、ギアチェンジ(マニュアル操作だが)も頻繁だから、おのずとガソリンも使うし、空気(酸素)の消費も大きい。

クルマ好きの方だと解るが、ギア付きのスポーツカーを飛ばすのは、たまらない魅力で、海を目指して走るならなおの事、気持ちも高揚したものだ。

燃費の悪い車をガンガン、ガソリンを使いながら走り回る爽快感は、今でもハッキリ覚えている。

しかし、歳を重ねるとだんだん省エネになっていく。

ドライブの楽しみも億劫になるし、エネルギーも余り使わなくなり、ましてかっ飛ばすこと等怖くて出来ないし、安全運転にもなる。

決まった道を、走るだけになり、見知らぬ所にワクワクする事も期待する事も無くなっていく。

人生って面白いものだとつくづく思うが、今の若い人達は、車にはあまり興味が無いらしい。

都会では、その必要性も薄れ、維持費もかかるし、昔のように女の子をデートに誘う手段でもなくなってしまった。

車での例えだが、今の若い人達は、どうやら省エネ運転に見えて仕方がない。

警察にお世話になる事は勿論ご法度であるが、燃費を気にすることなく、もっとドライブを楽しみ、遠くまで走って欲しい。

目的を決めず、地図頼りなら、尚の事いい!

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昭和生まれの私から見れば今の時代、ついていけないほどの進歩で、慣れるのに一苦労する。

我息子は、スマートフォンをいとも簡単に操作し、見ている私が余計なボタンを押さないかヒヤヒヤするスピードで、画面を切り替えていく。

生まれながらに、デジタルが周りを取り囲んでいた世代ギャップをヒシヒシと感じる毎日だ。

ただ、何か何かが足りない気がしてならないのは私だけだろうか?

そう、燃費の悪いマニュアルのスポーツカーを運転する快感とよく似ている。

学校にしても、友人付き合いや勉強も型通り、彼なりにこなしているようだが、枠からはみ出る様な元気さがあまり見えてこない。

彼らなりに、今の自分を楽しんではいるようだが。

勿論、悪い方向に行っては困る。

言われたことをこなす力はあるようだが、自分で疑問を見つけ、答えを探っているより、時に方向を決められて流されているように見える事がある。

我身を振り返った時、スマートフォン等は勿論無く、新聞配達をしながらお金を貯め、大好きな音楽を聴く為の機材購入にひたすら時間を使っていた。

当時、出店しだしたマクドナルドで、ビッグマックを月に一回友人と食べるのが、楽しみでもあった。

部活もこなしながら大変ではあったが、苦しいと思った事は無かった。

少年ジャンプを、友達と折半し買うのも楽しみの一つで、ボロボロになるくらい読んでいた。

ブルースリーの映画に感化されたり、休日は自転車で友人と遠出し語り合ったりと、毎日があっという間に過ぎていったものだ。

お陰で、自転車のパンクも自分で直せるようになっていたし、道も沢山覚えたものだ。

 

相変わらず、息子はスマートフォンの画面を見ながら、離れた友達と会話し楽しんでいる。

何でも先回りの世の中になってしまい、引かれた道からはみ出す勇気や体験が無くなっている様な、若い人達を見るとそんな気がする。

勿論、今の時代だからこその生活スタイルなのかもしれないが、まるで設計図どおり作るプラモデルで、指定以外の色を塗ったり、カスタマイズする遊びの無さを感じ、少し寂しくなってしまう。

地図を見る楽しさや機械を自らコントロールするという、楽しさが奪われてしまっているのか、便利になる事は、反面省略する事と表裏の関係で、過程の楽しさまでが省略され、ドアを開けた途端に目的地に到達しているようなものだ。

若い人達がみんなそうとは限らないが、少なくとも私の周りを見ると、これが現状なのかと思ってしまう。

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だから昭和の時代が良かったから?でもまた戻りたいとも思わないし、時代は変わっていくものだと思う。

ハエや蚊に悩ませれ、蛆(ウジ)が湧くトイレもうんざりだし、ハンコ偏重主義や、先生と名の付く人達に諂(へつら)う関係も経験したくないし、先生や親にこっぴどくたたかれるのも願い下げだ。

道もデコボコで、空気も悪かったし、医者に診てもらうのも一苦労だった。

新しい価値観や個人尊重、男女の格差是正も、昭和の時代には通用しなかったのも事実だ。

そんな時代に生きてきた私が見る令和は、ただただ人々の目が虚ろに見える。

商店で飛び交う声、オシャレして行くめったにないデパート参り、静まり返った正月、電話を借りたり、日用品を分けてもらった隣近所、捨てがたいものがあったのも確かだ。

こそこそ聞かれないよう家の黒電話で、通話時間を気にしながら話をしたのも、今では懐かしい。

沢山の、電話番号も記憶していた。

 

