心の道標

様々な自分の疑問に、自分で答えを見つける旅

捨てられない

借家の我が家が狭いので断捨離しようと思いたったのだが、なかなか物が捨てられない。

そこでまず最初に価値がありそうなものはフリマサイトに出品する事にしたのだが、やはり慣れていないと難しい。

仕方なく本屋で出品の仕方なるハウツー本を購入。

逆に物が増えてしまった(笑)。

子供の小さい頃のオモチャやレコード、DVD等をやっとの事で出品する事が出来て意外と簡単に売れてしまった。

モノを減らす目的だったので金額も低めに設定したのが功を奏したが、もっと高くしておけば…と少し後悔した。

 

我が家はほとんど使用しないモノはベッドの下にしまっている。

引き出しでは無いので、もう何年もベッド下を見た事が無い私は、意を決して開けてみると懐かしいモノがホコリと共に出てくる出てくる!

中でもカセットテープを見つけた時はラベルを見ながら懐かしさと想い出が蘇ってきて、当然作業は全く進まなくなってしまった。

ラジカセを探したが、CDラジオコンポはあったものの、カセットを再生する機器が無い!

痛い出費だが、近くの中古販売店に出向き4千円近く出してラジカセを購入。

またモノが増えてしまった。

カセットを差し込み再生ボタンを押すと片付け時間は完全にストップ。

劣化しているのもあり、こうなったら良い機会と自分に言い聞かせ、デジタル化をしようとネットで検索すると便利なものが沢山あるではないか!

とりあえずラジカセにUSBメモリーを差し込みデジタル変換できるものを探すと中古で8千円近くの製品が見つかったので思い切って購入。

しかし届いた製品はステレオ録音の音源のカセットの片方しか再生してくれない。

メーカーを調べ問い合わせて見ると5分程度待たされ、色々と試す方法を伝授されるも上手く再生できず、結局不良だから販売元に相談してくれとの事だった。

仕方なくネット販売会社に返品要請し、結局ここまでに4日かかってしまった。

何をやっているのだろうと断捨離どころでは無くなってしまった。

ここまでくると意地でもデジタル変換して大切なテープ音源を残そうとそっちの方へと頭が切り替わってしまった。

ラジカセのヘッドフォン端子とPC(パソコン)のUSB端子で繋ぐコードをサイトで見つけ、購入前に商品説明を確認したが、ラジカセのヘッドフォン端子に差し込むオスのコードが商品では見当たらない。

コメント欄では、同じような疑問に対する答えが「大丈夫」と書いてあったので同梱されていると勝手に思い込み疑問なく、編集も出来るという事と3千円弱という価格でもあり購入。

案の定、両端がステレオミニジャックのオス端子コードが必要だった。

もうガッカリしてしまったが、これ以上の出費はしたくないのでゴソゴソベッドの下に入れてあったコード類の箱を探すと出てきたのだ。

その代償に丸一日つぶれてしまった。

一応私の二の舞を踏まない様にとサイトのコメント欄に書いて、やっと心が落ち着いた。

その後PCに無事に取り込む事が出来たが、あろうことか編集機能にハマってしまいかなりの時間を費やしてしまった。

頭にはもう断捨離という言葉すら消えてしまっている。

そしてモノが増えただけという情けない結果になってしまい、つくづく処分する事の難しさを痛感した。

想い出が詰まったものがいかに捨てがたいか、特に妻は子供の幼い頃の服や靴下をどうしても捨てられないと言う。

自分の事だと諦めきれないのだが、妻の事だと「もういらないよ」と言ってヒンシュクをかうハメに。

結局写真に収めて処分するという事で落ち着いた。(少し残しておく事には目をつぶったが)

 

改めてモノがいかに多いか、そして眠ったままになっているか思い知らされた時間だったが、各家庭でも同じような事があると思うと、膨大なモノが、日本中の押し入れに眠ったまましまわれている事になる。

そして主(あるじ)が亡くなると処分に困り、時間と出費が残された者に多くのしかかって来る。

今回、他人から見るとどうでも良いモノが、本人には大切なモノというジレンマの中で断捨離がいかに難しいかという事と、死後に迷惑をかけたくない気持ちを味わう良い機会だった。

