TVでライブをやり、音程が狂い、声がちゃんと出ていなかった音楽ユニットがいました。
勿論CDや音楽配信では完璧な歌声のユニットです。
ライブ後、SNSを中心に「下手だった」という様な発言が沢山見受けられましたが、意外にも「緊張していたから可哀そう」「生のライブだから上手く聞こえていなかったから」という声も多くありました。
ン?待てよ?
音でお金をもらっているプロです。
料理人なら、即クビでしょう。
それを擁護したり、弁解の肩代わりをする人達は、逆にアーティストの首を絞めているのと同じです。
それを良しとする風潮に違和感を覚えるのです。
ならば、ライブをやらなければ良いだけで済む事でしょう。
カラオケで上司の歌を褒めている事とはわけが違うのです。
昔と違って今はモニター(自分の声や楽器の音)の性能も上がって、イヤホン型になったりとアーティストも楽になっているのです、
ひと昔の音楽番組を見ると解ると思いますが昔はステージの前に左右に置いてある三角のスピーカーで確認していました。
耳が良くなくては(聞き分ける力)音程を外してしまいます。
また生の番組も多かった為、下手な事をやると売れなくなってしまいます。
だから昭和の歌謡曲を始めとする歌を唄う人達の多くは、歌が上手いのです。
ある日、車の運転をしながらラジオを聴いていたら、懐かしいイントロが流れて来てワクワクしたのですが、なんと洋楽だったその曲に日本語の声が。
「おいおい」と思わず叫んでいました。
いわゆるパクリだったのです。
誰かのマネをする事は、練習や知識を得る為に必要な事ですが、それもプロとして作品にするなら限度というものがあります。
昔から洋楽好きだった私ですが「これをやったら終わりだろう」と思うくらいそっくりなのです。
しかも往年の名だたるミュージシャンの3組のアーティストの名曲が組み合わされていたのです。
洋楽を聞かない若い人なら、素晴らしい曲だとだまされるでしょう。
音楽をやってきた私は、怒りより悲しくなってしまいました。
私の町の駅前に、CDやカセットを販売しているお店があります。
以前、そこでビール瓶ケースを逆さにして、その上で演歌歌手が営業の為に歌っていました。
モニターなど一切ありません。
数人しかいない観客の前。
でも素敵な歌い手さんで、音程もしっかりしていて歌も心地よかったのです。
演歌で音を外すと、一発でアウトです。
勿論、演歌だけではありませんが、どんな状況でも聞かせるのがプロです。
芸人らがよく使う「営業」という言葉があります。
何かの催し物や企業の余興等の仕事を指していて、時には事務所を通さない仕事という意味でもあるのですが、20代の頃私は、ある芸人さんのお手伝いをしていました。
彼は個人で活動していたので営業とはいえませんが、大手の企業の余興や主に経営者や市長級の人達が集うクラブに出向いて営業、仕事をしていました。
その芸人さんと同行し伴奏やカラオケ代わりにバンド兼カバン持ちとして同行し、私の担当はドラマーで、ピアノ(シンセサイザー)とベース3人で演奏していました。
当時今の様に通信カラオケが無い頃で、8トラックカセットやレーザーディスクでカラオケを歌っていたので、すぐさま今の様に曲を流す事が出来ない時代で、バンドと芸人さんワンセットで出向いていたのです。
芸人さんに合わせて曲を短くしたりテンポを速くしたりと大変でした。
途中、お客さんのカラオケタイムがあったりする事もしょっちゅうで、当時は客層もあるでしょうが、ほとんどが演歌を歌う人で、中には最初からキー、すなわち音程がずれている人がいるのですが、カラオケを演奏しているのは私達人間ですから、お客さんのキーに即座に合わせて、うまく歌えるように、またテンポがずれてもそれに合うテンポに換えたりと、歌う人達からは重宝されていました。
たまに、何でも歌えるプロの歌手も同行していました。
彼女は残念ながらレコードを出しても売れなかった歌手で、売れて欲しいといつも応援していました。
スナックやキャバレーで歌っていて、声量もあり歌声は素晴らしいもので、さすがプロだと感心していた人です。
彼女と営業に回る会場は、小さな会議室の様な所から大きな体育館のような場所と千差万別で、スピーカーやモニターは、会場に設置されている簡素なものか、私達自身で持ち込み設営した最小限のもので、歌手としてはとても歌いづらい環境でしたが、一度も音を外す事はありませんでした。
余談ですが、大企業の余興としてホテルに呼ばれた時、ヌードダンサーの方も一人来ていました。
楽屋は指定された同部屋で、見る事も出来ずドキドキしていました。
ホテルの会場には千人くらいの大規模な催し物で、陰から彼女の踊りを見ていましたが、いやらしいというより妖艶な踊りで、大勢の観客の前でも臆することなくやり切った彼女に「プロだなぁ」と思ったものです。
今なら出来ないような催し物が昔はあったのです。
本物は強く美しい。
なぜならそれが全てであり、全てをさらけ出しているからです。
本物の前では飾りものなど何の役にも立ちません。
人間だけがニセモノになれ、作り出す事が来るのです。
人間だけが死んだように生きることが出来るのです。
本物は厳しい。
そうでなくては生きてはいけないからです。
本物の前では本物だけが、対等になれるのです。
たとえ囚われの動物園の動物でも本物はやはり強く美しく、そして優雅です。
素晴しいモノ(本物)を身に付けた時、例えばブランド品だけでなく、職人が心を込め作り出したモノを身に付ける時、対等のあなたでないと、その本当の良さを引き出せません。
