20代の頃から音楽に夢中になり、自宅に小さなスタジオもどきの様な資材を置き、毎日のように打ち込みというコンピューターによる音の貼り付け作業をしていました。
昼頃から始め、気が付くと真夜中だった事もあり、振り返ってみると好きな事をやっている時間は、努力でも無ければ、勉強でも無い一種のアドレナリンの放出時間だったように思います。
結果作業も早くなり、色々なアイデアやテクニックを学んでいました。
こんな時間を過ごせたことは、私にとっては大切な青春の1ページで、と同時に夢中になる事の楽しさと、努力や勉強は別なものと理解したのです。
30代頃、素敵な彼女ができ、車の無かった時なので彼女に会いにいく為、電車で1時間かけてよく会いに行ったものです。
そして恋愛をした方は解ると思いますが、時間はあっという間に過ぎ、何度も終電に間に合わず、40キロメートルの道を歩いて帰っていましたが、それは苦痛でも何でもありませんでした。
白みかけた空を見ながら、幸せをかみしめていたからです。
どちらかというと面倒くさがりの私は、努力や才能には無縁でしたし、自ら行動を起こすタイプでもなく、まあ世間でいうとありきたりな人間でした。
自分に自信を持てない、夢見の馬鹿と言ってもいいくらい、世間とはかけ離れた先を考えない生き方をしていました。
ふと我身を振り返った時、自分の人生は自分のものだったのか?と疑問が湧いてきた時がありました。
自由気ままに40代後半まで独り、定職につかず暮らしてきた中で、何度も生まれてきた意味や人生について考えてきましたが、結婚し子供が生まれ、人生とは?という問いに対する答えも変わっていきました。
自分で何事も決め、やりたい事をやって来た生き方から、相手の事を考え話し合い、時にはぶつかり合い、物事に対する決断や生き方が重くなっていきました。
家族と言えども、一人一人人間として独立した存在で決して自分の思い通りにはなるものではありません。
自分が描く人生の在り方は、もはや他の人間を左右する存在になったと自覚したのです。
人生の意味や生き方について考える動物は人間だけです。
そして「心」という概念を私達は生み出しました。
心は、想像力をもってすれば、見上げる空よりも広い空間となります。
ただ、空間は人それぞれで、詰め込むものも違います。
同じように人生の意味を考えた時、何かの指針があるかの様に思うかもしれませんが、一人一人みんな違うのが当たり前でしょう。
目の前の事や少し先の未来に対する夢や目的は、多かれ少なかれ誰しも持っているでしょうし、自己啓発本を読み、環境を変え、断捨離をして方向を変えようとする事もあるでしょう。
ただ、人生という大きな捉え方をすると、ハッキリと「こうだ!」とは言えないのが現実なのです。
明日どうなるか解らない生活をしている人がいるかと思えば、帰る家が無く新宿辺りでうろつく若者達。
死を選ぶ事でしか救われないと考えている人もいれば、「何色がいい」と着ていく服に悩んでいる人もいる。
この違いは、決して本人だけの責任でも選択でもなく、あくまで環境や運によるものが大きいのです。
生れた所や教育、出会う人達や住んでいる地域と、一つでも違えば、今まさにビルから飛び降りようとする気持ちになる事だってあるのです。
人生に意味付けする事は簡単です。
「誰か人の為」「奇跡の確率で生まれたから」「何となく生きていきたい」「自分でしか出来ない事がある」「夢を叶える為」等など、人の数だけあるでしょうが、それは生きていく中で見つけてきたものであり、人生というひとくくりでの意味では答えにはなっていません。
この世には、自分の力ではどうしようもない事が沢山あります。
コツコツやる事が出来る人や端折(はしょ)るのが得意な人、運動に長けた人や挑戦するのが好きな人など持って生まれたこと以外にも、運不運もあります。
同じ教育を受け、同じ先生に習ったとしても、全く同じ人生を送る事はありません。
例えば努力する事の大切さは解っていても、向き不向きな人がいるのも事実です。
