心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

寂しいと思う気持ちが必要⦅若者達へ⦆

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沢山の人に囲まれていても、一人で部屋にいる時でも、寂しくなる時は誰にでもあります。

その理由は様々あるでしょうし、年齢を問わず人生の中で、何度も味わう気持ちです。

私自身の事ですが、幼い頃、迷子になった時泣いたくらいで、寂しいという記憶は残っていません。

大病や事故で、一人っきりで入院した時も、上京し独り暮らしを始めたりと、色々な事がありましたが、一番寂しかったのは30代後半の頃です。

彼女とも別れ、一人暮らしの為、帰っても勿論明かりもついていないわけで、独りぼっちの様な感覚に、不覚にも涙が出てきた事がありました。

元々音楽をやりたいという夢で始まった青春時代を失いたくなくて、就職せずに、その夢ばかりを追っかけていた私。

現実は厳しく、ただただ時間だけが過ぎていく日常に、ワクワク感がどんどん無くなっていく自分を、放置していたのでした。

振り返ってみると、目標も見えなく、将来の自分像も描けなかった時期でした。

「寂しい」という気持ちはネガティブ、消極的な感情ですが、自分を見つめ直したり、人生という、生まれた意味も含め考える時間なのかもしれません。

本来、人生、生き方も含め、自分で切り開き、対応していかなければいけないはずです。

なぜなら自分の人生であり、他人に委ねる事では無いからですが、どうしても一人だけでは心もとない、自信が無いという気持ちが先行してしまい、誰かの存在に自分の選択の一部を預けてしまうものです。

心のよりどころとして機能している様に思うかもしれませんが、実際には甘えであったり、未熟であったりと、他人を通してでないと自分というモノが何者かがよく解ってない状態なのです。

常に他人という鏡を通して、そこに写る自分を見ているからです。

家族や恋人、同僚や友人との関係が、うまくいっている時はいいのですが、いざその関係が悪くなったり切れてしまうと、放り出されたような気持になり、いかに人に頼っていたか、他人から見ての自分だったかが解るのです。

一人で、乗り越えていく事の辛さを味わうと言ってもいいでしょう。

きっと、そんな時に「寂しい」と思うのが多い事でしょう。

寂しさを味わうのは辛い事ではありますが、自分の無力さや考えの甘さを見直す機会となります。

「寂しい」という気持ちが、その軌道修正や修復という作業のキッカケとなればいいのですが、孤独感の中では、なかなか前向きには考えにくいも事実です。

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人との繋がりは、とても大切です。

ただ寂しさを埋める為のツールではありません。

寂しさから逃れる為に、悪い人間とのつながりや、犯罪、薬、お酒、そして傷のなめ合いをすると、折角の大切な時間とチャンスを、逃してしまう事になります。

 

家族関係が悪かったり、友達がいなかったりと様々な理由が原因で、孤独の中に落ち込んでしまう事もありますし、特に思春期から若者の年代は、精神的に不安定で過去の出来事がトラウマになっている人もいます。

だからと言って、選択肢が無いという事でも、選択権が奪われることもありません。

あなたの人生は、あなた無しには語れないのですから。

安易な逃げ道に逃げ込む事は簡単ですが、それは先延ばしにしているだけで、何度も襲い掛かってきます。

その場しのぎの心地よさや、仲間意識は、本来あなたのでは無い、作り出しているもう一人のあなたが味わっているだけなので、何の解決にも、慰みにもならないという事なのです。

寂しさは、誰にでも起きる普通の感情です。

なぜそのような感情が起きるのかは、一人では生きていけない人間という生物だからです。

もし、寂しさに負けてしまうような生物なら、とっくに絶滅しているはずです。

だからこそ、寂しさの中で見つけていかなければいけない事が大切になってきます。

乗り越えられる力を、みんな持って生まれているのですから。

 

私に場合、この時期に多くの時間を使ったのが、映画を観る事と本を読む時間です。

代り映えしない毎日の中で、異次元の世界に連れて行ってくれる本や映画との出会いは、その後の人生に大きく影響したのです。

特に読んだ本は「吉村昭」さんの作品です。

このブログで紹介していますが、ノンフィクションで、様々な歴史の中に埋もれた人達に焦点を当て、彼の綿密な取材と構成力の裏打ちによって、生み出された作品の数々を読むにつれ、歴史上で有名な人物の裏で、人知れず生きていた人々の存在が、自分のちっぽけさを実感させられ、自分の悩みなど大したことでは無いと思うようになっていったのです。

歴史に全く興味が無く、成績も悪かった学生時代を過ごした私にとって、歴史の大切さや、面白さを教えてくれた、まるで授業を、それも面白く楽しく受けた時間でした。

今の私を作ってくれたと言っても過言ではないくらいの本との出会いでした。

どんなジャンルでも本を読む事を強くお勧めします。

最初は、詩やエッセイから始めてもいいかもしれません。

だんだん慣れてくるもので、まず始める事です。

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そして映画との時間ですが、当時はDVDではなくVTRで、買うとなると高くて手が出せない為、主に洋画を中心に、レンタルショップにせっせと通い、VTR再生機を3台も壊すくらい、次から次へと見まくりました。

見ていた作品を挙げるとキリがないので省略しますが、偏見を持たないよう、あらゆるジャンルの映画を観るようにしていました。

映画を観ている時間は、全てを忘れさせてくれる時間であり、泣いたり笑ったりと、感情が大きく揺さぶられる事で、沈みがちの心を活性化してくれていたように思います。

この頃の映画はCGや画像処理技術が出だした時期で、SF作品も驚きの連続だったと記憶していますし、こんなにも色々な人々がいて、様々な考え方や文化が世界にはある事を、今、振り返ると学んでいたように思います。

素晴らしい作品が山のようにありますので、どんどん観て感情を揺さぶって下さい。

 

欠かせないのが、やはり音楽です。

自身でやっていた事もありますが、本や映画からの刺激を受け、自身の作品作りにも良い意味で、大きく影響を受けました。

クラッシックやオペラ系に全く興味が無かったのですが、映画の中で流れるその様な音楽を聴き、ほんの少しですが、興味が出てきました。

特に夜、寝る前に聞くと様々な絵が、頭の中に浮かび上がるようで、人間が奏でる揺らぎの良さは格別の睡眠導入剤でした。

出来るなら、日本の音楽だけでなく、この機会に洋楽も聞いてみて下さい。

その他にも絵画や演劇に挑戦するのも、気持ちが変わって、新たな自分を見つけられるかも知れません。

 

もし、私の人生の中で「寂しい」という時間が無ければ、素晴らしい作品との出会いも無かったかもしれませんし、人との繋がりや人生について、深く考える事も無かったでしょう。

寂しさは、悪い事ばかりでは無いのです。

「孤独」と「独り」の違いを学ぶ、絶好のチャンスだと思います。

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「寂しさ」は、時に周りから見て「大したことじゃない」と思っても、

本人にとっては、最悪「死」を考えてしまう事もある深刻な問題であるのも確かです。

周りが安易に考えて、たとえ良かれと思ってアドバイスをしても、本人にはなかなか届かないし、逆に解ってくれないという感情が増幅されるかもしれません。

だからと言って苦しんでいる「孤独感」から救い出す事をあきらめる事は出来ません。

若年層や20~30代と40~50代、高齢者と「寂しさ」の度合いが違ってきます。

それぞれの年代で対処の仕方、抜け出す方法も変わってくるでしょう。

確かなのは、人との繋がりが機能していない事にあります。

 

まず本人がどのような心持で、「寂しさ」から抜け出せるかです。

寂しい気持ちは大切な気持ちであり、大切な時間を過ごしている事の自覚が必要です。

それは、どんな行動をするか?が鍵になります。

そのままにするのか?はたまた負の方向にいく事の大きなリスクを考え、留まるのか?

どちらにしても自分との対峙であり、戦いでもあります。

今の世の中は、芸術や音楽、映画、色々なレッスンなど、自宅にいても経験する事が出来る時代です。

ロクでもない人と出会い、傷のなめ合いをする事に時間を使わないよう、色々な可能性を探ってみる事です。

ですから人との繋がりばかりが、解決法ではないという事です。

人との繋がりばかりに目を向けすぎると、自分と向き合う時間や「一人」では無い「独り」という人間に必要な自立の機会も失ってしまいかねないのです。

人は、他の生物には無い「想像力」という素晴らしい能力が備わっています。

幼児期に、見えない相手や人形などと会話しているのを見た事があると思いますが、自分とそれ以外のモノを区別できるようになって、初めて出来る事です。

想像力が、人形やオモチャに命を吹き込み、会話しているのです。

それは、どの年代でも出来る事であり、「想像力」が「寂しさ」や「孤独感」からの抜け出すキッカケとなります。

想像力を膨らませるよう、搔き立てられるよう、自分に対して刺激を与える事が「寂しさ」を前向きにとらえられるようになります。

すなわち、寂しいという気持ちをキッカケとして、何か他の物事に注意を向けてみる事が大切なのです。

人とのつながりも勿論大切ですが、年齢が若い時ならなおの事、直接的な繋がりだけでなく、「想像力」による繋がりで立ち直る事が出来るはずです。

 

