人生も後半戦を過ぎ、自分を振り返って色々と考えてみた。
夢だった職業を目指し幾度もチャンスもあったが、逃してしまった。
十二指腸の穿孔や急性膵炎と、助けが無ければ死んでいたかもしれない病や、交通事故で骨が見えるくらいにえぐられてしまった指のケガでの皮膚移植に腕や指の骨折と、兎に角あわただしかった青春時代だった。
そして、精神も病んでしまった。
私の母親は、常に目立つよう私を育ててきた。
写真を撮る時は必ず真ん中の一番前にいく様に言われていた。
親が頼んだのか自分でそうしたのか、その時の記憶は無いが、幼少時の数少ない写真を見ると数人で撮った写真は正にそのとおり、一番前で写っている。
記憶に残っているのは幼稚園で学芸会の演奏で何の楽器を担当するかを指示された事だ。
目立つ楽器はシンバルか太鼓だったように記憶している。
母はそれを望んだが、結局カスタネットをする事になった。
当時を思い出してみると、シンバルや太鼓などやりたくなかった。
カスタネットの演奏が出来て、楽しかったのをハッキリと覚えている。
学業にしても友達関係にしても母はいつも干渉し、まるで品定めする様に私も含め周りの人を見ていた。
その反動のせいか、その後私は目立つ事が嫌で仕方なかった。
テストの結果もいつも破いて捨てていた。
何か言われるのが怖かったかもしれない。
思春期は荒れて、家のテーブルをひっくり返す事もあったし、家にいる時は自分の部屋に閉じこもる様になった。
何も聞きたくなかったし理解してくれるとは思っていなかった。
父は何も話してくれなかったし、ちゃんと会話した記憶が全くない。
そしていつも夫婦喧嘩をしていた。
幸いイジメられてはいたが、気の合う友達がいたおかげで学校には行く事は出来た。
以前にも書いたが音楽が好きだった事で、友達との接点が出来たおかげだ。
父は、大手の鉄道会社に勤め、保守点検をやっていたようだ。
父の死後、写真の整理をして初めて知った
父は大学に行けなかった事で昇進もままならず、うつ病になった事もあった。
昭和の時代はうつ病が今ほど認知されていなく、偏見もあった時代だ。
精神科や心療内科という言葉は無く「頭がおかしくなったら精神病院行きだ!」と。
すなわち心の病は、精神が弱い意気地なしで「恥」「隠す」と思われていた時代だった。
振り返って考えて見ると、父も母にとっても辛い時代だったのだと思う。
加えて、世間体が幅を利かせ離婚も出来ず、お互いを傷つけながら毎日を過ごしていた事を考えると、可愛そうな人達だった。
そんなこと等考える事も出来なかった当時の私にとって、家の中は息が出来ないくらい苦痛の場所だった。
そんな時代を経て私はいつも人の顔色をうかがい、良く思ってくれるよう、嫌われない様に気ばかり使う様になってしまった。
他人の悪気が無かったかもしれない言葉でも、傷つき夜も眠れないほど悩むことも多かった。
叱られる事ばかりだった自分に自信が持てなかったからかもしれない。
家を飛び出して独り暮らしをするようになり、アルバイト先でも人によく見られようと頑張って働いていた。
決してアルバイト先の会社の為でも、自分の為でも無く人間関係にひびが入る事だけを恐れていたからだ。
だから、自分の本心を相手にぶつける事はほとんど、いや全くなかったかもしれない。
ただ、そのせいで相手が何を考えているのか?どんな性格の人なのかは見抜く力が良くも悪くも身についた。
先を読む事ばかりしていた私。
結局傷つく事を恐れていたからだ。
今思うと私の世界は余りにも小さな世界で、その中をウロウロしては上を見上げ、そしてうつむきもがいていた。
当時はこの世で一番不幸な人間だと思っていたし、生まれて来なければ良かったとさえ思っていた。
今の様に簡単に写真が撮れる時代では無かった時代。
幼い頃の機械好きの父が買った上からのぞくタイプの写真機で撮った白黒写真。
手元には数枚しかない。
荒れていた思春期に、自分の存在を消したくてほとんど破り捨てたからだ。
集合写真に写っていた仲が良かった友達の顔もほとんど失ってしまった。
ストレスは花粉症と同じくコップに例えられる。
そのコップの大きさが許容範囲で少しずつ溜まっていく水がいつか溢れ出し、発症してしまう。
弟や妹の事、そして母の死や父の事は以前の記事に書いたので省略するが、どうやら私も私の弟や妹も、コップに水を幼い頃から少しずつ注がれていたようだ。
きっと私の様な人間が沢山いるだろうし、世の中にはもっと悲惨な経験をしてきた人もいる。
自分が恵まれている方だと気付いたのは30代になってからだった。
長い時間がかかってしまった。
人生はジグソーパズルの様なものだ。
しかもピースは一度に渡してくれない。
毎日毎日、少しずつ手渡されるピース。
楽しかった事や幸せと感じた時だけでなく、嫌な事や辛い事、不快で会いたくなかった人物もピースの一部だろう。
そして患った病気やケガもその経験からでしか見えない大切なピースになる。
そう、そのピースをハメていくしかない。
どんな絵が出来るのか解らないからだ。
私達個人個人がはめ込んでいるピースで少しずつ出来上がる作品。
しかしそれは近くから見ているだけで、作品がどんなものさえ解らない。
そう、近くから見ているとは小さな世界観という事だ。
狭い世界観で右往左往していても何も進まない。
辛い事や悲し事は、もしかしたら暗い色だろう。