だが今は、節目が無く惰性のように時間が過ぎているように思う。

いつでも、好きなモノをボタン一つで買え、何時間もただ同然で電話が出来、仮想現実のアバターで、町を散歩するのも素晴らしい技術ではあるが、生身の人間が動く良さを無くしては欲しくない。

送料無料のサービスに、遠隔操作の家電があると同時に、数百円の傘が町にゴミとして捨てられ、放置自転車であふれ、周りを取り巻く全ての物のサイクルが短くなり、グルメの裏で大量の廃棄が行われ、消費が美徳とさえ言われる現代は、持続可能な開発目標SDGsを掲げ、いったい何をしたいのか解らない。

江戸時代にも劣る、リサイクルの劣化と引き換えに、失った「大切にする」という心をどう取り戻すのであろうか?

便利さが生むのは、それを支える犠牲が裏に必ずあるもので、ショートカットすればするほど、結局自分の首を絞めている事に、気付かないといけない時代になって欲しいと思う。

貧困家庭が増え、格差が広がり、富める者が未来を決めていく。

気骨なマスコミ人がどんどん先立ち、反骨精神や筋の通った政治家もいなくなり、忖度するような国には、未来が無いのだ。

世界を狭め、仮面をかぶり自分を見失っていく子供達の存在や、追い込んでいく教育、貧困の為未来が描けないなら、食べていけないなら、昭和の時代に戻る方が、もしかしたら幸せかもしれない。

 

確かにその時代時代の生き方があり、それなりに、もがき苦しんで生きてきたのは確かだ。

ただ、そのもがいている世界が、あまりにも小さい世界の様に見えてならない。

それは、子供達から「想像力」を奪っている大人の責任が大きい。

子供や若者が幸せに、元気で夢を持ってもらいたいと皆が願っているとは思うが、それを阻(はば)んでいる大人達の作る社会が、はみ出しを許さない先回りの生き方が、彼らの未来を奪い続けている。

 

考えてもらいたいのは、ゲームも仮想現実やメタバースも、誰かが作った世界という事だ。

目にする色も形も、プログラミングされたものでしかない。

4Kになって8Kからどんどん進化する画面すら、道端の雑草の力強さは映し出せない。

喧嘩して殴られた痛みや殴った後の後悔は、数値化出来ないのだ。

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みんなアバターを使い分けてるんだ。

会社、家、近所、学校、ネット。

もしかしたら、夢の中の世界?

この世界が本物って、どうやって証明できる?

みんな、アバターだらけなのに!

でも、

大きな災害や大きな困難が起きた時。

そして本物と出会った時。

その時アバターは使えないんだ。

だって本物は、厳しくて怖くて、容赦しないんだ。

本気だからね。

だから、本当の自分で本気でぶつからないと、

乗り越えられないんだ。

アバターなんか、何の役にもたたないよ。

夢じゃないからね。

 

送料無料という言葉は、その裏にある汗と苦しみを感じる事は出来ない。

相手がアプリで何処に居るか分かっても、待ちぼうけを食らって目にする景色が、楽しい事もあるのだ。

迷って、地図とにらめっこしたり、誰かに声を掛けて聞く楽しさは、いつまでも忘れないものだ。

なかなか届かない手紙を待つのも、また楽しいものだ。

傘一本忘れても、失くしても必死で探す方が、ありがたみと愛着が生まれる。

 

どんどん、便利になって、「生きにくい」世の中になるかもしれない。

それでも「生」受けた限り、生き続けるのが、支えてくれて来た過去の人達に対する「答え」なのは確かなのだ。

どれほど暮らしやすくなっても、技術が進化しても、人間は、人間の心は進化していない。

ならば、世界を自ら狭めてしまっては、失うモノが多くなるのも当然なのだ。

「心」は、何かに囚われては生きていけないような、檻(おり)は存在しないし、そんな弱っちいものでも無い。いつも自由なのだ。

まだ見ぬ色や感覚が、溢れるほど沢山ある。

何処かの誰かが作った世界には無いモノがそこにはきっとあるのだ。

 

想像してみて下さい。

小さな世界観の中で

井戸の中の蛙のように

もがいて閉じている事を

あなたが、あなた自身で

答えの出ない押し問答をしている事を

あなたを苦しめる

あなたが生み出している感情が潜んでいる事を

大切な時間を

見逃している事を

 

想像してみて下さい

毎日あなたの事など

気にもしない朝日の事を

あなたの都合など考えずに降る雨を

とんでもない災害が起きるかもしれない事を

明日もちゃんと、家に戻れる事を

 

想像してみて下さい

大切に思ってくれている人の存在を。

過ぎ行く時間が

あなたを変えている事を

二度と過去には戻れない事を

劣等感やコンプレックスが

偉大な人達を生み出した事を

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想像力を決して忘れてはいけない。

想像力は、遊びと夢を生み出す源なのだ。

誰かが作った世界の中では、所詮作った頭の域を出ない。

お金儲けの看板が、そこら中に立ててあるのを見れば解る事だ。

鉄腕アトムサンダーバードは、今でも昭和の心の中に飛んでいる。

 

私が死ぬまで、いや死んでからもずっと…飛び続けるだろう!