寂しさは「孤独感」を伴う事が多いのですが、寂しさと孤独を混同してはいけません。

前述のように、何か他の事で切り抜けられれば一番良いのですが、寂しさの中で、趣味や新たな挑戦、経験をする事はなかなか難しい事でもあります。

やはり人との繋がりに期待するのも、仕方が無い事です。

誰かと繋がりたい、繋がっていたいと思う気持ちはとても大切ですし、人間として当然の感情ですが、寂しさを癒す為、紛らわす為だとしたら、「寂しい」という気持ちに向き合う事は出来ていません。

人との繋がりで気を付けなければいけない事は、負の感情を互いに持ち寄る事では、感情や言葉の数が互いにマイナス同士の掛け算となってしまい、より深みにはまってしまいます。

(負の数)×(負の数)=マイナスのスパイラルという事です。

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犯罪や、生活の乱れ、傷のなめ合いを良しとする人達との付き合いは、出来る限り避けなくてはいけません。

先入観無しに話を聞いてくれる、側にいてくれるだけでいい人は、「0」無の心持なので、あなたが出す負の態度や言葉の数々を掛けても(負の数)×0=0になります。

すなわち、あなたを出発点まで引き戻してくれるでしょう。

あなたがそれに気付き、少しでも前へ進むと、すなわち、あなたがマイナス「負」からプラス「正(生)」への思考になれば、相手は語りかけたりアドバイスや相談に応えてくれるようになったりと、正×正=希望の数∞という図式へと変化していくのです。

ですから寂しさから孤独が生まれるわけでは無いのです。

それは思い込みにすぎません。

ほんの少しでも、自ら勇気を出して前を向く事です。手をあげる事です。

寂しさは、他人に対する思いやりや、ありがたみ、謙虚さを生み出してくれる大切な感情なのです。

若く感受性が豊かな時、感受性の元々高い人ほど寂しさの辛さを沢山経験するでしょうし、それがより豊かな心の形成に役に立ちます。

乗り越えた時、前へと進んで行く原動力も、経験値が多ければ多いほど大きくなっていくのです。

 

ただ歳がいけばいくほど、乗り越える力は弱くなってしまいます。

「0」無の人との出会いが極端に少なくなってしまうのと、経験やその他様々な過去のこだわりが、邪魔をしてしまうからです。

立ち直る力も、歳と共に弱くなっていきます。

人との繋がりも希薄になる為、掛け算し合う相手がいなくなり、孤独の穴から抜け出しにくい状態になるのです。

だから若い今のあなたが、「寂しい」と思う感情を大切にして下さい

あなたの中で湧き出る感情は、あなただけのモノです。

若さゆえの「寂しさ」という感情は、その時代にしか味わえないものだからです。

味わうことなく、誰かに委ねる様な短絡的な選択をしないで下さい。

 

寂しさを味わう事になるのは、色々な原因があるでしょうが、犯人探しをしても時間の無駄です。

それは、自分も含め誰かのせいにする事は、簡単ですが、あえて「寂しい」という気持ちを思う存分味わって欲しいのです。

なぜなら寂しさは、優しさに繋がっていく大切な感情ですから

 


冬の鷹 (新潮文庫)

誰でも歴史で習う杉田玄白で有名な「解体新書」を訳しながら、歴史に埋もれた、流行医「前野良沢」孤高の生涯を貫いた人生を描いている、素晴らしいノンフィクション作家「吉村昭」の作品。学ぶ事が多くあり、一気に読めますよ。

 


A Thousand Years

『A Thousand Years』は、クリスティーナ・ペリー(Christina Perri)が唄う、ヴァンパイアと人間の禁断の恋を描いた映画『トワイライト』シリーズのサウンドトラック収録曲で、愛の唄です。

映画は私の妻もハマった作品で、私自信はこの曲に。寂しい時に聞くと、寂しさがより感じられる曲です。

 

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ウイルスとは?⦅その目的⦆(2)

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人類の歴史は、ウイルスとの闘いでもあります。

天然痘や麻疹(はしか)、インフルエンザ(スペイン風邪)等、人が移動するようになればなるほど、パンデミック(世界的流行)となり、多くの命を奪ってきました。

と同時に忘れていけないのは、ウイルスという存在が認識されるまで、その病気の発生源として多くの人達が疑われ、責任を押し付けられ犠牲になったという事実です。

例えば14世紀の欧州で流行したペストの発生源として、ユダヤ人が虐殺されたり、

最近でも、COVE19コロナでのアジア人に対する差別まで、得体の知れない時から正体が分かる様になっても、愚かな責任探しと差別が今なお、世界で繰り返されている事です。

今では、薬が良くなり死の病気ではなくなった、ヒト免疫不全ウイルス (HIV)による後天性免疫不全症候群 (AIDS)エイズも、流行時特にRGBTQの方々の病気とされ、

様々な偏見や差別があった事もまだ記憶に新しい事です。

宗教の関りも歴史を見ればわかると思いますが、伝道や侵略による蔓延と、それにまつわる虐殺もありました。

ウイルスの歴史背景は、調べれば出てきますので、この記事では深く書きませんが、ウイルスと人類とは、色々な意味で多くの関りがあります。

 

ウイルスとは?⦅その目的⦆(1)の記事と少し重複しますが、

ウイルス自体は、増殖する力を持ってはいない為、生物に入り込み、数を増やさなければ死んでしまいます。

人以外にも感染するウイルスも多く、ウイルスと共存しながら生きている動植物も数多くいます。

また人間の進化にヒト内在性レトロウイルスが関係している事も分かってきました。

加えて個体(宿主)の死に至る口蹄疫、牛疫、鳥と豚のインフルエンザ、その他の植物関連ウイルスなど、人と関わり合いがある動物に感染する事によって結果、経済的にも、食糧という観点からも、人間にとっては打撃になってきました。

人が管理し、飼育、育成する多くの動植物の感染は、同じような遺伝子の受け渡しをさせないような働きをしている様に見えます。

自然界では生存の為、多様性が欠かせません。

何故なら、様々な環境の変化に対応して、生き延びていかなくてはいけないからです。

同種であっても、生き残るための変化により淘汰され、遺伝子を残し、受け継いでいるからです。

人の手が入る事により、生産性の向上や、自然界では起きないような、例えば肉の付き方、病気に対する対策が行われている為、結果、似通った遺伝子ばかりが受け継がれてしまいます。

また家畜の管理生育環境は、動物虐待ともいえる飼われ方が、近年先進国では問題視されています。

抗生物質の投与により、病気の発生を抑え込んだり、輸入肉では早く成長させる為の成長促進を目的に使用される、肥育ホルモン剤(動物用医薬品)の投与(日本では承認されていません)も行われています。

またブロイラーと言われる食肉用のニワトリの品種は、生産性向上やコスト削減の為、孵化後50日まで(通常は120日以上)に出荷できるよう、個体の飼育面積が狭い所で飼い(身動きが殆ど出来ない)、明るい間にエサを食べるという習性を利用し、窓の無い鶏舎で人工的にいつも明るくし、餌を食べさせられているのです。

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「このファイルはクリエイティブ・コモンズ・アトリビューション・シェア・アライク 4.0 インターナショナル・ライセンスの下でライセンスされています。」

人間の為に様々な薬の投与や強制的環境下で育てられた動植物のお陰で、今の食が支えられているのです。

品種改良や前述の様な人為的な生産方法では、遺伝子の持つ本来の生き延びる為の力が、すなわち多様性が失われているのです。

その事を責める意味で書いているのではありません。

ただ事実として、その様な中での「食」の在り方、SDGsなんて言葉も出てきている現代、飽食や廃棄問題を、真剣に考える時期なのは確かでしょう。

 

自然は大きな流れを持って、この星を維持しています。

それは環境だけではなく、人間を含む動植物も例外ではありません。

自然は、急激な変化を求めてはいません。

地震や噴火、台風などの災害も、長い年月を経ての結果で、近年言われるような、「稀に見る」や「過去にない」などの表現も、長い年月の経過があっての結果での表現にしか過ぎません。

何故なら、自然は謙虚だからです。

ウイルスも、その自然の流れの一部に組み込まれています。

だからこそ、恐ろしく激しく、ゆえに得体が知れないモノなのです。

私達が考えられる予測など、ほんの一部を垣間見ての事です。

 

なぜ宿主である人間を巻き込み、自滅するのか?

なぜ変異し、私達を生かそうとするのか?

ウイルスがいつ、どこで、何が起因で発生するのか?