絵には明るい色ばかり使われてはいない。
陰の様な色や奥行きを出す為のぼかしも必要だ。
破り捨てたモノクロの写真をもう手にすることは出来ないのと同じで、過去の事全てが良し悪しも含めてピースの一部で、しっかりと捨てずにハメていかなければならない。
幸せも明るい色だけでは無いと思う。
グラデーションの一部の様にくすんだ色をハメていく事で浮かび上がる絵の一部分かもしれない。
ただ言える事は、ピースをハメ込む事を続ける事だ。
誰にでも、忘れ消し去りたい事はある。
だが起きた事は、過ぎ去った事は無しには出来ない。
たぶんそんなピースをハメずに隠しているだけだ。
大切なのは、はめ込む作業だ。
空いた空間をそのままにしては、いつまでも悩み苦しむ事になる。
はめ込む事、すなわち後悔や挫折と向き合い学ぶ事だ。
苦しい事や辛い事も必ず意味がある。
はめ込まずそのままにしていていては、手元にピースのかけらが溜まっていくだけだ。
幸せにつながるピースも積まれたままのピースの山に隠れてしまっているかもしれない。
私達は常に大なり小なり選択しながら生きている。
いくつもの分かれ道と、ウソか誠か定かでない道標の案内板があちらこちらに立っている。
わざわざ他人の真偽の定かではない情報という道先案内人まで呼ぼうとしている。
確かに情報は大切だが、それを見極める力が無いといつか必ず誰かのせいにしてしまう。
私もかつてはそうだったからだ。
選択するのは結局自分という事だ。
誰かのマネは出来ない。
分かれ道はどれ一つとっても決して誰かと同じものは無いからだ。
選択した後は前にしか進む事が出来ない。
過去には戻れないからだ。
ただもし過ちに気付く事が出来れば、一旦立ち止まり修正、すなわち別の道を選択することは出来る。
一呼吸しながら一旦手に持ったピースを置き、本来ハマるであろう位置を確認する事だ。
何故ピースをハメなければいけないのか?
それは生きる事の意味に繋がる。
地球が誕生したのは約46億年前で、最初の生命誕生は約40億年と言われている。
6500万年前頃、霊長類の祖先が誕生し400万年前の地層から完全な二足歩行型の猿人であったアウストラロピテクスの化石が発見された。
そして約20万年前頃から私たち現生人類の祖であるホモ・サピエンスが出現し、大陸に広がっていき現在に至るわけだ。
すなわち奇跡とも言える様々な偶然や宇宙的規模の事象の結果、宇宙の時間の流れからすると私達人類はごく最近誕生したともいえる。
いわば命の連鎖が生み出した貴重な存在なのだ。
命は受け継がれてこそ、その存在意義を見い出す事が出来る。
人間が存在している意味は、誕生して以来、昔からの課題で未だに答えは出ていない。
塵の様な人間の存在が宇宙全体に影響を及ぼす事も大きな流れを変える事も出来ない。
そればかりか、一瞬で消えてなくなる可能性だってある。
それでも私達は生きて、命を繋ぎ続けている。
とりわけ戦争や紛争、災害や病気で苦しみ、亡くなる幼い命を救いたいと思う気持ちは本能的に誰もが持っている。
命の連鎖を断ち切ってしまうからだ。
個々の人生は大きな視点から見ると言葉は悪いが、どうでもいい存在かもしれない。
が、そのどうでもいい人生の積み重ねが無ければ、本来ならば生まれ出てくるはずだった新しい命も生まれないし、助かる命も無駄になってしまう。
地球が誕生して今の人類が存在しているのは、そうあるべきだった「必然」ともいえる。
道端に顔を出している雑草の存在意義を真剣に考えたり、台所を走り回るゴキブリの存在の意味を深くは考えたりもしない。
しかし、地球上に生れ出てくる命はすべて何らかの形で繋がっている。
ジグソーパズルは、人間だけがはめ込んでいるのではない。
自然は正直でズルをしたりはしない。
毎日、確実にピ-スを組み上げている。
が、逆に人間だけがピースをため込み捨てたり、積み上げたり、すなわち先延ばしに出来る。
中には他人の組みかけのパズルを壊す人間も沢山いる。
大きな流れを理解していない愚かな人達だ。
毎日少しずつ渡されるピースは、選択によって変わっていくだろう。
前述した壊したり、盗んだりする人達に加えて、世の中にはピースさえもらえず亡くなってしまう人も大勢いる。
逆にため込み、ハメる事無く苦しんでいる人達もいる。
ピースをハメ込み、出来上がる作品はどんなものなのか?
もしかしたらその作品自体が大きな一片のピースなのかもしれない。
人生はひとり一人違った歩み方で、出来上がる作品も人の数だけあるだろう。
だからこそ作品に深みが出てくる。
同じものをコピーしたって意味が無いのと同じ理屈だ。
ハメ込む場所は一つしかない。
コピーの居場所は無いのだ。
そしてその作品は自然と共に人類という大きなジグソーパズルの一部であり、それもまた生命、命という宇宙規模の作品の一部なのだ。
生きる意味に明確な答えなど無い。
必然で生まれた事。
そして有限だからこそ答えを探っている。
道半ばで命を落とした人の為に。
そして支えてくれている動植物の命の為に。
何があっても生きなければいけない。
自分だけでなく誰かを助ける為にも。
ジグソーパズルのピースを紡ぐ為。
言えるのは命を楽しむ事で次につなぎ、いつかできるであろう大きな作品の一部になる事なのだ。
↓ あなたの支援で助かる命
「変えたい」気持ちを形にする、 世界最大のオンライン署名プラットフォーム
↓ みんなで社会を動かす仕組み