 

そして何とか片付けを済ませ、気持ちを切り替える為新たな挑戦をしようとブログを書くと決めた。

昔からノートに思いついた事を書く事をやってきた。

音楽を作成していたので、作詞の練習やヒントを書き溜めていたので、何か形にしたいと思っていたからだ。

ドメインは独自のオリジナルが良い…」

「なるほど」

「無料のブログサービスより、有料の方がやれることが増える」

「そうか、ならば少しの費用で済むならお金を出すか!」

ん!支払ったはいいがどうすればいいのか解らない。

その時点で何に支払った事すら忘れている。

デジタルの中では、デジタル商品を買っても色々な手順を踏まないと使えないのだ。

実際に触れる線やコード、ジャック、スイッチなら理解できるが、「ポチッ」とも鳴らないし「ガチャン」という手ごたえも無い。

エライ事になったと後悔先立たずで、「もうとっくに時代に取り残されていたんだ」と落ち込んでしまった。

同年代の友人に、プログラマーがいる事を思い出し、電話を掛けた。

それなりに優しく砕いて、教えを乞うのだがどんどん時間が過ぎていく。

有料のセミナーの扉の裏でこっそりきいているのと変わりない心持になって、しかも、遅刻するのは、相手の時間を泥棒するのと同じだという考えの私であるから、「これではいくら友人でも時間泥棒と同じではないか」と思い直し、「また解らなければ電話くれよ」という、神様の様な優しさの声を後に、「自力だ!」「やればできる!」と自身にハッパをかけた。

仕方なくその手の本を探す羽目になり、本屋へ。

ここでも難関が待ち受けていた。

その手の本が沢山あるではないか!自分が求めている内容の本をどうやって探せばいいのやら。

「そうだ、キーワードを道標にしてと…」

まず「初心者」「誰でも簡単」「入門編」と絞り込んだ。

そして本棚にもう一度目をやると、なんてこった道標が沢山立っている状態だ。

1時間も本屋の一つのコーナーに立っていた。

役に立ちそうなものをとりあえず、2冊購入。

断捨離が頭をよぎり、極力モノは買わないという信念が後ろ髪を引っ張る。

自分への投資に金を惜しむなと、モグモグ言い訳をして帰った来た。

さあ、一つ頑張るか!と本に目を通すが、解らない!

やたらアルファベットが出てくるし、書いてある通りやっても上手くいかない。

「どこが初心者用だ」と今度はブツブツ文句を言いながら読んでいた。

解らない単語が出てくるたびにネットで検索して、また本を読むという本末転倒な事をしていたのだ。

 

読書が趣味と関係しているかどうか、家電の説明書は隅から隅まで読むのが好きだ。

昔からそうだったので、規格が変わったコネクターやピンの形状もすぐに理解できた。

お陰で今でもTVの配線や周辺機器の設置に困った事は無い。

先日も引っ越しをした友人宅にお邪魔したが、「TVが見れない」という彼らにとって死活問題を解決へと導いてきた。

スマートフォンもある程度こなしているし、何よりWindows95からパソコンと接してきたから、今回も楽勝だと思っていたのだ。

 

ところがこのような羽目になってしまうとは!

そうなのだ、四苦八苦している人に「説明書に書いてあるよと」言っても意味が無い事に、この年になるまで気付かなかった。

読めるが理解できない事に!

 

私の足元に掃除機をかけながら「一日中パソコンの前で疲れない?」という裏に何かある様な、とげの様な言葉にひるむことなく何とか少しずつ前に進むようになった。

音楽制作で、データを打ち込んでいた事もあり、意外と集中力は衰えていなかった。

この手のデジタルに関して知らない事がどんどん出てくる事は予想していたが、思っている以上に現実は進んでいる事にショックを受けると共に、知らない事が悔しくてとにかく手探りで少しずつ覚えていった。

まだ頭は固くなっていなかった自分を褒めてやりたいほど夢中で勉強した。

ただ、その為に必要になった周辺機器やメモリーの増設などで以前よりも、パソコン周りはごちゃごちゃになってしまった。

一体断捨離は何処に行ったんだと、一息つきながら頭を抱えてしまった。

捨てられないのは物だけでは無い。

そう、記憶だ

誰でも楽しい記憶ばかり残っている訳では無い。

日焼けマシンのようなモノの中に入って一瞬で過去の嫌な記憶を消してくれる日が来ると嬉しい限りだが、ちょっと待てよと考えてしまった。

幸せや楽しかった記憶ばかりだとしたら、楽しい事や幸せな記憶は当たり前の記憶として残り、そこには幸福感は生まれないのではないかと?