それは、人為的であれ、他の生物に対する接触や排除、コントロールであれ、自然の一部である人間が、大きな流れの中で、必然であり当然として起きている事に気が付くべきなのです。

今回COVE19コロナウイルスで、世界中が混乱し、経済や生活が変化してきました。

いわば地球という家の中に作られた檻に閉じ込められた状態かもしれません。

そして、人間の社会という集団の中で起きうるマイナスな一面をあぶりだしているのです。

人間同士の繋がりを、どう結び続けるのか?どう繋ぎ直すのか?といった課題の克服なしには、ウイルスの思うつぼとなるでしょう。

それは、差別や憎しみ、排除といった憎しみウイルスの撲滅と言ってもいいでしょう。

だからこそ、

この星の住人として、生き残る為には、何事に対しても謙虚さと、過去からのメッセージを読み解く力、未来の為の検証や反省無くしては、生き残る事は出来ないでしょう。

反省し謙虚になれと、その時間を与えられているのです。

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生態系の破壊や品種改良、化学物質の乱用等、他の動植物に負荷をかけているのは事実です。

ただ、それは生態系の中での矛盾を、サイクルからの逸脱を意味している事かも知れません。

自然である人間が、飽食や快適性を求めての方向だとしたら、この先起こりうる、人類にとっての災難もまた、自然の摂理だと言えます。

ただ、今の状態を良しとしない人達が多くいる事も、自然の摂理です。

ウイルスに限らず、色々な病気と闘い、生き抜いてきた私達人間は、自然という流れの中で、克服してきました。

それを、歴史の流れの一部として、そのままに見過ごしてしまっている事に、もっと注意を向けるべきなのです。

様々なウイルスの出現を、警告として捉えるのか、もしくは仕方が無い事として終わるのを待つか、

特に先進国と呼ばれている国々の生活が、このまま快適で豊かであり続ける保証は一切ありません。

 

差別や偏見を生み出す愚かな行為を歴史から学び、犠牲になった全ての人達に想いを馳せなければ、また檻の中に閉じ込められるのです。

 

「ウイルスとは?⦅その目的⦆(1)」でLGBTQ⦅レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)クエスチョニング(Questioning)とクィアQueer)⦆と呼ばれる人達の事を書きましたが、彼ら彼女らの、いや人としての存在は、自然が生み出している、必然であり、この方々に何の落ち度も責任もありません。

それは、新たなウイルスの出現が物語っている様に、自然の大きな流れの中での必然だからです。

偏見や差別を容認する事を良しとしたり、存在を認めなかったりする事は、

本質を見ていない愚か者がする事です。

なぜ、ウイルスが発生し、その目的は何か?という問いに、もっと掘り下げて見ていくべきなのです。

そこから見えてくる人間の、この地球上での立ち位置を見直すキッカケとなり、全ての事象が繋がっている事に、改めて目を向けてもらいたいのです。

 

COVE19コロナウイルス下での生活は、大きく変わりました。

過去の事例でも、外出や、人との接触、隔離など、新たな病気の出現で、普段の生活も一変しています。

ストレスが、残念ながら家庭内暴力や家庭内不和、言い知れぬ抑圧感や先の見えない恐怖を生み、悲惨な結末になるケースも増えています。

ただこれは、ウイルスの出現だけが原因で起きる事ではありません。

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難民生活や、管理社会、独裁国家といった、いわば人間の作り出す自由をはく奪する、権力ウイルスが、この世界にまき散らされている事でも起きる、いや起きている悲惨な事実でもあります。

分離、分断、差別、人権の軽視、その症状と後遺症は、人類にとっては致命的なモノになるかもしれません。

注視し、増殖を止める手段を考えていかなくてはならないのです。

日本のように、感染リスクが減ると、自由に行動できるような人達ばかりでは無いのです。

今現在、権力ウイルスに対抗できるワクチンは、ほとんどありません。

人から人に感染しながら増殖し、希望や夢までも奪い取ってしまう、たちの悪いウイルスなのです。

予防するどころか、同じような権力ウイルスで対抗しようとする動きさえ見え始めています。

だからこそ、自然が放つウイルスから学ぶべき事、伝えなければいけない事が大切になってくるのです。

人間は、過程よりも結果ばかりを追い求めてきました。

自然には、謙虚さがあり、長い過程を経て結果を導きます。

この星は、答えを出せとは言いません。

この星は、多様性を求めています。

何故なら、一つの答えなど無いからです。

答えが無いのは、可能性を信じているからです。

可能性はいくつもの道があり、そして想像力なくしては生まれません。

そして、想像力は多様性の裏打ちが無ければ、力を生み出せません

もうこの時点、この世紀において人間は、この地球上のすべての生き物に責任があるのです。

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枠にはめ、管理し、はみだしを許さない世の中になればなるほど、環境の変化についていけない遺伝子が増え、やがて絶えてしまうのです。

歴史を見れば明らかな事です。

COVE19コロナウイルスで、無策無能な人達のせいで、またその事に関連し亡くなった人達に対するせめてもの償いとして、これからの私達の行動を考えなくてはいけません。

それなくしては、人間自ら権力パワーウイルスとなり、まき散らすかも知れません。

それは、そんな遠くない未来かもしれないのです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタインの言葉

「Peace and is not to be obtained by force.Is that obtained only by understanding.」

『平穏とは、力で得られるのではない。理解によってのみ得られるのである。』

 

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ウイルスとは?⦅その目的⦆(1)

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「始めに」

COVE19、コロナでお亡くなりになった方々、また、様々な災害や紛争で亡くなられた方々、

苦しい思いをされた方、ご家族、友人の方、心からお悔やみを申し上げます。

以下の記事は、十年以上前に書いた記事を元に、再構成し記載しています。

不快な思いをされる方がいらっしゃる可能性も否定できません。

何卒ご理解の上ご覧ください。

 

生物の目的は種、遺伝子の保存だと、⦅人は、人以外の生物は、なぜ存在しているのか?(牛や豚を殺していいの?)⦆の中で書きましたが、例えば人に感染し悪さをするウイルス達の事を考えてみましょう。

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彼らは人に感染しても、その人間が死んでしまえば生きていく事が出来なくなるはずです。

共存関係ならば、その人の寿命が来るまで長く生存する事は可能なので意味は判りますが、感染し死に至らしめる彼らの目的とは一体何なのでしょうか?

ウイルスが生物の中にいても、害を与えず共存している場合があります。

その生物(宿主)の中では悪さはしませんが、他の生物にとっては恐ろしい病気の原因となるのです。自らの命を縮めてまでも、進入したその生物の命を奪う行為は、明らかに自爆行為そのものです。

ウイルスにとって排除しなければいけない敵だとすれば、その行為にも納得がいきます。

上記で宿主の事を書きましたが、ウイルスが生き残る為には、宿主が生き延びていかなくてはなりません。

ウイルスは母とも言うべき宿主であるその生物を守る為に、攻撃しているのではないでしょうか?

例えば、人はジャングルの奥地まで侵入し、そこに住む色々な生物の命を脅かすようになりました。

彼らにとって人間は敵なのです。

同時に彼らを宿主としている、すなわち共存関係でいるウイルスにとっても敵そのものなのです。

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ですから、宿主を守る為に人間の中に進入し、時には自ら形を変えてまで執拗にとどめを刺そうとするのです。

また鳥インフルエンザ狂牛病のような場合はどうでしょうか。

鳥インフルエンザの感染は、野鳥が家畜であるニワトリ等にウイルスを媒介したとされていますが、家畜も人を利用して生き延びています。

ただ遺伝子の受け渡し、すなわち交配が家畜という立場上、どうしても狭い範囲になってしまいます。まして同じ環境や同じエサ、薬による管理と、家畜にとっては受け渡す遺伝子が弱くなる宿命を持っています。

多様性が生き残りの鍵である以上、その事は命取りになりかねません。

そこでウイルスの登場です。家畜特有のよく似た遺伝子ばかりの受け渡しを阻止し、結果的にウイルスにも負けない強い遺伝子を持った個体の選別をしている事になるのです。

まさに生き延びる為にです。感染した家畜を処分する人間も、その事に一役買っているのです。

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自然の計画は、人間が考えられる予想をはるかに超えています。

というよりも、予測も法則も人間の力では何の役にも立ちません。

虫一匹でさえ、おどるべき構造をし、この惑星に適応するように創造されています。

私達の住む地球は、生物にとっては「家」という存在で、住み続ける事を前提として生きています。

まず考えなければならないのは、以前も書いた事、すなわちこの家、地球に誰かが住んでいる事が前提なのです。

それが人間である必要性は無いのです。

この星が生み出した生物は、数々の絶滅の危機を乗り越え、進化し現在に至っています。

その事は、今現在も進行形であるという事です。

人間自体も、環境や生活によって進化してきましたし、今もその最中なのです。

紛争や戦争が起き、男が減ると男の子が多く生まれ、男女の非を元に戻そうとする力が働きます。

また、貧困や飢餓、人為的な人口削減、医療の恩恵を受けられなくなれば、子供を沢山生むようになります。

人類誕生から今日まで、世界のどこかで紛争や戦争が起き、何万人、いや何百人という人が、直接、もしくは間接的に亡くなっています。

これもまた、自ら人の数を減らしている事かも知れません。

(決して戦争を賛美したり、良しとする意味合いではありません)

すなわち生物として生き残るための自然の戦略なのです。

反対に、人間という種が増えすぎると、生物全体の多様性や環境にとってはマイナスとなる為に、減らそうという力が働くはずなのです。

個体数が多くなると、食糧やエネルギー消費が増え、支えきれなくなる事も考えられるからです。

その一つが少子化です。医療が発達すれば生まれてからの生存の可能性が高まり、沢山子供を生み、生き残りという手段を取らなくても、種の保存、受け渡しが出来るようになるからです。

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また、マイノリティーの一部でもある要素のLGBTQ⦅レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)クエスチョニング(Questioning)とクィアQueer)⦆と呼ばれる人達の存在です。

医学の進歩で、代理出産や人工授精が可能となり、男女間だけでの子供の授かりや子育てという概念が、大きく変わってきました。

勿論、子供を持たない人達、カップルも増え、結果出生率も減る事になります。

いわゆる草食系男子と言われる若者も増えていて、性欲があまりないとか、女性と付き合う事を強く望んでいない人達の存在です。

近年その数は増えており、病院での診察に訪れる若者もいるのです。

それは単に心(自意識)の問題という事では無く、生物としてホルモン分泌や脳が関係している事も解ってきています。

それ以外にも精子の量が少なくなっているという事も、男女という概念ではなく、抽象化している事も出生率を下げている要因でしょう。

上記の事は人間自ら、すなわち人為的に出来る様な事ではありません。

ごく一部の人達に起きている事柄では無いからです。

自然の中に潜む計画と言ってもいいかもしれません。

 