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「Imagination is more important than knowledge.Knowledge is limited.Imagination encircles the world.」

『想像力は、知識よりも重要だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。』

 

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人は必ず死ぬ

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「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉かな」

良寛(りょうかん)江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人漢詩人、書家の言葉です。

「死」が訪れた時、全てを見せて死ぬ事になる。

すなわち、所詮生き物にとって生死は、大きな流れの中のほんの些細な水滴の様なものであり、逃げようが隠れようが「死」は必ず訪れ、さらけ出しながら終える、ただそれだけだという訳です。

 

昔の仏教における修行、「瞑想」の一つに、死んだ人間がどのようになっていくかを観察するというやり方がありました。

それは、所詮人間というモノはこのようなモノであるという現実を見る事で、余計なモノの考え方や雑念を取り払っていくという修行でした。

 

この世で生きている時、人間の行動を含め様々な事象において「絶対」という言葉はあまり当てはまりません。

自然の中では何が起きるか解らないものですし、人生においても色々な出会いや運命と感じる様な出来事があり、選択肢が意志とは関係なく複数、いや無限大あり、絶対的な断言できる事柄が殆ど無いからです。

明日何が起きるかは誰にも分かりませんが、必ずいつか誰でも100%「死」は訪れるのです。

 

「死」を無くして「生」は無く、「死」があるからこそ「生」生きる事の意味があります。

この確実な100%の出来事に関わらず、普段意識する事はほとんどありません。

毎日のあわただしい生活の中で埋もれてしまい、ゆっくりと向き合う時間も無く、いつの間にか重ねた時の長さでやっと考える度合いが増えていきます。

勿論、思わぬ出来事、災害や事故、病気で意識する事もあるでしょうが、多くの人達は死について考える機会はそれほど多くはありません。

昨今、若い人達の自殺が多く取りざたされていますが「死」というモノに対して、真剣に考える機会が無かった結果からかもしれません。

生物にとって大切なのは、個体の死ではなく種の保存や継続です。

種類によっては数時間の命から、人間のように100年近くまで、はたまた数千年の木々まで。

死に至るまでの時間は子孫を残す為に与えられた時間とみる事が出来ます。

単なる遺伝子の受け渡しだけでなく、生き延びていく為の知識や経験を伝える時間でもあります。

唯一、人間だけが「死」という概念を作り出し、意味を探り、価値を見い出してきました。

 

なぜ人間が「死」に対してこれほど考え、対峙し、その意味を考えてきたのでしょうか?

何よりそれは、誰も経験を語る事が出来ない未知なる領域という事に尽きます。

幼い頃から「死」は恐怖を伴い、恐ろしい所であると教えられてきました。

地獄や悪魔、閻魔大王など「死」と言われてイメージする事は、どうしても負のイメージが浮かびがちです。

根拠のない、仏教とも関係のない仏滅や友引を使い続けているのも、その事の表れでしょう。

色々考えてしまうのは、言い換えれば生物の中で人間だけの特権であるという事です。

死ぬ事とは何かをよく考える事で、殺人や自殺を考え直すキッカケとなるかもしれません。

 

戦争や紛争で、自分の意志の有無に限らず自ら命を絶ってしまった方々や、殺された人達、疫病や飢餓、強権政治下や国政の不安で抗議の意味も含め、犠牲になる事で救おうとする例も今日まで数多くありました。

 

それは何の為に「死」という結果に至ったか角度を変えて見ると、何の為に生きているのかを考えなくてはいけません。

生きている以上、自分と自分以外のモノの存在があります。

人や動物をはじめ、物やお金といった生きる上で関わらなくてはいけないものから自然まで、自分の立ち位置を確認したり、生きる意味を見い出す為に、対象となるモノを時に物差しにしたり基準にしたりしています。