皆が持っているから、ブランドだから、自慢したいから、欲しいから、そんな理由で身に着けていても、自身が追いついていないと、とても空しく見えるだけです。
その事が悪いという事を書いてはいません。
誰でも、良いモノを身に付けたり、所有したくなるものです。
良いモノは、それに合わせて心も変えていく力があるからです。
が、見る人には判るのです。
まだ早いと。
本物は余白があり
余裕が無くとも余裕と見せる
その確たる裏打ちは
失敗を恐れない強さであり
過去の学びの声を聞き
箔さえもぬぐい取り
今を捨て去る潔(いさぎよ)さ
本物は決して群れない
孤独ではなく独りだ
教えを乞うものはひたすら前を見
その背から学ぶ
世の中には、プロフェッショナルと呼ばれる方、有名、無名に限らず沢山います。
長年の経験や失敗を経て、その道を築きあげた人達です。
時に、手を抜くと命取りになる事も全てを失う事も解っている人達です。
芸術家だけでなくあらゆる職業に言える事ですが、己に厳しく、妥協しない方々の生み出す作品、行動は心を動かせずにいられません。
日本のアニメは欧米とは違う世界観を作り出し、世界中の人達から愛されています。
それに比べてドラマや実写映画は何とも情けない状況です。
妻は休日になるとよく家でサブスクリプションでのドラマを観ています。
韓国ドラマが彼女のお気に入りらしく、字幕を英語にして時に笑い、泣いて楽しんでいます。
始めは興味なかった韓国の作品でしたが、演技力は日本をはるかにしのいでいます。
タイの映画やその他アジアの作品も、素晴らしいものが沢山ある事を知りました。
彼女は日本のドラマも見るのですが、そのリアリティーの無さに時々見るのを辞めてしまいます。
この前もある人気タレント主演の時代劇の映画を彼女は観ていました。
私は別の事をしながら横にいたのですが、聞こえてくるそのセリフにひっくり返りそうになりました。
ただ怒鳴っているだけで、迫力も重みも何も感じられなかったからです。
最後まで観た彼女曰く「観なければ良かった」と。
外国人の妻から見ても、単に背景だけが時代劇で中身は現代風になっていて陳腐で映画に入り込めなかったようです。
黒沢監督の七人の侍を見た時感動した私ですが、素晴らしい白黒の映画が沢山ありました。
それは、海外の映画関係者にも大きく影響を及ぼすモノばかりでした。
ハリウッドでリメイク版が出るくらいの作品だったのです。
残念な事に今ではアニメを実写版にする様な映画ばかりになってしまいました。
そしてアニメを超えるような実写作品が無い様に思うのです。
決して上から目線で書いているつもりはありません。
が、俳優も演技が下手な人気に便乗するような人ばかりで、しかも同じ顔触れ。
にじみ出てくる様な演技派の人達は、ほぼいないと言っても良いくらい貧弱な状況です。
プロがいないのでしょう。
俳優に限らず、制作側も監督、脚本家も演出家も配役も。
無名でも素晴らしい演技が出来る人を起用してもらいたいのです。
特に脚本は妥協しているのかと思うほど貧弱な作りです。
東京で作ったおかしな関西弁のドラマを見ている様に、手を抜いているとしか思えない作品ばかり。
売れれば良しとしてしまう風潮。
予算の関係もあるでしょうが、駄作ばかり作ると結局見放されてしまう事になります。
プロの意地を感じられないのです。
政治は私達に直結する大切な役割を担っています。
この日本での中枢と言われる、官僚から総理大臣まで、残念ながら本物と言われるような人材があまりいません。
志を持ってこの世界に飛び込んでも、いつの間にか保身に走るようです。
さもなくば、とっとと転職したり病気になったり、最悪な場合は自死に至っているのが現状です。
なぜ本物、プロと言われる人が少ないか?
理念に欠け、見通しの悪い狭い世界観で、何か他の目的で行動しているからでしょう。
重みがない、裏打ちがないと人は多弁になります。
言葉が少ないほど、すなわち要点をしっかり押さえ発したその言葉に重みがあります。
そんな政治家が少なくなってしまいました。
そして、今でも保身に走り天下りをたくらむ高学歴のエリート達。
同時にマスメディアにもいえる事で、権力を監視する側の立場でいるはずの人達が忖度ばかりする様になってしまいました。
一本の筋が通っていないどっちもつかずの姿勢で、見ていて不快になるほどです。
偏った考えの素人がYouTubeで発信している様な、正にそれらしく見せる偽物の番組の数々。
SNSの発信を、まるで視聴者の代弁の様に演出するような構成しか出来ないのは何故なんでしょう。
人は簡単に偽物を作り
自身さえ偽物にとなれる
あなたは
あなたにしかなれないのに
他の誰かになろうとする
時に着飾り
モノに頼り
権力を使う
でも自分じゃない
偽物だ
考えて見て下さい。
誰でも歳を重ねるごとに、ある意味で「人生」というプロフェッショナルとなっていくのです。
何度も失敗し、挫折し学んでいくからです。
今からでも決して遅くはありません。
自戒も込めて過去がどうあれ失敗から学び、今この瞬間の自分と向き合い、人生という作品を作り上げるプロフェッショナルになりたいものです。
後は、誰かがあなたの背中から、プロの生き様を見い出すのです。
いや、そうありたいものです。
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