地球が人間を支える資源の許容範囲を、もしかしたら越してしまっているかもしれないのです。

その様な中で、ウイルスの出現の事を考えてみると、冒頭の様な、他の生物を守り、進化の手助けの為以外に、自ら自滅を覚悟で人体に感染し、数を減らすという戦略も考えられるシナリオです。

人間は頭を武器として、生き延びてきました。

それは、快適さや便利さを求める為の発明や発見ばかりではなく、殺し合う戦争の為に作り出された発明や技術もあります。

インターネット、コンピューター、ディスクブレーキ、ターボ、原子力などキリがないそれらのテクノロジーも、戦争で生まれたモノです。

深海から宇宙まで頭脳を使い、その活動範囲を広げてきてきた人間は、自らの手で滅亡の道を選ぶ事さえ出来るようになってしまったのです。

人間も自然の一部分です。人間の選択は、言い換えれば自然が成せる計画に則(のっと)っているのでしょう。

この地球の温暖化も、組み込まれた、自然の巧みな戦略かも知れません。

人間を使い、その様な環境を作り出しているとも言えなくないのです。

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(ポリゴンと呼ぶ凍土が解けた様々な形の水溜まりウィキメディア・コモンズから

パブリック・ドメインFile:Permafrost - polygon.jpgより)

 

永久凍土が溶け、出てきたトナカイから炭そ菌が見つかり、死者も出ました。

永久凍土や氷河が溶け、封印されていた未知のウイルスが、出てくる可能性や、動植物の生息域の侵入による、新しいウイルスの出現も決してこれからも無いとは言えません。

また、ウイルスや菌に対する対策として、除菌抗菌が行われ、関連商品も多く出回り売れていますが、ある程度の菌などが体内に入る事で、身体の免疫が高まる事も解っており、一説によると爪を噛む事で菌が体内に入り、免疫機能を高めているという事も言われています。

日本などは、爪切りを使用しますが、世界では、噛んで伸びた爪を切り取る国が多いのです。

手にも様々な菌が常時いて、悪さをする菌の増殖を妨げる働きをしてくれている菌も、除菌や抗菌によって、死んでしまい、良かれと思いやっている事が、裏目になっている事も事実です。

余りにも過度な清潔にこだわる事で、本来持っている免疫機能を弱らせてしまう結果になる事を、頭に入れておかなくてはいけません。

子供達が泥遊びをするのも、まんざら悪くないという事です。

 

克服して世界から消えたウイルスや菌も、研究室ではまだ存在しています。

廃棄処分が決まった、天然痘などのウイルスも隠し持っている国があるとの疑念も残っており、現代の技術を用いれば、作り出せるレベルまでなっているモノもあるのです。

人間は必ずエラーをし、欲望を持っている事を考えると、何が起きても不思議ではありません。

第二次世界大戦から近代の戦争までを考察すると、日本も例外ではなく、生物兵器に使用される可能性も大きいのです。

人間の欲望ほど恐ろしいものは無いからです。

仮に故意では無くても、災害やテロなど予測できない事による、流出もあり得るのです。

過去の関東大震災の際、病院や研究室に保管されていたケースやビンが割れて、火災につながった事例もある事を考えると、日本だけの対策だけでは、防ぎようが無い事ばかりなのです。

資金が無い国にとっては、都合の良い兵器にもなりうる事も考えなくてはいけません。

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ボタン一つで人類おろか生物のほとんどが死んでしまう世界に、私達は生きています。

もし、自然がバランスを保ち、地球という家の住民を救う道を選んでいるとしたら、人間を減らす方向へ舵を切るでしょう。

イヤ、もしかしたら、もう始まっているかもしれません。

ウイルスの出現は、そのメッセージかもしれないのです。

それでも英知を結集して生きていく方法を考えるべきなのです。

「生きたい」という想いがある人々の存在もまた、自然が生み出している事だからです。

人間という存在が、宇宙から見ると、いやもっと近い地球という視点から見ても、なんと無力な存在であるか、なんと愚かな事をしている生物であるかを、私達の未来である子供達に、教え伝える義務があります。

ウイルスにせよ、温暖化や原発など、様々な問題の考証をし、記録として後世に伝えなければ、終わりなのです。

無かった事にしたり、誰も責任を取らない国に未来はありません。

 

この地球の住人として、この先人間が含まれるかどうかは誰にも解りませんが、家には住人が居なくてはなりません。

そして誰もいなくなった」という事にならないように考えなければいけない事だけは確かです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタインの言葉

「Only two things are infinite, the universe and human stupidity and I’m not sure about the former.」

『無限なものは二つある。宇宙と人間の愚かさ。前者については今は断言出来ないが。』

ウイルスとは?⦅その目的⦆(2)に続く

 

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愛とは?(2)

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悲しみは喜びを導ける。

そして喜びは悲しむ心を知っている。

愛は力を与えるけれど、

力は愛の前では無力だ。

そして愛の反義語は無視なのだ。

誰もが生まれた時から、

その答えを知っているはずなのに。

 

赤ちゃんや幼児を見て下さい。

彼らは自分の身の回りに起きている色々な出来事を必死になって取り込もうとしています。

大人から見ればつまらないことでも一生懸命です。

すなわち対象になるモノを観察し、自分の中で反芻し、味わい逃さないようにしているのです。

彼らは愛という感情の意味はまだ理解してはいませんが、愛でいっぱいなのです。

自分のことが好きかどうか、愛する事の意味、与えた事による代償、そんな事は彼らにとっては何の障害にもなっていないのです。

赤ちゃんに対して、

「私の事を信じて!」とか

「裏切らないで!」とは誰も思いません。

すなわち、赤ちゃんや幼児から見ると、受動的に見えて、実は能動的な愛という形なのです。

 

しかし大人の場合そうはいきません。

残念?な事に大人はその時代のことをほとんど記憶していませんし、もちろん赤ちゃんや幼児の頃のモノの見方もできません。

大人になるにつれ様々な経験や知識を得ます。

それは生きていく上で非常に重要なことである一面、それが考え方や行動を狭めてしまう原因にもなります。

解ったつもり、あきらめ、回避、知ろうとする事や関心を持つ事への意欲の低下。

モノの見方が一方的になりがちになり、自ら枠に当てはめてしまう事によって、安易で自分には都合のいい、言い換えれば独りよがりになって結果、本質を見失うのです。

ですから愛の意味である「対象その物の存在を認めること」はまず、素直な視線を向ける事が出来るか?という事です。

経験や知識の無い、もしくは少ない赤ちゃんや幼児が、素直な視線でモノを見ることが出来る事を、思い出して欲しいのです。

 

仏教でいう「自我を捨てる」とはこの事を指すのではないでしょうか。

 

しかし現実として、たとえその事を理解していたとしても、神様じゃない限り、

もしくは悟らない?限り難しく、自分には無理だと思うかもしれません。

本当の自分すら解らない、自分自身をも愛することが出来ない状態で、例えば誰かを好きになり愛していくことが、はたして出来るのでしょうか?

愛するという意味をもう一度考えてみましょう。

愛とは「対象その物の存在を認めること」愛するとは「受け容れること」です。

認めるという事は、なにも好き放題にさせるという意味ではありません。

「愛」の反義語は「無関心」という事ですから、関心を持ち、注意を向け続ける事です。

そして受け容れるというのは、無条件で、心に留め、自分自身と向き合うという意味です。

だから、辛くて切なく苦しいのです。

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木はあなたを愛し、そしてあなたに愛される。

木はすでに全てを知っている。

あなたは全てを持っている。

木はそれを知っている。

あなたはそれに気が付かない。

あなたが木に気付いた時、

あなたは木を愛している事に気付く。

木があなたを愛している事に気付く。

言葉がなくとも、交える。

 

特に、パートナーと一緒に暮らす時間が長くなると、

「こんな事も解らないのかなぁ?」とか

「いい加減、こっちの事も理解してよ!」など、相手に対し、不満が出てきます。

誰も、家にいる時ぐらい、ゆっくりしたいし、時間に追われたくないものです。

頭で、解っている事でも、つい愚痴を言いたくなります。

そして「この人にとって、私の存在は何?」と疑問を持ち始めます。

 

「人の振り見て我が振り直せ」この言葉どおり、自分の事より、他人の欠点はよく見えますが、自分の悪い所は、なかなか見えにくいものです。

時間は、そんな事など気にもせず過ぎていきます。

まず、過去と今を比較する事を、止めなければいけません。

恋愛している時と、現在進行形の今を比較しても、何も得るものが無いからです。

言わなくても解るという考え方も、やめましょう。

言葉を使う事は、人間の進化で得た大切な能力なのですから。

そして、未来に宿題を持ち込むような事をしてはいけません

自分の事すら、毎日コロコロ変わってよく理解出来ていないのに、相手を理解する事自体、そもそも不可能だからです。

居て当たり前では無く、居てくれて有難うと思う方が、きっと居心地がよくなるでしょう。

社会が変わっていき、色々な心配が増えて、持ち込まないでも良い事まで、持ち込んでしまう世の中。

価値観も変わって、パートナーや親子関係の在り方も、一律ではなくなっています。

愛するという事に正しい答えや道筋はありません。

誰かのマネをしても、何かの本を読んでも、結局自身で見つけるしか方法は無いのです。

 