例えば誰かと比べて損か得か?優位か不利か?楽しいのか不快なのか?といった感情もその一つでしょう。

要するに「不安」「不公平」「不平等」といった「負」を、自ら生み出しながら誰もが生きているのです。

それは歳と共に背負うモノが多くなればなるほど増えていくかもしれません。

ただ人は年齢に関係なく、その時に味わっている「負」が心の中を多く占めてしまい、他人から見るとたいした事でも無い事でも、本人にとっては耐えられないような感情になってしまいます。

もし、無人島に漂着して一人ぼっちだとしたら?対象になる比べる要素が、選択幅が無くなり「死」と「生」の二択になる事でしょう。

それは前述の災難や災害の時も同じで、選択肢が無くなってしまうのです。

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今の時代、色々な情報が垂れ流されています。

沢山の選択肢が出てきて、何を選べばよいか迷ってばかりいます。

TVやネットの世界に出てくる有名人やタレントも、見る側の人達が手に届くような身近な存在になってきました。

ひと昔なら、私生活を見せる有名人はほとんどいなかったのです。

身近になればなるほどそうありたいと思うのも自然な事ですが、その様な身近になった人達を見るにつれ、思うようにいかない自分と比較してしまい、不幸と感じてしまう事が多くなってしまったのです。

CMでもネット通販でも気軽にものが買え、欲しいもので溢れている反面、貧困家庭はどんどん増えています。

ごく少数の恵まれた人達の生活が、まるですぐに手が届くように錯覚してしまうほどです。

ますます心の中で満たされない欲求が、諦めと無力感を増幅しギャップが傷のように残り続けているのです。

友達がいない、相談する人がいない、夢が無い、欲しいものが買えないなど、足りないものを探してばかりで、本当に必要かどうか大切なものは何かという事がどんどん後回しになっているのです。

それは、個人個人のレベルではなく、国全体にも言える事です。

 

元々、人間を含め生物には「生」か「死」選択肢は二つだけです。

生き抜く為にどうするのか?死の訪れをどう描くのか?

明日何が起きるか誰にも分からないからこそ、生きる事に必要な湧き出る様な生の力を持つ事にもっと目を向けるべきであり、それは誰かと比べ感じ出てくるモノでは無いのです。

「死」があるからこそ、そして真正面から向き合う事で「生」に対する答えが見つかるのです。

 

この国でも先の戦争で、特攻隊をはじめ無茶な指令の下沢山の命が奪われました。

沖縄戦も含め空襲や原爆投下でも多くの犠牲があり、近年は阪神淡路大震災東日本大震災などの災害などでも沢山の方が命を無くされています。

きっと、きっと生きていたかったに違いありません。

たとえ自死を命ぜられたとしても、それは愛する人達に生きて欲しかったからです。

愛する人の未来を閉ざしたくなかったのです。

突然奪われた命でも、残された愛する人の事を心に抱きながら、無念の死を迎えたのです。

心にいつまでも残るその様な人達の事を、私達は他人ごととしてではなく、決して忘れてはいけません。

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「生きる事の意味?」で書きましたが、

意味を探し続けながら生きている人が多数です。

生きる事の意味付けをしなければ、目標や夢を描けないからでしょう。

そして、その為に何かと比べる作業を日々繰り返しているのです。

いずれ、必ず死は訪れます。

そしてその時がいつかは誰にも分かりません。

人間が生や死を考える事が出来るその訳は、愛する人に生きて欲しいという、時を超えてまでも伝わる「想い」という力を信じているからです。

何かの物差しで生や死を軽々しく考える為では無いのです。

だからこそ身近な人だけでなく、今なお戦争や紛争、弾圧で苦しみ命を奪われた人達も含め、無念の内に亡くなった人達に想いを馳せなければいけません。

それが人間として生まれた使命なのです。

生きる事は「想い」をどれだけ受け止め、残していけるかという事なのかもしれません。

だから人間でいられ、人間として死を迎えるのです。

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苦しみや悩みは特別なものでは無く、誰もが持って生まれてきます。

生きる事が「苦しみ」そのものだからです。

自ら生み出している余計な「負」をもう一度見直し、もっともっと「生」に執着するべきなのです。

知らない所で私達は繋がっています。

たった一つの命が人間全体に関わっている事を子供達に伝え、命の大切さと必ず死が訪れる事。

「想い」という力がどれほど大きな力になるのかを、教えていくのが大人の責任なのです。

平等に訪れる「死」だからこそ、それに至る「生」の力を信じ、無駄にしてはならないのです。

逝ってしまった

逢えないあなたは

助言者となり

道標となり

側にいる

 

生にしがみついてる

僕の独り立ちを見届けて

静かに去って行くのだろう

また逢えるのは

僕が全うした後で

「大好きだった叔父に捧ぐ」

 