努力すれば報われる為には、運や環境、お金や素質など様々な要因が上手く絡まらないと、そもそもが難しい事であり、皆がみんな報われる事はほとんど無いし、努力が水の泡になる事の方が多いのです。
夢を持てと言われても、その夢さえ描けない人やその他の要因であきらめざるを得ない人も沢山います。
いくら運動能力が高くても、環境や運でオリンピック選手になるか、ただの凄い人だけで終わるかの違いは、本人だけの力ではどうしようも出来ない要因次第で、言い換えればラッキーかアンラッキーだったという事だけかもしれません。
高いモチベーションを維持し、問題をクリアにしていける人達は、努力ではなく夢中になっているからだとも言えます。
すなわち偉人達が言う努力は、本人が夢中になっていた時期を指すかもしれませんし、「諦めるな」「頑張れ」は、人によっては逆に苦痛でしかない言葉かもしれないのです。
でもそれが現実で、名を馳せ、功績を称えられる様な人はほんの一握りなのです。
努力や夢を持つ事を無駄だとか否定している訳ではありません。
同じ価値観で物事が進む事が、万人に通用するという考え方の怖さと愚かさを知ってもらいたいのです。
考えたような生き方が出来なかったり、夢が叶わなかったりする事は、多くの人が多かれ少なかれ経験していると思います。
だから来世に希望を持ったり、輪廻に願いを込めたり、宗教に運命としての受け止め方、心構えの意味を見い出したりと、それぞれのやり方で、納得させているのかもしれません。
奇跡が起きると思う事も、何か判らない見えない力が働くという感覚も、願望であるにすぎず、歯車がたまたまかみ合ったともいえる時かもしれないのです。
また普段の行いや学びによって、意識せずとも身体が動いている状態の事を指すかもしれません。
突然、災害や事故で無くなる人達にもし奇跡が起きるなら蘇らせて欲しいし、見えない力があるなら事前に知らせて欲しものです。
私達は「努力せよ」「あきらめるな」と言われながら、能力や素質に加え、「運」という自分ではどうしようもない事だらけの世の中に暮らしているのです。
たまたま通りがかった道で交通事故に会う人と、一枚だけ宝くじを買って大当たりする人の違いは、運というその人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせによるもので、常にその「運」に左右されながら生きているのです。
血液型や星座など、持って生まれた「運」もどきは、心の持ちように影響を与える事はあっても、どうなるかは、誰にも解らない根拠のないものであり、それが故に逆にそうあって欲しいという願望が信じたくなる気持ちにさせ、物事が動くと運不運を持ち出しているのです。
それを題材にした映画などが多いのも、信じたいが為の題材だからです。
と、言いいながらも「運」がいい生き方はしたいものです。
人知を超えた「運」はさておき、今やれるような事柄でいうと、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」の言葉もある様に、沢山の出会いや多くの行動に関係していて、色々とやればやるほど、確率的に良い結果も増え選択肢も広がり、効率性が良くなり経験がマイナス面を補ってくれ、失敗を回避出来る様になるからです。
結果、運が良かったと感じられるのです。
例を一つ出して見ましょう。
「犬も歩けば棒に当たる」ということわざがあります。
繋がれたままの犬にとっては、何の刺激も無く弱っていくだけです。
そして犬がジッとしていれば、勿論棒には当たらないでしょう。
そして棒に当たる事は、犬にとっては不運な事かもしれませんが、歩く事で好みの異性と思わぬ出会いがあるかもしれないのです。
散歩の回数が多ければ多いほど確率も高くなり、棒をよける能力も高くなるという訳です。
この場合、犬は散歩の回数をこなす事が努力となり、結果好きな相手と出会う確率が高くなり、すなわち「運」が良くなったという事です。
TVでよく見るバラエティー番組で運動選手が的を射抜く競技を見ますが、彼らは一般の人よりもはるかに練習量が違い、的に当てる確率が高いのは当たり前です。