愛する人には、特にいつも一緒にいる人に対しては、自分が発する言葉に気を付けなくてはいけません。

不満に思う事や、やって欲しい事があれば、あなたにとって大切な人に話すのですから、余計言葉を選んで話しましょう。

言葉は、とても、とても大切だからです。

「そんなことぐらい、解ってるだろう!」は、自分の問題を相手の問題にすり替えているだけで、何のメリットもありません。

逆に自分を苦しめる事になり、問題の先延ばしにすぎず、いつまでもつきまといます。

「一々、気を使ってられない」と思うでしょう。

でも、気を付けていると、やがて自然な振る舞いになっていくのです。

何より、あなたにとって大切な人に気を遣うのは当然の事なのです。

あなたの優しい言葉一つで、その日が幸せで終われるとしたら、こんな素敵な事はありません。

優しい言葉を発すると、心が後からついてきますし、逆もまたしかりです。

 

言葉が要らなくなるまで語り合い

言葉が響くようになると

言葉の行間に秘められている無音が、あなたに聞こえてくる

そして、行間が言葉よりも多く語りだし、言葉は要らなくなる

愛の中にいる人達を見れば、理解出来ること

言葉に意識を載せて語る事

注意深く、丁寧に

やがて意識は、自分の元に還る

言葉が無くなり、解放される

そう、独りになり、孤独では無くなる

 

人間は、経験の積み重ねで生きています。

そして、常に刺激を求めます。

なぜなら飽きやすい動物だからです。

外からの刺激ばかりに目がいきがちですし、その様な社会になっています。

だからこそ、外で起きた「嫌な事」は、家庭には絶対に持ち込まない事です。

人間ですから、やはり愚痴をこぼしてしまうものです。

仕事や人間関係からのストレスから、逃れたい気持ちが働くからです。

そんな時は、愚痴を言っている相手に正論や常識をいくら唱えても、聞く耳を持ってはいない状態です。むしろ反発してくるでしょう。

聞いて欲しいのです。

ただ聞いて、うなずいて欲しいだけなのです。

そんな時は、優しく抱きしめてあげればいいのですが、その為には普段から、その様な関係作りが大切になってくるのです。

今からでも遅くは無い事で、先送りにしないようにして欲しいのです。

コーヒーの一杯でも作ってあげるだけで、優しさは伝わります。

愛している人からですから。

 

愛している人を傷つけてしまう事は、自分を傷つけているのと同じ事です。

愛という感情には、犠牲や執着、上下や孤独という言葉は存在していないのです。

もし、何かの問題が起きても、一番心配してくれる人が傍にいるだけで、心の負担も軽くなります。

しかし世の中、そんな恵まれた人ばかりではありません。

良いパートナーと巡り合えない人や先立たれた人、暴力や依存症で苦しまされている人等、不公平な事ばかりです。

それでも、生まれてきた以上、「愛」に生きていくべきなのです。

愛に生きる事とは、どんな事があっても生き続けるという事です。

そして見返りがないからこそ、人生の終焉を後悔も無く、迎える事が出来るのです。

 

内面、すなわち自分自身に、もっと目を向け、内からの湧き出てくる本来備わっている、愛する心を、持ち続ける事を疎かにしないようにしたいものです。

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今、あなたに愛している人がいるなら、

その愛の気持ちをちゃんと伝えましょう。

今、あなたを取り囲む愛する何かがあるなら、

目に焼き付けておきましょう。

あなたの優しさが、

愛する心が誰かの心の中で生き続けるように。

明日、何が起きても、愛する人の記憶に残るように。

 

誰もが、心から愛し、愛されたいと思っています。

その為には、自分を見直す作業をしなくてはいけないのです。

必ず死は誰にも訪れ、その「いつ」は誰にも解らないのです。

 

名残惜しい自分の人生に

心残りがあるとしたら?

そんな生き方で時間を使えばいい

言えなかった言葉も

やりたかった事も

学びたかった情熱も

今からだって

心残りを減らせるんだから

名残惜しい幕ひきには

拍手が鳴りやまず

賑やかで

きっと悔いという言葉は残らない

 

誰にでも優しく、親身になる事は、ハッキリ言って無理です。

ただ、想いを馳せる事は出来ます。

あなたが、人生に失望し、どうしようも無い時でも、目の前で、誰かが突然倒れたら、もし、子供が車に轢かれそうになれば、助けようとするでしょう。

例え絶望の中でさえ、愛を見いだす事が出来るのが、人間かも知れないのです。

だからこそ、この星の住人として、住むことを許されているのでしょう。

 

「愛」という言葉に囚われてはいけないのです。

愛とは、「対象その物の存在を認めること」

愛するとは「認めたものを受け容れること」

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例えば、あなたが海を眺めている時、穏やかであろうと荒れていようと、「海」の存在を認めています。

あなたは、その「海」に対して何もしてあげる事は出来ません。

「もっと大きな波を」「静かに、穏やかに」

いくらあなたがそう願っても、「海」は、あるがままあなたの前にいるだけです。

「海」は、あなたが見るからこそ、あなたに「愛」を感じさせてくれるのです。

何もあげなくても、どれほど愛しているか伝えなくても、あなたは、「海」から愛されている事に、気付くのです。

あなたが、「海」を見るのは、「海」があなたを呼び、包み込む為なのです。

「海」にはもう、その準備は整っているのです。

後は、また逢いに行くだけです。

「海」に捧げ「海」から授かった「愛」を、大切に持ち帰って下さい。

 

愛にまつわる曲の紹介です。


The Works

★『ドライビング・ホーム・フォー・クリスマス(Driving Home for Christmas (2019 Remaster) 』は「クリス・レア(Chris Rea:Christopher Anton Rea)」の1988年の曲で、あまり日本のXマスシーズンには、かからない曲ですが、クリスの渋い声が素敵で、運転しながら聞くにはもってこいの曲ですよ。


黄昏迄

★『黄昏迄』は「さだ まさし」の1981年ソロ6枚目のオリジナル・アルバム「うつろい」の中の収録曲です。彼の曲の中では今までのアレンジとは違い、中でもスタジオミュージシャンの「松原 正樹」のギターが泣かせる素敵な曲です。


I Will (Take You Forever)

★『アイ・ウィル(I Will (Take You Forever) 』は、「クリストファー・クロス(Christopher Geppert Cross)」と「フランシス・ラッフェル(Frances Ruffelle )」のデュエット曲です。クリスの透き通った声がたまらなく、フランシスとの掛け合いでの息の合った素敵な曲です。


ソモス・ノビオス~愛の夢(DUET WITH クリスティーナ・アギレラ)

★『ソモス ノビオス(Somos Novios)』は、盲目のイタリアのテノール歌手アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli )と「クリスティーナ・マリア・アギレラ(Christina Maria Aguilera)」のデュエット曲です。

優雅な愛の曲で「夏川りみ」とのデュエット曲としても有名です。


Unforgettable...With Love [30th Anniversary Edition]

★『アンフォゲッタブル(Unforgettable)』

ナット・キング・コールNat King Cole )」&「ナタリー・コールNatalie Cole、Stephanie Natalie Maria Cole Natalie cole

1951年ヒットした曲でナットの死後、1991年に娘のナタリーが録音されていたテープにオーバーダビング(重ねて録音)して、デュエット曲となり、ヒットした、愛を歌った素敵な曲です。

私も聞く度、心が豊かになり、大好きな曲の一つです。


ジョイン・ザ・バンド

ゴスペル音楽グループ「テイク6 (Take 6)」のアルバム『Join The Band』は、素敵な曲が詰まっており、その中でのお勧めは、

『You Can Never Ask Too Much (Of Love) 』で、「デイヴィッド・フォスターDavid Foster)」が作曲等で参加している曲で、彼は、松田聖子竹内まりやといった、アーティストのアルバムにも参加していました。メロディーが、グッとくる曲ですよ。

また『Why I Feel This Way』は「スティーヴィーワンダー(Stevie Wonder)」が参加した、ゴージャスな雰囲気を感じさせる曲で、バックコーラスのテイク6の声との絡みが、最高に素敵な曲です。

 

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愛とは?(1)

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愛する事、愛される事、この意味を求め世界中の恋人達が、家族が、友達が、切なく悲しく、そして悩み続けている永遠のテーマ「愛」。

その答えを求めて人々は悩み、数々の音楽が作られ、詩が生まれ、芸術が育まれ、また時には争いが繰り返され、この瞬間にも優しさや怒り、光や闇をこの世界に、この胸に生み出し続けています。

 

様々な解釈がある「愛」とはなんでしょうか?