「死」は恐ろしいものではありません。

けれども安易にこちら側に誘うものではなく、むしろ覚悟を求めてきます。

「死」は、あなたから全てを奪います。

ただ「想い」だけは奪う事が出来ません。

「魂」と呼ばれているものかもしれません。

命は、単に遺伝子の引き継ぎでは無い、「想い」の受け渡しであり、

人間に与えられた時間の贈り物なのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「Nante man to send a life that is said to be normal, not palm not to be one. I would like see you If we had been.」

『普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらお目にかかりたいものだ』

 

 あなたの支援で助かる命

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20221028152413

冬のオリオン

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異なる位置に身を置く星々は、

我星からの眺めを望み、

時を超え奇跡の形にへと、

観るものにその姿を委ねる。

 

冬の夜空は闇の海。

星の光に救われる。

下僕であるその冷たい風は、

雲を射抜き、

月を沈め、

塵までも追い払い、

夜はそして静かに君を迎える。

 

プレアデスに導かれ、

シリウスを従えてその優美な姿を天球にさらす。

我存在すら、無意味と言わせるほどの美しさで。

 

古より人々が伝えし君の伝説は、

遥かなる創造へとかき立て、

やがて熱く、熱く冷たい光を残し、

夜明けへと傾きながら静かに西方へ旅立つ。

 

再び私は逢う約束をする。

それは、ただの繰り返しではない。

私が見上げない、私が気にも留めなければ、

決して逢う事が出来ないのだから。

 

また逢おう。冬に。

私の大好きな季節。美しい夜空で。

 

 

『冬のオリオン』オリジナル曲

 

沈みゆく星座はやがて 

悲しみを携え眠るだろう

あ~幕を閉じる あ~冬

届かない君への想い

 

駐車場の白線の隅を 

目印に屋根と交わる宇宙を

見上げれば 必ず見つかるポラリス

君が見つけた 素敵な話

 

星々がとても美しく見えるのは 

冬の宇宙だと 君はつぶやいてたね

一つずつ指さしながら 教えてくれた

星座を僕は 思い出せないの

 

ただ一つだけ もう遠い記憶

愛してた 君が好きだった

 

冬のオリオン 神話に眠る 遠い過去の星 

冬のオリオン 心に眠る 遠い君の星

 

重ねてきた想いで 空に舞い

傷んだ胸の数だけ 星になるよ

 

時の流れに 僕は見失いそうで

君の身体を 強く抱いたあの夜

 

震えてた 瞳に輝くオリオン

響く吐息が 全て語ってた

 

永遠に 永遠に繰り返す夜

戻らない 君が好きだった

 

冬のオリオン 信じられない 愛に悲しくて 

冬のオリオン 見つめ続けた 遠い僕の星

 

冬のオリオン 信じられない 君に悲しくて 

冬のオリオン 見つめ続けた 遠い僕の星

 

冬のオリオン 神話に眠る遠い過去の星 

冬のオリオン 心に眠る 遠い君の星

 

 

宇宙や星に興味がない人でも、スターウォーズスタートレック宇宙大作戦)、ETは、見た事があると思います。

フィリピン人の妻に「見えている星は、惑星の金星や木星などを除いて、ほとんど太陽と同じような星ばかりだよ」と教えると、ビックリした顔で、彼女は、惑星(自ら光らない)も星空を彩っていると思っていたそうです。生きてきた40年目での真実を知った彼女の顔は、今でも忘れられません。

 

未だに記憶に残っているのが、小さい頃おばあちゃん家で見た空想特撮「ウルトラマンタロウ」のエピソードで出てきた光の国の映像です。

ワクワクしながら「どんな所だろう」と見ていると、白い犬が出てきてビックリしたのと、余りにも想像と違いガッカリした事をハッキリ覚えています。(笑)

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冬は空気が乾燥し、大気のゆらぎ(水蒸気等)が少なくなる為、一番季節の中で沢山星が見える時期で、1等星が多く見つけやすいのも、冬ならではです。

冬の大三角形(北半球における)は、南東の空を見上げる事で確認ができる恒星で作られた、見つけやすい三角形の事で、「おおいぬ座α星シリウス」「こいぬ座α星プロキオン」「オリオン座α星ベテルギウス」を結ぶ線でかたどられています。

 

オリオン座もシリウスも、見つけやすい明るい星なので、誰でも探す事が出来ます。

また、冬のダイヤモンドと言われる六角形「おおいぬ座α星シリウス」「こいぬ座α星プロキオン」「ふたご座β星ポルックス」「ぎょしゃ座α星カペラ」「おうし座α星アルデバラン」「オリオン座β星リゲル」の星々が紡ぎ出す、素晴らしい形で、大三角形と同じく、オリオン座の星とシリウスが入っているので、簡単に見つけられます。

