私の幼い時の記憶ですが、当時の家の水道は、井戸から電気式ポンプで吸い上げる方式で、たまにポン、ポンと音がするのです。
それは蛇口から出るナメクジの音でした。
でも気にしていませんでしたし、
当たり前のように、その水を使っていました。
家のトイレは、いわゆるドボン方式といわれる汲み取り式で、虫がわかないように、白い薬を撒き、ハエや匂いを防ぐ為の別個の蓋が置いてあり、用が済んでも手も洗わずに平気で食べたり、触ったりしていました。
例えば靴下が破れれば、繕い、捨てて新しい物を履くという発想はありませんでしたし、汚れようが、黄ばもうが、それすら頭にありません。
食べ物も、匂いで食べられるか判断していましたし、ご飯も少し変な匂いがすると、母親が熱い湯をかけて洗い、食べていました。
もちろん落ちたものも、今の3秒ルールどころではなく、平気で口に入れていました。床に落ちていた茶色の細長い物を、何かのお菓子と勘違いして、口に入れると石鹼なんて事もありました。
当時、田んぼに、人糞を発酵させて、肥料にする為の二畳ぐらいの肥溜め(下肥しもごえ)の穴があって、表面が堅く黒くなっていた為、見分けがつかずに落ちてしまい、全身糞尿だらけになり、鼻がもげるぐらいの悪臭に、しばらく周りの人も近づきませんでした。
今から考えると笑い話ですが、信じられないくらい不潔な環境のなかで、皆が生きていました。
良し悪しは別として、今よりも感覚頼り…の生活だったように思います。
そして現在。
洗剤のCMは、白くする事にこだわり、強調したものが多いのですが、このままいくと、シャツは洗うほど透明になる…?かも。
「洗濯後の衣服にいい香りが、いつまでも残りますよ」
「消臭の効果が持続します」
と、これもまたCMで沢山流されています。
多分将来、無臭の世界になるか、永遠のお花畑状態…?になるかもしれませんね。
例えばその匂い。
昔、匂袋というほのかに匂う、素敵なツールがありました。(今もあります。京都ではお土産の定番ですね)
それは、自己満足では無く、周りに対しての配慮、気配り、そして楽しみとしてのものだったのです。
衣類や本に挟んだりする事もあります。
子供の頃、雨が降る前の匂いを、今でも覚えています。
何とも言えない土の匂いです。
今でも石鹸の香りが一番好きですし、トイレで匂うキンモクセイの香りより、秋にほのかに匂う方が好きですし、衣類から漂うよりも、花に顔を近づけて、楽しむ方が好きです。
閉めきった部屋を、スプレーで匂わすより、窓を開けて風の流れを感じる方が好きです。
季節や、時間、天気等からの、ほのかに香る匂いも、その場かぎりだからこそ、楽しめ、その匂いと共に記憶が刻まれるのです。
脳は、刺激に慣れてしまい、より強い刺激を求めます。
どんなにいい香りでも、ずっと匂っていたら、いい香りでは、無くなってしまいます。
注意しなくてはいけない事はバランスです。
必要以上なものを追い続けると、その影響を受けるものが必ず出てくるのです。
上辺だけにこだわると大切なものを失います。
科学が発達し、便利に快適に過ごせるよう人々は知恵を絞ってきました。
しかし程々(ほどほど)にしておかないと、そして注意しておかないと、逆に自分たちの首を絞める事になりかねません。
ぎすぎすして、余裕がない毎日の中で、
本当に必要なのは、作られた偽物の香りや、音や、景色ではなく、
自らが行動して得た感覚です。
それでなくても、だらだらと間接的な情報が垂れ流されています。
忘れてはならないのは、楽しめ、楽しませる心の余裕です。
刺激を求めている脳に満足を与え続ける事とは違うという事に、気が付かなければ、キリがありません。
見逃さないで下さい。廻りのほんの少しの変化を。
もう少し音を下げ、目を閉じ、顔に風を感じる事を。
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