 

アメリカの精神科医モーガン・スコット・ペック(M. Scott Peck・1936-2005) 』は、1978年の大ベストセラー『愛と心理療法(The Road Less Traveled)』の中で、

「愛とは、自分自身あるいは他者の精神的成長を培うために、自己を拡げようとする意志。

愛は意志であって感情ではない。恋とも違う。怠惰の反対語だ。」と書いています。

 

新約聖書では、「愛」が色々な場面で使われておりキーワードですが、

恋愛の賛美はしておらず、むしろ異性との距離を開けるような内容であり、

結婚するのであれば、最終の形として離婚してはならないという記述もあります。

(私的解釈です)

 

愛は信念、すなわち信じる事で、能動的であり「愛される」事では無く、

「愛する」ことを重視する、すなわち「愛するから愛される」という解釈もあります。

また、能動的な愛、すなわち自らが考えて行動する愛し方もあれば、受動的、すなわち受け身の愛の在り方もあります。

それは、例えば幼少期に味わう親からの愛されているという感覚で、余り感じていないまま大人になると、トラウマ(精神に大きなダメージを与え、そのときに受けた精神的な外傷や、その影響が長期にわたって残るような体験。)となり、精神に影響を及ぼし、マイナスな方向になりやすくなります。

 

能動的であれ受動的であれ、この記事では「愛」という定義を明確にするのでは無く、「愛」がどのような感情で働きかけたり、影響を与え、受けるのかの身近な視点で話を進めていきます。

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愛については、書ききれないほどの解釈や言葉があり、これが「愛」というものという明確な答えは、当然ありませんし、これからも探し続ける事でしょう。

人は病気や事故に逢った時、困難に出会った時、死を意識した時、

初めて身近な人の存在の大切さに、その大きさに、そして愛されている事に、愛している事に気付くことが多いのですが、それは、その人の存在、自分自身の存在を大きく認識するからです。

人生の短さや寿命、何の為に生れたか?

答えを出さなければいけなくなるかもしれないからです。

 

愛する時、それはとても勇気が必要になります。

無力感、挫折感を味わうかもしれません。

なぜなら同時に自分自身を受け入れ、試される事にもなるからです。

「自分を愛していますか?」言い換えれば「自分の存在を認めていますか?」そう問われた時、

自分自身をごまかし甘やかし、自分というものを大切にしていない自分が見えてくるかもしれません。

「愛すること」「愛の意味」を知ることが、いかに難しく、勇気のいる事か解ると思います。

まして自分以外のものが愛の対象となれば、なおの事です。

愛するということは決して犠牲になる事でも無いし、所有物にする事でも拘束する事でも、

また何かを与え、与えられる事でも無いのです。

存在を認め、ただ受け容れることだけなのです。

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恋をしている時は、「孤独」

愛に変わると、本当の「独り」になる。

 

孤独は愛で癒せるけれど、恋はとても孤独。

だから時に、とても勇気がいる。

必要とされ、必要とした時に、「孤独」を感じる。

「独り」として、完結しないから。

孤独同志の出会いは、

私物化したがる。

見返りを求める。

そして「孤立」になる。

 

「独り」とは、経済的に自立している事を指しているのではありません。

誰かから見た自分を、そのまま自分として受け取らない事であり、地位や財産、見返りの入る余地など無い状態、すなわち「我」を捨てた時の穏やかな、ありのままの心を指します。

孤独は、愛の感情に似ていて勘違いしやすいのが、何処かで相手からの見返りやご褒美を期待しているところがあり、孤独のまま「愛している」という錯覚をしてしまうのです。

 

長く連れ添っている夫婦がいるとします。

30代には30代の自分と相手が、40代には40代の自分と相手がいます。

ずっと同じ姿、同じ考え方でいる人は、まずいないでしょう。

しかし毎日顔を合わせていると、日々の生活に流され、お互い意識することも少なくなり、大切なことを見落としてしまいます。

それは30代の自分と相手、40代の相手は決して同じではないという事です。

お互いの存在を認める事を忘れ、先の見えない老後ばかりを気にしながら。

その時、その瞬間の積み重ねが、未来となるにもかかわらずです。

今、愛し合わないで先延ばしにする事は出来ません。

気が付いた時には遅いかもしれません。

今、手をつなぎ、腕を組み仲良くできなければ、将来もやらないでしょう。

逆に言えば、今を大切に、出来る事をすれば歳を重ねても、違和感なく自然な事として、触れ合えるのです。

 

写真やVTRに撮ったら確かに形としては残ります。

でもそれは単なる記録であって、生ではありません。

一瞬一瞬を心に留め、存在を認める事と、記録するという事は、同じではありません。

 

たしかに記録を残す事は、思い出として楽しみなことです。

写真やVTRで思い出がよみがえることもあります。

でも、例えば子供が運動会で一生懸命走っている時、

写真やVTRに撮る事ばかりに気を取られると、頭の中は記憶容量、バッテリーや編集の事、場所探しにいっぱいで、そこには生の子供がいません。

その瞬間しか味わえない表情も、動きも見逃すことになります。

もし生の子供を自分の目で見ていたとしたら、そして瞬間を逃さないようにしていたら、子供は愛を感じ、自分もまた愛し愛されていることを感じるでしょう。

今この瞬間は今でしかなく、今しか味わえないのです。

今を過去に戻す事も、未来に先延ばす事も出来ません。

VTRや写真を仕舞ったまま、何年もそのままにしていませんか?

 

人には脳という素晴らしい記録装置があります。

思い出は時間が経つと、まるで演出されたようによみがることでしょう。

人の記憶の素晴らしさに優る記録装置は無いのです。

と同時に、祖先から受け継いでいるDNAの「危険を避ける」という意味合いから、苦い経験や嫌な苦しい経験は刻まれるように、いつまでも残り続けるのです。

それは、経験として記憶し、同じような過ちを繰り返さない為です。

ですから、

愛している人からの負の記憶は、とても辛い記憶として残るという事を、常に頭に入れて行動するようにしなくてはなりません

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素敵な思い出を沢山、脳に記憶する為には、今を大切にする事です。

後回しが出来ないからです。

先延ばしに出来ない瞬間を、焼き付けるようにすべきなのです。

それは自分の為だけではなく、周りを巻き込んで幸せになれるからです。

 

人間は、愛するという能力を持ち生まれました。

自分を愛することは生きるという事であり、自分以外への愛は生かされているという事です。

気付かないでいるだけ?

改めて考えて欲しいのです。

愛せる、与えられる、そんな対象(人間に限らず)がいる私達は幸せです。

美しい景色や花々、子供、それらを見ている時の心と、とてもよく似ていませんか?

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何も愛の対象は人間だけではありません。

いつも使っているボールペンやノート、靴、カバン。

「愛用品」という言葉どおり、それらの存在を認めているからこそ大切にしているのです。

錆びたままの自転車やタンスの中に眠ったままの服は愛されていませんね。

車を例に考えてみましょう。

いつもピカピカに磨かれた愛車、ホントに言葉どおり愛車でしょうか?

車という存在を意識しているでしょうか?

車の構造や機能の把握、消耗部品の点検、おろそかにして、人任せではありませんか?

存在を意識する事、この場合自分自身でしっかりと車の構造や状態を知り、観察し点検していれば、車もちゃんと答えてくれます。

洗車する事が、悪いとは言っていません。

洗車の際に、不具合が見つかる事もあるからです。

ただ磨き上げる事や、キズばかり気にしているだけならば、それは、「所有欲」「執着心」の表れで、自己満足に過ぎず、少し傷がついただけでも、常に車が頭の中につきまとうでしょう。

 

所有、執着は、勿論愛ではありません。

執着は、何も生み出さないばかりか、本質を見失い、つきまとい、頭から離れられなくなり、結局大切な時間を失ってしまいます。

車やモノならまだしも、対人間となると執着は形を変え憎しみとなり、相手は勿論、自分さえもを傷つけてしまいます。

人間は、モノではありません。モノであれば簡単に捨てる事が出来ますが、どんなに、関係が深くなったとしても、一人の人間としての尊厳があり、自分の思うようにさせる事など、求める事も、強要する事も決して出来ないのです。

 

愛とは、「対象その物の存在を認めること」

愛するとは「認めたものを受け容れること」

 

存在を認める事というのは、対象になるモノをよく観察し、自分の中で反芻し味わい逃さないようにするといっても良いでしょう。

そして良いことも悪いことも、長所や欠陥も含め全てを受け容れる事が、愛するという事なのです。

対象が自分にとって都合が良く、居心地が良く、もしくは思い通りになる事を愛と勘違いしてはいけないのです。

そうなると与えた分だけ、もしくはそれ以上に返してもらわないと、愛がないという短絡な考え方になってしまうのです。

愛に、愛するという事に損も得もありません。

また強い、弱いという愛もありません。

そしてあげる事でも、もらう事でも無いのです。

「愛してるから……」の先は無いのです

「愛してる」それだけです

 

愛とは?(2)に続く…

 

映画大好きな私のお勧めの作品です。

ご覧になった方も、もう一度観てみると、違った見方が出来るかもしれませんよ。


めぐり逢えたら コレクターズ・エディション [DVD]

★1993年アメリカのロマンティック・コメディ映画

『めぐり逢えたら(Sleepless in Seattle)』は、名優トム・ハンクス(Thomas Jeffrey "Tom" Hanks)、メグ・ライアン(Meg Ryan)主演で、まだ若いトムやメグが繰り広げる、見えない赤い糸を思わせる様な素敵な作品です。

1939年の映画『邂逅(Love Affair)』のリメイクが、有名な1957年アメリカ制作の『めぐり逢い(An Affair to Remember)』で、こちらもアメリカ人なら必ず知っている名作です。そのまたリメイクが、「めぐり逢えたら」で、作品の中で「めぐり逢い」をTVで観るシーンが出てくるのも面白いところです。

 


ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

★1997年イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)』

ロベルト・ベニーニ(Roberto Benigni)監督・脚本・主演作品。

喜劇仕立てではありますが、第二次世界大戦のナチ強制収容所での生活で、子供に夢を与え続ける父親の姿に、涙がこぼれます。辛い境遇の中でも「人生は美しい」という言葉のどおり、愛で溢れた家族の作品です。親子や恋人とご覧になるのも、お勧めの映画です。