 

睡眠中に記憶が整理される話や、脳の海馬で整理され大脳皮質に送られるという様なメカニズムも解明されつつあるが、実際どこにその記憶が貯蔵されているのかはまだまだ謎とされている。

ひと昔前まで、脳によってコントロールされていたとされる様々な臓器も、今では臓器が脳に信号を送っている事も解ってきた。

すなわち脳が持っているまさしく能力はまだまだ未知数という訳だ。

 

私自身、心を病んだことは苦しく辛い経験だが、記憶と向き合う作業が出来た事は意外だったし、少しは楽になった。

PTSD (PostTraumatic Stress Disorder)心的外傷後ストレス障害によるトラウマが根底にあるかもしれないと言われた時や、過度のストレスを発散できずにため込んだことによる発症などと、色々と聞かされた。

「大したことないよ」と思える人や、ストレスを発散できる人を羨ましく思うが、こればかりは自分で解っていてもどうしようもない事だ。

私も自分がこんなにもストレスに弱いとは思っても無かった。

 

20代の頃、ある芸人さんのカバン持ち的な仕事をやっていた関係で、建築会社の昼食会に招かれた。

景気が良かった時代、マツタケの食い放題で一生分食べた。

そして昼寝をする事になり、大広間でそれぞれ4~50人が寝っ転がった。

しばらくすると、建築会社の社長が誰かと話をしているのが聞こえて来た。

「上を向いて大の字に寝てる奴は見込みがある。顔を隠したり縮こまっている奴は気が弱い奴で出世しない」

勿論私は、顔を腕で覆い横になって縮こまっていた。

今から考えると、若い頃から大きな器の人間では無かったようだ。

 

自分と向き合う事が出来るまでの数十年間は、いわば自身に対してのごまかしや先送りばかりだったかもしれない。

勿論誰かのせいにしたりする事も時にはあったが、「これが自分なんだ」と思え、認める事がいかに重要なのかを身をもって知らされた。

そう、記憶は消せない。

外的要因である戦争や犯罪、虐待や災害時に体験した記憶ならなおの事、心の深くに残り知らない間に顔を出す事もある。

特に、幼い頃に植え付けられてしまうと、生活すらままならない状況になってしまうだろう。

世の中は人間という動物の共通点はあっても、みんな外見や人種が違う人で構成されている。

そして心もみんな違う。

誰一人同じ心の持ち主なんかいない。

言い換えれば、外見や人種ではなく心の違いの方が大切だという事だ。

差別や宗教で分断される社会は、正に心無い人達による心無い行為だ。

バイトテロと言われるような悪ふざけと入管による人権侵害問題や官邸の私物化、官僚の忖度は、考えて見れば解るが同列の問題だ。

すなわち記憶を失くしたか?、はたまた誰かに責任を負わせるのか、それとも無かったかのように振舞っているだけで、記憶という教訓を何も活かす事が出来ないある意味残忍な人達だ。

何故なら、大勢の人間を不幸に巻き込むからだ。

 

誰でも、多かれ少なかれ誰かを傷つけながら生きている。

物は捨てる事が出来るが、記憶は捨てられない。

ならば教訓として活かし、謙虚になれば必ず誰かの為に手助けが出来る。

生れた時から悪い奴はいない。

人生の何処かで、記憶の区切りをつけるのも良い事だと思う。

そして戒めに、教訓にならない記憶は脳に、そして未来に大きな負担を与える。

誰かに笑顔なる様な記憶を残せるような人間でありたいものだ。

しかし嫌な想い出は消し去りたいのが本音だが。

 

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