 

なかなか都会では星が見にくくなっていますが、たまには上を見上げて、星達の共演を楽しむのも、いいかもしれませんね。

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オリオン座42星雲 このファイルはクリエイティブ・コモンズ・アトリビューション-共有 2.5 汎用ライセンスの下でライセンスされています。


詩の中で少し取り上げましたが、オリオン座のそれぞれの星の位置は、同じ場所にあるのではなく、それぞれ遠く離れていますが、たまたま地球から見ると、美しい形に見えているだけなのです。

しかも中ほどの三つ星付近にはオリオン大星雲M42天の川銀河内にある散光星雲)があり、もし機会があれば、画像を検索して見て下さい。

息を飲むような、美しさですよ。

こんな素敵な奇跡を、しかも遠い過去を見る事が出来る星々に想いを馳せて、

見上げて下さいね。

 

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寂しいと思う気持ちが必要⦅若者達へ⦆

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沢山の人に囲まれていても、一人で部屋にいる時でも、寂しくなる時は誰にでもあります。

その理由は様々あるでしょうし、年齢を問わず人生の中で、何度も味わう気持ちです。

私自身の事ですが、幼い頃、迷子になった時泣いたくらいで、寂しいという記憶は残っていません。

大病や事故で、一人っきりで入院した時も、上京し独り暮らしを始めたりと、色々な事がありましたが、一番寂しかったのは30代後半の頃です。

彼女とも別れ、一人暮らしの為、帰っても勿論明かりもついていないわけで、独りぼっちの様な感覚に、不覚にも涙が出てきた事がありました。

元々音楽をやりたいという夢で始まった青春時代を失いたくなくて、就職せずに、その夢ばかりを追っかけていた私。

現実は厳しく、ただただ時間だけが過ぎていく日常に、ワクワク感がどんどん無くなっていく自分を、放置していたのでした。

振り返ってみると、目標も見えなく、将来の自分像も描けなかった時期でした。

「寂しい」という気持ちはネガティブ、消極的な感情ですが、自分を見つめ直したり、人生という、生まれた意味も含め考える時間なのかもしれません。

本来、人生、生き方も含め、自分で切り開き、対応していかなければいけないはずです。

なぜなら自分の人生であり、他人に委ねる事では無いからですが、どうしても一人だけでは心もとない、自信が無いという気持ちが先行してしまい、誰かの存在に自分の選択の一部を預けてしまうものです。

心のよりどころとして機能している様に思うかもしれませんが、実際には甘えであったり、未熟であったりと、他人を通してでないと自分というモノが何者かがよく解ってない状態なのです。

常に他人という鏡を通して、そこに写る自分を見ているからです。

家族や恋人、同僚や友人との関係が、うまくいっている時はいいのですが、いざその関係が悪くなったり切れてしまうと、放り出されたような気持になり、いかに人に頼っていたか、他人から見ての自分だったかが解るのです。

一人で、乗り越えていく事の辛さを味わうと言ってもいいでしょう。

きっと、そんな時に「寂しい」と思うのが多い事でしょう。

寂しさを味わうのは辛い事ではありますが、自分の無力さや考えの甘さを見直す機会となります。

「寂しい」という気持ちが、その軌道修正や修復という作業のキッカケとなればいいのですが、孤独感の中では、なかなか前向きには考えにくいも事実です。

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人との繋がりは、とても大切です。

ただ寂しさを埋める為のツールではありません。

寂しさから逃れる為に、悪い人間とのつながりや、犯罪、薬、お酒、そして傷のなめ合いをすると、折角の大切な時間とチャンスを、逃してしまう事になります。

 

家族関係が悪かったり、友達がいなかったりと様々な理由が原因で、孤独の中に落ち込んでしまう事もありますし、特に思春期から若者の年代は、精神的に不安定で過去の出来事がトラウマになっている人もいます。

だからと言って、選択肢が無いという事でも、選択権が奪われることもありません。

あなたの人生は、あなた無しには語れないのですから。

安易な逃げ道に逃げ込む事は簡単ですが、それは先延ばしにしているだけで、何度も襲い掛かってきます。

その場しのぎの心地よさや、仲間意識は、本来あなたのでは無い、作り出しているもう一人のあなたが味わっているだけなので、何の解決にも、慰みにもならないという事なのです。

寂しさは、誰にでも起きる普通の感情です。

なぜそのような感情が起きるのかは、一人では生きていけない人間という生物だからです。

もし、寂しさに負けてしまうような生物なら、とっくに絶滅しているはずです。

だからこそ、寂しさの中で見つけていかなければいけない事が大切になってきます。

乗り越えられる力を、みんな持って生まれているのですから。

 