 


フランシスコの2人の息子 [DVD]

★2005年ブラジル映画『フランシスコの2人の息子(2 filhos de Francisco - A história de Zezé di Camargo e Luciano)』は、ブラジルのミュージシャン、『ゼゼ・ヂ・カマルゴ&ルシアーノ(Zeze Di Camargo & Luciano)』とその家族の半生を事実に基づき描いています。

貧しい中、家族を基点として様々な人生模様を描き出している作品で「愛」の色々な形が垣間見えます。

劇中の後半に流れる『エ・オ・アモーレ」(È o Amor)』が心を揺さぶります。

 


あしたは最高のはじまり [Blu-ray]

★2016年フランス映画『あしたは最高のはじまり(Demain Tout Commence)』

LGBTレズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)』や人種といった問題、血の繋がり等を、さり気なく触れながら、フランスらしい映像で見せる作品です。コメディではありますが、「幸せ」「愛」がテーマになっています。

主演は、2011年の映画『最強のふたり』の主役でも有名なオマール・シー(Omar Sy)

今回も、素晴らしい演技を見せてくれています。心が暖まる素敵な作品ですよ。

 

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嘘っぱちだらけの世界(3)⦅一度きりの人生!⦆

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たった一度きりの人生

大切な時を積み重ね

毎日毎日飽きるほど

奇跡を味わって

先の見えない連続を

僕らは当たり前だと装って

何を求めているのか

何を刻んでいくのか

こんなにも切なくなるほど

生きているのに

 

以前このブログにも書きましたが、私は精神をやられ、その辛さからお酒に頼るようになり、結局アルコール依存症までなってしまいました。(注1)

最後のほうは、字がまともに書くこともできず、起きたら飲み、ロクに食べないでまた飲むという、最悪な生活をしていました。

様々な不快で苦しい症状から逃げるには、一番手っ取り早い方法だったのです。

母親や弟もアルコール依存症で、結局死んでしまった事を一番分かっていた私自身なのにです。

勿論その代償は大きく、大切な時間を無駄にしたばかりか、友人達とも疎遠になってしまいました。

妻が黙って支えてくれていた事が、地獄から抜け出すキッカケとなりました。

噓っぱちの自分でいた時間は、たとえそのキッカケが病気だとしても、夫として、父親としての大切な時間を、酔っ払いとして過ごしてしまったのです。

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私の父親は大手鉄道会社に勤めていました。

昔の写真を見ると、社員旅行や新年会など、昔ながらの光景が写っています。

どの写真も、笑顔で写る白黒の父の顔が映っていました。

社員達は家族よりも長い時間を過ごし、苦楽を共にする仲間、家族の様でした。

父は真面目な人間で、それゆえ学歴が高卒という負い目があり、苦労していたらしく、私が中学校の頃、ストレスで胃に穴が開き手術、ほどなくしてうつ病になってしまいました。

確か完治するまで半年くらい掛かったと記憶しています。

ただそんな真面目な父親でしたが、家庭では笑顔を見る事はありませんでした。

私が小学生だって頃、夕方父とキャッチボールを一度した記憶だけを今でも鮮明に覚えています。

たった一度だけのキャッチボールでした。

会社で見せる顔と家で見せていた顔、二つの顔を持っていたように思います。

気が強かった母とも、よくケンカをしていました。

それでも、親戚の集まりや近所には、にこやかな顔を見せていた両親。

まだ精神的に不安定だった私は、その矛盾に苦しみ、居場所がありませんでした。

家を飛び出したのは、18才頃で、それ以来ずっと実家には寄り付かなくなりました。

30代の初め、父から突然電話があり、母親を何とかしてくれという事でした。

それは、キッチンドリンカーから、アルコール依存症になり、毎日朝からお酒ばかり飲んで、食事もしないという内容でした。

実家に戻り、母の様子を見た時、息子として、何とかしなくてはという気持ちより正直、生気が無く気味が悪い思いと嫌悪感が、ふつふつ湧いてきました。

ここまでほったらかしにしていた父に対してもです。

依存症の治療病院に入院させ、何度か様子を見に行きました。

当時は、大きな部屋にベッドがいくつも並んでいて、カーテンも無く大勢の患者でいっぱいでした。

アルコールを飲むと気分が悪くなる薬を飲む治療だけで、あとは寝るだけの惨めな母の姿を見る度、自分でも不思議なくらい、母に対し愛情を感じる事が出来ないしらけた自分がいました。

結局、2度の入退院を繰り返して、脳の萎縮からテンカンを起すまでになったしまったのです。

その後、母と会ったのは彼女の死後でした。

 

後を追うように父と弟が亡くなり、家の整理をしている時にアルバムを見つけました。

若い幸せそうな両親が写っている、黄ばんだ白黒写真を見つけ、初めて涙が出てきました。

今でも、私の心の中の両親は噓っぱちのままです。

もっとたくさん一緒に笑いたかったし、もっと話を聞いて欲しかったのです。

手作りケーキもキャッチボールも、やって欲しかったのです。

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人生は本当にあっという間に過ぎていき、子供もすぐに大人になっていくもんです。

確かに社会に出ると、自分を殺し我慢することだらけです。

ストレスだって貯まるし、愚痴も言いたくなります。

でも、大切なのは、その為に生きているのではないという事です。

嘘っぱちで溢れている世の中で、嘘っぱちのまま人生を終わらせる為に、私達は生まれた訳ではありません。

誰か、たった一人でも本当に幸せにする事が出来れば、それは静かな波紋のように広がっていくのです。

その幸せを生み出すのは、本当の自分で、本気でやらないと生み出せません。

幸せに嘘っぱちはありません。

誰でも勝手にほっておいても大人になりますが、人間として大人になる事とは違います。

誰かを傷つけたり悲しませる度、おとしめたり、差別する度に、大切なカケラを失くしていくのです。

自分をごまかしたり、妥協ばかりしたりしても、失くしてしまいます。

まるでジグソーパズルのピースを一つ一つ失くしてしまうのと同じです。

一つ一つのピースは、見ても何かよく解りませんが、組み上がっていくと、一つの作品になります。

だからこそ、小さなカケラ、ピースを失くしては作品は出来上がりません。

何だか解らないピースこそ、失くしてはいけない大切なモノなのです。

誰かを幸せにする事は、その人のピースを組み合わせるお手伝いのようなものです。

失くしたピースを見つけてあげる事です。

ピースを見つけた時が、組み上げる手伝いをしている時が幸せの時間なのです。

だから真剣にならなければ出来ない事なのです。

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もしあなたが大切なカケラを失くした時、それは人生という大きなジグソーパズルをくみ上げている事を忘れてしまった時なのです。

小さな世界観で右往左往しながら、アバターを使っていては、決してその事に気付きません。

それに気が付いた時が、噓っぱちから本物になった時でしょう。

私達は、良くも悪くも人間として生まれてきました。

人間は独りでは生きていけない事を、自然の摂理が選んだのです。

それは、支え合う必要性を伴っての事です。自然の選択なのです。

自然は本物であり、噓っぱちではありません。

厳しく、辛く、時には命までも奪う本物です。

だから生きる事自体が、苦を伴うのであり、その中で垣間見る幸せが、愛おしいものとして、輝くのです。

もしあなたが噓っぱちであったとしても、その時に失ったカケラ、ピースは、探し出す事が出来ます。

あなたが、自然体として噓っぱちでなくなると、一緒に失くしモノを探してくれる、組み上げてくれる人が必ず現れるでしょう。

大切な人達や、もしかしたら見知らぬ誰かが、あなたのジグソーパズルを組み上げるために。

それが人間としてこの地球に誕生した自然の摂理、選択だからです。

 

当たり前ですが、時間をさかのぼる事は出来ません。

今この瞬間が過去になり、未来になります。

すなわち今が一番若くて、一番年寄りなのです。

噓っぱちに気が付いた時が、一番早くて遅いのです。

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生きる事自体が苦を伴い大変な事だという教えを、童話でも、また学校でも教えて欲しいのです。

当たり前の様に思う事が、当たり前では無い事や、おかしな価値観を教えるのではなく、正義と悪の境界線を自分の力で見い出せるように。

ヒルもウサギも、カメやオオカミも、素晴らしいあるがままの姿であり、何より他のものにはなれない事。そして、なる必要も無い事。

あなたも、あなたで誰のマネも出来ないし、誰もあなたを演じる事は出来ない事も。

 

一度きりの人生をどう生きていくか?

選択するのは、まぎれもなくあなた自身です。

沢山の本物に出会い、味わえる機会を見逃さないようにして下さい。

そして噓っぱちを見抜く力を付けていくようにしたいものです。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

アインシュタイン

「In some open-minded social environment, people mentioned the sober opinion is limited.