そして、練習そのもが努力と思われがちですが、やりたい事だからという前提があるからこそ練習してきているのであり、他人から見ると努力と見えているだけで、本人にすれば夢中になってやってきただけかもしれません。
ただ人間なので、心理状態や環境に少なかれ影響され、結果によっては運がいい悪いを判断しているにすぎないだけで、いわゆる「この人は持っている」と言われるような得体のしれない力が作用したわけでも何でもないという事になります。
何かに夢中になり、続けてきた事が振り返った時に「努力してきた」という表現になるのでしょう。
何かを始めるキッカケは人それぞれで、たまたま興味がそそられたり、湧いたり出来るものに当たった人は、幸運と言えるのです。
そして夢中になる事で、いわゆる「運」が良くなると思えるような事が必然的に起きるのです。
結局「オギャー」と生まれた途端、未知なる世界が始まり、運命という名の元、誰かの人生を参考に生きているだけかもしれません。
時計だったり、車だったり、置物や家具と人それぞれ大切にしているモノがあると思います。
愛着やお守りといった意味合いで大切にしているモノです。
ですから、傷をつけないように壊れないように丁寧に扱っている事でしょう。
私達の身体も、そのようなものなのです。
生れて与えられた身体に愛着を持ち磨き上げ大切にして、月日に、時間に委ね、壊れるまで責任をとらなくてはならないのです。
すなわち、身体を借りていると捉えてもいいかもしれません。
ですから乱暴に扱ったり、誰かを傷つけたりする事を良しとしないのです。
この星に人間という器を与えられ生まれたという、どの人種にも当てはまる共通認識の感情の部分であり、それこそが「人生」というひとくくりでの意味なのです。
人生は、あなただけのものでは無いという事が前提であり、
何か目的を達成する為や、良い行いをする事、
社会に貢献する為や幸せになる事の前にある、「意識」すなわち人間として生まれたからこそ持ちえた、共感や共鳴、謙虚さや想像力といった感情が、
人間という器に組み込まれている事への「気付き」なのです。
自分の事として感じられる心や、守ってあげたい気持ち、居て欲しいと願う祈りや死んで欲しくないという根本部分の事です。
その気付きこそが、人生に対する肉付けの源になり、一人ひとりの生きがいや目標になるのです。
ヘイトや憎悪、差別は過去何度も繰り返されてきました。
国や民族という大きなくくりだけでなく、身近でも、容姿や考え方の違う人、外国人や障害者の方たちへの差別やイジメといった恥ずべき事は相変わらず無くなってはいないのです。
「ありがとう」「ごめんなさい」を言えない、人間の皮を被ったまがい物です。
「気付き」が出来ない心無い人達にとっては人生を語る資格もなく、生まれたその訳を勘違いしている可愛そうな人達なのです。
そして、そんな人達には、ハッキリと「気付き」の大切さをもって、毅然とした態度で接する事が、心ある人に変わるキッカケにもなるのです。
人生は人それぞれの時間と長さがありますが、コントロールする事はムリです。
この限られた大切な時間を、借りている大切な身体を使って何をするか?
それは、苦の中で一瞬輝く幸せを味わう事であり、人生を遊ぶ事です。
だから個々に人生の意味なんかはありませんし、探っても答えは見つかりません。
仲良く遊び、やがて還るだけなのですから。
何が起きるか解らない危険な場所でもある自然の中に身を置き、陽が落ちるまで大好きな人達と遊ぶ時間はスリルに満ち、かけがえのない時になるでしょう。
その為には、例え束の間の時間だとしても、生きる続ける事が必要なのです。
何があっても生き続ける事。
そして人生を遊ぶ。
遊びは夢中にさせてくれる最高の題材だからです。
いくつになっても
夢中になれるものはある
つまらないものでも、何でもいい
役に立つか立たないかなんて、どうでもいい
ルールも無いし、自由なんだから
いつの間にか
楽しくなって
自然と身体が動き出すような
踊りたくなるようなモノなら
もっといい
遊ぶような気持なれば
もっといい