私に場合、この時期に多くの時間を使ったのが、映画を観る事と本を読む時間です。

代り映えしない毎日の中で、異次元の世界に連れて行ってくれる本や映画との出会いは、その後の人生に大きく影響したのです。

特に読んだ本は「吉村昭」さんの作品です。

このブログで紹介していますが、ノンフィクションで、様々な歴史の中に埋もれた人達に焦点を当て、彼の綿密な取材と構成力の裏打ちによって、生み出された作品の数々を読むにつれ、歴史上で有名な人物の裏で、人知れず生きていた人々の存在が、自分のちっぽけさを実感させられ、自分の悩みなど大したことでは無いと思うようになっていったのです。

歴史に全く興味が無く、成績も悪かった学生時代を過ごした私にとって、歴史の大切さや、面白さを教えてくれた、まるで授業を、それも面白く楽しく受けた時間でした。

今の私を作ってくれたと言っても過言ではないくらいの本との出会いでした。

どんなジャンルでも本を読む事を強くお勧めします。

最初は、詩やエッセイから始めてもいいかもしれません。

だんだん慣れてくるもので、まず始める事です。

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そして映画との時間ですが、当時はDVDではなくVTRで、買うとなると高くて手が出せない為、主に洋画を中心に、レンタルショップにせっせと通い、VTR再生機を3台も壊すくらい、次から次へと見まくりました。

見ていた作品を挙げるとキリがないので省略しますが、偏見を持たないよう、あらゆるジャンルの映画を観るようにしていました。

映画を観ている時間は、全てを忘れさせてくれる時間であり、泣いたり笑ったりと、感情が大きく揺さぶられる事で、沈みがちの心を活性化してくれていたように思います。

この頃の映画はCGや画像処理技術が出だした時期で、SF作品も驚きの連続だったと記憶していますし、こんなにも色々な人々がいて、様々な考え方や文化が世界にはある事を、今、振り返ると学んでいたように思います。

素晴らしい作品が山のようにありますので、どんどん観て感情を揺さぶって下さい。

 

欠かせないのが、やはり音楽です。

自身でやっていた事もありますが、本や映画からの刺激を受け、自身の作品作りにも良い意味で、大きく影響を受けました。

クラッシックやオペラ系に全く興味が無かったのですが、映画の中で流れるその様な音楽を聴き、ほんの少しですが、興味が出てきました。

特に夜、寝る前に聞くと様々な絵が、頭の中に浮かび上がるようで、人間が奏でる揺らぎの良さは格別の睡眠導入剤でした。

出来るなら、日本の音楽だけでなく、この機会に洋楽も聞いてみて下さい。

その他にも絵画や演劇に挑戦するのも、気持ちが変わって、新たな自分を見つけられるかも知れません。

 

もし、私の人生の中で「寂しい」という時間が無ければ、素晴らしい作品との出会いも無かったかもしれませんし、人との繋がりや人生について、深く考える事も無かったでしょう。

寂しさは、悪い事ばかりでは無いのです。

「孤独」と「独り」の違いを学ぶ、絶好のチャンスだと思います。

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「寂しさ」は、時に周りから見て「大したことじゃない」と思っても、

本人にとっては、最悪「死」を考えてしまう事もある深刻な問題であるのも確かです。

周りが安易に考えて、たとえ良かれと思ってアドバイスをしても、本人にはなかなか届かないし、逆に解ってくれないという感情が増幅されるかもしれません。

だからと言って苦しんでいる「孤独感」から救い出す事をあきらめる事は出来ません。

若年層や20~30代と40~50代、高齢者と「寂しさ」の度合いが違ってきます。

それぞれの年代で対処の仕方、抜け出す方法も変わってくるでしょう。

確かなのは、人との繋がりが機能していない事にあります。

 

まず本人がどのような心持で、「寂しさ」から抜け出せるかです。

寂しい気持ちは大切な気持ちであり、大切な時間を過ごしている事の自覚が必要です。

それは、どんな行動をするか?が鍵になります。

そのままにするのか?はたまた負の方向にいく事の大きなリスクを考え、留まるのか?