On the contrary, it is most people can not even have an opinion.」

『偏見のある社会環境で、冷静な意見を述べられる人は限られている。

それどころか、意見を持つことさえ出来ない人がほとんどだ。』

 

(注1)アルコール依存症やその他のギャンブル、薬等、間違えていけないのは「病気」という事です。

本人がいくら「大丈夫、やめるから」と言っても、病気だという自覚がありません。

出来るだけ早く、病院で治療しなくてはいけません。

また依存症での行動をたしなめても、逆効果になってしまいます。(私がそうでした)

「病気」という事を周りの人達も理解して対応しなければ、深みにはまってしまう可能性が高くなります。とにかく早く適切な治療を受けるよう、受けさせるようにして下さい。

治療をすれば治りますが、経験から強い意志が必要なのも確かです。

本人の「病気」としての自覚が、とても大切なのです。

そして支えとしての人間関係も必要です。

 

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嘘っぱちだらけの世界(2)⦅解き放て!⦆

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生きる事に不器用でも、

人付き合いが苦手でも、

例え夢を叶えられなくても

辛くて、苦しくとも

海のように

空のように

森のように

大きく深い人でありたい

小さな事なんか

どうでも良くなる

包み込む優しさと

秘められた強さとが

ただ、そこにあるだけ

そんな人でありたい

 

海という血を引き継ぎ

空という心を持ち

森という魂を宿し

僕らは生まれたから

 

世の中、きれい事が多すぎて、皆が仲良く幸せになる事は、正直厳しいし無理でしょう。

噓っぱちな事が多いのもみんなもう解っていて、それでもやめられないんです。

その為か昔から、人生を生き抜く知恵や戒めの言葉が多く語られてきました。

その言葉、名言や名句は、何度も繰り返し知恵を授けていますが、形骸化したように、心を素通りしています。

聖書や聖典、歴史上の人物からの引用は、しごく当たり前の言葉がほとんどで、宗教的要素が強い言葉は、まず、その宗教を信じる事が前提になっているので、私にとっては意味がありませんでした。

戦国武将たちの言葉を、ビジネスの世界に流用して活かそうとするサイトや本なども見受けられますが、

考えてもらいたいのは、彼らは命懸けだったという事です。

つまり、生き抜くための本気度が違っているのです。

それをそのまま現代に当てはめる事自体、無理があります。

無駄な事とは思いませんが、噓っぱちのままでは、何の役にも立たないばかりか、かえって自分を大きく見せようと虚勢を張ってしまい、結局口先だけの人間と思われるのがオチでしょう。

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心優しい人間でありたければ

ずっと優しい人間でいればいい

誰も見ていなくても

道端のゴミを拾う人間でいればいい

悪口を言わないと決めたなら

ずっと悪口を言わない人間でいればいい

仕事に手を抜かないと決めれば

その通りやり抜けばいい

誰が見ていようといまいと

あんたは、あなたでいい

 

どこから人間って妥協するようになってしまうんでしょう。

まず「自分ってこんなもんだろう」「世の中ってこんなもんだ」から始まるのです。

「私が、僕が我慢すればいい事だから」「結果は目に見えているから」と。

誰だって限界があり、無理な事は無理なんです。

変えなきゃいけない事は変えないとダメなんです。

何か他の理由を付けて、自分を納得させていませんか?

周りの目を気にして無理やりやっていませんか?

責任をとりたくないと思っていませんか?

所詮、人間が考える事。相手だってその域を出ません。

それでもアバターを使うなら、一流の俳優の様になりきる事です。

ウルトラマンの中に入るスーツアクターの様になりきるのです。

だから、決して子供達の前で、汗を拭くところや、疲れた顔を、スーツを半分脱ぎながらやってはいけないのです。見せては駄目なのです。

要するに本気でやる事です。

本気でやると本物になるからです。

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昼間の星はそこにあり

太陽は沈みながら昇る

月は欠けても丸く

川は流れながら留まる

雨の中に海があり

風の中には想いがある

そして

逃げても、隠れても

あなたは、あなた

上辺だけの繕いなど

観る者は見破る

 

本当の自分を出しながら生きていく事は、ほとんどムリです。

社会生活上、何処かで妥協や合意の為の納得が必要になります。

周りに流され、言われるまま行動する事は、ある意味簡単です。

考えなくてもいいからです。

噓っぱちのまま人生を送っても、誰も文句を言う筋合いはありません。

ただ社会が安定し、雇用が守られ、災害や災難の時でも、公助が整備されている時だけの中での話になります。

それもまた幻想かも知れませんが。

そもそも、誰も明日の事は解りません。思わぬことが起きる事だってありうるのです。

そんな時に、噓っぱちのままでいると、乗り越えられなくなってしまうのです。

 

大方の人が自分の理想とする人生や生き方、幸せを感じ、生き生きと長生きしたいと思っている事でしょう。

素敵な友人に囲まれ、美味しいものを食べ、良きパートナーと出会い、趣味を満喫できるような、ドラマにでも出てくるような生活。

でも、実際には何がしたいのかわからず、仕事も収入を得る為に仕方なくやり、夢が夢のままという人の方が多いと思います。

お金も思うように貯まらないどころか、出費も多くなり、年金だけでは生活もままならない今の日本。

世界を見渡すと、いつの間にか独裁政治国が自由主義国を上回り、領土や人種問題でいつ何が起きるか解らない状況です。

おまけに日本は、プレートの合流する立地故、いつ災害が起きても不思議ではない国です。

今の時代、価値観が一夜にしてコロッと変わる事もありうる訳で、安心安全とは程遠い現状です。

ご承知の通り、食物や原油、その他多くの原材料を輸入に頼っている為、三ツ星レストランや大食い番組、インスタ映え等、そんなところでは無くなる可能性が高いのです。

一極集中のこの国では、首都が災害などで機能しなくなると、生活が一変する事でしょう。

もし首都圏直下型地震南海トラフ地震が起きれば、ただでさえ道幅が狭い上、車の放置時にキーを付けたまま逃げる人などいないうえ、建物が密集しているので、緊急自動車も何の役にも立たない事でしょう。

空からガラスが舞い落ち、あっちこっちで火の手があがり、スマートフォンも使えなくなります。

東西南北の方向の見方すら分からない人達ばかりじゃ、どうしようもないんです。

富士山だっていつ爆発するか解らない火山なんです。

原発だって安全ってずーっと言われてきたのですから。

それは、遠い先の事では無く、明日にでも起きても不思議では無い事なのです。

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いつまでも今の生活が、平穏のまま続くとは限りません。

好きな時に好きなものを買い、食べられるのは危うい世界情勢の上での、奇跡と言ってもいいかもしれません。

 

そろそろ本気に考えないと、噓っぱちのお偉さん達に巻き込まれ、大変な国になってしまう可能性があるのです。

 

世の中、透明性が進んだと言われていますが、実際には噓っぱちが今でもまかり通っています。

日本は一応自由主義国なので、不正や犯罪、政治家に対しても自由に発言できますが、色々な面で圧力を加える人達がいるのも事実です。

歴史一つとっても、真実を捻じ曲げようとする人達や、無かった事にする動きなど、何の為の歴史か解らなくなってしまい、折角の学びのチャンスをホゴにしています。

嘘っぱちが、いつの間にか知らない内に、真実として伝わり、未来に対する責任放棄を堂々とやっているのが現実の今の日本の姿です。

 

自分には関係ないと思って気にも留めない人達や、考えもしない人達が増えれば増えるほど、生きにくい社会になる事に気付いていないのです。

身近な噓っぱちから始まって、国政としての噓っぱちまで、見抜く能力と見過ごさないように見張る力が、どんどん弱くなっている事を、よく考えなければいけません。

それは、個人レベルだけでなく、マスコミまでに及んでいるのです。

 

小さな噓っぱちを重ね、見て見ぬふりをしながら生きて、何の意味があるのでしょうか?

その為に私達は生まれた訳ではないはずです。

今のところ、国による統制や弾圧が目に見える範囲では、無い日本です。

実際には入管での外国人に対する扱いや、未だに全て可視化されない勾留尋問など問題になっているのも事実です。

だからこそ、誰でも嘘っぱちで生きられるし、とがめられる事もほとんどありません。

独裁政治の国では、本当の自分では生きていけません。言いたい事も言えないのです。

命までも脅かされるのです。

折角この日本に生れたのですから、嘘っぱちでいる必要など無いのです。

 

名言や名句も大切ですが、その裏にある時代背景や政治情勢がどうであったのかまで、見る力が無いと、馬の耳に念仏と同じです。

先人たちの命懸けの言葉の数々は、本物の自分でいられるキッカケとし、本物の自分であってこそ役に立ち、言葉の想いが受け継がれていくのです。

 

誰でも、噓っぱちだらけで生きたいとは思っていないはずです。

少しずつでも、本当の本物の時間を味わうように。

それは、本物と対峙する事です。

大自然の中に、例えば海や森、宇宙の雄大さを感じ取れる時間を作るのもいいかもしれません。

素晴らしいアーティストの作品に触れる事もそうでしょう。

仕事に真剣に向き合っている人に、また病気や事故で人生に対し、必死で問いを求めている方々、紛争や戦争の中、それでも生きる事を望んでいる人達の事を考える事からでも、心の中から湧き出てくる何かを感じ取れると思います。

 

当たり前では無い日々という事を、平和が続くとは限らないという事を、頭の片隅に必ず置いて暮らすべきなのです。

 

噓っぱちでは無い、あなた自身と向き合い、会話しなければいけないのです。

人生は、一度きりで思ったより長くはありませんから。

 


アインシュタインの言葉 エッセンシャル版

「The most important effort mother for a while, is to continue to pursue morality in his actions.」

『人間にとって最も大切な努力は、自分の行動の中に道徳を追求していくことです。』

 

嘘っぱちだらけの世界(3)⦅一度きりの人生!⦆に続く…!

 

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