どちらにしても自分との対峙であり、戦いでもあります。

今の世の中は、芸術や音楽、映画、色々なレッスンなど、自宅にいても経験する事が出来る時代です。

ロクでもない人と出会い、傷のなめ合いをする事に時間を使わないよう、色々な可能性を探ってみる事です。

ですから人との繋がりばかりが、解決法ではないという事です。

人との繋がりばかりに目を向けすぎると、自分と向き合う時間や「一人」では無い「独り」という人間に必要な自立の機会も失ってしまいかねないのです。

人は、他の生物には無い「想像力」という素晴らしい能力が備わっています。

幼児期に、見えない相手や人形などと会話しているのを見た事があると思いますが、自分とそれ以外のモノを区別できるようになって、初めて出来る事です。

想像力が、人形やオモチャに命を吹き込み、会話しているのです。

それは、どの年代でも出来る事であり、「想像力」が「寂しさ」や「孤独感」からの抜け出すキッカケとなります。

想像力を膨らませるよう、搔き立てられるよう、自分に対して刺激を与える事が「寂しさ」を前向きにとらえられるようになります。

すなわち、寂しいという気持ちをキッカケとして、何か他の物事に注意を向けてみる事が大切なのです。

人とのつながりも勿論大切ですが、年齢が若い時ならなおの事、直接的な繋がりだけでなく、「想像力」による繋がりで立ち直る事が出来るはずです。

 

寂しさは「孤独感」を伴う事が多いのですが、寂しさと孤独を混同してはいけません。

前述のように、何か他の事で切り抜けられれば一番良いのですが、寂しさの中で、趣味や新たな挑戦、経験をする事はなかなか難しい事でもあります。

やはり人との繋がりに期待するのも、仕方が無い事です。

誰かと繋がりたい、繋がっていたいと思う気持ちはとても大切ですし、人間として当然の感情ですが、寂しさを癒す為、紛らわす為だとしたら、「寂しい」という気持ちに向き合う事は出来ていません。

人との繋がりで気を付けなければいけない事は、負の感情を互いに持ち寄る事では、感情や言葉の数が互いにマイナス同士の掛け算となってしまい、より深みにはまってしまいます。

(負の数)×(負の数)=マイナスのスパイラルという事です。

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犯罪や、生活の乱れ、傷のなめ合いを良しとする人達との付き合いは、出来る限り避けなくてはいけません。

先入観無しに話を聞いてくれる、側にいてくれるだけでいい人は、「0」無の心持なので、あなたが出す負の態度や言葉の数々を掛けても(負の数)×0=0になります。

すなわち、あなたを出発点まで引き戻してくれるでしょう。

あなたがそれに気付き、少しでも前へ進むと、すなわち、あなたがマイナス「負」からプラス「正(生)」への思考になれば、相手は語りかけたりアドバイスや相談に応えてくれるようになったりと、正×正=希望の数∞という図式へと変化していくのです。

ですから寂しさから孤独が生まれるわけでは無いのです。

それは思い込みにすぎません。

ほんの少しでも、自ら勇気を出して前を向く事です。手をあげる事です。

寂しさは、他人に対する思いやりや、ありがたみ、謙虚さを生み出してくれる大切な感情なのです。

若く感受性が豊かな時、感受性の元々高い人ほど寂しさの辛さを沢山経験するでしょうし、それがより豊かな心の形成に役に立ちます。

乗り越えた時、前へと進んで行く原動力も、経験値が多ければ多いほど大きくなっていくのです。

 

ただ歳がいけばいくほど、乗り越える力は弱くなってしまいます。

「0」無の人との出会いが極端に少なくなってしまうのと、経験やその他様々な過去のこだわりが、邪魔をしてしまうからです。

立ち直る力も、歳と共に弱くなっていきます。

人との繋がりも希薄になる為、掛け算し合う相手がいなくなり、孤独の穴から抜け出しにくい状態になるのです。

だから若い今のあなたが、「寂しい」と思う感情を大切にして下さい

あなたの中で湧き出る感情は、あなただけのモノです。

若さゆえの「寂しさ」という感情は、その時代にしか味わえないものだからです。

味わうことなく、誰かに委ねる様な短絡的な選択をしないで下さい。

 

寂しさを味わう事になるのは、色々な原因があるでしょうが、犯人探しをしても時間の無駄です。

それは、自分も含め誰かのせいにする事は、簡単ですが、あえて「寂しい」という気持ちを思う存分味わって欲しいのです。

なぜなら寂しさは、優しさに繋がっていく大切な感情ですから

 


冬の鷹 (新潮文庫)

誰でも歴史で習う杉田玄白で有名な「解体新書」を訳しながら、歴史に埋もれた、流行医「前野良沢」孤高の生涯を貫いた人生を描いている、素晴らしいノンフィクション作家「吉村昭」の作品。学ぶ事が多くあり、一気に読めますよ。

 


A Thousand Years

『A Thousand Years』は、クリスティーナ・ペリー(Christina Perri)が唄う、ヴァンパイアと人間の禁断の恋を描いた映画『トワイライト』シリーズのサウンドトラック収録曲で、愛の唄です。

映画は私の妻もハマった作品で、私自信はこの曲に。寂しい時に聞くと、寂しさがより感じられる曲です。

 

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